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那覇港とその周辺の旧跡、その1

 那覇港と周辺の旧跡
                 
 在番奉行所跡を南に行けば、すぐ那覇港である。那覇港フェリーターミナルの海側玄関の前に「那覇港および周辺の旧跡」の案内板が建っている。港周辺の昔の地図と史跡が表示されているのでわかりやすい。この案内板から紹介する。
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 那覇港は、14~15世紀以来、琉球王国の表玄関口として繁栄してきた古い歴史を持っている。大交易時代には、中国をはじめ東南アジア・朝鮮・日本と貿易を展開し、東アジアの一大交易港となっていた。その後も沖縄第一の港として発展を遂げてきた。このため港の周辺には、多くの名所・旧跡が散在し、豊かな自然ともども那覇を代表する景観を形づくっていた。その景観は沖縄戦等で一変したが、王府時代の絵図と明治期の写真で往時を概観することができる。
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(1)三重城(みーぐすく)。港の北岸に設けられた城砦。通堂崎から、小橋、大橋、沖ノ寺、仲ノ橋、仲三重城、ツキ橋を経て、三重城に到った。尚清王代の創建とされるが、第一尚氏代の創建とする説もある。南岸の屋良座杜(やらざむい)グスクと対をなしている。
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(2)臨海寺(りんかいじ)。通堂崎から三重城に至る間の崖上にあり、沖の寺と称した。島津侵入前に創建された真言宗の寺で、寺内に熊野権現を併せ祀っていた。明治41年の築港工事で、寺は垣花、権現は安里八幡に移され、跡地は倉庫となっていた。
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(3)迎恩亭(げいおんてい)、冊封使渡来の際の上陸地である通堂崎にあった東屋(あずまや)。通堂屋ともいう。冊封使はここで三司官等の出迎えを受け、宿舎の天使館に向かった。鄭週(ていしゅう)の筆とされる「迎恩」の扁額が掲げられていた。
(4)唐船小堀(とーしんぐむい)。渡唐船や冊封船などの修理を行った掘割で、島津侵入前の開削とされる。封船(冊封船)は通堂崎に着岸したが、その後、唐船堀に修理もかねて停泊した。冊封が行われる前には浚渫もされた。
明治以降は、埋め立てられた。
(5)思案橋(しあんばし)。東町から渡地(わたんじ)に掛けられた橋。渡地遊郭への通り道にあったため思案橋と名付けられたという。
 6)通堂(とぅんどぉー)。東村の湊川の地名。通堂崎にあった通堂屋に由来するともされるが詳細は不明。
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            那覇港のある場所が通堂町である
(7)渡地(わたんじ)。那覇港北岸、東側の地名。対岸の垣花への渡しがあったことによる呼称とされる。同地には、渡地遊郭、硫黄城、荒神堂などがあった。
(8)宮古蔵(みやーくぐら)。宮古・八重山からの貢租等を収納・管理する役所兼倉庫。創建は近世初頭と考えられている。
 ここに、大屋子2人、筆者2人、下代2人がいてその事務にあたった。上布や下布、芭蕉布、アダンバ筵(むしろ)、牛皮、木耳(きくらげ)、胡椒、イリコ、貝、黒糖、亀甲、黒木、桑木などの物産が出納された。那覇に来る役人や船員などの宿泊所もその中にあったと見られている(『那覇市史通史編第1巻』)。
 八重山宿は仲島遊郭の道路を越えた東側にあり、糸満宿、慶良間宿は宮古蔵の近くに位置していた。このように、離島の人の宿泊するところが、「ヤールー小(グヮー)」と呼ばれて、通堂に集まっていたといわれる。離島の船が那覇に入港して、この宿に宿泊した役人、船員たちは、港の近くにあった渡地、仲島の遊所で遊んだそうである(同書)。沖縄民謡の「あやぐ節」は、宮古から来た船員らが、渡地で遊ぶ様子が歌われている。
 宮古蔵は、廃藩置県後に税務署が置かれていた。




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