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レキオ島唄アッチャー

倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その12

  尚徳王は倭寇か?
 倭寇と言えば、第一尚氏王統の第7代王である尚徳王が倭寇だという説もある。
 尚徳王は別名「八幡之按司」といい、喜界島を征服した勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立したことを理由に、「八幡神は倭寇の守護神である」から倭寇の流れをくんでいるという見解がある。 
 歴史家の上里隆史氏は「結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません」と反論している。八幡神は本来八幡神の「軍神」としての性格を持っており、喜界島への遠征前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としたことから鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりであるという。わざわざ強引に倭寇説を持ち出すまでもないという。

 また、15世紀当時の琉球で日本の神々を祭るのは珍しいことではなかった。1452年(尚金福の時代)、王府ナンバー2の地位にいた中国人の懐機は、海中道路(長虹堤)の完成を記念して、那覇に伊勢神宮を勧請した。中国人が日本の神社を建てたけれど懐機=日本人=倭寇とはならない。
 懐機も尚徳も日本の神々がすでに琉球で信仰され、日常的な風景になっていた状況で神社を勧請したわけで、尚徳は八幡大菩薩が軍神だと知っていたからこそ喜界島との戦争でその霊験を頼った。それが、尚徳が八幡宮を建てた理由だという。以上は、上里隆史氏「目からウロコの琉球・沖縄史」から要約した。
     尚徳王陸墓跡
              尚徳王陸墓跡(那覇市識名)

 宮古島は倭寇の拠点だったのか
 倭寇は、宮古島を拠点としていたという見解がある。
 宮古島出身の稲村賢敷氏は、倭寇と宮古島の関係について考察した著書『琉球諸島における倭寇史跡の研究』で、宮古島の「上比屋山は倭寇の根拠地」であること、この遺跡から拾得される陶磁器は倭寇がもたらしたものであると強調している。
 これについて、下地和宏氏(宮古島市総合博物館協議会)が「倭寇と宮古について考える~『琉球諸島における倭寇史跡の研究』に学ぶ~」で検討している。
 
 下地氏は、稲村氏の倭寇に関する見解を6項目にまとめたうえで、自分の意見をのべている。
 ① 倭寇の根拠地上比屋山遺跡について、征西府(※)の滅亡でその配下の武士団は、海寇の仲間となり、南下して上比屋山居住者となった。
 注・南北朝時代、征西将軍に任じられた後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが)親王が、九州を転戦した時に、各地に設けた御在所の称(「精選版日本国語大辞典」)。
 ② その時期は征西府滅亡後の1420年代で、双紙(冊子本)もその頃伝来した。
 ③ 上比屋山遺跡から拾得される多量の青磁・南蛮焼は密貿易によって倭寇がもたらしたものである。
 ④ 上比屋山城は日本人渡来者(倭寇)が築造したもので、倭寇が大陸に渡る中継地、また政変を避けるための隠棲地として、そして根拠地として生活した所である。
 ⑤ また「東(あがり)なりかに」という神名は日本国王良懐に対する彼らの称した神名であり、これは上比屋山遺跡と征西府を結ぶ史料である。
 ⑥島内の治世が安定するようになると、身の危険を感じた倭寇と称する人々は15世紀末頃あるいは16世紀初頭頃、島外を去る者も現れた。一方では、島民と血族的関係をもった倭寇は定住するようになった。
 
 これに対して下地氏は次のような見解をのべている。
 倭寇が渡来する以前から、宮古島には中国産の陶磁器などが持ち込まれている。11~14世紀の白磁や青磁、徳之島産のカムイ焼き、および日本長崎産の滑石製石鍋などである。これらの遺物は、宮古がこれらの地域と通交があったことを示している。通交は元明代になっても継続されている。これらの陶磁器が採集される遺跡からは地元産の土器が多量に採集される。土器を生産・使用していた宮古に陶磁器という新しい文化が持ち込まれたということになろう。また、陶磁器を持ち込んだ人々が宮古に居住したことも大いに想定できる。
 中国産の陶磁器は、当初はその生産地に係わる人々によって宮古に持ち込まれたものと思慮される。14世紀に入ると遺跡の数も以前に比べれば倍増している。それだけ島外から人々が宮古に渡来したと考えられる。14~15世紀、特に明代の陶磁器は量的な差はあれ宮古の各遺跡から採集される。

「宮古島旧記」には唐人あるいは倭人の渡来伝説が記されている。これらの伝説の背景には陶磁器などが宮古に持ち込まれたことを気づかせる。14世紀には中国の華南あたりから白磁などが宮古に直接入ってきたという研究成果もある。
 14世紀初頭には60名余の人々が乗り込み海外に通交出来る船を所有していた「密牙古人」がいたという。また、14世紀末には琉球を往来できる船を所有していたことも知られている。稲村氏によれば「前の屋船」の伝承もあるという。いわゆる宮古の人々が海外と通交できる要素はあったと見るべきであろう。多くの遺跡から出土する陶磁器を考えれば、各遺跡(集落)は合同で海外に出向き得られた陶磁器を分配したとも考えられる。宮古から通交のため中国(華南)にも航海していたことは充分に考えられることである。
 上比屋山遺跡は14~15世紀の遺跡なので、この遺跡から出土する陶磁器を倭寇が密貿易でもたらしたことに限定するのは一考を要する。出土する陶磁器については、上比屋山の裾野に広がる砂川元島あるいは友利元島から出土する陶磁器も併せて考えることが必要なのではないだろうか。
 下池氏は、倭寇が渡来する以前から宮古島には中国産の陶磁器などが持ち込まれている、14世紀末には宮古島でも海外に往来できる船を所有していて、中国とも通交していたことは十分に考えられるから、倭寇の密貿易だと断定はできないとしている。
 倭寇が中国沿岸など航海するうえで、沖縄諸島で水や食糧などの補給をしていたこと、根拠地とした場所があることは十分考えられるが、史料が乏しので確証することは難しいのだろう。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その11

  倭寇が第一、第二尚氏を樹立した?
 吉成氏らは、一方ではの倭寇対策の副産物としての琉球王国の形成を指摘しながら、他方ではと無関係に、倭寇が琉球に移住して、権力を樹立したという見解を示している。
「琉球王朝の成立期にあっては朝鮮半島系の人々を含む倭寇が重要な役割を果たした」と強調する。

 第二尚氏を打ち立てた金丸(尚円王)の背後には「今帰仁を中心とする勢力」があり、それは「端的にいえば倭寇勢力」であるという。他方、「玉城を本拠地とする勢力が存在した」「それは土着勢力であった」としながら、玉城の勢力も「倭寇である可能性を考慮する必要がある」とのべている。
 その上で、「第一尚氏樹立にあたっても、その根底には倭寇勢力があったことはほぼ間違いない」として、尚巴志を倭寇勢力とする。

 結局は、琉球列島に到達した倭寇には、第一波と第二波があったと分類している。
 そして、「第一波の倭寇は沖縄諸島の各地に足跡を残し、やがて佐敷に拠点をおいた勢力が第一尚氏を樹立した」とのべている。この倭寇勢力がに対する朝貢貿易を展開しながら繁栄を享受していたとする。ただし「充分考えられる」とあくまで推測である。
 さらに、中山王位を簒奪した金丸(尚円王)の背後には、今帰仁を拠点とする倭寇勢力があり「第二尚氏の成立期にかかわる倭寇を第二波とする」との見解である。
   佐敷、尚巴志の碑
        尚巴志の碑(南城市佐敷) 
 その根拠は、「尚家家紋は八幡神の神紋である左三つ巴紋であり、八幡神は倭寇の守護神である」こと、「尚巴志の出身地である佐敷は、浦添、玉城のミントングスク、今帰仁城跡などと並んで12~14世紀に長崎県の大瀬戸町を中心とする地域に産する滑石の石鍋が出土しており、それはらかに倭寇勢力がもたらしたものである」。石鍋、鉄器、カムィ焼、浦添グスクの高麗瓦なども、朝鮮半島と結ぶ海の道で運ばれ「倭寇が琉球列島全域で活動し、また各地に拠点を置きながら海商・海賊行為を行なっていたからである」と主張している(吉成直樹・福寛美著『琉球王国と倭寇』)。

 への朝貢察度王から
 この見解には、素人なりにいくつか疑問に思うことがある。
 まず、中山王によりへの朝貢は、第一尚氏により前、察度王の時代に始まった。琉球が三つの小国に分かれていた三山時代は、三山がともに朝貢をしていた。山北が滅亡するまでの期間(1383~1416年)で、中山が57回、山南が26回、山北が17回朝貢している。
 明の洪武帝の命により、琉球に進貢と交易を担う職能集団が渡来したのは、察度王時代の1392年であった。進貢船を建造して提供したのも、やはり察度王時代である。
 第一尚氏が第一波の倭寇であれば、その前に朝貢を始めた察度王は、倭寇勢力ではないことになる。明が琉球に対する多大な優遇措置をとったのも、やはり第一尚氏よりも前、察度王の時代である。明の多大な優遇も、倭寇対策ではないことになる。

 中山の察度王統(1350年―1405年)だけで、56年間に明へ57回の朝貢をして、朝鮮とも通行(朝鮮側は朝貢と呼ぶ)していたということは、武寧王のいる中山を尚巴志が倒して第一尚氏の王統を開いた時代には、明への朝貢体制はすでに存在し、朝貢は軌道にのり、交易国家は存在している。
 だから吉成氏らも、尚巴志金丸など倭寇勢力が琉球で支配権力を持ったときの記述では、明の優遇と関与にはふれていない。これは、既に見たように、琉球王国は、明による「倭寇対策の副産物」だったという見解とは、明らかに食い違いがある。

 また、明初の「前期倭寇」は、朝鮮人らが含まれていても日本人を主体とする勢力だと見られるが、琉球の進貢や交易を支えたのは、明から派遣された中国人の職能集団である。もし、朝貢体制に組み込まれたのが日本人を主体とする倭寇集団なら、貿易ならできるけれど、朝貢に必要な外交文書の作成、通訳などは、明に精通した人材でなれば出来だろう。すでに見たように、第一尚氏が第一波の倭寇なら、それ以前の察度王以来の朝貢体制を支えたのは、倭寇ではないことになるだろう。

 石鍋出土は倭寇の証拠か?
 次に、滑石の石鍋やカムィ焼土器の出土が、倭寇が持ち込んできた証拠となるだろうか。
 喜界島の城久(ぐすく)遺跡(9~14世紀)では、大量の石鍋の破片やカムィ焼土器(徳之島で作られていた)が出土している。喜界島は、南島との交易拠点だったとみられている。
 谷川健一氏は「九州西海岸の航路に熟知していた家船(注・船を家とした零細な漁民)が石鍋を南島にもたらしたのではないか。最終地点は八重山まで及ぶ」と指摘している(『日琉交易の黎明―ヤマトからの衝撃』)
 倭寇でなくても、通常の南島交易によって、相当の石鍋やカムィ焼土器が持ち込まれた可能性が高い。倭寇が持ち込み、拠点とした例もあるかもしれない。しかし、だからといって倭寇がそこに定住したという証明にはならない。  
 加えて、吉成氏らの見解はいずれも「考えた方がよい」「可能性も考慮する必要がある」「十分考えられる」とのべているように、断片的な事象をつなぎ合わせて、推論に推論を重ねた見解であり、確かな根拠となるものは見当たらない。

 私は、琉球がグスク時代から三山時代、琉球王国形成に至る過程は、喜界島をはじめ九州方面からの交易によるインパクトだけでなく、日本人勢力が南下して琉球諸島へ移住してきて、それが琉球社会の発展や政治勢力の形成にも大きな影響力をもったことは、歴史的には事実であると考える。
 琉球列島の古人骨の調査研究を重ねてきた土肥直美氏は「グスク時代を境にしてヒトの形質が変化した」「グスク時代人が,南島人の形質を残しながらも中世日本人の特徴をもっていることを実証してきた」とのべている。これには歴史家の安里進氏も肯定している(「7~12世紀の琉球列島をめぐる3つの問題」から)。
 琉球列島への日本・九州勢力の集団的な移住があったことがうかがわれる。
 その中に、倭寇勢力がもいたことはあり得ると思う。しかし、南島人の形質の変化は、グスク時代であり、移住は第一尚氏の尚巴志の時代よりはるか以前である。
 以上のべてきたように、第一尚氏も第二尚氏もすべて倭寇勢力で、琉球王国は倭寇がつくったという見解には同意できないだけである。

 

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その10

 琉球王国は倭寇勢力がつくったのか?
 ここで、本題から少し外れるかもしれないが、「琉球王国は倭寇がつくった」という説がある。これをどう見ればよいのだろうか。
 吉成直樹氏は、琉球ではグスク時代開始期以降、農耕社会が着実に内的発展を遂げ、三山が形成され、やがて国家が成立するという定説に対して根本的な批判を展開している。
 <沖縄島は、農耕のゆるやかな進展はあったとしても、一貫して交易を中心にした社会であった。特に十四世紀半ば以降の沖縄島社会では、在地の交易者はもちろんのこと、倭寇的勢力を含む多くの交易者たちの拠点として、私貿易や朝貢貿易の覇権をめぐる利権争いが繰り広げられていたと考えられるのである。そのように考えれば、朝貢主体が山南から同時にふたり現れたり、中山や山南などで朝貢主体があっけなく交代する「王位簒奪」がたびたびみられることの理由も容易に理解できるように思われる。
 
 が琉球に対して多くの優遇策をもって対応したのは、元末初の混乱期に中国沿岸で猖獗をきわめた倭寇勢力を、沖縄島に囲い込むことによって朝貢体制の中に位置づけ、正常な交易者として転化させようとしたためであった。その点を踏まえれば、海禁政策によって渡航できなくなった中国商人の穴埋めとして琉球に肩代わりさせたのは確かだとしても、交易国家としての性格はの琉球を舞台とする倭寇対策の副産物であったと考えられる(「琉球王国は誰がつくったのか―倭寇と交易の時代―」)>
 <実際、中山の行政機構は中国の行政府を模倣したもので、王相(国相)などの官僚も中国の皇帝が任命しており、またによる多くの優遇策というテコ入れがなければ、三山の各「王」たちは朝貢主体とはなりえなかったのである(同書)>。
中国沿海地を荒らしまわった倭寇を、沖縄島に囲い込み朝貢体制の中に組み入れ、「正常な交易者」に転化させようとした、交易国家・琉球はの「倭寇対策の副産物」としてつくられたという見解である。
 ここでは、たんに倭寇が独自に琉球王国をつくったというではなく、の関与のもとに「倭寇対策の副産物」として形成されたという見解である。論者によっては、端的に琉球は「明の手で王国、国家にされた」(来間泰男氏)との見解もある。
   泰期(3)
           初めて明に朝貢した察度王の弟、泰期の像(読谷村)

 実際に、明朝が朝貢してきた琉球をとても優遇したことは事実である。
 琉球が入貢して以降、「しばらくは明使の琉球往来船に便乗するかたちで朝貢が行われたいたようだ」ともされる(上里隆史氏著『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)
 1385年には、中山・山南への大型海船が下賜された。永楽年間(1404~24)までに延べ30隻におよぶ船が無償提供された。朝貢してきた南海の小国に対して、進貢に使用するためにわざわざ大型の船まで建造して提供するということは、まさに破格の優遇ではないだろうか。しかも、船の提供だけでなく、進貢や交易を担う航海・造船などの技術者や外交文書の作成や通訳など行う職能集団が洪武帝により琉球に派遣されたという。これら渡来した華人は、那覇の久米村に定住したことから「久米三十六姓」とも呼ばれた。
 
  華人が政治にも深く関与
 これについては、「明帝から下賜されたとする説や中国商人が交易になってきて住みついたとする説などがある」(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。
 「おそらく公的派遣された『閩人三十六姓』は久米村へ朝貢開始以前から居住する民間の華人に加わるようなかたちで居住したであろう」(上里隆史氏著『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)とも見られる。
1394年、中山王察度の使者として活躍していた華人の阿蘭匏(あらんほう)は明朝より「王相」を授与されていた。15世紀初頭、王茂(おうも)・懐機(かいき)は新たに中山王となった思紹・尚巴志のもとで長史から王相(国相)を歴任し、琉球国内政治に深く関与していた。
 「王茂の国相就任は明朝より公認されていたものであり、懐機は明朝皇帝と外交上のやり取りを行なえる異例の待遇を受けていた。明朝の冊封・朝貢関係を媒介にした琉球王権と華人集団の君臣関係が結ばれ」ていた(同書)。
 中国から渡来した華人たちが、明への朝貢・交易のために、実務を支えていただけでなく、琉球の国内政治にも深く関与していたことは確かである。渡来した中国人が、明から王相を授与されたり、国相を公認されていたことを見ると、「久米三十六姓」も明帝から派遣されたと見られる。

 吉成直樹氏をはじめ研究者が、琉球は農耕社会の内的発展により国家が形成されたという定説に疑問を呈したことは、重要な指摘である。喜界島の城久(ぐすく)遺跡に見るように、そこには大規模な交易拠点があった。11,12世紀にも琉球諸島に交易の波は押し寄せていた。その中で琉球での交易が発展し、琉球への移住者もいたことは確かである。それらが琉球社会に大きな影響を及ぼし、交易社会の発展と三山時代、国家形成への重要な要因になったという見解は、大事な提起だと思う。
 倭寇が琉球諸島に拠点の一つを置き、補給地としていたこと、なかには上陸して定住する人たちもいた可能性もあるだろう。
だからといって、明が倭寇を琉球に封じ込め、朝貢を通じた交易国家をつくるに至ったという見解には、論理の飛躍があると考える。
  
 上里隆史氏は、「明朝は、新興国の琉球を有力な朝貢主体に育てることで、朝貢貿易体制の外にはじかれた海冠や民間貿易勢力の『受け皿』とし、彼らを合法的に貿易に参加させることで海域世界の秩序化を図ったとみられている」(上里隆史氏著『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)とのべている。
 同時に、琉球には「世の主」と呼ばれた現地権力が存在し、明朝から対外的に「三山」と呼ばれたこと。琉球の交易は単独で成しえたものではなく、明朝から優遇された条件を基盤とし、外来勢力を活用して進められた。それは「琉球が外来勢力の傀儡だったことを意味するのではなく、琉球の現地権力と外来勢力は相互依存の関係を築いて交易活動を展開していた」とのべている(同書)。
 これは、琉球の交易活動に外来勢力を活用したとしながら、「倭寇が琉球をつくった」説には組しない見解である。


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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その9

  倭寇は琉球に侵攻していた
 倭寇は、琉球にも実際に侵攻してきたことがある。
 1542年(嘉靖21)、福建漳州商人の陳貴が海禁を破って大船に乗り、長史(ちゃぐし、久米村の役職)蔡廷美の招きで那覇港に入港した。そこで広東の潮州潮陽の海船に遭い、「利を争い互相に殺傷する」(『明世宗実録』嘉靖21年の条)という陳貴事件が起きた。
 <1550年代には「日本賊徒之兵船」の往来による海上の治安悪化から、琉球各地の島嶼・津泊(しんぱく)を警固する対策を行なっている(感応寺文書)。中国沿岸を荒らしていた倭寇らは南九州を根拠地にしている勢力も多く、しばしば琉球海域にまでその手が及んでいた(上里隆史著『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)。>
 <倭寇の被風漂流せる船隻、(世)子国の境内に至る。士官馬必度等すなわちよく火を放ちて船を焼き、各殺して殆ど尽くす。内に中国被虜の人民ありと。蔡廷会等をして管送して前来せしむとあり。…朕、もって嘉悦す。ここに特に勅を降して奨諭す。なお白金・綵段(いろぎぬ)を賜い、もって忠孝に答えん(『歴代宝案』1558年の条)。>
中国沿岸で明の官軍に敗れた倭寇の船(徐海の残党)が琉球に漂流(来襲か)してきた。馬必度らの兵を派遣して倭寇船に火を放ち倭寇をせん滅した。捕らわれいた中国人6名を中国へ送還した。
 
 倭寇は朝鮮や中国の沿海地で物資だけでなく、住民を掠奪していたが、琉球は倭寇に拉致された人々(被虜人)を救出し、たびたび本国にへ送還していた。すでに書いたことと重複する部分があるが、もう一度紹介する
琉球王府の正史『球陽』(読み下し)を見ると、尚元王、尚永王の治下、16年間で3度にわたり中国への送還の記録がある。
 尚元王 2年(1557)
中国の掠めらるる金神等6名を福建に送還す。
本国海疆(注・沿海海域)の守臣馬必度、獲る所の、中国の掠めらるる金神等6名、貢船に附搭して、福建に送還す。世宗、仍りて勅を賜ひ奨諭す。而して馬必度に厚賜する有り。
 14年(1570)、中国の掠めらるる人口を送還す。
王、海疆の守臣由必都等を遣はし、中国の掠めらるる人口を送還す。福建守臣、以聞す。穆宗、王の屢々(しばしば)忠誠効すを以て、銀幣を賞賜すること前の如し。辛末に至りて、又、人口を送還す。亦勅奨を蒙り、賜ふこと前の如し。
 尚永王即位元年 中国の掠めらるる人口を送還す。
此の人口、貢船に附搭して福建に送還す。時に奨賚例の如し。

 琉球が送還したことに中国側はとても感謝し、銀貨幣など謝礼を贈ったという。
 ここで注意したいのは、倭寇から被虜人を引き取って本国に送還したということは、その前提として、倭寇が琉球に交易のためにしばしば来航していなければ、保護して送還すことができない。それに、倭寇が琉球側に掠奪した人間を引き渡すのは、その見返りがなければ倭寇は渡さいないだろう。倭寇が、住民を掠奪するのは、使役するためよりも、人身売買で儲けを上げるためだったともいう。倭寇は琉球で物資だけでなく、被虜人を含めた交易をするために来航していたことを意味するのではないだろうか。
もともと東アジア、東南アジアまで交易し、中国とは冊封関係にあった琉球は、進貢船の派遣と中国からの冊封使節団が訪れることで、那覇港は国際的な交易拠点となっていた。
 
 琉球国王を任命する冊封使が渡来すると、那覇で中国から持参した品々を売りさばいていた。これを求めて民間の海商、海域世界の「倭人」たちが琉球へ渡来したのである。これらの海商は、実際は倭寇であっても、あくまで商人として来航しただろう。
 <彼ら「倭人」は一歩まちがえれば海賊になりかねない危険な存在である。王府は渡来した交易勢力に対して厳重に警戒し、 1559年(永禄2)の尚元王の冊封に際し、琉球は島津氏領内から来航する商船の那覇における武器管理と印判照会、抵抗者を成敗する旨を島津氏に通達している(『島津家文書』)。入港した商船の武器類を一時的に琉球側で預かり、島津氏の発給する印判状(渡航許可証)を提示させたうえで、万が一、彼らが騒乱を起こせば容赦なく鎮圧するとの方針である。しかし、こうした対策にもかかわらず、那覇に来航する「倭人」たちをはじめとした武装した民間交易勢力を抑止することは事実上、不可能であった(上里隆史著『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)。>
   
 那覇を訪れる倭人の商船は、みずから倭寇を名乗ることはないだろう。しかし、民間の商船が武器を積載していたということは、「一歩まちがえれば海賊になりかねない危険な存在である」(同書)。
 <武器管理を実施したはずの1562年(嘉靖41)の冊封では、冊封使節団の行進を倭人たちが取り巻き、冊封使の行列に対し倭人が刀で斬りつける事件が発生している(夏子陽『使琉球録』)。1579年(万暦7)、1606年(万暦34)の冊封でも、使節団との交易を求め、1000人近くの武装した「倭人」たちが那覇に殺到した。琉球の対策は有名無実化していたのである。
 琉球側では冊封使節団の持参した交易品を全て買い取る必要があったため、王府はその買い手である交易勢力に対し強硬策に出て排除することはできなかった。…那覇港で活動する民間勢力を活用していた琉球王国にとって外来者の受け入れは必要不可欠であり、その結果として、厳重な倭寇対策と相反するような交易勢力の受け入れ方針を採らざるをえなかったのである(同書)。>
 
 明代と清代では異なる様相
 倭寇が進貢船を襲わなかったのか、という疑問に対して、実はもう一つ検討する必要があるのは、明代と清代では様相が異なることである。
 進貢船は宝船と見られて格好の餌食となった。だが、明代の琉球からの進貢船は、倭寇から襲撃された事例は見当たらない。清代になると海賊の危険にさらされ、しばしば襲撃された。 
 琉球王府の正史『球陽』を見ると、「貢船の員役海戦に遭ふ」という記述が最初で出てくるのは、尚寧王の項で、1613年(万暦41)である。これはすでに清代である。それ以前、『球陽』で見る限り明代の進貢船は襲われた記録がないことは事実である。
清代は海賊に襲われた事例を後から見てみるが、かなれの数にのぼる。「明代は倭寇、清代は海賊」といわれるように、厳密な意味で言えば、清代に襲ったのは日本人がかかわる倭寇ではない。中国人を主体とする海賊である。
 倭寇の研究者は、倭寇としての活動は、明代で終息したとする。清代に活動した海賊は、倭寇の範疇には入れられていない。そいう意味では、進貢船が清代に海賊には襲われたが、明代には倭寇には襲われないので、狭義の意味では明への進貢船は襲われなかったと言えなくもない。
 そうであっても、先に述べた倭寇の襲来を恐れて、那覇港の砲台の整備など進めたことや漂着した倭寇をせん滅した史実を見ても、上里氏の指摘の通り、倭寇と友好関係にあったとは認められない。
 以上、検討してみると、琉球が通交や進貢のために朝鮮、明・清に派遣した琉球船が一度も倭寇、海賊に襲われなかったという史実はない。しかし、琉球船を進貢船に限定して、時代を明に限定すれば、倭寇に襲われたという記録がない。「明への進貢船は倭寇に襲われなかった」ということも可能であると考える。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その8

 倭寇は朝貢体制に組み込まれたのか
 倭寇は琉球船を襲わなかったという説との関係で、明が倭寇を琉球に囲い込んだという見解がある。
「明が琉球に対して多くの優遇策をもって対応したのは、…倭寇勢力を、沖縄島に囲い込むことによって朝貢体制の中に位置づけ、正常な交易者として転化させようとしたため」「(琉球の)交易国家としての性格は明の琉球を舞台とする倭寇対策の副産物であった」(吉成直樹氏著「琉球王国は誰がつくったのか―倭寇と交易の時代―」)>
 倭寇と琉球国家の関係については後から検討する。ここでは、明が倭寇勢力を琉球に囲い込み、正常な交易者として転化させたというのは、真実なのか。
 「倭寇を囲い込み」できたのなら、それによって倭寇は沈静化しなければならない。でなければ倭寇対策の意味がないからである。
 明の太祖は1371年ころから1452年にかけて6度くらい海禁令を出したが、外国人との交易する者は増加の一途をたどった。海禁を無視して密貿易を行なったのは福建・広東・淅江などの諸地方の塩商人と米商人を中心とする商人群である。背後には、郷神(きょうしん、官僚出身の地方の実力者)や富豪の存在があった。海禁令を破れば官憲の取り締まりの対象となるので、密貿易者群も対抗上武装集団と化し、また海賊集団とも結んで官憲と対立するようになった(この項、田中健夫著『倭寇 海の歴史』を参考にした)。
 琉球の中山王・察度が明に朝貢したのは1372年がはじめてである。その後も明における倭寇の行動は、1551年ほどの間、ほとんど絶えることなく記録されている。
 
 密貿易者、海冠らのなかには、琉球に派遣され交易国家の育成に協力した人たちもいたかもしれない。しかし、それは一部にすぎないだろう。中国の広い沿岸地方の多数にのぼる密貿易者、海冠や倭寇勢力をすべて沖縄島に囲い込むことは到底出来ない。なにより明の前期を通じても、倭寇の活動は消滅していない。
 明代後期になると、1553年から「嘉靖(かせい)の大倭寇」と呼ばれるように、爆発的な倭寇の襲来があった。この時期の倭寇は、中国人が多数を占める状況になっている。清代にいたっては、琉球の進貢船、清の冊封使の乗船した御冠船がしばしば海賊から襲われた事実もある。これは後から詳しく見ておきたい。
 また倭寇勢力が、琉球国家の形成に重要な役割を果たしたのなら、琉球王府は倭寇と親密な関係にあってもよいだろう。だが、実際には琉球は倭寇の襲来をとても恐れていた。
   明治初年の那覇     
    明治はじめの那覇港。賊船の侵入に備えた防塁である屋良座森、三重城が見える

 倭寇の襲来への防御整備
 琉球は倭寇と友好関係どころか、対立関係にあった。
「倭寇勢力と琉球王国は東アジア貿易の利権をめぐって競合・対立関係にあった。琉球は倭寇の襲撃に備えて警戒を強め、さまざまな防衛対策をとった」(真栄平房昭氏著「東アジア海域世界と倭寇」『海のアジア 越境するネットワーク』)。
 中国では当時、「嘉靖の大倭寇」とよばれた海民集団による中国沿岸で略奪や破壊を繰り返していた。琉球では1544年から首里城を囲む東南の城壁を二重にする補強工事に着手した。さらに賊船の侵入に備えて那覇港口に軍事的防塁を築いた。1553年に完成した屋良座森(やらざむい)グスクは、港の対岸と外に向けて矢狭間を設け、賊船に対し石火矢(大砲)の集中砲火を浴びせる構造になっていた。
 <この時期の中国沿岸部では倭寇対策のため、「衛所・堡・塞」などの軍事施設を設け火器兵器で防御していた。琉球ではそうした築城ノウハウをもとに那覇港の砲台を造ったのではないだろうか。たとえば中国山東省・蓬莱水城の水門部の砲台は屋良座森グスクの構造と近似している(上里隆史著『海の王国・琉球―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)>。
    

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その7

 倭寇は琉球船を襲った
 倭寇と琉球について、「倭寇と琉球は協定を結び、倭寇は進貢船を襲わなかった」「東アジア、東南アジアまで交易していた琉球の進貢船は”宝船”だったはずなのに、一度も襲われなかったのは何か倭寇と関係があったのではないか」という説がけっこう広がっている。
 歴史家の亀島靖氏は「琉球王朝の進貢船は、中国への進貢、東南アジアとの交易を含め、15世紀以降150年余の間に400隻以上が東シナ海を駆けめぐっています。この倭寇の活躍期間中、琉球王朝所属の進貢船は…一度も倭寇に襲われることはありませんでした」(『琉球歴史の謎とロマンその1 総集編と世界遺産』)と断定している。
 
 亀島氏は、郷土史家・嘉手納宗徳氏の「沖縄は1回も倭寇の侵略を受けたことがない。何百年と続いた進貢船も洋上では倭寇の襲撃を受けたことがない」(『琉球史の再考察』)という見解を引用している。
 これは事実なのだろうか。
 
 歴史家の上里隆史氏はブログ「目からウロコの琉求・沖縄史」で2回にわたりこの疑問に対する見解をのべている。
 <結論を先に述べてしまいますと、これは事実ではありません。琉球船は常に倭寇襲撃の危険にさらされており、そのなかで海外貿易に乗り出していたのです。
 例えば1421年(第一尚氏の時代)には、琉球船が倭寇の船20隻に襲われ、皆殺しに遭っています。以降、琉球船は海賊に備えて貿易船に防衛のための武器を積んだ、と琉球の外交文書集(『歴代宝案』)にあります。同じく1421年、前九州探題・渋川道鎮から朝鮮王朝への報告によると、朝鮮へ向かう琉球船が対馬(つしま)の海賊にまちぶせされ、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が起きています(『朝鮮世宗実録』)。これ以降、琉球は朝鮮へ直接、船を派遣することはなくなってしまいました。
 また1420年に京都へ向かった朝鮮使節は、瀬戸内海の海賊衆から「琉球船は宝物を満載しているので、船が来たらただちに略奪する」との証言を聞いています(『老松堂日本行録』)。これらの事例からでもわかるとおり、15世紀初頭の琉球にとって倭寇は大きな脅威だったのです。朝鮮半島方面の海寇・倭寇と琉球(とくに第一尚氏王朝)が特別な友好関係であったとする説は、これらの事実から成り立ちません。>
 
 結論として、同感である。やはり「歴史神話」というべきものではないだろうか。
 ましてや、嘉手納宗徳氏の見解である「何百年と続いた進貢船も襲われたことがない」というのは、清代にしばしば襲われた史実をみても、事実無根である。これは後からもう一度、検証する。
 
 亀島氏が、倭寇は襲わなかった理由にあげているのは、「第一尚氏と倭寇の間には、安全保障条約のような取り決めがあったのではないでしょうか」ということである。
 第一尚氏は、進貢船の旗印として「左三つ巴(紋)」を掲げさせた。このマークは、武士や倭寇が信奉する八幡宮のシンボルマークと共通する。「琉球王朝の三つ巴の紋の旗を掲げている船を倭寇は襲わない、その交換条件として倭寇は琉球の島々で、自由に水と食料を補給することができる。このような密約が交わされていたとすれば、進貢船が倭寇の被害に一度もあわなかったことも理解できます」(『琉球歴史の謎とロマンその1 総集編と世界遺産』)。
     唐船の図
                     琉球から中国に渡った唐船の絵

 左三つ巴紋は尚家が倭寇と関わる証拠か
 尚家の家紋の左三つ巴紋が倭寇と共通するから、倭寇が進貢船を襲わなかったのだろうか。吉成直樹氏らは、さらに「第一尚氏以降、尚家の家紋は八幡神の神紋である左三つ巴紋であり、八幡神は倭寇の守護神であった」ことから、第一尚氏の樹立の「その根底には倭寇勢力があったことはほぼ間違いない」(吉成直樹・福寛美著『琉球王国と倭寇』)と主張している。八幡信仰は「朝鮮半島に由来する」(同書)とものべている。
 琉球王国は倭寇がつくったという見解については後から検討する。ここでは、左三つ巴紋が倭寇と尚家の関係を示す根拠となるのだろうか。
 左三つ巴紋は、世界各国に似たような文様があり、日本では平安後期の公家である西園寺実季が、自家用の牛車に描いた左三つ巴紋が由来とされている。
 その後「三つ巴」は源氏系の武士から武神と崇められてきた八幡宮の影響からか、戦国時代には武家によって多く使用された。武運の神として武家から尊崇された「弓矢八幡」の神紋と八幡宮の社紋となっていたことから次第に他の神社にも広がっていった。三つ巴紋も八幡信仰もけっして倭寇の専属ではない。
 
 武家や神社に広く左三つ巴紋と八幡信仰が広がっていたのなら、倭寇が介在しなくても、尚家がこの家紋を採用したことは十分ありうる。この家紋が倭寇と共通するからと言って、倭寇と尚家の友好関係を証明する決め手とはなりえない。
 問題は、倭寇との間に「安全保障条約のような取り決め」があったかどうかである。それを示す証拠は見つかっていない。倭寇が琉球で補給するため「交換条件」があったのではないか、というのも実証なき推測に過ぎない。亀島氏も「密約が交わされていたとすれば」とあくまでも仮定の話としてのべている。倭寇が東シナ海を航海するのに、伊是名島や伊平屋島で補給をしていたことは大いにあり得ると思う。だがそれが事実であったしても、交換条件だったという根拠にはならない。

 亀島氏が倭寇と琉球の関係を決定づける事実としてあげたのは、「第一尚家は、倭寇の頭を人材登用しています」ということである。ある程度根拠のある指摘だと思う。
 すでに書いたことと多少重なるが、もう一度触れておきたい。
 琉球船が対馬の倭寇に襲撃された後、朝鮮に直接船を派遣することはなくなった。事件の10年後、1431年、琉球が朝鮮へ使節を派遣したときは、対馬の豪族で「対馬の賊首」と呼ばれた早田六郎次郎の商船に便乗して朝鮮を訪れた。たまたま交易のため那覇に滞在していた早田氏を琉球は船の安全を保障する「警固」として雇い、危険な海域を通過し、朝鮮王朝との通交を再開した。「琉球は…海賊衆(倭寇)を味方につけ、もっとも安全な方法で朝鮮王朝との通交を再開したのである。この便乗・委託方式は以後も踏襲され、琉球の対朝鮮通交の基本スタイルとなる」(上里氏著書)(進貢船の絵は「沖縄大辞典」から)

 上里氏によると、倭寇への「便乗・委託」は一過性のことではなく、朝鮮通交の基本スタイルになったというので、1431年以降も継続されたことになる。
 <1500年(弘路13)に朝鮮へ向かった琉球使節船は4隻で470人の大使節団だったが、琉球人は正副使の梁広(りょうこう)・梁椿(りょうちん)をはじめとした官人と従者が22人だけで、残りは全て「倭人」だった(『朝鮮燕山君日記』)。…琉球に滞在していた日本の客商の船に便乗したと述べており、第二尚氏王朝の時代になってもこうした方式を継続していた(同書)>
 上里氏は「琉球の対朝鮮通交は、基本的に対馬・博多の海商勢力に便乗する形態であった」とのべているように、「倭人」の交易ネットワークを利用したことは確かである。
ただし、倭人の海商勢力に便乗したとしても、倭寇と安全保障条約のような協定があったとは限らない。
 また、上里氏は朝鮮通交に限定して述べており、対明国への朝貢・交易にまで拡大してみることは出来ないだろう。琉球の明への朝貢にたいして、明は直接、船の建造と提供、朝貢を支える外交文書の作成や通訳、航海にかかわる技術者まで多大な人的・物的な支援をおこなっているからである。



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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その6

  倭寇王の王直と嘉靖の大倭寇
 16世紀になると、ヨーロッパ人の来航もあって、東アジア海上の貿易関係はにわかに活発となった。1517年8月には、マラッカを拠点とするポルトガル人が中国との通商貿易を求めて広東に入港した。明政府から朝貢国に入っていないとの理由で、通商を拒否されたため、鉄砲で威嚇する挙に出た。1522年来航したポルトガルの商船隊6隻は、中国官憲の砲撃をうけ広東海上から追放された。
 ポルトガル人との貿易は禁止されたが、沿岸住民はポルトガル人との貿易をひそかに希望した。かれらは中国大陸の沿岸を北上し、直接中国沿岸の住民と密貿易を行なう手段をえらんだ。
 彼らは、1540年に海冠(海商)の許棟兄弟に手引きされて、福建・淅江沿海地に潜入した。ついでに日本の海商(倭寇)もこれに加わり、中国本土の富豪や商人にこれらの諸港を往来し、東アジアの海上における国際的な密貿易が展開された。
「そのなかで、許棟らの配下からしだいに頭角を現わし、自立して東アジア海上を制覇したのが、倭寇王とよばれた王直である(佐久間重男氏著「15~16世紀の大倭寇」)」。
 
 1553年ころから倭寇は毎年のように沿岸各地を荒らしまわり、「嘉靖の大倭寇」といわれた。16世紀では倭寇の最も激しかった時期である。そのなかで王直を首領とする密貿易集団は最も大きな勢力をもち活動した。
 <『明史』によると、嘉靖32年(1553)王直は倭寇をひきつれて大挙して中国沿岸を襲った。そのありさまは「数百の艦をつらね、海を蔽うていたり、淅の東西、江の南北、浜海数千里が同時に警を告げた」といわれ、…縦横に来住して無人の境を行くようであったという。これより数年間が嘉靖大倭寇の最盛期となった。
 嘉靖大倭寇は、雙嶼・漉港の密貿易基地をあいついで失った海商団が、現地の住民や日本人・ポルトガル人などと協力しながら展開した冠掠であり、王直・徐海を中心として、嘉靖30年頃から同35年頃までつづいた(田中健夫氏著『倭寇 海の歴史』)。>
   印山寺寺屋敷跡、王直が中国風館を構えたところ
        印山寺寺屋敷跡、王直が中国風館を構えたところ
       (
大明国と倭寇―日本の歴史7』)

  なぜ嘉靖の時期に倭寇・海賊が興起したのか。一つは王直や毛海峰等が海禁政策で暴利を計ることが出来ず、海賊集団を率いて襲撃していること。もう一つは日本国内の飢餓により米価が騰貴し人々が飢えに苦しい略奪が横行していることだったという。
 浙江省においては、嘉靖30(1530)年代以降、倭寇の襲撃が顕著だった。この時期の倭寇はどのような人々によって構成されていたのか。
 「福建や淅江、江南、広東の人はみな倭寇に従い、しかし大抵は華人が占めている。倭寇は僅かに十の一、二であり、かれらは中国の貿易の利益をむさぼっている。あるいは朝貢船に付き、あるいは商戦により、かれらは賊船において大体みんな窮乏している」(松浦章著『東アジア海域の海賊と琉球』、『松窗夢語』の引用)。

 日本人は少なかった
 倭寇の構成員は多数が中国人で日本人は少ないとしている。さらに、そのことを明確に記しているのは嘉靖『太平縣志』巻5、論であるという。
 <「浙江省中部沿海に位置する太平縣では、沿海の防備として軍備が一箇所、守禦所三箇所があって、その防備の主要な目的は倭寇の襲撃に備えるためであった。嘉靖年間前にあって、沿海を襲う海寇はほとんど倭寇であった。ところが嘉靖年間になると太平縣沿海を襲撃する海寇とは漳州の海賊であった」とされる。
 漳州とは福建省南部の沿海に位置する地であり、その海港が後の厦門(アモイ)である。太平縣にとって漳州人の海寇が最大の敵であって、倭人はそれに関係していないと見られた。さらも難敵は漳州の海賊とそれに率いられた海賊であった。その構成人の多くは福建や淅江の商人であったことを明確に叙述している。…
 倭寇と呼称された海賊集団も明代後期にあっては必ずしも日本人で構成されていたのではなかったのである。大部分は江蘇、淅江、福建、広東沿海居住の民衆であったのである(松浦章氏著『東アジア海域の海賊と琉球』)。>

 16世紀の倭寇は、日本人は1割か2割程度にすぎず、大部分は中国人であった。しかも、日本人に変装していたという。
「中国人が頭を剃って日本人のさかやきのようにし、日本人に変装して盗賊行動をするものもめずらしくなかった…新たに進出して貿易活動(密貿易)に従事したポルトガル人やイスパニア人もあわせて倭寇とよんだ。倭寇の主力は中国人だったのである」(田中健夫氏著『倭寇 海の歴史』)。

 海禁令の解除、倭寇の終息
 隆慶元年(1567)、福建巡撫塗沢民の上奏によって、明初以来200年間にわたって施行されてきた海禁令が解除された。中国人の海外渡航が許され、従来密貿易とみなされていたものが公許の貿易と認められることになった。このことは、間接的に海冠・倭寇の活動を封殺することになった。本来、倭寇を抑え込むために施行した海禁令は、逆に倭寇の活動を活発化させ、海禁令を解除すると、倭寇、海冠は終息に向かったとは皮肉なものである。
 嘉靖大倭寇につづく一連の倭寇活動は16世紀が終わる時点でおおむね終息したと考えられる。
 日本では、豊臣秀吉が国内統一をして1588年「賊船の停止」が出された。布告は「秀吉、諸国ノ地頭、代官ニ命ジテ、船頭、猟師ノ、重ネテ、海賊ヲ行コナフコトヲ禁ジ、誓紙ヲ徴ス」。これは日本側の海賊行為の禁止に効果があり、倭寇終息の一因となった。

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