fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その4

 林有造(1842~1921)
 政治家。幼名助次、包直ともいう。号は梅溪。天保13年(1842)8月17日、岩村英俊の2男として宿毛に生まれた。兄は岩村通俊、弟は岩村高俊である。林茂次平の養子となる。鳥羽伏見で徳川方に加担した松山、高松両藩に朝廷は討伐を土佐藩に命じた。土佐藩の松山征討軍に先立ち、林は斥候として松山に乗り込み、松山藩の動きなどをつぶさに調べて本藩に報告した。
その後、伊賀陽太郎のお供をして、竹内綱などと共に北越に転戦し功をあげた。
 明治3年(1870)8月、普仏戦争視察の官命が板垣退助の代わりに林を推薦。通弁として中浜万次郎を同伴、大山巌、品川弥二郎たちと横浜を出港、アメリカを経て英国に渡り、更にベルリン、パリを見学し、戦線を視察した。翌4年4月7日、無事に横浜港に帰着した。
 5月15日には高知藩小参事に任命され、11月には新県制によって30歳で参事(後の知事)に任官した。
  明治4年の暮、土佐、吾川、高岡の3郡の山間地帯を基盤として「油取り騒動」とよばれる一揆が起こった。兵を用いて鎮圧すべ きだという声を抑え、主謀者数名を捕え一般民衆の罪を問わず一揆が収まった。
 翌年(1872)10月、征韓論をめぐり、西郷・板垣らが参議を辞職すると同調して辞職した土佐出身の将校達は、山内容堂の墓前に参集し、南海義社を結成した。
 
 西郷を訪ねた
 明治7年(1874)1月、板垣の命をうけて林は鹿児島に西郷を訪ねた。
「薩摩一藩を以って天下を動かすに足るという目信は結構であるが、更に同志があるならばこれと結び、東西相応じて策の万全を期するのが一番よい。優柔不断の政に対して、板垣をはじめ土佐人士は袂を払って起つの気慨を有している。この際はよろしく薩土連合の勢力を以って政府に当るにしくはあるまい」と熱心に説いた。しかし西郷はついに明答を与えなかった。薩土連合の契約は成り立たなかったけれど、万一の場合、西郷は断然兵を挙げる意志のあることだけは確め得たのであった。
 それから佐賀で江藤新平に会った。江藤は、佐賀で憂国党が旗を挙げそうな形勢であるが、これを制することは難しい。「土佐もすぐ兵を挙げてもらいたい」といった。
 林は「土佐と薩摩が兵を動かすまでは自重し、憂国党の青年をおさえて、軽挙妄動することのないように注意されたい」と忠告した。しかしこの忠告は聞き入れられず、佐賀は遂に兵をあげたのであった。林はその帰路、神戸に上陸した時に江藤の挙兵を聞き、東京に着いた時はすでにそれが敗戦に終ったことを聞いたのであった。
 
 挙兵めざす
 林は西郷訪間のことを板垣に復命の後、7年の3月8日土佐に帰った。
 この年、林は、板垣、片岡健吉達と共に、高知に立志社を創立し、後進の指導をしながら、やがて次への飛躍の時期を待つことになった。明治10年(1877)、薩摩の私学校の生徒が火薬庫を攻撃し、北進して熊本城を包囲した。
 この薩軍の挙兵に呼応して、土佐でも挙兵をしようと、板垣邸に集って協議をした。そのほとんどは、板垣と共に辞職した将校連中であった。
 林は挙兵派の中心的人物で、さきに払い下げを受けていた白髪山の大森林を、政府に売り、その金でドイツのスナイドル銃3000挺を、上海のポルトガル人ローザーより買う任務を帯びて東西に奔走した。このドイツ銃が入手次第、兵を挙げようというのである。
 ドイツ銃購入の担当者は、岡本健三郎と中村貫一であり、岡本は竹内綱とはかってドイツ銃800挺を先ず購入した。
林が計画した土佐軍の出陣の方向は、2方面であった。1つは大阪城を攻めとってこれを根拠地とし、1つは松山城を攻撃して中国筋に進み、薩軍と合するというのであった。
 一方、立志社内では、言論によって政府を攻撃しようとの意見が強くなり、板垣、片岡などは建白書を提出した。立志社の動きに周到な警戒をしていた政府は、高知にある銃器弾薬を、10年6月6日、汽船に積んで大阪に引き上げた。
 14日には、立志社の藤好静と村松政克が捕縛された政府が特に目をつけていた。林は、銃器引き取りを促進させるため8日竹内綱の屋敷でローザーと会見しようと、人力車で宿を出たとたん、待ち伏せしていた警官に捕えられ、警視庁に留置された。 
この陰謀に加わった立志社の連中は殆んど逮捕され、東京臨時裁判所において玉乃正履、岩谷龍一の審問を受けることとなった。
林は、累を板垣、後藤に及ぼさないよう、自分達が首謀者であると言いきった。
    林有造
                          林有造
 岩手で入獄
 遂に板垣、後藤は1回の取り調べも受けなかった。しかし、林は禁獄10年の刑を言い渡され、大江卓と共に岩手の監獄に送られた。
 岩手県知事・島維精は、獄舎内では8畳の間を与え、小使1人をつけ、書物の出し入れは自由という手篤い厚遇を与えた。
維新以後、衰微していった宿毛の有志達は、獄中の林に宿毛振興策を問うてきた。林は熟慮の結果、次の3策を得ることができた。
① 宿毛と片島とを連絡させ新田50町歩を造る。
② 片島に汽船を航行させ運輸の便をよくさせる。
③ 東に路をつけ、有岡駅まで車を通行させる。
 この3策を実行すれば宿毛は発展することに間違いないと返信した。
 明治17年(1884)、仮出獄した林は、直ちに宿毛に帰り、3策を詳しく説明した。
 明治19年1月には、新田築造の許可を受け、現在の林新田ができた。
 明治20年(1887)、宿毛汽船会社を興し、宿毛-高知間を通わせた。宿毛丸は沈没する事態があったが、片島港は次第に発展した。東の道路も、市山峠を切り下げて車が通えるようにした。その後この道は県道に編入され、更に現在は国道56号線となって交通の便はますますよくなった。
 
 自由党から衆院議員に
 仮出獄した林は、政治運動にも力を入れた。明治20年、不平等条約の改正問題が起るとこれに反対して建白書を出し、そのため保安条例によって東京退去を命ぜられた。
 明治23年、第1回の衆議院議員選挙が行なわれた。高知県では第1区(土佐、長岡)から竹内綱、第2区(吾川、高岡、幡多)から片岡健吉林有造、第3区(香美、安芸)から植木枝盛が選出された。これら4名はいずれも自由党に属した。
 翌25年(1892)2月15日を期して第2回の総選挙が行なわれた。
 政府は、内務大臣品川弥二郎のもとで、選挙大干渉を行なったので紛争が各地に発生した。中でも高知県下では、干渉が最も露骨を極め、自由党と政府与党の国民党との抗争はついに流血の惨事をまねくに至った。
土佐には、自由党と対立する1つの政社があった。古勤王組という保守党で、各郡に散在する旧郷士を主要勢力として、土佐国民党と称していた。これらの人々は、一種の国家主義を信奉し、品川内相らの思想と一脈通ずるものがあり、自由党とは犬猿の間柄であった。
 
 選挙干渉とたたかう
 時の高知県知事は、鹿児島人の調所広丈(ずいしょひろたけ)で、警察部長は古垣兼成であった。第2区では白由党から片岡健吉林有造、国民党から片岡直温と安岡雄吉が立候補したので、その結果が最も重視せられ、高岡郡長には、鹿児島から呼び寄せた警部、中摩速衛を抜てきした。東西各地の警察官は、公然と有権者に向って国民党候補者への投票を呼びかけ、これに反対する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙するのは不敬極まることだ」としかり、これに抗弁すれば直ちに暴漢が乱入して来て警官の命令だと称して半殺しの目にあわされた。
 選挙期日がせまると警官は制服を脱いで暴漢の中に加わり、時にはまた制服をつけて警察権をふりまわした。このように警察と一体となった国民党の乱暴に対して、自由党壮士もこれに対抗したので各地で大騒動が起った。
 このような選挙大千渉の結果、林有造片岡健吉は落選し、国民党の片岡直温と安岡雄吉が当選した。しかし各方面からの訴えがあり、それによって名古屋控訴院は、翌年4月、片岡百温と安岡雄吉両名の当選無効を宣告し、林有造と片岡健吉は晴れて当選し、再び議政壇上の人となることができたのである。
 明治31年(1898)、自由党と、改進党を改めた進歩党とが合同して憲政党を組織した。林はその総務委員に選ばれ、ついで大隈、板垣連合内閣ができると逓信大臣に任ぜられた。34年、伊藤博文が立憲政友会を組織すると、憲政党を解党して、その幹部は政友会に入り、林はその総務委員となった。この憲政党解党を、自由党の栄誉を忘れ、藩閥政権に身売りするものだと論じて反対する者もあったが、中でも幸徳秋水は「自由党を祭る文」を発表してその終末に血涙をそそいだのであった。
 やがて、伊藤博文が内閣を組織すると、林は農商務大臣となり、36年(1903)には、千葉県より立候補して衆議院議員となり、ついで片岡健吉と共に政友会を脱して無所属議員となった。こうして衆議院議員に前後8回当選し、その間2回大臣を務め、国政のため尽力したが、41年以来政界を去って郷里宿毛で郷土発展に尽くした。
 「明治維新以後、わが郷土宿毛からは、数多くの国家有為の人材が出ているが、終始宿毛発展のために力を尽した宿毛第一の人物は、何といっても林有造である」(『宿毛人物史』)
 大正10年(1921)12月29日病没、80歳。
関連記事
スポンサーサイト




高知県の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その5 | ホーム | 時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その3>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |