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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その7

 小野梓(1852~1886)
 法学者、政治家。嘉永5年(1852)2月20日、宿毛の軽格武士の節吉の2男として生まれる。号東洋、木王生の筆名も用いている。9歳の時酒井南嶺の塾に入り、ついで文館・日新館に学ぶ。明治元年(1868)17歳のとき宿毛機勢隊に加わり北越に転戦した。土佐藩の藩邸の学校には入らず、幕府直轄の教育機関「昌平黌(しょうへいこう)」に入った。
  藩邸から憎まれ土佐に帰されたが、自由がないのは士分だから、平民なら自由に学べると考え、平民になろうと考えたという逸話がある。
 明治3年(1870)春、大阪に行き、同郷の小野義真の家をたずねた。義真は梓の心意気に感じ、彼を励ました。海外留学の志をいだき、義真の世話で、清国に行き、日本に帰ってから、米国に渡り、更にイギリス渡って経済や法律の勉強を学んだ。後に『国憲汎論』を著して英国主義の立憲政治を鼓吹し、また自主独立をとなえて東京專門学校を創立した基となったのである。
帰国の後、『羅馬律要』を飜訳出版し、名声は高くなった。明治9年(1876)から司法省に勤めたが、司法省でさえ、藩閥政治の旧弊を脱し切れず、他の各省の情実や因縁による政治の弊害は目を覆うものがあるので、それを除去するために、彼は会計検査院の設立を献言し実現。会計検査官に転じて活躍した。
 大隈重信が参議を辞職した際、彼と提携していた小野は会計検査官をやめた。30歳の時であった。小野は①改進党の結成。②東京専門学校の設立。③良書の普及を三大理想としていた。
 板垣退助らが自由党を結成すると、大隈重信らは改進党を結成するが、これを進言し、その準備工作をしたのは主に小野であった。
   小野梓
               小野梓
 改進党の宣言の中に、「急激の改革」を排し「我党は実に平和の手段によって我政治を改良し、順正の方便を以て前進しよう」とのべている。小野が明治14年(1881)12月16日に執筆した「何似結党」の文章の一部がそのまま採択されている。
立憲改進党の結成では、大隈を総理とし、小野は掌事の一人に選ばれた。
 改進党は結成され、各地に演説会を開いて、党勢はいやが上にもさかんとなった。改進党の真の結成者、真の推進者は小野であるといっても決して過言ではない。
 大隈は、私学をさかんにして自由の学府を盛り立て、学問の独立を計らねばならないとの考えを持ち、同意見の小野に学校設立の準備を一任。東京専門学校を設立した。
 校長には大隈の養子、大隈秀麿がなり、小野は、前島密、鳩山和夫、矢野文雄、島田三郎、北畠治房、沼間守一、牟田口元学、成島柳北等と共に議員となった。
 講師ではなかったけれども、校長の事務をとり、課外講演として、日本財政論や、国憲汎論を講義した。小野が勤王と立憲政治とを結びつけて論ずる時など、学生も泣き小野も泣くという、実に感動深い講義であったという。
こうして小野の尽力ででき上った東京専門学校が、後には早稲田大学となった。現在早稲田大学には、小野記念館があり、同校の実質的創立者として彼の功績をたたえている。

 小野は欧米に留学して、図書館の大切を知り、東京専門学校設立と共に、ここでも学校図書館を経営し、遂に全国でも有数の現在の早稲田大学図書館にまで発展する基盤をつくったのである。
 小野は、良書の普及のため、明治16年(1883)、神田区小川町10番地に東洋館書店を開業した。彼自身も生涯の大著述である国憲汎論をはじめ、数多くの論文や著書を出版した。東奔西走し、身体を害し、明治17年(1884)9月2度目の咯血があり、その後は活動も意にまかせず、東洋館書店も次第に経済的に行きづまって来た。
 明治16年、郷里宿毛から18歳の坂本嘉治馬が上京し東洋館書店で働くようになり、小野が病気で倒れてからは、1人で店を切りまわしていた坂本は、小野の死後、東洋館書店を引きつぎ、名も冨山房と改め、遂に小野の意志を立派に達成したのである。『条約改正論』『国憲汎論』等の著書がある。宿毛清宝寺の境内に大記念碑が建立されている。
 <短期間にこれだけの大偉業を達成した小野は、実に大努力家であり、至誠の人であった。しかもその間病魔と闘いながら多くの著書を出し、質量共に偉大な仕事をして、明治時代躍進の基礎を開いた功績は実に大といわなければならない。『宿毛人物史』>
 明治19年(1886)1月11日、小野は息を引き取った。年わずかに35歳。


 林包明(1858~1920)
 嘉永5年(1852)宿毛に生れた。父は邑主安東家(伊賀家)の家臣で包寿といい、祖父は林善次右衛門で、林有造の家系の本家筋にあたる。
 明治7年(1874)、高知立志社が設立され、その提唱によって8年2月には大阪で愛国社が結成された。自由民権運動は次第に活発になり、宿毛では林包明がこれに呼応して、浜田三孝等と協力して合立社をつくって、自由民権運動に参加した。
 間もなく愛国社は板垣の入閣のごたごたや、資金面で生きつまり自然解消のやむなきに至った。更に立志社も明治10年(1877)の土佐拳兵計画で、幹部のほとんどが獄につながれたので自由民権運動も中断の形になった。
 そこで板垣は11年4月、愛国社再興の趣意書を発表し、9月には大阪で各県代表が集まって会合が開かれた。この時、林包明は浜田三孝とともに、宿毛合立社を代表して参加している。
 11年7月、土佐国州会が設置され、2000戸に1人の割合で議員が選ばれることになったが、包明は第17大区の代表として、浜田三孝、山本秀孝等とともに選出された。
 13年(1880)3月の愛国社第4次大会にも、やはり宿毛の合立社250名の総代として参加し、その会で国会開設の請願書を提出している。その年11月10日には第2回期成同盟会を東京で開き、包明はこの会で起草委員に選ぱれて、国会期成同盟合議書を作成した。その後国会期成同盟は、大日本国会期成有志会と改称され、11月15日、沼間守一を中心とする一部が自由党を結成した。明治14年10月の大会には、有志会と自由党は手をとって新しく自由党を組織することを決議した。10月18日から創立総会が開かれ、全国から集った者78人、後藤象二郎が議長となり、盟約を作り役員を選出した。幹事に選ばれた林は、その幹事長となった。
 政府は、自由党の形勢をみて恐れて、11月18日、京橋区警察署が自由党幹事長の林包明を呼び出して詰問した。
 「自由党盟約第2章に、〝吾党は善良なる立憲政体を確立することに尽力すべし"といっているので、集会条例第3条によって届出認可を必要とするものに該当するのではないか」と弁解も聞かずに裁判所に告訴。裁判所は「集会条例による届出をおこたったのは不届に付き、罰金2円を申し付ける」として、林以下全幹事が罰せられた。
 明治15年(1882)には政府の弾圧は一層加わり、集会条例は更に強化せられて、「政治に関する事項を講義するため結社する者は、結社前その氏名、会則、会場および社員名簿を管理警察署に届け出で、その認可を受くべし」と言論の自由を抑圧した。
 その年の6月12日、臨時会議を終って、懇親会に移ろうとした矢先、京橋警察署から幹事が出頭せよとの命令がきた。そこで大石正巳が出頭すると「集会条例違反ではないか、なぜ認可を受けないのか。」というきつい詰問があった。
 27日には林幹事長が呼び出され、届出を強要された。彼は役員にはかって、致し方なく党の役員名簿をそえて、自由党の届出をした。自由党幹事長であった林には、政府の度々の弾圧があり、ついに明治15年8月には獄につながれることになった
 刑期を終えて出獄した林は、もっぱら著述に専念し、「社会哲学」等の数々の書を著している。
 明治18年(1885)には日本英学館を設けて子弟の教育に従事するとともに、19年、星享、山田泰造らと、「公論新報」を発行した。この年保安条例により東京退去を命ぜられたが、憲法発布の特赦によってゆるされた。
 大正9年(1920)6月17日、69歳で歿している。

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