レキオ島唄アッチャー

変容する琉球民謡、八重山から本島へ。終わりに

 終わりに
 これまで、八重山古典民謡が、どのように沖縄本島で歌われ、変容をとげてきたのを見てきた。
改めて「民謡の成り立ち」を考えてみると、民衆が生きて、働き、暮らす日々の営みの中から生まれてきたのが民謡である。近代西洋音楽のように、五線譜に書かれた楽譜は存在しない。人々の口承で歌い継がれてきた。人々のつながりを通して、各地に歌は伝わり広がっていった。歌い継がれ、広がっていく長い道程の中で、その土地の環境や条件によって歌い方も歌詞も、変化をするのは、当然のことである。
 八重山古典民謡そのものも、石垣島の周辺の離島でたくさんの歌謡が生まれたが、それが石垣島をはじめ八重山全体に広がる中で、さまざまに変化をしている。同じ曲が、島ごとに、シマ(集落)ごとに歌い方が微妙に異なる。ましてや八重山から王府のある沖縄本島に取り入れられれば、本島流に歌詞や旋律も加工され,変容をとげることは、自然な流れである。
 それに、琉歌を曲に載せて歌う沖縄古典音楽や沖縄民謡は、同じ旋律に別の琉歌を載せて歌うこと、つまり替え歌で歌うのは、一つの音楽文化にもなっている。いつの間にか、元歌、本歌よりも、替え歌の方が親しまれ、有名になっている曲も珍しくない。そこにまた、民謡ならではの面白さと魅了もある。
 八重山民謡を取り入れた沖縄本島の曲目は、すでに古典音楽、琉球舞踊、沖縄芝居に組み込まれ、長く演奏され、みんなに愛されている曲が多い。
                   古見ぬ浦節

 写真は新作組踊「聞得大君誕生」で「古見ぬ浦節」が使われた場面(下の写真も含めてNHKテレビ画面から)
 なぜ八重山民謡が沖縄本島でもたくさん歌われるようになったのだろうか。
 そこには、琉球王府時代からの沖縄の芸能の歴史と伝統が深くかかわっている。
 琉球王国は、中国に朝貢して、東アジア各国との中継交易を行うことによって栄えてきた。中国皇帝の勅使として国王認証のため派遣される冊封使(サッポウシ)を芸能などでおもてなしすることは、国家の一大行事だった。芸能公演のために踊奉行(オドゥイブヂョウ)という役職まで設け、踊り手、演奏者など任命した。王府の役人たちは、大事な任務として歌三線や舞踊の腕を磨いた。そのなかで「古典舞踊」が踊られ、歌三線、台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」が創造された。琉球は「武」より「文」「芸」が重んじられる国であった。
 首里王府の芸能自体、宮廷の中だけで生まれ、発展するものではない。
 「首里王府でも積極的に地方の芸能を吸収することに努め、八重山の大浜の當銘仁屋(トウメニヤ、1779-?)に命じて八重山の歌を首里士族たちに指南させるなどのことも行っている。伊波普猷の言を借りれば、『農村民から新鮮な血液を貰った報酬に、彼等はかうして優美な性情を農民に分与したのである。』」(矢野輝雄著『沖縄舞踊の歴史』)
 琉球の各地・離島の豊かな芸能が首里王府にさまざまな形で取り入れられ、王府の芸能文化を豊かにしていった。
                  IMG_2365.jpg
 明治になり、琉球王国が廃止されて以降、王府で芸能にたずさわっていた士族たちは、禄を失った。那覇の街に芝居小屋を建て、身に付けた芸能を生かして、民衆を相手に芝居興行を営むようになる。庶民の民謡や生活を題材にした軽快な「雑踊り(ゾウオドリ)」が生まれ、沖縄芝居が作られ、民衆の人気を得た。沖縄芝居といっても、大和的な芝居の概念とは異なり、たくさんの民謡を取り入れた歌劇である。
 「組踊」にしても「沖縄芝居」にしても、そこで使われるたくさんの古典音楽や民謡は、演ずる劇、芝居の内容に合わせて歌詞を作り、元歌の旋律に載せて歌われる。
 だから琉球舞踊や沖縄芝居のなかで、たくさんの八重山民謡が取り入れられ、歌い踊られた。もちろん、八重山だけでなく、宮古島や久米島など離島の民謡も使われた。
 とくに八重山は「芸能の島」と呼ばれたように、八重山の島ごとに多様で豊かな民謡が生まれ、歌い継がれてきた。八重山民謡は本島とは異なる独自の魅力と価値をもっているので、本島で芸能に携わる人々は注目したのだろう。
 八重山民謡がいかに本島芸能に取り入れられてきたのかを見てきたが、芸能文化の全体を見れば、首里王府の芸能文化が八重山にも波及して、八重山の芸能にも影響を与えている面も大きい。
 首里王府から派遣された常駐の監督官・八重山在番が「琉球の芸能を伝授して、八重山の琉球化に成功」したといわれる。加えて薩摩の八重山在番も「近代日本の芸能文化を移入して、八重山の文化に貢献した」という側面もある(喜舎場永珣著『八重山歴史』)。
 八重山の芸能に及ぼした、沖縄本島、奄美諸島や薩摩・大和の芸能・文化の影響も見過ごせない。
 このように、沖縄の芸能・文化は、琉球弧の島々で長い歴史のなかで生まれた芸能が、互いに影響を及ぼしながら、世界に誇れる豊かな芸能文化を花開かせていると言えるのではないだろうか。
 2014年6月3日                    文責・沢村昭洋

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