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レキオ島唄アッチャー

元が来襲した瑠求は沖縄か、その1

 元といえば、日本を襲っただけでなく、琉球にも2度軍を派遣したということが『元史』外夷列伝のなかに記されている。
 元は日本には、1274年の文永の役、1281年の弘安の役と二度にわたり襲ってきた。瑠求に来たのはその10年後である。
中国では、時代によって瑠求、琉求、琉球と表記が変わっている。『元史』は瑠求、『隋書』は琉求と表記する。
 
「低い島」に200人で上陸
元史』の現代語訳がないので、わりあい『元史』の原文にそって要約している新屋敷幸重氏の『新講沖縄一千年史』から引用する。
 <元の世祖の至元28年(西暦1291年)の9月、楊祥というものが、兵6000をひきいて瑠求に行って帰順を勧め、命に従わないときは、これを攻略してきたいと申し出て、世祖の許可を得た。
 そこで福建生まれの書生呉志斗という者が案内役となって明くる年の3月29日に福建汀州路から船を出し、その日の巳の刻(今の午前10時から11時)になって、洋中、真東の方向にあたって、長さ50里ばかりの低い島を望んだ。この時、楊祥は、これは瑠求国だといったけれども、もう一人の将軍は、それはどうだかわからないと言い張った。そこで楊祥は自分から低い山の下に舟を寄せ、軍官に200人の兵を小舟11隻に積んで、フィリピン出身の通訳をつれて上陸させた。ところが島人には通訳の言葉が通じないで、とうとう戦い合う結果になり、3人の死者を出したので、そのまま4月2日に駐屯地の澎湖(ほうこ)島に引きあげたという。それから世祖が死んで成宗の元貞3年、西暦1297年(注)の9月に成宗皇帝は、福州の張浩らを瑠求に派遣して招撫せしめたが島民はそれに従わなかった。張浩らは仕方なく、島民130人をとりこにして帰ったということである>
 注・『元史』により訂正した。  

 これは「元史」に記されている史実である。
 しかし、宋や元の時代の中国では、南西諸島や台湾を漠然と「瑠求」と呼んでいたようで、ここでいう「瑠求」が、沖縄なのか台湾なのか、確定する史料がないとされてきた。
 はたしてそうなのか。私は、『元史』外夷列伝の記述をよく読めば、瑠求とは台湾でなく、沖縄だと判断できると考える。
「琉球」が明確に沖縄を示す言葉として認識されるようになったのは、 1372年、明の洪武帝が中山王の察度に使者楊載を送り、入貢を要請。察度が泰期を派遣して朝貢して以来と見られる。山北、山南もそれぞれ朝貢するようになった。明代には、沖縄は「琉球」、台湾は「小琉球」と呼び、区別するようになっていた。なぜ、大きな島の台湾が「小琉求」なのか、よくわからない。
「元史」は明の1369年(洪武3年)に成立したとされる。元の瑠求侵攻から70数年後である。その時点で「琉球」は沖縄の呼称となっていたのかどうかは不明である。
     
    元寇
         元の日本への襲来の絵
 琉球人が団結して敗退させた
 「元史」の記録を裏付ける史料が琉球側にもある。
 それが、琉球王府の史書『中山世譜』『球陽』の英祖王の項である。英祖は1260年に即位した。
 <翌年、国内をあまねく巡視し、耕地の境界を定め、農民にひとしく田畑を分配した。穀物は豊かに稔り、貢租もとどこおりなく納められ国が大いに治まった。同年、浦添の地に墓陵を築き、極楽山と称したという。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)>

 王府の正史は、次のように記している。
 元(げん)の世祖(フビライ・ハン)が1291年、6,000の兵をつけて「瑠求」を討たせることを申請し、金符を給せられ、詔をたまわって渡航した。一つの島に上陸したが「相戦不挫」(後退し)我が国に至らず「引還」したこと。
 フビライの死後、1296年、元の成宗により福建省都鎮撫張浩等が軍を率いて再び「瑠求」に来たが、沖縄人は力を合わせて拒(ふせ)ぎ戦ったので、張浩は手のほどこしようがなく、島民130人を生捕って帰った(『中山世譜』)。
 「元の成宗、省都鎮撫張浩等を遣はし、軍を率ゐて国に抵らしむ。時に我が国臣民、深く王化に沐す。皆身を委てて国を愛する心有り。元兵の来侵を見、国人力を合せ拒ぎ戦ひて降らず。張浩、計の施すべき無く、卒に一百三十人を擄にして返る」(『球陽』)
 元の来襲にたいし、琉球の島人が心を合わせて戦い、元に屈しなかったことが誇り高く記されている。
 この元の侵攻とのたたかいは、羽地朝秀が編纂し1650年に成立した『中山世鑑』の英祖王の項には記述が見られない。
蔡鐸が中心になって編纂し、『中山世鑑』を修正して1701年に完成した『中山世譜』にもその記述は見られない。蔡鐸の子の蔡温が加筆・修正した蔡温版『中山世譜』で初めて記述が現れる。
 では、『中山世鑑』に記述がないから、信用できないのだろうか。
 たとえば『中山世鑑』には、第一尚氏の5代目、尚金福が死去した後、世子の志魯と尚金福の弟、布里が争った「志魯・布里の乱」について、記述がない。第二尚氏の尚真王は在位50年におよび琉球の黄金期を築いた国王である。ところが、第二尚氏の初代尚円王とわずか半年で退位した第2代尚宣威王、第4代の尚清王のことは書きながら、特筆されるべき第3代尚真王だけは何も記していない。とても奇妙な王府の正史である。
 蔡温は、1719年に来琉した徐葆光から、尚貞王の冊封のため1682年来琉した汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』その他の冊封使録を入手してこれを精読した結果『世鑑』の誤りや欠落を知り、これを正すことを志したと蔡温自身が記している。
汪楫著『中山沿革志』は、元の瑠求侵攻について、つぎのように記述している。
 <元の世祖の至元28年(1291)、海船副万戸の楊祥(ようしょう)は、6千の軍をひきいて、往って降伏させることを申請し、金符を給せられ、詔をたまわって渡航した。大洋に出て、たちまち一つの島を占拠したが、軍陣が少し頓挫し、琉球につかないうちに、引きあげてしまった。成宗の元貞3年(1297)、福建省の平章政事の高興(こうこう)が、琉球を征討すべきことを言上し、省の都鎮撫の張浩(ちょうこう)らを派遣して征討させ、130人をとりこにした。命令に従がわぬことは、もとのままであった(原田禹雄訳注『汪楫冊封琉球使録三篇』)>
 注・万戸(ばんこ)は、トゥメン・モンゴル系・デュルク系民族の軍事・行政集団(ウィキペディアから)







 
     
                     
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コメント

尖閣600年史研究のいしゐのぞむです。
汪楫『中山沿革志』の情報源は何であるのか汪楫自身が書いてますし、全然あてになりません。蔡温も敘述の筆致から何から全部駄目で、基本的に雜駁に集めてるだけの書です。しばらく讀めば分かる事です。ただ、筆致が俗に墮しながらも和習だけは少ないのが取り柄です。以上、失禮しました。こちらのブログは時々拜見し、啓發を受けてをります。


2021-03-20 Sat 07:46 | URL | いしゐのぞむ [ 編集 ]
いしゐのぞむさん。
コメントありがとうございました。
ご指摘の点は、よく注意して読むように心掛けたいと思います。
2021-03-20 Sat 10:03 | URL | 沢村昭洋 [ 編集 ]

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