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『ジョン万次郎琉球上陸物語』はどのようにして生まれたのか、その1

 なかみや梁(本名・宮城稔)著『ジョン万次郎琉球上陸物語』が2022年3月10日、 東京の冨山房インターナショナルから出版された。 万次郎が14歳で出漁して遭難。無人島に漂着した後、米国の捕鯨船に救助されて、日本人として初めてアメリカに渡り、1851年、10年ぶりに帰国の途に着いた。漁師仲間と3人で最初に上陸したのが琉球の現在糸満市の大度海岸だった。現豊見城市翁長で半年間過ごし、薩摩、長崎を経て52年、土佐に帰り着いた。
 万次郎についてその生涯を描いた伝記、万次郎の功績などについての著作はたくさん出 版されている。沖縄でも島袋良徳氏、長田亮一氏らが万次郎の生涯を描いている。ただ琉球 での半年間に焦点を当てて、その行動や心情を、大胆な推理を交えて描いた感動の物語は、 なかみや氏の作品が初めてである。
               ジョン万次郎琉球上陸物語写真
    

 この著作が出版に至るまでには、奇跡的なストーリーがあり、それ自体が一遍のドラマ である。あたかも万次郎がグソー(天国)で応援してくれていたのではないかと思われるほ どであった。
 糸満市では2018年2月、万次郎の上陸記念碑を大度海岸に建立しよう永年の願望と 運動が実り、土佐の方角を指さした万次郎の銅像が建立された。台座には万次郎の漂流から 琉球上陸までの経過をわかりやすいイラストで描いた説明板が取り付けられた立派な記念碑である。
  
 この運動を牽引してきたのが、高知出身で糸満市在住の和田達雄氏だった。現在、琉球万次郎会副会長である。当初、万次郎について一応の知識は持っていたが、2011年、東京 から糸満市米須に移住して、ある人からの紹介で島袋良徳氏の『ジョン万次郎物語』を読ん で、改めて万次郎の先駆性や偉大さ知り、「郷里高知の出身でこんなすごい人がいたんだ」 と感銘を受けた。和田氏は、沖縄の復帰前から通信機器の販売の仕事で那覇市に赴任していた。沖縄で知り合ったのが宮城稔さんである。それ以来友人として付き合ってきた仲である。 宮城さんは、文学愛好家が集う「南涛文学会」のメンバーとして、同人誌「南涛文学」で 「山北の賦」「ヤードゥイ村」「落城」「平敷屋朝敏物語」など小説や戯曲を数多く発表して きた。「ノブちゃんのひとり旅」で第39回琉球新報短編小説賞佳作。2020年には「ばばこの蜜蜂」で「沖縄タイムス」の沖縄新文学賞を受賞してきた。とくに歴史に題材をとった作品を好んでいた。
 和田氏は、古い友人の宮城さんに対して、万次郎の琉球上陸と滞在について、小説で書けないだろうか、と打診した。それは8年ほど前になる。 宮城氏は、「万次郎が琉球に上陸したとしても、半年間、豊見城市翁長の高安家で囲われて暮らしただけで何も行動を起こしたわけではなく、史料も乏しいなかで、とても小説にはならないよ」 と断っていた。
そんな宮城さんが、万次郎の小説を書く創作意欲がわいてくるのには、そのきっかけと条 件を必要としていた。

 はじまりは万次郎の上陸時間への疑問
 和田氏は、上陸記念碑の建立をすすめる過程で、一つの疑問が生まれた。それは、万次郎ら3人が琉球の大度海岸、当時の小渡浜に漂着して上陸した時間である。1851年旧暦1月3日の朝のはずだが、朝ではなく午後2時頃だとする説が権威を持ち、定説化されつ つあった。というのも、万次郎の3代目にあたる中浜明氏は、薩摩や長崎、土佐での万次郎 取り調べ記録では、3日朝上陸したと記載されていたので、それに沿って記述していた。
          IMG_5442_20220622151837c83.jpg
           ジョン万次郎上陸記念碑前に立つ和田達雄さん
 と ころが、万次郎4代目にあたる中濱博氏は、取り調べ記録は写本であり、そのまま信用でき ないとして、独自に当時の船の入港記録、海岸に広がるサンゴの岩礁、上陸時の潮の満ち引きなどを検証した結果、大度海岸は岩礁が広がり干潮でなければ上陸できない、当時の潮の満ち引きは3日朝は満潮であり上陸できない。干潮時間は午後2時であるとして、朝上陸説を訂正し、午後2時上陸と記述した。『中浜万次郎集成』を編集し、みずから執筆もした万次 郎研究者の川澄哲夫氏も、博氏と同様の見解を表明した。沖縄県内の研究者の間でも、午後 2 時上陸説が研究成果として影響力を持ってきた。
 しかも、偶然にも万次郎の漂着時の対応など記録した琉球王府の古文書でも、「午後 2 時に、小渡浜に漂着したので経過を聞いた…王府に連絡する」という意味の記述があり、表面的に読むと、あたかも午後 2 時に上陸したかのように解釈できる。そのため、中濱博氏らは、この文書の記録を万次郎らの上陸は午後 2 時であるという見解を裏付ける証拠として採用してきた。
 和田さんが疑問に思ったのは、若い時から大度海岸に行き海によく潜っていた。移住してきたのが大度海岸に近い米須であり、この海岸の状況と潮の満ち引きなど知り尽くしていた。その経験から、岩礁が広がる大度海岸(小渡浜)は、干潮時にはボートで上陸地点のサシチン浜に漕ぎつけることはできない。満潮時こそボートで漕ぎつけることができる。 万次郎らの上陸は 3 日朝でなければおかしい。午後 2 時の上陸はありえないのではないか。
 
 また、万次郎らが上陸後、摩文仁間切(まぶにまぎり、今の町村にあたる)の番所に行き、調べを受けて那覇に向けて出発したのは午後4 時である。言葉も不自由ななかで、事情を聴取し、持っていた70余点にのぼる持ち物を記録し、食事もして、わずか 2 時間で出発することはとても無理である。この点からも朝に上陸 していたとみるべきだと考えた。
 この上陸時間についての疑問は、私も和田さんから聞かされた。だが、当初はそれほどこだわる問題なのか、と軽く思っていた。しかし、万次郎らが10年ぶりに帰国して、海外事情や技術の進歩などにとどまらず、当時、世界でも最先端のアメリカンデモクラシーの思想 と政治制度を、当時の封建的な幕府による支配下、外国との窓を閉ざす鎖国日本に持ち帰ったことは、当時の幕末の志士たちに大きなインパクトを与え、その後の日本の開国、明治維新、さらには自由民権運動にまで影響を与えたことを考えれば、琉球の大度海岸への一歩は、新しい日本へ向かった歴史的な一歩である。その一歩を正確にすることは、とても意義のあることだと考えるに至った。
   続く



 

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