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時代を駆けた宿毛の人間群像、そ2

 竹内綱(1839~1922)

政治家・実業家。通称万次郎、諱は吉綱、号は武陵。天保10年(1839)12月26日宿毛に生まれる。父は庄右衛門梅仙、代々伊賀家の重臣であった。目付け役として、主家の財政再建に尽力した。

宿毛藩では、論争により重役すべてが交代し、竹内綱が若くして目付役となった。竹内綱は攘夷論には反対であったが、高知の攘夷派、佐幕派の2派の有力者についてその論を聞くため側用役岩村通俊と共に高知に行った。奉行職深尾鼎、目付役後藤象二郎、武市半平太を訪ねたが、後藤、武市2氏との会談で、攘夷論のよくないことを確認し、宿毛に帰ると領主にこのことを報告した。
   竹内綱
              竹内綱
 慶応2年(1866)7月3日、安満地浦(現在の大月町安満地港)に黒船が入港して、宿毛湾内はにわかに騒然となった。伊賀家では老役の羽田左膳と竹内に歩兵二箇小隊を率らせて安満地浦へ遣わした。彼等は漁舟十余隻に分乗してこれに向ったが、現場に到着して始めて黒船の実態を見て驚いた。いかなる方法をもってしても到底、彼等が全く歯の立たない巨大な存在であることを感得した。勝敗のあまりに明白なことを見きわめ、彼は厳重に兵に発砲を差し控えさせた上、単身、小舟に乗って黒船に漕ぎつけた。黒船に乗りこんで談判を試みたが言葉は全く通じない。その内黒船の士官が「和の英語箋」と云う書物を持ってあらわれたので、互にその本にある単語を指摘し合って、やっとのことで海岸測量のために寄港したこと、英国船であること、明7月5日午前中に出港すること、を確かめることが出来た。

竹内は船上で士官から洋酒を振舞われ、なごやかな空気の中の取り引きで帰って来たが、尊王攘夷にわいていた時代で、ざん言されてちっ居を命ぜられた。彼はいずれ切腹の命令が下るものと覚悟していたが、丁度その折、高知の宿毛屋敷留守居役から連絡があり、それによると、例の英国測量船は須崎の港にも入港したが土佐藩では、これに牛肉、雞卵等の食糧を贈ってこれを遇したとのことである。これによって幸いにも命はとりとめちっ居も解かれることになった。

慶応4年(1868)伊賀家の世子・陽太郎が京都に遊学することになると竹内は選ばれて、その補導役を仰せつかって近習、医者その他を随えて陽太郎の伴をした。彼は陽太郎の京都での生活の責任者として精勤を励んでいたが、その内陽太郎はにわかに奥羽征討軍に加わることになった。彼はよくこれを輔佐して二個小隊を率いて越後から出羽、庄内に入って奮戦した。凱旋後、功によって刀を賜ってその功を賞せられた。

明治2年(1869)には大阪府典事となり、ついで参事となった。同4年には大阪造幣寮が開設されたが、新政府はそのために政府要員をたびたび大阪に派遣して仕事に当らせた。大阪府参事竹内綱が伊藤博文と親交を結んだのはこうしたきっかけで、伊藤は当時政府の役人としてたびたび大阪に来ていて彼と知合ったわけである。竹内は伊藤に廃藩置県論を提示して多いに伊藤を啓蒙したと云う。

明治7年(1874)10月に大蔵省6等出仕に任ぜられたが、同8年12月に辞職して官界を去った。そうして後藤象二郎の経営する蓬萊社に入り、社長となって高島炭坑の経営に従事した。

明治10年、西南の役が起きると、林有造達は西郷隆盛に呼応して挙兵し、一挙に大阪鎮台を陥れる策を練った。この時彼は有造を援けて新型洋式小銃3000挺の入手に奔走した。これより先、明治7年の征台の役に外国より購入した小銃が不用になって目下、外国商人の手にある事を知った彼は、これに目をつけ800丁の鉄砲を手に入れた。しかしこの事が露顕してついにとらわれの身となり、林等は禁固10年の刑を云いわたされ、彼も禁固1年に処せられ新潟の監獄に服役した。

出獄の後は専ら板垣退助を助けて自由党の組織に従事した。明治23年(1890)、帝国議会が開設されると彼は高知県から選ばれて衆院議員になり、一時中央政界で活躍したが、明治29年(1896)、朝鮮に京釜鉄道が興るとその常務理事に送ばれて以来、実業界に転じた。明治40年(1907)京釜鉄道が国有となると、彼は東京に引き上げ、それからは首都の実業界で活躍している。

明治45年(1912)、高知市に三十余万円(現在の数億円)の富を投げ出して独力を以て私立高知工業学校を創設した。当時、高知県は、実業教育は全く他の県に立ち遅れていた。高知商業学校が高知市立として存在しているのと、県立では高知農林学校があるのみで、殊に多額の施設設備を必要とする工業教育については全く手をつけていない状態であった。

彼は工業立国化する日本の将来と郷土高知県の後進性を打破して、教育の機会均等を助ける意味から独力で工業学校を創設した。その後、その必要性が認められ、県立に移管され、今日の高知工業高等学校にまで発展したもので、彼が郷土の文化発展に貢献した功績は偉大なものである。
 大正11年1月9日84歳を以て東京の自邸において歿した。

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