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レキオ島唄アッチャー

『ジョン万次郎琉球上陸物語』はどのようにして生まれたのか、その2

 琉球王府の古文書を探して
 和田さん、宮城さんは、土佐人漂着のことを記した琉球王府の古文書があることを聞き、 沖縄県立図書館に駆け付けた。そこで対応してくれたのが万次郎ファンだという職員だっ た。「その史料はこちらにはないです。琉球大学にあります」と教えてくれた。2 人は、琉 球大学図書館に向かった。ここで上陸記録が記載されている「尚家文書」(尚家継承古文書) と呼ばれる古文書を見つけることができた。当然、楷書や活字ではない。達筆な毛筆で記されており、漢文や毛筆文を読みこなす素養はない。だが、見つけてコピーした文書「尚家文書492号」は、土佐人漂着についての記録であった。中国の大清咸豊元年、日本では嘉永4年(1851)正月3日付の文書など古記録を入手した。問題はその解読である。
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           大度海岸のサシチン浜に上陸した万次郎ら(上陸記念碑のイラストから) 

 和田さんは、知人で高知ジョン会事務局長をしていた高知市在住のS氏に LINE で 送付して、解読を依頼した。すると、活字化して現代語に訳して送り返してくれた。 このなかに、正月3日付で、上陸した万次郎が最初に連れていかれた摩文仁間切(まぶにまぎり)の番所役人3人から首里王府への報告文書がある。そこには「本日午後2時頃、乗員3人の異国の伝馬船(ボート)一艘が当間切の小渡浜に漂着したので経緯を尋ねたところ、 やまとの言葉で『我々は土佐国の者で、昨日午後2時頃に外国船からボートを卸して到着した』というおおよそは了解できました。まず早急にこの件を報告します」(引用は栗野慎一 郎訳から)と記されていた。
 ここで厄介な問題があった。それは、「本日午後2時頃」という記述である。午後2時に 上陸したという意味なのだろうか。いや、それはあり得ない。朝の上陸であるはずだ。仮に、 「本日午後2時頃」という言葉が、漂着時間であるなら「漂着した。」で区切られていなけ ればならない。しかし、文章は区切りなしに「漂着したので経過を尋ねた…」と続く。そして最後に「まず早急に報告します」という文章につながっている。つまり、「午後2時」 は漂着時間ではなく、「午後2時」に「報告します」という王府への報告時間ではないかと読み取れる。
 そこで、古文書の解読に詳しい、浦添市立図書館沖縄学研究室嘱託で歴史家K氏を訪問した。栗野氏は、早くから尚家文書に「土佐人漂着日記」と呼ばれる文書が存在することに注目していた。数年前からこれら尚家文書を研究し、翻刻作業や研究成果を沖縄ジョン万次郎会で報告しておられた。 和田さん、宮城さんは、K氏を再三訪れて「土佐人漂着日記」の翻刻状況など伺うとともに、入手した尚家文書をどう読めばよいのか、その解釈を尋ねた。 すると、K氏も午後2時が、漂着時間ではなく、報告時間を意味するという理解であった。いよいよ、万次郎らの上陸は午後2時ではなく、朝であることを確信した。二人は、沖縄の海上保安庁を訪ねて、万次郎上陸当時の潮の満ち引きの時間など確認した。
   
   「上陸は午前8時」と長崎奉行所文書に明記
 一方、和田さんが投げかけた上陸時間の疑問を聞いた沢村は、自分でもまずは万次郎ら を取り調べした薩摩、長崎、土佐の古記録にあたってみる必要があると考え、これらの古文書を収録 した『中浜万次郎集成』を借り出して改めて詳細に読み調べてみた。 そこで確認したのは、万次郎らは薩摩、長崎、土佐のいずれの取り調べの際にも、上陸し たのは「朝」であることを共通して証言していた。一方、取り調べ記録には、「午後上陸」とか「八ツ時上陸」(午後2時)という証言はまったくない。そればかりか、長崎奉行牧志摩守取調記録(上)は「翌三日明ケ方風雨静ニ相成、同所濱邉ニ人家相見、朝五ツ時頃漕付上陸いたし候處」と記していた。つまり、3日朝風も静かになり、浜辺に人家を見つけたので、朝「五ツ時頃(午前8時)漕ぎつけ上陸した」と上陸時間を明確にのべていた。これによって、いくら古文書が写本であっても、すべての古文書の証言が朝の上陸と明記していることは、真実の記録であることが裏付けられた。 和田さんに長崎奉行所の「五ツ時(午前8時)上陸」と明記した文書をLINEで送ると、 「これだ!これを探していた。やっぱり自分が主張した朝の上陸が正しいことがはっきりした」と手をたたいて喜んだ。
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『ジョン万次郎琉球上陸物語』はどのようにして生まれたのか、その1

 なかみや梁(本名・宮城稔)著『ジョン万次郎琉球上陸物語』が2022年3月10日、 東京の冨山房インターナショナルから出版された。 万次郎が14歳で出漁して遭難。無人島に漂着した後、米国の捕鯨船に救助されて、日本人として初めてアメリカに渡り、1851年、10年ぶりに帰国の途に着いた。漁師仲間と3人で最初に上陸したのが琉球の現在糸満市の大度海岸だった。現豊見城市翁長で半年間過ごし、薩摩、長崎を経て52年、土佐に帰り着いた。
 万次郎についてその生涯を描いた伝記、万次郎の功績などについての著作はたくさん出 版されている。沖縄でも島袋良徳氏、長田亮一氏らが万次郎の生涯を描いている。ただ琉球 での半年間に焦点を当てて、その行動や心情を、大胆な推理を交えて描いた感動の物語は、 なかみや氏の作品が初めてである。
               ジョン万次郎琉球上陸物語写真
    

 この著作が出版に至るまでには、奇跡的なストーリーがあり、それ自体が一遍のドラマ である。あたかも万次郎がグソー(天国)で応援してくれていたのではないかと思われるほ どであった。
 糸満市では2018年2月、万次郎の上陸記念碑を大度海岸に建立しよう永年の願望と 運動が実り、土佐の方角を指さした万次郎の銅像が建立された。台座には万次郎の漂流から 琉球上陸までの経過をわかりやすいイラストで描いた説明板が取り付けられた立派な記念碑である。
  
 この運動を牽引してきたのが、高知出身で糸満市在住の和田達雄氏だった。現在、琉球万次郎会副会長である。当初、万次郎について一応の知識は持っていたが、2011年、東京 から糸満市米須に移住して、ある人からの紹介で島袋良徳氏の『ジョン万次郎物語』を読ん で、改めて万次郎の先駆性や偉大さ知り、「郷里高知の出身でこんなすごい人がいたんだ」 と感銘を受けた。和田氏は、沖縄の復帰前から通信機器の販売の仕事で那覇市に赴任していた。沖縄で知り合ったのが宮城稔さんである。それ以来友人として付き合ってきた仲である。 宮城さんは、文学愛好家が集う「南涛文学会」のメンバーとして、同人誌「南涛文学」で 「山北の賦」「ヤードゥイ村」「落城」「平敷屋朝敏物語」など小説や戯曲を数多く発表して きた。「ノブちゃんのひとり旅」で第39回琉球新報短編小説賞佳作。2020年には「ばばこの蜜蜂」で「沖縄タイムス」の沖縄新文学賞を受賞してきた。とくに歴史に題材をとった作品を好んでいた。
 和田氏は、古い友人の宮城さんに対して、万次郎の琉球上陸と滞在について、小説で書けないだろうか、と打診した。それは8年ほど前になる。 宮城氏は、「万次郎が琉球に上陸したとしても、半年間、豊見城市翁長の高安家で囲われて暮らしただけで何も行動を起こしたわけではなく、史料も乏しいなかで、とても小説にはならないよ」 と断っていた。
そんな宮城さんが、万次郎の小説を書く創作意欲がわいてくるのには、そのきっかけと条 件を必要としていた。

 はじまりは万次郎の上陸時間への疑問
 和田氏は、上陸記念碑の建立をすすめる過程で、一つの疑問が生まれた。それは、万次郎ら3人が琉球の大度海岸、当時の小渡浜に漂着して上陸した時間である。1851年旧暦1月3日の朝のはずだが、朝ではなく午後2時頃だとする説が権威を持ち、定説化されつ つあった。というのも、万次郎の3代目にあたる中浜明氏は、薩摩や長崎、土佐での万次郎 取り調べ記録では、3日朝上陸したと記載されていたので、それに沿って記述していた。
          IMG_5442_20220622151837c83.jpg
           ジョン万次郎上陸記念碑前に立つ和田達雄さん
 と ころが、万次郎4代目にあたる中濱博氏は、取り調べ記録は写本であり、そのまま信用でき ないとして、独自に当時の船の入港記録、海岸に広がるサンゴの岩礁、上陸時の潮の満ち引きなどを検証した結果、大度海岸は岩礁が広がり干潮でなければ上陸できない、当時の潮の満ち引きは3日朝は満潮であり上陸できない。干潮時間は午後2時であるとして、朝上陸説を訂正し、午後2時上陸と記述した。『中浜万次郎集成』を編集し、みずから執筆もした万次 郎研究者の川澄哲夫氏も、博氏と同様の見解を表明した。沖縄県内の研究者の間でも、午後 2 時上陸説が研究成果として影響力を持ってきた。
 しかも、偶然にも万次郎の漂着時の対応など記録した琉球王府の古文書でも、「午後 2 時に、小渡浜に漂着したので経過を聞いた…王府に連絡する」という意味の記述があり、表面的に読むと、あたかも午後 2 時に上陸したかのように解釈できる。そのため、中濱博氏らは、この文書の記録を万次郎らの上陸は午後 2 時であるという見解を裏付ける証拠として採用してきた。
 和田さんが疑問に思ったのは、若い時から大度海岸に行き海によく潜っていた。移住してきたのが大度海岸に近い米須であり、この海岸の状況と潮の満ち引きなど知り尽くしていた。その経験から、岩礁が広がる大度海岸(小渡浜)は、干潮時にはボートで上陸地点のサシチン浜に漕ぎつけることはできない。満潮時こそボートで漕ぎつけることができる。 万次郎らの上陸は 3 日朝でなければおかしい。午後 2 時の上陸はありえないのではないか。
 
 また、万次郎らが上陸後、摩文仁間切(まぶにまぎり、今の町村にあたる)の番所に行き、調べを受けて那覇に向けて出発したのは午後4 時である。言葉も不自由ななかで、事情を聴取し、持っていた70余点にのぼる持ち物を記録し、食事もして、わずか 2 時間で出発することはとても無理である。この点からも朝に上陸 していたとみるべきだと考えた。
 この上陸時間についての疑問は、私も和田さんから聞かされた。だが、当初はそれほどこだわる問題なのか、と軽く思っていた。しかし、万次郎らが10年ぶりに帰国して、海外事情や技術の進歩などにとどまらず、当時、世界でも最先端のアメリカンデモクラシーの思想 と政治制度を、当時の封建的な幕府による支配下、外国との窓を閉ざす鎖国日本に持ち帰ったことは、当時の幕末の志士たちに大きなインパクトを与え、その後の日本の開国、明治維新、さらには自由民権運動にまで影響を与えたことを考えれば、琉球の大度海岸への一歩は、新しい日本へ向かった歴史的な一歩である。その一歩を正確にすることは、とても意義のあることだと考えるに至った。
   続く



 

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時代を駆けた宿毛の人間群像、その9

 本山白雲(1871~1952)
 彫刻家。本名辰吉。明治4年(1871)9月1日宿毛村に生まれる。父茂武(伊賀氏家臣)の2男。
「幼少時、家の近くの城山墓地の地蔵堂で遊び、地蔵堂にある多くの地蔵の表情がそれぞれ違うことに気づき、立体造形に興味を持つ」(ウィキペディア)。
    本山白雲
                 本山白雲
 宿毛小学校高等科卒業の後、一時郷里の小学校代用教員を勤め、18歳の時上京、旧主伊賀陽太郎を頼り、伊賀の推薦で当時東京美術学校の主任教授であった高村光雲の門下生となる。光雲は辰吉の才能を見抜き、美術学校で彫塑を基礎から学ぶことを薦めた。明治23年(1890)、岩村通俊の援助を得て、東京美術学校彫刻本科に入る。卒業と共に同校講師となる。当時同校の彫刻はすべて木彫であったが、長沼守敬について洋風彫塑を学ぶ。同32年(1899)、板垣退助等の主唱によって故後藤象二郎の銅像建立の顕彰展があり、入選し、後藤象二郎像が東京の芝公園に建立された。その後、品川彌二郎の銅像が海軍省競技に当選以来、西郷従道、川村純義、東郷平八郎、松方正義、山縣有朋、伊藤博文などの銅像を制作、県内出身者では山内一豊、板垣退助、片岡健吉、山内容堂、中岡慎太郎、坂本龍馬、宿毛出身者では、岩村通俊、小野義真、林有造など政治家、軍人の銅像を次々と制作した。
 「維新の元勲の銅像で白雲の手にかからなかった者はほとんどないと言われ(る)…その後の第二次世界大戦時、多くの銅像が金属供出で撤去された(ウィキペディア)」。
 昭和19年(1944)、白雲は明治の元勲たちの石膏原型をすべて叩き割り、防空壕の傍らに穴を掘って埋めたという(同)。
 昭和27年2月18日没、82歳。

 北見志保子(1885~1955)
 歌人。本名を川島朝野といい、明治18年(1885)1月9日、宿毛村土居下川島享一郎の長女として生まれる。
 当時自由民権運動が広がり、一般の人々も大きな関心を持ち、運動に奔走する者が多かった。父の亨一郎もその一人で東奔西走し、遂に他郷で客死した。家庭は貧困に追いやられた。志保子は宿毛小学校から中村町実科女学校へ進み、宿毛小学校教員となる。
    北見志保子
                  北見志保子
 貧しかりし故里の家の庭桜かたむきし軒に散るはまぶしも
 人なみに学ばしめんと亡き母が売りしこの山うしろつつじ山
 後年になって、母を慕い母への心から感謝を詠っている。
 17歳のとき、文学修行の志を立てて上京。教師をするかたわら文学の道へ入る。在郷中より恋仲で、歌人として頭角を現していた橋田東声と大正2年(1913)結婚、橋田あさ子またはゆみゑの名で東声の主宰する『珊瑚礁』や『覇王樹』に歌作を発表、その他、山川朱美の筆名で小説を書き『朱実作品集』を出版したが作家としては成功しなかった。
大正11年(1922)浜忠次郎(のちの千代田生命社長)との恋愛問題がおこり東声と離婚、大正14年浜と結婚する。その後は短歌に専念、大正14年短歌誌『草の実』を同志と共に創刊、この頃より北見志保子の筆名を用いる。『月光』『花のかげ』等の歌集を出版、昭和24年(1949)著名女流歌人を網羅した「女人短歌会」を結成し、女流歌人育成にもつとめ歌誌『花宴』を主宰した。
 昭和28年歌碑「山河よ野よあたたかき故郷よ声あげて泣かむ長かりしかな」が母校宿毛小学校校庭に建てられ、その除幕式には歌友を多く連れて帰郷した。最後の歌集『珊瑚』を昭和30年出版し、その年5月4日病没、70歳。
 

 宿毛の誇るべき歴史
 宿毛が驚くほど多士済々の人材を生みだし、幕末から明治維新、その後の政治、社会、経済の発展のために、尽力してきたことがよくわかる。
 幕末から維新の時代に活躍した人たちを見ると、土佐藩の家老を領主とする土地だけに、坂本龍馬、中岡慎太郎らに共鳴し、その行動に参加し、さらに鳥羽伏見のたたかいをへて討幕の官軍に加わり、北陸・奥羽まで遠征するなど、明治新政府を打ち立てるまでの立場では共有していた。
 だが、明治政府の発足後は、情勢の変化の中で、進路は分かれて、政府側の行政の一線に立ち活動した人たち、例えば岩村兄弟などが幾人もいる。維新後は途中から藩閥政府に反対する行動をとった人たちも目立つ。朝鮮政策をめぐる対立後、西郷隆盛や板垣退助が下野して、藩閥政府に反対して自由と民権を求める運動に参加した林有造、大江卓、小野梓など。また近代化とともに始まった新たな事業に参画して経済人として活躍した人たちがいた。
 それぞれ進路は分かれていき、人と業績に対する評価はさまざまである。だが、幕末から、明治にかけて、政治、社会、経済、芸術などの分野で、歴史に足跡を残すような活躍をした人士であることには間違いない。これは、宿毛が誇るべき歴史だと改めて考える。。
 終わり    2022年6 月



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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その8

 坂本嘉治馬(1866~1938)
 出版業。慶応(1866)2年3月22日、染物業・喜八の長男として宿毛村坂ノ下に生まれる。先祖は邑主安東家の馬廻り役を勤めたが、父の代には家が貧しく染物業を経営していたので、彼も父の業を助けて、18歳まで家業を援けたが、父母に内密に毎日小使銭や商品の利益の一部を5銭、19銭と貯えた。明治17年(1884)青雲の志止み難く、その金を旅費として上京を決行。船便のある宇和島に行く口実をつくり、宿毛を後にした。
 親に内緒で上京へ
 <宇和島の瀬戸熊と云う宿屋へ落付くと、偶然にも同郷の元の友人矢野寅一君に出会わした。この人は郷里での大きな酒屋の息子で、家は富んでいる上、当時神戸の親族の銀行に勤めておられて、いわゆる錦を着て帰るのであったが、「君は何処へ行くのか」と尋ねられたので、事情を話すと「旅費はいくら持っているか」との事であった。「7円持っている」と云うと、「それでは足りなかろう」と云って10円を投げ出してくれた時は非常に嬉しかったが、何だか夢のような気持がした。自分は3年もかかって、やっと7円貯めたのに、いきなり10円と云う大金を貰ったからである。
 矢野君と別れ、直ちに神戸行の汽船に乗込んで神戸に無事上陸し、もと郷里で材木商をしていた愛媛県人で兼池という人の息子で、自分と最も親しかった同姓武太郎という友人を尋ねて、2、3日そこに滞在し、それから構浜行の汽船に乗込み横浜に着いた(富山房発行の「冨山房50年」の中の坂本嘉治馬著「追憶70年」から)。>
 
 小野梓の書店で働く
 横浜から東京に来ると、直に父の恩人、酒井融翁を番町に尋ねた。
 身の振り方を依頼したところ、融は東洋館という書店を経営していた小野梓に託した。小野は喜んで東洋館に雇い入れた。嘉治馬は勤勉正直によく勤務したので、大いに梓の信用を得た。小野はいつも東洋館に来ると奥の日本座敷に机を構え、「国憲汎論」の著述をし、事務も取っていた。店員は6、7人いった。
 明治19年(1886)、小野梓は病でたおれた為、東洋館の経営に一頓挫を来たした。彼は郷党の先輩で、小野梓の義兄小野義真を訪ねて、その窮状を訴えて援助を求めた。小野義真は援助を快く承諾した。

 冨山房を創立
 東洋館は次第に経営が行きづまり、遂に解散に追い込まれた。彼は途方に暮れたが、ついに独立を決意した。小野義真からは初金200円の資本をえて明治19年冨山房を創立した。富山房の名は彼の先輩小野義真が命名したものである。
 明治36年(1903)、国民百科辞典を出版すると評判がよく、よい売れ行きであった。これによって経営の基礎は固まった。この間に冨山房は幾度もの火災にあったが、常に復興に努力して社運は益々盛大となった。長年の努力と研究の結果、各種の辞典、専門書、教科書、雑誌等多くを出版し名実共に大出版会社となる。日本家庭大百科辞典、大日本国語辞典、大言海、漢文大系 国民百科大辞典、大日本地名辞書など冨山房の出版物として多くの人々に利用されている。
          阪本嘉治馬   
               坂本嘉治馬 
   郷里のため巨額の寄贈
 嘉治馬は公共心に富み、種々の慈善事業に浄財を投じた。特に宿毛町の発展については、非常な関心を持ち、進学出来ない貧しい家庭の子弟には惜しげもなく学資を結与して勉学させた。郷里に私立坂本図書館を建設して地方文化の向上に尽力した。神社仏閣に多額の寄付をしたこと。郷里の学校や公共団体に多くの図書の寄贈等、郷土のために巨額の経費を投じた。昭和13年(1881)8月23日没、73歳。
 嘉治馬の没後、嗣子守正氏は父の遺志をつぎ、嘉治馬の所有していた(元小野十三郎邸跡)七百一坪と坂本図書館施設のいっさいを旧宿毛町に寄贈し、第二次大戦中、金参拾万円を寄贈して宿毛中学校(現高知県立宿毛高等学校)を設立した。
 冨山房は、現在、冨山房インターナショナルとして、4代目の坂本嘉廣氏が会長、坂本喜久子(喜杏)氏が社長を務めている。書籍・雑誌の出版をはじめ印刷、教科書・教材の編集、大学生・高校生の必需品の販売している。
 ジョン万次郎に関して、子孫の中濱博氏、中濱武彦氏、中濱京氏の著作ほか多数出版している。
 沖縄の2021年に沖縄タイムス社の文学賞を受賞した知人の作家、なかみや梁氏が書き上げた『ジョン万次郎 琉球上陸物語』を2022年3月11日、出版した。


 吉田茂(1878~1967)
 政治家。本籍東京。明治11年(1878)9月22日東京神田区駿河台に竹内綱の5男として生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕され「(母が)竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ」(ウィキペディア)。
   吉田茂
                吉田茂
 注・吉田健三は、自由民権運動の高まりを見せていた当時、自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼(よしみ)を通じて同党を経済的に支援した(同上)。
 明治14年(1881)、茂は吉田健三の養子となる。同20年養父死亡、吉田家を相続する。学習院を経て39年(1906)東京帝国大学法学部を卒業、その年外務省に入り領事館補として天津に在勤以後奉天、ロンドン、イタリアに駐在、45年(1912)安東領事、外務次官、駐伊・駐英大使を歴任。日本とドイツの防共協定、日独伊三国同盟に反対した。第二次大戦中、親英派と見られ、近衛文磨の和平工作に連座して憲兵隊に拘置された。
 戦後昭和20年(1945)東久邇内閣、弊原内閣の外務大臣、21年自由党総裁鳩山一郎の公職追放のあとを受けて自由党総裁になり、昭和21年5月第一次吉田内閣を組閣し、同29年第五次吉田内閣を総辞職するまで7年2か月、政権を担当して、戦後日本の政治に大きな足跡を残した。その間、占領軍と折衝して戦後処理および復興にあたり、サンフランシスコ講和条約を締結した。30年・33年・35年と高知県から立候補し衆議院議員に当選している。
 昭和42年(1967)10月20日、89歳で病没、著書『回想十年』

 林譲治(1889~1960)
 政治家。号寿雲、俳号鰌児(じょうじ)。明治22年(1889)3月24日宿毛村に林有造の2男として生まれる。六高を経て大正7年(1918)京都帝国大学独逸法律科を卒業、一時三菱倉庫株式会社にいたが、同12年(1923)宿毛町長(2回)となり、宿毛農会長、宿毛信用組合長を勤める。昭和2年(1927)高知県会議員となり、昭和3年第1回普通選挙に立候補したが落選、5年衆議院議員に当選、以来当選11回(途中翼賛選挙で一度落選)その間、文部大臣秘書官、農林参与官、内閣書記官長を勤める。
    林譲治   
                    林譲治 

 昭和23年(19484)第2次吉田内閣の厚生大臣、第3次では留任、25年国務大臣、副総理、26年衆議院議長、27年自由党幹事長になる。
 昭和35年(1960)4月5日病没、71歳。鰌児の号で俳句も詠み、句集『古袷』がある。

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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その7

 小野梓(1852~1886)
 法学者、政治家。嘉永5年(1852)2月20日、宿毛の軽格武士の節吉の2男として生まれる。号東洋、木王生の筆名も用いている。9歳の時酒井南嶺の塾に入り、ついで文館・日新館に学ぶ。明治元年(1868)17歳のとき宿毛機勢隊に加わり北越に転戦した。土佐藩の藩邸の学校には入らず、幕府直轄の教育機関「昌平黌(しょうへいこう)」に入った。
  藩邸から憎まれ土佐に帰されたが、自由がないのは士分だから、平民なら自由に学べると考え、平民になろうと考えたという逸話がある。
 明治3年(1870)春、大阪に行き、同郷の小野義真の家をたずねた。義真は梓の心意気に感じ、彼を励ました。海外留学の志をいだき、義真の世話で、清国に行き、日本に帰ってから、米国に渡り、更にイギリス渡って経済や法律の勉強を学んだ。後に『国憲汎論』を著して英国主義の立憲政治を鼓吹し、また自主独立をとなえて東京專門学校を創立した基となったのである。
帰国の後、『羅馬律要』を飜訳出版し、名声は高くなった。明治9年(1876)から司法省に勤めたが、司法省でさえ、藩閥政治の旧弊を脱し切れず、他の各省の情実や因縁による政治の弊害は目を覆うものがあるので、それを除去するために、彼は会計検査院の設立を献言し実現。会計検査官に転じて活躍した。
 大隈重信が参議を辞職した際、彼と提携していた小野は会計検査官をやめた。30歳の時であった。小野は①改進党の結成。②東京専門学校の設立。③良書の普及を三大理想としていた。
 板垣退助らが自由党を結成すると、大隈重信らは改進党を結成するが、これを進言し、その準備工作をしたのは主に小野であった。
   小野梓
               小野梓
 改進党の宣言の中に、「急激の改革」を排し「我党は実に平和の手段によって我政治を改良し、順正の方便を以て前進しよう」とのべている。小野が明治14年(1881)12月16日に執筆した「何似結党」の文章の一部がそのまま採択されている。
立憲改進党の結成では、大隈を総理とし、小野は掌事の一人に選ばれた。
 改進党は結成され、各地に演説会を開いて、党勢はいやが上にもさかんとなった。改進党の真の結成者、真の推進者は小野であるといっても決して過言ではない。
 大隈は、私学をさかんにして自由の学府を盛り立て、学問の独立を計らねばならないとの考えを持ち、同意見の小野に学校設立の準備を一任。東京専門学校を設立した。
 校長には大隈の養子、大隈秀麿がなり、小野は、前島密、鳩山和夫、矢野文雄、島田三郎、北畠治房、沼間守一、牟田口元学、成島柳北等と共に議員となった。
 講師ではなかったけれども、校長の事務をとり、課外講演として、日本財政論や、国憲汎論を講義した。小野が勤王と立憲政治とを結びつけて論ずる時など、学生も泣き小野も泣くという、実に感動深い講義であったという。
こうして小野の尽力ででき上った東京専門学校が、後には早稲田大学となった。現在早稲田大学には、小野記念館があり、同校の実質的創立者として彼の功績をたたえている。

 小野は欧米に留学して、図書館の大切を知り、東京専門学校設立と共に、ここでも学校図書館を経営し、遂に全国でも有数の現在の早稲田大学図書館にまで発展する基盤をつくったのである。
 小野は、良書の普及のため、明治16年(1883)、神田区小川町10番地に東洋館書店を開業した。彼自身も生涯の大著述である国憲汎論をはじめ、数多くの論文や著書を出版した。東奔西走し、身体を害し、明治17年(1884)9月2度目の咯血があり、その後は活動も意にまかせず、東洋館書店も次第に経済的に行きづまって来た。
 明治16年、郷里宿毛から18歳の坂本嘉治馬が上京し東洋館書店で働くようになり、小野が病気で倒れてからは、1人で店を切りまわしていた坂本は、小野の死後、東洋館書店を引きつぎ、名も冨山房と改め、遂に小野の意志を立派に達成したのである。『条約改正論』『国憲汎論』等の著書がある。宿毛清宝寺の境内に大記念碑が建立されている。
 <短期間にこれだけの大偉業を達成した小野は、実に大努力家であり、至誠の人であった。しかもその間病魔と闘いながら多くの著書を出し、質量共に偉大な仕事をして、明治時代躍進の基礎を開いた功績は実に大といわなければならない。『宿毛人物史』>
 明治19年(1886)1月11日、小野は息を引き取った。年わずかに35歳。


 林包明(1858~1920)
 嘉永5年(1852)宿毛に生れた。父は邑主安東家(伊賀家)の家臣で包寿といい、祖父は林善次右衛門で、林有造の家系の本家筋にあたる。
 明治7年(1874)、高知立志社が設立され、その提唱によって8年2月には大阪で愛国社が結成された。自由民権運動は次第に活発になり、宿毛では林包明がこれに呼応して、浜田三孝等と協力して合立社をつくって、自由民権運動に参加した。
 間もなく愛国社は板垣の入閣のごたごたや、資金面で生きつまり自然解消のやむなきに至った。更に立志社も明治10年(1877)の土佐拳兵計画で、幹部のほとんどが獄につながれたので自由民権運動も中断の形になった。
 そこで板垣は11年4月、愛国社再興の趣意書を発表し、9月には大阪で各県代表が集まって会合が開かれた。この時、林包明は浜田三孝とともに、宿毛合立社を代表して参加している。
 11年7月、土佐国州会が設置され、2000戸に1人の割合で議員が選ばれることになったが、包明は第17大区の代表として、浜田三孝、山本秀孝等とともに選出された。
 13年(1880)3月の愛国社第4次大会にも、やはり宿毛の合立社250名の総代として参加し、その会で国会開設の請願書を提出している。その年11月10日には第2回期成同盟会を東京で開き、包明はこの会で起草委員に選ぱれて、国会期成同盟合議書を作成した。その後国会期成同盟は、大日本国会期成有志会と改称され、11月15日、沼間守一を中心とする一部が自由党を結成した。明治14年10月の大会には、有志会と自由党は手をとって新しく自由党を組織することを決議した。10月18日から創立総会が開かれ、全国から集った者78人、後藤象二郎が議長となり、盟約を作り役員を選出した。幹事に選ばれた林は、その幹事長となった。
 政府は、自由党の形勢をみて恐れて、11月18日、京橋区警察署が自由党幹事長の林包明を呼び出して詰問した。
 「自由党盟約第2章に、〝吾党は善良なる立憲政体を確立することに尽力すべし"といっているので、集会条例第3条によって届出認可を必要とするものに該当するのではないか」と弁解も聞かずに裁判所に告訴。裁判所は「集会条例による届出をおこたったのは不届に付き、罰金2円を申し付ける」として、林以下全幹事が罰せられた。
 明治15年(1882)には政府の弾圧は一層加わり、集会条例は更に強化せられて、「政治に関する事項を講義するため結社する者は、結社前その氏名、会則、会場および社員名簿を管理警察署に届け出で、その認可を受くべし」と言論の自由を抑圧した。
 その年の6月12日、臨時会議を終って、懇親会に移ろうとした矢先、京橋警察署から幹事が出頭せよとの命令がきた。そこで大石正巳が出頭すると「集会条例違反ではないか、なぜ認可を受けないのか。」というきつい詰問があった。
 27日には林幹事長が呼び出され、届出を強要された。彼は役員にはかって、致し方なく党の役員名簿をそえて、自由党の届出をした。自由党幹事長であった林には、政府の度々の弾圧があり、ついに明治15年8月には獄につながれることになった
 刑期を終えて出獄した林は、もっぱら著述に専念し、「社会哲学」等の数々の書を著している。
 明治18年(1885)には日本英学館を設けて子弟の教育に従事するとともに、19年、星享、山田泰造らと、「公論新報」を発行した。この年保安条例により東京退去を命ぜられたが、憲法発布の特赦によってゆるされた。
 大正9年(1920)6月17日、69歳で歿している。


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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その6

 大江卓(1847~1921)
 政治家、実業家。幼名秀馬。元服後治一郎、号を元良、揚鶴といい僧籍に入って天也と称した。弘化4年(1847)9月25日幡多郡柏島(大月町)に生まれる。父は宿毛伊賀家の家臣斎原弘である。日新館に入り、学問、武術を学んだ。
慶応3年(1867)9月、砲術研究のため岩村通俊、高俊兄弟と共に、長崎にわたり、ここで海援隊の中島信行、石田栄吉、長崎商会の岩崎弥太郎等と交わった。
 大江はその後岩村高俊、中島信行とともに兵庫を経て京に入り、中岡慎太郎なきあとの陸援隊に入ったが、そこで紀州藩の三浦久太郎が新選組をそそのかせて、坂本、中岡を殺させたのだといううわさを耳にし、大江は、陸奥宗光、岩村高俊ら16名と共に三浦の宿に切り込んだが、三浦も用心のため新選組の土方歳三などをやとっていたので、大乱斗となり、双方に死傷者を出し、三浦に傷を負わせただけで、目的を達せずに引き上げた。
 大江たちが三浦を打ち損じた翌日、慶応3年12月8日に山内容堂が入京した。そしてその翌日9日には王政復古の大号令が発せられた。しかし京都ではいつ戦が始まるかもわからない状態である。紀州藩が徳川家に味方して起つことを抑えるため、高野山に兵をあげ牽制することになり、大江は岩村たち6、70名と共に高野山に向かった。
 高野では僧徒を説くとともに和歌山に書を送って軽挙をいましめた。万一の場合にそなえて錦旗を奉戴してくる任務が大江に下った。
 
 高野山で挙兵 
 慶応4年正月3日、錦旗並びに勅書を賜わったが、その時はすでに伏見鳥羽方面で戦端が開始されていた。大江は雇っていた出入の刀屋の為助に、錦旗と勅書を風呂敷に包んで背負わせて従者とし、自分は医者に変装して6日の早朝高野に到着し、錦旗は高野山にひるがり士気を鼓舞した。
 大江はさらに、単身和歌山に入り、紀州藩を説得して朝廷側に引き入れた。大江の働きにより、紀州藩は、大義を誤ることなく、維新の動乱を切りぬけたが、大江が後年、紀州藩と切っても切れぬ因縁を結んだ。
 大江は、高野山の挙兵によって、兵の組織的な団体訓練の重要性を痛感し、宿毛で洋式部隊を二中隊編成したことがある。宿毛で機勢隊が編成され宿毛を出発したのは7月14日であり、伊賀陽太郎も竹内綱、林有造等をつれて9月には江戸に出、更に荘内に進み、10月26日には再び江戸に帰った。

 明治3年(1870)、大江は官をやめて、兵庫の湊川付近に住んでいたとき、差別された部落住民の悲惨な姿をみて、同じ人間、同じ同胞が何故に平等な社会生活を営むことができないのか、と考え部落解放を決意し、部落の実態調査をはじめた。大江24歳の時である。
 大江はやがて自ら民部省の役人となり、部落住民の解放のために専念した。明治4年8月28日、差別で苦しめられてきた部落住民を平民と同等の権利を付与する太政官布告(解放令)が出された。封建的な身分差別は制度上なくなった。
明治4年10月28日、大江は、神奈川県令の陸奥宗光のもとで働くことになり、神奈川県七等出仕に就任した。次いで11 月には参事となり、明治5年7月には神奈川県権令に進んだ。
 明治5年(1872)6月5日、南米ペルーのマリア・ルーズ号という汽船が、横浜に入港してきた。船員はペルー人であるが、乗客はすべて清国人。労働移民として乗船したが、奴隷の待遇を受けていた。海に飛び込み逃亡した者が、同胞の救助を求めたことから、真相が明らかになった。外務卿・副島種臣の指導のもとに、大江は自から特設裁判所の裁判長となって、圧力をはねかえし、裁判を続行した結果、ついに清国人232名を解放し、無事に清国に送りとどけたのである。
また大江は、芸妓や娼妓が奴隷と同じ状態にあることを知り、その解放も行った。
 明治6年征韓論が破れ、板垣退助西郷隆盛たちが野に下った。当時大江は、陸奥宗光と親しく非征韓論者であった。大蔵省に入った大江は、明治8年に板垣にあって政治意見を交換して、先輩として尊敬するよう になった。
この年大江は後藤象二郎の二女早苗と結婚した。
    大江卓
                  大江卓 
  自由民権運動に参加
 明治7年(1874)に江藤新平は佐賀で乱を起し、明治10年になると西郷が鹿児島で兵をあげた。この報をうけて彼は、今こそ政府顚覆の好機であると考え、林有造等と共に同志を糾合して起たんと志した。大江は「これは天与の好機会である、この機会に後藤の窮地を救い、彼をして乾坤一擲の 大芝居を打たさなければならない。」と考えた。林は銃器、弾薬の入手に着手、大江は、後藤、板垣、陸奥等の間を往来して彼等をこの大芝居の役者たらしめようと奔走した。
 板垣、後藤、陸奥、林、大江、岩神昂が集まって協議した。民選議員設立の目的を達するため、木戸を説き、鹿児島征討の勅命を出させてもらう。表向きは鹿児島討伐の軍を組織するが、実際は大阪城と松山城をのっとり、西郷に呼応して政府に反旗をひるがえし、政府を顚覆させようというのであった。
 熊本城は薩摩軍に包囲され、政府は土佐兵を募集して鹿児島討伐にむかわせる考えとなり、中島信行、岩村通俊などのあっせんで、実行に着手するまでになった。だが、官軍はようやく熊本城と連絡がとれ、薩軍はやがて後退をはじめ、官軍の勢が盛んになると土佐挙兵は、いつの間にか消えてしまった。
 林は3000挺の銃器購入にあたっていたが、立志社の内部では、片岡健吉などを中心に、民選議院設立の建白をしようとの動きが強くなってきた。林は依然、挙兵を論じ、銃器購入が間にあわなければ、火縄銃を持ってでもことをあげようと論じた。しかし、立志社員たちは火縄銃では成功しない、上海からの鉄砲3000挺が来てからでないと挙兵できないと決め、ついに挙兵実行の機会を失ってしまった。
 この陰謀をかぎつけた政府は、大江、林など立志社の幹部ほとんどを逮捕した。林、大江両人は、累を後藤、板垣等に及ぼしてはならないと考え、判廷では自分達が中心で事を運んだと極力申し立てた。判決では林有造大江卓、岩神昂、藤好静が禁獄10年、池田応助、三浦介雄、陸奥宗光が同5年、中村貫一が3年、岡本健三郎が2年、山田平左衛門、林直 庸、竹内綱、谷重喜、岩崎長明、佐田家親、弘田伸武、野崎正朝が1年、片岡健吉は100日という判定であった。
林と大江は岩手の監獄に、陸奥と三浦は山形、藤と岩神は秋田、池田と中村は青森の監獄に送られた。大江は林とともに、7年間ここで過ごした。
 大江の入獄中後藤はその家族のために月々の生活費を送っていたが、大江に通知もせず、大江の妻早苗を後藤家に引きとってしまった。明治17 年(1884)仮出獄を許されて東京へ帰った大江は、はじめてこの事を知り、獄中生活以上に人生の苦痛を味わったのであった。
 
 岩手で衆議院議員に当選
 明治14年(1881)には自由党が生れ、15年には立憲改進党ができた。政府は集会条令をつくって、これらの政党運動に弾圧を加えたので、各地で騒動が相ついで起った。大江、林は自分等の獄中に居る間にできたこれらの政党を、一旦解散させ、新たに強い組織をつくることを計画した。板垣や後藤に働きかけついに後藤をして旧政党を合体して大同団結をつくりあげ、政府攻撃をはじめようとしたのである。
 しかし政府は、強引に後藤をして入閣させ、大同団結は空中分解となった。
 明治23年(1890)、第1回の衆議院議員の選挙がはじまり、大江は岩手の人々に推されて岩手第5区より立候補した。大岩手県民から少なからぬ信頼と尊敬をうけ、県民の一部から熱心に立侯補をすすめられたからである。見事に当選を勝ち取った。
 衆議院議長には中島信行がなり、大江は予算委員長に就任。委員長として、「民力休養(減税)、政費節減」の意見を尊重し、軍艦建造費など削減する軍縮予算案を査定し、可決させた。
 第2回選挙でも大江は、岩手から推されて立候補した。1回も選挙区へは入らず、理想選挙を主張して実行したが、今回は落選の憂目を見た。政界より足を洗い、実業界へ転出した。
 彼は東京株式取引所の頭取として腕をふるい、更に八重山鉱業株式会社を創立し、鉛管製造事業をもはじめた。帝国商業銀行や日本興業銀行の創立委員にもなって活躍した。巴石油会社をおこし、夕張炭鉱株式会社の創立にも力を尽した。
大江が提案した京釜鉄道は明治38年に開通した。大江は、竹内綱たちとともに設立委員の1人として、12年もの長い歳月朝鮮にてその業務に専念した。
 明治41年(1908)、ビルマを経て雲南に入り、未開の奥地を視察した。帰国した彼は老後を社会事業に尽そうと決心した。
 
 部落解放めざして
 大江は大正2年(1913)、被差別部落の改善融和を目的とする帝国公道会を設立を決意した。全力をそそぐためには、出家した。大正3年(1914)2月1日付で、「この度出家して妻子にも別れ、精進潔斎して、身を帝国公道会に委せ、細民千秋の冤をそそぎたい。」という意味の告別状を年来の知友に送り、名も天也と改め、僧籍に入った。
この時の心情を大江は後に左の如く語っている。部落住民に対して多くの同情者があるが、優越意識によって、臨んでいる。自分は、かかる階級的意識を捨てることが唯一の道であること考えた。仏道に入り、一切の俗縁を絶った。
大江は法衣をまとって全国を巡回し、全国に組織をつくり、400数十名の会員を集めた。こうして大正3年6月7日、帝国公道会の設立総会を開いたが、大江は座長として経過報告し、会長に板垣退助を選んだ。後には会長は大木遠吉となり、大江は副会長として、死ぬまでこの会のため力を尽した。
 「彼と行をともにした知人、友人は、ほとんど華族に列し、官界、財界で名をなしている。ひとり大江のみ無位無冠、ひたすら法衣をまとって全国を行脚し、部落解放に全力をうちこみ、差別のない、平和な日本を建設しようとしていたのであった。多難な一生ではあったが、また有意義な一生でもあったわけである」「彼が我が国の近代的ヒューマニズム の先駆者であった」(『宿毛人物史』)。
 著書に「鉄欐詩存」(1903)「楊鶴詩稿」(1906)「明星山房詩 鈔」(1908)などの漢詩集がある。大正10年(1821)9月12日病没、75歳


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