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王府時代の那覇の史跡を歩く、親見世

 王府時代の那覇の史跡を歩く

 琉球王府時代の記録「冠船日記」「親見世日記」を読んだので、改めて当時の那覇の關係する史跡を回ってみた。
 これらの史跡が集まっているのは、現在の那覇市旭橋からロワジールホテルに向かって進むと東町交差点がある。その周辺の東町、西町と港のある通堂である。
 首里王府の役所「親見世」、「那覇里主所」、中国からの勅使が泊まった「天使館」、薩摩藩の役人が駐在した「薩摩在番奉行所」、中国の「冠船」、琉球の唐船などが接岸した那覇港などである。
 役所があったこの地は、戦前は那覇市役所、県庁、那覇警察署、中央郵便局などあつまる那覇の中心地だった。現在は、オフィスビル、ホテルなどが林立して昔をしのぶ面影は消え失せている。あちらこちらのビルの一角に史跡であることを示す案内板が建っている。そこに、古い写真や絵図が添えられていて、往時の雰囲気を伝えてくれる。
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 かつては、現在の泉崎交差点の南西側に「大門」があり、南西に向かって大門通りが伸びていた。その通り沿いに建物があった。
 以下、案内板の説明や『那覇市史通史編第1巻』から紹介する。

 親見世(おやみせ)
 まずは東町にある親見世跡(那覇市東23-1)。
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 首里王府時代の那覇の役所跡。「親見世」は方言は「ウェーミシ」と呼び、「王府の直轄する店」という意味である(『那覇市史通史編第1巻』)。もとは王府が海外貿易で得た貨物を販売する<御店(おみせ)>だったとされる。
  王府の史書『球陽』では、「那覇親見世は、諸国と交通貿易するに因り、故に公館を那覇に建て、官吏を置きて以て其の事を掌らしむ。その館を名づけて親見世と日ふ。又公倉を那覇江中に建てて以て貿易を蔵す。其の倉を名づけて御物城と日ふ」と記されている(『那覇市史通史編第1巻』から)。
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 つまり海外との交易のための役所として建てられ、役人を置き、業務にあたらせていた。
15世紀半ばの朝鮮の『海東諸国記』中の「琉球国図」に記されてる「国庫」は親見世を指すとされ、創設はそれ以前だったと考えられている。
 1609年の島津侵入の際、降伏会議はここで開かれた。楼門造りの門前の通りには港に続く東・西両村を分ける道で、門前横には大市(うふまち、市場)が広がる那覇の中心地であった。
 1638年に上位機関の那覇里主所(なはさとぬししょ)が設置されると、もっぱら那覇四町(東村・西村・泉崎村・若狭町村)の民政を担当した。廃藩時代には大屋子(うふやこ)・筆者など10数人が常勤していた。
 1876年に熊本鎮台沖縄分遣隊営所となり、1884年から1915年まで那覇警察署、その後は山形屋百貨店となっていた。
 親見世の南側に在番奉行所があった。



                   
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