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レキオ島唄アッチャー

時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その8

 坂本嘉治馬(1866~1938)
 出版業。慶応(1866)2年3月22日、染物業・喜八の長男として宿毛村坂ノ下に生まれる。先祖は邑主安東家の馬廻り役を勤めたが、父の代には家が貧しく染物業を経営していたので、彼も父の業を助けて、18歳まで家業を援けたが、父母に内密に毎日小使銭や商品の利益の一部を5銭、19銭と貯えた。明治17年(1884)青雲の志止み難く、その金を旅費として上京を決行。船便のある宇和島に行く口実をつくり、宿毛を後にした。
 親に内緒で上京へ
 <宇和島の瀬戸熊と云う宿屋へ落付くと、偶然にも同郷の元の友人矢野寅一君に出会わした。この人は郷里での大きな酒屋の息子で、家は富んでいる上、当時神戸の親族の銀行に勤めておられて、いわゆる錦を着て帰るのであったが、「君は何処へ行くのか」と尋ねられたので、事情を話すと「旅費はいくら持っているか」との事であった。「7円持っている」と云うと、「それでは足りなかろう」と云って10円を投げ出してくれた時は非常に嬉しかったが、何だか夢のような気持がした。自分は3年もかかって、やっと7円貯めたのに、いきなり10円と云う大金を貰ったからである。
 矢野君と別れ、直ちに神戸行の汽船に乗込んで神戸に無事上陸し、もと郷里で材木商をしていた愛媛県人で兼池という人の息子で、自分と最も親しかった同姓武太郎という友人を尋ねて、2、3日そこに滞在し、それから構浜行の汽船に乗込み横浜に着いた(富山房発行の「冨山房50年」の中の坂本嘉治馬著「追憶70年」から)。>
 
 小野梓の書店で働く
 横浜から東京に来ると、直に父の恩人、酒井融翁を番町に尋ねた。
 身の振り方を依頼したところ、融は東洋館という書店を経営していた小野梓に託した。小野は喜んで東洋館に雇い入れた。嘉治馬は勤勉正直によく勤務したので、大いに梓の信用を得た。小野はいつも東洋館に来ると奥の日本座敷に机を構え、「国憲汎論」の著述をし、事務も取っていた。店員は6、7人いった。
 明治19年(1886)、小野梓は病でたおれた為、東洋館の経営に一頓挫を来たした。彼は郷党の先輩で、小野梓の義兄小野義真を訪ねて、その窮状を訴えて援助を求めた。小野義真は援助を快く承諾した。

 冨山房を創立
 東洋館は次第に経営が行きづまり、遂に解散に追い込まれた。彼は途方に暮れたが、ついに独立を決意した。小野義真からは初金200円の資本をえて明治19年冨山房を創立した。富山房の名は彼の先輩小野義真が命名したものである。
 明治36年(1903)、国民百科辞典を出版すると評判がよく、よい売れ行きであった。これによって経営の基礎は固まった。この間に冨山房は幾度もの火災にあったが、常に復興に努力して社運は益々盛大となった。長年の努力と研究の結果、各種の辞典、専門書、教科書、雑誌等多くを出版し名実共に大出版会社となる。日本家庭大百科辞典、大日本国語辞典、大言海、漢文大系 国民百科大辞典、大日本地名辞書など冨山房の出版物として多くの人々に利用されている。
          阪本嘉治馬   
               坂本嘉治馬 
   郷里のため巨額の寄贈
 嘉治馬は公共心に富み、種々の慈善事業に浄財を投じた。特に宿毛町の発展については、非常な関心を持ち、進学出来ない貧しい家庭の子弟には惜しげもなく学資を結与して勉学させた。郷里に私立坂本図書館を建設して地方文化の向上に尽力した。神社仏閣に多額の寄付をしたこと。郷里の学校や公共団体に多くの図書の寄贈等、郷土のために巨額の経費を投じた。昭和13年(1881)8月23日没、73歳。
 嘉治馬の没後、嗣子守正氏は父の遺志をつぎ、嘉治馬の所有していた(元小野十三郎邸跡)七百一坪と坂本図書館施設のいっさいを旧宿毛町に寄贈し、第二次大戦中、金参拾万円を寄贈して宿毛中学校(現高知県立宿毛高等学校)を設立した。
 冨山房は、現在、冨山房インターナショナルとして、4代目の坂本嘉廣氏が会長、坂本喜久子(喜杏)氏が社長を務めている。書籍・雑誌の出版をはじめ印刷、教科書・教材の編集、大学生・高校生の必需品の販売している。
 ジョン万次郎に関して、子孫の中濱博氏、中濱武彦氏、中濱京氏の著作ほか多数出版している。
 沖縄の2021年に沖縄タイムス社の文学賞を受賞した知人の作家、なかみや梁氏が書き上げた『ジョン万次郎 琉球上陸物語』を2022年3月11日、出版した。


 吉田茂(1878~1967)
 政治家。本籍東京。明治11年(1878)9月22日東京神田区駿河台に竹内綱の5男として生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕され「(母が)竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ」(ウィキペディア)。
   吉田茂
                吉田茂
 注・吉田健三は、自由民権運動の高まりを見せていた当時、自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼(よしみ)を通じて同党を経済的に支援した(同上)。
 明治14年(1881)、茂は吉田健三の養子となる。同20年養父死亡、吉田家を相続する。学習院を経て39年(1906)東京帝国大学法学部を卒業、その年外務省に入り領事館補として天津に在勤以後奉天、ロンドン、イタリアに駐在、45年(1912)安東領事、外務次官、駐伊・駐英大使を歴任。日本とドイツの防共協定、日独伊三国同盟に反対した。第二次大戦中、親英派と見られ、近衛文磨の和平工作に連座して憲兵隊に拘置された。
 戦後昭和20年(1945)東久邇内閣、弊原内閣の外務大臣、21年自由党総裁鳩山一郎の公職追放のあとを受けて自由党総裁になり、昭和21年5月第一次吉田内閣を組閣し、同29年第五次吉田内閣を総辞職するまで7年2か月、政権を担当して、戦後日本の政治に大きな足跡を残した。その間、占領軍と折衝して戦後処理および復興にあたり、サンフランシスコ講和条約を締結した。30年・33年・35年と高知県から立候補し衆議院議員に当選している。
 昭和42年(1967)10月20日、89歳で病没、著書『回想十年』

 林譲治(1889~1960)
 政治家。号寿雲、俳号鰌児(じょうじ)。明治22年(1889)3月24日宿毛村に林有造の2男として生まれる。六高を経て大正7年(1918)京都帝国大学独逸法律科を卒業、一時三菱倉庫株式会社にいたが、同12年(1923)宿毛町長(2回)となり、宿毛農会長、宿毛信用組合長を勤める。昭和2年(1927)高知県会議員となり、昭和3年第1回普通選挙に立候補したが落選、5年衆議院議員に当選、以来当選11回(途中翼賛選挙で一度落選)その間、文部大臣秘書官、農林参与官、内閣書記官長を勤める。
    林譲治   
                    林譲治 

 昭和23年(19484)第2次吉田内閣の厚生大臣、第3次では留任、25年国務大臣、副総理、26年衆議院議長、27年自由党幹事長になる。
 昭和35年(1960)4月5日病没、71歳。鰌児の号で俳句も詠み、句集『古袷』がある。

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