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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その5

 岩村高俊(1845~1906)
 地方長官。男爵。通称精一郎、英俊の3男として宿毛に生まれる。長兄は通俊、次兄は林有造である。
藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867)京へ上り陸援隊に入る。郷里を出でて京都に行き、薩摩や長州の尊王派の志士と交わった。その年11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたことに高俊は憤慨し復讐を考えた。犯人と噂された紀州和歌山藩の三浦久太郎を大江卓はじめ同志16人と共に、天満屋に襲ったが、警戒が極めて厳重で、傷づけただけに終わった。
 同年12月、高野山での挙兵に参加した。慶応4年正月に討幕軍の編制に当り、彼は東海道先鋒総督・岩介具定の輩下に属して江戸に向かった。その年の4月に監察使軍監を任じられ、信越奥羽各地に転戦した。特に長岡藩総督・河井継之助が固守していた長岡城を陥れた。その功によって禄200石を賜わった。
    岩村高俊
                 岩村高俊
 明治4年(1871)11月、宇都宮権参事、6年には神奈川県権参事となった。明治7年、兄の通俊は佐賀権令を去ると高俊が佐賀権令(今の県知事)に任命された。前参議の江藤新平が政府に反対する佐賀の乱を起した時は、この乱をいち早く平定することが出来た。
 さらに愛媛県令を命じられ、6年にわたり在任した。仕事の一つに、高知県との県境決定がある。藩政時代から土佐と伊予との国境にあいまいな所が多く、たびたび争いがあった。時々両国人の衝突事件が起きて、これが両国の悩みの種であった。
愛媛県令となった高俊は、この問題を解決するため、篠山(ささやま)は全部を愛媛県に、沖の島は全部を高知県に属せしむることにして問題が解決をみた。
 明治13年(1880)には内務卿書記官に、16年には石川県令、23年に愛知県知事等に歴任したが、病を得て一時退職した。快復後25年(1892)に貴族院議員に勅選され、その後28年には再び地方官に返り咲き、福岡県知事、30年(1897)には広島県知事を勤めた晩年は貴族院議員となった。
 39年(1906)1月2日、日本橋区日本橋病院において逝去した。享年62歳。

 酒井融(1840~1920)
 酒井融(とおる)は、拙児ともいい、天保11年(1840)8月22日、宿毛に生れた。父は俊拙である。青年の頃宿毛の家老の御典医・羽田文友について医学を学び、医名を有慶といった。明治元年戊辰の役には、宿毛の機勢隊の軍医として従軍し、北越に転戦して戦功を立てた。
 その後陸軍に入り主計将校となった。明治10年(1877)には、谷干城(高知県出身)が護る熊本城の主計主任として糧秣等を管理していたが、この年西南の役が起り、熊本城は薩軍によって包囲されてしまった。援軍は来らず、囲みは解けず、その上兵糧倉は焼け、兵糧は1日1日と残り少なくなっていった。兵糧の責任者である酒井は苦難にあった。おかゆをすすり、木の実、草の葉、死馬の肉やねずみまでも捕って食べるという状態となった。籠城は五十余日に至ったが、政府軍が薩軍を破り、西南戦争は終わった。
            酒井融
                酒井融
 その後、軍隊を退いて、会計検査官となって会計検査院に勤めた。会計検査院は同郷の小野梓の考えによって開設されたもので、藩閥政治の情実を会計検査によって防ごうとしたものであった。酒井がこの会計検査院に入ったのは、小野梓が大隈重信の下野に従って官を去った後のことである。
 明治16年(1883)の暮、宿毛から若き坂本嘉治馬が訪ねてきた。後の冨山房の社長である。嘉治馬の父は喜八という足軽で、戊辰の役に従軍の後、病に倒れた。当時軍医として共に従軍した酒井は、それを知り、1里近くもある坂本の家まで毎日毎日往診をし、そのおかげで喜八は一命をとりとめる事が出来た。喜八は、酒井を命の恩人だと人に語っていた。幼い時からこの話を聞かされていた嘉治馬は、青雲の志をいだいて無断で家をとび出し、酒井を頼ったのである。
 嘉治馬は酒井の世話で、当町小野梓が開店した東洋館書店へ勤めることになり、小野が病に倒れ死ぬと、小野の志をついで冨山房を起した。坂本にとって酒井は大恩人である。
 官を辞し郷里宿毛に帰っていたが、明治27年(1894)の日清戦役には、谷干城の推せんで第一軍糧餉部長(将官待遇)となった。戦後再び宿毛に帰り余生をおくった。
 大正9年(1920)8月30日没、81歳。



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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その4

 林有造(1842~1921)
 政治家。幼名助次、包直ともいう。号は梅溪。天保13年(1842)8月17日、岩村英俊の2男として宿毛に生まれた。兄は岩村通俊、弟は岩村高俊である。林茂次平の養子となる。鳥羽伏見で徳川方に加担した松山、高松両藩に朝廷は討伐を土佐藩に命じた。土佐藩の松山征討軍に先立ち、林は斥候として松山に乗り込み、松山藩の動きなどをつぶさに調べて本藩に報告した。
その後、伊賀陽太郎のお供をして、竹内綱などと共に北越に転戦し功をあげた。
 明治3年(1870)8月、普仏戦争視察の官命が板垣退助の代わりに林を推薦。通弁として中浜万次郎を同伴、大山巌、品川弥二郎たちと横浜を出港、アメリカを経て英国に渡り、更にベルリン、パリを見学し、戦線を視察した。翌4年4月7日、無事に横浜港に帰着した。
 5月15日には高知藩小参事に任命され、11月には新県制によって30歳で参事(後の知事)に任官した。
  明治4年の暮、土佐、吾川、高岡の3郡の山間地帯を基盤として「油取り騒動」とよばれる一揆が起こった。兵を用いて鎮圧すべ きだという声を抑え、主謀者数名を捕え一般民衆の罪を問わず一揆が収まった。
 翌年(1872)10月、征韓論をめぐり、西郷・板垣らが参議を辞職すると同調して辞職した土佐出身の将校達は、山内容堂の墓前に参集し、南海義社を結成した。
 
 西郷を訪ねた
 明治7年(1874)1月、板垣の命をうけて林は鹿児島に西郷を訪ねた。
「薩摩一藩を以って天下を動かすに足るという目信は結構であるが、更に同志があるならばこれと結び、東西相応じて策の万全を期するのが一番よい。優柔不断の政に対して、板垣をはじめ土佐人士は袂を払って起つの気慨を有している。この際はよろしく薩土連合の勢力を以って政府に当るにしくはあるまい」と熱心に説いた。しかし西郷はついに明答を与えなかった。薩土連合の契約は成り立たなかったけれど、万一の場合、西郷は断然兵を挙げる意志のあることだけは確め得たのであった。
 それから佐賀で江藤新平に会った。江藤は、佐賀で憂国党が旗を挙げそうな形勢であるが、これを制することは難しい。「土佐もすぐ兵を挙げてもらいたい」といった。
 林は「土佐と薩摩が兵を動かすまでは自重し、憂国党の青年をおさえて、軽挙妄動することのないように注意されたい」と忠告した。しかしこの忠告は聞き入れられず、佐賀は遂に兵をあげたのであった。林はその帰路、神戸に上陸した時に江藤の挙兵を聞き、東京に着いた時はすでにそれが敗戦に終ったことを聞いたのであった。
 
 挙兵めざす
 林は西郷訪間のことを板垣に復命の後、7年の3月8日土佐に帰った。
 この年、林は、板垣、片岡健吉達と共に、高知に立志社を創立し、後進の指導をしながら、やがて次への飛躍の時期を待つことになった。明治10年(1877)、薩摩の私学校の生徒が火薬庫を攻撃し、北進して熊本城を包囲した。
 この薩軍の挙兵に呼応して、土佐でも挙兵をしようと、板垣邸に集って協議をした。そのほとんどは、板垣と共に辞職した将校連中であった。
 林は挙兵派の中心的人物で、さきに払い下げを受けていた白髪山の大森林を、政府に売り、その金でドイツのスナイドル銃3000挺を、上海のポルトガル人ローザーより買う任務を帯びて東西に奔走した。このドイツ銃が入手次第、兵を挙げようというのである。
 ドイツ銃購入の担当者は、岡本健三郎と中村貫一であり、岡本は竹内綱とはかってドイツ銃800挺を先ず購入した。
林が計画した土佐軍の出陣の方向は、2方面であった。1つは大阪城を攻めとってこれを根拠地とし、1つは松山城を攻撃して中国筋に進み、薩軍と合するというのであった。
 一方、立志社内では、言論によって政府を攻撃しようとの意見が強くなり、板垣、片岡などは建白書を提出した。立志社の動きに周到な警戒をしていた政府は、高知にある銃器弾薬を、10年6月6日、汽船に積んで大阪に引き上げた。
 14日には、立志社の藤好静と村松政克が捕縛された政府が特に目をつけていた。林は、銃器引き取りを促進させるため8日竹内綱の屋敷でローザーと会見しようと、人力車で宿を出たとたん、待ち伏せしていた警官に捕えられ、警視庁に留置された。 
この陰謀に加わった立志社の連中は殆んど逮捕され、東京臨時裁判所において玉乃正履、岩谷龍一の審問を受けることとなった。
林は、累を板垣、後藤に及ぼさないよう、自分達が首謀者であると言いきった。
    林有造
                          林有造
 岩手で入獄
 遂に板垣、後藤は1回の取り調べも受けなかった。しかし、林は禁獄10年の刑を言い渡され、大江卓と共に岩手の監獄に送られた。
 岩手県知事・島維精は、獄舎内では8畳の間を与え、小使1人をつけ、書物の出し入れは自由という手篤い厚遇を与えた。
維新以後、衰微していった宿毛の有志達は、獄中の林に宿毛振興策を問うてきた。林は熟慮の結果、次の3策を得ることができた。
① 宿毛と片島とを連絡させ新田50町歩を造る。
② 片島に汽船を航行させ運輸の便をよくさせる。
③ 東に路をつけ、有岡駅まで車を通行させる。
 この3策を実行すれば宿毛は発展することに間違いないと返信した。
 明治17年(1884)、仮出獄した林は、直ちに宿毛に帰り、3策を詳しく説明した。
 明治19年1月には、新田築造の許可を受け、現在の林新田ができた。
 明治20年(1887)、宿毛汽船会社を興し、宿毛-高知間を通わせた。宿毛丸は沈没する事態があったが、片島港は次第に発展した。東の道路も、市山峠を切り下げて車が通えるようにした。その後この道は県道に編入され、更に現在は国道56号線となって交通の便はますますよくなった。
 
 自由党から衆院議員に
 仮出獄した林は、政治運動にも力を入れた。明治20年、不平等条約の改正問題が起るとこれに反対して建白書を出し、そのため保安条例によって東京退去を命ぜられた。
 明治23年、第1回の衆議院議員選挙が行なわれた。高知県では第1区(土佐、長岡)から竹内綱、第2区(吾川、高岡、幡多)から片岡健吉林有造、第3区(香美、安芸)から植木枝盛が選出された。これら4名はいずれも自由党に属した。
 翌25年(1892)2月15日を期して第2回の総選挙が行なわれた。
 政府は、内務大臣品川弥二郎のもとで、選挙大干渉を行なったので紛争が各地に発生した。中でも高知県下では、干渉が最も露骨を極め、自由党と政府与党の国民党との抗争はついに流血の惨事をまねくに至った。
土佐には、自由党と対立する1つの政社があった。古勤王組という保守党で、各郡に散在する旧郷士を主要勢力として、土佐国民党と称していた。これらの人々は、一種の国家主義を信奉し、品川内相らの思想と一脈通ずるものがあり、自由党とは犬猿の間柄であった。
 
 選挙干渉とたたかう
 時の高知県知事は、鹿児島人の調所広丈(ずいしょひろたけ)で、警察部長は古垣兼成であった。第2区では白由党から片岡健吉林有造、国民党から片岡直温と安岡雄吉が立候補したので、その結果が最も重視せられ、高岡郡長には、鹿児島から呼び寄せた警部、中摩速衛を抜てきした。東西各地の警察官は、公然と有権者に向って国民党候補者への投票を呼びかけ、これに反対する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙するのは不敬極まることだ」としかり、これに抗弁すれば直ちに暴漢が乱入して来て警官の命令だと称して半殺しの目にあわされた。
 選挙期日がせまると警官は制服を脱いで暴漢の中に加わり、時にはまた制服をつけて警察権をふりまわした。このように警察と一体となった国民党の乱暴に対して、自由党壮士もこれに対抗したので各地で大騒動が起った。
 このような選挙大千渉の結果、林有造片岡健吉は落選し、国民党の片岡直温と安岡雄吉が当選した。しかし各方面からの訴えがあり、それによって名古屋控訴院は、翌年4月、片岡百温と安岡雄吉両名の当選無効を宣告し、林有造と片岡健吉は晴れて当選し、再び議政壇上の人となることができたのである。
 明治31年(1898)、自由党と、改進党を改めた進歩党とが合同して憲政党を組織した。林はその総務委員に選ばれ、ついで大隈、板垣連合内閣ができると逓信大臣に任ぜられた。34年、伊藤博文が立憲政友会を組織すると、憲政党を解党して、その幹部は政友会に入り、林はその総務委員となった。この憲政党解党を、自由党の栄誉を忘れ、藩閥政権に身売りするものだと論じて反対する者もあったが、中でも幸徳秋水は「自由党を祭る文」を発表してその終末に血涙をそそいだのであった。
 やがて、伊藤博文が内閣を組織すると、林は農商務大臣となり、36年(1903)には、千葉県より立候補して衆議院議員となり、ついで片岡健吉と共に政友会を脱して無所属議員となった。こうして衆議院議員に前後8回当選し、その間2回大臣を務め、国政のため尽力したが、41年以来政界を去って郷里宿毛で郷土発展に尽くした。
 「明治維新以後、わが郷土宿毛からは、数多くの国家有為の人材が出ているが、終始宿毛発展のために力を尽した宿毛第一の人物は、何といっても林有造である」(『宿毛人物史』)
 大正10年(1921)12月29日病没、80歳。

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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その3

 岩村通俊(1840~1915)
 政治家。男爵。幼名猪三郎、弥左衛、左内。号貫堂、俳号素水。英俊の長男として天保11年(1840)6月10日宿毛に生まれる。弟に林有造、岩村高俊がいる。
 幼い時、在郷の儒者酒井南嶺に学んだ。万延元年(1860)、土佐勤王党の武市瑞山が宿毛に来て同志を糾合したが、この時通俊は意気投合して将来を誓い合った。
 文久元年(1861)邑主安東(伊賀)氏理の側役となり、慶応元年(1865)には文武頭取、目付役となった。この年に長崎に行って安東家のために小銃若干を買って安東家の軍備の新編制につくした。明治元年(1868)4月仕置役となって上阪したが、ついで入京して親兵総取締となった。
 奥羽地方では、まだ佐幕派の諸藩は勤王軍に反抗していた。通俊は山内容堂公に従軍の許可を乞い、朝命をもって越後口に出征を命ぜられ、弟高俊とともに軍監となって出陣した。通俊は羽越各地に転戦して佐幕軍を破り12月には京都に凱旋し、総督仁和寺宮より賞として錦衣を賜わった。
   岩村通俊
     岩村通俊
  明治2年、新政府に登用せられ、聴訟司判事に任ぜられた。つづいて函館府権判事開拓判官になった。明治4年(1871)、札幌の開拓を命ぜられたが、当時札幌は未開の原野で、開墾は困難を極めたが、通俊は寝食を忘れて鋭意経営し、ようやく新市街形成の基礎を築いた。明治5年開拓大判官に進み、道内全域の開発に心血をそそいだので、道民からは開拓の父と称えられた。
明治6年7月、佐賀県権令に任ぜられたが、当時の佐賀県は廃藩後の土地還付について県民に不服が多く、小作人達は竹槍、むしろ旗をもって官に迫っている状況にあった。通俊は同県出身の大蔵卿大隈重信を訪れて、その了解を得て佐賀県におもむいた。就任の日に直ちに地主たちを召集し、相当の代償金を渡して彼等の納得を求め、一挙に土地還付の難問題を解決したので、政府当局はその敏腕に驚いた。
 通俊はその他の県政も積年の旧弊を改めたので、政府は益々通俊の手腕を認め、翌年1月には工部省出仕を命じて中央に呼びかえされた。通俊は後任の佐賀権令として弟の高俊を推薦したところ、政府はこれをいれて高俊を任命した。
高俊が佐賀権令に任命された時、前の参議、江藤新平が佐賀の乱をおこしたので、高俊はその鎮撫を命ぜられた。通俊はこれを知って、内務卿大久保利通に従って、佐賀におもむいた。そうして弟の高俊を助けてこの鎮撫にあたり、わずかの日数でこれをしずめて、佐賀の乱を終らせた。帰京後、命によって「西征始末」を書いた。この年7月には議官に任ぜられ、つづいて8月には判事となった。
 明けて明治9年(1876)には山口地方裁判所長に任命された。10月に前原一誠、奥平謙輔等が、政府に反抗して「萩の乱」を起したが、直ちに鎮定されて、皆捕らわれた。通俊は黙否権を使用する謙輔にむかって条理をつくして説得した。
翌日、謙輔の態度は一変して従順に事実を白状し、前原一誠も一切を白状したので、裁判はスムーズに進んで刑が決定した。首謀者前原一誠等8人を斬首、余党60余人を懲役に付し、その他2000余人は放免した。裁判を始めてからこの結審までわずかに7日間で終った。
 「山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会が与えられぬまま関係者の判決が言い渡され(た)」という見解もある(ウィキペディア)。
  
 明治10年(1877)には西南戦争が起きた。通俊は当時鹿児島県令(今の県知事)の辞令を受けて海路鹿児島に赴任したが、鹿児島県内は砲煙弾雨がうずまいていた。通俊は従容としてことに当り、士民の宣撫や救護に全力をつくし、遂に大乱は鎮定した。城山で自害した西郷隆盛の屍を受け取り、浄明寺の域内に葬った。
 維新後の佐賀の乱、萩の乱、西南の役にすべてに通俊が関係していた。
 明治12年(1879)、彼は政府に請願して士族授産金10万円を受け取り、これによって各種の殖産事業を興し、戦後のいためられた鹿児島復興の基礎をたてた。
 元老院議官、会計検査院長等に栄進したが、明治15年(1882)に沖縄県令となった。当時、沖縄では、王府時代の土地・税制制度など古い制度が残り県民を苦しめていた。その中に、八重山諸島や宮古島の人頭税がある。しかし、政府は旧支配階級の反発を避けるため旧慣習を温存していた。
 前任の上杉茂憲県令は、県内をつぶさに視察し、住民の困窮と地方役人の怠慢を察知すると、上京して改革案を上申した。政府は、急激な改革を避けるという方針に反するとして上杉を転任させ、代わりに赴任したのが岩村だった。開明的な上杉県政を批判して旧慣温存を定着させたとされる。人頭税が廃止され、旧慣温存政策が終わったのは、明治36年(1903)のことだった。
岩村は、17年(1884)に司法大輔に昇任した。前に赴任していた北海道を巡視し、政府に対して北海道庁を置くことを建議した。明治19年に北海道庁が置かれ、初代長官に通俊が任命された。
 22年(1889)伊藤内閣のとき農商務大臣となり、ついで宮中顧問官、貴族院議員に勅選され、御料局長を兼ねた。
 大正4年(1915)2月20日、病没、76歳。『貫堂存稿』がある。


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時代を駆けた宿毛の人間群像、そ2

 竹内綱(1839~1922)

政治家・実業家。通称万次郎、諱は吉綱、号は武陵。天保10年(1839)12月26日宿毛に生まれる。父は庄右衛門梅仙、代々伊賀家の重臣であった。目付け役として、主家の財政再建に尽力した。

宿毛藩では、論争により重役すべてが交代し、竹内綱が若くして目付役となった。竹内綱は攘夷論には反対であったが、高知の攘夷派、佐幕派の2派の有力者についてその論を聞くため側用役岩村通俊と共に高知に行った。奉行職深尾鼎、目付役後藤象二郎、武市半平太を訪ねたが、後藤、武市2氏との会談で、攘夷論のよくないことを確認し、宿毛に帰ると領主にこのことを報告した。
   竹内綱
              竹内綱
 慶応2年(1866)7月3日、安満地浦(現在の大月町安満地港)に黒船が入港して、宿毛湾内はにわかに騒然となった。伊賀家では老役の羽田左膳と竹内に歩兵二箇小隊を率らせて安満地浦へ遣わした。彼等は漁舟十余隻に分乗してこれに向ったが、現場に到着して始めて黒船の実態を見て驚いた。いかなる方法をもってしても到底、彼等が全く歯の立たない巨大な存在であることを感得した。勝敗のあまりに明白なことを見きわめ、彼は厳重に兵に発砲を差し控えさせた上、単身、小舟に乗って黒船に漕ぎつけた。黒船に乗りこんで談判を試みたが言葉は全く通じない。その内黒船の士官が「和の英語箋」と云う書物を持ってあらわれたので、互にその本にある単語を指摘し合って、やっとのことで海岸測量のために寄港したこと、英国船であること、明7月5日午前中に出港すること、を確かめることが出来た。

竹内は船上で士官から洋酒を振舞われ、なごやかな空気の中の取り引きで帰って来たが、尊王攘夷にわいていた時代で、ざん言されてちっ居を命ぜられた。彼はいずれ切腹の命令が下るものと覚悟していたが、丁度その折、高知の宿毛屋敷留守居役から連絡があり、それによると、例の英国測量船は須崎の港にも入港したが土佐藩では、これに牛肉、雞卵等の食糧を贈ってこれを遇したとのことである。これによって幸いにも命はとりとめちっ居も解かれることになった。

慶応4年(1868)伊賀家の世子・陽太郎が京都に遊学することになると竹内は選ばれて、その補導役を仰せつかって近習、医者その他を随えて陽太郎の伴をした。彼は陽太郎の京都での生活の責任者として精勤を励んでいたが、その内陽太郎はにわかに奥羽征討軍に加わることになった。彼はよくこれを輔佐して二個小隊を率いて越後から出羽、庄内に入って奮戦した。凱旋後、功によって刀を賜ってその功を賞せられた。

明治2年(1869)には大阪府典事となり、ついで参事となった。同4年には大阪造幣寮が開設されたが、新政府はそのために政府要員をたびたび大阪に派遣して仕事に当らせた。大阪府参事竹内綱が伊藤博文と親交を結んだのはこうしたきっかけで、伊藤は当時政府の役人としてたびたび大阪に来ていて彼と知合ったわけである。竹内は伊藤に廃藩置県論を提示して多いに伊藤を啓蒙したと云う。

明治7年(1874)10月に大蔵省6等出仕に任ぜられたが、同8年12月に辞職して官界を去った。そうして後藤象二郎の経営する蓬萊社に入り、社長となって高島炭坑の経営に従事した。

明治10年、西南の役が起きると、林有造達は西郷隆盛に呼応して挙兵し、一挙に大阪鎮台を陥れる策を練った。この時彼は有造を援けて新型洋式小銃3000挺の入手に奔走した。これより先、明治7年の征台の役に外国より購入した小銃が不用になって目下、外国商人の手にある事を知った彼は、これに目をつけ800丁の鉄砲を手に入れた。しかしこの事が露顕してついにとらわれの身となり、林等は禁固10年の刑を云いわたされ、彼も禁固1年に処せられ新潟の監獄に服役した。

出獄の後は専ら板垣退助を助けて自由党の組織に従事した。明治23年(1890)、帝国議会が開設されると彼は高知県から選ばれて衆院議員になり、一時中央政界で活躍したが、明治29年(1896)、朝鮮に京釜鉄道が興るとその常務理事に送ばれて以来、実業界に転じた。明治40年(1907)京釜鉄道が国有となると、彼は東京に引き上げ、それからは首都の実業界で活躍している。

明治45年(1912)、高知市に三十余万円(現在の数億円)の富を投げ出して独力を以て私立高知工業学校を創設した。当時、高知県は、実業教育は全く他の県に立ち遅れていた。高知商業学校が高知市立として存在しているのと、県立では高知農林学校があるのみで、殊に多額の施設設備を必要とする工業教育については全く手をつけていない状態であった。

彼は工業立国化する日本の将来と郷土高知県の後進性を打破して、教育の機会均等を助ける意味から独力で工業学校を創設した。その後、その必要性が認められ、県立に移管され、今日の高知工業高等学校にまで発展したもので、彼が郷土の文化発展に貢献した功績は偉大なものである。
 大正11年1月9日84歳を以て東京の自邸において歿した。


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高田渡「生活の柄」には原曲があった

  フォーク歌手の高田渡が歌ってヒットした「生活の柄」は、高田の作詞作曲と思っている人がいる。ユーチューブにアップされた動画を見ると、そのように書いている例がある。
 作詞は、沖縄を代表する詩人、山之口獏であり、その代表的な詩である。
 「歩き疲れて夜空と陸の隙間に潜り込んで 草に埋もれて寝たのです ところかまわず寝たのです 」と歌いだす。「浮浪者のままでは眠れない」と歌われるように、放浪者の心情が歌われている。そこには飄々とした雰囲気があるけれど、とても切ない哀しみを秘めている。この詩と旋律がとてもマッチしていて、この詩の世界が見事に表現されている。
 高田は亡くなったが、ユーチューブ動画へのコメントを見ても、いまだに魅了されるファンが多いことがわかる。
 ところが、この曲は、高田のオリジナルではない。原曲があるという。動画へのコメントで、原曲が存在することが書かれていて、初めて知った。
   
 1930年代頃、アメリカでカントリー・ミュージックを歌いヒットした「カーターファミリー」が歌っている。兄弟と妻の3人編成のバンドだった。1960年代のアメリカでのフォークリバイバルに影響を与えたといわれる。
   
 かれらのナンバーのなかの「when i'm gone」が原曲である。「私が去っても」というような意味らしい。
 幸い、ユーチューブにアップされている。聞いてみると、メロディーはそっくりである。しかも、「生活の柄」のなかの「歩き 疲れては 草に埋もれて寝たのです」という部分も原曲通りである。
  もしかしたら、「when i'm gone」もオリジナルではなく、古い伝統的な音楽の原曲があるのかもしれない。
 山之口獏の詩と驚くほどぴったりと合っている。よくぞ、高田渡がこの曲に目をつけ、歌詞を載せたものだと感心する。
 「when  i'm gone」は、ユーチューブで見ると、「生活の柄」だけでなく、ほかの歌詞を載せて歌っている方もいる。
 この詩と旋律がぴったり合って、山之口獏の世界を表現している点では、「生活の柄」がもっともすぐれていると思う。
 そいう点では、高田渡のオリジナル曲とは言えないが、高田渡編曲というだけでない、卓越した創作力の産物といえるのではないだろうか。
   





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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その1

  高知県宿毛市の幕末から維新にかけての歴史を見てきたが、特に目を引くのは、土佐の西端の宿毛から、激動の時代に、高い志しと熱い思いをもち、土佐にとどまらず日本の各地、さらには欧米にまで駆け抜けた人士を輩出してきたことである。
すでに書いた宿毛の歴史のなかで、それぞれ登場した方々ではあるが、必ずしもその人の全体像を明らかになってはいない。幸い『宿毛人物史』が発行され、宿毛市ホームページで公開されている。それぞれ人物像を知ると、驚くような活躍ぶりでとても興味深い。その人物像と業績について個人ごとに改めて見ておきたい。その多くは『宿毛市史』『宿毛人物史』からの紹介である。ただし、個人の業績の評価については、さまざまな角度の見方があるので、引用は事実関係だけにとどめたものもある。

 伊賀陽太郎(1851~1897)
 宿毛領主、諱は氏成。嘉永4年(1851)宿毛11代領主、山内氏理の嫡子として生まれた。
伊賀家はもと稲葉姓を名乗り、美濃の国(岐阜県)に住んでいた。先祖・郷氏が、山内一豊の姉・通を妻とし、これより安東姓を名乗る。その子、可氏は叔父・山内一豊に仕え、関ケ原の戦いに参加した。一豊の土佐入国に従い、宿毛に6200石を賜り移った。それ以来明治維新まで12代、260余年間、土佐西辺の鎮めとして続いて来た。土佐藩では山内姓を名乗っていたが、明治維新の際に旧姓の伊賀に改めた。
  伊賀陽太郎   
        伊賀陽太郎
 陽太郎は、幼少の頃から学を志し、慶応4年(1868)には京都に遊学した。この時、竹内綱が補導役として従った。先に京に出ていた岩村通俊は、陽太郎に会うと「今は正に維新前夜である。のんきに読書などで時を過ごしている時ではない。みずから戦場に臨まれて王事に力を尽くさなければならない時節だ。」と述べた。陽太郎は「それこそ我が意を得た言葉だ」とすぐにも東征の官軍に身を投じようとしたが補佐役の竹内綱は、邑主氏理の許可がないからと制止した。陽太郎は致し方なく、側役に藩主山内容堂を説かせて、この許可を得た。藩命を受けて、補佐役竹内綱、近習林有造など側近を率いて、北陸へ出陣した。
明治維新後、知識を世界から求める必要を痛感し、自費でイギリスに留学を志した。明治の始め、洋行熱は盛んだったが、その多くは1、2年の短い期間だった。陽太郎は10年にわたりイギリスにとどまり、政治、経済を学んだ。帰国すると、農商務省に入ったが短期間で退職した。
 彼は新日本の建設は先ず教育から、の信念に燃え、高等商業学校の教諭となった。だがいくばくもせず病気で退職した。宿毛に帰って塾を開いて青年の教育に当った。
明治30年(1897)5月3日、47歳で死去した。

 岩村英俊
 宿毛邑主・安東氏(後の伊賀氏)の臣である。岩村家は遠祖平教盛から出て、その子孫が土佐に逃がれた。後に俊忠の子俊重は長曽我部元親に仕えて香美郡岩村(現在の南国市)に移り住み、姓を岩村と改めた。
 山内一豊が入国し、俊重の孫、岩村俊顕は一豊の家老、安東節氏に仕えることになって、宿毛に移り住んだ。英俊は、槍術の達人で、和漢の学に通じ、文武両道に秀でていたので重く用いられた。10代氏固、11代氏理の2代に仕え、命を受けてたびたび上阪して財政の確立につとめた。嘉永元年(1848)には命によって江戸におもむいたが、その時もまた功により十石を加増された。
 激動の幕末、土佐西部の重鎮として尊王擁夷の大道を歩いた。維新の役はもとより、維新後においても、幾多の人傑を宿毛より出し、岩村一家からも通俊、有造(林)、高俊をはじめ歴史をかざる人物が生れたのである。
明治維新後は居を東京に移し、15年8月、79歳で没した。

小野義真(1839~1905)
 実業家。通称恭一郎、はじめ立田春江、後に立田強一郎といい、小野生駒ともいった。天保10年(1839)4月8日宿毛に生まれた。小野家は代々伊賀家に仕え、宿毛大庄屋を勤めた。 
 明治維新後、新政府に出仕して大蔵少丞となり、ついで土木頭となって大阪港の築港や淀川の改修等にその敏腕を振った。官吏として生きるよりも、身を転じて実業界に転じようと明治7年(1874)1月に官界から去った。
 退官後は三菱の顧問として岩崎弥太郎の補佐をした。弥太郎は彼を信頼し、重大事業はすべて彼の意見を聞いたという。三菱での彼の発案した事業で有名なのは小岩井農場の建設がある。岩手県盛岡市の郊外に2600余町歩の面積を持つこの農場は日本一の大農場といわれた。当時は農家で1,2頭のみ飼育している家庭畜産でしかなかったこの時代に、広茫たる原野に数千の南部馬を放牧して、わが国馬匹の改善と奨励につとめた。   
    小野義真

    小野義真

 明治10年(1877)西南戦争が起こると、弥太郎を説いて汽船を購入させ、東京より戦場への兵器弾薬食糧の輸送を全部一手に引受けさせ、ばく大な利益を得て、三菱会社の基礎はこの時に初めて定まったといわれている。
 明治5年東京横浜間に開通した汽車はその後西へ西へと歩を延ばしてはいるものの、東へは一歩も延びず、単に東海道線の建設に明けくれていた。このままでは全国に鉄道の普及するには何百年かかっても出来ないことに目をつけ、私設鉄道の設立を考え出したのが岩倉具視であった。岩倉に抜擢されて日本鉄道株式会社設立主任に就いた。この会社、東京、青森間に私設鉄道を建設することを目的としていた。
 設立には困難を極めたが、小野は日夜奔走し、政府に保護を願い、民間資本家を訪れて出資を乞うなど手をつくして、資本金1000万円(現在の数千億円)の大会社を設立することに成功した。

日本鉄道株式会社が設立されると、社長に就任、さっそく東北本線上野、青森間の鉄道建設工事を開始した。東北本線は東海道線、山陽線と共に本州を縦断する重要な大幹線の一つである。工事上幾多の難関はあったが、東北線は開通した。21年間社長の椅子に座って経営にあたった。政府は国策によって私設鉄道を買収して、わが国の鉄道をすべて国有化することになり、その第一に重要幹線東北本線の買収を開始した。彼は国策のよろしいことを認めて喜こんでこれに応じた。日本鉄道交通の発展に貢献した。明治38年(1905)5月9日没す、67歳。



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ウクライナ問題。ロシアだけ非難するのはおかしいという声について考える

  ロシアによるウクライナへの侵略に多くの人々が心を痛め、ロシアは戦争をやめよ、ウクライナに平和をという声が高まる一方で、アメリカやウクライナの対応にも問題があった、どっちもどっち、ロシアだけ非難するのは一方的だ。マスメディアの報道は偏っているといった声がある。ウクライナでの今日の事態をどう見たらよいのか、判断の基準となるのは国際法や国連憲章だと思う。その視点で考えてみたい。

 ◆ウクライナの対応にも問題がある。
 ウクライナがNATOに加盟しようとしてロシアに脅威を与えたから、ロシアの安全を守るためにやむを得ないという意見もある。本来、軍事同盟であるNATOは解消すべきものだと思う。ソ連の崩壊後、NATOが東方に拡大したこと。さらに隣国のウクライナまで加盟することにロシアが危機感をもったことは確かだろう。
 しかし、脅威があるからいって、隣国を武力侵略してよいとはならない。脅威があるから先制攻撃してよい、となれば世界は収拾がつかない。果てしなく戦争が激化し、第3次世界大戦、はては地球の破滅までいきかねない。
 二度にわたる世界大戦を経て、再びこれを繰り返さないために、つくられたのが国連憲章である。国連憲章は、各国の領土保全と独立を守り、武力による威嚇と武力行使を禁止している。国際紛争は平和的手段で解決することを義務付けている。だから、国連総会特別会合ではロシア非難決議を採択したのである。

 ◆アメリカも再三、侵略を行ってきた。
 アメリカが戦後、ベトナム戦争やイラク戦争を繰り返してきたことが、国際法上も許されない侵略であることは間違いない。だが、アメリカが侵略をしたからといって、ロシアの侵略が正当化されるものではない。ロシアにしても、戦後、旧ソ連時代にハンガリーやチェコスロバキアへの武力干渉、アフガニスタンへの侵略があった。どの国でもあっても侵略戦争は国際法や国連憲章に照らしても許されない野蛮な行為である。

 ◆ウクライナとアメリカ側からの一方的な報道ばかりで、ロシアについての報道が少ない、ロシア側の主張が公正に報道されていないという意見がある。
 ウクライナ側からの報道が多くて、特に民間人の被害、虐殺などが詳しく報道されていることは事実である。戦争にさいして当事国の主張が互いに相反することはいわば当然ではある。問題は、それらの報道、主張はどちらの言い分が事実にたっているか、正しいのかを見極めることである。映像で映し出されるウクライナの戦争被害の現実は、当初、ロシア側は「攻撃は軍事施設などに限定しており、民間施設は攻撃していない。ウクライナの自作自演」などと主張していた。だがいまとなっては、民間住宅、病院、学校、鉄道の駅、劇場、商業施設への無差別攻撃は大規模であり、否定しがたい事実である。
 また、ウクライナの民間人虐殺について、戦争には犠牲がつきものだから、という意見もある。しかし、戦争だからなにをやってもよいということにはならない。戦争であっても守らなければならないルールがある。民間人の殺害は、ジュネーブ条約など国際人道法に反する犯罪行為である。また、化学生物兵器なども国際法で使用が禁止されている。
 
 ◆プーチン大統領の核兵器使用発言について
 プーチン大統領は核兵器の使用もあるという脅しを加えている。核兵器は、大量破壊兵器の最たるものであり、その使用は国際人道法の原則によって禁止されている。核兵器禁止条約では、核兵器の保有・使用を禁じているだけでなく、核による威嚇も禁止している。
 日本でも世界でも「ロシアによる核兵器の使用を絶対に許してはならない」という声と運動が広がっている。
 改めて、プーチン大統領とロシアは、ウクライナへの侵略を止め、平和を回復すること、いかなる事態であっても核兵器は絶対に使用しないこと求めたい。

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