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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その3

 岩村通俊(1840~1915)
 政治家。男爵。幼名猪三郎、弥左衛、左内。号貫堂、俳号素水。英俊の長男として天保11年(1840)6月10日宿毛に生まれる。弟に林有造、岩村高俊がいる。
 幼い時、在郷の儒者酒井南嶺に学んだ。万延元年(1860)、土佐勤王党の武市瑞山が宿毛に来て同志を糾合したが、この時通俊は意気投合して将来を誓い合った。
 文久元年(1861)邑主安東(伊賀)氏理の側役となり、慶応元年(1865)には文武頭取、目付役となった。この年に長崎に行って安東家のために小銃若干を買って安東家の軍備の新編制につくした。明治元年(1868)4月仕置役となって上阪したが、ついで入京して親兵総取締となった。
 奥羽地方では、まだ佐幕派の諸藩は勤王軍に反抗していた。通俊は山内容堂公に従軍の許可を乞い、朝命をもって越後口に出征を命ぜられ、弟高俊とともに軍監となって出陣した。通俊は羽越各地に転戦して佐幕軍を破り12月には京都に凱旋し、総督仁和寺宮より賞として錦衣を賜わった。
   岩村通俊
     岩村通俊
  明治2年、新政府に登用せられ、聴訟司判事に任ぜられた。つづいて函館府権判事開拓判官になった。明治4年(1871)、札幌の開拓を命ぜられたが、当時札幌は未開の原野で、開墾は困難を極めたが、通俊は寝食を忘れて鋭意経営し、ようやく新市街形成の基礎を築いた。明治5年開拓大判官に進み、道内全域の開発に心血をそそいだので、道民からは開拓の父と称えられた。
明治6年7月、佐賀県権令に任ぜられたが、当時の佐賀県は廃藩後の土地還付について県民に不服が多く、小作人達は竹槍、むしろ旗をもって官に迫っている状況にあった。通俊は同県出身の大蔵卿大隈重信を訪れて、その了解を得て佐賀県におもむいた。就任の日に直ちに地主たちを召集し、相当の代償金を渡して彼等の納得を求め、一挙に土地還付の難問題を解決したので、政府当局はその敏腕に驚いた。
 通俊はその他の県政も積年の旧弊を改めたので、政府は益々通俊の手腕を認め、翌年1月には工部省出仕を命じて中央に呼びかえされた。通俊は後任の佐賀権令として弟の高俊を推薦したところ、政府はこれをいれて高俊を任命した。
高俊が佐賀権令に任命された時、前の参議、江藤新平が佐賀の乱をおこしたので、高俊はその鎮撫を命ぜられた。通俊はこれを知って、内務卿大久保利通に従って、佐賀におもむいた。そうして弟の高俊を助けてこの鎮撫にあたり、わずかの日数でこれをしずめて、佐賀の乱を終らせた。帰京後、命によって「西征始末」を書いた。この年7月には議官に任ぜられ、つづいて8月には判事となった。
 明けて明治9年(1876)には山口地方裁判所長に任命された。10月に前原一誠、奥平謙輔等が、政府に反抗して「萩の乱」を起したが、直ちに鎮定されて、皆捕らわれた。通俊は黙否権を使用する謙輔にむかって条理をつくして説得した。
翌日、謙輔の態度は一変して従順に事実を白状し、前原一誠も一切を白状したので、裁判はスムーズに進んで刑が決定した。首謀者前原一誠等8人を斬首、余党60余人を懲役に付し、その他2000余人は放免した。裁判を始めてからこの結審までわずかに7日間で終った。
 「山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会が与えられぬまま関係者の判決が言い渡され(た)」という見解もある(ウィキペディア)。
  
 明治10年(1877)には西南戦争が起きた。通俊は当時鹿児島県令(今の県知事)の辞令を受けて海路鹿児島に赴任したが、鹿児島県内は砲煙弾雨がうずまいていた。通俊は従容としてことに当り、士民の宣撫や救護に全力をつくし、遂に大乱は鎮定した。城山で自害した西郷隆盛の屍を受け取り、浄明寺の域内に葬った。
 維新後の佐賀の乱、萩の乱、西南の役にすべてに通俊が関係していた。
 明治12年(1879)、彼は政府に請願して士族授産金10万円を受け取り、これによって各種の殖産事業を興し、戦後のいためられた鹿児島復興の基礎をたてた。
 元老院議官、会計検査院長等に栄進したが、明治15年(1882)に沖縄県令となった。当時、沖縄では、王府時代の土地・税制制度など古い制度が残り県民を苦しめていた。その中に、八重山諸島や宮古島の人頭税がある。しかし、政府は旧支配階級の反発を避けるため旧慣習を温存していた。
 前任の上杉茂憲県令は、県内をつぶさに視察し、住民の困窮と地方役人の怠慢を察知すると、上京して改革案を上申した。政府は、急激な改革を避けるという方針に反するとして上杉を転任させ、代わりに赴任したのが岩村だった。開明的な上杉県政を批判して旧慣温存を定着させたとされる。人頭税が廃止され、旧慣温存政策が終わったのは、明治36年(1903)のことだった。
岩村は、17年(1884)に司法大輔に昇任した。前に赴任していた北海道を巡視し、政府に対して北海道庁を置くことを建議した。明治19年に北海道庁が置かれ、初代長官に通俊が任命された。
 22年(1889)伊藤内閣のとき農商務大臣となり、ついで宮中顧問官、貴族院議員に勅選され、御料局長を兼ねた。
 大正4年(1915)2月20日、病没、76歳。『貫堂存稿』がある。

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