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レキオ島唄アッチャー

時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その6

 大江卓(1847~1921)
 政治家、実業家。幼名秀馬。元服後治一郎、号を元良、揚鶴といい僧籍に入って天也と称した。弘化4年(1847)9月25日幡多郡柏島(大月町)に生まれる。父は宿毛伊賀家の家臣斎原弘である。日新館に入り、学問、武術を学んだ。
慶応3年(1867)9月、砲術研究のため岩村通俊、高俊兄弟と共に、長崎にわたり、ここで海援隊の中島信行、石田栄吉、長崎商会の岩崎弥太郎等と交わった。
 大江はその後岩村高俊、中島信行とともに兵庫を経て京に入り、中岡慎太郎なきあとの陸援隊に入ったが、そこで紀州藩の三浦久太郎が新選組をそそのかせて、坂本、中岡を殺させたのだといううわさを耳にし、大江は、陸奥宗光、岩村高俊ら16名と共に三浦の宿に切り込んだが、三浦も用心のため新選組の土方歳三などをやとっていたので、大乱斗となり、双方に死傷者を出し、三浦に傷を負わせただけで、目的を達せずに引き上げた。
 大江たちが三浦を打ち損じた翌日、慶応3年12月8日に山内容堂が入京した。そしてその翌日9日には王政復古の大号令が発せられた。しかし京都ではいつ戦が始まるかもわからない状態である。紀州藩が徳川家に味方して起つことを抑えるため、高野山に兵をあげ牽制することになり、大江は岩村たち6、70名と共に高野山に向かった。
 高野では僧徒を説くとともに和歌山に書を送って軽挙をいましめた。万一の場合にそなえて錦旗を奉戴してくる任務が大江に下った。
 
 高野山で挙兵 
 慶応4年正月3日、錦旗並びに勅書を賜わったが、その時はすでに伏見鳥羽方面で戦端が開始されていた。大江は雇っていた出入の刀屋の為助に、錦旗と勅書を風呂敷に包んで背負わせて従者とし、自分は医者に変装して6日の早朝高野に到着し、錦旗は高野山にひるがり士気を鼓舞した。
 大江はさらに、単身和歌山に入り、紀州藩を説得して朝廷側に引き入れた。大江の働きにより、紀州藩は、大義を誤ることなく、維新の動乱を切りぬけたが、大江が後年、紀州藩と切っても切れぬ因縁を結んだ。
 大江は、高野山の挙兵によって、兵の組織的な団体訓練の重要性を痛感し、宿毛で洋式部隊を二中隊編成したことがある。宿毛で機勢隊が編成され宿毛を出発したのは7月14日であり、伊賀陽太郎も竹内綱、林有造等をつれて9月には江戸に出、更に荘内に進み、10月26日には再び江戸に帰った。

 明治3年(1870)、大江は官をやめて、兵庫の湊川付近に住んでいたとき、差別された部落住民の悲惨な姿をみて、同じ人間、同じ同胞が何故に平等な社会生活を営むことができないのか、と考え部落解放を決意し、部落の実態調査をはじめた。大江24歳の時である。
 大江はやがて自ら民部省の役人となり、部落住民の解放のために専念した。明治4年8月28日、差別で苦しめられてきた部落住民を平民と同等の権利を付与する太政官布告(解放令)が出された。封建的な身分差別は制度上なくなった。
明治4年10月28日、大江は、神奈川県令の陸奥宗光のもとで働くことになり、神奈川県七等出仕に就任した。次いで11 月には参事となり、明治5年7月には神奈川県権令に進んだ。
 明治5年(1872)6月5日、南米ペルーのマリア・ルーズ号という汽船が、横浜に入港してきた。船員はペルー人であるが、乗客はすべて清国人。労働移民として乗船したが、奴隷の待遇を受けていた。海に飛び込み逃亡した者が、同胞の救助を求めたことから、真相が明らかになった。外務卿・副島種臣の指導のもとに、大江は自から特設裁判所の裁判長となって、圧力をはねかえし、裁判を続行した結果、ついに清国人232名を解放し、無事に清国に送りとどけたのである。
また大江は、芸妓や娼妓が奴隷と同じ状態にあることを知り、その解放も行った。
 明治6年征韓論が破れ、板垣退助西郷隆盛たちが野に下った。当時大江は、陸奥宗光と親しく非征韓論者であった。大蔵省に入った大江は、明治8年に板垣にあって政治意見を交換して、先輩として尊敬するよう になった。
この年大江は後藤象二郎の二女早苗と結婚した。
    大江卓
                  大江卓 
  自由民権運動に参加
 明治7年(1874)に江藤新平は佐賀で乱を起し、明治10年になると西郷が鹿児島で兵をあげた。この報をうけて彼は、今こそ政府顚覆の好機であると考え、林有造等と共に同志を糾合して起たんと志した。大江は「これは天与の好機会である、この機会に後藤の窮地を救い、彼をして乾坤一擲の 大芝居を打たさなければならない。」と考えた。林は銃器、弾薬の入手に着手、大江は、後藤、板垣、陸奥等の間を往来して彼等をこの大芝居の役者たらしめようと奔走した。
 板垣、後藤、陸奥、林、大江、岩神昂が集まって協議した。民選議員設立の目的を達するため、木戸を説き、鹿児島征討の勅命を出させてもらう。表向きは鹿児島討伐の軍を組織するが、実際は大阪城と松山城をのっとり、西郷に呼応して政府に反旗をひるがえし、政府を顚覆させようというのであった。
 熊本城は薩摩軍に包囲され、政府は土佐兵を募集して鹿児島討伐にむかわせる考えとなり、中島信行、岩村通俊などのあっせんで、実行に着手するまでになった。だが、官軍はようやく熊本城と連絡がとれ、薩軍はやがて後退をはじめ、官軍の勢が盛んになると土佐挙兵は、いつの間にか消えてしまった。
 林は3000挺の銃器購入にあたっていたが、立志社の内部では、片岡健吉などを中心に、民選議院設立の建白をしようとの動きが強くなってきた。林は依然、挙兵を論じ、銃器購入が間にあわなければ、火縄銃を持ってでもことをあげようと論じた。しかし、立志社員たちは火縄銃では成功しない、上海からの鉄砲3000挺が来てからでないと挙兵できないと決め、ついに挙兵実行の機会を失ってしまった。
 この陰謀をかぎつけた政府は、大江、林など立志社の幹部ほとんどを逮捕した。林、大江両人は、累を後藤、板垣等に及ぼしてはならないと考え、判廷では自分達が中心で事を運んだと極力申し立てた。判決では林有造大江卓、岩神昂、藤好静が禁獄10年、池田応助、三浦介雄、陸奥宗光が同5年、中村貫一が3年、岡本健三郎が2年、山田平左衛門、林直 庸、竹内綱、谷重喜、岩崎長明、佐田家親、弘田伸武、野崎正朝が1年、片岡健吉は100日という判定であった。
林と大江は岩手の監獄に、陸奥と三浦は山形、藤と岩神は秋田、池田と中村は青森の監獄に送られた。大江は林とともに、7年間ここで過ごした。
 大江の入獄中後藤はその家族のために月々の生活費を送っていたが、大江に通知もせず、大江の妻早苗を後藤家に引きとってしまった。明治17 年(1884)仮出獄を許されて東京へ帰った大江は、はじめてこの事を知り、獄中生活以上に人生の苦痛を味わったのであった。
 
 岩手で衆議院議員に当選
 明治14年(1881)には自由党が生れ、15年には立憲改進党ができた。政府は集会条令をつくって、これらの政党運動に弾圧を加えたので、各地で騒動が相ついで起った。大江、林は自分等の獄中に居る間にできたこれらの政党を、一旦解散させ、新たに強い組織をつくることを計画した。板垣や後藤に働きかけついに後藤をして旧政党を合体して大同団結をつくりあげ、政府攻撃をはじめようとしたのである。
 しかし政府は、強引に後藤をして入閣させ、大同団結は空中分解となった。
 明治23年(1890)、第1回の衆議院議員の選挙がはじまり、大江は岩手の人々に推されて岩手第5区より立候補した。大岩手県民から少なからぬ信頼と尊敬をうけ、県民の一部から熱心に立侯補をすすめられたからである。見事に当選を勝ち取った。
 衆議院議長には中島信行がなり、大江は予算委員長に就任。委員長として、「民力休養(減税)、政費節減」の意見を尊重し、軍艦建造費など削減する軍縮予算案を査定し、可決させた。
 第2回選挙でも大江は、岩手から推されて立候補した。1回も選挙区へは入らず、理想選挙を主張して実行したが、今回は落選の憂目を見た。政界より足を洗い、実業界へ転出した。
 彼は東京株式取引所の頭取として腕をふるい、更に八重山鉱業株式会社を創立し、鉛管製造事業をもはじめた。帝国商業銀行や日本興業銀行の創立委員にもなって活躍した。巴石油会社をおこし、夕張炭鉱株式会社の創立にも力を尽した。
大江が提案した京釜鉄道は明治38年に開通した。大江は、竹内綱たちとともに設立委員の1人として、12年もの長い歳月朝鮮にてその業務に専念した。
 明治41年(1908)、ビルマを経て雲南に入り、未開の奥地を視察した。帰国した彼は老後を社会事業に尽そうと決心した。
 
 部落解放めざして
 大江は大正2年(1913)、被差別部落の改善融和を目的とする帝国公道会を設立を決意した。全力をそそぐためには、出家した。大正3年(1914)2月1日付で、「この度出家して妻子にも別れ、精進潔斎して、身を帝国公道会に委せ、細民千秋の冤をそそぎたい。」という意味の告別状を年来の知友に送り、名も天也と改め、僧籍に入った。
この時の心情を大江は後に左の如く語っている。部落住民に対して多くの同情者があるが、優越意識によって、臨んでいる。自分は、かかる階級的意識を捨てることが唯一の道であること考えた。仏道に入り、一切の俗縁を絶った。
大江は法衣をまとって全国を巡回し、全国に組織をつくり、400数十名の会員を集めた。こうして大正3年6月7日、帝国公道会の設立総会を開いたが、大江は座長として経過報告し、会長に板垣退助を選んだ。後には会長は大木遠吉となり、大江は副会長として、死ぬまでこの会のため力を尽した。
 「彼と行をともにした知人、友人は、ほとんど華族に列し、官界、財界で名をなしている。ひとり大江のみ無位無冠、ひたすら法衣をまとって全国を行脚し、部落解放に全力をうちこみ、差別のない、平和な日本を建設しようとしていたのであった。多難な一生ではあったが、また有意義な一生でもあったわけである」「彼が我が国の近代的ヒューマニズム の先駆者であった」(『宿毛人物史』)。
 著書に「鉄欐詩存」(1903)「楊鶴詩稿」(1906)「明星山房詩 鈔」(1908)などの漢詩集がある。大正10年(1821)9月12日病没、75歳


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