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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その2

 立志社社員に多い佐川出身
 民選議院設立の建言だけでは専制政府を倒し、立憲政体を実現できないことを知った愛国公党の指導者たちは、郷里に帰って世論を喚起し、人民の勢力を強大にし、政社を起こし、これを合同して全国的大政党を組織することを決意した。
 板垣退助は3月上旬に古沢迂郎を伴って東京を立ち、大阪に滞在したのち4月に土佐に帰った。帰国した板垣は片岡健吉・林有造・谷重喜らと立志社を設立した。
 <明治7年4月10日、高知市帯屋町で「立志社」創立の発表会が行われ、社長に片岡健吉、副社長には福岡精馬がなったが、社員には林有造をはじめ県内外の同志一千余名が加入していた。この中には、勤王党以来の血脈をもつ佐川出身の社員もまた多かったわけである(『佐川町史下』)>

    立志社 
         立志社
 立志社が公表した趣意書は、愛国公党「本誓」「副誓」を起草し、民選議院設立の建言を起草した古沢迂郎の筆と推測できるのである。前篇は「人民は国の本だから…人民の権利を伸長するためには民会を必ず開設しなければならない」とのべ、後篇は士族と農工商三民の連帯の必要性を説いたものである。
 立志社の片岡健吉が、天皇に建白書を提出した。この時、建白書は突き返されたが、建白書が要求した憲法制定・国会開設・租税の軽減・不平等条約改正・地方自治・特定業者に対する保護政策の廃止など、これ以降の全国的自由民権運動の基本的な要求となった。
 この中で、専制政治の政府は人民を奴僕(ぬぼく、しもべ)のようにみなし、独断で税金を徴収する…人民は過酷な税金にたえることができないと主張している。
 政府は明治6年(1873)7月、地租改正条例を布告した。これは、所有地の100分の3を地租(税額)と定め、豊作・凶作にかかわらず税額の増減は一切おこなわない。地価を決定するのは政府の権限だった。過酷な税率に対しては「地租軽減の要求は自由民権運動の最大の闘争目標になった(外崎光弘著『土佐の自由民権』)」。

 立志社はその目的達成のために、商局、書籍館、法律研究所、物産局などを設け、演説討論会をひらき、また立志学舎を開き英学の講義を行って自由思想を高め、法律の研究によって人権を説き、商局では士族の家禄処分や、資金の融通、生活の安定などにつとめたが、とくに討論演説は活発を極め、これや近代の政談演説のさきがけをなすものとなった。
立志社の活動は日に日に高まり、明治8年(1875)2月には、大阪に本社をおく愛国社となって全国的に発展したが、この創立発会には佐川会員を代表して堀見景正が上阪出席した(『佐川町史下』)。

 立志社は、自由民権思想を普及するため明治10年(1877)6月、最初の演説会を開いた後、各地で開催した。入場者が2000人、入場不能者が2000人に達し、混雑のため途中閉会したこともあった。7月23日には、はるか遠隔の佐川の乗台寺で開いている。乗台寺は、真言宗智山派で、南北朝の時代に建立され、佐川最古の寺である。
民権期に土佐では、有力な立志社・嶽洋社・回天社・有信社・発陽社・修立社・共行社のほか、各地で民権結社がつくられていった。
 当時、土佐には日刊新聞がなかったから、高知在住者からの通信が、民権派政論新聞『大坂日報』に掲載された。
明治10年12月18日号の西野戸寿通信――高知城下に現存する勇進社、顕理社、南洋社、身修社、共行社、立志社、靖献社の7社を挙げた上で、「其他城下の外にも幡多郡に報国社(城下を距ること卅五里=35里)あり佐川に共志社あり(同8里)赤岡に実力社あり(同上5里半)。
 又実力社(郷士と平民多きに居る)南嶽社(此社は平民多し旧方円社と愛身社と合併して斯く名けし者なりとぞ)立志社(此社は最も金力があり)佐川に共志社己(こ)上の6社亦民権を伸長せん事に心力を尽くすと雖(いえど)も毫(ごう、きわめてわずか)も過激に渉るの挙動なし去れば6社の社員合して4500名ほどありと云う、と報じている。
 佐川で結成された共志社をはじめ6社で4500人ほどいたということは、佐川でも数百人規模で参加したのだろう。それだけ、民権運動が盛り上ってきたことを示している。
 7月23日高知県高岡郷竹村謙吉報は「高知は近頃演舌会最も盛にして且つ尤も激烈を極む傍聴の人民も無知の徒に至るまで狂する如く酔ふ如き勢にて儘(まま)拘引せらるゝものもありしとかや○此演舌会は諸社申合せて開くものにて高知城西は南獄、南洋の両社にて引受け城東は修立、共行の二社之を担任し東西南北田舎に趨走(しゅそう、急いで走る)して人民を誘導するものは高陽、立志、勇進の3社なり市街の分は傍聴人は常に千を以て数へ頗(すこぶる)る盛なり」と伝えている。「この通信によると、各社が活動地区を分担し、平民も結社を組織するなど、運動の前進が知られ、…土佐の民権運動の高揚のほどが察せられる」。
 明治11年(1878)12月10日・11日号の「高知近況 自由堂主人報」は「佐川人某の話しを聞くに先月21日より23日迄3日間同所にて演舌大会があったる時演舌者は高知より林包明・浜田三孝の両氏(2人は宿毛号立社をつくる)が出張になり中ゝの盛会」で、「其の内水野某とか云ふ弁士は日本明治政府は圧政なりとか云ふたので忍びの巡査に拘留せられたりと」つたえている。
 
 「佐川人某の話し」ということは、佐川で開かれた演舌会のことだろう。なんと3日間も開かれて盛会だったという。政府の圧政を批判しただけで巡査に拘留されたということは、つねに警官が監視し、話が少しでも政府批判などに及べば、すぐ拘留するという厳しく取り締まりをしていたことがうかがえる(この項、外崎光弘著『土佐の自由民権』から。引用は同書による)。
水野某という人物が登場するが、佐川出身の水野龍(みずの りょう)ではないだろうか。水野は自由民権運動に奔走し、後にブラジルを視察。移民事業に乗り出した人物である。

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土佐・佐川で燃え上がった自由民権運動、その1

 明治維新の後、藩閥政治に対して国会開設、憲法制定などを求めて立ち上がった自由民権運動は、いうまでもなく土佐が先駆けの地である。そのなかで、高知県高岡郡佐川町が、とても自由民権運動が盛んだったという。佐川は私の生まれた町であるが、高校卒業までしかいなかったので、自由民権運動について、ほとんど知らなかった。改めて、郷里佐川での自由民権運動は、どのように人々が参画し、どのような活動が展開されたのか、まとめてみた。

 本題に入る前に、ひとこと述べておきたいことがある。それは自由民権運動の起源はどこにあるのか、ということである。坂本龍馬で作ったとされる新政府の方向を示した「船中八策」がその始まりだという見解が多い。はたしてそれが起源であるのだろうか。
 私は2005年に沖縄に移住してから、この地で土佐の中浜万次郎についてとても関心が強いのに驚いた。万次郎は、漁船で遭難して、アメリカの捕鯨船に助けられた。1851年2月、10年ぶりに帰国する際、琉球に上陸し、半年間滞在したからである。沖縄では歴史的な人物が沖縄にいたことを誇りとし、活発な顕彰活動が行われている。
 万次郎のことを調べていると、万次郎が伝えたアメリカ・デモクラシーの政治制度や思想が、幕末の土佐の志士たちにも影響を与えたことを改めて知った。すでに万次郎研究者の間では、万次郎が自由民権運動にも影響を与えたことを強調している。
 これまで琉球と万次郎について書いた拙文を、ブログにアップしてきた。そんな縁で、土佐の自由民権について調べる機会となった。だが、県内でも盛んだった佐川の自由民権運動について学んだことがなかったので、改めてまとめてみたいと思った次第である。

 民選議院設立の建白書を起草した古沢迂郎
 明治政府の参議だった板垣退助は、明治6年(1873)征韓問題での意見の違いから、西郷隆盛らとともに下野して郷里に帰った。その後、板垣は自由民権の重要性を強く認識して、運動に乗り出すことになった。そのスタート時点から、佐川出身の人物がとても重要な役割を果たしていた。それは古沢迂郎(うろう、滋)である。
 古沢は、尊王攘夷運動に加わり、明治維新の後は、明治3年(1870年)、大蔵省の十等出仕となり、7月には、イギリスへ留学のため派遣された。
 ロンドンには、高知藩士として佐川出身の古沢をはじめ、政府が派遣した高知藩の留学生の馬場辰猪ら5人と、自費留学の宿毛領主の嗣子・伊賀陽太郎などが滞在した。
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         古沢迂郎
  自由民権家として活躍した片岡健吉も、政府から海外視察の命令を受け明治4年5月、ロンドンに行った。
 ロンドン滞在中の片岡は、古沢ともひん繁に往来していた。帰国の後、古沢、馬場、片岡らはいずれも自由民権運動に加わったことから、「ロンドンが土佐自由民権の温床だった」といわれる。
 片岡は6年に、古沢はその翌年に、馬場はさらに1年おくれて帰国した。
古沢は、ロンドンで政治経済学を学んでいた。あとから出てくるが、ルソーなどが唱えた人間は生まれながらに自由で平等という「天賦人権」の思想を学んでいた。
 
 1874年、板垣退助が国会開設の建白書を作る時、板垣の依頼で民撰議院設立建白書の起草に携わり、板垣を助けたのが古沢であった。
 板垣は、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平と相談し、人民が挙国一致の精神を発揮し、国家民生の降昌をはかるためには、公議世論の制度を確立し、人民が国家と憂戚を共にする道を開かなければならないということになり、片岡と林有造に国会開設の建白をすることを要請した。両人は官命により外遊し、欧米文明の風物を実際に見聞し、議会制度についての知識・理解をもっていたからである。しかし、そのような大事は板垣のような天下に重望のある人たちが連結してあたるべきだといって固辞した。
 そこで板垣は自ら作成にあたることを決意し、11月にロンドンから帰ったばかりの古沢迂郎と小室信夫を招請してその見解を聞き、これを副島・江藤にはかった。その結果民撰議院設立の建白と政党を結成して世論の喚起をはかることを決し、銀座3丁目に幸福安全社を設置した。

 明治7年(1873)1月12日の夜、同志が副島の家に会合し、愛国公党本誓書名の式を行った。古沢が起草した「本誓」は4項目からなり、
 第1は、天がすべての人民に平等を与えた通義権理(つうぎけんり、天賦人権の意味)は、人力によって移奪することのできないものである。
 第2は、人民の通義権理を主張保全する道は、五か条の誓文の主旨を奉戴し、徹底的に公論公議をつらぬき、これを尊守することである。
 第3は、政府は人民のために設置したものであるから、われわれの目的は、人民の通義権理を保護主張することによって、人民の自主自由・独立不覊(どくりつふき、他人に干渉されず自分の意志で行動する)を実現し、君主と人民の間の融然一体をはかり、日本帝国の維持昌盛を実現することである。
 第4は、この通義権理の主張はアジア州における最初の試みであり、天下の大業である。したがってこれはきわめて困難な事業であるが、われわれは決死の覚悟で実現を誓い調印する、と宣言している。
 ついで古沢が起草し副島が検校した民選議院設立の建白を17日に左院に提出した。自由民権の出発点になった建白書提出の上で、古沢が重要な役割を果たしていた。
 古沢が起草した本誓に附属する「副誓」が「古沢滋文書」の中から発見された。この中に、女子を卑辱する従前の陋習(ろうしゅう、悪い習慣)は人間の道ではないから、われわれは女子の通義権理を保護することにつとめると誓っている。女性の権利、男女平等の主張は、とても先進的な提起である。ただし、当時は公表されなかったらしい(外崎光弘著『土佐の自由民権』を参考にした)。
 

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その14

 憲法の誕生
 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、国家を民主的な改革の義務を負いました。連合国最高司令部(GHQ)は憲法改正に関して示唆し、日本政府は同年10月、松本烝治国務相を長に据えた憲法問題調査委員会(松本委員会)をスタートさせた。しかし、明らかになった憲法試案は「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」日本の民主化にはふさわしくないと厳しい批判を浴びた。GHQが独自に憲法草案を作ることになった。
 政府側が秘密裏に改正草案作りを進めていたころ、民間有識者のあいだでも憲法改正草案の作成が進行し、1945年末から翌春にかけて次々と公表された。その代表例が、1945年12月26日に発表された 憲法研究会の「憲法草案要綱」であった。
 <これは、天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等など、のちの日本国憲法の根幹となる基本原則を先取りするものであった。その内容には、GHQ内部で憲法改正の予備的研究を進めていたスタッフも強い関心を寄せた(国立国会図書館「日本国憲法の誕生」)。>
 
 憲法研究会の鈴木安蔵は、昭和11年(1936)年に自由民権運動の資料調査のため高知を訪れ、植木枝盛について研究していた。
 「憲法草案要綱」について、鈴木は、起草の際の参考資料に関して「明治15年に草案された植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』や土佐立志社の『日本憲法見込案』など、日本最初の民主主義的結社 の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた20余の草案を参考にした」(12月29日、毎日新聞記者の質問に対して)と述べている。
 GHQ草案の作成にあたって中心的な役割を担ったのがラウエル陸軍中佐だった。なかでもとりわけ注目したのは憲法研究会案であり、ラウエルがこれに綿密な検討を加え、その所見をまとめた(「私的グループによる憲法改正草案(憲法研究会案)に対する所見」 1946年1月11日。「日本国憲法の誕生」から)。
 <彼は、憲法研究会案の諸条項は「民主主義的で、賛成できる」とし、かつ国民主権主義や国民投票制度などの規定については「いちじるしく自由主義的」と評価している。憲法研究会案とGHQ草案との近似性は早くから指摘されていたが、1959(昭和34)年にこの文書の存在が明らかになったことで、憲法研究会案がGHQ草案作成に大きな影響を与えていたことが確認された。(「日本国憲法の誕生」)>。
    憲法9条の碑
    憲法の9条「戦争の放棄」を刻んだ碑(石垣島)
   国民主権、労働者保護など彼が評価した項目の大部分をGHQ草案に採用した。
GHQがこうした憲法草案を作成した背景には、日本の敗戦・占領を規定したポツダム宣言がある。その第10項には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障碍ヲ除去スベシ」とある、とうたっていた。
注目されるのは、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向」とのべていることである。これは自由民権運動から憲法草案、それらを参考にした憲法研究会案に示されたように、日本国民の間に流れている民主主義の傾向、伝統があり、日本政府がそれを復活強化することをポツダム宣言は強調している。
 GHQ草案を受けて作られた日本政府の現憲法は、アメリカのたんなる押し付けの憲法ではないことがここでも裏付けられる。
<日本国憲法には民権期私擬憲法草案と一致している条項が多く、「特に植木枝盛の憲法草案と憲法草案の形をとらない同人の著作中に見られる立法思想には、日本国憲法の重要事項と一致するものがすこぶる多い」(家永三郎著『歴史のなかの憲法』)ことが、土佐自由民権の今日における最大の意義である。>
 外崎光弘氏はこう強調している(『土佐の自由民権』)。
 
「アジアで最初の国会開設を求める国民的な運動が、日本の各地から、草の根から湧きおこった。それは数十万の人びとを新しい結社に参加させ、請願や建白書に署名させ、数百万の一般民衆をその渦中にまきこんだ。私はそれを日本の民衆史上、空前のこと、画期的なことであったと考える」
 先ごろ、亡くなった色川大吉氏はこのように強調している(『自由民権』)
 自由民権運動は、人間の根源的な要求に根差しており、軍国主義により窒息させられたかに見える時代にも、国民の間で脈々と受け継がれてきた。自由民権に代表される社会の進歩と変革を願う運動は、どんな暴力的な権力支配によっても決して消し去ることはできない。軍国主義が崩壊した戦後、国民のあいだで平和で自由な民主主義日本を求める運動が澎湃として起きたことにも表れている。
 21世紀の現在も、現憲法の九条改悪による戦争の肯定や、国民の自由と人権を制限しようという時代逆行の改悪の動きが強まるなかで、自由民権運動は、決して過去の歴史で終わらない今日的な意義をもっていることを指摘しておきたい。
  終わり   2022年1月        沢村昭洋


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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その13

 自由党の終焉
 選挙干渉に対する高知の抵抗は「民権派の最後のたたかいであった」(外崎光弘氏)。この後、自由民権は終焉への道をたどる。
  政府と自由党、立憲改進党が海軍の軍艦建造費などで対立を深める中、明治26年(1893)2月、明治天皇が「和衷協同の詔勅」を出し、自由党は妥協に応じた。28年(1895)11月22日には、自由党は伊藤内閣との提携を発表した。
 29年(1896)4月14日、板垣は第二次伊藤内閣の内務大臣に就任した。
 時局風刺の雑誌『団団珍聞』では風刺画「棟梁の出世、自由の死亡」のなかで痛烈に批判した。
 第3次伊藤内閣は、板垣、大隈に入閣を求め自由党・進歩党(首領大隈重信)の協力を打診したが、辞退した。
 明治31年(1898)6月22日、派閥政府の専制政治を倒すためとして、自由党と進歩党が合同し、憲政党が誕生する。
 6月24日、伊藤内閣が崩壊し30日、日本最初の政党内閣、第一次大隈重信内閣、いわゆる隈板(わいはん)内閣が成立した。首相に大隈、内務大臣に板垣が就任する。板垣は大隈の専断に激怒し、辞任した。隈板内閣はわずか4カ月で終焉した。
 明治33年(1900)9月13日、憲政党は解党し、伊藤博文を総裁とする立憲政友会が成立した。
 <立志社→海南自由党→海南倶楽部→海南社→自由党高知支部→憲政党高知支部→立憲政友会高知支部と改称しながら生き抜いてきた土佐民権派は、「自由党」の死に続いて死去した。立志社創立からかぞえて28年の生涯だった(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。>
  板垣退助
       板垣退助 
  高知県出身の思想家で社会主義者の幸徳秋水は「自由党を祭る文」を執筆し、憲政党解党によって自由党以来の光栄ある歴史が抹殺されたと批判した(『万朝報』1900年8月30日)。
 自由民権論の理論的指導者として活躍した中江兆民は、次のようにのべている。
「維新革命後民権史の発展」を見るに、「言論、出版、集会、結社の自由」は、「実に民権論者主張の生命なりき」であるが、人民にとって「言論、出版、集会、結社の自由」はない。「明治民権論者の主張は、未成品として吾人に遺されたる也、故に其を完成するは吾人の責任に非ずや」と主張している(「平民新聞」の後継紙「社会新聞」41年1月26日号、外崎光弘著『土佐の自由民権』から)。
 人民にとっての自由民権はまだ「未成品」であると、その達成を後世の人たちに託した。
 <自由民権運動が敗北し、日清・日露戦争を通じて日本資本主義が成立・発展してゆくと、貧富の差など社会格差が激しくなり、「社会問題」「労働問題」が表面化します。自由民権運動は、言論・集会・結社の自由などの自然権確立を主張しましたが、次の時代には、これに加えて労働基本権や社会保障など社会権確立が切実な要求となりました。それを担ったのは、労働者をはじめとする新しい勢力でした。そこには当然、自由民権運動の精神がひきつがれていたのです。(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』)>

 自由民権の歴史的な意義
 最後に自由民権運動は、歴史的にどのような意義をもったのか、見ておきたい。
 「わが国の歴史上に、もしこの運動がなかったとしたら、1890年(明治23)という早い時期に国会が開設されることはありえなかっただろう。また仮に政治変革としての直接の効果は乏しかったのとしても、この運動がもった文化運動、思想運動としての意義を消し去ることはできない。日本人民はこの運動を通じての広義の政治学習によって、はじめて国民としての政治的開眼をとげ、近代社会運動の活力をふるい起こし得たからである。」(色川大吉著『自由民権』)。
 自由民権運動が求めた日本の自由と民主主義の願いは、明治政府による帝国議会の設置や大日本国憲法の施行で終わることなく、日本の人民のなかでその魂は、受け継がれ発展していった。
 1910年から1920年代にかけて、起った大正デモクラシーにも影響を与えている。政治の上では普通選挙権の実現を求める普選運動、言論、集会、結社の自由を求める運動、社会的には、男女平等、団結権、ストライキ権を求める労働運動、農民運動、文化面では自由教育や大学の自治を求める運動、さらに社会変革をめざす社会主義の運動も起きた。この大正デモクラシーは、自由民権運動の遺産の上に発展した。
 さらに自由民権と大正デモクラシーの遺産は、戦後民主主義の形成に受け継がれていく。
 太平洋戦争の敗北により天皇制軍国主義が崩壊し、戦後、平和と民主主義を保障する現憲法が生まれたのは、たんにアメリカが推し付けたというものではない。そこには自由民権運動で作られた憲法草案の内容が反映されているという。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その12

 自由民権運動は続く
 土佐では自由党解党後も民権運動は続いていた。演説会が続けられ、県会においても民権派議員の活躍は続いていた。
  物部川の堤防決壊の修理費を36か村の土地と家屋に賦課するという知事の提案に農民が反対し、明治19年(1886)12月27日、3000人が県庁におしかけ、28日は農民2000人が香美郡役所を包囲し、なだれ込む事件が発生した。物部川堤防事件は、「民権期最大の農民闘争」となった(公文豪著「物部川堤防事件――高知県における民権期最大の農民闘争」、外崎光弘著『土佐の自由民権』から)。
 この翌月、イギリスの貨物船が沈没し、西洋人乗組員は全員助ける一方、日本人乗客25人全員とインド人火夫らが溺死する事件が起きた。英領事館の海事審判が船長らを全員無罪にしたため、不当な裁判への批判が沸き上がった。「当時、政府は交渉を進めていた条約案の屈辱的な内容が暴露され、反政府感情が高まり、沈滞していた自由民権運動はたちまち高揚しはじめた」(外崎同書)
 土佐の民権派は、明治20年(1887)9月下旬、租税軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回の三大事件建白書を政府へ提出することを決めた。この建白書は、「生きて奴隷の民たらんよりは死して自由の鬼たらん」という有名な言葉で結ばれていた。土佐の山野をゆすがす大闘争に発展した。
 運動は、全国に燃えひろがり、建白書を懐に東京へ集まる者が数知れない状態となった。
 政府は建白運動の高まりを前に、民衆への威嚇につとめたが、効果はなく、政府は、12月25日、ついに官報号外をもって「保安条例」を発布。まれにみる弾圧を開始した。(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』から)。
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     高知市にある「自由民権記念館」
 
 総選挙で自由党系第一党に
 明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、翌年11月29日施行された。
 公布された憲法は、天皇主権を宣言し、強大な大権を設けた。国民の基本的人権は「臣民の権利」として、ほとんどが法律の範囲内に限定されていた。中江兆民は「下らない憲法」と批判し、直ちに憲法の改正が必要とした。
 23年(1890)1月3日、板垣は愛国公党大意(趣意書)を発表した。
 5月5日、愛国公党創立大会が東京で開催され、板垣が会長に就任した。愛国公党は5カ条の政綱を掲げた。施政はなるべき干渉を省くこと、地方分権、対等外交、防御を主とした兵備、財政は節制を旨とし、経費は民力に適応すること、である。
 同年7月1日、第1回総選挙が実施された。
 選挙結果を踏まえて、大同倶楽部、愛国公党、再興自由党、九州同志会の自由党系4派は解散して合同を決議、9月15日、立憲自由党が結成された。結成後も、4派の流れは残り、自由党の派閥を形成していく。第1回帝国議会では130名を占めて第1党となった。
 明治24年(1891)第一議会では、山県有朋内閣が提出した予算案に対し、立憲自由党・立憲改進党の「民党」が「民力休養」(地租軽減)・「政費節減」を要求して対立する。ところが、2月20日、大成会の天野若円が提案した大日本帝国憲法第67条に関わる予算削減について、審議の前に政府の了承を得るという提案を巡って、党内の大勢は反対だったが、竹内綱などの一部議員(土佐派、旧愛国党系)が賛成した。これは「土佐派の裏切り」と呼ばれた。
 政府との妥協に応じた背景には、第一議会を無事に終了させたいという板垣らの意向があったとみられる。動議に賛成し立憲自由党を脱党した24名と5名を加えて自由倶楽部を結成した。

 大規模な選挙干渉
 明治25年(1892)の第2回総選挙が行われた。内務大臣品川弥次郎によって選挙干渉が指令された。全国で死者25人、負傷者388人を数えるほど、憲政史上に例を見ない選挙干渉が行われた。
 自由民権運動の盛んな高知県はその焦点とされ、干渉のために措置がとられた。高知県知事には調所(ずしょ)広丈、警察部長には古垣兼成、激戦地と予想される第2区高岡郡の郡長には中摩速衛を起用した。いずれも鹿児島県人だった。
 調所は、「県庁は飽迄強硬主義を採り、一歩も民党の輩に譲らざる決心なり(原文カタカナ)」と訓示した。そして警官が干渉の先頭に立ったから県内は無法状態と化した。死者10名・負傷者66名(実際の死傷者は100名をこえ)・破壊された家屋は90戸に達した。
 ここで聞き覚えのある調所という名前に出会った。調所は珍しい苗字である。薩摩藩の家老だった調所広郷が有名である。広郷は開明派の藩主・島津斉彬と対立関係にあった。密貿易の責任を問われ、自殺した。広郷の3男として生まれたのが広丈である。戊辰戦争に従事し、札幌県令、元老院議官、鳥取県知事、高知県知事などを歴任している。広丈は自由民権を弾圧する役割を果たす知事だったのである。

 激戦地の第2区で自由党の領袖・林有造と片岡健吉を倒すことに政府側の目標がおかれ、干渉も露骨をきわめた。特に高岡郡佐川と須崎、吾川郡伊野では自由、国民両派の勢力が激突し、流血の惨事をまねいた。ことに斗賀野の集団闘争では警察官が参加、自由派を殺傷する事件さえ発生した。
 高岡郡尾川村では、駐在巡査が吏党候補(政府支持党)へ投票するよう勧誘し、それが不当な干渉と抗議されると、佐川分署長が暴漢4人をひきつれて来て、有権者を殴打し、さらに佐川分署に拘留するという干渉事件が発生した。
 こうした干渉のもと、2区では自由派の林有造、片岡健吉はいったん落選とされたが、開票に不正があったと提訴した結果、明治26年4月6日に2人とも当選が認められた。高知では、1、2、3区で自由党が完勝した。県民の中での自由民権運動への根強い支持と期待の広がりを示している。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その11

 自由民権運動の弾圧と抵抗
 明治14年(1881)の政変後、政府は弾圧を強化したが、民権派はこれに屈することなくそのたたかいを続けた。
 新聞の発行停止、禁止や国家の安全を妨害する演説の中止、集会の解散を命じた。
<土佐の民権派は、集会条例による弾圧をさけるため様々な工夫をこらしました。政談演説会に代えて各地で「自由懇親会」を開いたのもそのひとつです。懇親会は会費制の集まりですから警察署へ届ける必要はなく、警察官の監視もありません。料亭や河原などで、酒をくみ交わし、料理に舌鼓をうちながら、自由に演説することができました。
 新聞は、発行停止のたびに編集人が投獄されるので、奇人として有名な市原真影のように、もっぱら投獄されることを仕事とする「仮編集人」をかまえて対処しています(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』)。>

 「板垣死すとも自由は死せず」
 そんな中で起きたのが東海地方遊説中の自由党総理板垣退助の襲撃だった。明治15年(1882)4月6日、岐阜県厚見郡富茂登村(ふもとむら、現岐阜市)の神道中教院で開かれた自由党懇親会における演説を終って、庭へ出たところを相原尚褧(なおぶみ)に刺された。この時叫んだとつたえられている「板垣死すとも自由は死せず」は、自由民権史上もっとも輝かしい台詞として今日につたえられている。
 この発言をめぐって諸説がある。
「遭難事件の1年半前からすでに、同様の発言を繰り返していたのである。つまり、とっさの事態でも自由主義に命をかける決意があったからこそ発言できたのだ」(中元崇智著『板垣退助』)。 
 「つね日ごろ刺客の危険におびやかされていた彼が、たえずこのことばを周辺の人びとに語っていたからにちがいない」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。
 「日本の時代史22 自由民権と近代社会」から (2) 
板垣退助遭難の図」(『日本の時代史22 自由民権と近代社会』から)  
 自由民権運動の退潮
 遭難の板垣は軽傷で生命に別条なく、板垣は「自由の泰斗」等と呼ばれ、政治的は評価を高めた。しかし、ここを頂点に自由民権運動の退潮がはじまった。事件の2カ月後、政府は自由民権運動の高揚を警戒し、集会条例を改正し、集会への弾圧と政党活動への規制を強めた。
 さらに、突如持ち上がったのが、板垣の外遊問題である。政府による自由党の切り崩し、分断を狙った策略だった。これは党員大きな衝撃を与えた。とくに旅費の出所に疑惑があったため、馬場辰猪・大石正巳・末広重恭・田口卯吉ら幹部党員はこれに反対した。旅費の「洋銀二万ドル」は三井銀行から出させる代わりに、三井銀行の15年度限りの陸軍省との契約を18年まで延長させた。歴史家の服部之総は「板垣の代わりに自由が死んだ」と表現した。
 15年(1882)11月11日、板垣はヨーロッパに向けて横浜から出港した。
「板垣外遊問題は、政府の自由党分裂工作であったのであり、この分裂工作がなかば奏功して、自由党に内訌がおこり、板垣は運動戦線を離脱して外遊し、さらには自由党と改進党との確執が深まり、反政府戦線はとうてい不可能となった。 かくて自由党分裂のきざしがここにあらわれ、この間に、自由民根運動は地方において激化していったのである」(松岡八郎著「自由党の解党」、東洋大学雑誌「東洋法学」)。

 激化事件と自由党解散
 松方デフレ政策による米価や繭価格の下落と増税は農村の窮乏化をもたらした。政府への不満、批判が高まるもとで、各地で自由党急進派による激化事件が頻発した。
 明治14年(1881)には秋田事件が起きていたが、明治15年末には福島事件が発生した。三島通庸(大久保利通の直系)は、東日本における自由民権運動の中心的拠点たる福島県の県令を命ぜられた。道路開設を企て、住民に多額の負担額と労役、徴税を押しつけた。三島は旧会津士族からなる帝政党をつくり、民権家を襲わせた。三島の暴政に憤激する千数百人の農民が、総代を逮捕した喜多方警察署に押し掛けたが、鎮圧された。この決起に直接関係がなかった河野広中らが逮捕され、一連の弾圧で約2000人が逮捕された。「福島事件は、自由党に表現される全人民と絶対主義政府との最初の激突であった」(松岡八郎著「自由党の解党」)。
 16年(1883)3月には、北陸一帯に地盤をもつ自由党の北陸七州自由党懇親会が開かれたが、政府の密偵の通報により、数十人が逮捕され内乱陰謀の刑に処す北陸事件が起きた。
 
 板垣らは7ヶ月の外遊を終って、明治16年6月22日帰国した。外遊の成果として、従来よりも一層急進的な自由主義の立場にたって政府と対立していくだろうと期待された。だが政府と対決ではなくて、欧米先進国と対等となるための方策としての「上下親睦」「共同一致」という立場であった。さらに板垣は解党論さえほのめかしたりした。自由党内部に動揺がおこった。なおまた資金の不足は、運動を沈滞にみちびく傾向にあった(松岡論文)。
 板垣は帰国後、資金募集計画を発案して、新たな党活動に乗り出した。しかし、板垣や幹部が各地を遊説し資金募集を呼び掛けてもわずかしか集まらず失敗に終わった。
 密偵報告書には、「高知自由党が15年春以来甚だ衰頽を極め、板垣の洋行が決定して以来、ますます党勢は減縮し、ほとんど『流離解散の景状を来し』…少しも回復のようすがない、と報告している」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。

 各地で激化事件は、続発していく。
 明治17年(1884)4月には群馬事件が勃発した。高崎の有信社を中心とした群馬県の自由党は、中山道鉄道開通式に臨席する政府高官らの乗る列車を襲撃しようとして。開通式は延期されたが、陣場ケ原に集合し、農民が賃借関係にある生産会社の頭取宅を焼き払った。指導者は捕えられ、凶徒聚集罪などで処罰された。
 9月には、加波山事件が勃発した。栃木県令を兼任する福島県令三島通庸に怨恨をいだいていた河野広体らは、栃木県人鯉沼九八郎らと謀って、栃木県庁落成式の際、三島や政府高官を爆殺しようと狙った。だが、爆弾製造中に誤爆し、計画が明らかになると、同志16名が茨城県の加波山で挙兵した。「圧政政府転覆」等の旗を掲げ、町屋警察分署などを襲った。その後、解散したが、あいついで自由党幹部、民権家が逮捕された。7名の死刑など厳しい判決が下された。
 この加波山挙兵の報が自由党に伝わると、党首脳部は非常に驚き、動揺した。10月初旬板垣を中心とする党首脳部は解党を決意し、自由新聞は論調を一変して、解党の語をさけつつ、解党のやむをえないことを一般党員に承服させるための社説を連続して掲載するにいたる。
 10月29日、「結党成立の大旗を掲げたる第三週期の記念日、大阪にて大会を聞き、全国からの代表者百余名集合のもとに、万場一致をもって、解党を決議するにいたった。自由党は、3年の短い生命を終ったのである(松岡八郎著「自由党の解党」)
       
   
  解党大会の際に発せられた「解党大意」は、政府の圧迫による活動の困難と党内統制の不可能を解党理由としている。
 解党決議の翌々日には、秩父事件が始まった。養蚕製紙が盛んだった埼玉県秩父郡では、深刻な不況で農民の生活は窮迫し、高利の借金の返済ができず、破産、逃亡も続出した。負債の延納、雑税の減少など求めて農民が蜂起した。埼玉・群馬・長野県の農民が参加し、その数は約1万人といわれた。高崎鎮台兵、警察隊の攻撃を受け壊滅した。事件後、約1万4千人が処罰された。自由民権史上、最も大規模な激化事件となった。

 自由党の解党は要因として、外崎光弘氏は次のように指摘している。
 ①農村の不況が生活は逼迫し、民権運動に大きな打撃を与えた②政府の弾圧が強化され、民権運動の合法的発展がほとんど不可能になった。③地方行政を通じて地区別の抑圧政策が進められた。④教育を通じて国民思想を反民主主義の方向に統制しようとする措置が推進された。⑤自由党と改進党との軋轢があった。「農民の窮乏を背景とする急進派の武装蜂起への動きが、党主流派を恐怖させ、ついに解党にいたった」(『土佐の自由民権』)と指摘している。
 
 松岡八郎氏は、次のように指摘している。
 <自由党解党の直接原因は、板垣を中心とする党首脳部が、地方における激化諸事件の発生のために、党の統制を維持していくことを不可能と感じ、また急進グループの行動に責任を負えなくなったと考えたことによるのである。…間接的原因とは、第一に政府の弾圧政策であり、第二に十五、六年の交よりとくに進行しはじめた経済的不況が生みだした農民騒擾をあげることができる(「自由党の解党」」)>。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その10

 自由民権運動の全国的展開
 明治11年(1878)4月、立志社は「愛国社再興趣意書」を発表した。全国的な結社の連合である愛国社の再興に乗り出した。9月、愛国社再興大会が大阪で開かれた。
 愛国社は13年(1880)3月15日には、愛国社第4回大会を開会した。同日、愛国社加入の結社だけでなく、未加入の結社も多数参加し、愛国社とは別に国会期成同盟を結成した。
国会期成同盟は、天皇に国会開設の願望書を提出することを決めた。
国会期成同盟は同年4月17日、片岡健吉、河野広中が「国会を開設する允可(いんか)を上願する書」を提出した。政府はこれを拒否した。
「79年11月の愛国社第3回大会を劃期に、運動は量的にと同時に質的に発展をしはじめます。国会開設要望書に多数人民の署名を集めて天皇に提出するという大衆的な運動方針をとることをきめ、翌年3月の第4回大会には、2府22県8万7千人の署名をあつめます。『自由党史』は8万7千余人と記していますが、下山三郎さんの研究によれば、実数はもっと多く約10万、それにこの前後各地でおこなわれた国会開設要求の署名をあわせると、20数万の人が組織されたと推定されています。もはや士族中心の運動ではなく、封建的な意識にもとづく運動でもありません。豪農(地主ですがまだ農業経営から遊離していない)・自作農・商工業者を含めた国民的な運動へと進みつつあったと見ることができる(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)。
自由民権運動の全国的な広がりと盛り上がりがうかがえる。
 「全国的な民権結社結成の背景には、各地の地租改正への反対・軽減運動は民会・府県会での活動を通じて成長した豪農や農民層の活動があった。彼らは結社を結成し、学習・教育活動や演説会を開催したのである」(中元崇智著『板垣退助』)。
     「日本の時代史22 自由民権と近代社会」から
     民権家の集会(『日本の時代史22 自由民権と近代社会』から) 
  明治14年政変と自由党結成
 自由民権運動が盛り上がるなかで、政府は明治14年(1881)10月、10年後の23年(1890)を期して国会を開設し,その前に憲法制定を行うという詔書を公にした。そして、プロイセン的な欽定憲法の制定にのりだした。伊藤博文井上馨を中心とする薩長藩閥政権を確立し、明治14年政変と呼ばれる。
 政府は、国会開設を求める声に押されて、10年先の国会開設を約束せざるをえなくなったが、これによって民心をそらせ、自由民権運動の抑え込みを企図するものだった。
 国会開設の詔勅が出た上は期成同盟の存続はその意味がなく、民権派は国会開設に対応し、政党の結成に向かうことになる。
「政府が国会開設の期日を明示するという勇断に出たことは、自由民権派の予測をこえていたと思われます。…ともかくも自由民権派は国会開設の約束をたたかいとりました。そこで国会に備えて自由党・立憲改進党などの政党を結成しました。国民が綱領をもつ恒常的かつ全国的な政党組織をはじめてもったことは、大きな進歩でした」(遠山茂樹著『自由民権運動とその思想』)。

 明治14年(1881)9月には全国から民権家が東京に参集し、10月2日、国会期成同盟会を大日本自由政党結成会に変更した。5日には自由党組織原案が起草された。29日、本部役員選挙で、板垣を総理にするなど役員を選出して、自由党は成立した。自由の拡充、権利の確保、幸福の増進、社会の改良を目的に掲げていた。
 土佐では海南自由党が結成され、下部組織がたちまち県内で成立した。わが郷里の佐川では、海南自由党佐川組合が成立した。
自由党は、その底辺たる地方組織は、全府県にわたっていた。全国の地方政社ないし支部の熱烈な支持をうけていたのである。登録された正式党員数も結成当初の百人台から1882年(明治15)の600人台、83年(明治16)の1000余人、84年(明治17)の2200余人へと急速な拡大をとげていた(党員の実数はその数倍とみられる。『自由党史』は「20万の党衆」と表現している)。そして全国単一の民主主義政党として、機関紙『自由新聞』を発刊し、格調の高い民権論に立って根本的に政治批判を行なうと共に、全国民にむかって活発な組織活動をくりひろげたのである。
 「このように、一時的なテロや一揆などの暴力手段によってではなく、長期間にわたって言論を武器に、一定の民主的運動方針をかかげ、大衆を政治の舞台に登場させ、持続的な政治運動を展開するという、まったく新しい近代的な統一運動体が、わが国の歴史上ここにはじめて出現したのである」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)。

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