fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

富山の薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード、その4

 富山へ運ばれた唐薬種
 薩摩藩は、昆布輸出の代償として、琉球口を通して中国から唐薬種(竜脳・沈香・山帰来、辰砂、麝香、牛黄など)や塗り物に使う光明朱などを輸入して、富山を始め各地に売り捌いていた。幕府は唐薬種の輸入は長崎を窓口としており、薩摩藩の輸入と販売は抜荷(密貿易)であった。薩摩からもたらされる唐薬種や光明朱は、「品が安い、品質が良い、流通が早い」ので、よく売れた。富山の売薬商にとっても好都合だった。
 <差留解除のために始まった昆布回船であったが、薩摩組(売薬人)にも利益はあった。献上品の昆布1万斤はもちろん別だが、運んできた昆布は市場価格で買ってもらえ、見返りに良質で安い薬種を売ってもらえた。薬種は普通、中国から長崎・出島、長崎・出島から大坂へ運ばれ、大坂の薬種問屋が独占して売っていたため高かったのだ。従って、昆布廻送の見返りとして得た薬種は薩摩組の貴重な利益の一つだったといえよう。(村田郁美著「薩摩組の働きから見る富山売薬行商人の性格」 )>

 昆布ルートを担う北前船
 北海道や東北の物産を江戸や大坂に運ぶ航路は、東廻り航路と西廻り航路があった。17世紀に豪商の河村瑞賢が幕府の命を受けて整備した。これによって物流が大幅に改善された。
 <18世紀のはじめころになると、西廻り航路が東廻り航路にくらべてさかんに利用されるようになりました。というのは東廻り航路では太平洋側を北に向かう黒潮の流れにさからって走らなければならないため、当時の船では航海がたいへんだったからです。また、西廻り航路のほうが荷物を安く運ぶことができたからでした(「日本海事応報協会HP」)。
  太平洋に出る東廻り航路は危険もともなった。
     唐船の図  
            中国への進貢・交易に使われた唐船の絵 
 昆布など蝦夷地の産物を運び、薩摩で売薬をする上で重要な役割を果たしたのが北前船だった。北前とは「日本海側」を意味し、北の日本海から来る船を「北前の船」と呼んだことに由来するそうだ。
富山の売薬商人が出かける時、薬行李を背負うのではなく、物資の集散する地域までは北前船に乗り、薬荷として積載していった。
 <北前船は、松前から大坂までの経路であり、北海道の産物や東北の米などを運ぶと同時に、大坂や瀬戸内海から塩、酒、雑貨類、また、北海道には水田がなかったため、筵むしろ、縄なども運んでいます。
 大事なことは、船主から預かった品物を運ぶだけでなく、寄港地で安いものがあれば買い、高くで積荷が売れれば売るということを繰り返しながら、松前と大坂の間を行き来したことです。当初は近江商人が、後には一攫千金を夢見て多くの人が船を持つようになりましたが、「板子一枚下は地獄」と言われるくらい遭難の危険があり、命をかけて携わりました。この船は江戸時代後期には、「千石船」あるいは「弁財船」とも呼びましたが、一艘造るのに何百両とかかったそうです。一航海でだいたい一千両くらい儲かったことから、それを夢見て千石船を購入し、また、そういう身分になりたいと願ったのが北前船に携わる人々でした。(鹿児島市維新ふるさと館 前特別顧問 福田賢治氏「第29回北前船寄港地フォーラムin鹿児島」講演)>
 
 「薩摩組」などの売薬商人が、売薬だけでなく、昆布の買い付けと廻送まで手掛けるようになり、事業は順調だったようだ。
 <弘化4年正月に借入れをし、同年の10月には元金100両・金利50両を返済している。さらに、翌嘉永元年は元金100両と金利48両が返済され、順調な返済状況がみられている。この2年間における返済金額は元金200両・金利分98両の合計298両におよぶ返済がなされ、これらは昆布廻送による利益と考えられ、昆布廻送事業が好調にすすんでいることを物語っている。(徳永和喜著『薩摩藩対外交渉史の研究』)>
 
 昆布ロードはどのようなルートか
 北海道・松前で買い入れた昆布が、北前船によって運ばれ、薩摩藩に渡り、さらに琉球を通じ中国に輸出されるこの昆布流通の経路は「昆布ロード」と呼ばれた。
 中国への輸出のための俵物・昆布は、幕府御禁制であった。北前船は、「薩摩の密貿易」の担い手でもあったことになる。
 <密貿易に二つのルートの存在が知られる。一つは、「新潟海老江近辺江、重而松前産之煎海鼠多分相廻り、直ニ薩州船江密売いたし候」とあり、売手が松前産の煎海鼠(なまこ)等を新潟辺まで運び、この海域で密貿易がなされていることを示している。もう一つは、「近来薩州船を外国之商船ニ仕立、松前江差廻し、俵物類密売いたし候」とあるように、薩摩藩から直仕立ての船がやってきた密買をしているというのは、誇大的に訴えたのではなく、事実そのように見えたはずである。というのは、薩摩藩は意図的にか、琉球より福建州への進貢貿易船の武装用櫓を取り外し船を密交易に用いたものと考えられるからである(天保年間の史料「天保6年4月、土方出雲言上書」から、徳永和喜著『薩摩藩対外交渉史の研究』)>

スポンサーサイト



日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

富山の薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード、その3

  昆布は中国への最大の輸出品
 昆布は、薩摩藩が琉球を通じて中国との進貢貿易を経営しており、最大の輸出品であった。中国では、甲状腺障害が流行して予防のためヨードを多く含む昆布が求められていた。
幕府の鎖国政策では長崎港を貿易の窓口としていたが、朝鮮口(宗氏)・琉球口(島津氏)・松前口(蠣崎氏)もこれに準ずる扱いを受けていた。琉球中国に朝貢し冊封を受ける独立国であったが、薩摩藩は1609年の琉球侵攻以来、琉球口を窓口とする中国交易を最大限に利用した。
      
 <薩摩藩の密貿易といわれますが、薩摩藩は幕府から輸入して良いと許可(長崎奉行の藩主光久宛書状)されており、決して密貿易ではありません。ただ、許可以外のものを取り扱ったり、許可された量をオーバーしていたのが、少し悪かったのです(徳永和喜氏=西郷南洲顕彰館館長、「第29回北前船寄港地フォーラムin鹿児島」講演)。>
 中国との貿易にあたっては、昆布など海産物が重要な輸出品であった。
<「同(薩摩)藩が支配する琉球口貿易で海産物は進貢品として最も貴重な存在であった。この海産物とは幕府ご禁制の俵物(煎海鼠・干鮑・鱶鰭)と昆布であり、中でも昆布は数量的にも群を抜いた輸出品であった。特に松前でしか生産されないことを考えると、薩摩藩の昆布調達には難しい問題が多かったと推測される。遠隔地松前での昆布入手・廻漕は不確実であり、「薩摩組」に請け負わせることで、より確実に、しかも薩摩藩が表に立つこともなく、難船の場合にも藩及び藩雇船への影響がない等から、他国船の活用―薩摩組の利用が企図されたものといえる。」(徳永和喜『海洋国家薩摩』、池本正純著「著昆布と富山売薬商― 北前船が運んだ倒幕のエネルギー」から)
   富山薬売りと昆布、NHK
              NHKテレビ「歴史ヒストリアーー富山の薬売り」から

 俵物(煎海鼠・干鮑・鱶鰭)や昆布の調達では幕府の長崎港貿易との競合することになり、唐物(からもの)を販売する中国商人とも競合することになった。
 <干鮑、煎海鼠(干しなまこ)、鱶鰭(ふかひれ)に詰めて輸出する海産物ですので、俵物三物といいます。長崎貿易の中国商人団が、長崎で日本から輸入しても、すでに薩摩から琉球口に入って中国全土に売り渡って売れない、中国から日本に持ってきても、すでに琉球口から薩摩に入って日本全国に売られていると、中国商人団が幕府に訴えています。加えて、品が安い、品質が良い、流通が早い、この三拍子が揃いますと、幕府が正式に認める長崎貿易での中国商人は貿易が成り立たないとの訴状が記録されています。薩摩の場合、新潟港を中心に、6年間で6艘入港しています。隠して持ってくる品物が漢方薬や光明朱等でした。その光明朱は、東北の会津塗・北陸の輪島塗、信州の木曽塗と3つの日本を代表する所に薩摩の光明朱が入っていました。琉球を介した琉球口貿易で薩摩は入手していました。(徳永和喜氏「第29回北前船寄港地フォーラムin鹿児島」講演)>
 注・光明朱は品質の上等な朱=赤色の顔料

 幕府は薩摩藩の密売買を勘づいて「煎海鼠・干鮑・鱶鰭・昆布とも長崎会所直買入」と窓口を長崎に限定し、密売買の厳しく取り締ったことがある。
 だが、薩摩藩は利益の大きい松前産の俵物や昆布の中国への輸出を止めずに、幕府の目を逃れて続けた。

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

富山薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード、その2

 薩摩藩だけ別集団が担当
 先駆的だった九州での富山売薬は、薩摩藩以外の九州全域を「九州組」が回り、薩摩藩だけは「薩摩組」という別集団の担当となっていた。
薩摩組」の人数 天明3(1783)年13人 寛政9(1797)年22人 文化13(1816)年 26人 万延元(1860)年 26人にのぼった。(徳永和喜氏著『薩摩藩対外交渉史の研究』)
 薩摩は火山灰地で米作に適さず農業による生産力が低かった。幕府から江戸城の改修、木曽三川治水工事を命ぜられたり、島津家から将軍家に女性を嫁がせる費用など財政はひっ迫していた。
 薩摩は地理的に辺境の地というだけでなく、他藩からの出入りを厳しく監視する閉鎖的な藩だった。藩外の商人が薩摩の領地内で商売をし、売り上げ代金(貨幣)を領外に持ち出すことは極力避けようとした。
 
 また、薩摩藩は浄土真宗を禁教としていた。これは琉球でも同様に禁教とされていた。一方、蓮如の布教活動によって北陸では浄土真宗が広がり、富山は「真宗王国」と呼ばれるほど浄土真宗の信仰が盛んなところだった。薩摩藩内で売薬人が浄土真宗と知られると営業停止になりかねないので、あえて越中富山と名乗らずあえて越中八尾と名乗っていた。

 薩摩藩からしばしば規制された薬売り
 藩財政の倹約令や災害による窮乏化や薩摩藩自身で配薬を始めたために富山売薬商人がしばしば営業を差し留められた。
天明元年(1781)〜天明三年(1783)、天明七年(1787)〜寛政元年(1789)、寛政十一年(1799)〜享和元年(1801)、文政十年(1826)〜天保三年(1832)、嘉永三年(1850)〜安永二年(1855)の計五回も差留を受けた。
差し留の解除であたって、重要な役割を果たしのが、昆布だった。
 4回目の差し留にさいして薩摩組が冥加として昆布一万斤・献金として金二〇〇両を薩摩藩に毎年献上することで解除されることとなった。
 5回目の差し留には解除の際の御礼金などは、製薬方へ金三〇〇両・鉛一〇〇〇斤・毎年一〇〇両、琉球方へ昆布一万斤というふうに多額なものであった。(村田郁美著「薩摩組の働きから見る富山売薬行商人の性格」)
    薩摩と富山、昆布
            
         NHKテレビ「歴史ヒストリアーー富山の薬売り」から
 薩摩組が藩と直接交渉するのではなく、薩摩商人で町年寄(※)の木村喜兵衛が仲介役を果たしていた。
薩摩組の商人たちはたびたび営業停止を受けたが、その度に木村喜兵衛が差止解除を藩に交渉し、また時には差止を未然に防ぐために薩摩藩に喜ばれる献上品の提案も行った。松前産の昆布も、もとは薩摩組が薩摩藩領で営業を認めてもらうために、木村が指示した献上品の一つだった。」(池本 正純著「昆布と富山売薬商― 北前船が運んだ倒幕のエネルギー ―)
 注・町内の日常行政を取り扱う町役人の筆頭。

 薩摩藩が「薩摩組」に領内での売薬認可の代償として「昆布」の献上、一定量の納入を求めた。売薬商である薩摩組が、蝦夷地からの昆布の輸送を営むには新しく船を建造する必要があるが、木村はその費用のため五百両の融資を申し出たという。
1847年(弘化4)、薩摩組は仲介人である鹿児島町年寄の木村喜兵衛から総額500両の資金援助を受けて昆布の運搬を開始する。昆布を買い取ったのが薩摩藩であることが幕府にばれぬよう、薩摩藩は町年寄である木村を仲介役とし昆布を購入させていたようだ。
 <蝦夷からの昆布輸送に要る資金として、薩摩藩主から総額500両の助成(借入金)を受けていた。昆布6万斤を仕入れ、1万斤は薩摩藩主へ献上、残り5万斤は薩摩藩で買い上げるというものであった。(米原寛著「越中売薬の壮大な展開『先用後利』の大事業」)>
          薩摩から500両、NHK
              NHK同番組から
       
 昆布輸送の資金援助を受けて昆布を運搬し始め、嘉永二年(1849)には薩摩組が昆布廻船を担うようになった。「薩摩藩から要求された献納昆布の調達により、薩摩組の売薬業の性格が一変した。薩摩組は北海道での昆布直接買い付けを手掛けた頃から廻送業的な役割を維持しなくてならなかった(徳永和喜著『薩摩藩対外交渉史の研究』」>

 薩摩組を構成する商家のひとつに密田家(林蔵)がある。能登から富山町に移住したので能登屋と号していた。天保期には二隻の船を持ち、400石積みの中型船「栄久丸」と650石積みの大型船「長者丸」で、ともに蝦夷地で昆布を買い付けて薩摩へ輸送していた(村田郁美著「薩摩組の働きから見る富山売薬行商人の性格」)。

 薩摩と富山売薬人の関わりを知った時、売薬人は昆布調達の仲介をしただけかと思っていたが、そうではない。売薬商人なのに、北海道での昆布の調達から、廻送まで担うようになったとは、驚きだった。

 

日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

富山薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード、その1

 富山薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード

 富山の売薬商人と薩摩藩は昆布をめぐり深い関係があったことを、このブログで書いた(2020.6.28)。この問題を研究されている徳永和喜氏の著書『薩摩藩対外交渉史の研究』(鹿児島県歴史資料センター黎明館調査史料室長)を読んだところである。
 先のブログは、部分的な問題で終わっていたので、改めて徳永氏をはじめとするこの問題の関連論文を参考にして「富山薬売りと薩摩を結ぶ昆布ロード」を書いたみたい。

 富山の薬の起源
 越中富山の薬売りといえば、わが郷里の高知県の田舎まで置き薬をもって回って来ていたことを思い出す。そもそもなぜ富山で薬作りが盛んになったのか。
 富山県には何回か行ったことがあるが、南に立山連峰がそびえ、北には日本海が広がり、水も豊富で食べ物も美味しい印象がある。
だがかつての富山藩は、120万石を誇る大名・前田家の加賀藩の支藩だった。石高はわずかに10万石。稲作には不利な領地だった。
 厳しい自然環境のもと、富山藩は長年にわたる財政難に陥った。領民は農閑期に外に出て商売をせざるを得ず、薬の行商につながった。豊富な水は薬をつくるには好条件だった。
 越中売薬の始まりには、次のようなエピソードがある。

 <元禄3年(1690)、江戸城内で三春藩(現在の福島県)の藩主が突然、激しい腹痛を起こしました。そこに居合わせた富山藩2代藩主・前田正甫(まさとし)公が、常に携帯していた「反魂丹(はんごんたん)」というくすりを与えたところ、たちまち痛みはおさまりました。同席していた大名たちはその効き目に驚き、自藩でも売ってほしいとこぞって要望しました。済世救民(さいせいきゅうみん)の志が強かった正甫公は、これを機に他藩へくすりを販売することにしました。(「廣貫堂資料館」から)>
 <全国各地の病気に悩む人々を救療するため、歴代の富山藩主は、配置家庭薬の保護・統制機関として「反魂丹役所」を運営するなど、薬業の保護育成をはかりました。売薬さんたちは「反魂丹」をはじめとするくすりを携えて全国を行商するようになりました。大きな柳行李を背負い、寒村僻地にまで薬を届けるのはたいへんな忍耐を必要とする仕事です。それを支えていたのは、人々の健康に奉仕することが仏に仕える道でもあるという、富山の売薬さんならではの信仰心と使命感でした。
 また、全国を旅して得たさまざまな情報も届ける売薬さんならではのサービス精神もあり、とやまの薬は庶民の暮らしに自然と根ざ していきました。(同)>
      富山の薬屋、廣貫堂資料館
           富山の薬売り(廣貫堂資料館から)
        
 置き薬商法の由来
 薬の販売をするにしても、あの独特の置き薬商法はなぜ生まれたのか。
 <くすりはいつ必要になるかわからないので手元に常備しておく必要があります。しかし、当時の一般庶民が何種類ものくすりを買い揃えることは困難でした。そこで、先にくすりを預けておき、次回に訪問したときに使用した分の代金だけを受け取ることにしました。これが「先用後利(せんようこうり)」と呼ばれる方式で、お互いの信頼関係と継続的な取引のうえに成り立つ独自の販売スタイルです(同)。>
 

「先用後利」という商法は、意外にも立山信仰との関わりがあるという。
<「富山売薬と、修験業者たちが広めた立山信仰との因縁は深い。先用後利(せんようこうり)という富山売薬商独自の商法も、もともとは布教活動にあたった修験業者たちが信者たちの家々をまわった際、経帷子(きょうかたびら)や魔除けの札を置いていき、翌年再訪したときに使った分だけ金をとったことに原型があるとされている。また、医薬品の調合についても修験業者たちが編みだした製法が伝承されたともいわれていた。立山信仰を広めるため、修験業者たちは民衆の肝を奪う秘蹟を見せなければならなかった。医術も秘蹟の一つにすぎない。」(鳴海章著『密命売薬商』。池本 正純著「昆布と富山売薬商― 北前船が運んだ倒幕のエネルギー ―」から)>
 売薬人は得意先を帳簿に記した「懸場帳(かけばちょう)」を持ち、全国へ行商に出かけた。幕末には4500人が売薬に従事していたという。

 富山売薬は全国に広がった
 この薬売りは全国22組に分かれて活動していた。最初は九州から始まったという。 
 <富山売薬が他藩へ行商を行った最初は、寛永年間(1624~1643)肥後の国への行商である(嘉永元年の熊本の財津九十郎の手紙)。また、万治年間には豊前から豊後・筑後に、さらに肥後にも行商を広げ(「薬種屋権七由来書」)、元禄の頃には八重崎屋源六が中国筋に出かけている(『富山売薬沿革概要』広貫堂編)。また、この頃には仙台へも出かけている。こうして富山売薬は九州地方から中国地方へ、そして東北地方へと、遠隔地から次第に近隣地へと販路を拡大していったのである。
 富山売薬の行商圏の拡大の様相は、地理的条件、陸上・海上の交通路や市場関係などにより、九州と中国が先躯的で、次いで日本海沿岸地域、近畿、東北、関東などに普及したものと思われる。こうして天保の頃には文字通り全国の至る所に販路を拡大したのである。(米原寛氏「越中売薬の壮大な展開『先用後利』の大事業」)。>


日本の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

元が来襲した瑠求は沖縄か、その10

 布甲があった琉求はどこか
 問題は、隋の朱寛が訪れて「布甲」を持ち帰ったという「琉求」とは、台湾か沖縄かである。「布甲」はそれを考える材料を提供している。
 南西諸島は、屋久島から琉球列島まで、島々がつらなり、古代からさまざまな交流があったと見られる。
<倭はゴホウラガイやイモガイなどの貝殻を盛んに南西諸島に求めたが、従来、その「貝の道」は7 世紀ごろに衰退したのではないかといわれていた。しかし、7 世紀にはゴホウラガイ・イモガイにかわってヤコウガイが「貝の道」の主役となっていった可能性が浮上してきたのである。(田中史生氏論文)>

 「夷邪久」の布甲が琉求にあったことは、やはり交易があったことを物語っている。
 ただことはそれほど単純ではない。『隋書』の「夷邪久国」(「掖玖」)はどこの島なのかについて、屋久島で確定しているわけではない。これがどの島なのかによって、「流求」との関係もまた変わってくる。
 7世紀当時、南西諸島の情報が中国や倭国(日本)にどれほど伝わっていたのだろうか。遣隋使が派遣されていたことからも、両国にもそれなりの認識があっただろう。でも、南西諸島の個々の島の実情について詳細な認識があったとは思えない。
 <この時代は前掲の『隋書』の例のとおり琉球弧から台湾に至るまで未開の先史時代であるうえ、日本・中国いずれからも文献のみに表れた絶海の辺境の地であった。古代から日本と関係の深かった多禰(種子島屋久島)は別として特定の島に同定する事は困難を伴う。そのような前提の上で、例えば「夷邪久」は屋久島の事とも、南島全般を指すともされるし、また掖玖に複数の漢字が当てられており、古代日本で琉球弧全般の交易品である「ヤコウ貝」のことを「ヤク貝」と後世に読んでいる事から、初めは掖玖(ヤク)が必ずしも特定の島の事ではなく複数の島々あるいは南島全般を指す言葉として用いられたとも考えられる。奄美(アマミ)に関しても、「あまみ」に複数の漢字が当てられている記載があることから、同様の事が言える。(ウィキペディア)>
 7世紀から300年近く続いた唐の歴史書である『新唐書』東夷伝日本には,「其の東海島中に又、邪古・波邪・多尼の三小王有」とある。この地名は、屋久島、隼人国、種子島などを想起させる。琉球列島と見られる記述はない。
<『続日本紀』には、698年(文武天皇2年)に朝廷の命により、務広弐文忌寸博士が南島(なんとう)(原文表記は南嶋)に派遣されたとある。このときの文忌寸博士の任務は掖玖、多褹、菴美の朝貢関係を確認することにあり、699年(文武天皇3年)に多褹・掖玖・菴美・度感など島々から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。南島の献上宝物を伊勢神宮および諸神社に奉納したとの記載もある。また、これ以降、朝廷は多褹に国司を派遣するとともに、球美や信覚にも服属を求める使者を派遣している。(ウィキペディア)>
    南西諸島
      南西諸島
 多褹(種子島)が名前がよく登場するが、「古代においては、事実大隅諸島の中心は種子島であった」「種子島は、南海交易の一つのセンターとして、古代交易者たちが活発に出入りする場所であった」(布施克彦著『海の古代史―幻の古代交易者を追って』)との見方がある。 
 沖縄と見られる地名が『続日本紀』に初めて登場するのは和銅7(714)年12月の条である。
 「和銅七年(七一四)十二月戊午(甲寅朔五)》十二月戊午。少初位下太朝臣遠建治等、率南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人。至自南嶋。」
 太朝臣遠建治らが、奄美・信覚・球美などの島民52人を率いて南島から来朝したとある
 信覚は、現在の石垣島、球美は現在の久米島と見られる。
 
 霊亀1年(715)1月には、南島から来朝し方物を貢いだとある。
 「霊亀元年(七一五)正月甲申朔 霊亀元年春正月甲申朔。天皇御大極殿受朝。皇太子始加礼服拝朝。陸奥・出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覚。球美等、来朝。各貢方物。其儀。朱雀門左右。陣列皷吹・騎兵。元会之日。用鉦鼓、自是始矣。是日。東方慶雲見。遠江国献白狐。丹波国献白鴿。」
 <715年(元明天皇霊亀元年)には南島奄美・夜久・度感・信覚・球美等から来朝し方物を貢上したという記載があり、このとき、天皇は大極殿(平城京)で正月の朝賀を受けられ、皇太子が礼服を着して拝朝を行い、朱雀門で鉦鼓と笛で騎兵が左右に整列して陣し朝賀の儀を行ったと記載がある。このとき蝦夷の人々も来朝し、蝦夷と南島の人々に位階を授けたとある。他にも720年(元正天皇養老4年)に南島人232人に位を授け、また727年(聖武天皇神亀4年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある。(ウィキペディア)>
 
 このなかで、信覚、球美のほかの地名は、種子島屋久島・奄美大島・徳之島に当たるとされるが、「度感」を吐噶喇列島と見る説もある。
 ここで「方物を貢上」という記述も注目される。「朝貢する物品の徴発と運搬は、それを可能とする社会組織が生成されていなければ不可能」であり、8世紀の南島社会は、「地域によっては原始(平等)社会を脱し、階級社会以前の階層社会へ以降する段階にあったのではないか」という見解を鈴木靖民氏はのべている(山里純一著『古代日本と南島の交流』)
 大和朝廷が南島への使節派遣や南島からの来朝など南島との関係をきずいたのは、遣唐使の派遣との関わりがあるという。
 「文武2年(698)頃には大宝律令完成を契機とした遣唐使の派遣は当然政治日程にのぼっていたとみられる。大宝の遣唐使は、  従来の新羅を経由した航路をとらず、南島を経由する新航路で入唐する初の試みが検討されていた。そのためには南島の島々に寄港できるよう万全の対策をとっておく必要があった」(山里著書)
 一つ不思議なのは、古代の石垣島は、沖縄本島や宮古島より文化的には未発達だったといわれるのに、石垣島、久米島が沖縄本島を差し置いて、先に大和朝廷に方物を貢上するということは、ありえるだろうか。発音的には、石垣島や久米島と似ているので、比定されるが、にわかに断定できない気がする。

 布甲を持ち帰ったのは台湾ではない
 隋の時代、「琉求」とは、台湾と南西諸島を含む呼称であったが、それはあくまで中国側の認識である。倭国(日本)が「夷邪久国」と呼ぶ地域が南西諸島全体であったしても、台湾は入っていないだろう。
夷邪久国」がもし屋久島であれば、屋久島ではすでに、布甲を必要とする部族間の対立と戦闘があったことを意味する。社会の発達段階がすでにそこまで至っていのだろうか。
 『隋書』では、琉求には「刀・矟・弓・箭・剣・鈹(かわ)の属あるも、其の処、鉄少なく、刃は皆薄小」とある
矟(ほこ、さく)は武器の一種。長柄のほこ。箭(せん、や)は弓の弦 につがえ射るもの。鈹(かわ)は長い矛の一種である。
夷邪久国」が琉球(沖縄)である場合、鉄は少ないのに各種の武器がある。布甲があっても不思議ではない。
「夷邪久国」が屋久島か、それとも南西諸島の総称のいずれであっても、隋が侵攻した琉求は、台湾ではないと見ることができるのではないか。それは、「夷邪久国」が屋久島だとすれば、屋久島の布甲が沖縄に伝わったことは十分ありうる。だが、台湾までは伝わっていない可能性が高い。南西諸島と台湾との交流はまだなかったはずである。

 「夷邪久国」が南西諸島の総体であれば、「夷邪久国」には沖縄が入るから、布甲が伝わった琉求は、沖縄となる。
考えて見れば、琉求から持ち帰った布甲を小野妹子と見られる遣隋使が見て、「夷邪久国のもの」と言ったということは、隋が行った琉求が台湾なら、夷邪久国は台湾ということになる。だが、遣隋使が台湾のことを知っているはずがない。仮に夷邪久国が南西諸島としても、この当時、布甲が台湾に渡るはずがない。だから、夷邪久国は台湾ではなく、夷邪久国は南西諸島ということになり、琉求は沖縄だという根拠となる。
 この隋の朱寛が持ち帰った夷邪久国の布甲についての記述は、隋が侵攻した「琉求」は台湾ではなく、沖縄であることを端的に示していると考える。
 終わり
沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

元が来襲した瑠求は沖縄か、その9

『隋書』に記された「夷邪久国」
                  
 隋が侵攻したのは「琉求」はどこなのかをめぐり、 『隋書』東夷伝琉求国には注目される記述がある。
 大業元年,海師何蠻等,每春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻俱往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」
 
 琉求から持ち帰った布甲
 <隋の煬帝は、大業3(607)年に朱寛を琉求国に派遣したが、言語が全く通じないため、「一人」を連行して帰国した。翌(608)年、再度朱寛を派遣したが、「琉求国」側が従わず、止むを得ず「布甲」を取って帰国したという。「布甲」とは、植物繊維を編んで甲をなしたものと考えられ、布製の鎧のようなものと想像される((東恩納寛惇『琉球の歴史』)。たまたま訪問していた「倭国使」にこの「布甲」に就いて尋ねたところ、「此夷邪久国人所用也」という返答が見られたと伝える。(略)>

 『隋書』の記述について考察している後藤芳春氏は、このように解説している(論文 『隋書』に記された「夷邪久国」)。
 これによると、煬帝が朱寛を派遣したが琉求国は従わないため、「布甲」を取って帰国した。たまたま唐に来ていた倭国(日本)の使者に尋ねると「布甲」は「此夷邪久国人所用也」と答えたという。「邪久国」とはどこなのか。語音では屋久島と見られそうだ。だが、「屋久島に限定されず、屋久島を含む大隅半島以南の島々を漠然と指した用語であったとみるべきだろう」((山里純一著『古代日本と南島の交流』)
     南西諸島
                     南西諸島
  仮に屋久島とした場合、7世紀に布製の甲(防護用武具)があったこと、それが琉求国にまで伝わっていたことになる。倭国の使者が、これを見て屋久島のものと答えているのが注目される。
 日本側の史書では、「夷邪久国」は見当たらず、「掖玖」のことではないかと見られる。

 日本史料で南西諸島のことは、『日本書紀』推古24 (618)年に初めて登場する。
 「廿四年春正月、桃李實之。三月、掖玖人三口歸化。夏五月、夜勾人七口來之。秋七月、亦掖玖人廿口來之。先後幷卅人、皆安置於朴井、未及還皆死焉。秋七月、新羅遣奈末竹世士貢佛像。」
3 月に3人、5 月に7人、7 月に20人、合わせて30人の掖玖人が来朝したので、朴井(えのい)に安置したが、帰還しないうちにみんな死亡したとある。朴井とは、「現在の奈良市あるいは大阪府岸和田市付近ではないかとみられている」(山里純一著『古代日本と南島の交流』)
 この「掖玖」が「夷邪久」と同一ではないかと見られる。
 <この倭国使が、遣隋使の小野妹子一行を指すことは間違いない。倭国使の言葉を筆記したとみられる「夷邪久」は「掖玖」の音によるとみられ、推古期の遣隋使の中に掖玖の「布甲」に関する知識を持つ者がいたということになる。したがって、倭国は「掖玖」に対する認識を、掖玖人来航初見記事を遡り少なくとも7 世紀初頭頃には持っていたことが確認できる。(田中史生著「7~11 世紀の奄美・沖縄諸島と国際社会― 交流が生み出す地域―)>。
 当時、隋に滞在していた倭国使とは、あの遣隋使の小野妹子一行とはビックリである。遣隋使が、南島の「夷邪久」に対する認識を持っており、その風俗まで知っていたことになる。
 


沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

元が来襲した瑠求は沖縄か、その8

 琉求が見えるのか?
 
隋書』の琉求国の記述で、中国から琉求が見えると書いているから、沖縄ではないという見解がある。『隋書』は次のように記している。
「大業年,海師何蠻等,每春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻俱往,因到流求國。言不相通,掠一人而返」
意訳すると次のような意味である。
「大業年、海師何蛮等、春秋の天清く風静かなる時に、東を望むとかすかに、煙霧のようなものが見える。幾千里なるかを知らない。 3年、煬帝、羽騎尉朱寛をして船で異俗を来訪せしむ。蛮と一緒に往き、琉求国に到った。言葉が相通じないので、一人で掠して返った」。
 
 これについて、原田禹雄氏は次のように解説している。
<「春秋の良く晴れた日に、東方に、もやもやしたものが見えます」という海軍の報告で、軍人を派遣したのが、琉求発見のきっかけであった。>
「沖縄は中国から肉眼では絶対に見えない。沖縄は、琉求国ではあり得ない」(原田禹雄著『琉球と中国―忘れられた冊封使』)。こう断定している。
 これによると、琉求が見えたとしているが、「もやもやしたものが見えます」というだけで、琉求が見えたとは書いていない。しかも、その距離が「幾千里あるか知らない」という。すでに触れたように台湾海峡は130kmくらいの距離であり、それほどの遠距離ではない。沖縄本島はその6倍くらい遠いので、「幾千里あるか知らない」という表現が相応しい。
また、これが「琉求発見のきっかけ」しているが、もし琉求=台湾なら、中国が台湾を「発見」したのは隋代だろうか。中国に近くて大きな島で高い山もある台湾は、もっと早くから中国では知られていたのではないか。隋代の「発見」では遅すぎる。

 「三国志」の「呉書呉主伝」(孫権)には、次のような記述がある。
「二年春正月、魏作合肥新城。詔、立都講祭酒、以教學諸子。遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲」
 孫権は、黄龍2年(西暦230年)に衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)ら2名の将軍に兵1万人を率いて、夷洲及亶洲へ遠征するように命じた、と記す。
夷洲と亶洲について、いろいろの説もあるけれど台湾と日本と思われる。とすれば、すでに隋より400年近く前に、台湾に遠征していたことになる。
だが、琉求(沖縄)であれば、隋の遠征によって「発見した」ということもうなづける。

 『三国志』呉書呉主伝には、もう一つ注目される記述がある。
 <『三国志』呉書呉主伝には魏の黄龍2年(230)、三国(魏・呉・蜀―来間)の呉が会稽東冶の東方海上にある夷州・澶州を征討したことを伝える。/呉書は遠方の澶州には至ることができず、夷州の数千人を捕虜として帰還した。ここでの夷州はのちの台湾、澶州はのちの済州島(あるいは種子島)にあたる。この時従軍した沈瑩の実録に基づく地誌と考えられる「臨海水士志」(略)によれば、夷州は臨海郡(現在の浙江省臨海)の東南2000里にあり、《土地に雪霜無く、草木死せず、四面は是れ山。山夷集まりて居する所なり》という(略)。「夷州」すなわち台湾は、雪が降らず、霜も降りず、草木は年中青く、山ばかりの地形で、「山夷」すなわち狩猟民族が住んでいる所である、ということである。(来間泰男著『<琉求国>と<南島>』、田中聡著「蝦夷と隼人・南島の社会」からの引用)>
 三国志の時代、夷州(台湾)についての記述は、短い文章であっても、台湾の特徴がよく表れている。とくに「山ばかりの地形」は特徴的である。
 台湾と沖縄は風俗的に似ているところがあっても、自然の情景は、高い山がある台湾と珊瑚礁に囲まれた沖縄島では大きく異なる。
 もし、隋代に侵攻した琉求が台湾なら、「山ばかりの地形」など台湾であること端的に示す記述があるはずである。だが、『隋書』には「土多山洞」とあるけれども、これは山が多いではなく、山の洞窟が多いということだろう。洞窟が多いのは、沖縄島に当てはまる。
隋書』には、台湾なら不可欠の「山ばかりの地形」という記述がないということは、隋が行った琉求は、台湾ではない、沖縄島であることを示しているのではないか。

 琉求は階級社会
 琉求が沖縄か台湾かを見る上でネックは、『隋書』に描かれた琉求の社会の様相がこれまでの定説と相違することである。
 <『隋書』の語るところによれば、琉求には王、小王、鳥了師といった「統率者」が存在し、また臨時の課税や刑罰が行われていた。したがって当時の南島、少なくとも沖縄本島の社会は原始社会を脱し階級社会に入っていたことが知られる」(山里純一著『古代日本と南島の交流』)。
 
 沖縄と台湾の先史時代の考古学上の常識では、未だ階級社会には到達していないと見られる。でも、隋による実際の見聞によればその段階を脱しているから不思議だ。
<沖縄考古学の時代区分によれば、この時期は自然物採集経済に依存する先史時代末期に相当すると言われており、現在までの発掘調査では身分階層を裏付ける遺物や遺跡は皆無に等しい。それでは琉求=台湾説では7世紀初めの台湾に上記のような社会を想定しうるかというと、恐らく沖縄以上に乖離は大きいと言わざるを得ない。(山里純一著『古代日本と南島の交流』)。
 山里氏は「8世紀段階には身分階層が存在した可能性はきわめて高い」がさらに溯らせることができるかどうかは、現在の史料では判断できないとしながら、「7世紀初頭まで溯らせて考えうる余地を残しておきたい」(同)とのべている。

『隋書』の記述が確かな事実であれば、それが沖縄であるか台湾であるかを別にして、琉求国がすでにそういう社会発展段階にきていたことを示している。
  しかし、記述をすべて見聞による事実とみてよいのか疑問もある。それは、稲作の移入や鉄器の伝来などを見ても、これまでの考古学の常識からみて早すぎる。
  隋が琉求に来た際、強い抵抗にあっており、実際には詳細に調査する余裕はなかったのではないか。伝聞の誤りや、他国の風聞の混入、編者の解釈や想像がはいていることは否めないとの見解もある(松本雅明著『沖縄の歴史と文化』)。
 今後、考古学による遺物や遺跡の発掘が待たれる。

  隋が来た琉求をめぐる研究の流れ
  隋が来た琉求は沖縄か台湾かを巡って、近年の研究者の見解を来間泰男氏が整理をされている(『<琉求国>と<南島>―古代の日本史と沖縄史』の「琉求国は沖縄のことか」)。研究の流れを見るために紹介しておきたい。
 琉求=沖縄説の肯定派と否定派として次の名前を上げている。
肯定派――比嘉春潮、松本雅明、梁嘉彬、上原兼善、村井章介、田仲健夫、森浩一、山里純一、田中聡、安里進、中村明蔵、
否定派――髙良倉吉、真栄平房昭、田中史生
 それぞれの論拠を紹介しながら、「多くの論者が、今なお『決着がついていない』と断っている」けれども、否定論は3人に過ぎず、「圧倒的少数である」と指摘。これらの検討を踏まえたうえで「私(来間)は肯定論を支持する」と表明している。
 学問研究は多数決では決まるものではないことは当然であるが、近年の研究の流れとして、琉求=沖縄説が大勢となっていることは確かである。

 このブログに、「『隋唐演義』が面白い」のなかで、「隋がわざわざ危険をおかして渡海して侵攻しても、隋にとって得るものはない」「侵攻したのは台湾と思えて仕方ない」と書いた。これは訂正しておきたい。
 中国では、天命を受けた天子=皇帝が国を統治するばかりでなく、近隣の諸国に使いを遣り、朝貢して皇帝の臣下となることを求めた。朝貢が中国皇帝の徳を示すこととも見られた。隋、が琉求に来たのも、小さな島に侵略して植民地のように直接支配して富を収奪するためではないだろう。それは、琉球が明や清との冊封体制に入ったその後の歴史が証明している。明や清に朝貢すれば、貢物の何倍もの品々を下賜された。さらに貿易を許されて、朝貢貿易によって琉球は多大な利益を得ていた。
そう考えれば、隋が琉求(沖縄)に来たのも不思議ではない。
 以上、これまでモンゴル帝国と琉球はあまり関わりないかと思っていたが、クビライの末裔の渡来やの襲来など、さまざまな関わりがあったことがわかり、興味がつきない。

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |