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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その9

 「自由は土佐の山間より出ず」
 板垣退助は長期的な民権論高揚の取り組みとして新聞、演説、そして教育を重視しており、建白書が提出された明治10年(1877)6月以降、本格的に展開されていった。
 言論活動の中心にあったのが、植木枝盛である。その雑誌として『海南新誌』と『土曜雑誌』が創刊された。『海南新誌』は、発刊の趣旨で「民権大に興り自主竝に長し天下の人称して自由は土佐の山間より発したりと云うことあるに至れは吾党の雑誌も亦始て空しからさるに帰すると為んのみ」と書いた。「自由は土佐の山間より」の語句は、いまでも高知県民の誇りとなっている。
 立志社は市内の寄席や劇場、寺などを会場に毎夜のように政談演説会を開いた。演説会は大盛況で、入場者2000人、劇場外には入場できない2000人であふれかえったこともある。自由民権思想を庶民にわかりやすく伝えるため「民権歌謡」が歌われ、少し遅れて「民権踊り」も踊られ、評判になったという(公文豪著『土佐の自由民権運動入門』から)。
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   「自由は土佐の山間より」(自由民権記念館)  
 民権期には、立志社をはじめおびただしい民権結社が作られていた。
 土佐で活動した有力な民権結社では、嶽洋社、回天社、有信社、発陽社、修立社、共行社がある。その他にも佐川の南山社、宿毛の共立社など知られる。
 国会開設の要求とともに、地方自治権を確立しようとする運動が発展した。「民権派は、小区会から大区会・州会・県会と積み上げ、ついには国会を実現するという構想をこめていった」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)
 高知県内で7年に民会が組織された。明治8年(1875)春に全県を17大区105小区に編成替えした。9年4月には「公選民会を更張する告諭」が出され、民会を県会・大区会・小区会の3種とした。高知県会の前に土佐州会を組織したが、民会の発展を恐れた政府は解散を命じた。民権派は改称して存続を謀ったがこれも禁止され、民会は消滅した。
 政府は、地方官会議が上申した府県会と区会法案を制定しなかったが、高知県は、高知県民会議事章程を作り、民会を県会と大区会と小区会の三種を設け、議員はすべて公選とした。

  婦人参政権
                  「自由民権記念館」展示から
   初めての女性参政権
 この設置された小区会では、選挙できるのは地区の戸主であり、女性や雇人など選挙権がないなどの限界をもっていた。
この不当な女性の参政権差別に対して、特筆される女性のたたかいがある。明治11年(1878)、現在の高知市唐人町に住む楠瀬喜多が戸主として投票しようとしたら拒絶された。喜多は、納税の義務は女性も男性と同じであるのに不公平であり、納税の義務はないと抗議した。この時は投票できなかったが、1880年、政府が区町村会法を発布し、選挙規則制定が各区町村会で認められたため、高知市の上町の町議会は日本で初めて、戸主に限って女性参政権を認めた。その後、隣の小高坂村でも同様に認められた。喜多は、立志社の演説会にも参加し、「民権ばあさん」と呼ばれたという。
 県内各地に民権派が広く根を張り活動するとともに、民衆の側から地方自治の確立する運動が広がり、女性の参政権獲得も実現したことは注目される。
            
 立志社の憲法草案
 立志社では、二つの憲法草案が作成された(明治14年起草開始)。植木枝盛は「東洋大日本国々憲案」を起草した。草案は、日本の立法の権は「人民全体に属す」と人民主権を宣言。思想・信仰・発言・議論・出版・集会・結社などの自由の権利を保障した。とくに、注目されるのは、人民の抵抗権・革命権を盛り込んでいることである。これは現憲法にもない条項である。
国会は、上流者による上院のごときもうけず、人民が選んだ民選議院だけの一院制とする。政府官吏を除く男女を問わずすべての国民に選挙権、被選挙権を与える。連邦国家制による徹底した地方自治を規定した。
 この植木草案は、審査委員会で採択されず、これを改稿した「日本憲法見込案」が作成された。北川貞彦が起草したと見られている。北川案は、植木と同じ人民主権をとっているが、人権保障が不十分など、植木草案より後退した面がある。ただ、皇帝が憲法を遵守せず、人民の権利を抑圧する時は、人民の投票によって「廃立の権」を行うことができるとして、皇帝のリコール権を与えていることは注目される。
 立志社 の憲法草案は「当時土佐でたたかわれていた、民権運動の切実な要求の結晶だった」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)
    植木枝盛
                植木枝盛(自由民権記念館展示から)
 憲法草案の創造とその思想
 この時代、全国で数多くの憲法諸構想が生まれた。
「維新期から大日本帝国憲法発布までの期間に起草され、憲法という体裁を整えていなくても、少なくとも、オリジナルな国家構想というものを集計すると90を超える」(新井勝紘編『自由民権と近代社会』)
自主憲法のなかで、高く評価されているものに五日市憲法草案がある。東京都五日市町(現あきる野市)の土蔵で発見された。民権家千葉卓三郎らによって起草された。「現存する40数種類の私擬憲法のなかでも出色の内容をもつものと高く評価されている」(『日本大百科全書』)。その特徴は立憲君主制、議院内閣制、三権分立を採用している憲法草案であることだ。
 自由民権期に出された私擬憲法草案は、共和制ではなく、天皇制のもとで憲法制定と国会開設をはかる「君民同治」が多い。「天皇制は自由民権運動のアキレス腱」という指摘もある。
 
 ここで自由民権と共和制の関係を少し見ておきたい。
 自由民権派が天皇制を擁護したのは、幕末の討幕運動からの経過があると考えられる。
 「幕末に尊王論が一定の積極的意味をもったのは、幕府専制に反対し仁政と人心協和を求めるシンボルという役割を、新しく担ぎだされた故に天皇がもつことができたからである」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』) 
 自由党は運動面では、共和制ではなく立憲君主制を目標とした。
 ただし、「自由党の理論的指導者は、共和制が原理的には最善の政体であり、立憲君主制共和制に進化するのは歴史の法則であり、人民の革命の挙は正当であり、国家社会を進歩せしむる役割をもつであることを新聞・著書に公然と発言した。しかし同時に国民の政治意識の発達の程度からして、現時の日本では立憲君主制が適当であるとのべ、その実現のために、天皇・政府の戒心と協力を求めた」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)。
 
 自由民権派の私擬憲法のなかで、天皇制の廃立がありうることを打ち出したのが、岩手出身の自由民権家の小田為綱が明治13、14年に作成した「憲法草稿評林」である。
 「皇帝憲法ヲ遵守セズ、暴威ヲ以テ人民ノ権利ヲ圧抑スル時ハ、人民ハ全国総員投票ノ多数ヲ以テ、廃立ノ権ヲ行フコトヲ得ルコト」。天皇が憲法を守らず、人民の権利を抑圧するときは、人民一般の総員投票でその天皇を引退させることができるという。
<1880年代の自由民権期の憲法草案全体を通観すると、君民同治の国家体制を描いたものが圧倒的に多いが、中には前述したような、日本の近代は、人民の権利を固守するために時代や世紀を越えた先駆的ともいえる条文を生みだしたことを忘れてはならないだろう(新井勝紘編『自由民権と近代社会』)>。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その8

  挙兵の動きを排し言論貫く
 薩摩で西郷隆盛が兵を挙げると、立志社内部でも西南戦争に乗じて挙兵しようとする動きがあった。
<東京において西南動揺の報を得た板垣退助は(1877年)2月14日離京、神戸を経由して同28日高知に帰郷、立志社幹部との間に対策が協議された。板垣も西郷も、その反政府的な立場は共通するが、西郷は板垣の自由民権論を理解せず、板垣は西郷の保守的思想には共鳴できない。したがって「政府を助けて西郷を討つのも本意ならず、西郷に応じて政府を討つのも本望ならず。自主自重、形勢を察して進退を決する」ことを板垣は考えていたのである。…
 挙兵論に対抗して建白論を固持したのは片岡健吉であった。京都に設けられた行材所に出頭、この機会に乗じて民選議院開設のことを訴えようというのである。板垣はまずその説を賛成した(平尾道雄著『自由民権の系譜』)>。
林有造や大江卓が元老院議官の陸奥宗光らと共謀して挙兵を企てたとされて、林をはじめとする首謀者や片岡健吉ら幹部が逮捕された。「立志社の獄」と呼ばれた。
 
 挙兵を画策したのは、林有造その他東京、大阪など県外居住者の企図であり、「板垣を頂点とする土佐在住の立志社員の挙兵行動は見当たらない」(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。
 片岡健吉が逮捕されたとき、激昂した立志社員が腕力によって片岡を実力で奪還しようとした時、板垣が説得し立志社全体がそれに服した。これも「彼等が挙兵の計画を持っていなかったことの証左とすることができよう」(同)。
     西郷隆盛終焉の地の碑、かごしま市観光ナビ
                       西郷隆盛終焉之地の碑(かごしま市観光ナビ)
 西郷らの挙兵について、板垣が語った言葉として『東京曙新聞』(明治10年6月20日付)が伝えている。
 「今回の挙たるや大義を失ひ名分を誤り実に賊中の賊なる者にして前の江藤前原が輩より数等の下級に位せり」と断じ、「僅に自己の私憤を発洩せんとして人を損じ財を費し而して逆賊の臭名を万戴に流すとは吁何の心ぞや」と嘆いて見せた。…板垣は、「腕力ヲ以テ大政府ニ抗スル無益ナリ」として、「正道ヲ以テ民権ヲ主張」すると語っている(小川原正道著『西南戦争と自由民権』から) 
 「かくして板垣は挙兵論を放棄し、自主独立の人民の気風を育てるべく、新聞発行、建白提出、演説開催、教育再興を説き、それは民権運動の基本路線を形成していった」(同書)。
 「(明治)10年の立志社建白(国会開設建白)は、佐賀の乱から西南の役に至る、士族層の反動的な反政府運動とははっきりと異なる、自由民権運動独自のコースを決定したという意義をもった」(『遠山茂樹著作集第3巻 自由民権運動とその思想』)
 遠山氏は、佐賀や薩摩などの挙兵は「反動的な反政府運動」と指摘している。
 土佐の自由民権運動が「民権の思想のない暴挙」の道に陥らず、「正道を以て民権を主張」することを貫いたことにより、日本社会の未来につながる進歩的な運動となった。

 なぜ、立志社が西郷軍に呼応する挙兵策をしりぞけることができたのか。
 <「江藤新平一の舞をなし、西郷近日二の舞をなせり、三の舞を立志社に為さしめんと欲して釣出すも、今度豈(あに)舞出でんや」(原文カタカナ)と、政府の挑発に乗ってはならないという、立志社派の自戒や、諸々の要因が考えられるたが、その本質的原因は、立志社が政治変革の新しい方策自由民権運動を確信をもって把握していたためにちがいない。…立志社には自由民権の大道が開けていたのである(外崎光弘著『土佐の自由民権』)>。
「政治変革の新しい方策自由民権運動」は、武力による「反動的な反政府運動」とは対極にある。
識者のなかには、板垣退助が第一段階は建白書の提出と言論による議会開設、第二段階を挙兵路線としていたが、西郷軍が敗色濃厚になったため建白書提出の道に戻ったという説がある。
 
 これだと、挙兵路線をとっていたが、形勢が悪いので挙兵はあきらめ、言論路線をとったという、風見鶏のような判断となる。とても表面的な見方ではないだろうか。西郷らの敗北の結果といえば、板垣ら土佐の民権派は武力挙兵には展望がない、言論路線をとることに確信を深めたのは確かだろう。
 政治変革の旗印もなく「私憤」にかられた西郷らの挙兵とは違い、土佐の自由民権は、明確な政治的な目的をもち、民主主義社会として日本の未来を開こうとする運動である。本来、国会開設と選挙による議員の選出などを求める運動は、暴力、武力ではなく国民世論を訴える言論によってたたかうということが大道である。武力によって国会開設を求めるというのは、自由民権とは対立することになるのではないか。
 そういう意味では、土佐の自由民権運動が武力を排して、言論を通じて政府に迫るという路線をとったことは、偶然的なものではない。
 自由民権という目的と運動が、本来言論により目的達成を追求する必然性をもっていた。そこに本質的な意義があるのではないだろうか。

 薩摩と土佐の根本的な違いがなぜ生まれたのか。そこには、アメリカから土佐に帰国したジョン万次郎が、日本の他藩に先駆けて、アメリカ・デモクラシーという進歩的な思想と政治制度を実体験に基づく情報として伝えたことが、土佐で幕末・維新で活躍した志士たちに、強いインパクトを与えたこと。それが、その後の自由民権の運動に発展し、さらには板垣ら幹部が挙兵論に陥らず、言論による自由と民権の獲得という大道に進むことにつながったのではないだろうか。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その7

 相次ぐ士族反乱
 明治政府による廃藩置県、徴兵令の施行、華士族の特権だった禄を取り上げる秩禄処分などの政策により、封建的な特権を失った士族の政府への不満が高まった。
 江藤新平が明治7年(1874年)佐賀の乱を起こした。政府により鎮圧され、江藤は全軍を解散し、佐賀を脱出した。誤りを後悔した江藤は、鹿児島へ潜入して西郷隆盛に面会を求めたが拒絶された。江藤は逮捕され、処刑された。
 9年(1876)には、熊本県で敬神党(新風連)の反乱、福岡県では秋月藩士の宮崎車之助を中心とする秋月の乱、山口県では萩の乱と反乱が続いた。
 西郷隆盛は、鹿児島で私学校を創設し、銃隊学校と砲隊学校とを付属させ、県内136の分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育をほどこした。県内の租税は中央に上げなかった。士族は刀をさし、銃器と弾薬をもち訓練されていた。
「事実上中央政府から独立した、薩摩・大隅の2国と日向の一部を領土とする一個の地方軍閥政権であった」(井上清著『明治維新』)。
 
 西南戦争
 西郷は、佐賀の乱や熊本、秋月、萩の乱の際も、自重して呼応しなかった。しかし、明治10年に入ると、西郷の力をもってしても、もはや一党をおさえることはできなくなった。しかも大久保独裁の中央政府は、私学校党をたくみに徴発した。
明治10年2月15日、西郷は1万3,000人の士族兵を率いて、九州の政府軍の拠点熊本元鎮台の攻略をめざして鹿児島を出発し、西南戦争が勃発した。
 九州各地で西郷軍と連結して蜂起したもの、全国各地からはせ参じたものを合わせて、西郷軍のもっとも多いときは、約4万2千人に達したが、熊本鎮台を攻略できずに苦戦しているうちに、本州から派遣されてきた征討軍に3月20日田原坂で破れた。そして政府軍は4月15日に西郷軍の包囲を破って熊本城に入城した。これ以降敗退を続けた西郷軍は9月1日ようやく郷里鹿児島に帰って城山にこもったが、征討軍に包囲され、9月24日西郷が自刃して西南戦争は終わった(外崎光弘著『土佐の自由民権』から)。
     1西郷隆盛
                    西郷隆盛 
  土佐と薩摩で異なった進路
 土佐から興った自由民権運動の高揚と鹿児島での西郷らによる武力による挙兵を見る時、板垣退助と西郷隆盛は、同じ時に下野して郷里に帰ったが、その後の進路は、政治的な行動の目的から手段まで決定的な違いがある。
<明治維新から7年、明治6年の政変が終わった頃、政府を去って反政府勢力を形成した鹿児島や高知の士族たちには、二つの道が用意されていた。ひとつは、言論活動を活発にし、演説を展開し、新聞・雑誌を刊行し、建白書を提出し、教育をさかんにしていこうという言論路線であり、もうひとつは、政府の権力者を暗殺し、あるいは政府そのものを、武力をもって転覆してしまおうという武力路線であった。五箇条の誓文に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」とあるように、言論路線は世論に基づく統治を宣言した明治政府にとって、否定しがたい理論的根拠を有しており、彼等がさかんに議会の開設を目指したことも、「広ク会議ヲ興シ」という一節から、これも否定しがたい正当性を有していた(小川原正道著『西南戦争と自由民権』から)。>
   
 武装蜂起した鹿児島でも、自由民権を唱える人びとも存在した。
<福沢諭吉が薩摩士族は議会を設立して自治を展開すべだと主張しており、実際に西南戦争前夜には、福沢の門下生が鹿児島に帰郷し、武装路線の放棄と議会開設を訴えた。田中直哉や柏田盛文などがこれである。田中や柏田は、西郷隆盛暗殺計画の容疑者として薩軍側に逮捕され、のちに釈放されると、鹿児島県下での民権運動の推進に取り組み、自由党系の九州改進党の鹿児島県会議員として活躍する。しかし、鹿児島の民権運動は、その担い手がかつて武装路線をとったことから政府の警戒を呼び、弾圧されていく。鹿児島の政府系団体・郷友会の圧力を受けて九州改進党は解党し、田中は精神を病んで自殺した(『西南戦争と自由民権』小川原正道著から)。>
 注・西郷暗殺計画は、西郷が設立した私学校が県政への影響力を強めているため政府は薩摩出身の警察官を密偵のため派遣した。私学校党が60余名を捕え拷問の結果、帰省の目的が西郷暗殺であると自白したとされる事件。

「大義」の旗印がない西南戦争
多大な犠牲をともなった西南戦争に大義はあったのだろうか。
<西郷は、決して内戦を望んでいなかった。しかし、担ぎ上げられた彼は、武力蜂起を「追認した」のである。
 西郷は軍を率いて東上するにあたり、「今般政府へ尋問の筋これあり」から始まる文書を、鹿児島県令・大山綱良(つなよし、1825ー1877)に提出した。この「尋問」をどう解釈するかは多少意見がわかれるが、経緯を踏まえて考えれば「西郷暗殺の密命について問い質したい」との意味になるだろう。それが正しければ、西郷は立ち上がるに当たって、政治的な意見を一切発していないということになる。つまり、「大義」なき戦争である。これはほかの士族反乱と比較しても、明らかに異質だった((大阪学院大学経済学部教授 森田健司著「西郷隆盛にまつわる『虚』と『実』」)。>
 <この西南戦争は、多くの場合、西郷本人の人生の一部として記され、被害の深刻さが問われることは極めて少ない。しかし、本来はこの戦争で1万3000もの人命が失われたことを、一番に知るべきだろう。犠牲者の多くは、前途有望な青年だった。なお、この1万3000という犠牲者数は、戊辰(ぼしん)戦争におけるそれとほぼ同じである。しかも、西南戦争は、新政府と旧幕府の戦いとして誰もが「大義」が理解できていた戊辰戦争と違い、特に一般の庶民にとっては「意味のわからない戦い」だった。しかし、そうであっても、戦争である以上は多くの兵士に加え、荷物を運ぶ軍夫や食糧が必要となる。政府軍、西郷軍とも、軍夫や食糧を戦況に応じて現地で集めていた。特に、形勢が悪くなってからの西郷軍は、強制的にそれらを集め、対価を払わないことも多かった。また、戦略として多くの村々は焼き払われ、何の罪もない人々が焼き出され、死傷した(同論文)。>
 
 森田氏は、西南戦争に大義がなかったこと、それにより多大な犠牲が生みだされたと指摘している。
大久保政権の独裁政治に抵抗して立ち上がった西郷は、いまでもとても人気があることは確かである。「大義があった」という見解もある。
 西郷の上京は、即挙兵ではなかった。挙兵になったのは、陸軍大将名義で薩軍上京の目的を通知してあったにもかかわらず、県境を越えた時点で、熊本鎮台兵が攻撃を加えたから応戦・開戦になった。だから薩軍の「大義が明確」だという意見がある。
 ここで「薩軍に大義がある」というのは、政府側が先に攻撃し応戦したから正当である、ということだろう。しかし、武装して上京するとなれば、それ自体が挙兵を意味する。薩軍が挙兵し熊本鎮台に向かうことは、当然、戦闘が想定される行動ではないか。西郷自身が、もし鎮台兵が上京を遮るなら「打ちて通るべし」との指示を与えていた。
 大久保の独裁的な政治が不当だというなら、それに代わる政治変革の目的、計画があったのかと言えば、残念ながら見当たらない。
 土佐の自由民権派の新聞は「西郷の挙兵を民権思想を欠いた暴挙」と批判した。
 ここに、西南戦争と土佐の自由民権運動との根本的な違いがある。
 

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その6

 民選議院設立の建白
 明治4年(1871)、廃藩置県が実施され、板垣は明治政府の参議に就任した。
明治6年(1873)、西郷隆盛の朝鮮派遣を巡る政府内部での意見の対立から、西郷と板垣、後藤象二郎、福島種臣、江藤新平が参議を辞し、政府を退いた。
 板垣はともに野に下った副島・江藤・後藤と相談し、人民が挙国一致の精神を発揮し、国家民生の隆昌をはかるためには、公議世論の制度を確立し、人民が国家と憂戚を共にする道を開かなければならないということになった。ロンドンから帰った古沢迂郎と小室信夫から見聞を聞き、その結果民選議院設立の建白と政党を結成して世論の喚起をはかることを決し、幸福安全社(愛国公党の前身)を設置した。
 7年(1874)1月12日、愛国公党を結成。本誓書名の式を行った。署名したのは副島、後藤、板垣、江藤、由利、小室、岡本、古沢、奥宮の9人である。うち5人が土佐出身である。古沢が起草した「本誓」は4項目からなる。それは、天がすべての人民に平等を与えた通義権理(天賦人権の意味)がある。これを保全する道は、徹底的に公論公議をつらぬくこと。人民の自主自由・独立不覊(どくりつふき)を実現するなどを宣言している
 
 民選議院設立建白書を17日、左院に提出した。それは自由民権の出発点になった。
 建言の冒頭は、今日の政権は天皇にあるのでもなく、人民にあるのでもなく、専制政府の官僚の手中にあることを指摘し、その失政により国家は瓦解の状勢にあると断じ、これを改める道は天下の公議(世論)を張る(さかんにする)ことであり、これは民選議院を開設することによってのみ実現できる。そうすることによってはじめて官僚の専権を制限でき、上下人民の安全幸福が確保できると主張する。そして予想される時期尚早を口実とする民選議院反対論を封殺するための反論を展開した、2400字をこえる歴史的文章であった。
「陰謀や暗殺や武力によって政敵を倒すのではなく、世論を高めることによって、権力を奪取しようとするこの愛国公党の結成と民選議院設立の建言は、わが国の歴史上画期的事件であった」(この項、外崎光広著『土佐の自由民権』)。
       片岡健吉
                            片岡健吉
 立志社の設立
 民選議院設立の建言だけでは薩摩・長州藩出身者による専制政府を倒し、立憲政体を実現できないことを知った愛国公党の指導者たちは、郷里に帰って世論を喚起し、人民の勢力を強大にし、政社を起こし、これを合同して全国的大政党を組織することを決意した。帰国した板垣は片岡・林有造・谷重喜らと7年(1874)立志社を設立し、その趣意書を公表した(同書)
 趣意書は、結社の必要な理由を次のように説明している。
 封建制の廃止、四民(士農工商)平等によって人民の自主の道を開こうとしているが、今や人民全体が知識気風を喪失しようとしている。士族は農工商を軽んじることなく、農工商は士族の困窮に乗じてこれを抑えたりすることなく、救済につとめ、互いに相友愛し相資助しあうことによって、国家人民の福祉が実現できる。
 立志社は当初は、士族救済の授産という性格をもつ結社であったが、立志学舎を設立し、英語教育や近代政治思想を基調とした教育も実施した。自由民権運動をすすめる結社となっていく。立志社は、イギリスのサミュエル・スマイルズ著『西国立志編 原名自助論』から採った名称だという。

 明治8年(1875年)、大坂で高知をはじめ四国、九州、中国、北陸など各地の結社が集い、全国的な民権結社・愛国社が結成された。しかし、大久保利通、木戸孝允、板垣退助の三者会議が大阪で開かれ、板垣がいったん参議に復帰したことから、いったん消滅した。
 10年(1877)6月9日には、立志社総代の片岡健吉は京都行在所に出頭して、天皇に捧呈する立志社建白書を提出したが、建白書がつき返された。
 建白書は政府の失政を次のように批判している。
 五か条の誓文を実行しない、言論を抑えている。国政を統一管理する秩序がない。中央政府の集権が過ぎる。立憲政体を起さずに専制政体のもとで徴兵制を強行している。独断で税金を徴収するため、人民は苛酷な税金にたえることができない、など8項目である。
 そして、八つの失政は政府が専制を尊んで公議をしりぞけ、大政が秩序を失い綱紀紊乱のためであることは明らかであるとして、「民選議院を設立し立憲政体の基礎を確立し人民をして政権に参与せしめ其天稟の権利を暢達せしめは人民自ら奮起して国家の安危に任し仮令政府の公議を取らさることを欲する」と強調している。
 立志社は却下された建白書を印刷して広く配布した。言論活動により結集した人民の力によって、近代国家を実現するという立志社建白の理念は、全国の不平士族や薩摩・長州閥の政府に反感をもっていた人びとに、新しい進路をさし示したものであった。
 「この建白書が要求した憲法制定・国会開設・租税の軽減・不平等条約改正・地方自治・特定業者に対する保護政策の廃止などは、これ以降の全国的自由民権運動の基本的要求となったことからも明らかなように、自由民権史上画期的文書であった(外崎光弘著『土佐の自由民権』)。
 ここで租税軽減を掲げていることについて、ふれておきたい。
 政府は明治6年(1873)7月、地租改正条例を布告した。これは、所有地の100分の3を地租(税額)と定め、豊作・凶作にかかわらず税額の増減は一切おこなわないというもの。しかも地価を決定するのは政府の権限だった。
「建白書」の中で、専制政治の政府は人民を奴僕(ぬぼく、しもべ)のようにみなし、独断で税金を徴収する、人民は過酷な税金にたえることができないと主張している。
 過酷な税率に対しては「地租軽減の要求は自由民権運動の最大の闘争目標になった…条例公布以降、農民の騒擾が全国的に続発していた(同書)」

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その5

 土佐藩藩政改革
 土佐藩では、後藤象二郎の大政奉還の提案に、前藩主の山内容堂(豊信)が土佐藩論とすることを認め、幕府に政権返上を建白した。「この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった(「世界大百科事典第2版)」。
 徳川慶喜は天皇に大政奉還を願い出るが、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允や公卿の岩倉具視らは、慶喜を排除し王政復古の大号令を発した。鎌倉幕府以来、650年以上続いた武家政権は終わり、天皇の下に新政府が発足した。明治元年、政府の基本方針として「五箇条の御誓文」を発表した。

 維新後、明治3年(1870)10月、板垣退助は高知藩大参事に就任した。同年11月、高知藩の知藩事山内豊範の名前で藩政改革に関する伺書を明治政府に提出することになる。
 それは当時、全国でも先進的な改革であり、自由民権の萌芽と見なしても間違いではないだろう。
 土佐藩で、中浜万次郎のアメリカ見聞に関心をよせた一人に吉田東洋がいる。吉田は、階級制の整理や文武芸世襲の廃止など藩政改革を進めたが、それゆえ暗殺されることになる。
 吉田は、文久2年(1862)、藩校「致道館」を開校した。同年3月11日、万次郎から学んだ細川潤次郎を蕃書教授に任命した。和漢の学や史学とならんで、はじめて洋学が正課に組み入れられた。また、薩摩の「集成館」を模範にしたとされる「開成館」には、中浜万次郎の門下生、立花鼎之進が勤務した。致道館や開成館では英学教育も行われていた。洋学の伝習が取り組まれた。
 <明治3年7月には海外留学生として真辺戒作、馬場辰猪、国沢新九郎、深尾具作、松井正水を英京ロンドンに送り出した。このほか中江篤助(兆民)や古沢迂郎(滋)、小野梓のように政府資金やその他の援助で海外に遊学した例も見られるし、西洋への関心は年を遂うて昂揚していった形跡がある。このような洋学伝習の中から欧米先進諸国の政治組織や社会思想が汲みとられ、それが自由民権の系譜に織りこまれていることを考えよう(平尾道雄著『自由民権の系譜』)>。
    1板垣退助
                   板垣退助 
 高知藩大参事に就任した板垣は、権大参事福岡孝弟とともに藩政改革を推進した。「改革の方向はひたすら民主化にむけられていた」(同書)。
  明治3年(1870)11月7日、「人民平均の理」を布告することを太政官に具申。許可を得て12月、山内豊範の名で全国に先駆けて「人民平均の理」を布告した。
 藩庁論告には、次のような見解が述べられている。
 「今藩今日大改革の令を発するは固より朝旨を遵奉し、王政の一端を提起せんと欲すればなり。故に主として士族文武常職の責を広く民庶に推亘し、人間は階級によらず貴重の霊物なるを知らしめ、人々をして自由の権を与へ、悉皆其の志望を遂げしむる庶幾するのみ」「民の富強は政府の富強、民の貧弱は即ち政府の貧弱、所謂民あって然る後政府立ち、政府立て然る後民其の生を遂ぐるを要するのみ」。
 <階級や職種によらず、人間を人間として自覚させ、自由を享受させることが王政の主旨だというのである。人間尊重の思想がその底にうかがわれ、ほのかに西洋的な天賦人権論のにおいが流れているではないか。天賦人権論は近世の自由主義的な政治社会を建設するために大きな役割を果たしたもの…
 論告は「民の富強はすなわち政府の富強、民の貧弱はすなわち政府の貧弱、いはゆる民あって然かる後政府立ち、政府立って然かる後民その生を遂ぐるのみ」と結んでいるが、これは儒教の王道政治の理想とするところであった。これを要するに、東洋的な王道政治と西洋的な民主主義との調和をもとめて新日本の方向を定め、まずこれを高知の藩政改革に試みようとしたのである(『自由民権の系譜』)。>

 藩政改革にあたった板垣退助には、興味深いエピソードがある。
 戊辰戦争では新政府軍で活躍した板垣が、会津若松城下に入った時のことである。
 会津攻めの際、会津で国に殉ずる者は士族だけで、庶民はみんな逃避したのを見て、上下が隔離し苦楽を共にしないからだと感じ、封建制度を否定するに至ったという。
 これが、史実である否かは判然としないが、そういうエピソードが生れること自体が、板垣のその後の思想と行動と結びついているからだろう。 
 明治政府に提出した藩政改革では、藩の議会として議事院を開設、上院には士族の代表、下院には平民の代表をあてる。「人民平均」の主旨により士族による文武の職の独占を停止する、役人・軍人は卒(下級武士)・平民から抜擢することなどをうたっていた。明治政府は、高知藩のみの実行を許可した。藩は改革令を布告し、旧来の士族の特権・格式の規定を廃止した。
 まだ士族と平民の区別は残っているが、「人民平均」の理念は、先駆的である。この改革は、彦根藩などで高く評価され、こうした改革が各地で実施されていくことになった。「近世来の身分制度を変革した先進的な藩政改革であった」「自由民権運動を開始した転機」(中元崇智著『板垣退助』)とされる。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その4

 万次郎が伝えた民主主義の「種」
 万次郎が初めて伝えた民主主義の「種」が、自由民権運動につながっていることを、識者も指摘している。
 土佐史研究家の廣谷喜十郎は、次のようにのべている。
 <吉田文次がまとめた『漂客談奇』が、藩の上層部や上級武士の間に必読の書として読まれ、他藩の大名家にまで筆者本が提供されるまでになる。一方では画人河田小龍がまとめた『漂巽紀略』が武士や町人にまで読まれ、なかでも坂本龍馬に大きな影響を与えたことはあまりにも有名であるが、小龍の門下生であった新宮馬之助、近藤長次郎、長岡謙吉らが龍馬の率いる海援隊に参加したのも、『漂巽紀略』の影響によるものであると言っても、けっして言い過ぎではなかろう。…
 鎖国状態にあった幕末日本に、前ぶれもなく外国生活を身をもって体験した中浜万次郎が帰国したことは、大きな驚きをもって迎えられた。万次郎の漂流談が震源地となって、はかりしれないほど、土佐の各階層の数多くの人びとに精神的刺激を与えたのである(『中浜万次郎集成』、「土佐の近代化と万次郎」)。>
 万次郎の海外での見聞と情報が計り知れない精神的刺激を与えたという。
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                中浜万次郎の生家(土佐清水市)

 評論家の大宅壮一は、次のようにのべている。
 <土佐の藩論ともなった「合議政体論」をはじめ、明治初期の日本を風靡した自由民権思想は、万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーとつながっている。つまり、漂流者万次郎が、アメリカからもちかえったデモクラシーの一粒のたねが、まず土佐でまかれ、それが日本的民主主義として成長し、明治22年の憲法発布、23年国会召集となって、いちおう実を結んだということになる。さらに進んで、明治43年に「大逆事件」をおこした幸徳秋水にまでこれが尾をひいてみると見られないこともない(『中浜万次郎集成』、「欧米文化と初接触」)。> 
 万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーの「一粒の種」が自由民権運動につながっていることを強調している。

 岡井盛夫は、『藩論』に注目している。
 <『藩論」は坂本龍馬海援隊の船中で口述したといわれる史料です。湮滅(いんめつ)して、世の中に伝わらなかったといわれています。
 この『藩論』の原文は、当時通訳として長崎に駐在していた英国人ホール氏(後の横浜駐在総領事)が英訳して、公使パークスに送ったものが残っており、それを岩崎鏡川が手に入れていたのです(岡井盛夫著「坂本龍馬とデモクラシー」)>
岩崎鏡川は岡井氏の妻の祖父にあたり、父の岩崎英恭が「藩論」つきの『坂本龍馬関係文書』を自費出版したという。
<特筆すべきは、時のパークス英国公使は日本人の間に自由主義思想があったことに驚き、その例証として『HANRON』(英訳コピー)を本国に送っている(同)。>
 「藩論」を研究している関家新助氏は「坂本龍馬を中心とする土佐海援隊の共同討議の作とする説が有力」という(関家新助著『近代日本の反権力思想 龍馬の『藩論』を中心に』)。
 残念ながら、「藩論」の実物を読むことができない。『藩論』の要約は次の通り。
(1)明治維新後の藩制(地方自治体)の改革案。
(2)旧体制に変わる新しい政治体制の基本原則として、「国家権力の基礎を民に求め、権力の行使を世論に求めるべき」としている。
(3)具体的改革案として、それまでの藩主と藩士との絶対的主従関係を、藩主と藩士との「新しい契約」とするとしている。
(4)封建的身分を排して、個人(町民・農民・商人)の自由と人間平等主義(身分格差のない能力主義)を提起している。 
 以上の改革を実現するために、①単純多数決による議員選出。②その選出議員に対する再度の投票規定など、つまり『藩論』には、主権在民の思想が<幕末の>日本人の立場から主張されている。さらに「入札」と呼ぶ完全普通選挙制度がすでに提唱されている(関家新助著『近代日本の反権力思想 龍馬の『藩論』を中心に』、岡井盛夫著「坂本龍馬とデモクラシー」から)。
 「彼(万次郎)の漂流記は幕末、波瀾万丈の体験としてまるで冒険物語のように読まれた。ところが河田小竜は、その「冒険物語」から世界の新文明情報に着目し開眼した。さらに坂本龍馬は万次郎の体験から、主権在民思想・デモクラシーまでをも読み取った。彼は、それら情報から激動の時代性を確認した。彼らの倒幕運動は、その思想性に裏付けられている。」(岡井盛夫著「坂本龍馬とデモクラシー」)。
 坂本龍馬は万次郎の体験談から、主権在民思想・デモクラシーを読み取り、それが討幕運動のバックボーンになったと指摘する。
 (岡井論文の「注」は省略した)
 
 坂本龍馬を土佐の自由民権の先駆者とした平尾道雄氏は、それ以前に中浜万次郎の役割に注目している。
 <土佐藩の場合、嘉永5年(1852)7月伝奇的な10余年の海外生活を経験してアメリカから帰郷した漂流人中浜万次郎の影響が大きくとりあげられる。翌年6月ペリーの浦賀来航を機会に江戸幕府に徴されて、「時の人」としてクローズ・アップされるのだが、彼のアメリカ生活から得た見聞と知識とに期待をよせたものは幕府のみではなかた。…
 江戸に徴用された中浜万次郎は御普請格として幕臣に加えられ、江川太郎左衛門手附となりその本所邸に寓居したが、その間オランダ通弁名村五八郎に英語を教授した記録があるし、安政4年(1857)4月に設けられた軍艦教授所の教授に加えられて英語や航海術を担当した。万次郎に師事して英語を学んだものは名村五八郎のほかに大鳥圭介、榎本武揚、福沢諭吉、中村敬宇、箕作麟祥、細川潤次郎等後年名を成したものがあり、そのうち細川潤次郎は土佐藩の遊学生であった。…
 細川潤次郎は…(安政)5年9月藩命によって江戸に遊学し、中浜万次郎から英学の指導を受ける機会を得たものである。(『自由民権の系譜』)>
 この細川氏は、土佐藩が設立した致道館の教授になり、そこでは洋学も教えていた。あとからもう一度触れる。

 以上見てきたとおり、万次郎が初めて伝えたアメリカ・デモクラシーの政治と思想は、土佐の志士たちに大きな刺激と影響を与え、「船中八策」、さらに、大政奉還の建白書につながっていることは明らかである。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その3

 万次郎から影響を受けた人々
 万次郎から影響を受けた幕末・維新の志士たちについて、見ていきたい。
坂本龍馬
 土佐藩の絵師・河田小龍から伝え聞いた万次郎のアメリカでの体験などはその後の坂本龍馬の思想・行動に大きく影響を与えました。
<土佐藩主開明派山内容堂は、アメリカで勉強しアメリカ事情に卓越した万次郎を高く評価し士分(定小者)に取り上げ、土佐藩校(開誠館)で英語、アメリカ政治・経済の講義をするよう命じ、さらに家老や藩士にアメリカ事情の記録を認める(ママ)ことを指示しました。吉田文次(吉田東洋病気のため交替)の『漂客談奇』(政治、経済、軍事などの記述)、河田小龍(蘭学者、画家)の『漂巽紀略』です。殊に『漂巽紀略』は絵入りでアメリカの風習、文化・文明を紹介したものであり、市井の人達の間で好評でした。藩校では後藤象二郎、岩崎弥太郎、板垣退助らが聴講しました。坂本龍馬河田小龍後藤象二郎から万次郎のアメリカ情報を得ていたとのことが言われています。坂本龍馬の「船中八策」は正にアメリカの議会制度が盛り込まれておりました>。
万次郎五代目子孫・今永一成福岡大学名誉教授は「中濱(ジョン)万次郎の精神は如何に育まれたか」(『ヒトの教育第13号』)でこのように指摘している。

 万次郎から事情を聴取し、著作にまとめた河田小龍の役割はとても大きい。
当初、万次郎は長年の異国生活のため、日本語が不自由になっており、藩の取り調べは難航していた。そこで抜擢されたのが、河田小龍であった。
 <幼い頃から学問の道に入り、絵画・蘭学を学んだ小龍は、漂民の中でも万次郎に教養があることを見抜いた。そして許可を取り、自宅へと連れ帰る。尋問を終え帰ると互いに言葉を教えあうなどし、言葉が通じ合うようなるとふたりの友好は深まっていった。
 万次郎は小龍にアメリカでの生活の様子などを語り、小龍はその話に聞き惚れた。中でもアメリカの民主社会の仕組みは小龍の心を打ち、これらの話を書き留めるべきだと考えた小龍は『漂巽紀略』と題した本をまとめた。そして、この書を藩の啓蒙活動に利用しようと藩主・山内容堂に献上したのだった。…
 小龍が藩命で薩摩へ行っている間に、万次郎は紀略の草稿を土佐の識者であったという早崎益寿に見せてしまった。早崎はその草稿をもとに、多くの副本を作った。こうして万次郎の漂流記は巷に流布されることとなり、これが現在数多く存在する万次郎の物語の源流になったと言われている(「ジョン万次郎資料館」)。>
坂本龍馬と万次郎は直接会ったという記録はない。
 剣術修行のため江戸へ行っていた龍馬は、安政元年(1854年)に土佐へと帰郷。「その際、絵師の河田小龍から西洋など異国事情を学ぶ。龍馬は河田小龍を通して、万次郎の異国での体験などを伝え聞いたのです(「ジョン万次郎資料館」)」。
 小龍を通して聞いた異国事情と民主社会の仕組みは、龍馬の目を大きく開かせただろう。
「小龍は坂本龍馬に対して外国の脅威にさらされた当時の時世論を展開した」「外国船をなんとか買い、船員を育成して商船事業を起こす必要があることなどを説き、のちの海援隊を作るための人材の確保を龍馬に約束した」(「明治維新150年高知県ミュージアム連絡協議会」編集『幕末維新の土佐 人物紹介』)
 海援隊は、私設海軍や貿易、運輸、教育など、商社のような活動をし、日本初の株式会社と評価されている。万次郎の伝えた情報が大きな刺激をあたえただろう。
          中浜万次郎集成1 (2)  
         「漂巽紀略」表紙(「中浜万次郎集成」から)

後藤象二郎
 万次郎と直接会って、その話を聞いた人物に、土佐藩士、後藤象二郎がいる。土佐藩家老、吉田東洋のおいにあたる。板垣退助とは幼なじみで、吉田東洋の塾でともに学んだという。
 <万次郎が土佐藩家老・吉田東洋に外国事情を紹介している時に、東洋のそばで熱心に万次郎の言葉に耳を傾けている少年がいた。この少年は後藤象二郎であった。万次郎は象二郎のその姿勢に心を打たれ、1枚だけ残っていた世界地図を彼に与えた。象二郎は大いに喜んで、数日間部屋にこもり地図をずっと眺めていたという。
 その後、土佐藩の主任となった象二郎は、富国強兵の基礎を築くため、1866年(慶応2年)藩校・開成館を設立。講師として招かれた万次郎は、航海術や測量、英語、捕鯨などについて講義をした。また象二郎は、長崎に艦船や鉄砲の買い付けに行った際、船に詳しく英語が話せる万次郎を頼りとした。結局、長崎では気に入った船が見つからなかったが、万次郎は2度上海にまで足を延ばして、砲艦や蒸気船を購入したのだった(同『幕末維新の土佐 人物紹介』)>。
 すでに見たように、長崎から兵庫へ向かう船上で、龍馬が「船中八策」を作るその場に、後藤もいたという。象二郎は、この案をもとに慶喜に大政奉還を進言。そして1867年(慶応3年)10月、大政奉還が実現したのである。
 
長岡謙吉
 坂本龍馬が起こした会社・海援隊に参加し、「知恵袋」といわれた長岡謙吉も、万次郎の海外情勢と民主主義の政治などを聞いていただろう。龍馬が構想した「船中八策」を成文化したのが謙吉だとされる。謙吉は、家の近くに河田小龍が住んでいて、オランダの学問と絵を教える墨雲洞という塾で学んでいた。
 長岡は他の志士より早く安政6年(1859)に長崎に出て、オランダの医師・シーボルトに師事した。西洋医術からオランダ語、英語も学んだ。「龍馬に出会い、海援隊に参加しました。語学力を活かして、海援隊の書記官のような役目を担っていましたが、長岡の知識力は単なる書記官で収まるものではありませんでした。海援隊の頭脳と言ってもよいもので、その真骨頂は、大政奉還建白書の起草でした。龍馬が後藤象二郎と進めていた大政奉還は、慶応3年(1867)10月3日に土佐藩から幕府へ提出されました。長岡は、案文作成に関わったと考えられます」(『幕末維新の土佐 人物紹介』)。

板垣退助
 自由民権運動を土佐から起こした板垣退助は、先に見たように土佐藩校で直接、万次郎のアメリカ政治・経済の講義を聞いていた。「万次郎から伝えられたアメリカの知識は、板垣退助の思想・行動にも影響を与えたと言われています(土佐清水市「ジョン万次郎資料館」)」。
 あとから詳しく見るように、征韓論に破れて土佐に帰って来た時、自由民権の旗を高く掲げたのは、万次郎から聞いたアメリカ・デモクラシーが強いインパクトを与えていた可能性は十分にあることである。
 万次郎のように漂流してアメリカ船に救助され、帰国して海外情勢を伝えた人物にジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)がいる。1859年(安政6年)9年ぶりに帰国した。カトリックの洗礼を受けたので、この名を名乗っている。アメリカに帰化し、リンカーンとも会見したことがある。
 アメリカ領事館館員となり、咸臨丸が渡米する際、ブルック船長を案内した時、万次郎とも出会った。ヒコは、『漂流記』(1863)を刊行し、創刊した『海外新聞』は最初の民間新聞である。ヒコは、アメリカ流の政治制度改革案「建国策」を明治政府に提出し、却下されたことがある。彼も、アメリカの民主主義に共感をもって政治制度改革案を提出したのだろう。
 但し、彼の『漂流記』は万次郎の帰国より10年ほど後になる。
 

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