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「冠船日記」を読む。貿易をめぐりトラブル

 「冠船日記」を読む。冠船貿易をめぐってトラブル

 琉球は、中国皇帝に朝貢して、皇帝から国王として冊封(認証)を受けていた。琉球に來る使節団は、御冠船(うかんしん)に物産を積み込んできて、那覇で取り引きをした。冠船貿易と呼ばれる。中国と琉球の貿易は、琉球から福州に行った時に行う朝貢貿易と、この冊封使が来た時の冠船貿易の二つのやり方があった。

 中国持ち込みの品物は王府が買い取る
 琉球の貿易は、首里王府が管轄する官営貿易だった。だから、中国が持ち込んだ物産は、琉球王府が一括して買い取った。それ以外の民間貿易は密貿易になる。密貿易は厳しい取り締まりの対象だった。
中国側の持ってきた品物を王府が買い取るには、品物の数量を確かめて、価格を決める必要がある。品物を見て価格を決めることを「評価」=ハンガーと言った。この「評価」(ハンガー)が一番の大仕事だ。王府は冠船が入る時には、臨時に評価担当の役職を定めてこれに従事させた。価格を決めるには、中国側の言い値通り買い取るわけにもいかない。買い取るための資金(銀)は限られているからだ。だからあらかじめ相場を知っておく必要があった。福州に渡った時には、現地の価格をきちんと調査していた。
 それにしても、輸入品を王府が一括して買い取るのだから、王府にとっては大きな資金が必要だった。那覇での貿易をめぐって、しばしばトラブルが発生した。トラブルの様子がとてもリアルに伝わっているのが、1719年の尚敬王の冊封の時だ。冊封使は、正使が海宝(かいほう)、副使は徐葆光(じょほこう)だった。徐葆光が帰国して書いた『中山伝信録』は、冊封使の記録の中で、最もよく知られている。
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             冊封使が宿泊した天使館
 冊封使一行は、通常は400人から500人程度だが、1719年6月1日に来琉したこの時の使節団は、649人もの大人数だった。しかも、通常は半年ほど滞在して秋に帰国するのに、この時は翌年2月16日まで9カ月間にわたって滞在した。
 乗組員は、それぞれ品物をたくさん持ち込む。使節団が大規模だったので、この当時、持ち込まれた品物も膨大で、その代銀は2000貫余に上るとみられる。
  首里王府の最高機関である評定所が記した「冠船日記」(『國立臺灣大學圖書館典藏琉球關係史料集成』収録)は、1719年8月1日から29日までの短い期間の記録である。その中に、中国側が持ち込んだ評価物(冠船貿易品目)をめぐるトラブルが記されている。
           封舟到港
    封舟(冠船)の到着之図(「中山伝信録」)
 評価額で大きな開き
 8月23日に日付で次の記述がある。
 評価貿易について三司官の伊舎堂親方(うぇーかた)と御鎖之側(注・おさすのそば。首里王府の役職名の一つ)の冨川親雲上(ぺーちん)が那覇に来たので、惣役(注・そうやく。久米村最高職)の古波蔵親方、長史(注・ちゃぐし。久米村の行政担当の役職)の山田親雲上、河口通事(注・福州人で琉球語通訳兼相談役)2人が、兼ケ段親雲上宅に揃い協議した。古波蔵親方、冨川親雲上、山田親雲上、河口通事がともに、天使館(注・冊封使一行の宿泊所)へ参上し、手本(書状)を差し上げて次のように申し上げた。
 「今回の評価物は(封王使側から)頂いたお書き出しの通りに買い取るべきだが、銀子不足のため買い取ることが出来ない。なお、先の亥年(1683年)には500貫目の評価(取り引き)をしたので、今回も銀子500貫目を用意したが要求された銀額とは折り合いがつかなかった。法司官(伊舎堂親方)も驚いて(那覇に)下って待機している。ついては、買い取ることができない旨を私たちを通じてお断りを申し上げる。勅使に随従してきた方々にお断りの件を受諾して頂きたい。」
それに対して、(封王使の)返事では「封王使と測量官の評価物は持ち帰っても良いが、下々の者たちは評価物の売買を目当てに琉球に来ているので、持ち帰らせては極めて不都合なこととなる。この趣旨を国王へ申し上げ、買い取るように要請して頂きたい。」とのことで手本は返却された。右の経緯を伊舎堂親方へ申し上げた。
 中国側が持ち込んで品物の代銀は総額2000貫目を超えると見られるので、500貫目では、開きが大きすぎて、とても話にならないということだっただろう。
 
 8月24日付けでは次の記述がある。
 評価物について、三司官(注・首里王府の大臣格の者。定員3名)の伊舎堂親方、耳目官(注・じょもくかん。進貢の際、臨時に任命された王府の官職の一つ)の冨川親雲上、安室親雲上が兼ケ段親雲上宅へ(集まり)、惣役の古波蔵親方と長史の山田親雲上も出向いて、河口通事を招いて相談し天使館へ赴き、河口通事を介して(封王使へ)手本を差し上げ、伊舎堂親方より
 「評価については、昨日、紫金太夫(注・親方クラスの別称)と耳目官と長史から御断りを申し上げたが受諾はできないとのお返事の趣旨を国王へ申し上げたところ、国王が申されたことは『勅使へのおもてなしのため評価物はすべて買い取ることが本意だが、小国ゆえ銀子の用意は十分できず、何年もかけて尽力し、ようやく先例と同額(500貫目)だけは用意することができた。しかしながら、今回の評価物をすべて買い取るには力が及ばないため、幾重にも御断りを申し上げるように。』とのご発言であった。(ついては)このたび、封王使に随従してきた方々へ(この件を)伝えて頂きたい。」と申し上げたところ、
 封王使のお返事は「(琉球は)小国ゆえ銀子を用意できないと仰ることは、余りにも慇懃の至りではないか。以前は封王使に随行してきた者たち、および兵士までも評価物を持ち渡る先例があり、すべて(評価物を)売り払ってきたので、今回もすべて買い取って頂くよう国王へ申し上げよ。」との指示であった。
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               冊封儀式の再現で、並び立つ冊封使と琉球国王
 国王にも相談した結果、本来は持ち込んだ品物はすべて買い取るのが筋だが、なにしろ小国なので代銀を十分用意できないと苦しい財政事情をのべて断っている。しかし、冊封使は納得しない。これまで、冊封使の随行者だけでなく、兵士までみんなが物産を持ち込み、すべて琉球側が買い取るのが先例であると強く主張している。
 注目されるのは、冊封使や測量官の物は持ち帰ってもよいが、「下々の者たちは評価物の売買を目当てに琉球に来ているので、持ち帰らせては極めて不都合なこととなる」と述べている点だ。
 これは、冠船に乗る渡海人役は、「募集ではあるが、労銀は支給されず、賄だけが官給で、あとは各人の持渡り品を売ることによる役得が収入となっただけである」(原田禹雄訳『中山伝信録』の訳注から)という事情がある。
 東シナ海を渡るのは危うい航海だった。そんなリスクをおかして乗船して働いても、給料は支払われなく、持ち込んだ大量の品物の販売が目当てとあれば、品物が全量買い上げになるかどうかは、彼等にとって重大な問題だった。
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