幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その22022-03-29 Tue 17:39
財政が窮乏していた宿毛
伊賀家の財政は極度に欠乏していた。宝永4年(1707)の地震と津浪で各地の堤防がほとんどこわされその被害は100年間続いたのであるが、更に安政の地震と津浪で大被害が出た(安政元年=1854年の安政東海地震、安政南海地震か)。そのため家禄半知借上げと称して五十石以上は半額、其以下は等級に応じて借り上げる状況であった。その攘夷論が盛んとなり異国船打払いのための設備として砲台の建築、銃砲弾薬の購入等のため多くの資金を要したのであったが、どうしてもこれらの金が工面出来ない状態であった。 宿毛蔵屋敷の経営は順調にすすみ、明治2年には汽船大阪丸を買い入れ、廻漕業を開始。更に3艘を買入れ、瀬戸内海の物資の廻漕運搬を行うようにしていた。このように蔵屋敷の事業が次第に発展すると、高知藩では家老の家柄で蔵屋敷の経営はなまいきであると言いだし、明治2年に、伊賀家に宿毛蔵屋敷の引き揚げを命じて来た。 教育に力を注ぐ 文久3年(1863)1月に至り、宿毛字本町(現旅館昭和館のあるところ)にあった物産方役所内に講授館を移し、文館と改め、読書、習字、算術、作文の4課を設けた。 スポンサーサイト
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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その12022-03-25 Fri 10:06
土佐の自由民権運動の歴史を見ていると、高知県の最西端にある宿毛市から多数の人材が輩出されたことに驚く。すでに先に佐川の自由民権運動を紹介した。高知市以外では、佐川以上に幕末から明治にかけて林有造・岩村通俊・岩村高俊・大江卓・竹内綱・小野義真・小野梓等々、多くの人材が輩出したのが宿毛である。現在でも人口3万人足らずの小さな都市から、なぜこのような人材が生まれたのだろうか。「これは宿毛の歴史的風土と、10代領主氏固(うじかた)によって開かれた宿毛文教のたまものであろう」(『宿毛市史』)という。
実は、宿毛市は私が高校を卒業して公務員として赴任して、6年余り住み働いた土地である。そのときは、吉田茂(父が宿毛出身、竹内綱)や林譲治の(父が林有造)出身地であることは知っていたが、宿毛の歴史について学んだことはなかった。だが、改めてその歴史と人物に興味を持った。少しだけであるが、紹介したい。 山内一族が領主に 近世の宿毛を簡略に見ておきたい。 長宗我部元親は、1575年(天正3年)に土佐を統一し、その10年後には四国統一を達成した。豊臣秀吉に屈服し、土佐一国の支配とされた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親の属した石田三成方が敗れ、長宗我部氏の支配は終わった。 同年11月、山内一豊が土佐藩の領主として入り、弟の山内康豊を中村に置き、3万石を与えた。宿毛には山内一豊の甥である山内可氏(よしうぢ)が、宿毛6000石を拝領して入城した。ここに近世的な城下町が形成され、明治に至るまで268年、その治世は続いた。領主の家系は、元は伊賀を名乗っていたが、可氏の父が山内一豊の姉通を妻とし、可氏は山内一豊に仕えたので、山内氏の治下では、山内姓を名乗っていた。明治維新の際、旧姓の伊賀に改めた。 ![]() 宿毛市街地昭和28年(宿毛市HPから) 幕末には、宿毛の藩内でも、尊王か佐幕か、攘夷か開港かでもめにもめていたが、宿毛でもこの問題で激論がたたかわされ、重役の間でも勤王、佐幕の2派に分れた。宿毛では攘夷論の方が強かったが、これは土佐勤皇党盟主・武市瑞山等の影響がかなりあったとみられている。 武市が万延元年(1860)の7月、32才の時、剣術修業のため門人3名をつれ、九州に行ったとき、門弟の1人岡田以蔵(後に人斬り以蔵といわれた)は、先に武市と別れて宿毛に来て、武市の事を岩村有助(礫水)等に紹介した。その時、以蔵はしばらく宿毛に留って、宿毛の家士たちに剣術の稽古をつけている。その後、瑞山は九州よりの帰途宿毛に立寄り、数日間滞在して岩村通俊等多くの宿毛の士たちと接した 武市瑞山は、文久元年(1861)には再度江戸に出て、長州の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎たちと交わり、同年9月、高知に帰ると、土佐勤王党を組織し、その盟主となった。幡多地方では4名が加盟していた。 宿毛は、武市と交わりのあった岩村通俊などは、これに加盟していないが、「血盟簿以外の勤王党同志人名録」(瑞山会編纂『維新土佐勤王史』)には、宿毛からも4名の名前が上がっている。岩村有助(礫水)、岩村精一郎(高俊)、岩村左内(通俊)、斎原治一郎(大江卓)である。 宿毛藩では、論争により重役すべてが交代し、竹内綱が若くして目付役となった。竹内綱は攘夷論には反対であったが、この情勢を心配して高知の攘夷派、佐幕派の2派の有力者についてその論を聞き、その是か非かを研究しようとして領主の伊賀家に申請し、文久3年(1863)5月26日に側用役岩村通俊と共に宿毛を出発した。 29日高知に着いて、先ず奉行職深尾鼎を訪ねたが、深尾は、攘夷討幕はいかないというが、その理由は平凡に過ぎなかった。 次に目付役後藤象二郎を訪ねた。後藤は「第1に朝廷と幕府を調和し、公議輿論を以て政権を統一する。第2に国内の物産工業を開発して外国との貿易を盛んにする。第3に南洋の未開地に国内に余る人民を移住させ開拓させて国勢を発展させる。以上のためには、勤王を唱え、攘夷討幕を主張するが如きは、国家の発達を妨害するものである。」というのであった。竹内綱はその論の雄大なのに感服した。 ![]() 武市瑞山 次いで武市半平太を訪ねた。「外夷は東洋を侵略するものであるから、すべて追い払わなければならない。」という。綱は「従来貿易を許していたオランダをも迫い払うのか。」と聞くと、「無論なり。」との事、綱は更に「そうすると、我が国に産しない薬品、染料、毛皮、洋式銃砲等はどのようにして輸入するか。」と聞くと、武市は答に困ってすこぶる要領を得ない答えとなった。 更に板垣退助を訪ねたが、病気のため面会ができなかった。後藤、武市2氏との会談で、攘夷論のよくないことを確認し、6月18日に宿毛に帰り、領主にこのことを報告した。(『竹内綱自叙伝』より) 慶応2年(1866)イギリス船が安満地に入港した時、綱が発砲をとめて英船に上り交渉した事もあった。攘夷を非とする立場にあったからと見られる。 周知のように、武市瑞山は文久3年(1863)9月、獄に入れられ、慶応元年(1865)5月に切腹を命ぜられた。土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、その後海援隊を組織し、大政奉還論は後藤象二郎、山内容堂を動かしついに、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還となったのである。 |
幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その62022-03-19 Sat 16:37
ここで宇和島藩の動向についてみておきたい。宇和島は、かつて1960年代に宿毛市に住んでいた時、宇和島はきわめて近いので、休日などにしばしば訪れて、宇和島城にも足を運んだ。市内に史跡が多く、歴史ある街である。伊達家が城主で、幕末の激動のなかでしばしば登場することは知っていたが、それ以上のことは知らないままだった。この際、同じ伊予諸藩の中でも、松山藩とは大きく異なる対応をしていたのでも注目したい。 宇和島藩は、徳川時代の後期、西洋事情に通じていた伊達宗城(むねなり)の強い指導力の下に西南雄藩の一つに成長した。宗城は、幕臣山口直勝(3500石)の次男としてうまれたが、伊達村候(むらとき)の外曾孫にあたり、宗紀の養子となった。父直勝は、渡辺崋山の門人で高野長英とも面識があったという。 宇和島藩の軍備の近代化は伊予の他の諸藩にくらべ目を見張るものがあった。 宇和島城(「愛媛県観光物産協会」HPから) 第二次長州征討後、土佐藩を中心とする大政奉還論が台頭した。宇和島藩の伊達宗城は一貫して公武合体派として活動してきたが、それは幕藩体制の維持・雄藩連合を基調としていた。土佐・宇和島藩などの建白によって徳川慶喜は慶応3年(1867)10月14日朝廷に対して大政奉還の上表を提出した。この日朝廷は討幕の密勅を薩長2藩に下した。さらに薩長など6藩の兵力を背景に12月9日クーデターが決行され、幕府が廃止された。天皇の下に新たな維新政府が成立した。 伊達宗城は鳥羽・伏見の戦いでは中立の立場をとり、兵をうごかさなかった。慶応4年1月松山藩征討の応援を命じられ、950人を出発させ、郡中に着き、ここに駐屯した。また江戸東征、9月に函館出兵を命じられた。大洲・新谷藩も土佐藩と連絡をとって出兵し、松山城下萱町(かやまち)口・立花口・あるいは三津の警備を担当した。その後大洲藩は8月奥州に出兵参戦し10月末東京に帰還した。小松藩も6月越後出兵を命ぜられ、越後長岡、新潟、会津鶴ヶ岡と転戦し、11月帰京、今治藩は慶応4年5月甲府城警備を命じられたがすぐに江戸へ転進、会津に進軍し参戦。12月今治に帰陣した。以上は、主に『愛媛県の歴史』『愛媛県史近世下』から要約した。 本題であった土佐藩・佐川の松山進駐に戻る。 翌3月2日、重愛は高知に赴き執政五藤内蔵助に松山占領の委細を報告し、その後山内景翁邸に伺い報告した。4日、佐川に帰還し、松山征討は、3月4日終焉する。 「佐川は明治維新の大乱に際して戦死者が出なかったことは戊辰戦争に従事せず、京師(みやこ)、松山でも戦争に直面することがなかったのが幸いしているのである」(竹村脩)。 終わり 2022年3月 |
幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その52022-03-13 Sun 15:26
松山藩の周防大島への進攻
長州藩兵が松山に進駐した際、見逃せない事件があった。 現在の周防大島(「周防大島町観光協会」HPから) <当初、幕府軍の圧倒的な戦力により、久賀、安下庄の殆どを戦火により焼失するなど苦戦し、大島(現在の周防大島)の防衛にあたっていた勘場隊などの守備兵は、遠崎までの敗走を余儀なくされ、大島は完全に占領されました。(「周防大島長HP」)> 松山藩が大島において敗北した最大の原因は、両勢の装備の差であった。 他の地域の戦いでも、石州口、小倉口など各地で幕府側は敗戦を重ね、将軍家茂の死去を口実に休戦を宣言し、撤兵した。 この大島進攻には、『県史』に書かれていない史実がある。それは、幕府歩兵や松山藩兵による略奪行為があったことである。 <同日津和地島から船団に乗船し、先日同様富士山丸と大江丸に先導され、同日昼前に安下庄村沖に到着した。当時安下庄村の防衛には、村上亀之助が当たっており、安下庄村南西の甲山に、砲台を築いて備えていた。これに対して、富士山丸と大江丸は砲撃を行ないつつ海岸沿いに南下し、甲山南西の浜辺に松山藩兵が上陸する。松山藩兵は上陸後、安下庄村に進軍を開始して、安下庄村を守る村上亀之助の手勢と激突した。幕府歩兵隊に比べると軍制の旧式な松山藩兵だが、大島兵も同じようなものであり、旧式軍制とは言えども正規の軍勢なので、未だ訓練が不十分で統制の取れていない村上亀之助の手勢をあっけなく撃破して敗走させた。なお、戦闘前は「逃げる者は斬る」と息巻いていた村上亀之助は、いざ戦闘が始まると手勢を残して一目散に逃げ出したと記録されている。 村上亀之助勢の抵抗を排除した松山藩兵は、安下庄村を占領し、同村快念寺を本営と定めた。ところが、松山藩兵もまた幕府歩兵同様に民家に押し入り略奪し、略奪後は民家を放火した。こうして暴虐を行なう松山藩兵だったが、初めての実戦にのぼせ上ったのか、暴虐は幕府歩兵隊のそれより悪化し、逃げ送れた婦女子に暴行し、男衆は惨殺するという暴虐を極めたものになる。博徒や無宿人が多い幕府歩兵でさえ領民の虐殺は行わなかったのに、士族が大半を占める松山藩兵が何故虐殺を行なったのかの理由は判らない(大塚進也著「歴声庵」)>。 もっともこの虐殺は少数で、大規模なものではなかった模様で、逆に生活に困窮する農家に松山藩兵が兵糧米を供給するという美談も大島には残っている。「だが、いかんせん美談よりも悪評の方が広がりやすい為、松山藩兵の暴虐は大島だけではなく、近隣諸藩にまで広まる事になった」(同著)。 <大島占領を果たした幕府軍と松山藩兵だが、大島兵が居なくなったと知ると両軍ともこの日も略奪暴行を行ない、大島の住民達には益々占領軍に対する憎しみが湧き上がっていった。こうして幕府軍司令部の意思とは無関係に行なわれた両軍の略奪暴行が、後の大島解放戦に思わぬ影響を与える事になるのだった(大塚進也著「歴声庵」)>。 この時、長州藩兵の大島来援を知ると、幕府軍と松山藩兵の略奪に怨嗟の声を上げていた大島の領民はこれを歓迎した。続々と領民が集まり、長州藩兵への協力を申し出た。食事の炊き出しや弾薬・兵糧の運搬等の後方勤務への協力から、戦闘が始まると、地理に明るい領民が斥候の役目も果たしてくれた。後の長州藩兵の戦いに非常な恩恵をもたらすことになったという(大塚進也著「歴声庵」から)。 田中光顕 |
幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その42022-03-08 Tue 21:42
恭順か抗戦かで論争
しかし松山藩の内部では恭順か防戦かの両説が藩主の帰国以来激しく論争され、常信寺の中でも続けられたという。26日夜半、藤野正啓の案で崎門派の学者三上新左衛門是庵(ぜあん)を召して善後策を諮問した際、新左衛門は15万石を返上し王命尊奉の意をみせるほか道なしと説き、ようやく一決したという。27日重ねて定昭と藩主の名で赦免の嘆願書を提出した(『愛媛県史近世下』から)。 「新政府軍の土佐藩・長州藩兵などが松山に迫りくる中、抗戦か降伏かという大きな決断を迫られます。松山城を舞台に藩を二分して議論が続けられましたが、若き藩主の良き理解者で側近の大原観山(正岡子規の祖父)や筆頭家老・奥平弾正、藤野海南など、文化的素養を持つ有能な藩士たちの尽力で、定昭は降伏という決断を下します。この英断で、松山の人々は戦禍を免れ、『明治』という新時代に向けて、逆境の中から力強く再出発の一歩を踏み出しました。」(松山市HP「幕末維新と松山藩―時代の激流―人々の決断」)
征討総督の深尾左馬之助、副総督の深尾刑部重愛らは、三の丸大書院に着座、ここで、松山藩筆頭家老の奥平弾正、家老の鈴木七郎左衛門により降伏、城地引き渡しが述べられ、深尾左馬之助から「朝命により参った、隣国の義気の毒に存じ候」と挨拶があり、朝令伝達がなされた。松山藩降伏の儀が厳粛に行われた。27日夕方から城地・兵庫を収め、各所に封印して松山城の接収を28日の早朝に完了した。 左馬之助が鈴木七郎兵衛に渡した覚書によると城地・土地人民・城内の銃や弾丸を受取り、旧幕府や松山藩の制礼は取除くこと、恭順の常信寺へは番兵を出す、朝廷への嘆願書は受け取る、諸法度は従来通りとし、農工商は平日の通りの生業従事を布告している。恭順が明瞭であるため兵士は城中には留まらず、市中要所に「土州預り地」の制礼を掲げて滞陣した。征討軍の行動は極めて迅速でまた紳士的であったという。28日暮れには征討総督四条降謌も、京都にあった今田光四郎以下185名の土佐藩兵と共に松山に入り、土州勢の総兵は915人となった。 「当方土州預り地
この中で、長州軍が建てた制札(布告など書いて立てた掲示)の撤去を申し入れている。長州側も既に松山城は土佐軍により占領されたことであり、その後相方の話し合いの上、長州軍も朝命により征討軍として出陣したものであり、長州の立場を考慮し、土佐藩、松山藩立会いの上、松山城を長州藩に検分させた。
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幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その32022-03-04 Fri 11:37
佐川を出発、遠征へ
22日の夕方、遠征軍は佐川の土居を出発した。初日は、南北朝時代に建立された佐川最古の寺院、乗台寺で泊まった。初代深尾重良が元和5年(1619)、広島城主・福島正則 「2月20日頃より此の人数多く引続く事にて、22日は旅人越知泊にて暮に1800人の泊りと申す事なりしが、後には追々来りて数知れず、越知の宿の世話にて郷中はもとより其外女川、油(ママ)行寺・今成・柴生(ママ)・宮地まで宿をふりつけ、夕方に至りては人数いやが上にも重なりて数千の人数なり、夜眠りもやらず東の白みまで難儀すること也。明くれば23日東方明なんとの時、早、諸人旅立の用意する事いと騒がん」(松田淇仙著「独楽筆記」、原文カタカナをひらがなに改めた。竹村脩著「藩政末期の佐川」から)。 24日、泊り地となる池川では、15日頃から役人が盛んに出入りして軍隊の受け入れ準備に多忙を極めた。漁師たちの人兵は砲1丁につき50発の弾丸を作り、百姓には草鞋(わらじ)5足 松明5丁、弁当の用意が申し渡された。 25日は午前休養、午後出発し用居泊りの予定であったが、松山からの急報で長州勢が松山征討に出陣の模様との通報があり、先発隊は早朝出発した。 27日、夜明け前から土砂降りの大雨で悪路・苦難の連続であったが、士気大いにあがり三坂峠を下り、久谷を過ぎて荏原(えばら)に至る。ここで樋口真吉一行が錦旗を捧持して到着。八幡宮で錦旗拝掲式を行い、松山城に向け進軍した。 いよいよ土佐藩の松山進駐にすすむ。幕末の松山藩の動向について、もう一度振り返りかえっておく。 高知藩は征討軍に先立ち、19日に問罪使として大目付小笠原唯八・御仕置役金子平十郎を命じた。2人は23日松山到着し、勅命によって兵卒を差し向け、伏罪するかそれとも異議に及ばれ候や、速やかに返答されたい、と申し入れた。藩主定昭は24日惣出仕を命じ、藩士に決意を伝えた上で、王師に敵対する心はなくどのような命にでも服すこと、臣下まで全く異論のないことを誓い、朝廷の取りなしを懇願する旨の返書を提出した。また領内の村々へも21日官軍への恭順を誓わせ穏便にすごす旨を布告し、翌日鳴物停止や旅人止宿禁止などを布告した。 また謹慎の意を明らかにするため1月25日藩庁を明教館に移し、定昭は前藩主勝成と共に城を出て菩提所の常信寺に入った。当日は全市中が門戸を閉ざし重苦しい雰囲気であったが、松山開城の申触れが伝わると市中大騒動となり、町奉行以下諸役人が説得につとめたが、なかなか鎮まらなかった。堀之内の重臣らも藩主にならって残らず家屋敷を明渡し、藩庁の記録類も城内で焼却した。 |
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