レキオ島唄アッチャー

「冠船日記」を読む。品物買い取れない

  品物売買で儲け目論む随行員
 万暦7年(1579)に尚永王の冊封のため来琉した際の興味深い話がある。
 「謝杰(副使)は、使節の随行員たちが封舟に積み込むことを許された商品の売買によって、どれだけ儲けることができるかということに、強い関心を払っている」。
 謝杰の書いた「恤役」という文書(夏子陽『使琉球録』に引用されている)によると、「明初より、琉球国王の冊封にさいしては、随行乗組員約500名がそれぞれ百斤(約60㎏)の商品を携行して、琉球人と交易することが認められていた。嘉靖11年(1532)の陳侃使節団は、この携行商品の売買によって1万両の利益をあげ、乗組員は一人あたり10両~40両ほどの収入を得た。嘉靖40年(1561)の郭汝霖使節団は、6千両の利益、一人あたり5両~20両と、利益が少なくなった。このため万暦7年(1579)の蕭崇業使節団にさいして随行員を招募しても、利にさとい福建人はあまり積極的ではなく、質の良い乗組員は得られなかった。携行商品の利益も総額3千両とさらに減少したため、正使・副使などが醵金して、手当を支給せねばならなかったというものである」。
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首里城正殿
 以上は、夫馬進編『増訂使琉球録解題及び研究』の岩井茂樹著「蕭崇業・謝杰撰『使琉球録』解題」から紹介した。
 これを見ると、冊封で琉球に来る際は、随行員たちが積み込んだ商品の売買で、ひと儲けするチャンスとして利用する目論見があったことがよくわかる。だが、さまざまな条件によって、儲かった年もあれば、思惑がはずれて利益が減少した年もある。利益が少なくて、正使・副使などが拠金して、手当を支給したとは、冊封使も辛い立場である。

 品物が多すぎ買い取れない
 「唐船日記」に戻る。1719年の冊封使の際は、やはりその前1683年の尚貞王の冊封の際には、持ち込んだ商品がよく売れたことが先例となって、交渉が難航した。
 8月28日付けでは次の記述がる。
 評価について、冊封使と測量官から河口通事の鄭老が派遣され、国王へ申し上げた趣旨は、「評価物は、以前から冊封の際にはすべて買い取るのが先例である。今回は測量官2人も加わって来たので、乗員もその分増えているので、乗り船も3艘立てでの渡海を考えたが、先例を考慮して2艘立てで来た。評価物も先例と同様にすべて買い取って頂きたい。」とのことであった。
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        冊封使も寄港した那覇港の現在の様子
 勅使からの拝帖(注・用件や名前など記した紙片)は冨川親雲上の取り次ぎで、三司官のお目に掛け、(三司官から)国王へお伝えしたところ、国王は「当国は銀が少ないため、(全品は)買い上げることができないので、河口通事からもお断りの件をよろしく返答して頂きたい。さらに、明日、法司(三司官)からもお断りを申し上げさせる筈である。」と仰った。この時、古波蔵親方と末吉親方も登城しており、河口通事と詳しく相談した。
 冊封使からの使者が派遣され、国王に直接、「先例と同様にすべて買い取って頂きたい」と要請がされたが、国王はあくまで固く断っている。小国の琉球が窮迫して代銀が用意できないのは事実である。しかも、「先例通り」と言われても、中国側一行はあまりにも人員が多くて、品物も多すぎるので、琉球側としても、どうしようもないということだろう。
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