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レキオ島唄アッチャー

与那国島・役人の圧迫と抵抗

 村番所で百姓を苛めた
 池間栄三著『与那国の歴史』によると、「当時の村番所は税の取り立てと百姓を呼び出して苛める所であった」という。賦役をはかどるために、村を西字12組、島仲字1組、比川字3組に区分して、各字毎にドウムテ(世持、総代)、アタマ(頭、組長)、ブサ(補佐)、ブ・カムイ(賦役係)等の世話役を置いた。その他にクウとアニチが番所に徴用されていた。
 ブサにはハル・ブサ(畑補佐)とダマ・ブサ(山補佐)がいて、何れも山野の取締り役であった。クウは番所の小使いのことであるが、計算に明るい者が採用され、時には上納米の取扱いもさせられた。無能者でも一族の威光によって役人になり、与那国島へ派遣されたものの中には、この平民子使いに上納米の計算を誤魔化されていたものもあった。
 アニチにはハマ・アニチがいて…いわゆる布晒し女のこと…ムラ・アニチは御用布を仕上げる役で、男が起用され、ハマ・アニチ交代してハマ・ヤテ(浜小屋)の夜の番人でもあった。
 さて、稲刈りが終わると、上納用として、乾燥した稲束を積み重ね、お椀を伏せた形のシラ(稲倉)を造った。各組毎に造ったので、これをフン・ヌ・シラ(組の稲倉)と言い、役人立会いの上にクウが稲束を整え、斤量をはかって、組の世話役達によって造られた。稲束六丸、二百十斤が三斗二升入れ一俵分であって、一丸は十束であった。
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      写真は八重山上布(石垣市の博物館)
 シラを造る日に村の世話役達は現場の屋内に立会いの役人を招じて、山海の珍味を供し、女を侍らして大いに歓待しながら、屋外では、斤量を誤魔化して、未納者がないように工夫していた。このシラは翌年の2,3月頃に解かれ、各家庭で玄米にして三斗二斤(升?)俵を作り、倉庫に納めた。…
 上納俵の検収倉入りが終わると、飛舟を仕立てて八重山の蔵元へ通報し、グムテ・ンニ(御物船)の派遣方を要請した。…天候のため御物船の到着が遅延すると字民を繰り出して数百の俵を解き、虫の手入れをさせられたので、百姓の苦労は並大抵のことではなかった。…
 荒天のために長らく停泊すると、村ではナリコ(順風願い)と言って、牛を屠り、船員を招待して、盛大な宴を催した。
 これらを見ると、与那国島に赴任してくる役人だけでなく、島の住民が下働きに使われていて、無能な役人を巧みに利用して誤魔化すこともあった。また、役人を酒食でもてなし、その間に数量を誤魔化して未納が出ないようにするという巧妙な手段も使われた。人頭税の圧迫にあえぐなかでの、庶民の知恵だったのだろう。

 与那国の役人への抵抗
 琉球では、王府が百姓に耕作させた農地を、一定の年月で割り替えする「地割」制度がとられていた。だが、与那国島には地割制度がなかったようだ。
 「与那国島には地割がなく、百姓個人の家対王府の基本的な二者関係が長期間続いたので、百姓の感覚のなかに耕地に対する個人所有に近い感情」があった。そのため、地割方式よりも村(字)の「役持ち(役人の下で働く役目の者)」たちの「介在度は弱かったでしょう」という。
  地割制度だと、百姓は耕作する農地が数年ごとに代わるので、農地への愛着はわかない。所有感覚も持てない。百姓の生産意欲を失わせる側面がある。土地を多く割り当てられると、納税義務が増すだけだから嫌がった例さえある。
 このような琉球王国の支配は、日本の「幕藩体制下の諸藩にくらべて、より古い支配方式であり、より後進的な搾取のしかただ」と新里恵二氏は『沖縄史を考える』で指摘している。
 ところが、与那国では地割制度はなく、「個人所有に近い感情」があったという。役人の下働きの役目の者も「介在度が弱かった」と宮良氏は見ている。同じ王府時代でも、与那国と地割のある他地域の百姓とでは、意識の上で相当の違いがあったかもしれない。
 与那国では、役人側も「貢納さえきちんとできれば、管理支配はうまくいっていることになるし、さらに“百姓に嫌われたくない”という思いが、黒潮のど真ん中の絶壁に囲まれた孤島のなかで当然、働いたと考えてもいいのではないでしょうか」。宮良作著『国境の島 与那国島誌』は、このように解説している。
 役人と百姓の関係を見る上で興味深いことだ。
 人頭税による重い負担の中で、百姓たちが役人を誤魔化すという頭脳的な抵抗だけではなく、直接的な反抗もあった。
   人頭税廃止百年記念の碑

  写真は、与那国島の人頭税廃止百年記念の碑
 その代表的な事例が、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』で紹介されている。
  小浜島与人(ユンチュ)で武芸の達人に宮良永祝という人物がいた。寛延2年(1749)に与那国与人に命ぜられた。蔵元の政庁では、当時与那国島に秘められた役人蹴落の蛮行を知りこれを矯正すべく計画を樹立し、永祝は適材として選抜されて与那国に赴任したのである。
 赴任後彼は何故にこの地では、かかる蛮行が行われるかと古老に尋ねた所、人頭税の苛酷と誅求に反抗した行動であると教えられ、この反抗は、人頭税の為の反抗であるという事であった。
 与那国島に赴任してくる役人を、蹴落とすとは驚くような抵抗の形である。お酒でも飲まして酔わせておいて、夜陰にまぎれて崖下にでも蹴落としたのだろうか。実際にどんな事例があったのか定かではない。でも、ありそうな気もする。といっても、役人への反抗は勇気がいることである。
 『翁長親方八重山島規模帳』に、次のような気になる記述もある。
 「与那国島の者どもで、何かうっぷんがあると放火するという悪質な行為をする者があり、以前から徐々に取り締まりを申し付けていたが、今以て止まず、人にあるざる行為、支配の妨げになり、はなはだ良くないことである。今後は右のようなことの二度と起らないよう詰役人も厳しく取り締まり、もし違反する者があったならば早速捕え石垣島へ引渡し、厳重に糾明し王府へ問い合わせること」
 この17年後に八重山に派遣された『富川親方八重山島規模帳』にも、同じことが繰り返されている。これらを見ると、与那国では厳重な取り締まりをしていても、不満の鬱憤晴らしのための放火がなくならず、たびたび発生していたことがわかる。
 こうした放火は、島民の私人間のもめごとに起因したような単純な犯罪だろうか。八重山のなかでも、放火取り締まりの記述は『規模帳』を見る限り、他では見られず、与那国島だけにある。
 放火は許されない犯罪であるが、これだけ再発するというのは、その背景に何かがあるのではないだろうか。
 そう感じるのは、長年取り締まっても再三、発生していることに加え、王府が「支配の妨げになり」、「政道の差し障り」になる(『富川親方八重山島規模帳』)と警戒していること、違反者は捕えて石垣島に引き渡し糾明した上で、わざわざ王府にまで問い合わせるよう命じているからである。
 これらからみて、島民への理不尽な圧迫と耐え難い重税、さらには役人の横暴な振る舞いなどに鬱積した不満や憤りがその背景にあるのかもしれない。考えすぎかもしれない。あくまで私の個人的な感想である。
 明治26年に琉球諸島を探訪した、笹森儀助の『南嶋探験』には、百姓が公然と役人らに抗議した事例が登場する。
 公費租税の未納を納めなければ、家財・牛馬まで公売にするという役人の問答無用の乱暴なやり方にたいして、百姓らが抗議の声をあげて、結局中止に至ったことが記されている。これは、別途また紹介する。  

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与那国島・ふさわしくない者が役人に就く

 役人にふさわしくない者が役に就く
 与那国島は遠海の地にあったため、赴任する役人も、その任にふさわしくないような者が役に就くという問題も起きていたという。
 首里王府からの布達書と八重山蔵元からの報告・問合せなどからなる『御手形写(オテガタウツシ)抜書』(1771~1830年)を見ると、次のような記述がある。
 「与那国島は、難海を隔て諸事の監督指導も思うように行き届かず、だんだん衰微してきて、役人や筆者が精を出して指導しなくてはならないところでありますが、与那国島詰めの役人は前役次第で順繰りに交代することを定められていて、役人としてふさわしくない者が順番に当って役に就きがちなので、その時期になれば人柄を考慮し、任命のための上申書を差し出すべきだと存じます。」
与那国島は、「順繰り交代」のため「役人としてふさわしくない者」が就任していたと嘆いている。これでは、監督指導はいっそう行き届かなくなるだろう。このため、次のような意見を上申した。
 「よって申し上げますのは、ご都合の程もどうかと思いますが、石垣島・離島の村々の担当役人は旅役や地域のご奉公を勤めて役の昇進が良くなり、与那国島の詰役人はすべて高齢で、詰めるのにはふさわしくない者が回り合いで担当になり、勲功もなく詰めており、きわめて哀れなので、遠海の勤めを格別にお思いなされて、何とぞ交代の役人は上国二度の勲功の処遇を申し付けていただきたく存じます。そのように申し付ければ、回り合いに当たらない者どもも与那国島詰めを願い立て、与那国島の監督指導も良くなるだろうと存じます。この旨上申いたします。以上。」 
                与那国馬

 1819年4月9日に、八重山の頭方、在番方から御物奉行所(王府の財政を執行する役所)へ上申されている。
 与那国島に詰める役人は「高齢」で「勲功」もなく、これではやりがいも生まれない。だから、石垣島などの役人のように「役の昇進が良く」なる「上国(首里王府に上る)二度の勲功の処遇を」申し付けていただきたい。そうすれば、「与那国島詰めを願い立て、与那国島の監督指導も良くなる」とのべている。
 これに対する王府の回答は、「勲功の処遇の件は先に定め難く」、勤務内容が特別良い者は「その程度に応じてご褒美を申し付ける」とのべるにとどまった。
 ここには、与那国島は「役人にふさわしくない者」「高齢」の者が役に就き、監督指導が行き届かないからといっても、遠海の勤めを特別に扱い、勲功の処遇をするというわけにはいかない。王府にとっても悩ましい問題が付きまとったことがうかがえる。

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国境の島・与那国島も酒の厳しい取り締まり

  与那国島でも酒の厳しい取り締まり
 与那国島でも、祝い事などの酒や料理など厳しい取り締まりが布達された。
 「与那国島では種子取りの次の日、右の祝いといって、百姓役目の者が役人・筆者を世持人の家に招いて祝い、馳走も過分に費用をかけているという」
 八重山では、畑に種を蒔き無事に育つことを願う種子取祭(タネドリサイ)や豊年祭などは、いまでも伝統ある祭りとして有名だ。そこには、災害もなく気候に恵まれ、五穀豊穣をもたらしてくれることへの願い、人頭税を納め終わった喜びや次年の豊作、平和で豊かな「弥勒世果報(ミルクユガフウ)」への切なる祈りが込められている。作物の豊凶は百姓にとって死活にかかわる問題であり、神への供えを含めて、 酒や馳走も欠かせないものだ。
 にもかかわらず、こうした出費を王府は「無益」や「無駄」な出費としか見ない。
 「担当の役人としてこのようなやり方は不相応なことは勿論、諸取り締まりにも差し障り、ことにどうかと思うので、今後は出費のないよう軽く祝い、役人や筆者がそれに応ずることは必ず止めるべきこと」
 百姓たちの心情を考慮しないまま、過分な出費を避けることばかりを優先する姿勢である。
 子どもの誕生祝いについても、同じようにきわめて冷淡である。
  与那国の酒                 
  写真は、与那国島の名産、花酒。60度ある(離島フェア―で)
 「与那国島では子どもが生まれると、嶽入りと称して5斗以上の菓子を作り、酒肴を盛り合わせ、縁者を多数招き嶽へ出かけて立願し、帰宅しても酒肴や吸物、さらに食事なども馳走してもてなす」
 子どもの生まれることは、家族にとって大きな喜びであり、次代を担う世代を生み育てることでもある。王府にとっても、離島で農業生産と再生産を続ける上で、不可欠であるはずだ。にもかかわらず、出産祝いも目の敵にしている。
 誕生祝いは「以前から禁止してあり、厳しく取り締まりを申し渡すべきこと」と強調している。お祝いそのものを禁止している。
 

  以上は、『富川親方八重山島規模帳』から紹介した。
 ただ、こうした農作業にともなう祭りとか、出産など祝い事は、百姓が日々、農作業に精を出し米や粟を作り、重い人頭税を納め、さらに生きて家族を生み育てていく上では、欠かせない行事である。農奴のような辛い労働の中で、数少ない楽しみであり、喜びである。
 だから、祭や祝いを禁止し、軽くすませるように命じられても、「はいそうですか」と簡単に応じるわけにはいかない。当局の取り締まりの目をくぐってでも、なんとか実施したいと思うのが人間の常である。
 そこで、思い起こすのは与那国島で、蔵に貯えていた酒や米など物資を役人が来る前に舟で島外に積み出して隠したという伝承である。その動機は、税金逃れとか贅沢品の摘発を逃れるため隠すというだけではないのではないか。五穀豊穣など農事にかかわる祭や人生の節目の祝い事などは、止めろと言われても中止できない。なんとか続けたい。そのため、必要な物資を一時的に避難させておくということも、重要な動機ではないだろうか。そんな気がする。
 酒造りやまつりなどを取り締まる王府の再三の指導の記述を見るにつけ、庶民は取り締まりの目をくぐって、さまざまなたくましい知恵を発揮して、祭や祝い事など続けてきたのだろうという思いを強くした。

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国境の島・与那国島の役人たち

 与那国島の役人たち

「国境の島・与那国島」の続きである。与那国島が遠海の地にあったため、行政が行き届かない面があった。赴任を嫌がる役人もいたと聞く。与那国島はどのような統治体制にあったのだろうか。
『与那国島―町史第三巻~歴史編~』の髙良倉吉著「首里王府・蔵元と与那国島」から、八重山と与那国の統治と役人の特徴について紹介する。
 与那国島の統治体制は、琉球が薩摩に侵攻される前と後では大きく異なる。薩摩支配の前、古琉球時代も、「八重山全体を行政的に統括するための行政機関(後に蔵元と呼ばれる)があったはず」であり、その頂点にたつ「大首里大屋子」(後の頭)が複数いたと推定され、その下には首里大屋子(シュリオオヤコ)や与人(ユンチュ)、目差(メザシ)と呼ばれる役人たちが八重山の統治を担当した。
 重要な点は、「八重山の行政を担当するこれらの役人たちは首里・那覇から送られてくるよそ者ではなく、そのすべてが地元出身者だったこと」。「与那国島の行政を担った役人たちもまた島の出身者であった」という。
 薩摩侵攻後の近世初期、八重山は、一六二八年から石垣・大浜・宮良の三間切体制になるのだが、その直後に大きな変化が始まった。「それまでの伝統を見直して、首里から在番とよばれる派遣役人が来島し地元に駐在することになった」。
                    八重山の蔵元機構

  一六三二年春、首里から石垣島を訪れた視察団の一人、豊見城儀保親雲上が初代の八重山島在番となった。その後、一六七八年赴任からは、主任を在番、補佐役二名を在番筆者(ザイバンヒッシャ)と呼ぶようになる。派遣された在番の大半は首里の士族であり、一部に那覇や泊の士族が含まれている。在番は、蔵元とは別の場所に「在番方」あるいは「在番仮屋(ザイバンカリヤ)」と呼ばれる役所を構え、「八重山島」行政のお目付けの役割を発揮することとなった。
  八重山行政の拠点的役割を発揮したのが蔵元であり、総務や税務、産業、司法、戸籍、海事などを担当する様々な部門があり、そのトップに頭と呼ばれる三名の役人がいた。
古琉球から近世初頭にかけての島々や村々の役人たちは、首里城の国王から辞令書を受けた地元の者がその任に当たっていたのだが、一七世紀後半あたりから制度が大幅に変わり、地元の者を排除して蔵元から役人が派遣され、「よそ者」が、「我らが島や村に詰役人として赴任してくるという時代に転換した」。
                 
 動画は、与那覇歩さんの歌う「月ぬかいしゃ~どぅなんスンカニ」。「どぅなん」は与那国島のこと。与那国島に派遣された役人が任期を終え現地妻と別れ悲哀が歌わる。

  特別行政区としての与那国島
 与那国島は多良間島と同じように、両先島における特別行政区だった。そのために、与人一名+目差二名(『琉球国由来記』)という特異な組み合わがあった(通常は与人1人と目差1人)。
 詰役人や諸村筆者(耕作筆者や杣山筆者)、そして津端検者(ツバタケンジャ、納税業務が厳密に行われているか点検し、蔵元に報告する)といった役人が石垣島の蔵元から与那国島に赴任してきており、そのうえで統括的な業務を三人の頭が担当する、というのが特別行政区としての与那国島の運営体制だった。
 しかし、島に赴任してくるよそ者の働きのみで与那国島の行政が成り立っていたのではない。詰役人たちの下で働く与那国島地元の人たちが勤める下級役目が存在した。
『翁長親方八重山島規模帳』(1858年)によると、
 世持(4名※)、田ぶさ(4名※)、村小横目(2名※)、山溝(3名※)、札持頭(4名※)、馬ぶさ(3名)、村佐事(1名)、村筑(1名)、女頭(女6名)、布晒(女4名)。
 という名前の役目が存在した。このうち※印がついているのは「頭迦(ズハズレ、注・1点シンニュウ)」と注記されているので、納税義務は外れた51歳以上の男子であり、それ以外の役目は納税者が勤めた職である。
百姓役目と称されたこれらの職については、『富川親方八重山島諸村公事帳』(1875年)は次のように説明している。
世持・田ぶさは、毎朝、百姓たちを確認し、野良に出て農作業に精を出しているかどうかを監視して、担当役人に報告する仕事を担当する。
 
 村小横目は、村の掃除が行き届いているか、ニワトリや豚の飼い方は妥当か、菜園の手入れはきちんと行われているか、野良仕事をさぼり海岸で遊んでいる者はしないか、などの監視仕事を担当する。特に与那国島のこの役目は船筑を兼務し、毎年石垣島に出張して蔵元の総横目(ソウヨコメ、頭に次ぐ職)に島の状況を報告する仕事も担当する。
  札持(フダモチ)頭は、木材の伐採などで島民が使役された場合、負担が公平に行われたかどうかを点検し、また、島に漂着あるいは寄港する船があった場合に、担当役人をボートに乗せてその船までで漕ぐ仕事を担当する。
 村筑(ムラチク)は、様々な税を徴収する際に、その額が適正に測られたかどうかを現場立ち会いのうえで監視する仕事を担当する。

  村佐事(ムラサジ)は、「御用布」(税金としての布※)上納に関する業務を女頭と協力して行い、また租税負担が規程に基づき適正に賦課されているかどうかを点検する仕事を担当する。
 ※御用布としているが、御用布は、王府に納める布であるが、頭懸け(一人ひとりに賦課する)の上納米の代用物としての上布とは別に、特に指定された布をいう(『富川親方八重山島規模帳』解説)ので、ここは、御用布より貢納布か貢布とするのが適切ではないか。
 女頭(ブナズィ)と布晒のうち、女頭のほうは女性の納税者の点検に関すること、また「御用布※(同上参照)」の製作作業を管理する仕事を担当する。布晒(あるいは布晒人)のほうは織り上がった布を干したり、海水に晒したりする作業を管理する仕事を担当する。
  山溝に関する説明はないが、名前から推察すると、おそらく山林や林野の保全を監視・管理する仕事を担当した役目だと思われる。
  その他に「牧当(牧場の管理)」「嶽当(聖所の管理)」「かん当」「目入」「浜屋番(船具など入れた小屋の管理)」といった役目も存在した。
 近海を通航する船舶の動きを監視する遠目番も存在した。与那国島には12人が配置されていた。この仕事も百姓役目の一つであり、島民の負担であった(『翁長親方八重山島規模帳』)。
 このように、与那国島の住民たちの負担や下働きがあって始めて、島の行政運営は成り立っていたのである。


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国境の島・酒造りや祭りを取り締まる

 酒造りや祭りを取り締まる
 与那国島では、石垣島から役人くるときは、米や酒を貯蔵する蔵に大量の物資があることを発見されないように舟に物資を積み込んで、西の洋上にこぎ出したという、伝承を紹介した。
この話を読んで、連想したのは、八重山での酒造りの取り締まりの厳しさである。
「八重山は焼酎を手広く造り、諸役人をはじめ百姓に至るまで軽い寄合の時も酒を出し馳走をし酒宴のようにしている。以前からいろいろ取り締まるように言ってあるが守られていないようだ」
 「米粟の初を祭るため、家々で神酒・酒・肴などをこしらえ呑み食いし、もてなしをするのは良くない」
 「仏前へ酒を供えること、僧侶へ酒を出すこと、僧侶が酒を造ることは従来から禁止してあるが乱れているようで良くない」。
 いろんな祭や祝いごとには、お酒はつきものだ。八重山では手広く焼酎を造っていたようだ。だが、王府は酒造りに神経をとがらしていた。役人や百姓が寄合の時に酒宴をすることをはじめお祭や仏前へのお供えに酒を出すことも取り締まりの対象とした。
 「常々風習を正しくし、すこしも無益な浪費をしないようにしなければならない。…
なおいっそう取り締まること」
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              石垣島新川の豊年祭
 このように厳しく対処することを求めている。米粟の初の祭は「今後はこのような出費がないように祭の儀式分だけ作ること」と戒めている。
ましてや、満月の夜、浜辺で男女が集い、遊ぶことはご法度だった。
 「8月15日の夜に、男女の縁のある同士が集まって神酒・肴・盛り合わせなどを作り、磯辺に行って楽しく遊ぶ所もある」。
 中秋の名月のさい、みんなが集まり、酒を酌み交わし、歌や踊りで遊ぶのは楽しいひと時だっただろう。しかし、「男女が混じり合い、風俗の乱れ、無益な手間なので、今後は止めること」と禁止させている。 
 以上は、1768年12月に首里王府から八重山に派遣された与世山親方が、行政状況を視察し、王府首脳に報告し今後の行政の規範とするため布達した『与世山親方八重山島規模帳』から紹介した。
 その後、八重山に派遣された翁長親方、富川親方の『規模帳』にも同様な取り締まりの報告が見られる。

 密造は刑罰の対象にされた
 役人の業務遂行上、必要と思われる文書を書き写し、取りまとめた『万書付集』を見ると、次のような醸造への厳しい取り締まりを命じている。
 「焼酎(泡盛)を手広く醸造しては、穀物の浪費は言うにおよばず、飲酒社会となる。これは風俗の妨げ、さらには島中の衰微のもとになり、かれこれ、その弊害は少なくない。しっかりと取り締まりをしなくてはならないことなので、これからは石垣四か村の奉公人(役務についている士族)・百姓が取り組んで、一か村に酒屋一軒ずつと定め、酒屋一か所に一龜(活字が出ないのでこの字を当てる)ずつとして、1、2年で酒屋を替えて醸造させ、監督するとともに、醸造の価格を附書のとおり取り締まること。」
 「つけたり。
 (酒の代金など省略)
一、焼酎を密造した者は、酒造道具を取り上げたうえ、10日間の寺入れを申し付けること。
一、各噯(アツカイ、治めること)役人ならびに惣横目(風俗・治安を監視する)・筆者(書記官)・内横目人・小横目人(百姓から選ばれ風俗取り締まりに当たる)たちが村々を分担して検分し、守らない者がいれば、すぐに申し出ること。もし黙認したことが露顕したならば、噯役人ならびに惣横目・筆者・内横目人は5日の寺入りに準じる科米、小横目人は右に準じて牢込めを申し付けるようにすること。
一、離島の村々は、一か村に酒屋一軒ずつ立て、各噯役人・筆者で前条のようなことを厳重に取り締まる。何か必要な時は、その理由を詳しく届けたうえで売り渡し、そのようにして年々醸造高をまとめ、在番・頭へ結果を申し出るようにすること。」 (翁長親方から在番・頭へ)
 このように、密造した者はもちろん、黙認していた役人を含めて、寺入りやそれに準ずる科米、牢込めといった刑罰を科している。


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国境の島・監督が行き届かない面もあった

 監督が行き届かなかった面もあった
 与那国島で、八重山の他の地域と異なるのは、遠海にあるため飢餓や異国船の漂着に対処できるように、食糧の備蓄を求めていることである。
 『翁長親方八重山島規模帳』には次のような記述がある。
 「与那国島は海を遠く隔てているので、貯穀などして飢餓あるいは領内に異国船や他国の船が漂着した時など差支えのないよう取り計らわなくてはならず、以前から仰せ渡されていることでもある」
ところが、備蓄を命じても思い通りにはいかない現実がある。
 
 「しかし百姓らはこの思慮がなく、穀物に余裕があれば、貯えのつもりもなく、ただ食いつくすというが良くない。詰役人らは十分に気を付け、無益な出費はもちろん、日常の消費もずいぶん倹約し、穀物・諸品ともなるべく貯え置き、異常な事態が発生しても差し支えのないよう、取り締まりを厳重に申し渡すこと」
 「無益な出費」を止め「倹約」するよう命じても、「貯え置き」ができないのは、百姓の「思慮がない」まま「ただ食いつくす」からだろうか。それよりも、未納が多いことに示されている通り、重税で貧しい暮らしを強いられていて、貯えに回すような余裕がなかった、というのが主要な原因ではないだろうか。
 
 『与那国島―町史第三巻~歴史編~』の北條芳隆著「与那国のあけぼの」は、「与那国島民に対して徹底した徴税は控えた可能性が高いとみるべき」であるとしている。また「この島への漂流船に対する救済を怠らないよう相応の食糧備蓄」のために「むしろ領海・領域の保全に重点が置かれたものであった可能性すらある」と指摘している。
 すでにのべたように、与那国島が国境の島だから、「領域保全」のため百姓たちへの徹底した徴税を控えたという解釈については、私的には別の立場をとりたい。
 与那国島で「上納は出来高による」といった解釈で上納しないとか、未上納が増加するといった事態となったのは、徹底した徴税を控えたからではなく、与那国島が遠く隔てた離島で、監督が行き届かないことに主な原因があるのではないだろうか。それは『規模帳』でも認めていることだ。王府が「徹底した徴税を控えた」のか、「徴税は徹底したいが行き届かなかった」のかでは、大きな相違がある。
 
 北條氏は、村詰めの役人が石垣島まで渡海して詳細な経過報告をさせるように、と指示するに留まった」と見る。経過報告だけすれば、現実には未納の取り立てをしないというような、いい加減な対策で終わったとはとても思えない。それでは、王府から八重山まで検使が派遣され、監督を行い、対策を布達する意味がない。
 すでに、八重山全体の上納不足と借金滞納などへの対処方針は再三にわたり明確にされている。一人ひとり個別に不足高など詳しく記して、本人と面接して照合し、その結果を申し出るよう厳重な取り締まりを命じているということは、個別に徹底した徴税を行い、その結果まで報告を求めていることの表れではないだろうか。
                      
 動画は、与那国島に派遣された役人と現地妻との別れの悲哀を歌った名曲「与那国ションカネー」(歌は大工哲弘)
 
 実際に、「当時の村番所は税の取り立てと百姓を呼び出して苛める所であった」。与那国島の古老たちは、1885年ごろの納税の有り様をこのように語っていた(池間栄三著『与那国の歴史』)。百姓一人ひとりを厳しく追及した様子がうかがえる。
 ただ、それでもなお、上納不足や借金の滞納が増加するといった現実が解消されるわけではない。そこには、不作、凶作であっても定められた年貢の上納を命じる人頭税の本質がある。もう一面では、遠隔の地として、監督が行き届かないという行政面での脆弱さも依然として解消されない現実があったのではないだろうか。
 
 『翁長親方八重山規模帳』には、行政の不手際について、次のような記述もある。
 「与那国島の詰役が交代する時、引継ぎする前任者は年貢・諸納物の取納にかかわらず、そのため後任の役人は着任後間もなく上納物の段取りがわからず、指示が届きかね、人によっては上納物が不足しても前任者の不手際の故にし、そのままにする者もあった」。役人交代の際の引き継ぎの不手際と無責任さが上納物不足を生み出していたことがうかがえる。
 そこで前任・後任の役人が立会い上納物の収支の照合をするように改めた。しかし、これだと、帰る時期が遅れ、年越しも珍しくない。このため後任者が赴任すれば諸上納物の収受予定を引き継ぎ、両者が田畑を見分し、米粟の位つけをすれば、前役も逗留する必要はなく、早く帰帆しても差し支えないということになった。
 上納米の扱いをめぐって面白いのは、役人の目を盗んで上納を誤魔化すこともあったことだ。役人の中でも、一族の威光で能力があまりなくても派遣されていた者がいた。番所の小使い役で計算に明るい者がいると上納米の計算を誤魔化されていたこともあったという。
  
 また、稲刈りが終わると、上納用として、乾燥した稲束を積み重ね、シラ(稲倉)を作った。稲倉を作る日に、村の世話役達は現場の屋内に立会いの役人を招じて、山海の珍味を供し、女を侍らして大いに歓待しながら、屋外では、斤量を誤魔化して、未納者がないように工夫していた(池間栄三著『与那国の歴史』から)。
監督が行き届かないとか行政の不手際に加え、役人の目を盗んで上納を誤魔化すという抜け目のないやり方も横行していたことがうかがえる。
 監督が徹底しないことにかんして、与那国島は、遠海の地であり「順繰り交代」のため「役人としてふさわしくない者」「高齢の者」が就任するという問題もあったという。これでは、監督指導はいっそう行き届かなくなるだろう。
 与那国島の役人体制について、後からもう一度くわしく検討したい。
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国境の島・与那国島の上納不足への対処

 与那国島の上納不足への対処
 
 与那国島では、上納米の不足にどのように対処していたのだろうか。
 首里王府から八重山に布達された『八重山島規模帳』には、次のような記述がある。
 「与那国島は土地が広く、ことに石垣島と違い御用物ならびに諸雑物手形・人夫立など少ないので、耕作に精を出し年貢・諸上納物を滞りなく納めるよう励むべきところ、百姓らは年貢米の上納は出来高によるものと勘違いし、毎度不作だなどと言って割賦高もまったく差し出さない。従って未進高が増加し、きわめておろそかにしている様子が見えるというので、石原親雲上(ペーチン)の御使者の時に、右のようなことのないよう、耕作に励み年貢や諸上納の不足がないよう納め、もし上納高に足りず未進ができた場合には、所管の百姓の役目一人が津端検者(ツバタケンジャ、港で船の積み降ろし荷を調べる役人)の帰帆船で同行し、経過を詳しく報告するよう仰せ渡されている。そこで油断なく指図し、それでも上納物が不足するならば、百姓の役目が渡海した時詳しく調査し、不都合な事があれば、規則どおりに取り扱うよう厳重に取り締まること」(1858年『翁長親方八重山島規模帳』)

 「もし、上納が調わず未納の際は、くわしく穿鑿(センサク、根掘り葉掘り質すこと)、ふとどきな落度があれば、法のとおり取り扱うよう厳重に取り締まりをすべきこと」(1874年『富川親方八重山島規模帳』)
やはり、未納に際しては厳重な取り締まりを命じている。
   人頭税廃止百年記念の碑
   人頭税廃止百年記念の碑 
 王府時代に、与那国島は単独の間切(いまの町村)ではなく、特別行政区の扱いだった。
 納税は、住民の頭割りで人頭税が課せられていたのに、百姓は「年貢米の上納は出来高による」と勘違いし、「不作」を理由に上納分も差し出さないという理解があったとは、王府にとってゆゆしき事態だろう。離島といっても人頭税は徹底していたはずなのに。しかも豊作、凶作にかかわらず、決められて年貢を納めさせる「定額人頭税」が施行されていた。ここに人頭税の苛烈さがある。
 にもかかわらず、与那国島で「人頭税も出来高による」という都合よい解釈がなぜ横行したのだろうか。遠く海を隔てていた与那国島では、王府の政策が多少曖昧になり、行き届いていなかったとしか考えられない。

  実際に『翁長親方八重山島規模帳』は「与那国島の諸上納物は、毎年首尾(物事の成り行きや結果)書などを差し出すことになっているので、遠海を隔て在番・頭・惣横目(蔵元に配置され、行政全般・風俗・治安を監視する)は現場で指図することもなく、取り締まりに不行届きもあるという」とのべ、指導の不行き届きを認めている。
 上納不足に対して同『規模帳』や『富川親方八重山島規模帳』(1875年3月令達)は、いずれも同じような対策を指示している。

 「割符高ならびに上納が不足している者どもを詳しく個別に記し、惣出高をまとめた上で、古米・新米の積み登せ高・囲み高などくわしく「請払帳」(に記し、それ)を提出させ、勘定し、そして右の帳簿を、翌年に津端検者が持ち下り、百姓ら一人ひとりと照合し、その結果を申し出る決まりを仰せ渡されているので、ゆるがせにならないよう厳重に取り締まるべきこと」
 「与那国島の詰役が交代する際、新任者が渡島すると諸上納物取りつぐないの段取り、その外諸御用関係をくわしく引き継ぎ、そして新任者と前任者が一緒に田畑を検分し、米粟の出来ぐあいを定め、前任者は帰帆すべきこと」
 
 定められた上納ができない者は、一人ひとり個別に不足高など詳しく記して、本人と面接して照合し、その結果を申し出るよう厳重な取り締まりを命じている。これは、単に帳簿に記入しただけで終わりというのではなく、役人が一人ひとり個別に徴税を徹底することを命じたものである。
 上納不足に対しては、先に八重山全体での対処の仕方を見た通り、不足があれば借金をしても納めさせる、借金返済ができなければ家財など売払い納めさせるという徹底した徴税は、遠く離れた与那国島でも例外ではない。そればかりか、借金の利息が通常の2倍の高利が横行していた。

 「与那国島の借穀は二倍の利息を付けるため、すぐに利息がかさみ、家屋敷・牛馬・田畑などを取られ、困窮に至る者もあるといい、あってはならないことである。今後は法定の利息で賃借すること」
『翁長親方八重山島規模帳』は、「二倍の利息」を取るような行き過ぎた徴税を戒めている。高利によって百姓の利息がかさみ、家財を取られ困窮する者が増えれば、先にみたように「村が成り立たなくなる」といった状況に立ち至るからだろう。

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奴隷解放のため闘った英雄ー「鬼谷子」(下)

 中国古代の奴隷制
 次に、中国の奴隷制度はどのように実態にあったのか、奴隷制度はいつまで存続したのか、見ていきたい。
 中国古代の奴隷制は、少なくとも中国の殷代に確立し、この時点で人口の5%が奴隷であったと推定される。殷は、戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、非常に盛んに利用していた。
 商(殷)までは奴隷制社会であったことは定説となっているが、いつまでが奴隷制時代であったかは諸説あり、奴隷制から封建制に変革されたとされる周の易姓革命、ないしは、殷ほどではないにせよ実質的には奴隷が生産力の主力となっていた春秋時代までが奴隷制時代と考えられる範疇として議論されている。いずれにせよ、中原とは文化の異なる民族(蛮夷戎狄)との戦争で捕虜とした奴隷が過酷な労役に就かされたと考えられている。
 中国の奴隷は、「大きな傾向は周より始まり、主人と奴隷との個人的依存関係は弱められ続け、基本的な観点では戦国時代から奴隷制度がなくなりはじめた」(ウィキペディア)。
 この戦国時代には奴隷制がなくなり始めたというから、変法を進める過程で奴隷制もなくなり始めたのだろう。ドラマの背景にはそんな歴史があるだろう。

 変法とは
 このドラマの重要なキーワードは「変法(へんぽう)」である。はじめは馴染めなかったが、重要な意味を持っているので、変法について見ておきたい。
 戦国時代変法として名高いのは、商鞅(しょうおう)の変法である。彼は数奇な運命をたどった人物である。鬼谷子による変法のことは、史料としては見つからない。もしかして、このドラマは、商鞅の変法が下地になっているのではないかと考える。
 商鞅の変法を見てみたい。
 商鞅(紀元前390年―紀元前338年)は、戦国時代国の政治家・将軍・法家・兵家。法家思想を基にの国政改革を進め、後のの天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも軍に攻められ戦死した。
 第一次変法
 紀元前356年、の孝公は、公孫鞅(商鞅)に変法と呼ばれる国政改革を断行させた。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。
 例えば、戸籍を設け、民衆を五戸、十戸で一組に分ける。戦争での功績には爵位を以て報いる。男子は農業、女子は紡績などに励み、成績がよい者は税を免除。一家に二人以上の成人男子がいて分家しない者は、賦税が倍加する。遠縁の宗室や貴族でも、戦功のない者は爵位を降下する。法令を社会規範の要点とする。
 こうした変法も最初は成果が上がらないので、法を破った者は厳罰とした。
 その後、新法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、「変法」は成功を収める。
        変法すすめた商◆像  
          商鞅像
 第二次変法
 紀元前350年、は雍から咸陽へ遷都した。この年に公孫鞅(のちの商鞅)はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。
 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる(野蛮な風習を改める)。全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。井田を廃し田地の区画整理を行う。度量衡の統一など。
 二度の変法によって秦はますます強大になった。功績により公孫鞅は商・於という土地に封ぜられ、商鞅と呼ばれる。商鞅は、強引に変法を断行した事により恨む人間を大量に作った。変法により君主の独裁権が確立されると旧来の貴族の権限が削られていくので商鞅を恨んでいた。
 紀元前338年、孝公が死去すると商鞅は都から逃亡したが、から追放され、封地に帰ったが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。
 秦はそれまでは内陸奥地に起源を持ち、野蛮国と見なされてきた。商鞅により改革され、
秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。
 商鞅より半世紀前、呉起も商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。秦がなどを破り、戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである(ウィキペディアを参考にした)。
 これによると、商鞅の変法は名高いけれど、での呉起による変法は、商鞅より半世紀も前ということになるので、中国での変法の先駆者は呉起ということになるのではないか。
 
 もう一度ドラマに戻る。
 王禅で変法を進める。王禅は諸侯をに呼びつけ、の新法発布に見届け役にした。奴隷解放の撤回はこれで不可能となる。王をねじ伏せ、諸侯を利用し、王禅は民の願いだった変法を孤独な戦いで天下の流れに変えたということで終わる。

 偉人を育成した鬼谷子
 王禅のその後と影響について触れておきたい。
 王禅は長年諸国を遊歴し、最後は山に隠居して鬼谷子を名乗った。
 鬼谷子は縦横家の始祖として龐涓(ほうけん、戦国時代の魏の武将)や孫臏(そんぴん、孫子の兵法で知られる孫武の子孫)だけでなく、歴史に名を残す大勢の偉人を育成した。
 秦の宰相として蘇秦(そしん)の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した張儀(ちょうぎ)、秦以外の国を同盟させ、強国・秦を押さえ込もうと諸国を遊説して合従を成立させた蘇秦、遠交近攻策(遠い国と親しくし近くの国を攻略する)を進言して秦の優勢を決定的なものとした范雎(はんしょ)、仁義と正道による兵法を説いた尉繚(うつりょう)なども弟子である。
 鬼谷子は民を襲う苦難の原因が、分断と戦乱にあると考えていた。
 そのため、太平を得るには中国統一しかないと考える。その思いは弟子に受け継がれ、ついには秦王 嬴政を支え天下統一を現実のものとする。
        王禅    
                                王禅(BS12から) 
  変法と奴隷解放が意味するのは
 ここからは、ドラマを見ての個人的な感想である。
 鬼谷子らによる変法と奴隷解放が重要なテーマとされていることから、「中国共産党の宣伝だ」という意見がある。でも、私にはそうは思えない。
 集まった奴隷、民衆を前に鬼谷子が「奴隷は解放された。もう自由だ。尊厳を取り戻せ」と叫ぶシーンは感動的である。
 このシーンを見た時、もしかして、現在の中国の現実を念頭においているのではないだろうか、との思いが頭をよぎった。
 中国の革命は、当初は社会主義によって人民を搾取と抑圧から解放することをめざしたはずである。だが、現実は社会主義とは無縁の強権支配にある。ウイグル自治区の人権侵害、香港での民主化の声の弾圧などを見ると、民衆は言論、集会、結社、出版などの自由も奪われている。これは、ウイグル自治区や香港だけの問題だろうか。中国でのあの天安門事件や人権派弁護士への人権侵害などをみても、習近平と政府への批判を含む言論の自由と人権が保障されているとはとても言えない。
 つまり、ドラマの奴隷解放の叫びを見ていると、強権的な国政の改革を行ない、自由と人権の確立、人間の尊厳を取り戻したいという民衆の願いが背景にあるのではないか。そんな思いがした。
 独裁的な政権下で、過去の時代を舞台にして、今日的な要求を代弁することは、映画や演劇、芸術の世界ではよくあることだ。
 まあ、自分だけの個人的な意見であるから、的外れかもしれない。でも、奴隷解放を叫び、民衆が歓喜するシーンは感動的であったことは確かである。
 終わり


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