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「冠船日記」を読む。日本刀の献上

「冠船日記」を読む

 台湾大学には、琉球の歴史や文化を研究するうえでとても貴重は史料が保存されている。台湾が日本の植民地とされていた戦前に、当時在学していた日本人らによって収集されたものだ。沖縄は戦災で大事な史料が焼失したが、台湾大学では保存されていた。その史料類が『國立臺灣大學圖書館典藏琉球關係史料集成』として刊行された。『第一巻』には、「冠船日記」「親見世日記」が収録されている。ありがたいことに、現代日本語の訳文がついており、素人には嬉しい。
 日記は、首里王府の評定所が記したもの。評定所とは、王府の最高機関であり、摂政(国王の諮問職)・三司官(実際の政治を統轄)・諸長官・次官の表十五人で構成されている。
 その中から、私流に関心のあるところを紹介してみたい。最初は「康熙58年(1719年)亥8月 冠船日記」である。

 冠船とは、中国から琉球国王の認証のため皇帝の勅使である冊封使(さっぽうし)が乗船してくる船のことである。この「冠船日記」は、第二尚氏13代の尚敬王の冊封のために、正使・海宝(かいほう)と副使・徐葆光(じょほこう)が来琉した際の記録である。1719年8月1日から29日までの記録である。この時は、600人を超える使節団一行で、しかも6月1日から翌年2月16日まで252日、9か月におよぶ長期滞在だった。日記は、そのごく一部である。
 といっても、とても興味深い事柄がいくつも登場する。
                  封舟
           冊封使が乗船してくる封舟(冠船)=「中山伝信録」から
                 
帰国して徐葆光が著した『中山伝信録』は、当時の琉球王国の様子、なかでも冊封儀式や琉球側の歓待の宴の模様など詳述されて、冊封使が著した著書のなかでも最も読まれていて有名である。ただ、そこには琉球側との間で発生したトラブルについては、あまり書かれていない。「冠船日記」を見ると、わずかな間にもいくつものトラブルが起きている。

 日本刀を欲しがった測量官
 まずは、献上品をめぐる問題である。
 この時に冊封使一行には2人の測量官が乗船していたことで知られる。中国では、1708年に康熙帝がフランス人宣教師の協力で全国的な測量を行わせていた。琉球への使節団にも、皇帝の特命で2人の測量官が随行していた。「かれらが観測した琉球の緯度、経度およびそれによって計算される福州からの距離もここに(『中山伝信録』)記載されている」
(夫馬進編『使琉球録解題及び研究』、岩井茂樹「徐葆光撰『中山伝信録』解題))。
 この測量官に対して、冊封使と同じく武具を献上することを求められたようだ。
 8月5日 山田親雲上(注・ぺーちん。中級士族に相当する者の称号)ほか19名の親方(注・うぇーかた。士族の最高の称号)、親雲上の連名による「覚」は、琉球側の困惑した様子がうかがえる。
 「(冊封使とともに渡来した)測量官は、琉球側が招いた使者ではなく、冊封使とは役目も異なり、さらに不意に渡来された方々である。琉球は窮迫しているので、進上物を少なくし、とりわけ武具の献上については強くお断りして、その代わりに銀を進呈するよう働きかけよとのご指示を受けており、以下にその経緯を申し上げる。
 右のように指示されたので、測量官への進上物は、冊封使に進上する分を減らして差し上げ、かつ武具はこの間準備していないので、代銀の進上について河口通事(注・かこうつうじ。福州人で琉球語通訳兼相談役の者)と事細かに相談した」
 測量官は、中国側の都合で勝手に来琉してきた人物。測量官が来るとそれに随行する人員も増え、歴代の冊封使一行でも最大級の使節団になった。王府の負担も増大する。招からざる客人が来て、冊封使と同格だから、進上物も同じものを出せ、というのはかなれ勝手な要求ではないだろうか。
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         首里城で再現された冊封儀式で詔勅を読み上げる冊封使
 ところが、河口通事は「測量官は冊封使と同格で双方とも勅使である。(そのため)進上物に差別があっては決して筋が通らず、礼を失することになる。」と厳しく述べてきた。
 琉球側も、河口通事の言い分だけでは(王府の高官は)納得しないので、冊封使へ内々に伺うようにとの指示を受けた。そこで松堂親雲上を派遣して左勅使(注・冊封正使・海宝のこと)の御子息の取り次ぎでお伺いを立てたところ、「測量官2人は皇帝の御子たちの師匠であるので、皇帝と親しい間柄としてお仕えしており、その権威は重い方々である。その上、皇帝の使者(勅使)であるため、どこにおいても冊封使と同格にせよと皇帝から命じられた趣旨があるので、進上物の変更は道理に合わない。」。しかも「「冊封使と連名で告示文が出されており、かつ開読(注・かいどく。冊封の際の詔勅の読み上げ)の時や崇元寺(注・歴代国王の霊位を祀る国廟)での諭祭の時も冊封使と同格に振る舞っており、日常の礼式等においても冊封使と同輩の挨拶をしているため、進上物に差別があっては、全く理に合わないものと思われる」との返答だった。
 測量官は冊封使と同格であり、皇帝の子息の師匠で権威は重いので、進上物に差別があってはならないと、一歩も譲らない。
 困った琉球側であるが、かといって、武具は準備していないので、進上できない。河口通事を通して丁重に測量官へお断りした。
 
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