レキオ島唄アッチャー

『冠船日記』を読む。測量官

 武具は準備していなかった琉球
 中国から渡来した冊封使一行に随行した測量官に対し、武具の進上を求められたが、準備していないので、進上できないとお断りした。
 「測量官は不意に琉球に渡来されたため、測量官への進上物は準備していない。武具はなおさら準備しておらず当惑している。琉球は常日頃から武具には関心が薄く、当年のように冊封使の来琉等古事の行事に準じて進物用として稀に製作しているので、武具の製作に不慣れであり、別して武具の製作は容易ではないので、代銀を受け取って頂きたい。」
琉球は、尚真王の時代に国内の武装を解除し、武器類は王府が保管した。といっても貧弱なもので、1609年には薩摩藩に侵略された。武器も薩摩の統制を受けた。「琉球は常日頃から武具には関心が薄(い)」というのは、実際の姿である。
 「琉球から礼物として贈られる物品のうち、日本刀などの武器類は幕府からの許可が必要であったことから急に準備することができなかった」(麻生伸一著「康熙58年冠船日記解題」)。
 しかし、測量官は納得しない。
 「予想外のことを言うものだ。滞在日数は10日や20日という期間でもなく、武具を製作できないということは全く納得できない。さらに北京から出発する前に、皇帝の御子たちから『琉球へ勅使が渡海した時には、以前から武具の献上があったと聞いており、どうしても(琉球の武具を)見たいので、琉球の土産として持ち帰るようにせよ』と強く命ぜられているので、その代わりに銀を受け取ることはできない。とりわけ武具は第一の進上物であるのに、琉球で代銀を受け取ったことを皇帝の御子へ申し上げては決して納得されず、かえって不届き者として罰せられるので、代物として金銀をいくら進められても決して受け取ることはできない。そのため、必ず滞在中に、製作して進上するようにせよ。」と、ことのほかご立腹の体で発言された。
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首里城に入る冊封使一行を再現した行列
 皇帝の子息から「琉球の武具を見たいので持ち帰るようにせよ」と言われたというのは、皇帝と子どもをダシにした言い分の感じがする。ただし、日本刀など武具は、中国では特別な祝儀品として珍重されたそうだ。
 困った琉球側は、もはや武具を断念してもらうすべはない、「冊封使へ進上する分から測量官へ差し分けて(測量官へ)進上することはどうか」と姑息な方法を思いつき相談したところ、「その方法では冊封使と測量官、双方とも立腹され、さらに混乱が生じて一大事になる」とのことで、その方法でも処理できなかった。
 「といって、他国(薩摩藩)で製作して入手したものとは申し上げることもできず、全く行き詰っている。(勅使が)仰ったように武具は唐においては特別な祝儀品で、進上物のなかでも重視される品である。この上強いて要望をお断りしたならば、解決できないことは必然である。そうなっては(測量官の)ご機嫌を損ない、これまでの進上物まで差し戻されては、対処する用意もなく、これまでの持て成しも徒労となる。さらに唐で琉球に関する根拠のない噂が立っては、(唐との関わり合いでの)御故障となることは明白であるので、武具その物を献上しない訳にはいかないと吟味した。思慮の及ぶ限り幾度も協議を重ねたがこれ以上の見解は案出できなかった」。
 協議を重ねてももはや妙案はない。「武具を献上するしかない」という結論に至る。
 この結論をもって相談した返事を伺うため、山田親雲上(注・ぺーちん。中級士族に相当する称号)が登城した。三司官(注・首里王府の大臣格)の伊舎堂親方(注・うぇーかた。士族の最高の称号)から、「この太刀については、先日測量官からの要望に沿って現物の太刀を提供せよ。」との指示を受けた。「しかしながら太刀は、急には調達できないため、今後製作して差し上げるとのことを強調して(測量官へ)お伝えするように。」と命ぜられた。そのため、すぐに測量官へこの経緯を申し上げたところ、了解を得た。 
 8月9日には、開読の返礼としての天使館へ国王が出向いて行った。
 「国王から封王使(冊封使)と測量官への御進物は、御進物当が準備して、館屋露台の西側の脇に飾り、目録は銘々に差し上げられた。その品々を左に記す。
 一、一の金扇子10本。箱2つに納む。
 一、太刀二振り。堤げ緒付き」
 目録は合計10品を数える(2項は辞退された)。
 右の進上品は封王使と測量官の御一人分だという。
 
 8月20日に首里城で冊封使を招いて「中秋の宴」が催された。その翌日、御進物当の城田親雲上と長史(ちゃぐし。久米村の役職の一つ、行政を担当)の許田親雲上は、冊封使が宿泊する天使館へ参上した。
                    首里城中秋の宴の2
                徐葆光も見た首里城「中秋の宴」の再現

「河口通事の取り次ぎで、拝帖(注・訪問の際、要件や名前など記した紙片)と手本(書状)を封王使と測量官へ差し上げた。御進物の目録については、左に記す。
 一、金扇子10本ずつ。箱2つにいれている。
 一、太刀二振りずつ。堤緒付き」
 御進物は合計4品を受納したが、後の6品は受納しなかった。
 徐葆光著『中山伝信録』には、琉球からの「貢物」として3種類の刀が記されている。
 金靶鞘腰刀(きんのつかのさやのわきざし)2。銀靶鞘腰刀2。黒漆靶鞘鍍金銅結束(ひるまき)腰刀20。
 「冠船日記」で差し上げた品物として、太刀は4振り記されているので、『中山伝信録』と符合するのではないか。太刀以外に、盔甲(よろいかぶと)《手甲・臑(すね)当つき》1着、鎗10、袞刀(なぎなた)10、馬鞍1《轡・鐙(くつわ・あぶみ)つき》といった武具が献上されている。この品物は、冊封に対する謝恩の貢物とされた。
 

 測量官から測量術を習得
 測量官への進上物で悩まされたけれど、琉球王府にとって、測量官の来琉は最新の測量術を観察し習得する絶好の機会であった。
 8月17日 古波蔵親方(うぇーかた) 両長史(ちゃぐし。久米村の役職の一つ、行政を担当)が次のように指示をした。
 「覚」は次のように記す。
 「測量官は当初、琉球での天体測量のために来琉されたとのことをお聞きになっていたので、その趣旨で大和(薩摩)へ報告しておいた。ついては、来年にはその経緯を報告しなければならないため、この間、測量が終了しているならば、その詳細を把握して書面で提出するようにせよ。測量用具に関して、その仕掛け等(の教示)を願い出て、実地測量においても支障がなければ、とくと観察・習得し詳細に報告せよ。また(測量行為が)秘密事項だとしても、(薩摩へ)何も報告しないわけにはいかないので、十分に念を入れて(情報を)内密に入手し報告せよ、との御指図である」
 「冠船日記」には、これ以上の記述はない。しかし、測量官がもたらした最先端の測量技術を入手するよう指揮していたのは、福州で風水地理を学んだ名高い政治家、蔡温(さいおん)だったと思われる。蔡温は、測量官の来琉から16年後、北部の羽地大川の改修工事で針竿測量を初めて実施した。
 その2年後、1737年には「琉球国之図」の測量事業(乾隆検地)が着手された。王府の役人が測量担当チームを組み、大勢の住民を動員して、沖縄諸島に設置した約1万基の印部石ネットワークによる測量を実施したのである。「針竿(ハリサオ)測量」と呼ばれるもので、近代測量の三角網による測量と同じ原理だ。
 1750年までに、今の市町村基本図に相当する「間切島針図(マギリシマハリズ)」を作製した。
  乾隆検知の測量事業は、伊能が1800年に全国測量を開始する63年前のことである。1796年には、琉球の測量指南書である『量地方式集』を著した測量家の高原筑登之親雲上(タカバルチクドゥンペーチン)が、各「間切島針図」を縮小接合して、1枚の「琉球国之図」に仕上げた。
  測量官の来琉は、琉球に重要な技術を伝えたという点では、とても重要な役割を果たしたと言えるのではないか。
 琉球の測量については、「伊能忠敬より早い琉球国の測量」を「ココログブログ」に
アップしてあるので読んでいただきたい。

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