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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その2

  財政が窮乏していた宿毛

伊賀家の財政は極度に欠乏していた。宝永4年(1707)の地震と津浪で各地の堤防がほとんどこわされその被害は100年間続いたのであるが、更に安政の地震と津浪で大被害が出た(安政元年=1854年の安政東海地震、安政南海地震か)。そのため家禄半知借上げと称して五十石以上は半額、其以下は等級に応じて借り上げる状況であった。その攘夷論が盛んとなり異国船打払いのための設備として砲台の建築、銃砲弾薬の購入等のため多くの資金を要したのであったが、どうしてもこれらの金が工面出来ない状態であった。
    竹内綱
                     竹内綱
  竹内綱は文久2年(1862)24才で目付役に抜擢された。財政の整理に着手し、当時高価で外国へ輸出されだした樟脳(しょうのう)がすこぶる高価であったのに着目し、領内で製造を開始した。1年あまりの後には軍備に必要な資金は調達する事ができるまでになった。
 地租は昔から米納であったが、毎年米の収穫期に各村に役人を出し、収穫米の見積りをしていたが、手間がかかるので、3か年の収穫米を平均し、10か年の米価を平均したものを乗じて、その10分の4(それまでは10分の5)を金納で徴収するようにした。そのため地租の収入はほとんど倍に達し、それ以後家臣の半知借上げを廃止することが出来た。
 慶応元年(1865)5月10日、竹内綱は仕置役を命ぜられた。綱は宿毛領内の物産の輸出を計画して、大阪に行き、夫々の問屋と約束を取りきめた。宿毛物産の輸送は五百五十石積帆前船1艘を買い入れ、宿毛丸と名付け、2艘は淡路屋の所有船で運送する約束もでき、三百余坪の土地、1棟の事務所と7棟の倉庫を買入れ、宿毛蔵屋敷を設置した。

宿毛蔵屋敷の経営は順調にすすみ、明治2年には汽船大阪丸を買い入れ、廻漕業を開始。更に3艘を買入れ、瀬戸内海の物資の廻漕運搬を行うようにしていた。このように蔵屋敷の事業が次第に発展すると、高知藩では家老の家柄で蔵屋敷の経営はなまいきであると言いだし、明治2年に、伊賀家に宿毛蔵屋敷の引き揚げを命じて来た。
 この時の蔵屋敷の負債は三万円余であった。屋敷、汽船を売払っても一万五千円に足らないほどであったが、綱は高知藩札が太政官札の半価である点に注目し、之を利用しようとし、高知へ帰って藩札三万円までを大阪蔵屋敷で太政官札に引換の許可を得、土佐で売る多くの貨物を買いこみ、宿毛に回漕して売りさばき、その代価として藩札を手に入れ、これを大阪で太政官札と引換え、三万余円の負債を償却し、汽船、蔵屋敷を売却し三万余円の剰余金を得て、これを伊賀家に差出したのであった。宿毛の重役達は、負債が償却出来ない時は竹内綱を切腹させて藩におわびさせるように決していたのであるが、藩札引換の成功であやうく再ぴ切腹をまぬがれたのであった。(竹内綱自叙伝」より)

教育に力を注ぐ
 宿毛では、10代領主の氏固、11代氏理は子弟の教育の振興に力を注ぎ、郷学校をおこした。家士とその子弟の教育を目的としていた。新しい学問も次々に浸透させ、「このような場で学識を得た宿毛出身の人々が明治維新後、中央政界および実業界で活躍しました」。
 氏固が設立した郷学校に講授館がある。講授館は、天保2年(1831)より天保5年(1834)の間に創立され、講授役には、三宅大蔵が平民より登用され、以来嘉永2年(1849)まで、講授役として十数年勤務したのであった。
 三宅大蔵は、文政年間九州に行き、豊後国日田の儒学者広瀬淡窓が開いた日本最大規模の私塾・咸宜園に学んだ。天保5年宿毛に帰り講授館設立を勧め、講授館が設立されると抜擢されて講授役となった。

文久3年(1863)1月に至り、宿毛字本町(現旅館昭和館のあるところ)にあった物産方役所内に講授館を移し、文館と改め、読書、習字、算術、作文の4課を設けた。
 慶応3年(1867)2月文館を廃し、宿毛安ヶ市(現宿毛小学校敷地)に日新館を新設した。その後、明治2年の藩政改革により日新館のすべてを藩へ寄附した。藩は翌3年2月藩立日新館として再開した。
 慶応元年(1865)酒井南嶺が宿毛字水道町に漢学の私塾・望美楼を開いた。明治2年素堂と改め、同4年に廃止した。南嶺は、生れつき怜悧で気骨があり、常に天下の大勢を説き、子弟の意気を高めた。
 気骨と大局観をもって学校で教える傍、望美楼で一対一の魂のふれあう教育をしたのである。明治の新政に活躍した宿毛出身者は、みな南嶺の薫陶によるところが多かったといわれている。
 三宅大蔵によってまかれた宿毛文教の種は、明治維新以後、明治時代を指導する大人物の輩出となって実を結んだのである。


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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その1

 土佐の自由民権運動の歴史を見ていると、高知県の最西端にある宿毛市から多数の人材が輩出されたことに驚く。すでに先に佐川の自由民権運動を紹介した。高知市以外では、佐川以上に幕末から明治にかけて林有造・岩村通俊・岩村高俊・大江卓竹内綱・小野義真・小野梓等々、多くの人材が輩出したのが宿毛である。現在でも人口3万人足らずの小さな都市から、なぜこのような人材が生まれたのだろうか。「これは宿毛の歴史的風土と、10代領主氏固(うじかた)によって開かれた宿毛文教のたまものであろう」(『宿毛市史』)という。
 実は、宿毛市は私が高校を卒業して公務員として赴任して、6年余り住み働いた土地である。そのときは、吉田茂(父が宿毛出身、竹内綱)や林譲治の(父が林有造)出身地であることは知っていたが、宿毛の歴史について学んだことはなかった。だが、改めてその歴史と人物に興味を持った。少しだけであるが、紹介したい。

 山内一族が領主に
 近世の宿毛を簡略に見ておきたい。
 長宗我部元親は、1575年(天正3年)に土佐を統一し、その10年後には四国統一を達成した。豊臣秀吉に屈服し、土佐一国の支配とされた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親の属した石田三成方が敗れ、長宗我部氏の支配は終わった。
同年11月、山内一豊が土佐藩の領主として入り、弟の山内康豊を中村に置き、3万石を与えた。宿毛には山内一豊の甥である山内可氏(よしうぢ)が、宿毛6000石を拝領して入城した。ここに近世的な城下町が形成され、明治に至るまで268年、その治世は続いた。領主の家系は、元は伊賀を名乗っていたが、可氏の父が山内一豊の姉通を妻とし、可氏は山内一豊に仕えたので、山内氏の治下では、山内姓を名乗っていた。明治維新の際、旧姓の伊賀に改めた。
   宿毛市街地 昭和28年
     宿毛市街地昭和28年(宿毛市HPから)
 幕末には、宿毛の藩内でも、尊王か佐幕か、攘夷か開港かでもめにもめていたが、宿毛でもこの問題で激論がたたかわされ、重役の間でも勤王、佐幕の2派に分れた。宿毛では攘夷論の方が強かったが、これは土佐勤皇党盟主・武市瑞山等の影響がかなりあったとみられている。
 武市が万延元年(1860)の7月、32才の時、剣術修業のため門人3名をつれ、九州に行ったとき、門弟の1人岡田以蔵(後に人斬り以蔵といわれた)は、先に武市と別れて宿毛に来て、武市の事を岩村有助(礫水)等に紹介した。その時、以蔵はしばらく宿毛に留って、宿毛の家士たちに剣術の稽古をつけている。その後、瑞山は九州よりの帰途宿毛に立寄り、数日間滞在して岩村通俊等多くの宿毛の士たちと接した
 武市瑞山は、文久元年(1861)には再度江戸に出て、長州の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎たちと交わり、同年9月、高知に帰ると、土佐勤王党を組織し、その盟主となった。幡多地方では4名が加盟していた。
 
 宿毛は、武市と交わりのあった岩村通俊などは、これに加盟していないが、「血盟簿以外の勤王党同志人名録」(瑞山会編纂『維新土佐勤王史』)には、宿毛からも4名の名前が上がっている。岩村有助(礫水)、岩村精一郎(高俊)、岩村左内(通俊)、斎原治一郎(大江卓)である。
 宿毛藩では、論争により重役すべてが交代し、竹内綱が若くして目付役となった。竹内綱は攘夷論には反対であったが、この情勢を心配して高知の攘夷派、佐幕派の2派の有力者についてその論を聞き、その是か非かを研究しようとして領主の伊賀家に申請し、文久3年(1863)5月26日に側用役岩村通俊と共に宿毛を出発した。
 29日高知に着いて、先ず奉行職深尾鼎を訪ねたが、深尾は、攘夷討幕はいかないというが、その理由は平凡に過ぎなかった。
次に目付役後藤象二郎を訪ねた。後藤は「第1に朝廷と幕府を調和し、公議輿論を以て政権を統一する。第2に国内の物産工業を開発して外国との貿易を盛んにする。第3に南洋の未開地に国内に余る人民を移住させ開拓させて国勢を発展させる。以上のためには、勤王を唱え、攘夷討幕を主張するが如きは、国家の発達を妨害するものである。」というのであった。竹内綱はその論の雄大なのに感服した。
    武市瑞山      
      武市瑞山
 次いで武市半平太を訪ねた。「外夷は東洋を侵略するものであるから、すべて追い払わなければならない。」という。綱は「従来貿易を許していたオランダをも迫い払うのか。」と聞くと、「無論なり。」との事、綱は更に「そうすると、我が国に産しない薬品、染料、毛皮、洋式銃砲等はどのようにして輸入するか。」と聞くと、武市は答に困ってすこぶる要領を得ない答えとなった。
更に板垣退助を訪ねたが、病気のため面会ができなかった。後藤、武市2氏との会談で、攘夷論のよくないことを確認し、6月18日に宿毛に帰り、領主にこのことを報告した。(『竹内綱自叙伝』より)
 慶応2年(1866)イギリス船が安満地に入港した時、綱が発砲をとめて英船に上り交渉した事もあった。攘夷を非とする立場にあったからと見られる。
 周知のように、武市瑞山は文久3年(1863)9月、獄に入れられ、慶応元年(1865)5月に切腹を命ぜられた。土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、その後海援隊を組織し、大政奉還論は後藤象二郎、山内容堂を動かしついに、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還となったのである。

    

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幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その6

  幕末の宇和島藩の動向

ここで宇和島藩の動向についてみておきたい。宇和島は、かつて1960年代に宿毛市に住んでいた時、宇和島はきわめて近いので、休日などにしばしば訪れて、宇和島城にも足を運んだ。市内に史跡が多く、歴史ある街である。伊達家が城主で、幕末の激動のなかでしばしば登場することは知っていたが、それ以上のことは知らないままだった。この際、同じ伊予諸藩の中でも、松山藩とは大きく異なる対応をしていたのでも注目したい。
 宇和島藩は、慶長19年(1614 年 12月 28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)318日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、正式に成立した。秀宗はあの「独眼龍」と称された仙台藩主、伊達政宗の庶長子である。

宇和島藩は、徳川時代の後期、西洋事情に通じていた伊達宗城(むねなり)の強い指導力の下に西南雄藩の一つに成長した。宗城は、幕臣山口直勝(3500石)の次男としてうまれたが、伊達村候(むらとき)の外曾孫にあたり、宗紀の養子となった。父直勝は、渡辺崋山の門人で高野長英とも面識があったという。
 宗徳に藩主を譲ったあとも藩政に影響力をもち、島津斉彬(鹿児島)・松平慶永(福井)山内豊信(容堂、土佐)とともに幕圧の四賢候と称された。

宇和島藩の軍備の近代化は伊予の他の諸藩にくらべ目を見張るものがあった。藩の蘭学・洋学奨励の方針もあって、多くの人材が育った。
 幕末・維新の宇和島には、高野長英、村田蔵六、シーボルトの弟子、二宮敬作、その甥三瀬周三、敬作の下で育ちのちに産科医となったシーボルトの娘楠本イネなどが住んだり、招請された。

 大野昌三郎は下級藩士であったが、藩の支援を受けて京都・大坂・長崎に遊学し、オランダ語・イギリス語を学び、帰国後、藩の軍事洋書翻訳方を勤め、また藩士への蘭学教授も行った。蘭医学も盛んであった。江戸・京都・大坂などの有名蘭学塾に多くの入門者を生みだした。
   
宇和島城   

   宇和島城(「愛媛県観光物産協会」HPから)     
 すでに見てきたように、京都の蛤御門の変で、長州軍の皇居への発砲を理由に、元治元年(1864)8月、幕府から21藩に長州藩征討のため出兵命令を出した。四国では、松山・今治・宇和島・高松・阿波藩に命令が出された。

 だが、宇和島藩主の伊達宗徳は、長州攻撃の命は出ても積極的には動こうとせず、結局11月11日までに長州との境まで出陣することとなったが、この日は長州が降伏した日である。

 幕府は、慶応2年(1866)5月、第二次長州征討を32藩に命じた。宇和島藩は、上之関より攻撃の先鋒(一ノ手)を勤める松山藩を協力することになっていた。しかし、薩摩藩と親しい宇和島藩は、実際に出兵しなくて済むように種々工作をした。松山藩以外に四国のすべての藩が参加していないことなどを挙げて、参加しなかった。

第二次長州征討後、土佐藩を中心とする大政奉還論が台頭した。宇和島藩の伊達宗城は一貫して公武合体派として活動してきたが、それは幕藩体制の維持・雄藩連合を基調としていた。土佐・宇和島藩などの建白によって徳川慶喜は慶応3年(1867)10月14日朝廷に対して大政奉還の上表を提出した。この日朝廷は討幕の密勅を薩長2藩に下した。さらに薩長など6藩の兵力を背景に12月9日クーデターが決行され、幕府が廃止された。天皇の下に新たな維新政府が成立した。
 慶応4年1月、松山藩は朝廷から朝敵とされた。このため、土佐藩に高松・松山と川之江などの幕府領の追討令がだされた。宇和島・大洲・新谷藩へ土佐藩への協力の出兵が命ぜられた。27日には土佐藩兵が松山城を抑え、ついて長州・福山・宇和島などの藩兵も領内へ入った。

 伊達宗城は鳥羽・伏見の戦いでは中立の立場をとり、兵をうごかさなかった。慶応4年1月松山藩征討の応援を命じられ、950人を出発させ、郡中に着き、ここに駐屯した。また江戸東征、9月に函館出兵を命じられた。大洲・新谷藩も土佐藩と連絡をとって出兵し、松山城下萱町(かやまち)口・立花口・あるいは三津の警備を担当した。その後大洲藩は8月奥州に出兵参戦し10月末東京に帰還した。小松藩も6月越後出兵を命ぜられ、越後長岡、新潟、会津鶴ヶ岡と転戦し、11月帰京、今治藩は慶応4年5月甲府城警備を命じられたがすぐに江戸へ転進、会津に進軍し参戦。12月今治に帰陣した。以上は、主に『愛媛県の歴史』『愛媛県史近世下』から要約した。

 
 松山から佐川への帰還

本題であった土佐藩・佐川の松山進駐に戻る。
 松山城の接収を完了した土佐藩のなかで、佐川勢には2月24日、総引き拂いの令が発せられた。27日、佐川全軍は松山を出発。久万町・山内順之助宅に宿営、菅生山を通り岩尾を経て東川村・梅木伝内方に宿陣、29日雨中険路に悩まされながら瓜生野、用居を経て、池川・性林寺に宿陣した。30日、池川を出馬し名野川村川口より乗船、午後越知に到着、岡林政吉宅に泊った。3月1日、隊伍を整へ越知を出発、九反田・駒木清蔵邸で小憩し、夕方七ツ時(午後4時)無事に佐川の土居に凱旋した。留守の諸臣や庶民総出で出迎え帰還を祝した。

翌3月2日、重愛は高知に赴き執政五藤内蔵助に松山占領の委細を報告し、その後山内景翁邸に伺い報告した。4日、佐川に帰還し、松山征討は、3月4日終焉する。
 しかし、土佐藩による松山占領は、その後も引き続き行われ、4月19日征討軍総督は深尾左馬之助から山内下総に交代している。
 新政府は5月13日付で、土佐藩征討総督に対して次のような通達を出された。
  藩主松平定昭は蟄居とする事
  前藩主松平勝成を藩主として再勤させる事
  軍資金15万両献納する事
  土佐藩の松山藩預かりを解く事。
 こうして土佐藩の松山藩占領はようやく終了した。
 松山藩は、15万両の調達に苦慮した。長州出兵や土佐藩兵駐屯の費用などで藩財政・領民ともに窮乏していた。しかし、滞納は朝命に背くことであり、とりあえず5万両を在京の老臣から納入し、10万両は藩主に内密でしばらく猶予を歎願した。結局は、諸郡代官や富商・村役人らを集め3年賦年1割の利で借入れを申し入れ、村毎の負担額を決定した。
 この項は、『佐川史談 霧生関』竹村脩著「藩政末期の佐川(20)-残照の松山征討」、『愛媛県史近世下』から要約した。

「佐川は明治維新の大乱に際して戦死者が出なかったことは戊辰戦争に従事せず、京師(みやこ)、松山でも戦争に直面することがなかったのが幸いしているのである」(竹村脩)。
 佐川が土佐藩家老の深尾家の所領であることは知りながら、このような松山藩の征討のため出陣し、幸い戦闘には至らないで任務を果たして帰還した史実は、まったく知らないままだった。
 戦闘はなかったとしても、佐川の主力部隊が上京中に留守部隊で松山征討軍を編成し、遠路、松山まで遠征し、任務を果たすことは、多大な苦難があっただろう。
 「深尾重愛以下の家臣団、郷士、下士、荷駄隊や佐川、越知、池川、用居など近郷の庄屋、庶民に至るまで、一致団結して艱難に堪え凌ぎ、みごとに克服したことは、称賛されるべき史実である」。竹村脩氏はこのように記している。

終わり   2022年3月

 

 


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幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その5

  松山藩周防大島への進攻

長州藩兵が松山に進駐した際、見逃せない事件があった。
 「松山城下の立花に住む天寿院と称す山伏(生国は防州大島)が一昨年長州大嶋攻撃の際、松山勢を案内した理由で、長州兵に拉致され、三津浜の松原で斬首された」
(『佐川史談』竹村脩著)。
 天寿院は、周防大島生まれで、島の地理に詳しいので、松山藩兵を案内したことへの報復とみられる。なぜそのような行為に至ったのか、その背景を詳しく見ておきたい。これまであまり知らなかった歴史であるからだ。ことの発端は、京都の蛤御門の変で、長州軍の皇居への発砲を理由に、幕府が長州の藩主・毛利敬親父子を朝敵とし官位を剥奪し、長州藩追討の命を下したことに始まる。
 幕府は、西国21藩に出兵を命じ、伊予国からは松山・今治・宇和島の三藩に出兵の命が下った。四国から出陣する諸藩の総指揮は、徳島藩主の蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)に命ぜられた。この際は、長州藩は戦闘にはいたらず幕府に降伏した。しかし、幕長間には、未解決の問題が多く残されており、慶応2年(1866)5月、幕府は第2次長州征討を32藩に出兵を命じた。上之関より討ち入る四国軍の中で、伊予諸藩は、松山藩が一ノ手、宇和島藩が一ノ手の応援として待機、今治藩が二ノ手の応援を命じられた。
   
周防大島

     現在の周防大島(「周防大島町観光協会」HPから)
 松山藩では、529日に一ノ手の軍勢が出陣したのを最初に、数千に及ぶ軍勢が三津浜から出発した。この出陣には、幕府より加勢の軍艦大江丸、富士山丸も加わっていた。
慶応2年(1866年)67日、幕府軍の艦隊による周防大島への砲撃が始まった。
 松山藩は8日、幕府艦船による威嚇砲撃のもと、周防大島の中央部の南側にあたる安下庄(あげのしょう)に藩兵150名を上陸させた。11日から14日にかけの戦闘で、幕府艦隊による砲撃の応援を得ながら、安下庄から八代へ進み、大島南岸地域を制圧し、村役人たちより帰順の証書を提出させた。同じころ、北岸の久賀が幕府軍の手に陥ち、大島全域が幕府側の支配下におかれることとなった。大島が容易に幕府側の制圧下に置かれたのは、長州藩が本土防衛に主力を注いでいたためである(『愛媛県史近世下』『愛媛県の歴史』)。

<当初、幕府軍の圧倒的な戦力により、久賀、安下庄の殆どを戦火により焼失するなど苦戦し、大島(現在の周防大島)の防衛にあたっていた勘場隊などの守備兵は、遠崎までの敗走を余儀なくされ、大島は完全に占領されました。(「周防大島長HP」)>
 長州藩は、15日から大島奪回のため、第二奇兵隊を主力とし、浩武隊・吉見隊など諸隊を出動させ、島の西側小松開作に上陸し八代を奪回した。反撃に向かった松山藩との間で激戦が展開された。安下庄より三手に分かれて八代に向かった松山勢は、長州軍と遭遇、峠の上から狙撃されて大敗北を喫した。松山藩は総崩れとなって安下庄に敗走し、19日には、興居島(愛媛県)由良港に帰還した。

 松山藩が大島において敗北した最大の原因は、両勢の装備の差であった。
 <特に銃器の差が大きく、松山藩にあっても鉄砲隊は組織されていたが、多くは火縄を用いる和銃であった。その中にあって洋式銃隊である新製大隊が活躍したが、その装備は、すでに天保初期から国内で用いられてきたゲベール銃であった。それに対し長州藩は、文久年間より輸入され始めたばかりの最新式のエンピール銃を備え、洋式の訓練の施された部隊であった。また、両軍の実戦経験の差も勝敗の差につながった。太平の世に慣れて実戦経験を持たない松山藩に対し、長州軍は、蛤御門の変、四国連合艦隊下関砲撃、藩内での保守・革新の内戦など、幕末の動乱の中で実践の経験を積んできた精強部隊であった。この戦闘に際して、松山藩は長州藩に対して兵・備ともに遅れをとっていたといえよう(『愛媛県史近世下』)>。

他の地域の戦いでも、石州口、小倉口など各地で幕府側は敗戦を重ね、将軍家茂の死去を口実に休戦を宣言し、撤兵した。しかし、四国諸藩の中で実際に出兵し、長州軍と戦闘を交えたのは松山藩だけだった。伊予の今治藩は消極的で藩主定法は征長中止を建白した。結局、宇和島藩、徳島藩も、ついに一兵も出すことなく終わった。以上は『愛媛県史近世下』からの要約である。

 長州に怨みを残した大島での略奪行為 

この大島進攻には、『県史』に書かれていない史実がある。それは、幕府歩兵や松山藩兵による略奪行為があったことである。
 <幕府歩兵は農民を徴兵して訓練していたが、農兵だけでは予定数が集まらなかったので、後には博徒や無宿人にも入隊を許可したので、幕府歩兵隊は精強なものの素行の悪い軍勢になっていた。この素行の悪い幕府歩兵の欠点が、久賀村占領後に噴出する事になった。
 久賀村占領後も、興奮が止まない幕府歩兵は焼け残った民家に押し入り略奪を開始し、更には略奪後放火を行なった。幕府歩兵の暴走はこれに留まらず、領民が飼っている鶏や農事用の牛までを捕らえて食べ始めたのだ。久賀村の領民の多くは久賀村南部の山中に避難していたので命は無事だったが、家を焼かれ財産や食料を略奪され、更には飼っている鶏や農事用の牛まで食われてしまったら今後の生活の予定の立てようもないので、絶望に陥った領民の心には、幕府軍に対する憎しみが芽生え始めていた(大塚進也著「歴声庵」から)。>
 これは幕府歩兵のことであるが、松山藩兵についても同様の問題が発生した。もう一度、大島への進攻の経過とともに詳しく見ておきたい。

<同日津和地島から船団に乗船し、先日同様富士山丸と大江丸に先導され、同日昼前に安下庄村沖に到着した。当時安下庄村の防衛には、村上亀之助が当たっており、安下庄村南西の甲山に、砲台を築いて備えていた。これに対して、富士山丸と大江丸は砲撃を行ないつつ海岸沿いに南下し、甲山南西の浜辺に松山藩兵が上陸する。松山藩兵は上陸後、安下庄村に進軍を開始して、安下庄村を守る村上亀之助の手勢と激突した。幕府歩兵隊に比べると軍制の旧式な松山藩兵だが、大島兵も同じようなものであり、旧式軍制とは言えども正規の軍勢なので、未だ訓練が不十分で統制の取れていない村上亀之助の手勢をあっけなく撃破して敗走させた。なお、戦闘前は「逃げる者は斬る」と息巻いていた村上亀之助は、いざ戦闘が始まると手勢を残して一目散に逃げ出したと記録されている。

村上亀之助勢の抵抗を排除した松山藩兵は、安下庄村を占領し、同村快念寺を本営と定めた。ところが、松山藩兵もまた幕府歩兵同様に民家に押し入り略奪し、略奪後は民家を放火した。こうして暴虐を行なう松山藩兵だったが、初めての実戦にのぼせ上ったのか、暴虐は幕府歩兵隊のそれより悪化し、逃げ送れた婦女子に暴行し、男衆は惨殺するという暴虐を極めたものになる。博徒や無宿人が多い幕府歩兵でさえ領民の虐殺は行わなかったのに、士族が大半を占める松山藩兵が何故虐殺を行なったのかの理由は判らない(大塚進也著「歴声庵」)>。

もっともこの虐殺は少数で、大規模なものではなかった模様で、逆に生活に困窮する農家に松山藩兵が兵糧米を供給するという美談も大島には残っている。「だが、いかんせん美談よりも悪評の方が広がりやすい為、松山藩兵の暴虐は大島だけではなく、近隣諸藩にまで広まる事になった」(同著)。
 翌十二日、幕府歩兵隊と松山藩兵は島内を探索するが、大島兵が既に撤退したと知ると、久賀村と安下庄村を南北に繋ぐ清水峠上に建つ普門寺を両軍の連絡拠点に定め、日替わりでこの普門寺を守る事とした。

<大島占領を果たした幕府軍と松山藩兵だが、大島兵が居なくなったと知ると両軍ともこの日も略奪暴行を行ない、大島の住民達には益々占領軍に対する憎しみが湧き上がっていった。こうして幕府軍司令部の意思とは無関係に行なわれた両軍の略奪暴行が、後の大島解放戦に思わぬ影響を与える事になるのだった(大塚進也著「歴声庵」)>。
 <十三日未明、高杉晋作が乗り込んだ丙寅丸の奇襲から戦況が好転し、遠崎に集結した長州軍約千人(第二奇兵隊、浩武隊、大島郡兵など)は、十五日朝、笠佐島を経由して大島に上陸、西蓮寺を本陣として反撃を開始しました。
 第二奇兵隊は、軍監・世良修蔵をはじめとして大島出身者が多く、この島の地を熟知した「制高作戦」や的を絞らせない「散兵戦術」を駆使して大島を奪還しました。この戦いの勝利が島民はもちろん藩民全体に与えた自信と進取性は莫大なものでした。(「周防大島町HP」)>

この時、長州藩兵の大島来援を知ると、幕府軍と松山藩兵の略奪に怨嗟の声を上げていた大島の領民はこれを歓迎した。続々と領民が集まり、長州藩兵への協力を申し出た。食事の炊き出しや弾薬・兵糧の運搬等の後方勤務への協力から、戦闘が始まると、地理に明るい領民が斥候の役目も果たしてくれた。後の長州藩兵の戦いに非常な恩恵をもたらすことになったという(大塚進也著「歴声庵」から)。

 大島攻防戦に田中光顕が登場
    
田中光顕

         田中光顕
  余談ながら、この大島をめぐる攻防のなかで、郷里の高知県佐川町出身の田中光顕が登場する。
高杉晋作の乗船する丙寅丸が、幕府側に奇襲をかける作戦をたてた。13日未明、出港した。この船には砲術長として山田顕義(後の司法大臣)、機関長として田中光顕(後の宮内大臣)が乗り込んでいた。専門知識はなしに長になっていたという。丙寅丸は、大島を占領した幕府艦隊の4隻の軍艦が夜、停泊して休んでいるところに突撃。幕府海軍の間を航行し、手当たり次第に砲撃を加えた。そして幕府艦船が機関に火を入れ、ボイラー機関が高温になるまで時間がかかっている間に、丙寅丸は引き揚げたという(大塚進也著「歴声庵」)


  


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幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その4

  恭順か抗戦かで論争

 しかし松山藩の内部では恭順か防戦かの両説が藩主の帰国以来激しく論争され、常信寺の中でも続けられたという。26日夜半、藤野正啓の案で崎門派の学者三上新左衛門是庵(ぜあん)を召して善後策を諮問した際、新左衛門は15万石を返上し王命尊奉の意をみせるほか道なしと説き、ようやく一決したという。27日重ねて定昭と藩主の名で赦免の嘆願書を提出した(『愛媛県史近世下』から)。

「新政府軍の土佐藩・長州藩兵などが松山に迫りくる中、抗戦か降伏かという大きな決断を迫られます。松山城を舞台に藩を二分して議論が続けられましたが、若き藩主の良き理解者で側近の大原観山(正岡子規の祖父)や筆頭家老・奥平弾正、藤野海南など、文化的素養を持つ有能な藩士たちの尽力で、定昭は降伏という決断を下します。この英断で、松山の人々は戦禍を免れ、『明治』という新時代に向けて、逆境の中から力強く再出発の一歩を踏み出しました。」(松山市HP「幕末維新と松山藩―時代の激流―人々の決断」)
 「円滑な開城が実現した背景には、硯学である三上是庵による恭順・交戦両派への説得や長州藩の動きを警戒する土佐・松山両藩の思惑があったとされる」(ウィキペディア)
 資料によって、恭順を説いた人物が異なっているが、複数いたということだろう。

  征討軍が城内へ入る
 土佐の松山征討軍は27日、松山城外立花口に着陣し、高松から来た本山只一郎から錦旗を受け取り、御旗を先頭に松山城へ進軍した。
 土佐軍は松山城三の丸の大手門に到着した。大手門は固く閉ざされていた。そこで、大軍監小笠原唯八は大声を発し、開門を迫った。門は戸内から静かに開かれ、松山藩家老水野主殿はじめ諸役人が麻裃姿の礼装で平伏して出迎えた。恭順書を提出した。
 入城の将兵は一番入り50人、二番入り300人と続き、総勢730人が入城。さらにこの日京都在留の土佐藩兵2小隊185人が応援として到着。合計915人、さらに、荷駄夫などを合わせると2000人が入城した。

征討総督の深尾左馬之助、副総督の深尾刑部重愛らは、三の丸大書院に着座、ここで、松山藩筆頭家老の奥平弾正、家老の鈴木七郎左衛門により降伏、城地引き渡しが述べられ、深尾左馬之助から「朝命により参った、隣国の義気の毒に存じ候」と挨拶があり、朝令伝達がなされた。松山藩降伏の儀が厳粛に行われた。27日夕方から城地・兵庫を収め、各所に封印して松山城の接収を28日の早朝に完了した

左馬之助が鈴木七郎兵衛に渡した覚書によると城地・土地人民・城内の銃や弾丸を受取り、旧幕府や松山藩の制礼は取除くこと、恭順の常信寺へは番兵を出す、朝廷への嘆願書は受け取る、諸法度は従来通りとし、農工商は平日の通りの生業従事を布告している。恭順が明瞭であるため兵士は城中には留まらず、市中要所に「土州預り地」の制礼を掲げて滞陣した。征討軍の行動は極めて迅速でまた紳士的であったという。28日暮れには征討総督四条降謌も、京都にあった今田光四郎以下185名の土佐藩兵と共に松山に入り、土州勢の総兵は915人となった。

  松山城
             松山城
 土佐征討軍のもっとも恐れていたのは、長州藩兵による松山城接収である。このため、長州軍の動きには敏感で、その動きは逐一報告を受け、松山遠征隊の四国山脈越えの途中も次々に入る長州軍の情報により、行事予定の変更を余儀なくされ、急ぎに急ぎ無理を重ねて正月27日暮れ時、やっと松山城に入ることができたのである。

 土佐藩の本陣は、正月28日は城下湊町の亀屋佐市兵衛邸としたが、2月1日廊中の白井団平邸に陣営を移した。城外に土佐藩の高提燈を掲げ、諸方に高札を建てた。そこには次のように記されていた。

 「当方土州預り地 
 此度 天命を以て 朝敵追討の為当地へ兵隊差し向けられたる處 悔悟伏罪の上は残忍の御處置なされずに付 人民安堵 夫々の産業速やかに相営むべき事
   慶応4年正月 土州 大観察」(原文カタカナ。『佐川史談』竹村脩論文)

 一方、長州軍は翌28日早朝、30隻の和船に分乗して三津浜に到着した。そして松山藩の動静を探ってみると、藩主は恭順の意を表して城外に退去し、城は土佐藩により占領されていることが分かった。そこで、同日午後に上陸した。隊長杉孫七郎以下、整武隊3中隊・歩兵2中隊と砲隊合わせて約500人の兵力で、停泊中の松山艦船1隻を接収した。上陸して門田屋を本陣とし「長州預り地」の制札を掲げた。
 「土佐藩としては、まさに間一髪の幸運であった」という(『佐川史談』竹村脩著から)。そこで、土佐軍監小笠原唯八は長州隊長杉孫七郎に一書を提出した。

 この中で、長州軍が建てた制札(布告など書いて立てた掲示)の撤去を申し入れている。長州側も既に松山城は土佐軍により占領されたことであり、その後相方の話し合いの上、長州軍も朝命により征討軍として出陣したものであり、長州の立場を考慮し、土佐藩、松山藩立会いの上、松山城を長州藩に検分させた。
 長州に提出した文書の中で、興味を引くのは、「大嶋郡御遺恨の儀は薄々承知仕り候」(原文カタカナ)と述べていること。幕府側による第2次長州征討の戦いで、松山藩兵が上陸した周防大島で、島民への略奪などを行ったことへの怨みが長州側にあることを示唆したものである。これは後から詳しく見ることにする。

  2月1日には、杉孫七郎ほか3名が、藩主の恭順を見届けに常信寺に出向き松山藩より嘆願書を受け取っている。
 福山藩は1月25日に長州兵応援軍として松山藩への出兵の命を受け、鞆津を出帆した。激しい風波のため、三津浜に着いたのは2月7日であった。翌8日、長州兵全軍と共に城中を検分し、勝成父子の謹慎を見届けて三津に帰陣した。
 2月19日(15日の説もある)、松山の取り締まりは高知一藩に命じられ、福山藩は2月末までに、長州勢も3月3日には全軍が引き揚げた。

 軍律違反で処刑
  土佐藩の松山征討軍は、出発前に山内容堂からの指令、佐川の深尾重愛から法令の厳守、藩主山内豊範からの軍令が出され、違反することのないように厳しく命じられていた。
 2月5日には土佐藩兵士が軍律を犯した罪状により、4名の兵卒が斬罪となり、追手門前に3日間梟首(さらしくび)とされている。「これは一種の見せしめ刑で、土佐軍軍律の厳しさを一面で誇示したものであったと考えられる」(『佐川史談』竹村脩著から)
   土佐の松山征討軍は、入城と共に松山領分への諸法度は従前のままとし、安心して生業に励むべき旨が各村に布告された。1月29日は土州大監察の名で此度の動揺に乗じて窃盗や狼藉をするものは切り捨てること、公事訴訟は土州役所へ申し立てることを布告した。翌2月9日には役人へのまいないの禁、博突・邪教の処分など更に細かい11か条を掲げて治安の維持を図った。
 松山藩側も藩士や領民に対し、藩主も謹慎中であるから流言に惑わされて動揺せぬよう、又官軍に対し子供でも不敬不作法のないよう指示した(『愛媛県史近世下」)。

 松山藩への処分決まる
 松山藩から朝廷への度々の歎願は、ようやく新政府も認めるところとなり、5月13日に寛大の仁恵による処分が定まった。土州総督より22日に示達され、即日各村へも布告された。
 <処分は15万石の本領は下賜されるが藩主は松平勝成の再勤として定昭は蟄居、また家老菅但馬、鈴木七右衛門、松下小源太以下重臣にも閉門・隠居というものであった。しかも同時に東北出兵の代わりに15万両の軍資金の貢納が命じられた。勝成父子は早速寛大な処置を謝し、忠勤に励む旨の請書を提出した。…土州先勢は4月17日に来着した山内下総軍と交代して29日に帰城していたが、勝成の藩主復帰によって同藩(土佐)の退去が命じられ、預かり諸事を引き継いで5月28日には全軍が引揚げ、4か月に亘った高知藩の松山軍政が終了した(『愛媛県史近世下』)>。



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幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その3

  佐川を出発、遠征へ

22日の夕方、遠征軍は佐川の土居を出発した。初日は、南北朝時代に建立された佐川最古の寺院、乗台寺で泊まった。初代深尾重良が元和5年(1619)、広島城主・福島正則が改易処分を受け、広島城請け取りに参加する際、初日の宿営を乗台寺で行った吉例に従ったという。
 23日、夜明けごろに越知へ出発し、途中で深尾左馬之助が率いる本隊と合流し、岡林政吉方を本陣として軍議が開かれた。

220日頃より此の人数多く引続く事にて、22日は旅人越知泊にて暮に1800人の泊りと申す事なりしが、後には追々来りて数知れず、越知の宿の世話にて郷中はもとより其外女川、油(ママ)行寺・今成・柴生(ママ)・宮地まで宿をふりつけ、夕方に至りては人数いやが上にも重なりて数千の人数なり、夜眠りもやらず東の白みまで難儀すること也。明くれば23日東方明なんとの時、早、諸人旅立の用意する事いと騒がん」(松田淇仙著「独楽筆記」、原文カタカナをひらがなに改めた。竹村脩著「藩政末期の佐川」から)。
 松山討伐の兵員がふくれあがり、越知だけでは泊まれず、そのほか5か所の地域まで宿を振り付けるなど、隊列の通過する地方では、その対応におわれた様子がうかがわれる。

24日、泊り地となる池川では、15日頃から役人が盛んに出入りして軍隊の受け入れ準備に多忙を極めた。漁師たちの人兵は砲1丁につき50発の弾丸を作り、百姓には草鞋(わらじ)5足 松明5丁、弁当の用意が申し渡された。
 また、吾川、高岡、土佐郡の庄屋は池川に詰め、郡内の15歳以上は庄屋に詰めるなど、着々と軍隊受け入れの準備を調え、役人方・手引方・砲方・米配方などそれぞれ役目を決め、万事疎漏(そろう)のないよう手配したという。
 22日には、米1万余石、味噌20荷、香の物20荷余、薪・松明(たいまつ)・草履が池川・用居村へ送られ、用居5か村泊まり、1万余人の食、白米6合ずつ60石余、池川も同じという状態であった。

25日は午前休養、午後出発し用居泊りの予定であったが、松山からの急報で長州勢が松山征討に出陣の模様との通報があり、先発隊は早朝出発した。
 長州藩と松山藩の関係については、後から見ることになる。
 後続の本隊は25日正午、池川出発、日暮れ頃、瓜生野坂にかかり、夜通し行軍となる。折から大雨となり、暗闇の中、雪が溶けずずるずる滑る中、大砲を引き、武器を構えて難渋の中、勇気を鼓舞しながら歩き続け、明け方松山領の東川村(現美川村)に入った。ここで万一に備え銃に玉込めをして備えたが何事もなく進む。

27日、夜明け前から土砂降りの大雨で悪路・苦難の連続であったが、士気大いにあがり三坂峠を下り、久谷を過ぎて荏原(えばら)に至る。ここで樋口真吉一行が錦旗を捧持して到着。八幡宮で錦旗拝掲式を行い、松山城に向け進軍した。この錦旗は、幅2尺8寸、丈1丈余、赤地に牡丹唐草模様あり、上部に金色の菊花紋章を据え、本筋金黒巻、約3間の旗竿が添えられていた(平尾道雄「錦旗由来記」)。
 長州軍の動きが懸念であるので、急ぎに急ぎ行軍、ついに暮れ六ツ(午後6時)ようやく松山城下、八股に到着した。ここで兵を留め、大砲や小銃の空砲を空に向け、いっせいに発砲した。ひっそりとした城下の町並みを抜け隊列を正し、錦旗を押し立てて松山城に迫った。(以上は『佐川史談 霧生関』竹村脩著「藩政末期の佐川(20)-残照の松山征討」から要約)

    
      高知から松山への街道。佐川を通っていく   
『佐川史談 霧生関』は、越知町在住の同級生が送ってくれたものである。この土佐藩による松山征討の話を書いていることを知らせると、思わぬ反響があった。というのは、同級生の母親が池川方面の出身である。この松山遠征の街道にあたる地域である。子どもの頃聞いた話として、言い伝えによると、征討隊は時を計るのに竹笹を持ち、これがしおれないうちに進んだという。竹笹で時を計ったというのは聞いたことがない。竹笹がしおれないうちというのが、一日の行程の目安だっただろうか。

 土佐藩の松山進駐

いよいよ土佐藩の松山進駐にすすむ。幕末の松山藩の動向について、もう一度振り返りかえっておく。110日には高松・松山・大垣・姫路4藩が、徳川慶喜の反逆に味方して官軍に敵対し大逆無道として追討令が出されていた。
 中四国方面の征討総督には参与の四条降謌(たかうた)が命じられ、111日土佐藩に高松・松山と川之江その他の幕領追討令が発せられた。ついで長州藩・福山藩にも松山出兵、伊予国内では宇和島・大洲・新谷の3藩へ、土佐に応援または協力しての出兵が命じられた。20日松山藩は定昭と士民の名で嘆願書を認(したた)めた。慶喜の将軍職の辞退や大坂開城の様子は朝廷に対して恭順が明白であること、親族として徳川と行動を共にした点を弁明し、朝敵の名の取り消しを訴えた。しかし嘆願書をもって22日出帆した使者は大坂以北へ入り込むことが許されず空しく帰藩した。

 高知藩は征討軍に先立ち、19日に問罪使として大目付小笠原唯八・御仕置役金子平十郎を命じた。2人は23日松山到着し、勅命によって兵卒を差し向け、伏罪するかそれとも異議に及ばれ候や、速やかに返答されたい、と申し入れた。藩主定昭は24日惣出仕を命じ、藩士に決意を伝えた上で、王師に敵対する心はなくどのような命にでも服すこと、臣下まで全く異論のないことを誓い、朝廷の取りなしを懇願する旨の返書を提出した。また領内の村々へも21日官軍への恭順を誓わせ穏便にすごす旨を布告し、翌日鳴物停止や旅人止宿禁止などを布告した。

 また謹慎の意を明らかにするため1月25日藩庁を明教館に移し、定昭は前藩主勝成と共に城を出て菩提所の常信寺に入った。当日は全市中が門戸を閉ざし重苦しい雰囲気であったが、松山開城の申触れが伝わると市中大騒動となり、町奉行以下諸役人が説得につとめたが、なかなか鎮まらなかった。堀之内の重臣らも藩主にならって残らず家屋敷を明渡し、藩庁の記録類も城内で焼却した。

 


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