レキオ島唄アッチャー

王府時代の那覇の史跡を歩く、在番奉行所

 薩摩在番奉行所跡
 
 那覇市西町のラジオ沖縄の近くに薩摩奉行所跡(西1-2-16)がある。
 在番仮屋、大仮屋ともいう。1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年まえの250年間、琉球支配の拠点となっていた。在番奉行や附役など約20人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。
              IMG_6197.jpg
 薩摩藩が在番奉行に与えた「御条書条々」の第一に、「琉球の政治向についての善悪を見分け、藩主の御心得になるべきことは油断なく委細報告せよ、ということで、琉球の政治の善悪を監視し、その報告を重要な任務としていたことを示している」(『那覇市史通史編第1巻』。
 外国船の出入りには監視の目を光らせた。琉球の政治の監視と報告、出入船舶の検問と報告は在番の主要な任務だった。
 「在番奉行は、琉球の内政に干渉する権限はないけれど、その藩を代表する機関であるため、王府の奉行に対することは鄭重を極めたのである」(同書)。
 ついでに、大和横目の設置にふれておく。『球陽』には「琉球人及在番役人の行動の善悪を監視した。薩摩人で琉球に居住する者に、多くこの職を授けたが、近世に至っては琉球人がこの職に任ぜられた」という内容が記述されている(『那覇市史通史編第1巻』)。
 始めは薩摩人だったのが、琉球人に代わってくるとともに、その職務も変化した。「一般に大和横目は、横目(監察)的な職務から、次第に在番奉行との交渉、接待に重点がおかれるようになったと考えられている」(同書)。
 そのため、那覇の資産家から任命され、接待のため財産を費消する者が多かった。けれども「那覇士人の登りうる最高の官職である御物城(おものぐしく)役になるためには必要な階梯(かいてい)であったので、進んで希望するものが多かった」(同書)。
               IMG_6196.jpg

 1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となり、1879年沖縄県設置(廃藩置県)で仮県庁、1881年から県庁となって1920年に泉崎(現在地)へ移転するまで県政の中心となっていた。
 奉行所の前は、「道ぬ美らさや仮屋ぬ前(道が美しいのは仮屋の前)」と唄われ(「あやぐ節」)、那覇四町の大綱引もこの通りで行われた。掲げた「那覇綱引図」の中央が奉行所で、見物する役人が描かれている。
                IMG_6195.jpg 
 当時の那覇の町の広い道路と立派な石垣は、西洋人にも強い印象を与えた。ペリー艦隊の一員として琉球を訪れた科学者のジェームズ・モローは『琉球の農業』という論文で次のように記している。
 「琉球の道路は非常によいー荷車や馬車のないところにしては、予想以上によい。…世界中のどんな市にもまさる平滑で美しい外観を持っているのがある」(『那覇市史通史編第1巻』)
 「あやぐ節」を歌っていても、「道が美しいとはどういうことだろうか」といまいち、実感がわかなかったが、モローの印象記を読むと、イメージがわいてきた。
 ただ、英艦レナード号で1850年に那覇を訪れた英国教会の香港ビクトリア監督スミスは、那覇の街路の立派なことと家屋の貧弱さを比べて、次のようにのべている。
 「(道路と石垣は)清潔で立派な格好にみえた。この外見の良さに対して、(教えられたのだが)石垣の内側(家屋)は、貧しく不潔なのが著しく対照的である」(同書)。
 道路の美しさを喜んでばかりはいられない。 











スポンサーサイト

史跡 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<王府時代の那覇の史跡を歩く。御物城 | ホーム | 「テビチから揚げ」旨い>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |