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「琉球民謡の変容、その続編」。亀久畑節と東川根盛加後

 八重山の「亀久畑節」
 八重山古典民謡には「亀久畑節(かみくばたぶし)」という曲がある。これは、RBCの「民謡で今日拝なびら」では取り上げていない。しかし、前から「八重山古典民謡工工四」を見ていて、宮古民謡の「かにくばた」と同じ曲名なので、これは偶然の一致とは思えない。どちらかが影響を与えて生まれた曲ではないのかと気になっていた。
 今回、「かにくばた」の類似曲として3曲が比較されていたが、もう一歩踏み込んで、八重山民謡のこの曲を紹介しておきたい。
与那国島を発祥の地とする歌であるが、石垣風の歌い方では歌詞も旋律も例によって相当に変わっている」。當山善堂著『精選八重山古典民謡集』(三)はこのようにのべている。
 當山氏はこの曲の特徴について「八重山音階の変型」としている。
この曲の歌詞を當山氏は12番まで、喜舎場永珣著『八重山古謡』(下)は16番まで紹介している。歌詞は、両者によって順番と内容が多少異同がある。歌詞の全部は長いので抜粋する。
當山本を基本にし、喜舎場本から多少補った。
      
1、亀久畑 ういみぐち 登りょうり
(カミングバタ、ウイミグチに登って)
 (喜舎場本の歌意―亀久畑に田草取りに行って 南方の小高い所に 登って見たら)
4、女童(みやらび)ば 愛しゃーすば 巻き来(きょー)り
 (女の子を、好きな娘を連れてきて)
5、片手しや 田草取り 此ぬ手しや 首抱き
 (片方の手では田草を取り もう一方の手では可愛い娘の首を抱き)
8、夜やなり 日や暮りてぃ あばとぁぬ
 (夜になり日が暮れてしまった なんと心細く怖いことよ)
9、くいてぃ迄 かたんぐや迄 我(ぱぬ)送り
 (クイティまで、カタングヤまで 私を送ってちょうだい)
10、貴女(んだ)ま行(ひ)り ばぬま行るん 女童
 (貴女はもう帰りなさい、私ももう帰るから娘さん)
最後は喜舎場本から。
16、ンドゥティマディン ニザシキマディン バヌウグリ
 (戸口までも 寝座敷までお出でよと手を取って離さない 二人寝床で恋の夢を結んだ)
        
   
 當山氏の解説を紹介する。
 <若夏のある日、恋し合っている島仲村の男性と比川村の女性が二人で仲良く田んぼの草取りをしている場面から物語は始まる。「片手では田草を取り、もう一方の手では彼女の首を抱いて」のくだりは、恋する男女の健康的な姿が目に浮かび、微笑ましくもあれば気恥ずかしくもあり、田草取りはちゃんと出来たのであろうかと気になる描写ではある。
 それはさておき、いつの間にか日が暮れあたりは薄暗くなってきた。そこで、娘は「アバツァヌ!(わたし怖いわ、どうしましょう?!)」と男にすり寄って、自分を家の近くまで送ってくれるよう頼む。女は次から次へと送り先を延ばし、ついに自分の寝所まで男を誘い込むという筋書きである。>
 <カミクバタ=田んぼの地名で、「亀久畑」の字を当てる。地元本(福里武市・宮良保全・冨里康子共著『声楽譜附 与那国民謡工工四』)では「カミングバタ」。元来は畑地であった所の一部を田んぼにしたのだが、この歌では古い呼び名を用いているようである。>

 喜舎場氏は、曲名を「カミングバタドゥンタ」(与那国)としている。「ドゥンタ」とは「ユンタ」のことである。
 <亀久田は島仲部落の南方にある田圃である。恋女は比川部落の者で、そこは田圃からは東3キロぐらいのところにある。男は島仲の者で、二人は遠路を通って恋愛をしていた。田圃は祖納部落から約3・5キロほどにあった名高い沃田であった。最初は畑であったが、のちに田圃に開田したと古老は伝えているという(『八重山古謡』(下))。>
 喜舎場氏は、「昭和16年(1941)に亀久田の観光を試みたが、その周辺の景色は何となく詩情をそそる風光明媚な所であった」(同書)という。

 この曲は、入口は亀久畑という田畠の草取りの情景から始まるが、若い男女の恋模様が物語のように歌われている。
 喜舎場氏は次のように解説している。
 <当時の風習として二人切りの田草取りはいたって稀れであったところから考えても、水も漏らさぬ二人仲であったように考えられる。なお原歌の中にも「片手で恋女の首を抱き片手で田草を取った」と謠ったところから察しても、そんな田草取りはほんの稀れである。この古謠は性の自由解放を赤裸々に歌ってある恋愛詩である(『八重山古謡』(下))>。
田畑での恋愛模様をおおらかに歌う曲想は、八重山古典民謡のとっても面白いところである。
 
 与那国のこの曲は、歌の旋律、流れは宮古民謡の「かにくばた」にかなり似ている。しかし、大きな違いは、宮古の曲の際立った特徴がみられないことである。その一つは、うたもち(前奏)がまったく異なり似ていないこと。もう一つは、囃子が与那国の曲は「サースリ」という単純にすぎず、宮古の曲のような「ニングルマトゥマトゥヨー」という面白い囃子とはまるで異なることである。
加えて、宮古の曲はとてもテンポが軽快であるが、与那国の曲はもっとゆったりしている。この曲はもともと、三線なしで歌われていて、のちに三線で歌うようになったのだろう。だから前奏はあとから付けられたのかもしれない。
 といっても、与那国と宮古の両曲は、曲名は同じであり、歌の旋律も似ている。しかも注目すべきは「田畑で女性を抱く」という興味深い情景の歌詞が両曲とも入っていることである。これは偶然の一致とは思えない。与那国と宮古のどちらが先かはわからないが、何らかの影響を及ぼして生まれた曲ではないだろうか。

 宮古の「かにくばた」が与那国に伝わったとしたら、前奏から始まる軽快なテンポ、面白い囃子も取り入れるだろう。わざわざテンポを遅らせ、前奏を変え、囃子を切り捨てるだろうか。疑問がわく。沖縄民謡の伝わり方を見ると、八重山民謡には、早弾きの宮古のクイチャーや奄美諸島の六調はそのまま伝わっている。八重山民謡の「鳩間節」「川平節」などゆっくり歌う曲が、本島では早弾き曲にされている。そんな事例を見ると、与那国島の「亀久畑節」の方が古くからあり、宮古に伝わり、前奏や曲のテンポ、囃子など編曲されたのではないか、と思いたくなる。

 ところが、ここで注目されるのは、与那国の「亀久畑節」は、奇妙なことにその歌詞が宮古島のもう一つ別の民謡と似ていることである。
   

 仲宗根幸市氏によれば、娘が男性に「家まで送ってください」と誘い、男性が「もう自分はここで帰る」といいつつ、女性の情熱と才知でついに、女性の家まで送らされ、寝床まで誘われるとういうこの歌の後半は「宮古民謡の『東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)』と一部内容が似ている(『琉球列島島うた紀行 <第二集>八重山諸島 宮古諸島』)」という。
 「東川根盛加後(あがずかーにむずかぐす)」の歌詞も是非知りたいところだ。幸い、仲宗根氏の著書に歌詞と解説が掲載されている。
 「71番まで歌詞のある長編のクイチャーあーぐ。東川根盛加後のクイチャーをみに行った女性が、途中で美男子の若按司に会い、あれこれ理由をつけて「私を家まで送れこむって」とアタック。そして、家の門まで、家の仲間で誘い込む内容。」
「この長編のクイチャーあやぐの後編は、与那国の「かみんぐ畑ドゥンタ」と酷似している。…宮古のクイチャーあやぐが祭りをみに行く途中出会った男を誘う内容なのに対し、与那国のドゥンタは、田草とりの帰路意中の男性を誘い込むのである」
           
      
 なるほど、男性に送らせて家に誘い込む物語の構図はソックリである。
宮古の「東川根盛加後」は歌詞が71番まである長編の曲とすれば、歌詞が4分の1ほどしかない短い与那国の曲が元歌として影響をあたえたとはとても思えない。逆に宮古の長編の面白い恋愛物語が、与那国に伝えられ、一部が「亀久畑節」の歌詞に取り入れられたと見るのが自然ではないだろうか。

 「亀久畑節」の旋律は「東川根盛加後」とは似ていない。ということは、旋律はもともと与那国で歌われていたものに、宮古の「東川根盛加後」の歌詞が面白いので、そのエキスを取り入れたということだろうか。もし、宮古の「かにくばた」が元歌で与那国にそれが伝わったのなら、旋律も歌詞もそのまま歌えばよい。旋律はそのままで、歌詞だけ別の「東川根盛加後」を取り入れるということは通常、考えにくい。双方からの影響が見受けられる。

 深いつながりがあった宮古島与那国島
 さて、与那国島宮古島は、遠く離れているのに、石垣島などを介さずに直接に影響を及ぼすような関係にあったのだろうか。実は離れていても、古くから密接な関係があった。
 かつて、与那国島宮古島の管轄で、多良間島は八重山の管轄だった。宮古島は琉球国が形成される14世紀ごろには、既に主として東南アジア方面との貿易を運営し、与那国島を貿易の中継地としていた。
 1500年に、首里王府に反乱を起こした石垣島のオヤケアカハチを、宮古の仲宗根豊見親の先導する王府軍が征討した後、1501-1503年頃に地理的に不合理として両島の管轄を交換したという。
 1522年には、与那国島の首長だった鬼虎が首里王府に従わず、王府の命で宮古の仲宗根豊見親(空広)軍により討伐されたが、鬼虎は、もともと宮古島の出身ともいわれる。興味のある方は、このブログで「与那国島はかつて宮古島に属していた」をアップしているので、そちらも読んでいただきたい。
 このように深い関係にあり、人の交流があったのだから、文化の面でも民謡が島から島へ伝わり、影響を与えたことは容易に想像できる。文化的には先進地だった宮古島から与那国島に伝わったのか、逆に宮古人が与那国の歌を持ち帰り、取り入れたのか。むしろ相互に影響し合ったのかもしれない。
 
 これまでの検討を踏まえて、与那国の「亀久畑」と宮古の「かにくばた」とは、前奏、囃子までソックリではないが、何等かの影響下で歌われるようになった相関関係のある曲ではないか、というのが私なり結論である。
もしそうなれば、すでに異名同曲とされる宮古の「かにくばた」と本島の「高離節」「にんぐるまーと」に加えて、与那国の「亀久畑」までなんらかの糸でつながることになる。
 以上、あれこれと書いてきたけれども、似た曲があるからと元歌はどれかばかり詮索するのは野暮なことかもしれない。民謡が島から島へ伝えられ、変容しながら、それぞれの場所で住民に歌い継がれるのが、そもそも民謡の姿であるからだ。

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コメント

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2020-07-09 Thu 13:53 | | [ 編集 ]
コロリさん。コメントありがとうございました。
確かに、聞き比べてみると曲調が似たところがありますね。
私は、まだ「亀久畑節」は歌っていないですが、歌えるようになりたいですね。
2020-07-09 Thu 23:00 | URL | レキオアキアキ [ 編集 ]

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