レキオ島唄アッチャー

多良間島は八重山だった。その2

平久保にある多良間田
平久保半島の東海岸の北部、崎山川の北側には、昔、多良間島の人々が舟で通って米を作っていたといわれている水田の跡が残っている。その名も多良間田(タラマダー)と呼ばれている。その由来について、『宮古島記事』(宮古史料)には、多良間島は物が不自由であり、八重山島に海を渡る。多良間島より28里のところ、平久保村に渡り、田を耕し、あるいは材木を求めた。これが平久保村に多良間田がある由来である、と記されている。(『石垣島の風景と歴史』から)
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 多良間といえば、サトウキビに栽培が盛んで、多良間黒糖は美味しいと有名だ。円形の島は、山や河川もないので、水田には向かない。米を作るために、海を渡って耕作に来ていたとは、苦労がしのばれる。
戦後も、ヌスクマーベー(野底マーベ)から静かに流れ下る西浜川の南方、古くは野底村のあった地一帯に、開拓の村として新たに多良間集落が誕生したという。
 1954年入植した方々の出身地は、沖縄本島(石川市)、宮古(多良間村、伊良部村、平良市、上野村、下地村、城辺町)、八重山(大浜)などで、入植戸数は41戸、人口199人だった。集落名の由来は、多良間島の出身者が多くいたことから命名されたそうだ(同書から)。
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             多良間産の黒糖。離島フェア―で
  
明和の大津波で多良間島民を助けた
明和の大津波(1771年)の際に、八重山島は甚大な被害を受けたが、餓死者が出ていた多良間島の島民を助けたという歴史もある。
「多良間島は3月10日に大津波が揚がり、人びとも諸物も引き流された。そのうえ、小虫が発生し飢餓になった(小虫はイモの葉を食いつくすので実が入らず食料がなくなるという)。宮古島から何度も飢餓米を積んで行き、ようやく暮らしてきた。
しかし冬になり、宮古島からの渡海もなく、餓死する者が多くなった。それで人々を八重山に行かせるので、命を助けていただきたいと、多良間島の役人が飛船(ヒセン、飛脚船)でやってきた。12月に楷立船(いまの町村にあたる「間切(マギリ)」で有した貢物運搬用の山原船)二艘で老若男女227人が若文子(ワカティクグ、蔵元の下級書記)志慶真仁屋(ニヤ、新参士族)・与那覇仁屋の宰領(運送に付き添う監督役)でやってきた。
 上納米の内から一人に付き一日に米四合先ずつ支給して気力が付き次第、村々へ配分して働かせ、翌辰(1772)年2月10日に多良間島へ帰した」
  『八重山島年来記』にこんな記述が見える。多良間島が宮古島の所轄になっていても、同じ先島の中で、助け合う関係にあったのだろう。
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