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レキオ島唄アッチャー

奴隷解放のため闘った英雄ー「鬼谷子」(上)

 中国の歴史ドラマでいま見ている「鬼谷子(きこくし)」は、古代の奴隷解放が一つの主題となっているのが意外だった。ギリシャなど古代の奴隷制はよく知られている。だが、中国古代の奴隷制と奴隷解放に尽くした人物がいたことは、まったく想像しなかった。
 主人公の鬼谷子は、必ずしも存在が確定した人物ではない。奴隷は存在しても彼が解放のために尽くしたことは、ドラマとしての創作だろう。だが、紀元前の時代を舞台にしてこんなテーマを盛り込んだドラマというのが面白いし、興味をひく。
  時代は中国の戦国時代。群雄割拠の乱世である。紀元前5世紀からによる統一の紀元前221年までが戦国時代とされる。古代王朝の周が首都を東方に移した東周の末期には、周の権力もなくなり、諸侯が中原の各地に割拠し「王」号を自称していた。
「鬼谷子」という著作は、諸子百家の一つで、中国の戦国時代に鬼谷(鬼谷子)によって書かれたとされる書。遊説の方法について書かれている。
 鬼谷子の「子」は孔子の子と同じ。陳(の地)の人である。専門といえば国際外交のような謀略である。学問というよりは、術のようなものに属していた。『史記』によると、鬼谷は縦横家(※)の蘇(そしん)と張儀(ちょうぎ)の師とされる。でも、鬼谷個人の伝はなく、その実在が疑われている。
 注・戦国時代に、巧みな弁舌と奇抜な発想で諸侯を説き伏せ、国と国を連合させるなどに奔走した策士。合従策の蘇、連衡策の張儀など。
     鬼谷子
                   ドラマ「鬼谷子」(BS12から) 
  奴隷を獲物に見立てて
 ドラマの一回目は、ショッキングなシーンが登場する。
 周王に各国の諸侯が付き従い、狩りが行われている。集められた10人ほどの奴隷たちは野に放たれ獲物とされる。「人間狩り」を行う。
 国の宰相・王錯(おうそ)は、奴隷を解放する「変法」(国政改革)を進め、民に慕われていた。しかし、変法を憎む王侯貴族らに殺され、一族も逆殺された。だが、赤子だった王禅(おうぜん)は侍女鍾萍(しょうへい)に救われ生き延びる。王禅がドラマの主役となる。王禅がのちに鬼谷子を名乗る。
 10年後、王錯の友・史太晧(したいこう)が王禅と鍾萍を尋ねてくる。史太晧は10年の間、探していた。
史太晧は王禅に父の仇を教え、「奴隷解放」の意志を継がせるべきと考えていた。王禅は「英雄となる運命にある」といい、王錯の墓に王禅を連れて行く。史太晧は、これは英雄の墓、奴隷と民の自由を求め殺された男、お前の父だと王禅に教えた。

 ドラマはその後、王禅をめぐる物語が展開されるが、省略する。
 に隣接するでは、元はにいた呉起(ごき)を王が起用する。呉起変法により「貴族の土地を農民に与え農地に、功を立てたものには爵位を、庶民だけでなく奴隷にも、変法により強大な軍を作る」と言う。王は七国の覇主の座を奪い返すため、呉起変法の権利を与える。
 変法は進められない、貴族の妨害に合うからである。王禅は、このまま呉起の変法を放置していれば、戦が起こりは危機に陥る。呉起を殺しての変法を阻むしかない。王禅は王に罷免された形をとり、に入り楚王と呉起にも近づく。
王禅は機会を伺い、仮面をかぶっている呉起を殺す。自分が仮面をつけ呉起になり替わる。そして楚の大王を巧みに騙して変法を認めさせる。そんなストーリーが展開される。

 呉起とはどのような人物か
 ここで興味深いのは呉起である。実在の人物、呉起はどのような人物だろうか。
 軍人、政治家、軍事思想家で、孫武、孫臏と並んで兵家の代表的人物とされる。
 魯の元公の嘉に仕えてその将軍となるが、讒言にあり、魏の文侯のもとに行く。文候は、歴代の君主の中でも1、2を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。
 呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。
 呉起は軍の指揮を執り、を討ち、5つの城を奪った。この功績により西河郡守に任じられ、・韓を牽制した。
     呉起、ウィキペディア
      呉起(ウィキペディアから)
   文侯が死に、子の武候が即位すると呉起を嫌う者が讒言し武侯の懸念は増大。呉起は楚に逃亡した。その際に「武侯様は奸臣の讒言を聞き、私を理解しない。西河はに取られるだろう」と言った。後にその通り、魏は秦に侵略され西河を奪われることになる。
楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され国政改革に乗り出す。法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養った。また領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取った。これらにより富国強兵・王権強化を成し遂げ、楚は南の百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家にした。
 権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられた。悼王が死去すると、反呉起派は呉起を殺害するために宮中に踏み込んだ。逃れられない事を悟ると呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。
呉起の死により改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治へと戻ってしまった。
この半世紀後、呉起と並び称される法家商鞅(しょうおう)が秦で法治主義を確立。結局商鞅も恨みを持つ者たちにより処刑されたが、秦はその後も法は残した。そして王と法の元に一体となった秦は着実に覇業を成し遂げていき、楚も滅ぼしたのとは対象的な結果となっている(ウィキペディアを参考にした)。
 
 ドラマに戻る。呉起を殺して呉起になり替わった王禅は、変法の必要性を大王に巧みに説き、認めさせる。だが、彼の主眼は奴隷解放だった。
 呉起の姿で変法を進める王禅は、城門の上に立ち、広場を埋めた奴隷たち、民衆に向かって、奴隷解放の発布を行った。
「爵位改革、土地を民に、奴隷制の廃止」「楚国の全ての奴隷たちは自由を手にする」「尊厳を取り戻そう」と叫ぶ。感動的な場面であった。
 奴隷解放は認めていない大王の怒りを買う。そんな話になっている。
 この王禅による呉起の殺害や奴隷解放の発布は、それ自体が史実ではなく創作の物語だろう。しかし、この古代の戦国時代に、変法と呼ばれる新しい法律の制定を軸とした国政改革が進められたことは、史実である。

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国境の島・与那国島、上納不足の厳しい取り立て

上納物不足の厳しい取り立て

 八重山では、人頭税の時代、15歳から50歳までの男女は、米や貢布の納税を課せられた。もし、決められた通り納税ができなければどうなるか。
 王府から派遣され八重山を監察した親方(ウェーカタ、士族の最上位)の報告にもとづき、王府が布達した行政の規範となる『八重山島規模(キモ)帳』から見てみたい。

 最初に、1767年に派遣された『与世山親方八重山島規模帳』から見る。
 「上納米が不足した場合は、諸船の積荷にも差し支えるので、やむなく他の村から不足分を補わなければならない。不足分を貸す村へ申し渡し、帳面には過・不足は記さない。次年の上納米の期限前に法定の利息をつけて確かに返済するとの、百姓たちと村役人の証文にその間切(マギリ、現在の町村)の頭(間切の長)が添書をし、補助した村へ届ける。もし、次年に返済できないと困るので、返済は滞りないよう十分に指図すること。

 上納米が不足する百姓は、その時持合せの者から補わせて帳面に記しておくだけである。そのうえ指図もいつとない有り様で、不注意の者はいよいよ怠け、働き者は他人の上納分として無理に取られ、難儀するので貯える気持ちにならず、村が衰微する原因となっているのではなはだ良くない。」

 このように、上納米が不足する村や百姓は、他の村や他の者から利息付きで借りて上納させ、必ず返済させることを命じている。もし返済ができない場合も次のように命じている。
 「今後、上納物不足の者がおれば、法定の利息で了解の上、借り入れさせ、もし返済が無理とわかった者は、五人組が引き取って、すぐに借りた者の家財ならびに身売りをして償いをさせる。村の役人は、その高を詳しく一冊にまとめ、その顛末を毎年、在番・頭の廻村時に直接当人に対面して照合すること。

 前条の上納不足の者たちに身売りさせなければならない時は、五人組と村の主だった者が吟味した上で証文を調え、村役人が添え書きをし、その間切の頭へ申し出て端書(文書の右端に書かれた本文以外の文)を申請する。なるべくその村内へ見売りすること。
 つけたり。不足高の少ないうちに身売りなどを考えるべきであるがそれをせず、いたずらに時を過ごし、不足高がかさむことは、結局、五人組と村役人の不注意である。このような時は、その身体ならびに家財を売り、それでも不足する場合は五人組と村役人が弁償すること。」

 このように、返済できなければ、強制的に家財の売り払い、身売りをさせることを命じている。身売りをしぶり、不足高がかさむのは役人らの不注意だから役人らに弁償させると脅し、返済できない者は躊躇なく家財売払いや身売りを実行するように求めている。
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                 女性は貢布を織らされた

 非法な振る舞いはたしなめる
 1858年に首里王府から八重山に布達された『翁長親方八重山島規模帳』でも、同じような上納の不足の扱いを命じている。八重山では、一七七一年に「明和の大津波」で八重山・宮古諸島で一万二千人にのぼる死者・行方不明者を出した。その後も災害や疫病の流行、大飢餓が相次ぎ八重山で人口は激減する。「八重山の受難時代」と呼ばれた。
 
 上納米の不足は、相当に深刻だったようだ。不足分を借金して納めさせ、借金の返済ができない場合、家財・田畑・牛馬・身売りによる弁償を厳しく求めている。ところが、その一方で、役人による行き過ぎた対応が新たな問題を引き起こしていた。そのため次のような対応を求めている。

 「諸村の若い百姓が年貢を納めない時、担当役員が手荒に扱い、時には自分の上国や役願いなどに差し障るといって、家屋敷、田畑から牛馬まで勝手に売払い年貢に当てるので、逃亡や自害する者があると聞く。その身ひとりの失墜に止まらず村中の疲弊のもとになるがいかがであろうか。今後右のような非法な処置のないよう堅く取り締まること。」
 「右の規則があるからといって、困窮している者どもの上納物が不足していると、軽はずみに家財・田畑・牛馬・身売りなどを申し付けては、だんだん正頭が減り、かえって村が成り立たなくなる。常に村が成り立つよう心得て、困っている者がさらに農業に励み、田畑の少ない者へは村中で必ず不足のないよう与えるか、または持ち過ぎている者が譲り渡す場合は分け隔てなく取り扱い、手入れの行き届かない場所は助力し、年貢・諸上納物に差し支えなく調達できるようにすること。」
 
 1875年3月、首里王府から令達された『富川親方八重山島規模帳』にも、「つけたり」を含めてほぼ同様な記述がある。
 これらをみると、「非法のふるまい」を再三たしなめても、上納不足の際して、家財、田畑、牛馬まで勝手に売払うというが強引な取り立てが続いていたことを示している。役人の過酷な徴税によって、百姓の逃亡や自害する者まで出てきたことは、王府にとっても深刻な事態である。肝心の納税の担い手が減り「かえって村が成り立たなくなる」のでは元も子もないからである。

 上納不足と借金の滞納には、家財売払いまで命じながら、それが行き過ぎたため、人口減少で村の存亡にかかわるというのは、王府による人頭税政策そのものが作り出した矛盾である。

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国境の島・与那国島、徴税はゆるかったのか

 徴税がゆるかったのか

 『与那国島―町史第三巻~歴史編~』の北條芳隆著「与那国のあけぼの」もうひとつの注目したのは、「人頭税時代と呼ばれた近世の段階において、琉球王府と島人との間には、微妙な駆け引きが存在した可能性を示唆する」という指摘である。
この時代の与那国島民は、稲籾と布の納税義務を負い、その他野菜などの現物を村詰めの役人に納め用役に従事することなどが義務づけられていた。伝承にあるとおり、石垣島に駐留する王府側の役人を渡海させ徴税にあたらせたことも古文書類から確認できる。

 「その際に島人は、実際に租税の収奪を回避し台湾島民との交易や交換に投入するという行為に及んだのか、あるいは仮想的な願望を説話に託して語る創作的な物語であったのか、そのどちらが実態であったのかについては、内容の性格上、確かめようがない。人減らしの悲劇を今に伝えるクブラバリ伝説や人升田伝説など、ここに引用した伝承の内容と正反対の伝説が残された事実も考慮すべきであろう」とのべている。
 人頭税のもとでも、米や贅沢品の酒などを貯蔵し、台湾島民との交易もしていたというのは、住民が余剰の農産物を持っていたことがうかがえる。
 与那国島は、「水に比較的恵まれ、田をつくりやすいという、恵まれた自然条件」があった(宮良作著『国境の島 与那国島誌』)という。

 北條氏は、先の伝承が「単に近世琉球王府に対する面従腹背精神の発露」といったものではなく、王府側が「徹底した徴税は控えた可能性が高い」と見ている。
 たとえば、琉球王府側から与那国島に向けて発せられた諸施策の一端を示す『翁長親方八重山島規模帳』には、次のような事例がある。
「与那国島の島民が稲の不作を申し立て、二、三年の年貢の徴収が滞ったことや、その対策として講じられた指示の内容が採録されている。その際、不作で納税が滞るような場合には、村詰めの役人が石垣島まで渡海して詳細な経過報告をさせるように、と指示するに留まった。現実に徴税体制の強化が講じられた形跡は認められないのである。
 徴税が王府側の財政の根幹であれば、本来、こうした租税の未収状態は放置されるべき性格のものではないはずである。しかし現実は異なっていた。要するに琉球王府側も、与那国島民に対して徹底した徴税は控えた可能性が高いとみるべきであり、別の個所ではこの島への漂流船に対する救済を怠らないよう相応の食糧備蓄を、と促す記事もあるので、本島に対する施策のありようは、むしろ領海・領域の保全に重点が置かれたものであった可能性すらある」。

 この点については、はたしてそうなのか、少し疑問がある。与那国島は多良間島と同じように、両先島における特別行政区だったという。他の島とは、多少の相違があるかもしれない。しかし、国境の島といえども、王府の徴税はそんなに甘くない。定額人頭税が行われていた八重山諸島では、不作であっても定められた人頭税は納めなければならない。「不作で納税が滞る」場合は詳細な報告をさせたということは、当然、人頭税が免除されたわけではない。未納分を取り立てるためであろう。
                        クブラバリ
 クブラバリ
 王府時代に不作で納税できなければ、借金をしてでも納める、借金がかさめば家財の売払い、身売り、夜逃げ、債務奴隷(宮古島の名子=ナグ=など)になるといったことが、どこでも起きていた。
池間栄三著『与那国の歴史』は次のようにのべている。
  「人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或は脱島逃亡者を出して、八重山の人口は年々減っていった」。与那国島には、苦痛に耐えかねて、南方にハイ・ドゥナン(南与那国)と言う楽土があると妄信して、その島を求めて脱島したという口碑がある。
 
 役人による不正も横行して百姓を苦しめた。
 「1659年に交付された定額人頭税は役人の私腹を肥やすに最適であった」。人頭税のために八重山の人口は年々減少し、総納税額も減ってきた。そのために人頭に対する定率を廃止、八重山全体を単位とした税額に定め、それを更に人頭に割当てることに改めた。
「国庫の収入は一定したが、無知な百姓は役人の好餌となった。当時の与那国島の役人は石垣島に巣を構えていた士族の出身で独占していたのである。その役人のほとんどが税の負担軽減や免税を種にして、無知な百姓を相手に不正を行い、公然と人権を侵害していたと伝えられる。その役人達の仇名をダマ・ヒルミ(八重山の蟹)と言っていた」
 
 定額人頭税では、王府に納める税額は一定だが、百姓には人頭で税額を割り当てるので、納税人口が増えれば、集まる税額は増えて、役人が不正をしやすかったということだろう。
「当時の村番所は税の取り立てと百姓を呼び出して苛める所であった」ともいう証言もある(前掲書)。とても王府が徴税強化を控えたとは思えない。
 この問題は、別途もう少し検討することとしたい。
 

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国境の島・与那国島、台湾との交流の伝承

 国境の島・与那国島

 興味深い台湾との交流の伝承
 与那国町の発刊した『与那国島―町史第三巻~歴史編~』を読んでいると興味深いところがいくつかあった。町史は「黒潮の衝撃波 西の国境 どぅなんの足跡」の副題が付けられている。
 もっとも興味を引かれたのは、琉球王府から廃藩置県後も残った人頭税時代(一六三七年から一九〇三年まで)に、与那国島に役人が送られてきたとき予想もしない対応についてである。
                  
 北條芳隆著「与那国のあけぼの」は、文化人類学者の安渓游地氏が与那国島に残る人頭税時代の伝承を聞き取ったものとして、採録された全文を紹介している。
  「与那国島の東の端の岬には、島にやってくる船を見張る番人がいつも置かれていて、船を見つけると島の中央にある部落まで早馬を走らせ知らせた。特に石垣島からの役人がやってくるときには大変だった。島には米や酒といった贅沢品を貯蔵する蔵があったが、そこに大量の物資があることを発見されないように急いで隠さなければならなかったからである。狭い島の中に隠しても発見されるので、役人の船が着くまでの短い時間のうちに、かねて準備してある舟にこれらの物資を積み込んで、とりあえず西の洋上にこぎ出すのである。行く先は、与那国島と台湾の中間にある、両島の共通の漁場だった。目的地に着くと与那国島の舟は白い旗と赤い旗を掲げた。白い旗は助けを求めるしるし、赤い旗は緊急を知らせるものだった。
 
  台湾から漁にきた舟がこれを見つけると、いったん台湾に戻って食糧と炊事用具を積み込み、与那国島の舟の救援にかけつけてくれる。天気が悪いときなど台湾の舟と出会て安定させ、それからは毎日、ともに米のご飯を食べ、酒を飲み、言葉は通じないがそれぞれの島の歌と踊りで交流する海上のお祭りが続いた。石垣島からの役人の与那国島訪問が終わるとこの祭りも終わりとなった。台湾の舟との別れにあたって交換した着物を長く記念に保管している家も与那国島にはある」(注1安渓游地「隣り合う島々の交流の記憶―琉球弧の物々交換経済を中心に」)
 以上が島に伝わる伝承である。
 
  北條氏は、この伝承は、おそらく島詰の役人を含めた全島民が、琉球王府側に対する租税や貢納をどう位置づけたのかをよく物語っており、「与那国島の歴史を考える上でまことに示唆深い」。そして、強く印象づけられるのは、「台湾の島民との密接な交流である」という。
  なにしろ台湾島の東海岸と与那国島との距離は、わずか20キロメートルしかない。これは、与那国島から石垣島までの距離と等しい。
                  与那国島地図
さらに本伝承の舞台背景に注目する。「与那国島民と台湾島民の間では、一定の海域が共同の漁場であると相互に了解されており、そこでの遭遇は、交易や交換の絶好の機会でもあった」という。海の上には、国境の壁はない。与那国と台湾の島民は、古くからこうした交流を続けてきたのだろう。

与那国島には、人頭税の過酷さを物語る伝承が残されている。岩の割れ目を妊婦に飛び越えさせて、飛び越えられないものは、割れ目に落ちで死んだ(クブラバリ伝説)。号令をかけて住民を田んぼに集合させ、遅れて入れないものは殺された(人升田伝説)。人口が増えることによって、年貢が重くなることを避けるための人口調節があったという悲しすぎる伝承である。
  これらは、厳密にいえば、確かな史実とはいえないらしい。ただ、そんな伝説が長年にわたり島民のなかで伝えられ、受け継がれてきたということは、人頭税がいかに島民の苦しめたのか、その反映があるだろうか。

 役人が来島する際に、貯蔵物資を舟で積み出したという伝承には、不思議なところがある。貯蔵していた米や酒を役人の目から逃れることだけが目的なら、なにも台湾との中間点まで行って、助けを求める旗を掲げて台湾の舟を呼び寄せる必要はない。わざわざ呼び寄せたのは、舟上でお祭りをするためでもないだろう。貯蔵物資を使って着物など必要な品物と交易をすることが狙いだったのだろうか。舟に積み込んだ物資は、すべて飲み食いと交易に消費したのだろうか。
  もしも、交易が主目的なら、役人が来るときでなくても、他の時期に出て行ってもよさそうなものだ。役人が来るときに、舟で積み出したのは、やはり貯蔵物資の摘発を逃れることが主目的だと思う。物資の一部を交易などに使っても、残りの物資はもう一度与那国島に持ち帰り、貯蔵したのではないだろうか。伝承が持つ意味を考えると、そのように理解するのがもっとも合理的ではないかと思う。
 いずれにしても、この伝承には、台湾に近い与那国島ならではの島民のたくましさ、巧みな知恵の発露があると思う。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その22

  海賊が横行する背景
 最後に、中国で密貿易や海賊が横行した背景について見ておきたい。
 <密貿易に従事する人民の多かった東南沿海地区は、人口の多いわりに耕地が狭く、そのうえ封建地主の収奪や政府の搾取がきびしかったため、生活の苦しい農民・手工業者・小商人などは、海外へ出かけて密貿易することが、大切な生活手段になっていた(「明帝国の成立とアジアの国々」、『大明国と倭寇―海外視点・日本の歴史7』)。>
 海賊のリーダーの生い立ち、海賊になった経過を見ると、親の関係で初めから海賊になった例もある。だが、幼少時代に父母を亡くし、苦労し、困窮や飢餓のなかで海賊に身を投じたとか、海賊集団に襲撃拉致された、海賊鄭一に捕まり、家族全員が拉致されたなど、不幸な家庭環境や貧苦のなかでやむなく海賊になったり、拉致されて入ったなどの例が多い。
 <中国海賊の事蹟は…時の政府に反抗する勢力として、官制の史書に比較的多く記録されてきた。とりわけ明清時代においては海賊の記録は多く残された。これらの海賊の多くは当時の社会矛盾のなかで生活の糧を得る手段として海賊行為を行なったのであるが、海賊側からすれば、帆船を利用して漁師が獲物をとるように自然な最良の方法と見られたのであった。そして、清の海冠蔡牽が沿海航行の海船から一種の商税を徴収し、商税を収めた海船には襲撃を行なわなかったように時には民衆の側においても航海の安全を確保する必要から海賊と密接な関係にあったのであった(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)。>

 真栄平房昭氏は、東アジアの国家の枠を越えた交易のネットワークのなかで、海賊も「陰の主役」だったとして、海賊を生みだした背景について、次のような見解を示している。
 <国家の枠を越えた人間の移動と交易の連鎖がつくりだすネットワークの歴史は、国家が主導する公貿易の世界だけで完結したわけではない。むしろ、公貿易と緊張・対立闘係にあった私貿易(密貿易)の世界、それと深く関わった「海賊」勢力もまた束アジア海域史の舞台に登場した、いわば陰の主役であったといえる。海域に広がる通商・貿易ネットワークを撹乱し、また諸民族の対立や緊張をはらみつつ展開した海賊行為は、それを取り締まる国家の立場からすれば許し難い「不法行為」であった。
 しかし、沿海民の側に視点を反転すると、海賊行為を生み出す要因がその最しい生活環境に深く根ざしていた一面も見落とせない。すなわち、農耕地が乏しく慢性的な食料不足と貧困に悩まされ続けた福建・広東沿海では、伝統的に漁業や交易への指向が強く、飢鐘で逃散した農民が海賊に転化する流動的な状況が根強く存在したのである。
 沿海部の流民・飢民にすれば、生き残りをかけて海に出るしかない。飢謹による沿海民の窮乏化、つまり農村の矛盾が海上に押し出されて海賊を誘発した。海と陸の問題はけっして無関係でなく、むしろ内在的に連動したのである。それは陸上の農民一揆に対し、いわば「海民一揆」というべき性格をもっといえよう(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
    正殿
              焼ける前の首里城正殿 

   最後に松浦氏は、琉球国にとっての最大の倭寇被害は、萬歴37年(1609)3月の薩摩軍による琉球国の侵攻であったと指摘している(『東アジア海域の海賊と琉球』)。
 琉球国は明朝に出した「薩摩侵入の経過と進貢の継続を願う咨文」の中で、薩摩侵攻を「倭乱」と表現し、「(万歴37年)4月初一日に至りて倭寇中山の那覇港に突入す」と記している(『歴代宝案』)。
 狭い意味での倭寇の概念からは少し外れるかもしれないが、琉球にとって倭による災厄と言えば、薩摩による侵攻がもっとも大きな意味を持った。
 そういう意味では、豊臣秀吉朝鮮侵略や日本帝国による朝鮮侵略と併合も、朝鮮側にとっては「倭寇」「倭乱」と名付けられている。
 秀吉朝鮮出兵で7万人ともいわれる朝鮮人が日本へ強制的に連行された。朝鮮の陶工たちもたくさん連行されてきたことが知られる。
 また、日本帝国による朝鮮支配下のもとで、労働者や女性が強制連行されて、鉱山を始め劣悪な職場での強制労働や従軍慰安婦として沖縄を始め海外の戦地にまで配置された歴史がある。倭寇による住民の拉致よりはるかに大規模な掠奪だったといえるだろう。
今日でも、北朝鮮による拉致は、いまなお拉致された日本人は帰国できない状態が続いている。かつて、日本による侵略と掠奪、強制連行があったとしても許されない行為である。
 いかなる国であっても、他国への侵略と掠奪などの蛮行は、決して繰り返してはならない歴史として胸に刻む必要がある。
 終わり

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その21

  清代海賊の頭目
 次に清代海賊の頭目を見ておきたい。

 蔡牽
 清代海賊集団の首領格として名がよく知られた蔡牽(さいけん)がいる。
 福建省同安県西浦郷に生まれで、幼い時、両親を亡くし、親類縁者もなく、苦労した。33歳頃に発生した連年の天災によって困窮し、海賊に身を投じたようである。
 <嘉慶の初めには100余隻の船を保有する海賊となり、彼の妻も勇ましい仲間であった。この蔡牽の海賊集団には朱濆や張保等も加わり、周辺の土盗(陸の盗賊)も呼応する状況であった。蔡牽は配下の者から「大出海」とよばれ、福建広東淅江の3省の沿海地区で被害を受けない地区は無いとまで言われた。…「大出海」とは帆船航海者にとって最大のリーダーを意味したのである((松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>
 <二百余艘を率いて東南沿海地域を掠奪するようになった。その大半は漁民や船夫などの沿海民で、男ばかりでなく婦女子も加わっていた。支援勢力まで含めると最盛期には約2万人を数え、1800(嘉慶5)年には台湾の拠点である鹿耳門を襲い、鹿港を占拠した(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
 19世紀末前後に福建から広東にかけての沿海海域には、多くの海賊が出没したが、特にその最大勢力の海賊は蔡牽だという。

 蔡牽の経済的基盤は何によったのか。
 「沿海航行の海船から商税を徴収していたのである。商税を収めた海船には襲撃を行なわなかったのであった。…海上貿易を行う商人にとって蔡牽等のグループに費用を出すことは、彼らにとって一種の生命保険であり、損害保険であった」(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)。
 清朝は海賊勢力の鎮圧にやっきとなり、福建水師提督李長庚に命じて新型砲艦を建造させ、海賊取り締まりを強化した。
 蔡牽の一派は一度、官軍との海戦に敗れたが、閩淅総督に賄賂を贈って台湾に逃れ、台湾の占拠を計画し城を攻め「鎮海王」を称した。
 蔡牽の討伐を狙った水軍は、蔡牽船団を追跡し、ついに船団を攻撃し四散した。蔡牽の本船を撃沈し、蔡牽と妻は水没したと報告文書には記されている。だが、「追い込まれた蔡牽は自船を爆破し、妻子や部下250名と共に自決した」ともされる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)。

 朱賁
 蔡牽に次ぐ海賊の首領が、福建広東沿海で掠奪をくりかえした朱賁(朱濆とも)である。数十般から百余艘の船団と4000人の配下を従えて「海南王」と称し、蔡牽の一派ともしばしば連合したことで知られる。
 <当時の海賊船のなかでも特に好まれた福建製ジャンクは、30門以上の大砲を搭載した頑丈な船であった。その連合勢力は最盛期には2000艘、そのうち200艘が外洋航海に参加した。これらの船は3、400人乗りで大砲2、30門を搭載でき、インド中国間を航行するイギリス船の規模に匹敵したともいわれる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
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          蓬莱閣の水城、倭寇の襲来への防備(『大明国と倭寇―日本の歴史7』

  林発枝
 琉球国の進貢船を襲撃したリーダーとして林発枝がいる。
 彼は、浙江省温州府平陽懸の出身であり、幼少時代に父母を亡くし、他家に貰われて漁師となり漁撈活動に従事している際に、海賊集団に襲撃拉致されて海賊集団の一員となっていった。その仲間の中で頭角を現し海賊集団の大頭目となったという。
 <林發枝は両親を早くに失い苦労した経験があるものの漁猟活動中に海賊に拉致されその仲間に加わることになったと言う境遇であった。王添喜などの海賊も多くの場合、少年時代に家庭的な不幸が海賊に加わる契機となった事例は多い(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。
 林発枝の名は「琉球之一件」(薩摩藩より状況説明を求められた琉球王府の答申書)にも登場する。この記録には、福建海賊の動向やその統率者に関する興味ある情報が記されている。
 
 <林発枝は福州府長楽県出身の32歳で武勇に勝れ、「海上風雲之行成」を判断する航海・操船の知識に精通し、日頃は五色の旗で飾りたてた「大船」に釆り、酒宴や遊興にふけった。部下たちの人望も篤く「海帝」と称して尊敬されたという。
権力に逆らう海賊は農民一揆の指導者と同じく、支配者から「悪党」の烙印を押されがちである。しかし、海に生きる民の観点からすれば、林発枝らのような指導者のもとに結集した民間勢力は、いわば「海民一揆」的な性格をおびている。
ところで、「林発枝」の活動は日本でも評判となっていた。江南と長崎を往還する中国商船が海賊一味に狙われたからである。本草学者の佐藤成裕が著した日本側の記録によると、1795(寛政七)年ごろから淅江沿海では海賊の動きが活発化し、商船を襲った。その「大将」たる林発枝は「海上の王」と称し、手下は四千人に達したという(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
 林発枝の一味が、淅江省温州府平陽県の近海で琉球船を襲った事件についても「琉球之一件」は言及している。
 <往年の春、琉球の貢船、福州を発して海上に至て賊船に逢ひ、皆賊せられて琉球に帰る事ならずして、また福州に来りて、福州より送られ帰ると云。余、親しく見る一舟子、足の脛を鳥銃にて打貫かれたるあり。皆大に驚て此の難をのがれたり。
琉球の進貢船が帰国の途中、海賊に襲われて福州に再び引き返したのである。そのとき鍛砲で足を負傷した水夫がいたという話は、具体的で生々しい。
 清の官憲は、海賊の首領「林発枝」を指名手配し、「番銭(洋銀)三千文」という多額の懸賞金をかけた。また「手下之大将」たちにもランクに応じて賞金をかけ、町の七つの城門や役所の壁などに手配書を張り出したことが記録にみえる(同書)>。

 張初郎
 張初郎の本籍地は福建省漳州府の漳浦縣であり、彼は幼少の頃に養育されるべき親を失ったかして放蕩の身となった。その後も放蕩仲間との関係からか海賊行為を行なうようになっていったようである。
 張初郎も嘉慶年間の大海盗の蔡牽の場合と同様に、幼少期に扶養者が亡くなり、出奔して置き去りにされたかなどの理由で、孤独の身で生活の糧を得られる術を求めて海賊仲間に合流していったことが知られる。 
 <これらの海賊達が琉球国の進貢船のような大型船を襲撃する際には、上記の史料にも見られるように多くの海賊集団と徒党を組んで襲撃していたことが知られる。この方法は、琉球の進貢船に限られたことではなく、新調の官米を輸送する船舶を襲撃した場合も同様であることから、一般に徒党を組んで襲撃する方法を取っていたことは明らかで、単独行動は極めて稀であったかと思われる。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。

 郭婆帯
 郭婆帯は広州府番禺県の人で、漁労活動で生活していた。15歳の頃に、海賊盗首鄭一によって家族全員が拉致され、鄭一の郎党と共に海賊行為を重ねていた。鄭一船団の一頭領となって商船を襲撃する生活を重ねていた。
 次第に海賊行為に嫌気がさし清への投降を考えるようになった。海賊仲間計479名を投降させた。投降に反対する張保仔の船団との戦闘で1000余人を溺死させ、300余名を生け捕りにした。他に投降する意志を持っていた集団とともに清に投降した。投降は合わせて5578人、婦女子は800余名、船舶は113隻、砲門は500余門にのぼった。
 彼は読書好きで、多くの書籍を蒐集して、海賊船に蓄書していた。「稀有な海賊であった」という。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』から要約)

 張保仔
 広東省新会江門の漁師の子。15歳の時に父親と漁をしていたところ、海賊鄭一に捕まり、配下に加えられた。頭角をあらわし一頭目となった。鄭一が死ぬとその妻石氏が海賊集団を分割し、一部を張保仔に委ねた。石氏は西洋人からチン夫人と知られた女海賊であった。
 張保仔は厳しい規律をつくり略奪した貨物は帳簿に記録し、私有を許さず、2割を分け前として分与し、8割は全体のものとして倉庫に保管された。襲撃した村落で婦女を掠奪することは許さなかった。
 商船を襲撃し勢力は強くなった。船は270隻、砲門は1000余門、部下は14000余人とも見られた。海賊船は清官憲の兵船を遙かに上回り、官憲を困らせた。
 商船や漁船が航行中に海賊に遭遇した際に、予め海賊に上納金を支払った証明書を見せれば危険がなかった。この納入金は海賊達にとって略奪以外の重要な財源の一部となった。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』から要約)
 <大変貧しい家の出であった張保仔は貧乏人には食料や金品を与え、子分には貧乏人からの略奪を禁じるなどした事から、庶民からは貧しい人を救済した義賊として人気があった。
 1810年、両広総督の百齢の海賊鎮圧策の前に降伏。海賊組織は解散させられたが、張保仔は武官として取り立てられ、1822年に没している。(ウィキペディア)>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その20

 海賊集団のリーダー群像
 倭寇や海賊集団の中には、名前がよく知られた首領格がいる。人物群像のなかから何人かを取り上げる。

 日本に逃れた倭寇の頭目・王直
 王直(注・おうちょく)は、現在の安徽省黄山市に生まれた。任侠の徒であったと言われ、青年の時に塩商を手がけるが失敗。明が海禁政策を行うなか葉宗満らと禁制品を商う密貿易に従事した。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、李光頭の配下として東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易して日本人との信任を得る(ウィキペディア)。
 <嘉靖19年(天文9、1540)に明朝の海禁政策がやや緩和された時期に、王直は同郷の仲間葉宗満等とともに広東に赴き、同地で大型海船を造船し、硫黄や絲綿などの当時輸出禁止であった貨物を積載して日本や暹羅(注・シャム)などの海外諸国に貿易に赴いたとされる。このような状況を5,6年続けているうちに、巨額の富を蓄財して外国人からは大いに信頼され、こののち王直は五峯船主と呼称されるようになったとされる(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。
 嘉靖26年(1547)淅江巡撫に任命された朱紈(注・しゅがん※)は、密貿易の取り締まりを強めた。
 王直らは密貿易をしていたものの、人命に損傷を加えたり、掠奪をおもな目的とする海賊ではなかった。この後、掠奪をともなう「海賊集団に変質していった」(松浦氏)。

 王直は、倭寇取り締まりを逃れて、日本の五島や平戸にも来ていた。
 <度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に招かれて1542年に平戸に移った。地方官憲や郷紳(注・地方の実力者)らと通じ、養子や甥の王汝賢らを幹部に密貿易を拡大。 明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、明の嘉靖32年(1553年)5月に37隻を率いて太倉、江陰、乍浦等を寇し、同年8月に金山衛、崇明に侵入した(ウィキペディア)>。
 注・朱紈は中国,明の海禁政策を強行した官僚。蘇州長洲県(江蘇省)の人。諸官を歴任し,1547年(嘉靖26)浙江巡撫に任じられると鋭意倭寇の取締りに当たり,海禁の実をあげた。しかし密貿易により重利を得ていた沿海地方の有力者はそれを行過ぎとし,中央の高官に画策して彼を弾劾させた。彼はこれに抗議し毒をあおいで憤死した(世界大百科事典第2版から要約)。
 朱紈の死後、倭寇の取締りは一時的に弱まった。 
 
 <1556年に王直は自分は倭寇ではないので恩赦を受けたいと願い出ており、その際に海禁政策の解除と自らの管理下での自由貿易を願い出た。しかし、明の倭寇の取り締まりは厳しくなり、1557年に王直は官位をちらつかされて、舟山列島の港に入港。明の中でも王直の処分については、意見が分かれたが、1559年12月に王直は捕らえられ、処刑された(「歴史キングダム」から)。>
 王直が処刑されて、その配下にあった三千人の大部分が壊滅したが、全滅はしていなかった。一部は明軍の攻撃から逃れたと見られる。
 <嘉靖37年(1558)と38年(1559)の二年間に倭寇が頻繁に温州に侵入していたことについては、当時倭寇の頭領であった王直が明王朝に捕らわれ、嘉靖38年(1559)に処刑されたからであることが知られる。王直が誅殺され、倭寇の集団を統率できる実力者がいなくなったことで、その残党が反乱を起こし、温州にも大きな影響をもたらした。王直が逮捕され処刑されたことが、倭寇が温州を頻繁に襲撃することを促したと推察される。また、地理的な要因から見れば、温州付近の沿海に散在している島々が基地として倭寇に使われていたことは明白である(呉 征濤著「嘉靖年間の温州における倭寇」)>。
 王直が倭寇のなかでどれほどの影響力を持っていたのかがうかがえる。

 王直は、種子島の鉄砲伝来にも関わりがあるという。
 <王直は…1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外国船のなかの乗員の1人であり、五峰(ごほう)先生とよばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋(あっせん)をしたりしたらしい。(日本大百科全書(ニッポニカ) >

 倭賊を糾合した徐海
 王直につぐ倭寇の頭目に徐海(じょかい)がいる。
 <1551年に日本に渡来し、叔父の徐惟学が大隅の某領主から数万両の銀を借りたときの人質となって、大隅にひき留められていた。中華僧として尊信をあつめた彼は、翌年大船を修理し、倭人を誘って烈港の密貿易に参加した。しかし、このときははからずも王直との間に不和となる事件が発生し、大隅に引き揚げてからは、王直に対立する別の勢力として活動した。嘉靖33年から34年、35年にかけ連年にわたり、倭人を誘って中国沿海地に出没し、大陸沿岸の柘林(しやりん)・乍浦(さほ)を前進基地にして、しきりに江蘇・淅江の諸州県を襲撃した。
 
 叔父の戦死の報に接した徐海は、その仇を報ずるために嘉靖35年(1556)3月、大隅の新五郎(辛五郎)と結び、種子島・薩摩・日向・和泉などの倭賊を糾合し、総勢5、6万人、船1000余艘でもって報復行動に出た。しかし途中で暴風雨にあい、徐海は2万人余りの部衆を引きつれ上陸した。…4月以後の桐郷県城の攻防戦で、淅直総督胡宗憲のたくみな離間策にかかり、各頭目は互いに疑心を強めて孤立し、…相次いで捕えられ、…徐海も同年8月24日、平湖県沈家荘で縛につき、淅江・江蘇を騒がせた諸海冠はことごとく討伐された。
 
 これら海冠の頭目は、前進基地を中国沿海地に設けて、その本拠地は日本におき、日本人を率いているところから倭寇とよばれているが、その構成人員は、大部分が中国人であって、真の倭はせいぜい1,2割にすぎなかった。(佐久間重男著「15~16世紀の大倭寇」、『大明国と倭寇―海外視点・日本の歴史』)>
    鄭成功の像
      鄭成功
 平戸で生まれた鄭成功
 日本の平戸で生まれ、近松門左衛門が題材として「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)を戯曲化してよく知られるのが、鄭成功(ていせいこう)である。
 <鄭成功は中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年平戸で生まれました。母マツが千里ヶ浜で貝拾いの時、にわかに産気づき千里ヶ浜の大石(千里ヶ浜の児誕石)にもたれて鄭成功は生まれたと伝えられています。

 父・芝龍は平戸老一官と称し、数千名の配下をもつ海商船団の頭領でしたが、後に明朝の招きに応じて帰順し明朝に仕えることになりました。その後鄭成功も7歳の時、芝龍の招きにより単身渡海すると、15歳で南京大学に入り学び、21歳の時には明王・隆武から明の皇帝の姓である「朱」を称することを許され、朱成功の名を賜ることになります(松浦史料博物館)。>
 明朝に仕えた父とその子成功は、その後まったく逆の道を歩むことになる。
 <満州民族が清を建て、明が滅びると、1646年に父の芝龍は明の抵抗運動に将来はないと清に降伏し、母は安平城で自殺した。成功は、「抗清復明」の抵抗を続けた。48年には日本に援兵を請う使者を送ったが、江戸幕府はこれを黙殺した。
 
 成功は、厦門(アモイ)、金門の両島に根拠を置き、10年間にわたり、福建、広東、浙江の沿海を経略し、さらに日本、ルソン、交趾(こうち、ベトナム北部)、シャム(タイ)や南洋方面と貿易して勢力を蓄えた。
 1653年には福建省海澄で清軍を破って延平郡王に封ぜられた。58年と翌59年に北伐軍を編成して、南京城を包囲した。しかし、内応と奇襲にあって厦門に退いた。
 1661年、清は福建、広東など沿海の5省に遷界令(せんかいれい)を実施した。沿海の住民を30里奥地に強制移住させ、沿海部を無人状態にしたという。
 <このころ大陸の敗兵で台湾に渡った者は2万人を超え、成功は台湾を攻略して基地にすることを決意した。同年2万5000の兵で台湾に行き、オランダ人が拠っていたゼーランディア城を落とし、台湾を占領してその経営にあたった。成功はさらにルソン島招諭の計画をたてたが果たすことなく、62年5月8日(陽暦6月23日)台湾で病死した。(田中健夫、「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」)>
 
 鄭成功は、台湾でいまも英雄視されている。「松浦史料博物館」では「平戸で生まれたアジアの英雄」と紹介している。
 鄭成功はこの経歴だけでは、琉球と関わりがないように見える。だが、彼の息子の配下によって、琉求船が襲撃されたことがある。
 <康熙12年(1673)3月に琉球から福建省に向かった琉球の朝貢船が…閩江河口を五虎門を目指していたところ浙江省の定海から来た賊船13艘の海賊に襲撃された。死者5名、負傷者24名の被害を受けた。この琉球船を襲撃したのは、台湾に拠った鄭錦舎即ち鄭成功の息子鄭経の配下である蕭啓の船であった。琉球船はこれより前の康熙9年(1670)とこの時と二度にわたって蕭啓の船によって襲撃されている。蕭啓等が狙ったのはもちろん琉球船の積み荷であることは歴然である。康熙9年の際は朝貢船2隻で「硫黄1萬2600斤、馬10疋、海螺穀参千個」等を積載していた。台湾の鄭氏にとって琉球船の積荷の火薬の材料となる硫黄は喉から手が出るほど渇望する物であったことは明らかであろう(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)

 倭寇の頭目たちのなかでは、取り締まりを逃れて日本に来たり、日本で生まれた者もいる。日本を拠点にし、日本の商人らとつながりをもち、倭人、倭賊を結集するなど日本との関わりは強い。時代によって倭寇の構成メンバーが日本人中心から中国人が多数になるという変化はあるが、倭寇という存在自体が、文字どおり日本起点の海賊であるから、中国人の頭目も日本との深い関わりがあるのであろう。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その19

 封舟が襲われた背景
 琉球へ冊封するために清朝から派遣された封舟も海賊から逃れられなかった。その理由として、松浦氏は次のように指摘している。
<福州から那覇への往路、那覇から福州への帰路には海盗の出没する頻度が極めて高い海域を航行しなければならなかったためである。
 ことに往航・帰航の中間点にほぼ位置する浙江省東南沿岸に浮かぶ島嶼部は海賊の住み家とする地点とも重なっていたことと無関係ではない。…清朝が入関まもなく台湾の鄭成功及び鄭氏勢力を孤立させるための遷界令(※)の施行以来、永らく統治から忘れ去られていた一帯の一つでもあった。そのため官憲の眼が行き届かない地域となっていたのであろう。陸地における各省に隣接して官憲の目から逃れやすい地と同様に官憲の眼が届かない地であったのである。
  それらの海域や島嶼部を根拠地として、嘉慶期の大海盗である蔡牽などを輩出することになったのである(同書)>。
 注・遷界令とは清王朝が実施した住民の強制移住政策のこと。

 47年間に60隻襲われる
 清前期には清朝と台湾鄭成功氏とが東シナ海・台湾海峡・南シナ海を介して海上抗争を繰り返していた。しかし康熙22年(1683)に台湾鄭氏が清に下ると、同海域は清朝の制圧下に置かれることになる。ところが、清朝の海上制圧力が軟化すると海上海賊・海盗が跋扈することになった。
 <乾隆18年(1753)より嘉慶4年(1799)までの47年間に淅江・福建海域において海賊・海盗船に襲撃された例は60を数える。…
 海盗による被害を受けた海域は淅江沿海が大部分を占めている。この海域で3隻、江南・江蘇船が2隻となり、被害を受けた全船舶に占める各船籍別による割合は福建船が65%を占め、淅江船が27%、廣東船が5%、江南・江蘇船が3%となり、その比率からも明らかなように福建船が群を抜いている(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)>。

 太平天国の情勢と海賊
 アヘン戦争終結後の、西洋列強の外圧が琉球にも押し寄せてくるようになった。
以下、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)からの要約である。
当時、沿海の治安は悪くなる一方で、欧米商船もしばしば海賊に狙われたので、イギリス海軍は砲艦の威力をバックに警備体制を強化したが、外国船を狙う海賊が絶えなかった。
 1850年代には太平天国の乱によって、治安はますます悪化の一途をたどった。
 1853年には琉球の護送船2隻、接貢船1隻が海賊船団に襲われる事件があった。
 11月3日、福州近海の「南關・北關之沖」を接貢船航行中、海賊船6隻が突然姿を現し、大砲・鉄砲などで攻撃、海賊が琉球船に乗り込み、「上荷物・身廻荷・着物」等を掠奪した。さらに翌日にも別の賊船3隻に追跡されたが、順風に乗って逃げ切り、定海に入港した。翌日閩安鎮から来た警備の役人に、海賊の様子や被害状況などを説明した。
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              石垣島にある唐人墓
 護送船2隻も五虎門で海賊から砲撃を受けて船を乗っ取られた。「用心銀」や「身廻荷物」、簪(注・カンザシ)や着物まで奪い取られた。
 護送船は、琉球の石垣島に漂着したロバート・パウン号(※)の中国人苦力らを送還する船だった。
 注・1852年、中国のアモイで集められて400人余りの労働者「苦力」(クーリー)は米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、あまりの暴行、虐待に耐え切れず決起して船長ら7人を打殺した。船は石垣島の崎枝沖で座礁し、380人が下船した。米英兵船が3回来島し、武装兵が上陸して捜索。中国人たちは銃撃や逮捕され、自殺者も出た。このとき琉球王府と八重山の政庁・蔵元は人道的に対応し、島民も同情して密かに食糧などを運び渡したという。交渉の結果、生存者172人を琉球の船で福建省に送還した。石垣島には唐人墓がある。

 護送船の船頭の従者として同乗した、那覇東村の大嶺筑登之親雲上が海賊に遭遇した状況を、次のように記録している。
 <私どもの船が錠海(福州府連江県の定海)に到着したところ、数隻の海賊船が接近し攻撃してきました。何とか防いでいましたが、ついに乗り込まれ、銀や個人の荷物、衣類、簪などを奪われてしまいました。海賊はいったん引き揚げるかに見えましたが、もう一度乗り込んできて錠の縄を切り落とし、勝手に船を動かしました。翌日、「銀をすべて差し出せ、隠しておくと船を焼き払うぞ」などといろいろ脅迫してきたので、護送船の乗組員は物陰に逃げ隠れました。終いには海賊たちが船頭を取り囲んでい交渉しましたが、言葉が通じないことに苛立って船頭を斬ろうとしたまさにそのとき、中国語に通じていた大嶺は、自分の主人が危機に瀕しているのを見て、覚悟を決めて飛び出していきました。大嶺は「あるだけの銀と品物はすべて渡しましょう」と持ちかけ、所持していた小判金二百六十両と品物を運んできて海賊に渡しました。ほかには銀も品物も一切ないことを強調したので、海賊は納得して引き揚げ、危難を切り抜けました(真栄平房昭論文)。>
 
 この海賊事件について王府の『球陽』に、「該賊、その勢力の微弱なるを見て、二隻に飛上り、防船の軍器及び公私の銀両・大小貨物・簪子・衣服・咨文(注・琉球の外交文書の一つ)等の項を掠奪す。その一隻帯ぶる所の咨文は、情を講じて取り回す」と記されている。咨文は後に回収した。
 福州五虎門の近海で海賊に襲われた琉球船3隻は、約7カ月後、翌年の6月3日にようやく那覇へ帰港した。

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