幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その82022-04-25 Mon 15:50
選挙干渉
第1回帝国議会は、明治23年(1890)11月25日に召集された。政府提出の予算案をめぐって、当初から与野党が厳しく対立した。これを調整するため議長中島信行、予算委員長大江卓、請願委員長片岡健吉ら9名で予算審査委員会をつくり交渉の結果、妥協案が賛成157、反対125で成立し解散を避けることができた。 山県内閣はこの譲歩によって退陣し、松方正義が新内閣を組織して24年12月21日第2回議会が召集されたが、野党は政府の軍艦・製鋼所設立費の予算を否決し、政府攻撃を強化したので議会は12月25日解散となり、翌25年2月15日に第2回総選挙が施行されることになった。 内務大臣品川弥次郎が中心となり、全国の選挙区で官憲が選挙干渉にのりだし、野党側もこれに対抗したので、いたる所で暴力と暴力の衝突が行われ、遂に各地で死傷者がでて我が国選挙史上に汚点を残した。 高知県では、その干渉が最も露骨になり、自由党と与党である国民党との抗争が激しかった。当時の高知県知事・調所(ずしょ)広丈も、警察部長・古垣兼成も鹿児島県人であり、最も激戦地であると予想される第2区高岡郡長には、同県人の中摩速衛を起用して、選挙干渉のために万全の備えをとったのである。高知県下の立候補者は第1区では前回の候補者竹内綱が実業会に入り辞退し、自由党(24年3月20日「立憲」をけずり自由党と改名)の武市安哉と国民派新階武雄、第2区では、自由党林有造・片岡健吉、国民派片岡直温・安岡雄吉が立ち、第3区では植木枝盛が1月25日病死したので西山志澄が枝盛の養嗣として植木氏を称して代わり、国民派弘田正郎と対立した。第1区と第3区とは自由党支持票が多数であることは前回の総選挙で明らかであるが、第2区の林・片岡を倒す事に政府側の目標がおかれ、したがって干渉が最も積極的に行われたのである。 各地の警察官は公然と有権者に向って、国民党候補者への投票をすすめ、抗弁する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙することは不敬きわまることだ」と叱責し、国民党壮士の乱暴を見逃がしたりした。自由党壮士も又これに対抗し争いが各地でおこり、この為死傷者まで続出した。この頃は保安条例がしかれて、兇器を携行して通行することは禁止されていたが、この適用を受ける者は自由党員ばかりで、国民党員は兇器携帯が黙認されていたので自由党員は自衛上鍬の柄を杖として闘ったという。
この第2回選挙は、大きな禍根を残した。選挙後も敵味方の感情を捨て切れず、自由派は国民派を犬猫とののしり、国民派は自由派を国賊と呼んで、商取引きにおいても取引きをしなくなり、商売が不振になったりした。甚だしいのは親しい人であっても交際をしなくなって口さえきかなくなり、有志が何とか調停に乗りだしたがその有志もどちらかの党派に属しており、両派の反目を解決するにいたらなかった。4月上旬谷干城が高知までやって来て調停に乗リだした。谷はもともと国民派の巨頭であったが、選挙に対する態度は公平であったし、両派のおもだった有志と会見し、党派的感情にとらわれず調停に努力したので、反目もしだいに薄らぎ平常の取引きをするようになった。 以上で、幕末から明治にかけての宿毛の歴史の概略は終わる。資料について、ありがたいことに『宿毛市史』がインターネットで公開されていたので、とてもありがたかった。引用文献の記載のない場合は、ほとんど『宿毛市史』の要約によるものである。 終わり 2022年4月 スポンサーサイト
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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その72022-04-20 Wed 09:24
愛国公党と民選議院設立建白書
明治10年(1877)8月立志社の獄によって、社長片岡健吉以下の幹部を奪われたが、板垣はひたすら自重を求め、西野友保を仮社長に、島地正存を仮副社長として社務を担当させた。 同年11月7日第3次愛国杜大会が大阪江戸堀で開催され、片岡健吉とともに宿毛合立社代表として林包明が出席した。 このように南国土佐の山間より起った自由民権運動は、立志社より愛国社へ、そして国会期成同盟へと発展し、国会開設願望書に署名したものは、2府23県で請願者8万7千余人の総代97名(内高知県総代44名で約半数をしめている)に及んだ。 自由民権記念館の前に立つ「自由は土佐の山間より」の碑
1区は票数の9割、3区は8割の得票という大差をつけた。2区は接戦となり500票前後の差をつけて自由党が勝利した。 高岡郡塚地村(現土佐市塚地)生まれの中島信之は、阪本龍馬の海援隊に加わり、維新後ヨーロッパに留学し、神奈川県令など勤めた後、自由民権運動が高まると自由党結成に参加し副総理となった。自由民権運動を弾圧する保安条例によって横浜へ追放された。総選挙で、神奈川県第5区から立候補した。 |
幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その62022-04-16 Sat 10:01
西南の役おこる
板垣退助はともに野に下った副島・江藤・後藤と相談し、人民が挙国一致の精神を発揮し、国家民生の隆昌をはかるためには、公議世論の制度を確立し、人民が国家と憂戚を共にする道を開かなければならないということになった。明治7年(1874)1月、愛国公党を結成。本誓書名の式を行った。署名したのは副島、後藤、板垣、江藤、由利、小室、岡本、古沢、奥宮の9人である。うち5人が土佐出身である。 民選議院設立建白書を17日、左院に提出した。それは自由民権の出発点になった。 民選議院設立の建言だけでは薩摩・長州藩出身者による専制政府を倒し、立憲政体を実現できないことを知った愛国公党の指導者たちは、郷里に帰って世論を喚起し、人民の勢力を強大にし、政社を起こし、これを合同して全国的大政党を組織することを決意した。土佐では、帰国した板垣は片岡・林有造・谷重喜らと7年(1874)立志社を設立した。 ![]() 西郷隆盛終焉の地の碑 立志社と国会期成同盟 明治7年4月10日、片岡や林の協力を得て、帯屋町の旧兵営で「立志社」の発会式をあげた。「士族授産によって生活を安定し、学校を設立して新しい教育を行ない、没落士族を救済し、自由民権運動を高める」ことが趣旨であった。 明治8年(1875)2月22日、高知立志社は、自由民権運動を全国的に拡大するため、大阪に愛国社創立会議を開催したが、板垣が政府の勧誘に応じて、3月14日参議に復活した事によってこの運動は断絶し、愛国社創立は失敗した。 一方、佐賀の乱をはじめ熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が続発し、士族の反政府運動は治まらなかった。 土佐立志社の人々は佐賀の乱の時も江藤新平に同調せず、相つぐ士族反乱にも反応しなかったのは、指導者の板垣退助が立憲政治実現を目指して血気にはやる人々を抑えて来たことと、土佐の内部的不統一という事情等があリ、なかなか実力行動にでられなかったのである。 薩摩では、明治10年2月14日西郷を擁して挙兵し、西南戦争が勃発した。 西郷の挙兵の報を聞いた板垣は、東京の自宅に後藤象二郎、林有造、大江卓、竹内綱、岡本健三郎らと会合して対策を協議した。林は「雁の味がするぞ」(痛快の意)と叫んだという。『懐旧談』(林有造)によると「これ実に天与の好機会である。この機会に於て後藤の窮境を救い、彼をして乾坤一擲の大芝居を打たしめねばならぬ。」と心密かに考え、林は銃器、弾薬の運動に着手し、大江は後藤、板垣、陸奥宗光の間を往復して奔走した。 その頃陸奥宗光の屋敷が木挽町にあり、そこへ板垣、後藤、陸奥、岩神、林、大江等の有志が集り、民選議院設立の事について話し合う一方、裏面では挙兵計画もたてられていた。 立志社は、林有造を迎えて幹部が秘密協議会を開いた。 林はその挙兵計画を説明し、一同の賛成を求め、片岡も決心し立志社はいよいよ兵を挙げる方針を決めた。 挙兵のためには兵器を充実しなけれぱならない。林は岡本健三郎(元大蔵大丞)に銃器購入について相談をし、岡本は林の依頼を受けてこの事を竹内綱に話した。竹内は知り合いであるポルトガル人ローザに相談した。 「スナイドル銃」3,000挺の購入契約が成立したのは3月のことである。3,000挺で45,000円資金は、かねて士族授産のために払い下げを受けた白髪山の伐採事業がうまく軌道に乗らず、再ぴこれを政府に買いあげてもらう交渉を進めその代金15万円の下付を予想し、そのうちから銃器の購入資金を捻出する計画であった。立志社に対する政府の警戒も厳しく誉り、予期した白髪山代金も容易に下付されなかった。 林は大阪で中村貫一に委細の事情を話し、岡本と協力して銃器を準備してもらいたいと頼み、土佐人で銃砲弾薬類の商売をやっていた中岡正十郎に、2万斤の鉛を土佐に送るよう命じた。 立志社員の逮捕 西南戦争は、谷干城(高知出身)が司令官となっていた熊本城は2か月にわたって固守せられ、官軍は増援され、西郷軍の敗色が濃くなりつつあった。 一方、立志杜社長の片岡健吉は「世評」を気にして武器購入計画を見合わすよう林に伝えるが、林は承諾した旨の虚報を送った。しかし、志をかえず、白髪山代金の件で、大隈大蔵卿に会って交付促進を訴えた。だがこの頃には、武器購入と代金払下げなど立志社の動きは探知されていたようである。(日本政治裁判史録(明治前)による) 立志社員が相次ぎ捕らえられた。 林有造は7月20日高知をたち、東京に来て8日、竹内綱の屋敷でローザと会見しようとして人力車で門を出ると同時に警視庁に拘引された。 18日には片岡健吉は自宅から引致され、副社長谷重喜以下、立志社員13名、古勤王党メンバーを加えて15名が一網打尽、東京へ護送された。 9月西郷の城山自刃で西南戦争が終結し、大久保内務卿の実権が一段と強大になると、追捕の網も広がり、翌11年4月には竹内綱が横浜で検挙され、5月中村貫一、大江卓と岡本健三郎が拘引された。 |
幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その52022-04-11 Mon 09:50
自由民権運動に参加
徳川幕府の時代が終わり、明治新政府が生まれたあと、高知では自由民権運動が始まることになる。宿毛出身の人士の活躍は注目すべきものがある。 <私はその時、今日は決して議論をしないつもりでいた。…挨拶を取り交して居る間に…私は『この政府というものは誠に困ったものでござるネヤ』と何の気なしに言ったのである。するとこれを聞いた西郷は、何と思ったものか、突然スッと立ちあがり、ツカツカと私の前に来てドスンと坐った。そして威儀を正し、厳然として私に云った。『只今、あなたはこの政府は困ったものであると云われたが、それはどういう意味でごわすか。』と詰め寄ったのである。 『あなたは何でも薩摩の一手を以てすれば天下の事成らざるなしと云うお考えのようであるが、それは余りにも自信に過ぎているといわねばならぬ、凡そ兵家の事は驕慢を戒むるにある。薩一藩を以て天下を動かすに足るという自信は結構であるが、更に同志があるならぱこれと結び、東西相応じて策の万全を期するの優(まさ)れるに若くはない。優柔不断、あのような政府に対して、板垣を始め土佐人士は袂を払って起つの気慨を持っているのである。この際は宜しく薩土連合の勢力を以て政府に当るのが良策ではあリませんか。』と自分も熱心に説いていった。しかし乍ら西郷は遂に明答を与えなかった。西郷の考えでは、木戸は薩摩を攻めようとする気持があるけれども、これを決行できないのは、一に土佐の応援を恐れているからである。でこの際土佐が局外中立の意向を示したならば、木戸は必ず薩摩征伐を断行するであろう。その時は西郷の方寸によって事を決しようというにあったらしい。で色々話をした結果、薩土連合の契約は成立しなかったけれど、自分は西郷が万一の場合には断然兵を挙げる意志のあることを確かめることができた。 西郷隆盛 自分は『土佐において事をなすに林有造の右に出る者はない。』と返答し、ついで西郷に向って『薩摩には野にある者、官にある者、色々あるが、その中でおも(い)立つ者を書いて下さらぬか。』と云った所が、西郷は筆を持って紙片に「芋連」と書いた。そしてその下に西郷、桐野、篠原、櫛部等5、6人並べて書いた。それから「腐れ芋連」と書いてその下に、大久保、川路等3、4人の名前を書いてくれた。この書附けは自分が携えて帰って来たが、いつか紛失したものと見えて、その後私の手元には残っていない。」(林有造著『旧夢談』)> 佐賀で江藤と会談 『林有造自歴談』によると、 権令岩村高俊は憂国党より攻められ、16、17、18日と3日間籠城して戦ったが、賊の勢は増々盛んとなり、高俊はようやく囲みを破って城を脱出した。その時大久保利通は、岩村通俊を幕僚として、佐賀鎮定の為に兵部、刑部(警察)両面の全権を帯びて、東京、大阪の鎮台兵を連れて佐賀に着き、大攻撃を加えてこれを破った。 |
幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その42022-04-07 Thu 17:04
宿毛機勢隊が北越に出陣
藩主より宿毛兵出兵の許可が下ったのは、明治元年7月10日のことである。この他、竹内綱、林有造等は伊賀陽太郎(宿毛領主)に従って従軍している。 宿毛機勢隊北越出陣の方向(「宿毛市史」から) 自分が京都に行き、丁寧に説明すれば不平も解け、問題解決もできると思うとのべ、京都に向った。
村上口に進んだ隊は、官軍側は死傷者続出して破ることができず撤兵し、数日間、両軍対峙の状態にあった。 宿毛機勢隊は10月5日、本藩兵と共に帰路につき、14日京都着、ここで酒肴をふるまわれ軍服修理代として兵士一名について二両もらい、18日京都発、24日朝8時半大阪よりタアン号に乗り、25日浦戸へ着いた。5日朝、市山峠で隊列を整え宿毛の練兵場に帰ってきた。 |
幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その32022-04-03 Sun 09:24
大江 岩村通俊、高俊長崎へ行く
慶応3年(1867)9月、斎原治一郎(大江卓)、岩村精一郎(高俊)、岩村左内(通俊)の3名は砲術研究の目的で長崎に向って出発した。彼等は別に宿毛山内家(明治2年伊賀家となる)から銃器買入れの為、七百両余りの金を托されていた。それも今日のように為替などのない時代であったので、二分金と一分銀で渡された金を3人が分担し胴巻きに入れて持って行った。 3人が長崎に着いた時は、去る4月20日に讃岐沖で紀州藩の明光丸に衝突され、沈没した海援隊の伊呂波丸の賠償金問題が大詰めにきている時であった。大江などは坂本龍馬の代理として長崎に派遣された中島作太郎(信行)をはじめ海援隊士の多くの知己を得、これが中央に出て活躍するきっかけになったのである。 長崎には土佐藩の貿易会社のような「長崎商会」があリ、伊賀家から頼まれていた銃を買入れ、長崎商会の船で岩村通俊が宿毛に運んだ。 徳川慶喜が大政奉還し、天下の情勢が大きく動いてることを肌で感じた大江ら3人は、長州の桂小五郎(木戸孝允)に会うため長州に向かった。 大江・高俊陸援隊に入る しかし、木戸が不在のため、京都に行き、土佐藩の白川邸に潜伏し、十津川郷士と称していた。その頃白川邸は陸援隊の本陣になっており、大江らは陸援隊に入った。 おりしも、坂本龍馬、中岡慎太郎ら7名が近江屋で襲われた。 海援隊・陸援隊は報復を企て刺客の探索を始めた。紀州藩の三浦久太郎が、伊呂波丸衝突事件の腹いせに新選組を唆したものらしい、とのうわさを陸奥源次郎(宗光)が聞きだした。元凶三浦を血祭りにあげることになリ、その実行委員に選ばれた陸奥宗光・大江卓・岩村高俊・関雄之助らの陸援隊員ほか16人は12月7日の夜五ッ半(午後9時)三浦の寓居であった油小路花屋町天満屋に斬込んだ。既に身の危険を感じていた三浦は、その夜新選組の土方歳三、原田左之助、斎藤一等が来合わせ酒宴を開いていた。 天満屋の二階は、敵味方区別のつかない混戦となり、三浦は微傷を負うただけで助かった。後に三浦は大江と親交を結んだ人である。 ![]() 岩村高俊 高野山の挙兵に参加 王政復古の号令は慶応3年12月9日に発せられた。その前日の夜、薩長と幕府の衝突を予期し、御三家の紀州と大阪をけん制するため、大江卓、岩村高俊ら陸援隊70人は、土佐藩白川邸から十津川浪士という名目で高野山へ向かった。高野山に着くと、まず僧徒を説得し、一方では紀州藩に対し、高野山出兵は勅命によるもので、王政復古の令に従わない軽挙の輩を鎮撫するのが目的である旨の書面を高野山の僧徒に托して通告した。 各藩の勤王の士が高野山に集り、総勢3、400名になり、諸隊の編成をして陣容を整えた。大江卓、岩村高俊はまだその才能が認められておらないため、地位は共に斥候であった。 万一の場合に備えて錦旗を奉戴していなけれぱならないという事になり、その大任が大江にくだった。大江は、28日京都へ着いたが、錦旗下賜が手間取り、慶応4年正月3日、参内して錦旗と2通の勅書を受け取った。 既に鳥羽・伏見方面で戦いが開始されており、錦旗を持っての通行は危険だと考え、医者に変装して6日の早朝高野山へ帰り着いた。綿旗は高野山にひるがえり、士気を更に鼓舞した。高野山隊は薩長連合軍が京都で政局を転換しやすいように、紀州その他をけん制するのが目的であったから戦うことなく任務を終ったのである。 大江が京都より持ち帰った勅書は「大阪城の兵が伏見の方にもでてくるので高野山の兵は速やかに大阪城を乗っとれ」という内容であリ、高野山に兵を挙げたのは、もともと紀州藩をけん制することであったが、この際紀州藩を朝廷側に引き入れる事が大阪城攻略にも必要であり、そのため大江を使者として、紀州藩の説得にあたらせる事になった。 当時紀州藩は討幕に藩論が一決していたわけではなかった。御三家の一つであり、殊に有力な地位にある連中がほとんど佐幕派であり、藩論をまとめるのに苦慮していたのである。翌9日、和歌山入城を許すということになった。 土佐藩は慶応4年正月11日、鳥羽・伏見の役に徳川軍に参加した讃州高松・予州松山城攻撃の命をうけ錦旗を下付され、家老深尾丹波を総督、板垣退助を大隊司令とする迅衝隊が高松城を攻め、家老深尾左馬之助を総督とする部隊は松山城へ出撃し、27日松山城へ入城した。両藩とも恭順の意を示したので、戦火を見る事なく無事平定した。 林有造は松山城攻略に先立って松山斥候に行っている。有造は1月22日に高知を出発し、2月1日高知に帰った。 大江は、主家が勲功をたてるよい機会であるので、東征軍への宿毛兵の出兵を計画した。2月15日高知に着き、宿毛邸で宿毛兵の出陣について合議し、藩の執政深尾丹波に上申したが容れられなかった。 |
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