レキオ島唄アッチャー

「冠船日記」を読む。金鶴でもめる

 金鶴の献上でもめる
 貿易をめぐるトラブルの最中に、もう一つ厄介な献上品をめぐるトラブルが発生した。
 それは、琉球国王として認証を受ける冊封(さっぽう)の謝恩として、中国皇帝に贈る金鶴をめぐってである。
 首里王府の最高機関である評定所の記録「冠船日記」の1719年8月26日付けに、次の記述がある。評価物(冠船貿易品目)をめぐるトラブルについて相談し、詳細な書き付けを作成したが、その「覚」の内容を見ると、なぜか貿易のことではなく、献上品について書かれている。
 評価物(冠船貿易品目)について、国場親方(うぇーかた)、古波蔵親方、末吉親方、牧志親雲上(ぺーちん)、安冨祖親雲上、松堂親雲上、砂辺親雲上、志多伯親雲上、許田親雲上、山田親雲上が古波蔵親方宅に集合して、評価物(のすべて)は買い取れない旨を、この間再三お伝えしてきたが了承を得られなかったので、明日は詳細な書き付けを作成して申し上げるのが良いと相談して決定した。
           覚
今回、謝恩船によって皇帝へ贈る(予定の)献上品について、勅使からのお尋ねがあった。先例の通りに書き付けを作成して、河口通事の取り次ぎでお目に掛けたところ、「先の亥(1683)年には金之鶴一対を取り添えて献上しているが、今回はいかなる理由で(金之鶴を)献上しないのか。」とのお尋ねがあった。
返答として「先の亥年には皇帝直筆の額を拝領した謝恩として金鶴を献上した。今回は(直筆の拝領がなく)通例の拝領物であったため、献上物も通例に従い金鶴の献上は見合わせる。」と申し上げた。「とんでもないことを言うものだ。中山世土(注・康熙帝が1683年に尚貞王へ下賜された扁額)は永久不変の地という意味であり、とりわけ皇帝の御親切の叡慮によって下賜されたものである。その上、皇帝の直筆の額という物は、他国へ(下賜した)先例はない。(琉球の)外聞(名誉)は万代不朽となる御高恩であるため、(御高恩を)決して忘れてはいないという(国王の)心からの(忠誠の)証として国王一世に一度は必ず金鶴を献上しなくては道理にかなわない。それにも関わらず、(下賜されたことを)一時的なものと考えていることは愚昧の至りであり、皇帝の御高恩を忘却していること極まりない。大清の御代となり、二度も拝領物を重ねて下賜され、かつまた今度は尚益王に対しても諭祭をしており、琉球へのお恵みは重々浅からざるものである。しかしながら、追加の拝領物があっても、進貢物の増加もなく、また尚益王への諭祭に対しても、特別に献上物の進上もないため、旧例通りの金鶴献上がないことは納得できない。」と言い放たれた。
予想外のことを急に仰ったので驚愕し、入念に再三協議したところ、右のようなご発言があったからには強いてお断りしても了承して頂けないので、先の亥年通りに金鶴を献上して頂きたいと考えるものである。以上。
亥8月 志多伯親雲上ほか11名の親方、親雲上の連名
               041.jpg
             冊封儀式の再現(首里城)
 これを読むと、中国側が今回は金鶴をなぜ献上しないのか、厳しく問いただしている。ただ、その根拠を見ると、要求はかなりムリ筋の主張のように思われる。
 琉球としては、前国王の冊封の際、金鶴を贈ったのは、皇帝から「中山世土」の御書扁額の下賜に対する謝恩であった。だが、今回は特に皇帝からの扁額の下賜もないので、献上を見送る方針だった。しかし冊封使側は、扁額は「永久不変の地」という意味であり、王位を継承したならばそのたびに謝恩すべきである、皇帝御書の下賜は他国にも例がないのに、「皇帝の御高恩を忘却している」と述べ、あくまで金鶴を献上すべきだと主張した。
 しかし、今回は皇帝の御書扁額の下賜がないというのは確かな事実である。だから金鶴の献上は見送るという琉球側の言い分は、決して不当なものではない。扁額の内容が「永久不変の地」を意味するから、王位を継承するたびに金鶴を献上せよというのは、屁理屈にしか聞こえない。 
 これは、冊封使が帰国して謝恩品の中に、金鶴がなかった場合、もし皇帝からお咎めを受けたら困るので、献上するよう圧力をかけているようにしか、私には見えない。
 かといって、皇帝に臣従する琉球国は「皇帝の高恩を忘却している」と指摘されれば、もはや拒めない。へりくだって献上せざるを得なくなる。
 残念ながら「日記」にはこれだけの記述しかない。
                冊封中山王図
            「中山伝信録」に掲載されている「冊封中山王図」

 しかし、1719年に来琉した冊封使一行の副使だった徐葆光の『中山伝信録』(原田禹雄訳注)を読むと、琉球からの「貢物」として、「金鶴二《銀座つき》」が貢物リストの最初に記されている。
金鶴のあとに、盔甲(よろいかぶと)1着、各種の腰刀(わきざし)、鎗、袞刀(なぎなた)、馬鞍、金彩画囲屏(びょうぶ)など品々が計上されている。
 「金鶴以下は、謝封の(特殊進貢の)貢物である」と述べている。国王として冊封を受けた謝恩の貢物ということ。リストの中で最初に計上されていることから見て、金鶴はそれだけ貴重な貢物だったのだろう。
 話しは横道にそれる。琉球から中国に献上された金鶴は、献上リストにはその名前が見えるだけで、詳細はよくわからないそうだ。1757年、冊封謝恩の副使として中国に渡り、北京に行った古波蔵親方たちも、銀製台座付の金鶴型を一対持って行ったという。
 残念なことに、琉球から献上された金鶴型は、中国で現物が確認されていないという。献上された品は、離宮や寺院へ下賜されたり、臣下へ下賜されたりするそうだ。下賜されてなくなってしまったのか?
 もしくは1738年の中国国内の文書に、今年、献上された金銀を鎔化、つまり溶かしたという記述があるという。この部分は、ネット「地域研究グループ|シマミグイ」から紹介した。
 溶かした金銀の中に、献上品の金鶴も含まれていたのかどうか。真相は不明のままだ。
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