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レキオ島唄アッチャー

時代を駆けた宿毛の人間群像、その9

 本山白雲(1871~1952)
 彫刻家。本名辰吉。明治4年(1871)9月1日宿毛村に生まれる。父茂武(伊賀氏家臣)の2男。
「幼少時、家の近くの城山墓地の地蔵堂で遊び、地蔵堂にある多くの地蔵の表情がそれぞれ違うことに気づき、立体造形に興味を持つ」(ウィキペディア)。
    本山白雲
                 本山白雲
 宿毛小学校高等科卒業の後、一時郷里の小学校代用教員を勤め、18歳の時上京、旧主伊賀陽太郎を頼り、伊賀の推薦で当時東京美術学校の主任教授であった高村光雲の門下生となる。光雲は辰吉の才能を見抜き、美術学校で彫塑を基礎から学ぶことを薦めた。明治23年(1890)、岩村通俊の援助を得て、東京美術学校彫刻本科に入る。卒業と共に同校講師となる。当時同校の彫刻はすべて木彫であったが、長沼守敬について洋風彫塑を学ぶ。同32年(1899)、板垣退助等の主唱によって故後藤象二郎の銅像建立の顕彰展があり、入選し、後藤象二郎像が東京の芝公園に建立された。その後、品川彌二郎の銅像が海軍省競技に当選以来、西郷従道、川村純義、東郷平八郎、松方正義、山縣有朋、伊藤博文などの銅像を制作、県内出身者では山内一豊、板垣退助、片岡健吉、山内容堂、中岡慎太郎、坂本龍馬、宿毛出身者では、岩村通俊、小野義真、林有造など政治家、軍人の銅像を次々と制作した。
 「維新の元勲の銅像で白雲の手にかからなかった者はほとんどないと言われ(る)…その後の第二次世界大戦時、多くの銅像が金属供出で撤去された(ウィキペディア)」。
 昭和19年(1944)、白雲は明治の元勲たちの石膏原型をすべて叩き割り、防空壕の傍らに穴を掘って埋めたという(同)。
 昭和27年2月18日没、82歳。

 北見志保子(1885~1955)
 歌人。本名を川島朝野といい、明治18年(1885)1月9日、宿毛村土居下川島享一郎の長女として生まれる。
 当時自由民権運動が広がり、一般の人々も大きな関心を持ち、運動に奔走する者が多かった。父の亨一郎もその一人で東奔西走し、遂に他郷で客死した。家庭は貧困に追いやられた。志保子は宿毛小学校から中村町実科女学校へ進み、宿毛小学校教員となる。
    北見志保子
                  北見志保子
 貧しかりし故里の家の庭桜かたむきし軒に散るはまぶしも
 人なみに学ばしめんと亡き母が売りしこの山うしろつつじ山
 後年になって、母を慕い母への心から感謝を詠っている。
 17歳のとき、文学修行の志を立てて上京。教師をするかたわら文学の道へ入る。在郷中より恋仲で、歌人として頭角を現していた橋田東声と大正2年(1913)結婚、橋田あさ子またはゆみゑの名で東声の主宰する『珊瑚礁』や『覇王樹』に歌作を発表、その他、山川朱美の筆名で小説を書き『朱実作品集』を出版したが作家としては成功しなかった。
大正11年(1922)浜忠次郎(のちの千代田生命社長)との恋愛問題がおこり東声と離婚、大正14年浜と結婚する。その後は短歌に専念、大正14年短歌誌『草の実』を同志と共に創刊、この頃より北見志保子の筆名を用いる。『月光』『花のかげ』等の歌集を出版、昭和24年(1949)著名女流歌人を網羅した「女人短歌会」を結成し、女流歌人育成にもつとめ歌誌『花宴』を主宰した。
 昭和28年歌碑「山河よ野よあたたかき故郷よ声あげて泣かむ長かりしかな」が母校宿毛小学校校庭に建てられ、その除幕式には歌友を多く連れて帰郷した。最後の歌集『珊瑚』を昭和30年出版し、その年5月4日病没、70歳。
 

 宿毛の誇るべき歴史
 宿毛が驚くほど多士済々の人材を生みだし、幕末から明治維新、その後の政治、社会、経済の発展のために、尽力してきたことがよくわかる。
 幕末から維新の時代に活躍した人たちを見ると、土佐藩の家老を領主とする土地だけに、坂本龍馬、中岡慎太郎らに共鳴し、その行動に参加し、さらに鳥羽伏見のたたかいをへて討幕の官軍に加わり、北陸・奥羽まで遠征するなど、明治新政府を打ち立てるまでの立場では共有していた。
 だが、明治政府の発足後は、情勢の変化の中で、進路は分かれて、政府側の行政の一線に立ち活動した人たち、例えば岩村兄弟などが幾人もいる。維新後は途中から藩閥政府に反対する行動をとった人たちも目立つ。朝鮮政策をめぐる対立後、西郷隆盛や板垣退助が下野して、藩閥政府に反対して自由と民権を求める運動に参加した林有造、大江卓、小野梓など。また近代化とともに始まった新たな事業に参画して経済人として活躍した人たちがいた。
 それぞれ進路は分かれていき、人と業績に対する評価はさまざまである。だが、幕末から、明治にかけて、政治、社会、経済、芸術などの分野で、歴史に足跡を残すような活躍をした人士であることには間違いない。これは、宿毛が誇るべき歴史だと改めて考える。。
 終わり    2022年6 月


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