レキオ島唄アッチャー

力道山を指導した沖識名

 戦後、日本プロレス界のヒーローだった力道山にプロレスを教え、コーチをしたのは、沖縄人の沖識名(オキシキナ)だった。彼について、耳にしたことはあったが詳しいことは知らなかった。2014年6月27日付の「琉球新報」で仲村顕氏(県立芸術大学付属研究所共同研究員)が書いている。「眠れる先人たちー墓所にたずねる琉球・沖縄史」という連載記事である。この記事をもとに、紹介したい。
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  写真は「プロレス桃源郷へのいざない」ブログからお借りした。
 沖識名はリングネームで、本名は識名盛雄(シキナセイユウ)といい、与那原町与那原で1904年に生まれた。父は、ハワイに移民をしていたが、1912年に父が呼び寄せて盛雄は母とともにハワイに渡った。
 盛雄は、体格に恵まれ、小学校を卒業した頃から、柔道と相撲を習い始めた。ハワイでは沖の海という四股名で活躍し、ハワイの相撲チャンピオンにもなったそうだ。
 プロレスラーに転向したのは1931年のこと。日系人レスラーの三宅太郎に弟子入りした。プロデビュー後は、他のレスラーが持っていない技を武器にして米本土でも人気レスラーになっていったという。
 引退した4年後の1952年、相撲からレスラーになった力道山が、教えを乞いにハワイにきた。沖識名は力道山を徹底的に仕込んだ。沖識名のもとで修業を積んだ力道山は、53年に日本に帰国し、日本プロ・レスリング興業を設立した。
 54年には、日本における本格的な国際試合が行われた。プロレスは前年から放送が開始されたテレビで中継放送もされ、爆発的な人気を得て、発展していった。
 この国際試合のとき、沖識名はNWA世界タッグ王者のシャープ兄弟とともに来日し、試合のレフェリーをつとめた。
以後、19年間にわたり、日本のリングでレフェリーとして活躍した。
1973年にリングを去り、83年にハワイ・ホノルルで亡くなった。
 引退式では、日本プロ・レスリング興業から感謝状が贈られた。そこには、次のように記されている。
 「角界よりプロ・レスラーとして転向の不滅の英雄故力道山をハワイにおいて育成し今日の日本プロ・レスリング界発展の礎を築いた功績は誠に偉大であります」
 力道山といえば、子どもの頃、高知の田舎でもテレビの前に人だかりができて、熱狂的な人気を得ていたことを思い出す。そのヒーローを育て、試合ではレフェリーとして活躍したウチナーンチュ(沖縄人)がいたことは、思いもよらないことだった。
 沖縄が移民県であり、ハワイ・北米にたくさんの県民が渡ったから、日本より早く戦前からプロレスに触れ、レスラーとして活躍する場に恵まれたのだろう。お墓はハワイにあるので、残念ながら訪れる機会はない。
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