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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その5

 海禁政策が倭寇を活発化させた
 これまで倭寇といっても、主に朝鮮半島を中心に見てきた。
 朝鮮で変質・分解を余儀なくされた倭寇の転身の方向の一つは、朝鮮半島での行動をやめ、もっぱら中国大陸方面を活動の舞台とすることだった。元代の史料はほとんど残っていないが、元代にも倭寇の活動は相当盛んだったと考えられている。
  明代では、太祖治世の前期に最も激しく、いったん低下するが後期にまた激しくなった。 明は、倭寇に対する警備を厳重にするとともに、諸外国に対して朝貢をうながした。
 明の対外貿易は、一つは朝貢船の制度であり、もう一つは海禁の制度であった。海禁によって中国人が海上に出て外国人との交易すること、後には中国人同士の交易を禁止した。朝貢制度と海禁の政策は表裏の関係にあった。洪武4年(1371)いらい数次にわたって海禁令が出された。海禁は約200年にわたって存続した(田中健夫著『倭寇―海の歴史』)。

 いくら海禁を強いても、その実施にはもともと無理があり、これが逆に倭寇、海冠を活発化させることになった。
 <海禁政策は、古くから海上生活ならびに海外貿易に頼って生きてきた沿海地の住民には堪えがたい重圧であった。すでに宋・元以来、かなり流通経済が発達し、民間の海外貿易が盛んであった淅江福建・広東などの沿海地では、はじめから無理があり、禁令を犯しても密航を企てる者が後を絶たなかったようである。…
 当時の海禁政策下に、海外貿易のために密航をはかるものは、国禁を破った犯罪者として(違反する者は極刑)奸商・海盗・海冠などとよばれ、取り締まりの対象となった。そこで彼ら密貿易の海商たちも対抗上武装集団と化し、また海賊集団とも結んで官憲に対立するようになった。本来、海禁政策は倭寇・海冠などとの接触を禁止するための本国人対策であったが、それがかえって、本国の中国人を相次いで海冠に追いやる結果を招いたのである。(佐久間重男著「15~16世紀の大倭寇」、『大明国と倭寇―海外の視点◎日本の歴史』)>
 対外貿易に頼って生きてきた人々にとって、海禁は死活問題であり、密貿易が横行し、武装集団と化し、海賊に追いやったという。
 東南沿海地の郷紳(官僚出身の地方の実力者)・富豪のなかには、禁制の大船を造り、取り締まりの官司に賄賂をおくり、船商を駆使して海外貿易をいとなみ、巨万の富を積む者が出現した。
    倭寇図巻、倭寇が上陸している
     倭寇の上陸を描いた「倭寇図巻」(『大明国と倭寇―日本の歴史7』)

 明代に中国沿岸を襲った倭寇
 明代の倭寇、海賊の事例について、松浦章氏は「明実録」の記載を中心に列記している。そのなかからいくつか見てみたい。
 海盗の張阿馬が倭夷を引き連れて入寇したが、官軍がこれを撃斬した。張阿馬とは浙江省台州府下の黄巌縣の無頼者であって、常に倭国に出入し、導其その他の群党を引き入れて海辺を剽掠し、辺海の人々はとてもこれを憂いていた(明実録『太祖実録』洪武24年=1391=8月19日の条)。
 この海盗の張阿馬こそが明代において知られる最初の海賊であろう。彼は実録に記されるように、明らかに浙江省台州府下の無頼の輩であった。張阿馬が配下に用いていたのは明らかに日本人の海賊集団であったと思われる。それは張阿馬が常に日本との関係を保持していたとされるからである。明側の言う倭寇と中国人の海賊が深く結びついていたといえる実例である。
 萬歴元年(1575)頃までの時期は、倭寇と海賊とが沿海各地を縦横に攻略していた。その海賊の1人が林道乾である。海島中に隠れ住み、出没しては災いを起こし、将士も追いつめることが出来ず、しかも大泥(パタニ)や暹羅(シャム)を隠れ家としいているとある。林道乾はシャム湾までも活動領域とする海賊となっていた(『神宗実録』萬歴8年=1580=閏4月14日の条)。
 林道乾と並び称せられる海賊に林鳳がいる。…林鳳は数千の民衆を擁して海上を徘徊し、官憲に追われると呂宋(ルソン島)に逃げたのであった。
 
 <明代の沿海地域を襲撃した倭寇・海賊の記録はほぼ明代全時代を通じて見ることができる。とりわけ倭寇の襲撃記録を見る限り、明初の倭寇は朝鮮半島から中国大陸華北沿海地区を主に襲撃目標にして、明代後半の嘉靖期以降の倭寇は江蘇、浙江省から南下して福建、広東を襲撃する記録として知られる。倭寇と海賊は相互に連携していたと見られる記録がしばしば残されている。(松浦章氏著『東アジア海域の海賊と琉球』)>
 中国人の海賊が日本人倭寇を引き入れていて、海賊と倭寇が結びついていたという。
  続きは次回へ。

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その4

 中国人も拉致された
 倭寇に拉致されたのは必ずしも朝鮮国の人々だけではなかった。中国人もその被害に遭遇していた。。
 琉球王府の正史「球陽」(読み下し)には、以下のような記述がある。
 尚元王 2年(1557) 中国の掠めらるる金神等6名を福建に送還す。
本国海疆の守臣馬必度、獲る所の、中国の掠めらるる金神等6名、貢船に附搭して、福建に送還す。世宗、仍りて勅を賜ひ奨諭す。而して馬必度に厚賜する有り。
 尚元王14年(1570)、中国の掠めらるる人口を送還す。
王、海疆の守臣由必都等を遣はし、中国の掠めらるる人口を送還す。福建守臣、以聞す。
穆宗、王の屢々(しばしば)忠誠効すを以て、銀幣を賞賜すること前の如し。辛末に至りて、又、人口を送還す。亦勅奨を蒙り、賜ふこと前の如し。
 尚永王即位元年(1573) 中国の掠めらるる人口を送還す。
此の人口、貢船に附搭して福建に送還す。時に奨賚例の如し。
 琉球が送還したことに中国側はとても感謝し、銀貨幣など謝礼を贈ったという。

    1700年頃の那覇(那覇市歴史博物館) (2)
       1700年頃の那覇(那覇市歴史博物館)  

 拉致した人間の人身売買といえば、かつて西洋諸国がアフリカ大陸から黒人を掠奪してアメリカ大陸に奴隷として売られた歴史を思い出す。この場合は、奴隷として酷使されたので、本国に送還されることはなかった。
 倭寇による人身売買も、人道上許されない蛮行であるが、琉球が買っていたことは事実としても、琉球で奴隷として酷使するためではなかっただろう。見返りを意図したとしても、拉致住民を倭寇から売買によって譲り受け、本国に送還したことは、西洋の奴隷貿易とはまったく事情が異なることは確かである。

 戦国時代にも人身売買が横行
 先日、たまたまNHK大河ドラマ「黄金の日々」(1978年)が再放送されていた。そこでは、日本人の女性たちが海外に奴隷して売られて悲惨な目に遭っており、その人たちを連れ帰りたいと繰り返し語られていた。改めて、倭寇、海賊による人身売買には、日本人も含まれていたことを再認識させられて。
 ポルトガル商人は、中国産の絹・金や日本の銀などを交易していたが、奴隷も商品の一つだった。中国人だけでなく日本人奴隷の取引もおこなわれた。ポルトガル領の植民地のほか、遠くヨーロッパ、メキシコ、ブラジルなどまで日本人奴隷が転売されたといわれる。
 豊臣秀吉は1578年6月18日付のキリシタン禁止令の中で日本人奴隷売買を禁じ、日本人を「大唐、南蛮、高麗」へ売ることを違法とした。その後も中国人や朝鮮人の売買は黙認されたままだった。琉球にも奴隷貿易の波は押し寄せていた(真栄平房昭著「東アジア海域世界と倭寇」から要約)。
 薩摩が琉球に侵攻し、琉球の尚寧王などに承服させて1611年発布された「掟15条」には、「琉球人買取日本江渡間敷之事」とあり、琉球人を買い取り、日本へ渡すことを禁じた条項がある。
 当初は、「掟15条」を読んだとき、この条項は何を意味するのかよくわからなかった。でも、琉球人を買い取り、日本に渡すことがあったのだ、と改めて知らされた。




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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その3

 住民を拉致し人身売買
  倭寇は、目的の一つに住民拉致があり、人身売買をしていた。これまで、琉球が倭寇から捕虜を引き取り送還していたことは聞いていたが、これほど大掛かりな人身掠奪と売買が行われていたとは、想像を超えるものがある。もう少し詳しく見ておきたい。
 <大規模な倭寇集団の行動が起こるのは1350年(正平5・観応1)以後で、この年以後毎年のように倭寇は朝鮮半島の沿岸を荒らしている。倭寇が略奪の対象としたものの第一は米穀である。租粟(そぞく)を収める漕倉(そうそう)とそれを運搬する漕船(そうせん)がまず攻撃の目標になった。ついで沿岸の住民が第二の略奪対象になった(田中建夫、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)>。
倭寇は、国境を越えて人身の掠奪、転売、送還を繰り返し、奴隷貿易の状況が生まれた。被虜人を送還すれば、公貿易の機会にありつくことができるという利得もあった。 
  <高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇が朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。

 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。(渡邉大門氏著「歴史ミステリー」)>
 倭寇に拉致された住民は、琉球の那覇でもよく転売されていたという。
 <倭寇の行動目標の1つに、朝鮮沿岸人民の掠奪と奴隷化、送還あるいは転売という営利活動があった。彼らは朝鮮被虜人と呼ばれる。「那覇は国際港の観を呈していたらしく、日本からの船もここに多く立ちより、倭寇に捕らえられた高麗の被虜人も転売されたにちがいない。那覇が倭寇の活動圏の一部であったことは容易に理解されよう」(田中健夫氏著『倭寇―海の歴史―』)。

  琉球は被虜人を保護し送還した
  琉球に転売されたと見られる朝鮮被虜人は、1389年から1409年の20年間で琉球国から数十名が朝鮮に送還されている。
 以下、朝鮮被虜人の送還について見ることにする。
 田中健夫氏は、「朝鮮半島の人民を掠奪したのは、労働奴隷を確保するとともに被虜人の送還が割りのよい交易だったことに因る。倭寇は被虜人を自身で送還するほかに、被虜人を他の送還者に提供することによって利益を得、送還者はその行為の代償として朝鮮の木綿等の物資を得たのであり、被虜人の送還は一種の奴隷貿易であったということができる」と述べている。(下地和宏氏著「倭寇と宮古について考える~『琉球諸島における倭寇史跡の研究』に学ぶ~」から)>
 倭寇の事情を知らないときは、倭寇に拉致された人々を琉球が保護して、本国に送還するのは、国際的な信義による行為だと思っていた。だが、それだけではなかった。
 
 倭寇は拉致した人間を売買して利益を得る。引き受けた者は、本国に送還することにより朝鮮の木綿等の物資を得るという「一種の奴隷貿易」がされていたという。
 <琉球王国を中継ルートとする被虜人の転売や送還に九州の海商たちが深く関わった事実からみて、「那覇が東アジアにおける重要な奴隷市場であった」といわれている(田中健夫氏、真栄平房昭著「東アジア海域世界と倭寇」から)>
 
 その奴隷市場には、琉球も深く関わっていた。
 「日本、朝鮮から琉球むけの商品として重要だったのは奴隷と鉄製品であった」「日本、朝鮮方面からもたらされる奴隷の取引は王族がこれを独占していた」(生田滋氏著「琉球中山王国の海外発展」『大明国と倭寇 海外視点○日本の歴史』)
 琉球むけに奴隷が重要な品目として持ち込まれていたという。
 <琉球王国は、察度王(14世紀後半)の時代から、倭寇のさらってきた朝鮮国の捕虜を買い取り、那覇に難民用の家屋を作って収容していました。そして捕虜の数が一定に達すると、琉球王府は彼らにお土産の品々を持たせ、朝鮮国へ送り返しています(亀嶋靖氏著『琉球歴史の謎とロマンその1 総集編&世界遺産』)。>
 やはり、琉球王府は倭寇から捕虜を買い取っていたのだ。ただ、使役するためよりも、本国に送還するのが主眼であっただろう。
 
 琉球から朝鮮への送還者は次のような人数にのぼる。
 <「朝鮮王朝時代になると被虜人送還は急激に増加し)た」という。
 琉球に転売された朝鮮被虜人は、中山王察度および世子承察度の名で送還された。被虜人の人数が以下の通り知られている。
1389年:送還人数不明。琉球は硫黄・蘇木・胡椒および甲(かぶと)を献上した。
1390年:男女12人。
1392年:男女8人。
1394年:男女12人。
1397年:被虜人および漂流人9人。
10年間中断のあと、1409年中山王尚思紹は、朝鮮に胡椒・象牙・白磻(焼明礬、みょうばん)・蘇木を贈り、婦女3人を送還している。その後、送還は行われなくなったようである(下地和宏著「倭寇と宮古について考える~『琉球諸島における倭寇史跡の研究』に学ぶ~」)。>

 <朝鮮の『太宗実録』巻30、太宗15年(1415)の条に太宗は倭寇に拉致され転売され琉球国に居る朝鮮の人々の帰還を臣下に命じ、琉球国に使者を派遣するように指示している。
 『太宗実録』巻32、太宗16年(1416)の条に
 琉球国の使者によって送られ帰国した朝鮮国の人々は、全て琉球国に転売された人々で44名にのぼった。
 その中の一人全彦忠は、14歳の時に倭寇に拉致され琉球国に売られ、今回帰国した。既に20年以上を経過していたため父母共に亡くなっていた(松浦章著関西大学文学部教授著『東アジア海域の海賊と琉球)。>
    
          倭寇の上陸
           倭寇の上陸の様子を描いた絵(『大明国と倭寇ー日本の歴史7』)

 送還すれば見返りがあった
 送還するのは、たんなる「善意」ではなく、見返りを意図したものである。
先に見たように、九州探題の今川了俊は転売された被虜人を送還することで「大蔵経」を求めた。第一尚氏の尚巴志は、「米を朝鮮に乞うために」送還しようとした。この時は実現しなかった。
 <捕虜にされた高麗人は日本に連れてこられただけでなく、遠く琉球(りゅうきゅう)にまで転売されることもあった。高麗では高官を日本に派遣し、倭寇を禁止するように求めるとともに、日本在住の高麗人捕虜を買って帰国させた。日本から捕虜を高麗に送還すれば相当の対価が支払われた。(田中建夫、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)>
やはり「送還すれば相当の対価が支払われた」とされる。
 <倭寇に拉致された朝鮮の人々の一部が、琉球国へ人身売買され、琉球国から朝鮮国へ送り返されたこと、その送還の過程で琉球国と朝鮮国との通交が進展したことが知られる。
 明朝から海冠とされた海賊が、琉球国との間で貿易を行なっていた事例が記録されている。
 明実録『孝宗実録』巻221、弘治18年(1505年)の条に海洋を生活の舞台とする人々は、…明朝の禁令をものともせず盗賊となって利益を貪っている。これに対して最近の倭寇はしばらく沈静化しているが、逆に中国沿岸の盗賊が多発していた。…とくに海防の拠点である衛所に近い官吏の子弟たちが、海賊と結びついて公に名を借りて密かに海賊行為を行なっていると見られていた(松浦章著関西大学文学部教授著『東アジア海域の海賊と琉球) >
 「通交は主に、倭寇に拉致された朝鮮被虜人や漂流民の送還を名目に行われた(上里隆史氏)」。
 琉球国へ転売された人々を、朝鮮国へ送還することで、琉球国と朝鮮国との通交の進展に役立ったという。




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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その2

 対馬を襲った応永外冠
 倭寇は、李氏朝鮮の成立後、落日の過程をたどりはじめた。最後の大打撃となったのが望海堝(ぼうかいか)の戦いと応永外冠とであった。
 <朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが、応永26年5月7日(1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明の浙江省に向かっていた途中、食糧不足で朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した。この倭寇は5月12日(6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬と壱岐からの倭寇ということを知り、5月14日(6月7日)、対馬遠征を決定。国王・世宗に出征を命じた(ウィキペディア)。>

 望海堝の戦いは、倭寇に大打撃をあたえたことで知られる。
<遼東総兵官の劉江が、大連に近い望海堝の島が倭寇往来の要地なので、その防備を固めて待機していたところ、果たして倭船30余隻の船団が上陸してきたので、これを包囲攻撃して、全滅に近い痛手をあたえた事件である。(佐久間重男著「15~16世紀の大倭寇」、『大明国と倭寇―海外の視点◎日本の歴史』)>

 太宗は対馬征討の布告を発し、倭寇に対して天罰を下すために征討すると宣言した。
その中で、対馬はもともと朝鮮の地であったという注目すべき主張があった。この認識が、のちに重大な政治問題となる。
兵船227艘、将兵合わせて1万7285名という大軍で、65日分の食糧を積載していた。
 対馬側の被害は次のごとくであった。奪われた船129艘、そのうち良船20艘は接収され、残りはすべて燃やされた。焼かれた家1939戸、斬首された者114名、捕虜21名、保護された明人131名であった。朝鮮側の被害は、戦死者180名で、兵船の被害はなかった。
 朝鮮軍が対馬で拠点とした所は、いずれも早田一族の根拠地であったが、この地域は朝鮮軍にきわめて協力的であった。それに対して、糠岳など激しい戦闘のあった所は宗一族の根拠地であった。
 太宗の死後、対馬を慶尚道の管轄下に置いて内国化する方針は放棄された。それに代わって、種々の特権を与えて対馬島主を忠実な外臣とすることが、朝鮮の対馬対策の主眼となった。(この項、高橋公明著「朝鮮軍の対馬島襲撃 応永外冠」、『大明国と倭寇―海外の視点◎日本の歴史』から)。
    李朝水軍の戦艦
                李朝水軍の戦艦(『 大明国と倭寇―日本の歴史7』)
 
 倭寇(海賊衆)を利用した
 高麗王朝に対する琉球から派遣された使節も、倭寇による被害を受けていた。
朝鮮への使節派遣は高麗王朝時代の1389年(洪武22)、中山王察度より開始された。
<『高麗史』には、琉球の中山王が玉之を使者として、表文を奉じ、倭賊に捕えられた高麗人を帰し、硫黄300斤・蘇木600斤・胡椒300斤と甲20を献上した、と記している。
 那覇は国際港の観を呈していたらしく、日本からの船もここに多く立ちより、倭寇に捕えられた高麗の被虜人も転売されたにちがいない。
 李氏朝鮮が成立すると、太祖即位の2か月後の1392年9月には、はやくも中山王察度の使者が朝鮮に渡って、倭寇による被虜人男女8人を送還し、1394年には察度と世子武寧とが礼物を朝鮮に送り、男女12人を送還し、朝鮮に逃亡していた山南王承察度の送還を要請した。ついで1397年には中山王察度の名で被虜の朝鮮人と遭風の朝鮮人9人が送還され、翌年には翌年には山南王が朝鮮に逃亡した。
 1423年正月に琉球国使と称して朝鮮国王に土物(土産の物)を献じたものがあったが、琉球使者を偽装して朝鮮に入る人物が登場したのである。これより2年ほど前に、琉球船が朝鮮に渡航しようとして対馬島の賊に襲われたという事件があったことから考えて、偽琉球使は対馬人か倭寇の一味のものではなかったかと考えられる(田中健夫著『倭寇 海の歴史』)。

 当初、琉球は独自に貿易船を仕立てて朝鮮へ派遣していた。だが1421年(永楽19)、朝鮮へ向かう琉球船が対馬の海賊に襲撃され、死者数百人、貿易品は略奪され、生存者は奴隷として連行、船も焼失するという惨事が発生した(『朝鮮世宗実録』)。
<琉球船はすでに朝鮮への使節派遣の際から、倭寇に襲撃され、大きな被害を受けていたのである。
 そこで、考え出されたのが、北九州・対馬・朝鮮間で構築されていた「倭人」の交易ネットワークを利用すること。「対馬・博多の海商的勢力に便乗する形態であった」(上里隆史『海の王国―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』対朝鮮―「倭人」のネットワーク)。>
 10年後の1431年(宣徳6)、琉球は再び朝鮮へ使者を派遣したが、驚くことに倭寇(海賊衆)を利用したという。
 <この時の派遣船の主は「対馬の賊首」と呼ばれた早田六郎次郎であった。彼は対馬の豪族、早田左衛門太郎の子で、この頃の早田氏は対馬島主の宋氏をしのぐほどの実力者となっている。
 六郎次郎は交易のため那覇にたまたま滞在していたが、琉球はこの機会を利用し、彼の商船に便乗して朝鮮を訪れたのである。早田氏は1421年の琉球船襲撃にも関与していた可能性があるが、琉球側が逆に彼らを「警固」として雇い、単独で向かうには危険な対馬海峡を通過したようだ。(同書)>

 この時の琉球使節は朝鮮国王に対し、次のように述べている。
「我が琉球は武寧・思紹王の頃より朝鮮と友好の礼を互いに行ってきました。しかしその後、倭人(倭寇)が(通交を)妨害し、ひさしく修好を行なえませんでした。昨年、以前のようによしみを通じようと船を準備して風を待ちましたが、数か月もよい風が吹きません。そのとき、対馬の賊首・六郎次郎の商船(1隻)が琉球に滞在していたので、それに便乗してやって来ました」(『朝鮮世宗実録』13年11月)
 かつて琉球使節は対馬海賊の船に乗って朝鮮にやってきたことになる。かつて琉球船を襲った勢力かもしれない。だが、危険のある対馬海峡を渡り、朝鮮との通交を行なうためには、海商でもある倭寇の船を利用すれば、再び襲われる心配はなく、安全であり便利でもあった。
 <琉球は中世日本で一般に行なわれた社会慣行を活用して海賊衆(倭寇)を味方につけ、もっとも安全な方法で朝鮮王朝との通交を再開したのである。この便乗・委託方式は以後も踏襲され、琉球の対朝鮮通交の基本スタイルとなる。…通交は主に、倭寇に拉致された朝鮮被虜人や漂流民の送還を名目に行われた。琉球には倭寇に拉致された人々が多数やって来ていた。(上里隆史『海の王国―「海域アジア」屈指の交易国家の実像』)>

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倭寇は琉球船を襲わなかったのか、その1

 倭寇は琉球船を襲わなかったのか

 琉球王国は、中国をはじめ東アジア、東南アジアの諸国との貿易によって栄えた交易海洋国家だった。交易のため、古くから船舶を自由に操り航行していた。中国への朝貢と交易のため定期的に東シナ海を渡海していた。このため朝貢や交易は、たえず倭寇、海賊による襲撃の標的にされた。
 ただし、「倭寇は琉球の朝貢船を襲わなかった」「倭寇と琉球は協定を結んでいた」という説が流布されている。でも、その根拠となる史料は見かけない。ある種の「歴史神話」のようなものではないだろうか。
 琉球船は倭寇、海賊からどのように扱われたのか、襲われたのかということを軸にしながら、あまり学んだことのない倭寇問題について、研究者の方々の論考を参考にして学んでみたい。
 
 倭寇とは何か
 倭寇(わこう)とは、13世紀から16世紀に、朝鮮半島から中国沿岸にかけて活動した海賊や商人集団の総称である。倭は日本を指す。前期倭寇は日本人が多かったが、後期になると中国人が多かったといわれる。海賊と言われるが、海賊的な行為だけではなく、交易、密貿易を行なう貿易商人の集まり海商としての性格があったという。海賊との関係では、倭寇はその一つである。
<1350年(正平5∥観応1)以後,大規模な倭寇が高麗沿岸から中国遼東半島を襲った。倭寇は対馬,壱岐,松浦地方の住民が主体で,対馬を根拠地にして,米豆などの食糧と住民を略奪した(「世界大百科事典」)。>

 先に倭寇には前期倭寇と後期倭寇の二つの時期があると書いた。だが倭寇の研究者、田中健夫氏は、二つの時期の倭寇は、同じ性格、内容のものではなく、連続性を認めるのは適切でないとして、「14~15世紀の倭寇」「16世紀の倭寇」という呼び方をとる(田中氏著『倭寇 海の歴史』)。
 倭寇の行動は、朝鮮半島の南岸や黄海沿岸から中国大陸の沿海地の遼東・山東・江蘇・淅江・福建・広東の全域に広がり、日本海沿岸もその舞台となった。
 朝鮮には「三島の倭寇」「三島の賊」という言葉があるという。三島とは、日本の対馬・壱岐・肥前松浦等の地方を指している。農業の生産性はきわめて低く、交易と漁業が重要な生活の手段だった。「三島の飢民はつねに倭寇に転化する要因を内包していた」といわれる。

 高麗王朝を揺るがせた倭寇
 以下、田中健夫著『倭寇 海の歴史』を参考にして見てみたい。
 倭寇発生の年とされる1350年、高麗の忠定王2年2月に、日本人が朝鮮半島南部に侵入し、高麗がこれをむかえ撃って破り、300余人を斬獲したという。『高麗史』は「倭寇の侵」がここにはじまったとしている。同2年の4月に100余艘の倭船が順天府を襲って、官米を運送する漕船(そうせん)を略奪したという。倭船の襲来は続いていく。
 この時代、高麗は攻めてきた元との戦争が起り、国内が空前の疲弊の状態におかれていた。
 恭愍王の治世(1352~1374)は、倭寇の活動が本格化する時期である。1358年には、倭寇のため財政が窮乏し、経済危機とともに軍政も崩壊し、地方行政の機構も停止の状態に追いこまれ、全羅道等沿岸地方の倉庫を内陸部に移すなどの処置がとられた。

 この時期、倭寇は次のような特色がある。
① 行動の目標が、米穀などの生活必需品の獲得におかれていた。米穀を運ぶ漕船と備蓄しておく官庫が主要な攻撃対象とされた。
② 南部沿岸ばかりでなく主都開京(開城)付近まで攻撃している
③ 20隻ぐらいだった船団から兵数3000とか船数400余とかいわれる大規模な倭寇があらわれた。
 恭愍王の治世の後半から、つぎの辛禑王の時代(1375~1388)にかけては、倭寇の侵冠が極点に達した時代である。
 このころから倭寇の活動が狂暴化を増したことは確かである。
 倭寇は約40年間にわたり、朝鮮半島の沿岸を荒らし回った。高麗王朝は1392年には倒壊に至った。
    明・朝鮮との主要交通路と倭寇
             明・朝鮮との主要交通路と倭寇(『大明国と倭寇―日本の歴史7』から)
 
 倭寇に懐柔策もとる
 倭寇を相手に活躍した高麗の武将の一人に李成桂がいる。
 辛禑王の時代の倭寇は、行動範囲が北朝鮮の竜州(義州)までのび、南朝鮮の全羅・慶尚地方では奥地まで倭寇が入りこんだ。さらに大規模な騎馬隊の集団があり、多数の高麗賤民が倭寇に合流して行動していたという。
李成桂は1392年、群臣から推されて王位につき、李氏朝鮮を開いた。
 朝鮮初期の倭寇は規模が小さくなり、侵略の地域も沿岸の地方にかぎられるようになった。
 朝鮮側は倭寇に対して懐柔策をとった。
 第一は、倭寇の 首領に降服帰順をすすめ、降服すれば田地や家財をあたえて優遇し、さらに妻を娶らせて安住させようとした。降服した日本人は投化倭人・降倭・向化倭人などとよばれた。
  
 第二は通商の許可である。西日本の諸豪族の使人が頻繁に朝鮮に渡航した。使人倭人・客倭などとよばれて接待をうけた。使人倭人とならんで興利倭人が頻繁に渡航した。商業活動のために渡航した日本人である。
 高麗から朝鮮にひきつがれた政治折衝と軍備の拡充、倭寇の首領に対する降伏勧告、通商許可、倭寇自身が奥地に深く入りすぎて自滅したことなどの諸要因が重なって、倭寇は変質・分解を余儀なくされた。
 転身の方向は3つあった。
 第一は投化倭人、第二は使化倭人または興利倭人、第三はもとのままの海賊である。第三の場合も朝鮮半島での行動をやめ、もっぱら中国大陸方面を活動の舞台とした。(参考・田中健夫著『倭寇 海の歴史』)。

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富山の薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード、その6

 太平洋航路で遭難も
 これを見ると、松前から直接、薩摩まで運航する船もあった。以前、松前船は大坂に向かうので、薩摩までは来ていないと思っていた。
 尚古集成館館長・松尾千歳氏も「北前船で北海道の船は直接鹿児島に来ていないと思いますが、積み荷の多くは大坂などを経由して薩摩に運ばれて、琉球を経由して中国に輸出され、大量の物資が鹿児島経由で外国に流れました。長崎以外、鹿児島は海外交易で重要な役割をしていたということです」とのべていた。
でも、実際には薩摩まで来た事例がある。
 「薩摩藩に領外の船が容易に入港することは困難であったが、むしろ昆布積載の北前船は薩摩が積極的に招いた領外船であり、昆布購入の重要な手段の一つとなっていた。(徳永)」
ただ、薩摩まで来た船も、北前船というのだろうか。それには疑問がある。
北前船の定義をみると「大阪と北海道を日本海周りで往復していた」「寄港地で積荷を売り、新たな仕入れもした」「帆船」があげられる(「北前船公式サイト 北前寄港地・船主集落」から)とある。
松前から薩摩まで来るとなれば、もはや北前船の範疇を超えるものかも知れない。
  それに、西廻りだけでなく、東廻りで薩摩まで来る太平洋航路の例もあったという。これも、日本海を航行する船を北前船と呼ぶ定義からすれば、やはり北前船という呼び名は相応しくないかも知れない。

 先にあげた、松前から薩摩に向かう雇用船が、難破して八丈島に着いたことを見ると、東廻りの太平洋航路で薩摩に向かったことがわかる。
 しかし、船が遠江沖にて難船したため、「400両余之損毛ニ相成、栄福丸元手金も無御座候付」(嘉永3年10月20日付富山密田喜兵衛外6名より木村喜兵衛・同与兵衛宛書状)、400両余も損失が出て、資金繰りが極度に悪化したという。(徳永和喜著『薩摩藩対外交渉史の研究』)>

 能登屋(「密田家」)の持船、北前船「長者丸」が、天保9年(1838)、昆布を薩摩へ運ぶため、西廻航路(日本海側)より危険な東廻航路(太平洋)を航行中に三陸沖で暴風雨にあい、遭難したこともあった。
 昆布などを秘密裏に薩摩に運ぶために、あえてリスクのある東廻り航路を選ばざるを得なかったのだろう。密貿易には危険が付いて回ったことがうかがえる。

 昆布が討幕資金にも
 薩摩藩は、財政破綻の寸前となり、借財は500万両もの巨額(現在の貨幣で約2500億円)にのぼった。1827年、当時の藩主・島津斉興は、調所笑左衛門を抜擢し、財政再建を命じた。
 その柱の一つが、幕府御禁制の昆布の輸出や唐薬種などの輸入の推進であった。奄美大島、徳之島などの砂糖を一元管理する専売制を行ない増収を図った。江戸・京・大坂など商人からの負債を踏み倒し同然の250年賦の無利子償還を押しつけた。
 この財政建て直しで、借財五百万両を処理した上、五十万両もの蓄財の目標を達成し、100万両を超える非常用積立金をつくった。調所は、最後には家老にまで上り詰めたが、嘉永元年(1848)調所は、幕府老中の阿部正弘に密貿易の件を追及され、江戸で服毒自殺をした。これにより薩摩藩は幕末期に日本で屈指の裕福は藩になった。
 
 薩摩藩は嘉永4 年(1851)、11代藩主になった島津斉彬のもと、ガス灯・ガラス・陶磁器・紡績をはじめ、火薬・弾薬・小銃・大砲などの洋式の製造所を建設した。これらは「集成館」と呼ばれた。西洋事情に詳しかった斉彬が列強の武力を危惧して進めた。
<集成館で鋳造した大砲が後にイギリスの軍艦に大打撃を与え、倒幕の武器にも用いられた。密貿易で得た利益が結果的に倒幕資金の一助となり、明治維新を迎えることになる。」(池本正純著「著昆布と富山売薬商― 北前船が運んだ倒幕のエネルギー」)>
   尚古集成館(鹿児島市明治維新 150 年カウントダウン事業ホームページ)
          尚古集成館(鹿児島市明治維新 150 年カウントダウン事業ホームページ)
          
 隠密として薩摩を助けた売薬人
 薩摩組は、売薬と昆布の廻送だけでなく、薩摩藩の命により隠密として行動したことも知られている。売薬人はどこでも自由に入り込み行動する。しかも、全国に情報ネットワークを持っている。そこに薩摩は目を付けたのだろう。
 安政5年(1858)、薩摩藩主の島津斉彬が急死し、弟久光の長男忠義が藩主となった。後見人として藩の実権を握ったのは久光だった。文久2年(1862)に公武合体を進めるとして千名の兵を率いて京都にのぼった。
 その際、密命を申し渡された。「密田家文書」文久二年戌十月「願書留」には、次のように記されている。現代語訳で引用する(村田郁美著「薩摩組の働きから見る富山売薬行商人の性格」)。

「御出発される際に私たちは極内御用を仰せつけられました。……4月には大坂において御役方様を御方へ御付添い申上げ、近江辺りまで遣い置かれました。……同所から京都に御滞在中、また東海道筋江戸表までも恐れながら守護させていただきました。江戸に御滞在中の間もまた同じです。御帰国の際にも恐れながら守護させていただきました。」
 隠密役を任命された売薬人6人の名前を上げて、「隠密御用を請け負ってくれたため金子を渡します」と感謝の言葉100両が渡された。(「隠密御用の骨折につき金子下渡の書付」)。
 6人の中に五兵衛の名があるが、金盛五兵衛のことだと見られる。
 久光の挙兵を知った金盛五兵衛と杉井伊平は京都に行き、頼まれて大坂の薩摩藩邸に入り、動きを探っていた。薩摩藩の過激派が久光は討幕の意志はなく、公武合体派と知ると、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃し、久光に討幕への蜂起を即すことを狙っていた。この密談を耳にした五兵衛は、志士たちが寺田屋にいること久光に報告。これを聞いた久光は説得を試みたが止められず、寺田屋で過激派を粛清した。
 
 寺田屋事件、鳥羽伏見の戦いの際にも、命を賭して情報集めに奔走した五兵衛には、久光から褒美として太刀が贈られた。太刀はいまも金盛家に伝わっている。NHK番組「歴史ヒストリア」でも、この太刀を紹介していた。
 富山の売薬商人は、薩摩では単なる薬売りにとどまらず、昆布の買い入れから北前船による廻送、さらには薩摩の密偵まで行っていたとは、改めて驚くほどである。
「昆布ロード」によって、各地の独自の昆布食が生まれた。昆布の輸出の窓口となった沖縄は、昆布が採れないのに消費量が全国で上位にある。売薬人が昆布の買い入れから廻送にかかわり、北前船で大量の昆布が運び込まれていた富山市は、昆布の世帯当たり年間購入金額では、ダントツの一位だという。

 富山の昆布とのかかわりは、これで終わらない。
「明治の頃、富山県から全国各地へ開拓を求めて移住する人や出稼ぎに行く人が増加し、その中でも北海道へ行く人は多かった。 北海道移住者のなかには、昆布を含めた漁業に従事する人もおり、昆布の産地として有名な羅臼町の町民の7〜8割が富山県出身者だったという。(池本正純著「昆布と富山売薬商― 北前船が運んだ倒幕のエネルギー ―)」
 昆布の生産にまでかかわりがあったとは、初めて知った。
 沖縄とあまりかかわりがないと思っていた沖縄と富山には、こんな縁があったことに興味がつきない。
  終わり
 

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富山の薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード、その5

 海難事故で密貿易が露呈
 この新潟付近での「密貿易」は、思わぬ海難事故によって幕府にも露呈することになった。
薩摩湊浦に所属する八太郎の持ち船が天保6(1835)年、遭難して越後国長岡領村松浜に漂着した。この船の積載荷物には唐薬種、毛織物、鼈甲(櫛・簪に細工)、犀角等の御禁制品が多く積み込まれていた。
 このブログでもすでにこの件については、次のように書いていた。
上原兼善氏は「薩摩船が唐薬種類を新潟湊で松前産の俵物・諸色の類と換えていた」と指摘している(『近世琉球貿易史の研究』、「薩摩船による北国筋における抜荷」)。
俵物(たわらもの)とは、俵に詰めて輸出された煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の海産物のこと。諸色(しょしき)は、昆布、テングサ、スルメなど。
 
 幕府の命を受けて探索にあたった川村修就が報告書「北越秘説」のなかで、次のように報告している(要旨)。
<新潟町で琉球廻りの唐物抜荷を密かに探索したところ、事件が発覚する6ヶ年ほど前までは毎年6艘ぐらいずつ薩摩船の入津があり、春は薩摩芋、夏は白砂糖・氷砂糖などをもたらし、船の下積みとして唐薬種・光明朱(色鮮やかな上等な朱)などを多量に積み込んできて公然と交易していたこと、領主もそれを了解し、薩州船よりは特別な運上を取り立てていたこと、そして不正の唐物は奥羽をはじめ、北国筋にも出回っていたことなどを情報として摑んでいたのである。>
事件は「同湊が琉球唐物抜荷の北国の拠点であったことを象徴的に示していた」。
幕府は、松前・蝦夷地より、煎海鼠・干鮑・昆布薩摩・越後辺りへ抜け散っているとの風聞を指摘して、長崎会所以外への販売を禁じる抜荷取締り令を発していた。(上原著『近世琉球貿易史の研究』)

 「新潟湊には春秋2度にわたって薩摩船が入船し(春船・秋船)、唐薬種・砂糖・鰹節・芋などの類をもたらしていたが、事件は唐薬種の類が新潟から、またさらに越中富山・信州・上州にまで抜け散っていたことを示していた」「薩摩船が九州へ下るにあたっての積荷は、松前産の俵物・諸色の類が主力をなしていたであろう」(同書)
積載荷物は村役・新潟町問屋によって隠蔽され、その後東北・北陸地方へ販売された。
「新潟湊には春秋2度にわたって薩摩船が入船し(春船・秋船)、唐薬種・砂糖・鰹節・芋などの類をもたらしていたが、事件は唐薬種の類が新潟から、またさらに越中富山・信州・上州にまで抜け散っていたことを示していた」「薩摩船が九州へ下るにあたっての積荷は、松前産の俵物・諸色の類が主力をなしていたであろう」(同書)

 天保7年、新潟と江戸で密売組織が摘発された。
 老中水野忠邦は、薩摩藩に天保十年(1839)から琉球口貿易を止めるように命じた。だが、弘化二年(1845)には水野が失脚すると琉球口貿易も復活した。結局、幕府は薩摩藩の密貿易を封じ込めることができなかった。
     北前船寄港地
                   北前船の主な寄港地
 薩摩まで運んだ船も
 北前船は、松前から日本海を通り、瀬戸内海に入り大坂に着く航路が通常である。
薩摩への昆布は、さきに見たように新潟付近で密買いする場合もあれば、大坂から船で薩摩に運ぶ場合もあった。
昆布廻送のルートについて『富山売薬業史史料集』から徳永氏が10の事例を紹介している。
そこからいくつかピックアップしてみると。
 ①松前で買い入れ、薩摩に届けた②越中を出発し、大坂に入る。松前向けに出帆のため越中に帰える③越中の雇用船が遠江沖で遭難し八丈島に漂着した⑤昆布廻送船が薩摩の前之浜に無事に着いた⑥越中から松前に出帆した。荷物を積めば直接薩摩に向かう⑦松前に着き昆布を注文し、越後新潟表へ一往復した。薩摩に向け出帆する、などの運航がうかがえる。
 この中には、次のような具体例がある。
 <「栄福丸松蔵当月朔日ニ此地より下筋へ出帆仕候、直様御地へ相廻し候間」(仲間より木村喜兵衛・同与兵衛宛書状)とあり、「栄福丸松蔵義石昆布昨年之通り申付、6月上旬松前表へ出帆」(富山鳥宮島屋仙蔵他7名より木村与兵衛宛書状)とある。前者は6月1日に、後者は同月上旬越中を出帆、松前向けの航海となり、松前での物資集荷後は直接」薩摩に向かう旨が記されていることは重要な航海ルートを示している。(徳永和喜著『薩摩藩対外交渉史の研究』)>

 薩摩への到着については、「栄福丸事茂9月9日夕前之浜江無事ニ而入津仕候」「栄福丸9月上旬御地へ着船仕候」という記録もあり、薩摩城下前之浜に到着していることがわかる。
 松前で物資を積んだ後は直接、薩摩に向かうとされる。
 <(別の)書状「当夏献納之三ツ石昆布(※)1万斤、松前表買入直段を以、鹿府迄無運賃にて相届ケ」(油屋又八・同又兵衛より能登屋喜兵衛・鳥羽屋五左衛門宛書状)にも、松前から直接薩摩に向かうことは記されているが、具体的航路については明記されていない。しかし、富山密田喜兵衛外8名より木村喜兵衛・同与兵衛宛書状下書は、雇用船が難破し、八丈島に着いたことを知らせている。「雇船仕(略)、右船当正月6日遠江沖にて難船仕」と、遭難した場所と月日がわかるのである。しかし、冬のこの時期は本来の廻送船の松前出帆の時期とはかなり差違があるように思われる。雇用船があったことは、昆布廻送船が一艘だけではなかったことを物語っている。(同書)…>
 注・三ツ石昆布 北海道の旧・三石町(現・新ひだか町)を主産地とし、一般には「日高昆布」と呼ばれている。

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