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レキオ島唄アッチャー

幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その2

 松山藩征討へ軍編成

土佐藩では、松山征討軍の編成と同時進行で、松山藩主松平定昭宛ての藩主山内豊範の親書を携えた「門罪使者」を派遣した。使者の金子平十郎、小笠原唯八などは2月22日、松山に到着した。松山藩を説得し、松山藩もこれに従って恭順の意を表し、前藩主松平勝成、藩主定昭父子は道後常信寺に謹慎した。
 一方、征討軍編成については、深尾左馬之助を総督とした主力と、佐川は深尾重先の養嗣子、深尾刑部重愛を副総督先鋒とする別動隊が派遣することとなる。双方あわせて総勢1600名の部隊であった。

     深尾氏土居屋敷想像宇復元鳥瞰図

    深尾氏土居屋敷復元想像図(『佐川史談霧生関』から)

   佐川・深尾家にとって初の他国攻め

 松山藩征討にたいする佐川の対応について詳しく見ていきたい。
 慶応4年(1868)1月時点において、領主の深尾重先は佐川家臣団の主力を率いて上京、御所護衛の任に当っていた。1月11日、重先は土佐本営に出勤、直ちに山内容堂とともに御所に行き、このとき高松・松山の追討令を受けた。「徳川慶喜反逆妄挙を助け候条、其の罪、天地の容(ゆる)すべからず候に付、讃州高松、豫州松山、同川之井(ママ)、是迄幕領惣(すべ)て征伐没収有るべく仰出され候」高松・松山藩は「慶喜反逆妄挙を助け(た)」と断罪し、征伐没収を命じられた。

1月18日、佐川では、広井熊之介、上村次三郎が京都から帰着、松山、高松などの討伐の件と先鋒として深尾重愛に内命がなされたことを報告する。
 翌19日、家来一統を招集、この件の周知と容堂の自筆書付写しを示し一層の覚悟を促(うなが)した。容堂の指令は「覚悟勿論に候、然るに猥(みだり)に戦争の名義を論じ、自然動揺致し候では、相済まされず候に付神妙に相心得」と述べている。
 「戦争の名義」を論じるな、と注記しているのが興味を引く。なぜ松山藩を征討するのかなど、あれこれ詮索せずに、軍命に従えということか。

19日から家臣たちは続々と諸役場に詰め、急遽出陣の用意に取りかかった。なにしろ深尾家が佐川に封ぜられて以来、はじめての戦争、他国攻めであり、長い太平の夢は一瞬にして崩壊した。極度の緊張と気持ちの切り替え、未経験の戦争準備に大騒動で、翌20日も準備に丸1日を費やした。21日は吉例の軍神祭を大広間で簡略ながら挙行、出陣のメンバーはそれぞれ肩衣を着用して列席、重愛より法令が伝達された。
 法令を守り忠勤に励むことや「軍政の当否 私(ひそかに)評論」すること、市中において押し取り、押し買いは言うに及ばず「乱妨狼藉」を堅く停止、「陣中に於いて、飲酒遊楽」「金銀を費し、怠惰を生じ(る)」ことなど「堅く停止」することを命じている。軍律を厳しく守るよう徹底している。

22日には、土佐藩主の山内豊範から重愛への軍令書が届けられた。やはり軍律を守ることを達している。その中では「軍中 敵軍の強弱を 私同士、事宣を評価致す」ことを禁じている。軍の出陣に当っては、軍律の徹底がいかに重視したのかが、改めて伺える。それでも後に、松山で起きた軍律に違反する事件は、後から見ることになる。
 22日には、正午過ぎ出陣の合図の発砲があり、出陣の面々もそれぞれ武装して参着した。4時過ぎ(七つ時)には、いよいよ隊伍を整えて出発した。
 甲冑に鎖帷子(くさりかたびら)に身を固めた姿で出陣した伊藤蘭林(注・佐川の名教館教授を勤めた)は、途中ですっかり参り鎧をすぐ脱いだとの話が残っている。その他の者も、黒森坂途中までに大半の者が鎧を脱いだ。
 当時の甲冑の重さは、兜と胴を合わせると30㎏ほどあったという。戦国武将の今川義元は甲冑が重すぎて、一人では立てなかったという逸話もある。鎧を着けたままの行軍は余程きついだろう。

出発に先立ち、松山との国境の防備を固めるため、20日、別枝村に代官、下代(注・大代官の次席)を出張させ、山分(注・山道を分行く)の村々から40人の漁師兵を徴収、兵を配備して国境の防備を厳にした。
 19日、土佐藩は行軍道中の伊野、岩目地、越知、池川、用居の各庄屋に対し、宿泊に差しつかえないようにと指令を発している。だが、総勢1600名という軍隊が大挙して、山分の寒村に宿泊すること自体が、絶対量の不足で難渋した。また山分における現地の食糧はほとんど米はなく雑穀ばかりで、食糧調達などは無理な話であったという。

佐川の深尾家の財政は逼迫していた。重愛の自筆書付を1月13日に発表し、非常の事態のため一層の引き締めと倹約を徹底するよう指令していた。逼迫した財政のところに、松山出兵という思いもよらない事態が発生したが、出兵が至上命令とあれば、出兵するよりほかに致し方なかった。


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幕末松山藩の征討の先鋒となった佐川・深尾家、その1

 わが郷里、高知県佐川町は、山内家の家老・深尾家の領地だったことはよく知られている。徳川家康による豊臣家打倒により、山内一豊が領主となった土佐藩では、慶長6(1601)年、深尾家初代重良が佐川領一万石を受けて以来、明治2(1869)の終焉までその支配は268年に及んだ。
 幕末から明治維新にかけて佐川から幾多の人士を輩出したことは、このブログでもすでに書いたから繰り返さない。
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが始まった。薩摩長州軍は錦の御旗を掲げ官軍となり、土佐藩も錦旗を受け官軍に任じられた。一方、幕府勢力は賊軍とされた。このとき、四国のなかでも、幕府側の松山藩は朝敵とされ、同年1月11日、松山藩を征討するよう朝廷から土佐藩にお達しがあった。
 これを受け、土佐藩では急きょ、高知本藩から深尾左馬之助が総督とされ、佐川は深尾刑部(重愛)を先鋒とした征討隊を組織して、松山征討に出発した。
   
この時点で、佐川の主力部隊は佐川領主重先(鼎)に率いられて京都に出陣していて、松山征討は留守部隊によって編成された。
    
深尾氏土居屋敷想像図1
             深尾氏土居屋敷想像図(『佐川史談霧生関』から)    

  朝敵とされた松山藩
 松山藩は幕末の激動の中でどのような対応をとったのだろうか。
  関ヶ原合戦後に徳川家康は伊予を二分し、加藤喜明と藤堂高虎にそれぞれ20万石を与えた。しかし、この体制は定着せず領主の転封・入封がくり返されたあと、寛永12(1635)年松山に松平定行(15万石)、今治に松平定房(3万石)の兄弟(徳川家康の甥)が配置され、国内の最大の大名が親藩であるという親藩優位の国に変えられた。最終的に伊予の大名配置は8藩となった。松山、今治、西条、小松、大洲、新谷、宇和島、吉田の各藩である(『愛媛県の歴史』)。
 このように徳川家康の男系男子の子孫が始祖となった「親藩」であった。幕末には、幕府方についた松山藩は、 慶応2年(1866)6月の幕府軍による第2次長州征伐にあたって出兵し先鋒を任された。
 「この際に占領した周防大島において住民への略奪・暴行・虐殺を行ったことが後に長州藩閥から冷遇される要因となる」(ウィキペディア)。これは後で詳しく見ることにしたい。
 長州征伐は、長州側の勝利に終わった。
 藩主の松平勝成は隠居し、新たに津の藤堂家から22歳の定昭が家督を相続する。松山藩は命により京都の二条城の警護にあたった。徳川慶喜が京都を脱し、大阪城に向かうと、定昭も行動をともにした。鳥羽伏見の戦いでは、定昭と藩兵は梅田方面の警護に当たっていた。
 
 慶喜が大阪城を脱出すると、定昭は取り残され、朝廷の呼び出しにも応じず、堺から蒸気船に乗り松山城に帰った。
 朝廷は慶応4年(1868)1月7日、徳川慶喜追討令を発し、翌8日には松山藩などに対し宮門出入禁止、9日江戸藩邸の没収、10日藩主松平定昭に処分、官位剥奪、京都屋敷の没収、残兵追放、征討軍派遣を布告した。
 松山、高松・大垣・姫路の4藩は朝敵の烙印を押された。
「従来天朝を軽蔑」し、「今度慶喜反逆に助力し、官軍に敵し候段大逆無道、よって、征伐の兵差し向け候事」との布告が朝令として張り出された。
 土佐藩は、鳥羽伏見の戦いが始まると、伏見を守備していた土佐藩兵は、直ちに参戦、薩長とともに官軍側に立ち、旧幕府軍と戦いと交えた。合戦開始の報が入ると、土佐藩では出兵準備に入り、土佐征討軍は、1月13日高知を出発した。征討軍は、深尾丹波を総督とし、総員600余名にのぼった。

 高松藩も朝敵に
 讃岐国は、寛永18年(1641年)、西讃地域に丸亀藩(後に多度津藩が分立)、翌年、東讃地域に御三家の水戸徳川家初代藩主の長男、松平頼重が来て高松藩が成立した。高松松平家は、「将軍の政治顧問を務める高い格式を有していた」(ウィキペディア)。
 宗家の水戸藩が尊皇に傾く中、苦しい立場にたたされ、結局、鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府方に就いたため、朝敵とされた。
 土佐藩を中心とする討伐軍は、丸亀藩、多度津藩を従えて高松に向かっていた。高松藩と親戚である徳島藩が協力に消極的であったが、高松藩が恭順の見通しであることが判明し、1月20日に高松城は無血開城され、ただちに同城に入って接収を完了させた。
 高松藩は、朝命恭順の意志として、家老2人を切腹させた。征討軍総督の深尾丹波は朝命を伝達し、高松藩主松平頼聡は謹慎して軍資金12万両を献上した。
 2月には藩主・頼聡に上京・謝罪が命じられ、土佐藩も高松城を返還して撤収した。その結果、4月15日、新政府への軍資金12万両の献上と引き換えに罪が許された。
 土佐藩兵主力は、2月22日高松を出立し上京、東征軍に属し中山道から甲州街道、江戸へと転戦していった。
以上は(『愛媛県の歴史』、『愛媛県史近世下』、『佐川史談 霧生関』の竹村脩著「藩政末期の佐川(20)-残照の松山征討」、「ウィキペディア」を参考にした。
 次回に続く。

         

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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その7

 佐川の生みだした人材の続き

  
 民権派儒学者と呼ばれたのは山本梅崖である。その先祖は、武田の軍師・山本勘介だった。山本家は高祖父の山本日下が名教館教授となって以来、代々教授を務めた。梅崖は名教館に1855年、数え4歳で入学した。12歳の年には、深尾氏子息の侍講を命ぜられた。幼少の時代から政治への関心があった。14歳で高知の藩校・致道館で松岡毅軒に師事し、明治元年(1868) 17歳で、開成館で英語を習得、「致道館」の助教を努めた。明治4年大橋春風の家に寄宿、「育英義塾」で洋学を学んだ。明治8年「大阪新報」の記者、さらに岡山 の「稚児新聞」「中国日日」の主幹を務め、また「越後新聞」にも招かれた。
 1877年の西南戦争には電信技手として従軍した。明治18(1885)、自由党左派の大井憲太郎、小林樟雄らが、朝鮮の志士・金玉均らと共同して朝鮮革命を実現させようとした「大阪事件」に関与した。志士らを匿ったことが露見して、首謀者の一人として投獄された。
 明治22(1889)、梅崖は憲法発布による大赦で出獄された。しかし、その後自由党の堕落を眼前にして、政治とは一切絶縁し、梅清処塾での教育に専念した。
 山本梅崖の民権論は、儒教古典を援用したので「民権派儒学者」と呼ばれた

 <天賦人権・自由・平等・人民主権・抵抗権等の思想が儒教古典に現われていることを説くところに特徴がある。『書経』『詩経』『孟子』『史記』などが援用されている反面、ミル・ルソー・モンテスキュー・スペンサーなどからの引用は一切ない。経書の中から現在に通じる「人間の事実の原型」をつかみ出そうとする梅崖の復古学的方法が、そこには見事に生きているといえる。…民権思想の儒学的解釈の意味であろうが、実際は経書に民権思想が内在することを示す形になっている。(『慷慨憂国論』。久木幸男著「民権派儒学者山本梅崖についてーーその思想形成を中心にーー」)>

<彼は民権運動と儒学者としての活動とを、同時平行的に進めた数少ない一人であった。君は土藩文学の家に生れ、幼にして孔孟の教に傾倒し(中略)明治十四年故板垣伯の自由党を創設するや君亦郷党の子弟と共に加はり、殊に片岡健吉、中江兆民二君と親善あり(中略)。家塾を大阪に開き専ら子弟を教育し、傍ら各地の新聞を藉りて時事を痛論せり。苟も儒にして政を談ずるもの、君を措きて在らざるの感あり(中略)。君が八十年の生涯は、実に儒学の権化にして高士の典型なり。必ずや其流風余韻、永く後人を感奮興起せしむる(大阪事件に連坐した小久保喜七が梅崖没後の追悼会に送った「追悼辞」から)。>
 代表的著作に『梅清処文鈔』『梅清処詠史』『燕山楚水遊記』『四書講義』『論語私見(未刊)』等がある。
 以上は、久木幸男著「民権派儒学者山本梅崖について」「好古斎」主人・小林松篁著作を参考にした。

 

女権拡張運動で活動した山崎竹

佐川町出身で、女性として自由民権運動の中で女権拡張を主張した活動家に山崎竹18661908)がいる。
 自由民権運動の論客、植木枝盛は自由党が解党したあと、明治18年(18853月、高知へ帰ると、道徳・風俗の革新、家族制度改革や女性解放論の論文を発表し、当時の女性に大きな影響を与えた。
竹は、現在の佐川町で医者の父、山崎立生の娘として生まれた。高知女子師範学校を卒業して追手筋小学校などで教師をつとめた。父の門弟で後に歯科医となった民権家・織田信福の妻になった。
                
山崎竹

                  山崎竹(「自由民権記念館」」)

 植木の記事に強い感銘を受けて桜馬場の植木宅を訪問した。植木のまわりには女性たちが集り、活発な活動をはじめた。 
「竹の生まれた環境は自由民権運動の盛んな時期であり、父親も関わっていたが、結婚して過激派(民権家)だった夫から政治的影響を受け、植木枝盛との出会いにより、女権拡張運動に参加する活動家になった」(「社会運動に生きた女性たち」)。

『東雲新聞』紙上で女性解放の方法をめぐって論争したことがある。
 竹は、明治20年(18871226日の保安条例によって東京から追われた土佐の民権家たちが帰宅して間もない2月22日の『土陽新聞』に、「婦人の急務」と題して、政府がたくらんでいる屈辱的条約の締結を阻止するために男子が一命を擲(なげう)って運動しているのに、女子が化粧と音楽と舞踊に現(うつつ)を抜かしていることを嘆き、婦人に政治活動に目覚めるように投書した。

 竹の投書に対して『東雲新聞』に土佐吸江女史から、婦人会の結成や運営に男子の力を借りる状態は矛盾していると反論がよせられると、竹は土佐幽竹女史の筆名で、同紙に、男尊女卑の弊風を正していくためには男女相互に団結通同して正道真理を拡張すべしで、これが最大の急務である、と誤りを糾弾した。
 明治21年(1888)5月11日、竹らによって高知県婦人会が結成された。竹は発足した会の幹部として活躍した。また、「婦人解放論」「廃娼論」「婦人参政権論」を執筆した。
 注・この項は、公文豪著『土佐の自由民権運動入門』、「社会運動に生きた女性たち」を参考にした。

日本で初めて自由民権の旗を掲げた土佐の民権運動のなかで、郷里の佐川町の先人たちが、このように草の根から勇敢に立ち上がり、幅広い連帯のもとに運動を繰り広げた事実は、佐川の誇るべき歴史であると思う。

選挙干渉のあった1892年から数えてももう130年ほど経過し、郷里の人たちもこうした歴史を知る人は少なくなっていることだろう。小中高校で在学中も、これを学ぶ機会はまったくなかった。今日の民主主義は、だれもがもはや当たり前の現実として認識している。しかし、それは先人たちの血のにじむような運動があり、自由と民権の思想と希望は脈々と受け継がれて、戦後ようやく実現したものである。
 こうした歴史は、将来にわたって語り継いでいく必要があることを痛感した。

終わり    2022年2月   沢村昭洋

 

 


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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その6

  自由党の地盤だった尾川村

私の出身地、佐川町尾川は、自由党の地盤だった。選挙干渉も激しかった。 
 <高岡郡尾川村は自由党の固い地盤だったから、駐在巡査盛岡某がひそかに吏党候補へ投票するよう勧誘したところ、村民からたちまち不当な干渉としてなじられた。そこで森岡はこのことを佐川分署長井上作郎に報告したところ、井上は暴漢4人をひきつれて有権者片岡民弥の家に行って、天皇の解散し給うた議員を再選しようとするのは不敬だと説き、吏党候補(与党系)に投票するよう強要した。その場に居あわせた中村陽がこの不当な干渉に忠告したところ、井上は中村を殴打したうえ、さらに森岡巡査と暴漢に蹴倒させ、これに縄をかけて佐川分署に引致拘留した(この項、外崎光弘著『土佐の自由民権』から要約)。>

2回総選挙では、投票権は、直接国税を15円以上納めている満25歳以上男性に限られていた。全人口の1%程度の人しか投票できなかった。
 高知県第2区では、国民派の片岡直温が854票、安岡雄吉が844票で当選し、自由派は片岡健吉が771票、林有造が773票で枕を並べて落選した。開票の不正が行われ、実際には片岡健吉は879票、原告林有造は875票の得点あるとして提訴した結果、認められて林有造片岡健吉が当選した。

自由派に関係する佐川近辺の各村の投票所の結果は次のようになる。

郡村名  林有造  片岡健吉 自筆  代筆

斗賀野   32    32    11    21

佐川    51    55     21   35

尾川    10    10      4    6

越智組合   7     7     4    3

黒岩    34     34     9   25

加茂    20     20     4   16 

(『宿毛市史』から)

この得票を見ると、2区のなかで佐川の51票は高岡村の71票に続いて2番目に多い。佐川近辺では、佐川の次に黒岩、斗賀野と続いている。尾川はやはり人口も少ないし、直接国税を15円以上の納め選挙権を有する住民も少なかっただろう。投票で自筆より代筆が多いのも目立つ。投票権を持つような住民でも、自筆で投票できる教育を受けている人は少なかったのだろう。

      林有造
                        林有造
 林有造と片岡健吉はほぼ同数で出ているが、この時、選挙
の選挙投票記入は連記名であった(定員2名以上の選挙区
で複数の候補者を選ぶことのできる投票制度)
 尾川村は現在、合併により佐川町となっている。山間の小さな田舎の村が自由党の地盤だったことも、こんな暴力的な干渉があったことは初めて知った。聞いたことのある名前や地名が出て来ると懐かしい。
 自由民権運動は、当初は士族や豪農が中心だったというが、田舎の尾川村には、士族も豪農もほとんどいなかっただろう。租税の軽減なども掲げた自由民権運動と自由党に生活が困窮する農民たちも強い期待を持ったのではないだろうか。

選挙の結果、高知では1、2、3区ですべて自由党が勝利し、全国でも第一党となった。
 明治254月下旬、佐川柳瀬公園で、自由党大勝の祝賀と、西田楠吉の全快祝いの大懇親会が開かれたが、集まった郷党の士数百名をもって柳瀬川原をうずめ、板垣退助、片岡健吉、林有造、西田楠吉らは宴中立って演説に万丈の気を吐いた。
 この干渉事件によって高知県下の死者10名、負傷者66名、破壊された家屋90戸に及んだが、その大半は高岡郡下であった。
 全国の死者は25人であるから、高知が全国でも苛烈だったことがわかる。

 明治251010日、黒岩村で、衆議院議員当選の片岡健吉を迎えて、選挙干渉騒動後初の自由政談大演説会が開催された。聴衆は300余人。翌11日の佐川町での演説大会は、新町座を会場としたが、ここも来会の聴衆1千余人で広い劇場も立錐の余地なく、この両会場の活気は、選挙干渉闘争後一旦落沈していた佐川近郷自由党の気勢をふたたび盛り立てた。

    名教館2
               名教館玄関(「佐川町の文化財」から)
 佐川の生みだした人材
 佐川でなぜ自由民権運動が盛り上がったのか、を考えると、その一つの要因として思い当たるのは、深尾家によって作られた「名教館」(めいこうかん)の存在がある。幕末から明治にかけて、時代を駆け抜けた人材を輩出した。佐川は「文教の町」と称されている。
 佐川は、土佐の領主山内家の家老深尾氏の領地だった。深尾氏は、代々、子弟、家臣の教育にこころをおいた。6代重澄が開いて家塾を「名教館」と命名し、のちに郷校となった。内容は充実していき、漢文、和歌、算術、暦算、測量、剣術、兵学、茶道、謡曲など教えたという。明治になると科学・文学などを教えるようになった。
 名教館で学んだ人びとの中から、明治維新と自由民権期に活躍する人物を輩出した。世界的な植物学者、牧野富太郎もこの名教館で学んでいる。

 改めて、幕末から明治にかけて佐川から生まれた人物を紹介したい。
 最も著名なのは、田中光顕である。武市瑞山に師事し勤王同盟に加わる。脱藩し長州に入り、高杉晋作の知遇を得た。中岡慎太郎が作った陸援隊の幹部となる。維新後、岩倉使節団の随員として欧米に派遣された。西南戦争には政府側で征討軍会計部長となる。数々の要職を歴任し、宮内大臣を長期間つとめた。晩年、維新の志士の顕彰に尽力したという。だが、政権側に立ち「天皇親政
派」の宮廷政治家とされた。

    田中光顕

         田中光顕
 古沢迂郎(別名、滋)
は、佐川深尾家の家臣、・古沢南洋の二男として生まれた。上洛し尊王攘夷運動に加わるが、帰郷時に投獄された。維新後は、明治2年(1869)石巻県に出仕、翌年大蔵省に転じ、十等出仕となる。イギリスに留学のため派遣され、帰国後、板垣退助の依頼で自由民権運動に加わる。1875年
8月、元老院権大書記官に就任。以後、二等法制官、法制局権大書記官、地方官会議御用掛などを務め、1880年4月に退官した。その後、『大阪日報』社長となり、1882年に『日本立憲政党新聞』主幹、さらに『自由新聞』主筆を務めた。
 その後、外務、内務、農商務
、逓信省などの役職を歴任した。
 1894年
1月以降、奈良県、石川県、山口県の知事を務めた。1904年822日、貴族院勅選議員に任じられた。(ウィキペディアから要約)

 水野龍(みずの りょう)は移民事業指導者だった。自由民権運動に奔走した。その後小学校教員、県庁員、巡査などを経て、明治38年単身ブラジルを視察。移民事業に乗り出す。
 明治41年皇国殖民会社を設立、大正10年までに2万人超のブラジル移住を果たした。ブラジル在留邦人から「移民の父」として今も慕われている。

伊藤蘭林は儒官として名教館で教える一方、目細谷で自分の塾も開き町民にも教えていた。蘭林の教え子には牧野富太郎がおり、塾で習った後名教館に移り勉強した。田中光顕や広井勇、古沢滋などがいて、有名になった人で蘭林の指導を受けなかったものはいないという。
 蘭林の子、伊藤徳敦は戊辰戦争に従軍、後に中学校教諭となり自由民権運動にも参加した。立志社ができたあと佐川で初めて自由民権運動をすすめる南山社をつくった。

植物学者として著名な牧野富太郎、若い頃は自由民権運動に傾倒した時がある。植物学研究に専念し、東京大学で研究に邁進し、数多くの新種の発見や命名を行い、植物図鑑の発行や植物採集会の実施などを通して、植物学の普及にも尽力した。「日本植物学の父」と呼ばれた。
 
 英文学者・博物学者の
西谷退三(本名・竹村源兵衛)は、『セルボーンの博物誌』の翻訳と研究で知られる。竹村は、札幌農科大学に在学中、この著書を読んで感銘を受けた。大正12年、家業の薬種問屋を整理して、アメリカ・イギリスに留学し、セルボーンに足を運んだ。郷里の高知県佐川町に帰ると、この著作の翻訳と研究に生涯をかけた。完成した翻訳は、出版してくれるところはなかった。戦後、他の2人の翻訳本が出版された。竹村の死後、親友の森下雨村が故人の膨大な蔵書の一部を売ったりして資金を作り、印刷して配ったりした。雨村が朝日新聞などで紹介すると、反響を呼び、3年後、博友社から市販本として発行された。「西谷訳のほうが深い博物誌的な注記解説を溶けこませた翻訳に仕上がっている」(「古本夜話」)。死後、西谷退三となった。

法学者・土方寧(ひじかたやすし)は東京大学法学部で学んだ後、英国に留学しバリストルの学位を取得。イギリス法や民法の権威として活躍した。

森下雨村(もりしたうそん)は「探偵小説の生みの親」と称された人物である。上京後、博文館に入り、大正9年「新青年」の創刊に携わる。海外探偵小説を翻訳紹介するとともに、編集者として江戸川乱歩、横溝正史など多くの小説家を世に送り出した。編集者・小説家である。
 以上は、「佐川町文教人」「青山文庫 佐川の巨星」などを参考にした。

高知では余り知られていない人物に黒岩恒がいる。名教館で学び、牧野富三郎より4つ年上だった。明治中期の1892年に沖縄県に来て国頭郡組合立農学校の初代校長に就任した。博物学者であり、数々の動植物の新種を発見した。植物は牧野富太郎に送って鑑定してもらった。「クロイワ」の名前がつく動植物は、「クロイワトカゲモドキ」など数十種に及ぶ。尖閣諸島を探検し、その名付け親としても知られる。なお、詳しくは、筆者のブログ「レキオ島唄アッチャー」の「知られざる高知人 黒岩恒」を見ていただきたい。


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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その5

町並みに「自由勝利」の旗

待望の国会をひかえ、明治23年(18907月、衆議院議員第1回総選挙が施行された。高知県では、第123区とも自由派が完勝した。旧自由党の流れをくむ各派は、合同の方向をとり、立憲自由党を結成した。翌年3月には、立憲の2字を除いて「自由党」と称することになった。

明治23427日佐川町柳瀬公園に加茂、黒岩、越知、高北4倶楽部の発起をもって開かれた自由政談会は佐川、尾川、斗賀野、加茂、黒岩、越知の6ケ村連合の上に、戸波、高岡、吾桑各倶楽部員の参加も多く、折からの緑雨の中に850余人が出席、発起人惣代伊藤徳敦の挨拶ののち、招待客の議長常置委員吉良順吉ほか、秀美郡富家村より臨会した佐野長之丞ら来賓はじめ、地元の西村陽(尾川)、岡本親吉(黒岩)、西田鎌太郎(佐川)らほか、黒岩幾太郎、千頭喜馬太、吉村岑呉など多数の論士が快弁をふるった。当日出席の予定だった第2区選出衆議院議員候補者片岡健吉、林有造の両人は党用上京中のため出席できなかったが、近づく総選挙を前にして空前の大熱気であった(会費8銭)。

当日佐川では会場に近い神明山の頂に大砲を据えつけて未明より祝砲を連発、会場の下流には煙火台を設け間断なく打ち上げ気分を高め、入口の大緑門に会員の種油商山崎源太郎考案の大莚1枚に菜種の種子をもって描かれた「優勝」の2字が青々と芽を萌して、参会の人々を見上げさせた。そして新道(松山国道)開通祝賀以来の大懇親会とて、日下、加茂、越知の沿道諸村からもこれを見物しようとするものが人力車を連ねて多数集まり、佐川の町並には戸毎に「自由勝利」の旗が軒にかかげられ、街路には群衆を当て込んで露店を出すものが多く、佐川町内は空前の混雑ぶりであった。(この項は『佐川町史下』から要約した)。

 自由政談会に850余人も集まり、見物人が多数駆け付け、町並みに「自由勝利」の旗が軒並み掲げられたとは、いかに民衆に期待されたのかがうかがえる。
 「こうして華やかだった佐川近村の政談演説や懇親会も、板垣の遭難や、自由党の一時解散などで次第に下火とはなったが、根づよく培われたこの熱烈なエネルギーの蓄積は、やがて国会開設と議会解散にともなう第2次総選挙に起こった政府の選挙干渉に対する反撥となって発散されるのである」(『佐川町史下』)。

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                  品川弥次郎
 苛烈をきわめた選挙干渉

 明治25年(18921月、解散による第2回総選挙は、内務大臣・品川弥二郎のもとで、大規模な選挙干渉が行われた。高知県の中でも、佐川周辺の町村が入る高岡郡は、選挙干渉が激しかった。

 以下は、『佐川町史下』からの要約である。文章を読みやすくするため少し整理した。

 明治2529日、村会議員13名は、同月15日に行われる衆議院議員臨時総選挙に政府の干渉甚だしく、競争激烈のため、国民党暴漢による危害をおそれ、投票所に特に取締りを設ける件につき村会招集を要請して同日緊急村会を開き、警備の投票取締人20名を雇い入れることを議決し、その費用25円を計上した。
 時の高知県知事・調所(ずしょ)広丈は、政府派遣の応援隊や高岡郡長中摩速衛と協力して、管下各警察署に厳命し、また与党の候補者片岡直温(与党)を擁護する葉山、梼原方面の国民党員も結束して加わり、選挙干渉の準備はすすめられた。その頃、片岡直温の出身地半山村(葉山)近傍は直温をとりまく国民党一色であったので、村民が自由党を敵視し、憎悪の念も深かった。

 買収にも応じない選挙民を屈服するには腕力よる外にないとした政府側の官憲や、村々の駐在巡査らは、国民党の闘志たちと隊伍を組んで、示威運動を行い、白昼堂々と戸別訪問して国民党への投票を強要、威嚇し、時には暴力を振った。
 政府側はこの選挙に是が非でも勝つためには、地方の無頼漢的な腕力のあるものを同志に募ったので、国民党にはならず者や前科者の暴漢が多く、刀やクワ、手斧の柄に蹄鉄の鍔をはめた武器などを携えたものも居り、自由党員と見ると青痰を吐きかけなどしてケンカを売りつけた。

投票日も旬日にせまった1月下旬になると、いよいよ選挙戦は白熱化し、高岡郡役所の所在地、須崎に雲集する国民党軍は、夜になると国民党員は56名が隊伍をつくって市中を横行し、商家に入って投票を強要し、応じなければ投石、破壊し、刀剣をもって脅すなど狼藉を極めた。そのうち須崎町に屯集した国民党軍の中には斗賀野峠を越して佐川方面にも足を伸し、こちらの同党勢と気脈を通じるものもできてきた。
 佐川付近の国民党は裏町に倶楽部を設け、集った壮士や、雇った暴漢たちは、毎日近郷各村を徘徊して、白昼棍棒、刀剣などたずさえて村役場に乱入して吏員を殴ったり、民家に押入って住民を脅かしたりしたので、村中夜間は早く戸を閉めて外に出るものもなかった。佐川自由党の首領伊藤徳敦の住宅などは毎夜のように雨戸を棍棒でたたき、石を投げられた。

     佐川文庫庫舎、旧須崎警察署佐川分署1
           旧須崎警察署佐川分署(「佐川町の文化財」から)
   
  須崎では早くも、自由党の同志竹中靖明が演説中国民党の暴漢に刺殺される事件が起きたが、佐川でも117日、青源寺に候補者片岡健吉を招いて政談演説の後、料亭岩本屋に付近町村の有志会して懇親会をひらいたところ、宴たけなわなるとき、暴漢67名が乱入して片岡らに危害を加えようとしたので、須崎警察佐川分署に急報したけれど、何らこれに応じなかったばかりか、事件後、時の分署長井上作郎警部はこれを全く不問に付した。

 このなぐり込み暴漢の大将は尾川の力士鎮台松こと高橋松次と、その子分片岡勘蔵、片岡友太郎外数名の国民党側の廻しものだった。

佐川は自由党の金城湯池だったので、高知支部からも壮士数十名が派遣され、新町竹村安右衛門の別邸に本部をおいて、伊藤徳敦の指揮によって暴漢の抑制につとめていたが、斗賀野では村長明神時長の本宅(野地)を本部として、ここには高知支部の楠目玄、河野指撃らが壮士を率いて来り秘策を練っていたので、国民党軍の襲撃目標はまずここに集中された。
 128日の午後5時頃、上下半山、東津野、仁井田方面からくり出してきて須崎に屯ろしていた国民党軍と、国民派が佐川付近で雇い入れた暴漢百数十名は、40余名の警官隊を後楯として、尾川の力士鎮台松こと高橋松次が先頭に立って、抜刀を振りかざして自由党斗賀野本部を襲うて来た。これを待ちうけた自由党闘士たちは、抜刀をもって斬って出た。

29日の仏暁「与党危うし」の報に前夜から来ていた高知署の野村敏郎警部の率いる高知、伊野両署の応援警察官120余名の新鋭勢が佐川分署に協力、斗賀野集会本部を襲うた。警官は抜剣、闘士は長刀をかざして鬨の声をあげて迫ってきたが、これを迎えた自由党本部の壮士はわずか20数名にすぎなかったが、来襲を報ずる3発の銃声に、前夜から警戒していた自由党加勢の村民が手に手にもった刀や竹ヤリ、投石などで応戦、集会所をまもるうち、村民の数名ははや袋だたきにされたので、これを救をうとした別隊の村民に国民軍の一人が竹ヤリで刺されたのが血祭りの緒戦となった。戦国時代さながらの白兵戦を展開、自由党軍のまっ先に立って躍り出た斗賀野村伏尾の西田楠吉(当時24歳)は敵方の先頭力士鎮台松と渡り合い、一刀のもとに頭部を斬って転倒させ、さらに、井上作郎分署長に迫ったが、四辺より包囲した国民軍闘士によって斬り伏せられ、胸部の深手に倒れた。自由党士山崎卯子(うし、鳥ノ巣、当時26歳)も腹部を刺されて即死し、前野辰吉は数創の深手を負うてその場に絶命した。
 村民の投ずる大小の石つぶてと発砲の弾が雨、霰と降りそそいだので、国民軍は佐川の屯所まで敗退した。

 この両党の衝突は後年「斗賀野合戦」また「野地騒動」などと呼ばれて有名になった。

     野地騒動記念碑 

          野地騒動記念碑(「佐川町の文化財」から)
 
国民党候補片岡直温の郷里半山方面から400人ほどの応援隊が馳せつけていたが、集会かえりの自由党員と衝突して大乱闘になり、吏党を指揮していた国民党の領袖楠本正誠は竹ヤリの貫通創を負い頭部をなぐられ、死骸となった。付近にはなお78人の死傷者が倒れていた。総大将を失った国民党軍は佐川方面から影を消した。
 投票の215日、須崎方面から数十名の国民党闘士が棍棒、凶器を携えて佐川に来り、投票人を脅迫し、投票所に近づこうとしたが憲兵に阻止された。一方では高知、江ノ口両署より来援した巡査数十名が、佐川投票所の周辺や入口に陣取って投票人を脅かし、しつこく国民党候補への投票強請をした。けれども、開票の結果は佐川の投票者59名中片岡、安岡の国民党候補に投票したものはたった2票しかなかったという。

16日、開票場たる須崎の高岡郡役所に投票箱を護送したが一騒動であった。
 自由党の嶽洋社から応援に来ていた和田亀太郎と細木信太郎はその帰途、戸波(へわ)で国民党百人あまりに襲われ斬殺され、多数の重軽傷者を出した。


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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その4

  牧野富太郎も演説

明治16年(1883)1月21日、佐川の自由党同志たちは、「公正社」を創立。毎月討論会や談話会を開いた。7月の大会には会員80余名に一般も加わり200余人、大緑門(祝賀の際に立てる常緑樹の葉で包んだ門)には「公明正大」の文字を大きく描き、同じく灯燈を連ね爆竹を相図に開会、社長西村躍の挨拶についで、客員の茨木、長尾、伊藤をはじめ牧野富太郎、堀見章、伊藤徳敦などの主客が慷慨の熱弁をふるった。

 同年8月9日庄田宮ノ原八幡宮の懇親会には、近郷の会員200名が参加、盛会を極めた。境内で開かれた宴会では地元岡本親吉はじめ来賓など十数名交々に立って熱弁を振い、この盛況を見ようと集まった村民600余名がひしめき盛観であった。

 9月23日、五所神社で開かれた忠君愛国自由懇親会も同様のにぎわいであった。午後3時から宴席を開いたが、参会者300余人、発起人惣代中野喜太郎の挨拶にはじまり、佐川会員牧野富太郎、堀見章はじめ地元、近隣の弁士交々に立って慷慨の気勢を吐いた。

 民権運動が、いかに盛り上がりを見せていたのかがうかがえる。

 ここで、「日本の植物学の父」と呼ばれた牧野富太郎について触れておきたい。
 おりしも、NHKの来年4月からの朝ドラが、牧野がモデルとなった「らんまん」に決まったと発表された。学歴は小学校中退ながら、東大植物学研究室に出入りを許され、研究に没頭した。日本全国を回り、植物を採取し、命名植物は1500種類にのぼる。『牧野植物図鑑』をはじめ著作は多数にのぼる。
 その牧野は、実は若かりし頃、自由党の会員で、弁舌に立つことがあった。
「牧野富太郎自叙伝」から当時の佐川の自由民権運動がどのような雰囲気であったのかを見ておきたい。
     
牧野富太郎

     若き牧野富太郎 
 <当時は自由党が盛んで、「自由は土佐の山間から出る」とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の郷里も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった。当時は私も政治に関する書物を随分読んだものだ。殊に英国のスペンサアの本などは愛読した。人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん。圧制を行う政府は、打倒せねばならんというわけで、そこの村、ここの村で盛んに自由党の懇親会をやり大いに気勢を挙げた。

 私も、よくこの会に出席した。併し後に私は何も政治で身を立てるわけではないから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退く事になった。自由党の人々も私の考えを諒とし脱退を許してくれた。>
 <自由党を脱退した事につき想い出すのは、この脱退が芝居がかりで行われたことである。隣村に越知村という村があり、仁淀川という川が流れていて、その河原が美しく、広々としていたが、この河原で自由党の大懇親会が開かれた事があった。私は党を脱退するにつき、気勢を挙げねばいかんと思い、紺屋(こうや)に頼んで旗を作り、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が火に焼かれて逃げて行く絵を書いてもらった。佐川の我々の仲間は、この奇抜な旗を巻いて大懇親会に臨んだ。我々の仲間は十五、六人程いた。
 会場に入ると、各村々の弁士達が入替り立替り、熱弁を揮(ふる)っていた。その最中、私達はその旗をさっと差出し、脱退の意を表し、大声で歌をうたいながら会場を脱出した。この旗は今でも保存されている筈である。>

牧野が当時、「人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん」という思想と運動に共感していたこと、佐川では「全村こぞって自由党員」だったというほど、民衆に圧倒的に支持されていたことがわかる。

 佐川自由党の解散

  政府の自由党の分裂、切り崩しを狙った板垣退助後藤象二郎の外遊問題が起きると、自由党内で対立、動揺が起きた。政府の弾圧が強まる一方、資金の不足に陥っていた自由党は、明治17年、解散することになった。11月に海南自由党が解党された。「佐川自由党組合も同様の運命をたどったが、同志の精神的団結は崩れなかった」(『佐川町史下』)。

自由党の解党後、佐川でも民権運動は続いていた。
 板垣退助は、演説や運動拡大のため佐川を訪れていた。
明治18年(188544日、総裁板垣は23名の同志をつれて政党拡張のため佐川に来て、青源寺で政談演説会を開いた。5日早朝には、伊藤徳敦、堀見恭作ら有志数名が案内して尾川村西山に雉狩りを行ない、多くの獲物があり、帰途堀見宅に招待し、獲物を調理し、慰労の宴を行なったというエピソードもある。

佐川の自由党組合の動きが活発であったのに対して、反対派の低声党や紫瞑会の動きもあり、能津、柳ノ瀬方面に多かった紫瞑会員は自由主義の侵入を恐れてひそかに村民を説き演説会場に行かぬように働きかけたという。
 高岡郡書記藤本某が秋季小学試験のため、岩目地小学校の生徒の作文を調査したところ、その問題はすべて自由党懇親会に同行を勧める文や、自由党におくる文ばかりだったので、藤本は、かく生徒に教えては、如何なる虚無党が出かも知れぬと怒り、これに対し教員の中にも議論するものがあり、果ては腕力沙汰に及び仲裁がはいるというようなこともあった。

 明治22年には佐川西町に佐川青年自由クラブ、また佐川、斗賀野、尾川連合青年自由クラブが組織され、堀見恭作が幹事となった。4月1日の佐川における懇親会には雨天にかかわらず300余名が出席。安芸喜代香の講演あり4月8日の佐川談話会は青源寺に開かれたが、高知からは総裁板垣退助以下、藤崎朋之、島田糺ら幹部数名も訪れたので、近村からの出席者1000人を越える大盛況で、終って料亭酔風楼に大宴会を張り、気勢をあげた。
 また尾川村中村 田村長太郎宅に開かれた会合にも、高知本部より能勢活然、泰気魯男、西本直太郎、藤崎朋之ら多数が来席、地元土居松太郎肝入りの大懇親会で200余名が気勢をあげた。

    藤崎朋之

             藤崎朋之
   
  ここで名前の登場した藤崎朋之について触れておきたい。私にとって遠縁にあたるからだ。高知市長を務めたことは聞いていたが、それ以上のことは知らなかった。
 藤崎朋之は、東京で法学を学び、弁護士を開業した。自由党の機関紙「土陽新聞」の社長に就任し、自由党代議士片岡健吉を支えた。旭村村議会議員、村長、県議、県会議長に就任した。高知の自由党の都市部を基盤とする中央派で、高知市内の青年を集めて肝胆会を組織し、首領格となった。
 その後、自由党の後身、立憲政友会では伊藤博文の総裁独裁制に反対して、高知出身の旧自由党員が集団離党し、藤崎も離党した。1904年(明治37)の第9回衆議院議員選挙に立候補し当選した。1910年の補欠選挙で立憲国民党から立候補して当選した。
 1906年からは1917年(大正6年)まで高知市長を務めた。(ウィキペディアを参考にした)。

自由民権運動に積極的に参加して、国会議員まで務めたことは、今回改めて知ることができた。
  続く。


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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その3

  南山社が設立される
 佐川で自由民権運動の結社としては、南山社が有名である。
 <明治11年(1878)、佐川でも伊藤徳敦、堀見景正、深尾重城、堀見凞助、上村信誠、水野龍、近藤長厚、乗台寺春朝らが相はかり「南山社」を創立して伊藤徳敦を社長とし高知立志社同志や大阪の愛国社と気脈を通じ、自由民権論を大いに提唱した。これは高岡郡における政社団結の初めであり、12月22日佐川の乗台寺における演説会では、会員水野龍の論旨は治安妨害なりとして中止を命ぜられ、須崎警察署に拘引され、禁獄40日の刑に処せられた(『佐川町史下』)。>
     堀見熙助
                        堀見凞助(「自由民権記念館」)
 南山社趣意書は「吾党が此に南山社を設け大に爰(ここ)に知識を磨励して、諸物の理を明らかにし大に民権を主張して本然の性を全ふし大に事業を起して一郡の公益を図り、到底国の福祉を増長せんとする所以なり」とうたっている。

 町には、佐川自由民権運動の発祥の地として、南山社の石碑が建立されている。説明板「自由民権運動と南山社」では次のように記している。
 <明治11年「愛国社」(立志社が愛国社再興)が大阪に設立され、自由民権運動は全国に広がる。
同年7月「南山社」がこの地に生まれる。伊藤徳敦を社長に勉強会や討論会を開き、自由主義思想の啓もう普及を図る。
同12年 「愛国社」の国会開設運動に「南山社」から代表をおくる。
同14年 国会開設の詔勅が発せられ、「自由党」が結成される。
 高知では、立志社を中軸に「海南自由党」となり、佐川では「海南自由党佐川組合」を結成し ここで南山社は発展的に解消する。
 その後、党勢は拡大していく。>
 これによると、「佐川自由民権運動の発祥の地」が南山社とされ、『佐川町史下』でも「高岡郡における政社団結の初めで」とされている。 
 しかし、さきに見た『大坂日報』の通信では、「佐川に共志社あり」という報道は、明治10年(1877)12月18日号であるから、南山社設立よりも前となる。すでに明治10年6月に佐川の乗台寺で演説会が開かれている。それ以前に、佐川出身の古沢迂郎が板垣退助と早くからともに活動していたことや、明治8年2月には、愛国社創立発会には堀見景正が出席していたことからみても、南山社創立の前から、佐川では自由民権の運動が起こり、結社の設立へ機運が高まっていたのだろう。

 明治12年(1879)3月大阪愛国社において全国の同志が会して、国会開設の願望書を提出することについて協議された。このとき、佐川南山社を代表して堀見凞助、西村躍(おどる、上村信誠)両名が上阪出席した。集まった同志会員27名のうち、高知は12名、佐川関係者は嶽洋社代表橋本一済(佐川出身)を加えて3名だった。高知でも、佐川は大きな盛り上がりを示していたことがうかがえる。
 明治13年(1880)2月、佐川南山社は愛国社の主唱に賛同して、国会開設の請願をするため趣意書を発して、県内の同志社募集に奔走し、高岡、吾川の2郡をくまなく遊説し、広く県内に呼びかけた結果、1078名の連署を得た。
 同年4月、国会開設願望書の提出のため全国から大阪に各社代表97名が集まった際は、佐川南山社から堀見凞助、西村躍、深尾重城の3名が高岡、吾川両郡の同志惣代として出席した。
 河野広中、片岡健吉が、全国の同志8万7千余名の代表として願望の書面を元老院に提出したが、政府は却下した(『佐川町史下』から要約)。
   南山社
               南山社跡 
   自由党結成で高揚する
 自由民権運動が盛り上がるなかで、政府は明治14年(188110月、10年後の国会開設と,その前に憲法制定を行うという詔書を公にした。「明治14年政変」と呼ばれる。

 同年9月には全国から民権家が東京に参集し、10月2日、国会期成同盟会を大日本自由政党結成会に変更した。さらに板垣を総理とするなど役員を選出して、自由党は成立した。地方では32の地方部の設立が確認された。

結成された自由党は、規則で地方に地方郡を設けることにしていたから、土佐では海南自由党が結成された。明治15年(188257日、高知県7郡の自由主義派の総代100余名が潮江村要法寺に集会し、規約、規則を議決した。海南自由党を全国の自由党に合同することを満場一致で確定した。
 下部組織について「規則」は「…自由党何組合と称すへし」と定めていたので、佐川では、佐川南山社を解散して「海南自由党佐川組合」が成立した。党紀綱領を発表して、高・吾両郡に向かって大いに党員の勧誘につとめた。

これを見ると「佐川組合」と称しているが、佐川村だけに限らず、高・吾両郡に広く呼びかけて党員を募ったようだ。党員数505名とも言われるので、かなれ多くの賛同があったと見える。
 <同年5月下旬、高知において海南自由党各組合総代会が開かれ、堀見助出席して佐川組合の成立を報告した。これより佐川組合は高・吾両郡はじめ各地にしばしば演説会、懇親会を開催して大いに党勢の拡張につとめたが、水野龍、堀見景正、西村躍らの幹部同志がつぎつぎ上京した後は、伊藤徳敦、堀見助らがもっぱら党務に尽すい(ママ)した(『佐川町史下』)。>

 明治15年(18824月、自由党総裁の板垣退助が岐阜で襲われる事件が発生すると、佐川から堀見助らが急遽見舞いのため現地に出発した。

  民権派への弾圧強める  
  政府は、自由民権運動の抑え込みを狙い、弾圧を強化した。だが佐川でも、民権派は弾圧に抗してたたかいが続けられた。
 「同年613日佐川自由党組合において初の政談演説会を開いたが、弁士近藤長厚の演説は治安に妨害ありとして中止を命ぜられ、近藤は鉄窓に数十日間呻吟する身となった」(『佐川町史下』)。

 自由党の発展にともなって、佐川自由党組合の会員も次第に増加し、先輩同志を招いての政談演説会や、党勢拡張の懇親会が、佐川近郷の村々で開催されることが頻繁になった。

 明治15年(1882416日に、加茂、竜田両村連合で開かれた自由党懇親会は、多数集まった。723日黒岩村浅尾の仁淀川川原で開いた懇親会では、反対派の「紫瞑会」のものが来て妨害した。親分と言われた地主の横山新作は、自由党に出席する小作には田地を宛てないとか、取り上げるなどと脅したという。

 そんな妨害、脅しがあっても自由党組合の活動は活発に行われた。
 1017尾川村天満宮で会費15銭をもって開かれた懇親会では、高木正善、和田柳太郎、
筿原亮吉、北添祐吉、土居松太郎らが気勢をあげた。 
 ここで、各地で懇親会がよく開かれているのはなぜか。これは、演説会は規制が厳しいので、懇親会の名目なら、規制の対象にはならないからだという。

 


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