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レキオ島唄アッチャー

自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その2

 万次郎がはじめて伝えたアメリカ民主主義
 ここで改めて、万次郎の証言内容を確認しておきたい。
万次郎らは、琉球上陸後、琉球から薩摩に送られた。薩摩では、島津斉彬の指示で、待遇はりっぱな食膳、お酒、衣類、日用品もすべてゆきとどいて賓客のもてなしだったという。
 斉彬は、開明派の領主として知られ、西洋の科学技術や軍事などに強い関心をもち、オランダの書物をとりよせ、翻訳させて勉強していた。斉彬から、万次郎一人だけ召され、直々の御下問が始まった。とりわけアメリカ合衆国の文化の総体にわたって詳しい質問を受けたという。
 アメリカでは、家柄、門地といったものは問題にされないで、人はすべてその能力によって登用されていること、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につくこと、人はみな自分の幸福と公共の幸福をいっしょに考えているから、世の中が常に栄えていること、デモクラシー、人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)。
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       土佐清水市にあるジョン万次郎資料館
 土佐に帰った万次郎から詳しく聞き取った河田小龍がまとめた「漂巽紀略」がある。そこから政治制度にかかわる部分だけを見てみたい。
「フェアヘブン(ハーヘーブン)から二百五十里離れたところにある、ニューヨーク州ニューヨーク(ヌーヨーカ州ヌーヨーカ)という都市は、三十四州中の中心である。
注・これは万次郎の誤認。首都はワシントンである。
多くの才能や学識を持った人達を推薦して、大統領を選ぶ。
大統領の在職期間は四年を限度としている。しかし、もし徳が高く、政治の力が抜群であれば、なお、職を続けることが出来ることもある。
 在職中、一日の給料は銀千二百枚、(日本の金二貫五百文を銀一枚)である。全国の、才能があるものがこれに選ばれようと、相争ってここに集まる。今の大統領はテーラー(テヘラ)と言い、その政策は法に則って厳正であるという。このように、政治や法律が行き届いているために、合衆国の政治にこれ以上付け加えることはないということである。」
これとは別の証言記録「土佐藩取調記録 漂客談奇」では、次のようにのべている。
アメリカはその昔、イギリスが開いた国で、イギリス人が多い。代々の国王を申す者はいない。学問才覚のある者を選び出して王になる。4年にして他人に譲る。政事がよく行き届き、人民が惜しむ人であれば、8年にして譲ることになっている」。
 簡略ではあるが、アメリカデモクラシーの神髄を語っている。
 土佐での取り調べ記録は簡略であるが、実際に万次郎が語った内容はもっと詳しいものであっただろと容易に想像される。
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       中浜万次郎     
 万次郎が江戸に呼ばれた際の「江戸幕府取調記録」では、より詳しく語っている。
アメリカはイギリスに所属していたが、人民がその政令に不服従し、ついに独立国となり、共和政治を建てた。国王はいなく、国中の政治をつかさどる大統領をプレジデントと申す。国中の人民が入札(投票)して職に就く。4年にて交替する規定がある。人物が格別によいか、または軍事的な国の大事があれば交替せず8年在職することになる。
 大統領府はワシントンにある。国中兵刑、賦税があり、官吏は上がったり下がったりする。一州ごとに首領はカムラメン(govermor、知事)と呼ばれ、州内の政治を行う。
 大統領といえども国法に違反してはならない規定があり、政治が安定し、人民も法令を重んじ、国内がよく治まる」。
万次郎が、世界各国の中でもとりわけ、アメリカで見聞し学んだ民主主義の政治制度や思想を伝えたことは重要な意味を持つ。
というのは、アメリカは、奴隷制度や先住民の迫害などの限界があったとはいえ、当時の世界では、民主主義の先進地であったからである。
 1861年にアメリカ大統領となったリンカーンは、南北戦争をたたかい、その最中に奴隷解放宣言を出した。彼が64年の大統領選で再選された際、祝いのメッセージの中に「一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地」と記されていた。科学的社会主義の創始者、カール・マルクスからである。アメリカを民主主義・共和制の思想の発祥の地と位置づけていた。
 
 万次郎は、アメリカの政治、思想、文化などについて著作は残していないが、重要だと思うことは、単なる伝達者というだけではなく、彼がアメリカ・デモクラシーの社会に強い共感をもって話していただろうということである。それは、彼が民主主義の真髄を的確に把握して証言していることからも推測される。
 貧しい家庭に育ち、まともな教育を受ける機会もなく、漁師となった彼は、アメリカで見聞するすべてのことが、新鮮な驚きだっただろう。とくに江戸幕府の時代、天皇・将軍を頂点とした封建的支配、厳しい身分制度、庶民への過重な年貢、さらに鎖国という排外主義という現実から見ると、アメリカ社会は「別世界」であり、希望に満ちていたのではないだろうか。
 万次郎が帰国した当時の幕府体制のもとで、民主主義などを語ることは厳罰を覚悟しなければならない。事情聴取を受けたからではあるが、アメリカ・デモクラシーについて、大胆に語るのは、勇気がいることだっただろう。それだけに証言を読むたびに、胸の内では、時代遅れのこの日本社会も変わってほしいという願いをもっていたのではないだろうか。そのように万次郎の気持ちを想起する。

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自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり、その1

 自由民権運動の起源は中浜万次郎にあり

 明治初期の日本を揺るがせた自由民権運動は、日本の民主主義の歴史を振り返る時、大きな歴史的意義を有していることは誰も認めるところだろう。土佐から始まったこの自由民権は、いったいいつどこから始まったのだろうか。その起源について、土佐の坂本龍馬が新政府の方向を示した「船中八策」に求めることが多い。確かに、明記された文書としては、先駆的であることは間違いない。ただし、鎖国日本に欧米の民主主義の政治制度と思想を初めて伝えたのは誰か。それは、漁船が遭難しアメリカの捕鯨船に助けられて異国で10年を過ごして帰国した土佐の中浜万次郎に違いない。ところが、みずからの著作を残していないため、自由民権の起源として、万次郎の果した役割は無視ないし軽視されていることが多いのではないだろうか。
 これまで、帰国への第一歩として琉球に上陸した万次郎のことをブログにも再三、アップしてきた。改めて思うことは万次郎が日本に初めて伝えた海外の政治や科学技術の知識などが、幕末・維新に活躍した偉人たちに、与えた影響は絶大なものがあった。万次郎が伝えたアメリカン・デモクラシーの政治・思想が、自由民権の起点をなしていることは、もっと注目されてよいということである。今回、そんな思いでわが郷里の土佐を震源地として巻き起こった自由民権運動の起源について学んでみたい。

 自由民権の起点は「船中八策」なのか
 自由民権の源流をめぐるこれまでの研究と論考を見ると、土佐の坂本龍馬に求める見解はよくあるが、中浜万次郎を源流として位置づけたものは、ほとんど見かけない。万次郎研究の側からは、幕末維新から自由民権への影響をみる見解はあるが、自由民権の研究の側からは無視されているのではないか。
  高知県の郷土史家、平尾道雄著『自由民権の系譜』(高知市民図書館刊)は、「土佐派の自由民権思想を論ずるものは、その先駆者としてかならず坂本竜馬の名を挙げる。慶応3年(1867)6月土佐藩船『夕顔』で後藤象二郎と長崎から大阪へ航行中、船中で認めた八策が日本近代化の方向を明確に指唆したものと認められるからである」とのべ、「船中八策」の全文を引用している。
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          高知駅前にある坂本龍馬(中央)、中岡慎太郎(右)、武市半平太(左)の銅像。万次郎は入らない。 
 
 改めて「船中八策」について見ておきたい。
 龍馬は土佐藩の参政・後藤象二郎と手を組み、慶応3年(1867年)6月、前土佐藩主の山内豊信(容堂)に大政奉還論を進言するため、長崎から京都に向けて藩船・夕顔丸で出航した。その船中で、象二郎に対して口頭で提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したといわれている。八策は次のような内容である。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出べき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に
  決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、宜しく従来の有名
  無実の官を除くべき事。
一、外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛すしむべき事。
一、金銀物貨、宜しく外国と平均の法を設くべき事。

 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、これを捨て他に済時の急務あるなし。苟しうも此の数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並行するも、亦敢へて難しとせず。伏して願はくは、公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下を更始一新せん(旧字は新字に改めた)。
 現代語に訳すれば、①大政奉還②上下両院の設置による議会政治③有能な人材の政治への登用④不平等条約の改定⑤憲法制定⑥海軍力の増強⑦御親兵の設置⑧金銀の交換レートの変更となる。

 <「竜馬はこの案をもって参政後藤象二郎を説き、後藤は山内容堂を説き、容堂はこれを土佐の藩論として将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告したのであった。…
 王政復古のために、竜馬は「船中八策」と基案としてさらに「新政府綱領八策」を起草し、心胆を砕いていたが、その発令の日を待たず、11月15日の夜京都の下宿近江屋において佐幕派の刺客に襲われて横死した。(平尾道雄著『自由民権の系譜』)> 
「船中八策」が、数か月後に為された土佐藩の大政奉還の建白の基となり、さらに維新の「五箇条御誓文」へと引き継がれた。「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったとみるのが自然である」(『中浜万次郎集成』、川澄哲夫著「万次郎から英学を学んだ人たち」)
 竜馬の船中八策などに示された「政権奉還論や議会思想案は、竜馬の尊敬する幕臣のなかの進歩主義者勝海舟や大久保一翁から示唆されたものであった。だが、幕臣として勝や大久保はこれを公然主張し推進することは許されなかったのである(平尾道雄著『土自由民権の系譜』)」として、勝や大久保から示唆されたとする。

 外崎光弘氏も、この「船中八策」の構想が決して坂本竜馬独得のものではなく、当時すでに欧米の憲法や議会政治等が頻繁に紹介されていたのであり、幕府内にもそのような構想があったとみる。
 尾佐竹猛著『日本憲政史』(日本評論社刊)からその例を挙げている。
 <幕臣大久保忠寛は「船中八策」の5年前にあたる文久2年の春(注・1862年)、「大小公議会を設け大公議会は全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止る事件を議する所とし」、その設置の建白を時の政事総裁松平春巌に上つて居る。その翌々年(注・1863年)に薩藩吉井友美が大久保利通に送った手紙に、「大久保越州(忠寛)、横井(小楠)、勝(安房)などの議論、長を征し幕吏の罪をならし天下の人材を挙げて公議会を設け諸生と雖其会に可出願之者はさつさと出し公論を以て国是を定べしとの議に候由」との一節がある。(外崎光広著『土佐の自由民権』から)。>
 
 改めて大久保の建白をもう少し詳しく見ておきたい。
 <1862 年 幕臣大久保忠寛(一翁)は、政事総裁松平春嶽に「大小の公議会を設け、大公議会は全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とし其議場は、前者は京都或は大坂に置き、後者は江戸其他各都会の 地に置くべし、又大公議会の議員は諸大名を以て之に充て、内五名を選びて常議員とし、其他の議員は、諸大名自ら議場に出づるも、管内の臣民を選びて出場せしむるも、妨げなきこととすべし、五年に一回之を開き臨時議すべき事件あらば臨時にも開くべし。小議会の議員及会期は、之に準じて適宜の制を定めん。」との建白をした(「議会制度年表」、駒崎義弘=元衆議院事務総長=作成)。>
 この幕臣大久保忠寛や薩摩藩の吉井友美の議論が「船中八策」に先立つとして位置づけている。しかし、万次郎が日本で最初にアメリカ・デモクラシーを伝えたことはまったく考慮されていない。
 幕府内でも、議会政治や憲法をめぐる議論があったことは注目に値する。
 龍馬に示唆したという勝海舟は、その前に中浜万次郎から学んでいる。
 
 ペリーが浦賀に来航した1853年(嘉永6)から約8年後。万延元年(1860)には、日米通商条約の批准書交換のため幕府が派遣した海外使節団として、勝海舟は咸臨丸に乗船したが、周知の通り万次郎も同行した。
 <(勝は)この時同船していた万次郎から英語やアメリカの知識などを学ぶ。その後、軍艦奉行に就任などする(「ジョン万次郎資料館」)>。
 アメリカを見聞するのに、万次郎から得た知識が役立っただろう。
 大久保忠寛は、幕府で海防掛を任じられていて、黒船到来の際、意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、老中、阿部正弘に推挙して登用させた。勝海舟との付き合いがあった。勝からも情報を得ていただろう。大久保が大小公議会の設置を建白したのは、1862年である。
 大久保が議会設置の建白をするより10年前、万次郎がアメリカから帰国している。薩摩藩の島津斉彬への発言や土佐藩、江戸幕府での聴取に対する証言で、アメリカの民主主義の政治制度や思想を紹介したのは、1851、52年である。はるかに早い段階で、幕末の薩摩や土佐の藩首脳部、江戸幕府に伝えられている。土佐の坂本龍馬や後藤象二郎はじめ幕末の志士たちも、絵師・河田小龍と「漂巽紀略」などを通して、海外の情勢と政治制度なども伝わっていたと考えられる。
「船中八策」は勝や大久保の示唆があったとしても、龍馬はそれ以前に土佐で万次郎によるアメリカの政治制度、思想の情報には接していたはずである。

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首里金城町の内金城嶽と大アカギ

 内金城嶽とアカギの巨木
 首里城に近い金城町にある内金城嶽(うちかなぐすくたき)を訪ねた。何回も金城町石畳を見て、この付近の井泉も見ていたが、まだ行ったことがなかった。石畳の真中あたりにある村屋(むらやー)から、東に少し行くとある。
御嶽は二つあり、左手にあるのが小嶽、右手にあるのが大嶽。御嶽には、アカギの巨木が立ち並ぶ。沖縄で見た樹木の中では、一番の巨木である。樹齢200年~300年とも言われるが、巨樹の迫力からは、もっと古いのではないかとの感じを受ける。
こうした巨樹は信仰の対象ともなったそうで、御嶽は、アカギを囲むように石垣が築かれて、石門がある。
     大嶽 (2)
                            大嶽
 説明板には次のように記されている。
 <古い記録に登場するこの御嶽の起源は、たいへん古いと言われています。『琉球国由来記』には、茶湯崎(ちゃゆざき)村(現松川)の項に記され、真壁大阿母志良礼(まかべのおおあむしられ)が仕えていたことがわかります。神名は東側の大嶽がカネノ御イベ(金乃御部)またはモジョルキヨノ大神(若依休大神)、西側の小嶽はイベツカサ御セジ(威部司御筋)と伝えられています。また、一般にこの御嶽はフェーデン(拝殿)と呼ばれていま 9㎡ほどの広さをやや丸く石垣で囲い、正面には直線のまぐさ石をかけた石門の形となっています。
      小嶽2
       小嶽  
 石囲いの中には神聖とされる大木(アカギ)があり、その下に3個の石が立てられるという、沖縄独特の形式です。
また、小嶽には年中行事の一つで、旧暦12月8日に行われる鬼餅節(ムーチー)の由来伝説が伝えられています。>
 注・大嶽に拝殿が創建されたので、大嶽のことをフェーデン拝殿とも呼んだ。今は、その拝殿はない。(『琉球国旧記』訳注から)。   
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 大アカギの説明板には次のように書かれている。
 <内金城嶽境内には推定樹齢200年以上と思われるアカギの大木が6本生育しています。樹高は約20mで、樹幹にはホウビカンジュ・ハブカズラ・シマオオタニワタリ・クワズイモ・ハマイヌビワなどが着生しています。
アカギは琉球列島・熱帯アジア・ポリネシア・オーストラリアなどに分布するトウダイグサ科の樹木です。沖縄県内では普通に見られる樹木ですが、このような大木群が人里にみられるのは内金城嶽境内だけです。第二次世界大戦前までは首里城内及び城外周辺にもこのようなアカギの大木が生育していましたが、戦争でほとんど消失してしまいました。>
        大嶽アカギ1
    大嶽のアカギ
 沖縄戦で、米軍は読谷村から北谷にかけての海岸から上陸して南下してきた。32軍司令部のあった首里城は、猛烈な砲撃で破壊され焼きつくされた。ただ金城町は、首里城の裏側に位置するので、消失を免れたのだろうか。 
   
    小嶽アカギ3   
    小嶽のアカギ
 貴重なアカギの巨樹である。古くから神木とされたように、内金城嶽は神聖な雰囲気に包まれている。
       IMG_20211114_103730.jpg


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尚巴志の遺骨をどこに隠したのか

 このブログでアップしていた「英雄・尚巴志の墓を訪ねる」について、金丸がクーデターを起こしたとき、尚巴志の遺骨を金城町の大日寺に隠したと書いた。これを読んだコバさんから「金城町の大日寺へ隠したとありますが、建立されたのが尚質王時代1660年ごろです。クーデターは1400年中頃ですので200年程時代が合いません。クーデター当時にはお寺はなかったのではないでしょうか?当方の情報が違っている可能性もあります。ご回答頂けましたら幸いです。」とのコメントをいただいた。
この部分は當真荘平著『月代の神々』からの引用だった。改めて同書の関係部分を引用する。
 <天山陵墓が焼き打ちされる前に屋比久之子平田之子は、いち早く西室の坑道伝いに大中町側の山林を抜け出し、赤田町の達磨寺にたどり着き、夜陰に乗じて赤田御門の城下を抜けて、金城町の大日寺の奥に尚巴志王らの玉骨を隠した。寺院に入ったので金丸の追手は追跡できなくなった。その後追手の隙を見て、北山討伐の時駐屯し地勢にも詳しく妾の東松田祝女の故里の伊良皆の森に中に玉骨をお祀りしたのではないだろうか。屋比久之子平田之子を助けて行動をともにした親雲上、里之子たちはクーデターがおさまった後も、隠者としてささやかな生活を続けていたのであろうか>。

 では、大日寺はいつ、どのように創建されたのだろうか。『琉球国旧記』(原田禹雄訳注)から引用する。
<東松山大日寺(※1)《首里の金城町にある》
 順治年間(1644-61)、頼慶(らいきょう)和尚なる者がいた。この僧は賢い人で、日本で勉強して、密教の奥義を受け、また両部の本源(※2)をきわめ、兼ねて儒教の書を学び、かなり義理のくわしい点を知って帰国した。久米村(くにんだ)の東寿寺で説法をし、儒教の講義をして、人々に教えた。
 この時、尚質王は、頼慶に、儒書の侍講を命ぜられた。道が遠く、往復するのに苦労であろう、ということで、王は宅を首里金城町に賜わった。寺院を創建して、大日如来の尊像を安置した。
 康熙31年(1692)壬申(佐敷王子)尚益公が、薩摩へ行かれる時に、日秀上人の像を勧請あそばされて、(大日寺に)奉安されたのである。>
 ※1首里金城町3丁目の内金城嶽の東北にあった。真言宗。山号は東照山。寺号は遍明院ともいう。明治には廃寺となっていた。
※2両部は、金剛界と胎蔵界のことであるが、ここは両部神道であろう。
         尚巴志の墓
            読谷村伊良皆にある尚巴志の墓
 この史料で見ると確かに大日寺は尚質王の時代、順治年間(1644-61)に首里金城町に創建された。首里で真言宗の寺としては初めてだった。金丸がクーデターを起こしたときは1469年であるから、寺の創建は175年後であり、明らかに間違いである。筆者は裏付けをとっていなかったので、この部分は訂正したい。
 ただし、金城町の大日寺はなかったとしても、金城町のどこかに仮安置した可能性はある。
 尚巴志の遺骨の行方について、伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』が詳しく記しているので、その部分を引用する。
「尚徳王一族は首里城を去る時に、先祖の遺骨も持って逃げた。首里王城での政変をいち早く察知した屋比久之子平田之子は、首里大中町に天山陵(てんざんりょう)にあった先祖の墓を開き、石棺に入っていた尚巴志王・尚忠王・尚思達王などの玉骨を甕に入れなおし、読谷山間切伊良皆村の佐久川原の嶽内に隠した」「天山陵墓跡には壊された石棺の台座が残されているが、墓室は破壊され、第二尚氏4代目尚清王の北谷王子の御拝領墓(グフェロ-バカ)になった。現在、墓跡地は個人の屋敷となっており、所有者によって墓前は整備され石碑も建立されている。首里金城町の雍氏(名乗頭「興」)門中慶佐次家の屋敷には尚巴志王統4代目尚思達王・尚金福王・尚泰久王の墓があり、天山陵から移送するとき仮安置して分骨したという」。
「戦国時代には戦に負けた一族の墓を暴く習慣があり、首里大中町にあった『天山陵』も尚円王配下が雇った大和武士たちによって焼き討ちにされ、石棺も破壊された」。

 読谷村伊良皆には尚巴志の墓があるので、天山陵から遺骨を移したことは確かである。その前に當真氏が隠したと記した金城町の大日寺が、当時はなかったとすれば、読谷山に移す前にどこに隠しのか。仮安置されずに読谷山まで移したのか判然としない。伊敷氏は、尚巴志の遺骨を仮安置したと記述していない。ただ、尚思達王・尚金福王・尚泰久王の遺骨は金城町慶佐次家に仮安置されたとしている。第一尚氏の王たちの遺骨を仮安置したのが金城町という点では、當真氏と伊敷氏の見解は符合する面がある。
 大日寺のあった場所は、首里金城町3丁目の内金城嶽の東北だったという。金城町にある内金城嶽は、「古い記録に登場しているこの御嶽の紀元(ママ、起源)は12世紀まださかのぼる」(「那覇市観光資源データベース」)という。この御嶽は、石垣で囲い石門があり、そのなかにアカギの大木がある。
  大嶽 (2)
            首里金城町にある内金城嶽(大嶽)
       
 遺骨を金城町のどこかに隠したとすれば、神聖な御嶽に隠した可能性はないだろうか。これはまったくの思いつきだが、そんな推理も頭をよぎった。
 重要なことは、一時的にどこかに隠したのかではなく、最終的に読谷山伊良皆に隠した事実であり、それ以上の詮索は不要なのかもしれない。
 なぜ、遺骨は読谷山伊良皆に移送されたのだろうか。
 「伊良皆村には、尚巴志王の妾に東松田ヌルの実家があ(る)」「尚巴志王の孫平田之子屋比久之子読谷山伊良皆村に隠れ住んだ」「伊良皆山には屋比久之子平田之子の墓もあり、後に佐敷森(サシチムイ)と称された」(『琉球王国の真実』)。
當真氏もすでに見たように同様の記述をしている。
 「その後追手の隙を見て、北山討伐の時駐屯し地勢にも詳しく妾の東松田祝女の故里の伊良皆の森に中に玉骨をお祀りしたのではないだろうか。屋比久之子平田之子を助けて行動をともにした親雲上、里之子たちはクーデターがおさまった後も、隠者としてささやかな生活を続けていたのであろうか」(『月代の神々』)
伊敷、當真両氏とも、尚巴志王の妾、東松田祝女(ヌル)の故里の実家を頼ってきたと見ている。首里から遠く離れ、追手からも逃れるのに適しているからだろう。

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八重山島の役人、私利を図る不正が横行

 八重山島の役人

 私利を図る不正が横行
 琉球王府の時代、八重山は天下の悪税・人頭税によって苦しめられた。それに加えてというか、役人の不正でさらに税が割り増しされるなどの悪行がまかり通った。その一端を八重山の古文書に記されている。
役人の業務遂行上、必要と思われる文書を書き写し、取りまとめた『万書付集(ヨロズカキツケシュウ)』を見ていると、八重山の役人多数を処罰した『手形(令書)』が目に留まった。
 処罰の事例として、たとえば次のようなものがある。
 「穀物・反布・諸品代米、残29石6斗7升4合2勺5才起の返納を申し付け、寺入り500日のはずだが、老体により、役を免じ,、◆(貝遍に賣)粟6斗先    宮良親雲上(ペーチン)」
 「穀物・反布・黒糖代米、残42石2升8合5勺6才起の返納を申し付け、役を免じ、桃林寺へ500日の寺入り 波照間首里大屋子(シュリオオヤコ)」 
 「穀物・反布・黒糖代米、残9石5斗7升5合3勺□□起の返納を申し付け、役を免じ、桃林寺へ400日の寺入り 与那国与人(ユンチュ)」
 
 首里王府の行政トップにあたる三司官から下され、それを嘉手納親雲上・与那原親方(ウェーカタ)が八重山島在番(王府から派遣された常駐官)に申し渡したものだ。
このように、一人ひとりに対する処罰は、合計62件を列挙している。
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          写真は石垣島の桃林寺
 なぜ、このような処罰を受けたのだろうか。
 「右は、各噯(アツカイ)村より穀物・反布・諸品等をみだりに受け取り、かつ、かすめ取などがあり、それぞれ御検使より糺し付け、所犯書をもって申し出があり、役々として万端を正道に勤めるべきところ、そのことがなく、このような次第は不届きなので、右の通り申し付ける。」(『万書付集下』)  
 「村より穀物・反布・諸品などをみだりに受け取り、かすめ取る」とはどういうことなのか。もう少し詳しく見ておきたい。
 「八重山島はしだいに疲弊してきたうえ、近年は飢饉や災害がうち続き、人口も格別に減少している。しかし、頭・役々たちの勤務状態が悪く、百姓らは農業を怠り、そのほか地域の風俗がよくないことから、年々追って疲弊が増していると(国王が)聞かれ、今回、御検使(王府からの臨時の役人)を派遣し、全体の様子を詳細に調査したところ、頭ならびに諸役人・筆者(書記官)たちが私利を図って不正を行ない、諸上納物の賦課・取り調べなどの取り扱いが乱雑となり、かつ、御用布・御用物・諸雑物など重ねて割り付け、かつ、内々の例といって穀物・反布・そのほかの諸品・野菜・肴などを我が儘にいろいろと要求し、かつ、村の諸費用・出高・夫役などが多く、そのようなことから百姓らは気力をなくして農業を怠り、いやましに疲弊が進むようにみえ、言語道断のことである。
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                   桃林寺の仁王像
 年貢など上納物の賦課と取り扱いが乱雑で、貢布や御用の品物など勝手に割り増しして納めさせたこと。穀物や反布から野菜、肴まで、わがままに無償で納めさせたこと。さらには役所での経費や役所に駆り出す夫役を多くするといった不正や不届きな行為があったという。

 さらに「今のようでは、しだいに疲弊を極めるようになり、年貢・上納・御用布・御用物などを調えることができず、ついに島中が立ち行きがたくなるだろうと、何とも問題至極である」と厳しく指摘している。役人の不正、非法を放置すれば、百姓がさらに疲弊し、必要な年貢、上納物も納めることができず、島中が立ち行かなくなることを恐れている。それゆえに、王府としても処罰せざるを得なかったのだ。
 現在の町村にあたる間切(マギリ)の長である頭や役にある者が、王府に上国する(首里王府に上る)際は、村々へ勝手に餞別と称して、穀物や反布をはじめ様々な者を上納させた。

 「八重山島の頭・役々が上国する時、頭は各間切の村々へ餞別として布16反ほど上納を命じ、役々は噯村へ村柄に応じて20~30反ほど調えさせ、かつ穀物の加勢を申し付け、そのほかにイリコ・刺参(ナマコ)・炭・薪木を、疲弊した小村へは相応の産物を無償で要求し、百姓たちは迷惑していると聞いている。近年、全体が疲弊して百姓たちが難儀しており、特別の取り扱いを仰せ付けられている折柄なので、この際、僅かでも負担にならないように取り計わなければならないのだが、その考えがなく、今のようでは百姓たちは、さらにさらに難儀におよぶであろう。」

 役人が困窮する百姓らに、高利の貸し付けをして、返済できなければ家屋敷や田畑まで没収することも横行した。
 「八重山島の奉公人(役務についている士族などをいう)たちが、滞在人や百姓らへの物資の貸付に、十割の利子を付けて貸し渡し、その結果(返済)がうまくいかなければ、家屋敷や田畑、または牛馬・衣類・道具などを取り立てる者もいると聞いている。すべて物資の貸付は、二割半以下の利子で遣わすのが規則であるのに、右のように一倍(十割)の利子、または質物を過分に取り立てては、借受人が、はたと迷惑するのはもちろん、王府の統治の妨げになり、はなはだよくないことなので、今後、右のような貸付は、法定の利子をもって遣わすよう、堅く取り締まりをすること。」
 高利で貸し付け取り立てるやり方が「王府の統治の妨げに」なると、取り締まりを求めている。
これらはいずれも『万書付集』(上、下)に記載されている内容だ。


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笹森儀助もあきれるずさんな行政

 ずさんな未納の扱い
 笹森儀助は、与那国島に1893年(明治26)8月1日―3日滞在した。『南嶋探験』を見ると、その際、与那国島詰の地方役人、与人(ユンチュ)の崎山用英にも、貢租などの未納の実情を問いただしている。崎山は、質問に答えて次のようにのべている。 
  「現在公費未納調は正確の帳記なし。5年以前に遡り取調んとすれは、数十日を要せされは成り難しと。本件と現在貯蓄は只喃〻(ナンナン)其不能を陳謝するのみ」

  現在公費の未納について正確な記帳がない。5年前にさかのぼり調べるのに数十日かかるとは、ビックリだ。
  笹森は「按するに該嶋与人30余人の村吏を率ひて、一方には未納公売の騒きを醸しなから、其調たる2日間にして答ふる能はす。僅に210戸の未納なれは、此属吏にして毎戸に臨査するも為し難きにあらす。実に緩慢驚き入りたる始末にあらすや」
 一方で未納者は、家財など公売にかけるという騒ぎを引き起こしながら、他方では未納について正確な記帳もない。わずかな戸数だから村吏を使って戸別に精査することもできるはずだ。「実に緩慢驚き入りたる始末」と呆れかえっている。

 駐在所の巡査にも、貢租・民費の未納を質問すると、次のように答えている。
 「貢税は貯穀等を以て立替納付する故、未納なるものは表面上に於て決して之れ有るなし。且つ該嶋の民費は、即ち公費なるにも拘はらす(他府県の地方税仝様ものなり)、確実の調は担任の番所にすら不整頓の極りなれは、所謂未納取立にして、何の誰は7俵ありと申渡すも、其実は7俵なるや3俵なるや納むる当人にして既に不分明に属し、唯命のまヽなり。豈(アニ)緩慢不紀律の甚(し)きならすや。余の村吏に面するや、出来得る丈けは、此辺取調差出されたしと談して帰宿せり」
 未納といっても、その実態はあきれるような「不整頓」によって命じられている。担当する番所でも、いいかげんな処理がされ、未納といっても実際は「7俵か3俵かわからない」、本人もわからないまま命じられているという。笹森儀助も「緩慢不紀律」が甚だしいと憤りをもって、村吏に正確な取り調べを求めている。
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      女性たちが織らされた「八重山上布」
 
未納には家財売払い
 未納といっても、正確な記帳もないずさんは管理をしながら、取り立てには役人たちは容赦ない態度をとっている。
 駐在所で巡査に面会して聞くと、巡査は次のように答えた。
 「村吏の専横実に甚し。近日の事なり、急に役所の達と称し、5、6年以前よりの公費租税未納一時上納を命し、不足の分は家屋・牛馬・鍋釜・日用の器具に至る迄公売せんとの厳達あり。一時三十余名其難にかかり、民心囂々(ゴウゴウ)たり。故に僕、番所に至り、村吏に談し、其処置を中止し安堵せしめたり。駐在所設置以来、自然村吏も斟酌し人民は満足の様子なりと」
 
  5,6年前からの貢租公費の未納の上納を命じて、不足の分は家屋・牛馬・鍋釜・日用の器具まで公売にかけるという横暴な取り立てに出た。30数名がその対象とされた。人々の騒ぎを前に、村吏に会って「その処置を中止」させ、安心させたという。治安を任務とする巡査が見ても、民心を怒らせるほど、村吏の専横ぶりがひどかったのだ。
  明治25年(1892)頃でも、こんな専横がまかり通っていたのだ。
笹森の見聞には、明治中期であっても、人頭税や公費など重い課税と、それに王府役人のずさんな管理も加わり、多大な未納高が百姓にのしかかっていた現実がリアルに伝えられている。そのなかでも、百姓はただ泣き寝入りするのではなく、家屋など勝手に売り払うという乱暴な徴税に対しては「囂々」たる非難の声をあげ、中止させるというたくましさを見せていたことがわかる。

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笹森儀助の見た与那国島の現実

笹森儀助の見た与那国島の現実

 青森の弘前藩士の子として生まれた笹森儀助は、明治26年(1893)に南西諸島を探訪し、見聞をまとめた『南嶋探験』を書いた。その際、与那国島に明治26年8月1日―3日滞在した。短い間にも、最悪の税制といわれた人頭税のもとで、貢租の未納の状況について、特に関心を持ち、実情を聞き出した。驚きをもって記している(東洋文庫版のカタカナをひらがなに直した)。

 未納の実態を調べる
 笹森は与那国島に渡ると、番所や駐在所などで、村詰与人(ユンチュ)、村吏や巡査らと面談した。
 明治25年末の与那国島の島民は、おおむね総戸数380戸(内1戸士族)、人口2120人(男1034人、女1086人)で、明治5年の調べに比べて、戸数は108戸、人口は775人の増加だった。これを見ると、総戸数のうち士族は1戸となっている。与那国島では士族は少なく、大半が百姓だったようだ。
 
与那国に渡る前、笹森は八重山役所で与那国島の「貢租民費負債高」を調べた。その結果は、貢租は「未納なし」、民費288石3斗4升8合1勺6才、貯蓄541石7斗2升6合2勺4才、其他人民へ貸与等未納93石3斗1升6合4勺7才、合計923石3斗9升8勺7才にのぼった。これは明治22年~25年までの未納高である。
 貢租は未納がないとされるが、貢税は貯穀(予備として貯える穀物)等から立て替えて納付するので、表面上は未納にならない。その代り貯穀分が多額の未納になっているのだろう。貯蔵する穀物は、「凶作の年の用意や王府に上納を運ぶ船が早く出る時などのために重要なもの」だった(『富川親方八重山規模帳』)。
 
民費は他府県の地方税と同様の公費である。
 いずれにしても、納税を義務付けられた人員が不明だが、戸数割にすれば一戸当たり2・4石余にのぼる。相当な未納高である。しかも、この未納高について、島民も村吏もその数を知らないというから、ビックリである。
 笹森は記す。
 「按するに、此未納穀1戸平均2石4斗3升に当る。然して嶋民一人として其数を知る者なし。村吏尚は知らす。況(イハ)んや其他をや。早く之れか処置を為さすんは、恐くは鹿児嶋県大嶋郡の負債覆轍に陥らん事、照〻として明らかなり。当局者の一考を煩はす」
 過大な「負債高」を負わせながら、当の百姓も知らないというのは、番所や役人がいかにいいかげんな実務だったのかがわかる。しかも、知らされないままに重い「負債高」が押し付けられる百姓は悲惨である。
 ここで、奄美大島の負債についてふれている。明治6年砂糖の自由売買が許可された奄美大島では、鹿児島商人が砂糖の売買権を独占し暴利を得た。大島の負債総額は20年間で100万円におよんだ。同じような事態に陥ることを警告している。
                      笹森儀助 (448x640)
 未納が生まれる理由
 与那国島の村総代を集めた場でも、笹森儀助は「民間の真情」を知るために「公費未納高如何」と質している。
村総代は「正男432名にて1人に付、7俵位あり。右は本年期に上納すべき分」と答えている。ここで注目するのは「未納は如何の事情より起りたるか」という問いにたいする答である。「正男」は、租税を課せられた15-50歳の男性のことである。
 「4,5年以前の不作と貢米積船2艘沈没との二途より来る。凡そ700石位あり。内、本納期に350石位上納すれは、新貢租を収むるの余地なし。然れは本年の貢租・民費又〻未納となるの姿也。…
 又曰く(村総代)、貢租・民費不納の多きは、1戸にして60俵の巨額に上るあり。少なきも10俵を下らすと」

 不作で満足に米が収穫できなくても、決められた貢租分を上納しなければ未納とされる。しかも、貢米を積んだ船が沈没すれば、百姓がまた上納を求められ、出来なければ未納とされるのは、理不尽そのものである。納税後の運搬途中の事故は、王府の損失として処理すべきものだろう。
 未納分を納めれば、新貢租の分はとても納める余裕はない。また、新たな未納が生まれる。これでは、百姓の未納は膨れ上がるばかりだ。

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