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レキオ島唄アッチャー

「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その4

 権勢を持った関隴集団
 北魏の時代は、各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、軍政を行なわせ、防衛を行っていた。他の鎮は廃止されたが、武川鎮など六つの鎮は残された。北魏の漢化政策が進むにつれ六鎮の地位も下落し、不満を抱く者たちが反乱を起こす(六鎮の乱)。六鎮の乱は収められたが、軍閥の割拠状態となる。この戦乱を勝ち抜いた懐朔鎮出身の高歓と武川鎮出身の宇文泰がそれぞれ皇帝を擁立し、北魏は高歓の東魏と宇文泰の西魏に分裂した。宇文泰は武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めた。西魏の支配地は現在の陝西省と甘粛省であったので、このことから武川鎮軍閥のことを関隴(かんろう)集団(関隴貴族集団)とも呼んでいる。関は関中(陝西省)のことで、隴は隴西(ろうせい、甘粛省南東部)のことである(ウィキペディアを要約した)。
      ドラマ「武則天」
       武則天と高宗(ドラマ「武則天」画面から)
  北周末期より貴族化が進み、軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、これ以降は関隴集団と呼びかえる。
 「隋演義」を見ていた時、関隴集団が王朝で大きな勢力を持っているのを見て、よく分からなかった。どういう集団でなぜ力を持っているのか気になっていた。
 楊堅が建てた隋の支配者集団は関隴系であり、関隴集団内では複雑な姻戚関係が結ばれていた。を建てた李淵は独孤信の娘、曼陀を母としており、いわば関隴系の中で最上級の血縁を持っていた。
 でも支配者集団は変わらずに関隴系であり続け、初の主要な地位を持った者たちには関隴系の者が多数を占めている。政権を握った関隴貴族集団は、自らの地位を確固たるものとするために貴族制の再編に取り組む。一等にの皇族の李氏、二等に独孤氏・竇氏・長孫氏の外戚を就け、関隴系こそが最高の家格であると「公認」させた。
 この関隴貴族集団の支配体制が覆される契機となったのは、武則天による科挙出身者の登用である。太宗死後、関隴系の領袖といえる長孫無忌が高宗を擁して専権を振るい、反対者を排除していた。武則天は高宗を自らの美貌で籠絡することにより、長孫無忌を追い落とした。
 
 武則天自身も関隴系の出身ではあるのだが、主流には遠かった。そこで武則天は権力を掌握するに当たって、関隴系が政権を握っていることに不満を持つ層を味方につけた。その中には性質の悪い者もかなりいたが、科挙出身者の能力がある者が武則天の周りに集まった。
 科挙は既に隋代から行われていたが、関隴系が支配する宮廷では、科挙出身者たちは高位の役職につけないことが多かった。武則天はそれらの者を積極的に登用し、自らの政権を固めていった。その後の玄宗の即位により、関隴体制が再び復活することになる。
 その後の安史の乱・牛李の党争などにより貴族の優位性が崩れ、科挙官僚の進出が目立つことになる。その後の黄巣の乱(中国語版)により、は大幅に国力を消耗し、関隴集団も姿を消すことになる(ウィキペディアから要約した)。
 三姉妹のことから大分、話が反れた。でも、三姉妹とも関隴集団の独孤信の娘であり、北周から隋、唐の3人の皇帝の皇后となり、関隴集団が隋、唐の政治の上で大きな影響力を持ったという点では、無関係というわけでもない。
6世紀から7世紀にかけてのこの時代の攻防に、このような「独孤の天下」と呼ばれるような背景や経緯があったことは、知らなかった。ドラマの原題は「独孤天下」という。この題の方がドラマのテーマにふさわしい。
 「独孤加羅」を通して、南北朝時代から隋、唐にかけての中国史を知るうえでも、とても興味深いドラマだった。
 終わり

追記
 ドラマは楊堅がいよいよ実権を握る局面になったが、武帝の後を継いだ宣帝は、まったく愚かで酷い皇帝のように描かれている。
 それにしても、北周の英明な武帝の息子にしても、隋朝を建てた楊堅の息子、楊勇、ましてや楊広・後の煬帝にしても、楊堅と伽羅の子とは思えない愚かで女好きで酷い皇帝だったと描かれている。なぜ、北周にしても隋にしても、後継ぎ皇帝はそろってこんな人物だったのか、と不思議に思える。
 だが、隋にしても唐にしても、姻戚関係にありながら前の皇帝の座を奪い取ったので、それを正当化するために、史書では愚かで酷い皇帝だった描き出したのではないか。一面的な皇帝像がつくられたのではないか。
 これは琉球王朝でも第一尚氏の第7代尚徳王は、金丸のクーデターで倒されて、第二尚氏がうち建てられたので、これを正当化するために、尚徳は酷い国王だったと史書に描かれた。実際の尚徳とはかけ離れている。これと同じことかも知れない。
 歴史的な人物の実像を見るためには、こうした面を割り引きしてみていくことが必要だろうと改めて思った。
 終わり
 




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「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その3

 隋を建国した楊堅
 楊堅の政治についてみておきたい。
 楊堅は都を大興城(後の長安)とした。そして後梁や陳を滅ぼして、中国全土を統一した。西晋の滅亡以来、約300年にわたり続く乱世に終わらせた。
 内政では、「開皇律令を公布、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けた。さらに貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとした。また、仏教の興隆にも尽力し、その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられた」(ウィキペディア)。
  
 皇太子に立てていた楊勇は、奢侈で多くの側妾をもち、正妃を疎かにしたため、廃嫡された。次男の楊広(後の煬帝)が代わって太子に立てられた。楊堅は病の床についている時、楊広が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたこと聞き、怒って廃嫡しようとして逆に殺されたという説がある。ドラマ「隋唐演義」は、この説で描かれていた。
 だが、即位した煬帝は、奢侈な生活に女好みだった。大運河の建設、高句麗遠征を繰り返し、民衆に負担を強いる圧政に不満が広がり、各地で反隋の反乱が起きた。
     
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        伽羅と結婚した楊堅(テレビ画面から)

 曼陀の子が隋を滅ぼす
 反乱を起こした勢力の中に、李淵がいた。太原留守であった。挙兵すると、煬帝の留守中の都、大興城を陥落させた。
 煬帝を太上皇帝に 祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立てた。江南にいた煬帝が殺害されると、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位し、唐を建国した。唐公国の称号を持っていたことから「唐」を名乗った。

 ドラマでは、曼陀は伽羅を嫉み、陥れる策略を巡らせたと描かれている。実際の歴史でも、曼陀と伽羅の姉妹を母親とする李淵と楊広は従兄弟である。その李淵が煬帝を打倒し、叔父にあたる楊堅が打ち立てた隋を滅ぼしたのである。姉妹の因縁がこんな形で現れたともいえる。
 
 唐を建国した時点では、まだ中国の各地に挙兵した群雄が割拠していたが、李淵の次子李世民が討ち滅ぼしていった。皇太子は、李淵の長男、李建成だった。だが、李建成が追い落とし図ったことを事前に察知した李世民は、李建成と弟の李元吉を殺害し実権を握った。
 李淵が退位すると、李世民が第2代の皇帝となった。血にまみれた皇帝即位だったが、李世民は、名君として知られ、その政治は「貞観の治」として名高い。その治世について書かれた『貞観政要』は、広く日本や朝鮮でまで帝王学の教科書として読まれた。李世民は、北周の宇文泰の外曽孫にあたり、北周の歴代皇帝とは血縁関係にある。
 皇帝の後継を巡っては、兄弟間での争いは珍しくない。このあたりは既にドラマ「隋唐演義」で見た。その時はまだ、南北朝時代の歴史はよく分からず、南北朝時代から隋、唐を巡る攻防に、こんなつながりがあるとは知らなかった。ましてや、独孤家の三姉妹のからみがあるとは、まったく想像できなかった。
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              アシナ公主と結婚した武帝(テレビ画面から)

 突厥を巡る政略結婚
 北周から隋、唐の時代に活躍し権力を握った人々のルーツを見ると、匈奴や突厥、鮮卑系など辺境の地出身者が多い。宇文泰の祖先は匈奴系だが、彼は代郡武川鎮(現在の内モンゴル)の生まれで鮮卑の人だという。独孤信は突厥系である。李淵の一族は、実際は鮮卑系の出自で「中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」とか「武川鎮出身で鮮卑国粋主義復興の風潮が強かったから、元は漢人だったのが鮮卑化した」といった説が主流である(ウィキペディアから)。
  匈奴は5世紀まで中央ユーラシア東部に一大勢力をもち遊牧国家を築いた。突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在しテュルコ系遊牧国家。鮮卑は遊牧騎馬民族で南北朝時代には南下して北魏を建てた。

 ドラマ「独孤加羅」の中で、交戦中の北周と北斉が突厥を味方につけようと、それぞれアシナ公主(阿史那)との政略結婚を企てる。危険な任務を担う勅使となった楊堅が突厥王を訪ねるが、王はすでに北斉と手を組んでいて、楊堅は捕らわれるシーンがあった。突厥とは対立関係にあると思っていた北周が、突厥のアシナ公主と政略結婚を求めるということが、不思議だった。
 アシナ公主は、突厥の木汗可汗(ぼくかんかがん、可汗は王号)の娘だった。西魏の宇文泰は東魏や北斉と争うため、突厥の援助を借りた。北周の武帝が即位すると、北周と突厥の間に数回の使者の往来があり、彼女が武帝の許に嫁ぐことが決められた。北周から120人が迎えに赴いた。婚姻を約束していた木汗可汗は履行しようとしなかった。たまたま落雷と大風が起って、ゲル(家屋)を突風で吹き飛ばしたため、天の譴責出ると考え、礼をもって彼女を送り出した。皇后に立てられた(ウィキペディア)。

 これが、北周の武帝の正室、阿史那皇后である。武帝の長男、宇文贇(うぶんいん)が即位すると皇太后になった。鮮卑系国家・北周と突厥の同盟のため、武帝に嫁いだとされ、政略結婚だった。
 ただ、武帝の跡を継ぐ宇文贇は、阿史那皇后との子どもではない。ドラマでは、宇文贇は側室との子どもで、それをアシナ皇后が育てることになる。
 側室とは、西魏が梁の都・江陵を攻め落ちした時連行された李蛾姿(りがし)。父の宇文泰は、彼女を宇文邕の側室にした。美しかった彼女は宇文邕に寵愛され、宣帝・宇文贇と漢王・宇文賛を生む。宇文賛は、楊堅が皇帝の座を奪うと処刑されることになる。
 
 なぜ、皇后がいるのに、側室の子どもを皇太子にしたのか。ドラマで武帝は「突厥との子どもを皇帝にするわけにはいかない」と語るシーンがある。
 <武帝は突厥出身の彼女を好きではなくそっけない態度でした。同盟のための形だけの皇后でした。北周と突厥の関係を心配した臣下たちは宇文邕を諫めたので、阿史那氏を大事にするになったといいます。(「中国韓国の歴史ドラマの史実」から)>
 この時代の政略結婚としては、逆に、北周から突厥に嫁ぐこともあった。隋代には、義成公主のことが知られている。
 突厥の啓民可汗(けいみんかがん)は、597年安義公主を娶った。その安義公主が亡くなったため、楊堅は、義成公主を啓民河汗に嫁がせた。啓民可汗が亡くなると、レビラト婚に基づいてその子の始畢可汗(しひつかがん)に嫁いだ。
 
 <ある日、始畢可汗が隋を遠征しようと計画をした際に、彼女はひそかに煬帝に使者を派遣して、このことを知らせた。後に始畢可汗が逝去すると、その弟の処羅可汗(しょらかがん)に嫁いだのである。処羅可汗が逝去するとその弟の頡利可汗(けつりかがん)の妻となり、可汗夫人として地位を保った。…
 やがて、李淵が中原を制覇して、唐の時代を迎えると彼女はこれに不快感を示した。同時に煬帝の皇后であった蕭皇后が孫の楊政道と突厥に逃れると、彼女はこれを受け容れた。以後、彼女は夫の頡利可汗を唆して、唐と幾度も争った(ウィキペディア)。>
 突厥王に嫁いでも、隋の出自という立場は変わらず、貫いたようだ。
 ここで、レビラト婚について触れておく。父兄が死んだとき、子弟が妻妾をそのまま娶る習俗が「レビラト婚」である。匈奴やモンゴル族などユーラシアの遊牧民の間では、そういう習俗があった。ドラマ「武則天」でも似たようなことがあった。太宗の側室だった武則天が、太宗が死ぬと太宗の子である李治、後の高宗と結婚し皇后となる。中国でも、漢民族から見れば不道徳のように見えるけれど、隋や唐の皇帝の出自から見ると、違和感はなかったのだろう。
 続きは次回へ
 
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「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その2

 宇文一門から皇帝を奪った楊堅
 楊堅について、見ておきたい。北周の大将軍、楊忠の息子である。
<578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国(官職)・大司馬(官名)となって権力を振るった。…580年5月、揚州総管となるが、宣帝が死去したため、楊堅は静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。6月以降、尉遅迥(うっちけい)・司馬消難(しばしょうなん)・王謙(おうけん)らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・王に上った(ウィキペディア)。>
 楊堅の長女、楊麗華は北周の皇太子、宇文贇(うぶんいん)の皇太子妃となった。

 宇文贇は、皇太子の資質を疑問視される存在だった。武帝の教育は厳しく、杖で殴打するほどだった。武帝が亡くなると「ようやく死んだか」と叫んだといわれる。即位し宣帝となると、叔父の斉王宇文憲を無実の罪で処刑した。武帝時代の旧臣を粛清した。鞭打ちの罰を好み、後宮の紀妃さえ鞭の跡が残るほどだったとされる。悪評ばかりではなかった。武帝が仏教や道教を弾圧したが、これを緩めたという。一年足らずで、譲位し、579年7歳の長男が即位し静帝となった。
 翌581年2月、楊堅は静帝から禅譲させて皇帝に即位し、王朝を開いた。後には静帝を初めとする北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにした。
 朝の名前は、楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことが由来となった。
 ドラマでは、麗華は宇文護と独孤般若の子としているが、史実では、楊堅と伽羅の長女だから、「独孤の天下」は、三姉妹だけでなく、伽羅の娘も皇后になっている。独孤一門から4人が皇后になったことになる。
 楊堅は、伽羅の姉、般若が嫁ぎ、娘の麗華も嫁いだ姻戚関係にもある皇族、宇文氏一門から帝位を奪い取った。宇文邕が死んでわずか3年後のこと。宇文邕の男子や男の孫は皆殺しにされたという。帝位をめぐる争いは冷酷なものである。

 もう一度、伽羅に戻る。
 <楊堅が朝政を見るとき、皇后は宮官に皇帝の判断を報告させ、過失がある場合には遠慮なく諫めた。皇后の従兄弟の崔長仁が法を犯して斬罪となったとき、楊堅は皇后に遠慮して一命を許そうとした。しかし皇后は「国家のことは私に遠慮してはいけません」と言って崔長仁を法の通り処断させた。皇后の異母弟の独孤陀が猫鬼・巫蠱をもって皇后を呪詛したことがあった。皇后は3日断食し、「陀が政治をゆがめて民を害したのならば何も言いません。しかしわたし一身のことですので、あえて許していただきたい」と楊堅に言った。このため独孤陀は死一等を減じられた。このように皇后は政治に関わったので、宮中では楊堅と並んで「二聖」と称された(ウィキペディア)>。
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          独孤伽羅(テレビ画面から)

 曼陀の子李淵がを倒す
 曼陀は、隴西(ろうせい)郡公の李昞(りへい)に嫁いだ。隴西郡は現在の甘粛省。西に新疆ウイグル自治区、北は内モンゴルと接する。かなれの遠隔地であった。ドラマでは、はじめ独孤家の娘は、伽羅が李澄と、曼陀が楊堅と結婚することになっていたが、曼陀が楊堅からの贈り物が見劣りすることで、李澄に乗り替えようとする。彼の寝所に忍び込んだが、そこで寝ていたのは父親の李昞だった。こんなすったもんだのあげく李昞と結婚することになる。
 李昞は、北周建国の際、功労があったとして李氏に贈られた「唐国公」の称号を受け継いでいた。
 ドラマでは、曼陀は自分の生む子を後継者にしたいので、李昞の長男李澄が後継者になるのを妨げるために策略を巡らせる。ドラマでは、ついに李澄を殺させる。曼陀は子どもを産む。それが自分の子であることを認めない李昞に無理矢理認めさせる。徹底して悪女に描かれている。曼陀は商売で金を儲けて、私兵まで持っていたという。
 独孤三姉妹は、いずれも政治的な感覚も鋭いものがあったようだ。


 李昞の4男で、曼陀との間に生まれた李淵(りえん)が跡を継いだ。この李淵がのちに唐を建国するが、この段階ではとても予想できないことである。
 「年老いて病となるが、性格が気難しく、李家の夫人たちはみな恐れて介護しようとしなかった。李淵の妻の竇夫人(竇皇后、とうこうごう)だけがつつましく独孤氏に孝事して、自分の着替えもせずに付き添った」(ウィキペディア)。曼陀には、こんなエピソードがあるらしい。
 李淵が後に唐を建国すると、曼陀は元貞皇后の諡号を贈られた。曼陀は、本来は皇太后になる立場だが、李淵は父の李昞を世祖元帝とし、母の曼陀を皇后として追尊した。
 李淵がの文帝(楊堅)の信任を得るきっかけとなったのは、独孤皇后(伽羅)が李淵の叔母にあたることによるという。文帝は、自分の死後、この李淵によって朝が倒されることになるとは、夢にも思わなかっただろう。

 皇帝でも一夫一妻を貫いた伽羅
 <皇后(伽羅)は読書を好み、古今の知識に通じた。生活は倹約を重んじて華美なものを好まなかった。また情愛深くもあり、大理が囚人に判決を下すたびに涙を流したり、また北周の阿史那皇后の菩提のために寺を建てさせたりもした。
 一方で嫉妬深くもあり、楊堅が後宮に他の女性を迎えることを許さなかった。しかしそれが悲運な女性である場合などは、容認するケースもあった。陳の後主の妹・宣華夫人などはその例である。また、結婚の時に自分以外の女に子を生ませぬよう、夫に約束させている。
 尉遅迥の孫娘を楊堅が寵愛したことを知ると、皇后はこの娘を密かに殺させた。楊堅は嘆き怒って、単騎で宮中を飛び出し、山谷の間に入った。高熲(こうけい)・楊素(ようそ)らが皇帝を追いかけて諫めると、楊堅は「わたしは貴くも天子になったのに、自由がない」と嘆息した。このとき高熲が「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と言った。楊堅は少し気が治まって、夜中に宮中に帰還した。皇后は泣いて高熲らに感謝した。しかし、のちに皇后は高熲が「一婦人」と言ったことを知り、また高熲の夫人の死後に側妾が高熲の子を産んだことを知ると、高熲を憎むようになった。
 皇后は諸王や朝士が側妾に子を産ませることを許さず、そうした者がいると必ず楊堅に勧めて排斥させた。皇太子の楊勇は色好みで、ときに太子妃の元氏が突然死したのを、皇后は太子の愛妾の雲氏が殺害したものと思いこんだ。このため皇后は高熲を追い落とし、楊勇を廃嫡して次男の楊広(煬帝)を太子に立てさせた(ウィキペディア)。>

 皇后伽羅は厳格に一夫一妻制を貫いたことで知られる。夫、楊堅だけでなく、側近まで側室に子を産ませることを許さなかったとは、長い中国皇帝に歴史でもほかにないのではないか。
 伽羅は楊堅よりかなれ年下のはずだが、このエピソードを読むと、楊堅を抑えるほどの力を持ち、政治にも相当関与したようだ。「二聖」とまで呼ばれていたとは、驚きである。
 独孤家の女性が強かったというだけでなく、6世紀のこの時代の女性は、皇后はただ皇帝に従属するだけでなく、強い発言力を持つ存在だったのだろうか。
 というのも、後の唐代には、武則天という女帝まで生みだした。日本でも、6世紀末から7世紀にかけて、飛鳥時代は女性が活躍し、女帝が次々誕生したことで知られる。

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「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ、その1

 「独孤伽羅―皇后の願い」の面白さ

中国の歴史ドラマをいくつか見てきて、いまはまっているのが、「独孤伽羅―皇后の願い」である。以前に「隋唐演義」を見ていたのが、このドラマは、隋による統一の前、南北朝の時代から始まるので興味があった。主役の独孤伽羅(どっこから)の夫、楊堅(ようけん)が、のちに隋を建国する歴史的な人物である。
 隋の前の時代は、ほとんど何も知らなかった。それに、皇后となった伽羅は、それまで皇帝は多数の側室をもつのが当たり前だったけれど、伽羅はそれを許さなかたことで有名である。同じ伽羅を描いた「独孤皇后」もあったが、放送が終了した。伽羅といっても、日本ではあまり知られていないが、中国ではとても人気のある存在のようだ。
 ドラマは、南北朝時代の末期、6世紀の北周が舞台。独孤家の長女の般若(はんじゃく)、次女の曼陀(ばんた)、三女の伽羅の三姉妹を軸に展開される。歴史ドラマでありながら、複雑な恋愛関係や姉妹の相克がからんだ愛憎の物語でもある。
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                     テレビ画面から
独孤の天下」とは
 三姉妹の父親、独孤信(本名は如願)は、ルーツは中国の西魏の匈奴系。武川鎮軍閥の重鎮だった。かつて占いによる予言で、「帝星はいまだ明けず、独孤の天下となる」と出たことがあった。長女の般若は、この予言を実現することを使命としており、嫁いだ男を絶対に皇帝にすると高言する。実際に、般若北周の皇帝、宇文毓(明帝、うぶんいく)の皇后となる。伽羅は隋を建てた楊氏、曼陀は息子が唐を建てた李氏に嫁いでいる。予言通りである。
 鮮卑系の政治家に宇文泰(うぶんたい)がいる。西魏で執政の座にあり、北周の基礎を作った。三男で嫡長子の宇文覚(孝閔帝、うぶんかく)が、周公に封じられ北周を建てた。ただ、実権は従兄の宇文護(うぶんご)が補佐の形をとりながら専横した。宇文覚は宇文護の暗殺を謀るが、事前に計画が漏えいし、本人と重臣らは殺害された。この宇文護と恋仲だったのが独孤信の長女般若である。

 宇文護は先君の兄の宇文毓(明帝)を擁立した。般若はこの宇文毓に嫁いで皇后となる。ドラマでは伽羅を救うため宇文護と寝て、密かに宇文護の子どもを生む。それが麗華である。実際には、伽羅の子であったようだ。
 ドラマでは般若が皇帝以上に采配をふるい、皇帝は無能だったと描いている。だが、実際には明帝はなかなか見識があり、度量も優れていたので、宇文護が後難を恐れて毒殺した。般若は明帝のあとを追うように死去する。三姉妹が揃って皇后になる「独孤の天下」を見ることはできなかった。
 次に擁立されたのは弟の宇文邕(武帝、うぶんよう)であった。ドラマでは、伽羅を愛するが、結ばれない。これはあくまでドラマのこと。武帝も明晰な人物だったが、宇文護を恐れて自分では何も決められない無能な皇帝を演じた。それで油断した宇文護は、武帝の罠にはまって殺された。宇文護派は宮廷から一掃された。
 武帝は北斉を攻め、領土を拡大した。遠征途中で死去した。息子の宣帝は政治をないがしろにした。後で見るけれど、この後、楊堅が権力を握ることになる。
 
 次に伽羅を見てみたい。ドラマは、まだ隋の建国まで至っていないので、伽羅の全体像は見えていない。まだ美化されたような姿しか見えない。その実像を知りたい。
 <伽羅は北周の大司馬独孤信の七女として生まれた。母は崔氏。独孤信は楊堅を見込んで娘を嫁がせた。ときに14歳であった。580年、北周の宣帝が亡くなると、楊堅は禁中にあって国政を統轄した。伽羅は李円通を通じて「獣に乗っているときは、下りることはできません。しっかり勉めなさい」と楊堅に伝えさせた。581年、楊堅が帝位につき、隋を建てると、伽羅は皇后に立てられた(ウィキペディア)。>
 続きは次回へ


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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その18

 船の武装強化など対策打ち出す
 「艇盗の乱」の影響を蒙ることになった琉球王府は、船の武装強化をはかるとともに、対策を打ち出した。
 <『球陽」尚温王7(嘉慶6)年候によると、「本年、中華の海辺は多く賊船有り。今番、国使を接回するの船隻、旧例の人数を以てしては、賊を防ぐこと能はず。是れに由りて、才府1名・脇筆者1名・五主格の者12人を加添す」とある。すなわち海賊封策として、進貢・接貢船の搭乗員を新たに12名増員し、防備の強化をはかったのである。
 こうした海賊の跳梁に不安をつのらせた福建の地方官は、嘉慶14(1809)年琉球へ渡海を予定していた冊封船の航路を危ぶみ、護送の兵士100人の増員を提案した。久米村の『鄭氏家譜』に、「当分、蔡氏・朱氏之海賊致横行候儀ニ付、今般冊封頭号船二号船、為護迭商船壹艘、先例より相重兵百人乗付琉球江可差遣候」と記される。この「察(注・蔡)氏・朱氏」とは、すなわち蔡牽・朱賁の海賊一味を指しており、琉球でも警戒していた状況が知られる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>。
 
 中国の冊封船も襲われた。
 琉球の国王認証のため、皇帝から派遣された冊封使の船も襲撃の対象だった。
 <1663(康熙2)年、康熙帝から琉球へ派遣された冊封使・張学礼は航海の途中、海賊と遭遇した。同年6月7日封舟が福建の海口を出て白洋に到ったところ、賊船1隻が現れた。これに対し、封舟の護迭をつとめる武官鄭洪は、部下の兵士たちを指揮し、大砲で賊船を打ち破り百余人を殺したという(『使琉球紀』)。
 一行は福州へ帰る途中、再び海賊に狙われた。康熙2年11月23日、淅江省寧波の定海、普陀山沖で賊船4隻と遭遇した際、封舟はすでに暴風で主帆柱(メインマスト)を失った状態であった。通事の謝必振らが言うには、「わが方の船は、帆も帆柱もありませんので、風をうけて敵と戦うことなどは全くできないのですが、いかがいたしましょうか」とたずねた。これに対し張学礼は、「何もしないで待っていることはない。すぐに各官に命じて、船内の各責任者を指揮し、兵員に弓矢・鉄砲・手槍で武装させ、その圧船石を持ち出して貯え、攻撃に備えよ」と命じた。「圧船石」とは船の安定を保つため船底に積んだバラスト用の石だが、これを甲板に運び上げ、敵に投げつける作戦である。

 そのとき幸いにも、にわかに雲霧がたちこめ、船をつつんだ。しばらくして霧が晴れると、賊船の姿は見えなくなっていた。その晩、福建の福寧に着くと、「この辺りはみな海賊の巣なので近づいてはなりません」という。夕暮れ時、遠くの島に火の光が見えかくれし、帆柱が林立しているのを見たが、用心して近づかなかった。翌日ようやく船は五虎門に到着した。
 17世紀後半、台湾を拠点に反清闘争を続ける鄭氏(注・鄭成功)一派の船団は、さかんに海賊活動を行った。明の復興をめざす鄭氏の政治的立場からすれば、清に朝貢を続ける琉球船は「敵方」とみなされたため、これを待ち伏せて襲撃したのである。
幕府は、西国大名に対する海防の強化とあわせて海賊取り締まりの強化を巌命した。その後、大陸沿岸における海賊の動きは鎮静化のきざしを見せたが、18世紀後竿から19世紀初めにかけて再び猛威をふるうことになる(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」(特集 アジア東方海域の近世)。>

 冊封使を襲った事例として、嘉靖5年(1556)に李鼎元副使として乗船した封舟を襲撃した海賊が知られる。
 <琉球国王尚穆の逝去によって孫の尚温を襲爵させるために翰林院修撰の趙文楷を正使として、内閣中書の李鼎元を副使として冊封に派遣することが決められた。
 封舟が浙江省東南沿海の南麑付近に来た時、霧がはれて船員達は喜び、数十隻の船が見えたので、迎えの護衛船だとして喜んだ。海賊船であることが明らかとなった。
         冊封儀式
    冊封使儀式の再現(2009年、首里城)   
    李鼎元は兵士に海賊船が300歩まで近づかない内は砲撃してはならないこと、80歩まで近づかない内は射撃してはならないこと、40歩まで近づかない内は矢を射てははらないことなどを命じた。そして、海賊船16隻が大声をあげ襲来してきたのであった。海賊船の1隻が300歩以内に来たので砲撃して4名を倒した。さらに100歩以内に来たので銃撃して6名を倒したため、海賊船は退却した。2隻目の海賊船が300歩以内に近づいたので砲撃して5名を倒した。さらに砲撃して4名を倒したので退却した。ところが3隻目の海賊船が風上に移動したので、封舟の砲門を舵の右舷側に打ち移し、連続して砲撃し、12名を死亡させ、主帆柱を炎上させたのであった。そうする内に、海賊船の中の、おそらく海賊の首領が搭乗していると思われる大型船が風上から攻めてきたのであった。そこで舵工に封舟を横に並ばせるようにして大砲を発射して海賊船に命中させた。硝煙の煙が一円にたちこめ、しばらく様子がわからない状態であった。煙が消えると海賊船は全て退却していたのであった(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』)。>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その17

  海賊に団結して立ち向かう
 海賊に遭遇した琉球船の乗組員が団結して立ち向かい、報償をもらった事例もある。
 <乾隆60年6月、琉球の進貢船が福州へ渡航した際、すでに多数の「海賊」が出没するなかで商船の「五虎門出入」は途絶え、そのため福州は海上封鎖に近い状態に陥っていた。閩安鎮・水師管・遊撃陣など海防官筋からの情報によると、五虎門から竿塘(馬組島)近海はとりわけ危険な海域であった。中国人海賊のほか「番賊」(外国人)も参加した6、70艘の「賊船」が、竿塘に群集し、進貢船の「帰帆」を待ち受けていた。つまり、海賊船団が琉球船の帰りを狙って五虎門沖で待ち伏せていたのである。
 そこで福建の海防当局は、「賊人退治」が終了した後に護迭するから、2、3日出帆をさしひかえるよう命じた。5月22日に官船が竿塘に出撃し、賊船6艘のうち一般を拿捕したが、5艘は取り逃がした。6月2日琉球の進貢船・接貢船・楷船はようやく五虎門を出航したが、そのとき官船53艘が竿塘まで護迭にあたる物々しい警戒ぶりであった(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)。>

 1796(嘉慶元)年、今度は福州行きの接貢船が襲われたが、乗組員たちは防戦につとめ危難を免れた。帰国の翌年、友寄筑登之親雲上が王府に提出した「言上寫」から、以下のような記事を引用している。
 <卯秋走接貢船、去年(嘉慶元年)唐土近く乗掛り候砌、賊船に逢い候慮、船中一統制力を蓋くして相防ぎ、賊人四人鉄砲にて射倒し、乗組の内手負これなく無難にて、那覇川へ乗戻候。御褒美として、才府以下佐事・加子共へ御国元(薩摩)より御米拝領仰せ付けられ候。
 海賊と遭遇した接貢船の乗組員たちは、一致団結して防戦につとめ、賊4名を鉄砲で撃ち倒し、無事に帰還した。このとき海賊の襲撃に敢然と立ち向かった乗組員の奮闘ぶりに対し、薩摩藩から報償米が給されたのである。これは琉球人のいわゆる「唐旅」の任務が、それだけ命がけだったことを逆に示すものである(同書)。>
    
 右の接貢船は、淅江省温州湾の東南海域を航行していた。この船には、当時28歳の小渡里之子親雲上(院世楽)という久米村出身の若者が乗っており、読書習礼のため福州に赴く途中、海賊に遭遇したのである。4月20日、那覇を出帆した接貢船は4月28日、温州沖の「北杞外洋」で一時停泊し、翌朝碇をあげ出帆の準備をしていた。そこへ7隻の賊船が急に姿をあらわした。琉球船と海賊との戦闘について、『阮氏家譜』は、次のように記している。
 <(嘉慶元年4月、1795)28日初更、北杞外洋に駛到し椗を抛つ。29日黎明椗を起こし、まさに駿行するの問、但だ船7隻の急に本船に向って駛せ来るを見るのみ。船上、皆、思えらく、兵船の来りて護るならんと。即刻、撃を擧げ、あしたくれ琉球船隻たるを通知す。はからずも彼の船、共に皆刀を抜き砲を放ち攻打、早(あした)より晩(くれ)に至るまで本船を囲繞して去らず。方(はじ)めて彼の船7隻は、すなわち賊船なるを知る。擧船の人数(乗員一同)、刀を奮い捍守し、或者は大砲を放ち、或者は小砲を放ち、各々軍器を持ちて動ぜず。数十次囲繞すと雖も、然かも員伴・水梢等、性命を惜しまず、火確(注・手投げ弾)をもって賊船に投げ、又、大砲・小砲を放つ。まさに相い戦うの間、大砲を放ち賊船にあたること再三次、只だ海賊4人砲にあたり、たちどころに倒るを見る。(琉球)船上、傷を受くる者無く、但だ本船の外面及び檣(帆柱)・蓬・桁・槓椇等、砲にあたるの痕有るのみ(同書)。>
  冊封使の琉球へ來る航路
          冊封使の琉球への航路(「『台海使槎録』の釣魚台は冊封使航路の尖閣諸島の魚釣島」から)
 <つまり、こちらへ接近してくる船団を見て琉球側はてっきり清の護送船だと思いこみ、「琉球船」だと名乗りをあげた。ところが、実は海賊だったのである。刀を振りかざし砲撃してきたのでそれと気づき、急いで戦闘準備を整えたのである。
 さらに、琉球の接貢船が巳午(南南東)に航路を転じると、賊船7隻は西へ去った。
 いったん帰国し、再び渡海すべし、と決まった。
 5月5日、那覇に帰港した接貢船は海賊に備えて武器を増強し、また左右の船べりを二尺ほど高くして防壁を補強し、同年10月2日、福州に向けて再び出港した。島影が見えると、乗組員たちは武器を手に厳重な警戒体制をとった。
 琉球船が「羅湖」の近くにさしかかったところ、賊船5隻に取り固まれ、大砲や鉄砲による攻撃をうけた。これに封し琉球側も応戦し、数回にわたり賊船に弾が命中した。荒波のため賊船は近づくことができず、琉球船はようやく難を逃れた10月14日夕刻定海に入港し、一行は22日福州柔遠駅に到着した(同書)。>

 民間船に及んだ海賊行為
 「艇盗の乱」における海賊活動は、琉球船の航海にも多大な影響を及ぼした。その影響は、琉球の民間船にも及んでいた。
 <前年、琉球国泊村の五端帆馬艦船(船頭佐久川ほか乗員21名)が八重山で年貢を積みこみ、那覇へ戻る途中で中国に漂流した。その際、賊船3隻から砲撃をうけ、海賊60余名が琉球船に飛び乗って来た。これに驚愕した琉球人(翁長)は足をすべらせ海中に転落死し、また桃林寺住持の弟子(僧走中) 1名が捕虜となった。やがて解放された琉球人たちは淅江省温州府にたどり着いた。海賊に襲われた琉球人一行は、積荷や衣類、簪まで奪われ、「乱髪異様」の風体であったため、温州府役人から安南海賊とまちがえられたのである。しかし、ようやく疑いは晴れ、福州へ護送された。>
 以上は、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点(特集 アジア東方海域の近世)」から。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その16

  猛威をふるった艇盗の乱
 18世紀後半から19世紀初め、乾隆年間の末から嘉慶中期にかけて白蓮教徒の乱が起こり、海上では「艇盗の乱(ていとうのらん)」が猛威をふるった。
 「艇盗の乱」とは、18世紀末からほぼ20年間にわたり中国東南の浙江、福建広東の海上および沿岸を舞台に行われた海賊の反乱行動のこと。

 以下、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」からの要約である。
 <「艇盗の乱」の背景には頻発する凶作と飢餓があり、とくに東南沿海農村では困窮した多くの飢民・流民が海賊に身を投じ、民間商船や官の穀物輸送船などを襲う事件が続発していた。
 福建淅江の沿海における海賊事件をみると、1753(乾隆18)年から1799(嘉慶4)年までの47年間に60件の記録がある。海賊の被害に遭ったのは福建船が39隻と最も多く、全船舶の65パーセントを占めることが指摘されている。なお、海賊は船の積み荷を奪い取るだけでなく、身代金めあてに人質を連れ去ることもあった。たとえば、福建省海澄県の商船(船戸会徳合)は、1795(乾隆60)年5月に淅江省で海産物を購入した際、象山県三岳の外洋で賊船4隻に襲われ、乗員1名が拉致された。
 
 福建で地方官を歴任した陳盛韶の『問俗録』によると、福建沿岸には船着場が多く、風や波を避けることができるので、海賊が出没しやすい。こうした島々や入り江を本拠として、海賊が多く発生する。「北は淅江省から南は広東省まで、海賊が掠奪の機会をねらっており、多くは内海に沿って行動する。しかも、海に流れこむ細流が非常に多いので、魚介類の種類が豊富である。匪民(不法の民)は魚介類を獲ると称して管業許可証を受けとる。彼らは、利益があがれば漁業を行い、利盆があがらなくなると海賊行為をする」という。>
 このように漁民はときに応じて海賊に転化し、官民の馴れ合いがそれを容認していた。また、台湾沿岸でも海賊事件が日常的に発生したが、これはひとえに水師の責任であり、掠奪事件の実地調査・報告が遅れるのは地方官の責任であると、陳盛韶はきびしく指摘している。
 1794(乾隆59)年、淅江・福建・広東の各省では海賊対策の一環として、水師兵50名・千総一員を淅江定海の五奎山に駐留させ、沿海の巡哨を強化したが、海賊はいっこうに衰えず、数十隻の大船団を組み、官米輸送船を公然と襲うこともあった。

 生活苦が海賊を誘発
 こうした状況のもとで琉球船もやはり海賊に狙われたことを如実に示す興味深い史料があるとして、真栄平氏は「琉球之一件」と題する史料を紹介し、海賊の実態を具体的に明らかにしている。
 「琉球之一件」は、「艇盗の乱」が猛威をふるう同時代の状況が生々しく反映された一次史料である。
 1796(嘉慶元、寛政8年)年7月、「唐海賊相流布候次第」について薩摩藩より叙状況説明を求められた琉球王府の答申書として、神山親雲上(ぺーちん)ほか4人の連名で藩に提出されたこの文書は、福建沿海における海賊の発生について、次のように記している。
 <去々年・去年福州其外近国大凶年ニ而、買物甚高直ニ相成り、世上極々難儀、夫故去々秋之比より海賊差越、諸国往来之船段々相劫、至当年者猶又乱増、福寧・温州・興化・広東・厦門之洋面ニ賊船余多致横行、閒々粮米運送之官船をも相劫シ、且海辺之村々江乗寄せ、容姿美麗之女子又者兵具等奪取、段々世上之妨ニ相成申候由。

 乾隆59年(去々年)から翌60年に打ち続く大凶作によって商品価格が高騰し、「世上極々難儀」という深刻な事態を招いたことがわかる。そのため苦境に陥った民衆が諸国往来の船や官米輸送船を襲い、沿海地域から女性や武器などを掠め取った。
 つまり、凶作による生活難がこうした海賊行為を誘発したのである。
 沿海部の流民・飢民にすれば生き残りをかけて海に出るしかない。農業不振による沿海民の窮乏化、つまり農村問題が海上に押し出されるかたちで「海賊」が横行したのである。海と陸の社会現象はけっして無関係でなく、むしろ内在的に連動していたと言えよう。(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)>
 
 次に、1795(乾隆60)年、淅江省温州府近海で発生した海賊事件について、具体的に検討したい(表1事例№3)。
 <「琉球之一件」によると、琉球船が「南龍と申す外山」で潮待ちのため停泊していたところ、5月3日早朝に「賊船」10艘が姿をあらわした。うち2艘の約7、80人が「太刀」をふりかざして琉球船に乗りこみ、積荷のほか銀の簪や衣類などを奪った。さらに船を乗っ取ろうとしたが、兵船数十艘が接近して来るのを見て海賊たちは慌てて本船に引き返し、現場から逃げ去ったという。「高宗実録」乾隆60年(注・1795)7月壬午條の記事によると、これらの「盗匪」は大胆で恐れを知らず、武器をもって官米輸迭船を襲い、また同じ一味が「琉球貨船」を掠奪したという(同書)。>

 海賊に掠奪された琉球船の主な貨物は、別表の通りである。
 「昆布・乾しナマコ・鰹節といった海産物が積み荷の大半を占めており、いずれも中国向けの交易品で海賊にとっては換金性の高い獲物であった。なお、附表に示した物品は主に個人貨物であるが、防護鎗20本・大小腰刀4本など海賊の襲撃に備えて携行した武具類が含まれていることに注意したい」(同書)。
 説明〈表2) 乾隆60年海賊に掠奪された琉球船の主な貨物。史料:『歴代宝案』第2集 巻83(真栄平氏著書から)
    海賊5
 
 1795(乾隆60)年琉球船が淅江省の温州府に漂着した際、海賊に狙われる事件があった。その詳しい経緯について、「琉球之一件」(原文省略)は次のように記している。
 <琉球と薩摩を往復する「楷船」が薩摩へ向かう途中、暴風に遭い温州府平陽県に漂着した。外洋で「賊船五艘」に取り囲まれて危難に陥ったが、たまたま巡航した警備の兵船のおかげで海賊船は「逃走」し、助かったのである。海賊の跳梁で海上交通に支障をきたし、翌年3月、ようやく琉球船は福州に送り届けられたが、五十艘もの官船が護衛にあたるなど物々しい警戒ぶりであった(同書)>。
        付表(海産物以外の被掠奪品)
      海賊4  
                         真栄平氏著書から
 このように、中国沿海の治安が悪化した乾隆60年、琉球国内の租税を運ぶ春立地船(乗員48名)が那覇から八重山へ帰る途中に漂流し、広東で海賊に襲われる事件が起こった(表1事例№4)。

 <「琉球之一件」及び『中山世譜』巻10の関係史料によると、琉球船は広東澳門の近海で賊船2隻に乗っ取られ、15、6歳の少年1名(西表仁屋)が拉致された。
 残る乗員はようやく澳門にたどり着き、現地の役所に保護されたが、そこで天然痘に感染して30名が死亡。生存者17名は福州へ護送されたが、さらに8名が琉球館で病死した。これは、海賊と流行病のダブルパンチを蒙った不運なケースである(同書)。>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その15

  海賊対策と武装強化
 琉球王府は海賊問題にどのように対応したのであろうか。
 真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」から見てみる。
 そこで琉球船の防備体制にとって障害となったのが、日本の17世紀初め、幕府法令が薩摩藩を通じて琉球にも適用された結果、渡唐船は「刀・脇差・武具類」の搭載をいっさい禁じられた。
 <そのため、海賊に襲われた場合、いわば非武装の琉球船は抵抗できない状況に置かれた。海賊が出没する危険な海域を無防備のままで航行せざるを得なかったのである。その後、多数の死傷者が出た17世紀半ばの明清動乱期には一定の武装が許され、薩摩藩から貸与された鉄砲や刀剣などを搭載するようになった。つまり、琉球に適用されていた幕藩制国家の武器輸出禁令は、危険が差し迫った海賊対策のために事実上、緩和されたのである。
 
 朝貢船は比較的高価な貨物を積んでいるため、格好の標的として狙われやすい。海賊の手口は、琉球船の航路にあたる閩江入り口の五虎門、あるいは近くの島陰で待ち伏せ、漁船や商船を装って接近し、油断した隙に武器を手に乗り込み、積荷を掠奪することが多かった。さらに、こうした「待ち伏せ型」以外にも漂着船を襲うケースがあった。
 海防当局は巡視船を出して沿海警備をおこなったが、外洋での哨戒は天候・風向きに左右されるため十分に監視が行き届かず、不意に姿を現す賊船には対応できなかった。そこで自衛策として、不審な賊船の動きをいち早く察知し、追跡を振り切って、逃げるのが一番だが、もし船に乗り込まれた場合は必死に戦うしかない。
 
 ところが、薩摩藩の支配下において琉球士族層は日常的に「帯刀」する習慣がなく、弓矢・鉄砲の取り扱いにも慣れていない。このような状況を心配した政治家蔡温は、海賊に備えて鉄砲の射撃訓練をおこなうことが望ましい、と主張した。
1749(乾隆14)年、蔡温は次のような意見を述べている。「琉球は平和な国で、武道の入用は絶えて無い。だが、毎年中国へ渡航するので、もし海賊に遭ったときは槍・長刀・弓・鉄砲で防戦しなければならない。そこで、琉球の役人はみな日頃から武具の扱いを嗜むことが奉公のつとめであろう。もし差し支えなければ、日頃から鉄砲の稽古をさせたいと思う。渡唐役人は毎年三日間ほど練習しているが、それでは実戦の役に立たないと思われる」と(『独物語』)。
  
  • 蔡温 画像 に対する画像結果
     蔡温 
 このように蔡温は、鉄砲の射撃訓練を強化すべきだと考えたのである。先述したように、明清交替期には不穏な情勢が続き、1670年代は鄭氏の海賊が琉球船にも大きな脅威を与えた。こうした琉球をとりまく海域情勢に苦慮した向象賢(羽地朝秀)の時代に比べると、蔡温の時代における清朝の治安は回復し、海賊の危険はかなり弱まっていた。
 しかし、海賊がふたたび猛威をふるう時代の到来を予見するかのように、蔡温は琉球船の自衛対策論を唱え、鉄砲訓練の必要性を説いたのである。その意味で蔡温は、農政や山林政策の改革だけでなく、海洋事情や海賊問題にも目配りした先見性をもつリアリストであったといえる。>

 <渡唐船の武装をめぐる薩摩藩と王府のやりとりが、『琉球館文書』乾隆22(1757)年7月16日付の覚に記されている。渡唐船は海賊の襲撃に備えて、できるだけ多くの武器を搭載する必要があった。すなわち、劣悪な装備ではいざ実戦に役立たないからである。そこで王府は、謝恩使の迎接船・接貢船が海賊に襲われたときに武器がなくては困るので、「異風」(艦載砲か)3丁、20匁鉄砲1丁、5匁鉄砲25丁、弾薬などの提供を薩摩藩に求めた。これに対し藩では、異風砲の手持ちが少ないので大筒に代えてはどうかと、そっけない返事であった。
 そこで王府は次のように異風砲の搭載を訴えた。第一に、これが無いと福州での船改めや港出入りの「礼儀」に反すること、つまり礼砲発射の慣例である。第二に、ふつうの鉄砲では二十匁以上の弾丸は発射できず、海賊対策に役たないとの理由からである。なお、礼砲の件は大鉄砲でなんとか間に合わせるにしても、異風以外は賊船針策に役立たないから、今秋までにぜひ差し下してほしい、と嘆願した(真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」>。
 
 進貢船に大砲・鉄砲・刀剣が搭載された事実は1762年、土佐藩領に漂着した琉球船乗組員らの証言にもとづく『大島筆記』(戸部良熙著)に、次のような記述がある。
「進貢船は矢倉を組立、狭間を明、帆も蒲葵(びろう)を用ゆ、飾り物数々あり。武器も砲(いしびや=石火矢)・鉄砲・槍・大刀・弓矢を備」とある。さらに「海賊の備には海防官・千総守備などありて、海賊を見掛れば、其まゝ退治するの官也」と記されている。
 進貢船は、各種の武器と体制を備え、海賊対策をしっかりととっていたことがわかる。
 進貢船に乗る要員は、事前に鉄砲稽古など訓練が行われていた。
 続きは第16回へ。



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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その14

 商船を奪って海賊行為も
 清代中国における山賊・海賊の横行によって、琉球国側が期待した品々の調達が困難であった。那覇から福州までの海域において海賊船の横行が見られるために、その防御策として火器などを事前に準備して渡海船に装備していたのである(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球)。以下、同書からの要約である。
 咸豊5年(1855)の文書に
 渡海船が海賊の襲撃を受け、積荷の荷物や衣類そして簪(かんざし)まで奪ったため、航行が困難となって琉球船福建省東北端の後述する沙埕に漂流するような事態となっていた。
 乾隆60年5月3日に、温州南麑山外洋において琉球貢船を襲撃した清の海賊の頭目は林發枝の盗船であったことが明らかである。
この時の船について『中山丗譜』巻10、尚穆王の条に
 4月28日に那覇を出帆したが、南風に遭遇して停泊していたところ小型帆船が10隻ばかり現れたので、蔡世彦はてっきり清朝水のパトロールの哨船と思っていたところ、いきなり2隻が琉球船に接近し、780人のものが乗船して襲撃してきたのである。海賊達は大型の武器などを使い蔡世彦も傷を受け、積んでいた衣類や貨物さらには小物の簪まで奪い取られたのであった。そして琉球船まで奪取しようとしていたその時、清朝水軍の哨船が数十隻あらわれたため、海賊達は海賊船に乗り移って洋上へ逃げ去ったのであった。
 
  福建省の海賊は商船を多用して襲撃している。しかし海賊が大型船舶を造船することは出来ないので、まず数十人が小型船に乗って、商船を襲撃して商船を奪い、奪取した商船で海賊行為をおこなっていたことがわかる。
 清官府は海賊被害を受けた琉球国の人々を福州の琉球館において安住させ、奪われた銀両を償い、さらに奪われた日用品や貨物もそれ相当の返還がはかられたのであった。
     進貢船ウィキペディア   
        進貢船の図(ウィキペディア)

 進貢船は「宝船
 <琉球の進貢船がこのような海賊に襲撃されたのにはそれだけの理由があった。たとえば、『高宗實録』巻1003、乾隆41年2月戌午(16日)の条に、
 論、據永徳奏、琉球貢船回國。兌買絲綢布匹等物、免過税銀、共千二百餘兩。似較向來為數過多。
とあるように、琉球の進貢船の帰帆には莫大な貨物が積まれていたからである。本来なら積載貨物に課税されるが清朝への朝貢船であるため免税扱いになっており、その免税の銀両だけでも千数百両にのぼっていたのである。進貢船の入港時が数百両であるのに、帰帆時は二千数百両以上にもなっていた。つまり、清代の海賊からすれば襲撃するのに充分な価値ある宝船だったのである。(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球)>
 進貢船は、海賊にとっては「価値ある宝船」だったという。琉球にとっては、それだけ危険をともなう航海だったとなる。琉球の時代、死ぬことを「唐旅する」といわれた。航海の遭難の危険とともに、海賊に襲撃される危険も伴っていたのである。
   第15回に続く。
 


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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その13

 代の海賊琉球船が襲われた
 倭寇による朝鮮や中国沿海地の襲撃は、明代末には終息した。代にも、海賊は活発に活動したが、明代の倭寇とは区別される。
「明代には倭寇の襲撃を受け、代には海賊に襲われている」(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球)。平和彦「近世中国の海盗と琉球船舶」から引用)とされる。
 倭寇は海賊の一種だが、松浦氏は、その違いを明確に規定していない。とりあえず海賊とは、日本人とはかかわりがなく、中国人を主体とする集団と見ておく。
 代における海賊は、中国では一般に海盗とか洋盗などと呼称される。
 
 代には、琉球船がしばしば海賊に襲われた。
 真栄平房昭氏が、代の海賊と琉球の関わりについて考察している。そこから要約して紹介する(「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」)。真栄平氏は、旧字体を多用しているが、読みやすくするためできるだけ新字体に改めた。
 17世紀後期~18世紀中期にかけて 中国沿海における琉球船の海賊被害の状況を一覧表にまとめている。
 別表は『清代中琉関係檔案選編」・『清実録』をはじめとして、琉球王国の『歴代宝案」・『中山世譜」・『家譜」・『旧記雑録』(鹿児島史料)など、中国、琉球、日本の三ヶ国の史料をもとに抽出したデータを一覧化したものである。
   海賊1
             <表1>琉球船の海賊被害状況(真栄平房昭氏作成)
 
  これを見ると、15件の海賊事件を確認できる。
 <中国の政情不安定な時代には海賊が多く発生したこと。とくに明清交替後、沿海の治安が悪化したことにより、琉球の対清関係は一時は途絶状態に陥った。具体例を示すと、1654 (順治11)年、琉球では先に派遣した順治帝即位の慶賀使の帰国を迎える船を福州に派遣したが、海賊に阻まれて入港できず帰国した。翌年ふたたび迎接船を派遣したが、やはり海賊のため梅花津から引き返した(同書)。>
 琉球船が海賊に襲撃された場所を地域別にみると、福建の8件、淅江6件、広東1件となっている。
 船種別の被害状況をみると、進貢船・接貢船・護迭船など王府の官船だけでなく、民間の貨物船(馬艦船)も襲われた。また、八重山の年貢運迭船が漂流先の福建で海賊に身ぐるみ剥がされ、乗組員が拉致されたケースもある。
 1670(康熙9)年11月、琉球の進貢小唐船が福建沿海の海塘山で襲撃され、乗組員の大半が殺害された(表1№1)。 犯人が鄭氏(注・鄭成功)一味であると知った琉球王府は、薩摩藩を通じて幕府に訴えた。これを受けて長崎奉行は、長崎に来航した台湾を拠点とする鄭氏配下の東寧船(台湾船)を差し押さえ、賠償銀300貫を琉球側へ支払うよう命じた。つまり、台湾と琉球の海賊事件の処理に日本が一役買ったわけである。これは当時としては異例の海事紛争の賠償例として注目される。
 
 次に、1673(康熙12)年の海賊事件(表1№2) について詳しくみていこう。五虎門から約30キロほど離れた「竿塘」沖で、琉球の進貢船が13隻の賊船にとり固まれた。海賊たちは鉦や太鼓をいっせいに打ち鳴らし、雄叫びをあげながら弓矢・鉄砲を射かけてきた。これに対し、琉球船の乗組員たちも必死に防戦につとめ、朝から夕刻まで激戦が続いた末、賊船はようやく退去した。しかし、琉球側も死亡者6人、負傷者24人という被害を蒙り、程泰祚(名護親方程順則の父)も重傷を負い、福州で手当を受けている。
 この海戦で死亡した北京大筆者湧田親雲上の奮闘ぶりが、王府の正史『球陽』に、次のように記録されている。すなわち、湧田は先頭に立って乗組員を励まし、「防御の備えは充分だ、慌てるな。命を惜しむ臆病者は斬首する、みな武器をとって戦え」と、訓戒した。やがて賊船団は「砲声一響」を合図に琉球船に攻め寄せ、「火確」(注・手投げ弾)や「炮銃」(注・鉄砲)を雨のように浴びせかけた。
 
 これに対し、琉球人たちも勇をふるい、力を尽くして「血戦」した。そこで海賊船はようやく退去したが、なお再来をおそれた湧田親雲上は、船上で長刀をかまえて威勢を示した。そこへ海賊の鉄砲により腰を射抜かれ、死亡したという。 
 明清交替の余燼がくすぶる17世紀後半、台湾を拠点とする鄭氏勢力から琉球船は敵方のターゲットとみなされ、海賊の脅威にさらされた。台湾の鄭氏は、幕府の海賊禁止令を無視するかたちで海賊行為を続け、清の冊封体制下にあった琉球の朝貢船もしばしば被害を受けたのである。1683年、鄭氏はようやく清に降伏し、東アジア海域の武装勢力はひとまず鎮静化することになった。
 この項は、真栄平房昭著「清代中國における海賊問題と琉球--海域史研究の一視点」からの要約である。
 続きは第14回へ。
 


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東アジアの歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
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