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元が来襲した瑠求は沖縄か、その7

  隋が来たのも沖縄だったかも
 元の来襲が琉球(沖縄)であることが明確になれば、それより600年くらい前に隋が侵攻した「琉求」も、台湾ではなく、沖縄だった可能性が高くなるのではないだろうか。
隋書』には、「琉求」の社会と風物、民俗など詳しく記述しているが、それらは沖縄と合致するところもあれば、台湾ではないかと見られるカ所もある。そのため、沖縄か台湾かを判断する決め手にはならない。
 最も重要な判断材料は、やはり「琉求」の位置についての記述だろう。『隋書』には、「建安郡(現在の福建省)の東・水行5日」と記されている。方角から言えば、東といえば東南の台湾よりは、沖縄が合致する。
 
 船で行けば5日という距離は、やはり台湾はそんなにかからない。台湾は一昼夜ほどの行程だといわれので、これでは近すぎる。
琉求の位置についてのもう一つの手がかりは、「義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日至𪓟鼊嶼,又一日便至流求」という記述である。原田禹雄氏の訳文では「義安から高華嶼へゆき、東へ二日で𪓟鼊嶼、さらに一日で琉求」となる。義安とは現在の広東省潮州にあたる。
 高華嶼と𪓟鼊嶼の位置は現在では分からない。伊波普猷は𪓟鼊嶼を久米島だと主張した。「島の形が亀に似ている」というのが根拠だった。原田氏は、亀に似た島は、中国沿岸、澎湖諸島、台湾の西海岸に「いくらでもある」と伊波説には否定的である。
出航してから目印となる高華嶼と𪓟鼊嶼を、中国と台湾の間にある澎湖諸島に比定する見解もある。しかし、方角はあくまで「建安郡(福建省)の東」に進むとされており、澎湖諸島では方角も、距離的にも異なり、無理があるのではないか。
 
 仮に高華嶼が澎湖諸島としても、𪓟鼊嶼はさらに東へ2日間も要する。台湾海峡は、琉球列島のように島々が列状に並んでいない。澎湖諸島を過ぎればすぐに台湾である。高華嶼から𪓟鼊嶼へは「東へ2日」も離れている。琉求へはさらに1日行くことになる。これでは、澎湖諸島と台湾付近ではおさまらないのではないか。
 台湾に渡航するのには、澎湖諸島を経由すればすぐに台湾である。

 琉求が沖縄の場合、出航して船で順調に東に進み、高華嶼に至れば、それは尖閣諸島か八重山諸島と見ることもできる。そこからさらに2日で𪓟鼊嶼に至れば、それを伊波普猷のいうように久米島と見ることもありうるのではないか。さらに1日で琉求に至る。このような、島々を経て行くという経路自体が、琉求は台湾ではなく沖縄だということを示しているのではないだろうか。

    東シナ海と周辺の地理(ウィキペディア)
           東シナ海とその周辺(ウィキペディアから)

   高華嶼は台湾としながら、琉求は先島であるという見解がある。
「中国南方の広東省潮安付近の港から出て、最初に着いた高華嶼とは高雄、嘉義という地名のある台湾でしょう」「義安から出港して台湾南部(高華嶼)に着く。それから南の岬を回り、台湾の太平洋岸を北上し、北端に近い宜蘭のあたりから東の太洋に乗り出して、水行二日で石垣島(ケキ嶼、クヘキ嶼のことか?)に至る。それからまた東へ一日の航海で波羅檀洞(平良)のある宮古島(夷邪久、ミャーク、流求)です。」「建安郡(福建省福州付近)の東、水行五日という流求国の王の居住地は、沖縄本島ではなく先島諸島の宮古島であり、ハラタン洞というのは、現在の平良(ヒララ)市に当たるようです」(「古代史レポート 中国、朝鮮史から見える日本」)。
           「古代史レポート」ヵら

 この「古代史レポート」は、隋が来た琉求国の王の居住地は宮古島という見解である。
 この結論は別にして、義安を出て着く高華嶼を台湾南部、𪓟鼊嶼を石垣島と見るのは興味深い。
 私の個人的見解では、宮古島は元の第1回の瑠求派遣の際、瑠求に至る前に上陸したのが宮古島という可能性があるのではないだろうか。宮古島であれば、「低い島」であり、それなりの住民がいて、200人規模の元軍にたいしても対処できると思われるからだ。
        
 『隋書』は外夷列伝だけでなく、陳稜伝にも、義安を出て琉求を攻撃したという記述がある。
 『隋書』陳稜伝は次のように記している。
 「煬帝即位,授驃騎將軍。大業三年,拜武賁郎將。後三歲,與朝請大夫張鎮周發東陽兵萬餘人,自義安汎海,擊流求國,月餘而至。流求人初見船艦,以為商旅,往往詣軍中貿易。稜率衆登岸,遣鎮周為先鋒。其主歡斯渴剌兜遣兵拒戰,鎮周頻擊破之。」
 以下は意訳である。
「604年、煬帝が即位すると、陳稜は驃騎将軍に任ぜられた。607年、武賁郎将となった。610年、朝請大夫の張鎮周とともに東陽の兵一万人あまりを集め、義安から海に出て、流求国を攻撃した。一カ月余りで琉求国に至る。陳稜は軍を率いて海岸に上陸し、張鎮周を先鋒とした。流求国主の歓斯渇剌兜が兵を率いて迎撃した。張鎮周がこれを撃破した。」
 このあと、都において王は数千人の民衆を率いて抵抗したが、陳稜の軍は棚に追い詰めこれを斬殺したことなど記している。
ここでは、琉球に一カ月を要したとある。これは、台湾ではないことは明瞭である。かといって沖縄でも、長すぎる。これには次のような解釈がある。
「和田清氏は琉求の海浜に着いたことではなく、幾度か転戦して王城に入った時までのことかと推測している」(山里純一著『古代日本と南島の交流』)
 『隋書』は一方で琉求国には5日間で着くとしており、一カ月で至るというのは、矛盾している。だから、一カ月を単純な琉求までの旅程と見ることは出来ない。この文章は、確かに「義安から海に出て、一カ月で琉求国に至る」とは書いていない。「流求国を攻撃した。一カ月余りで琉求国に至る」とのべ、攻撃したことが先に書かれている。だから、琉求に上陸したが、琉求側が抵抗したため、撃破するのに時間を要し、王城に入ったのが、義安を出てから一カ月後という解釈は妥当である。

 5日で沖縄に来ることは可能
 「冊封使緑」を精力的に訳している原田禹雄氏は、『隋書』が琉求の位置について記す「建安郡の東、水行5日」について、 「建安の故治から水行5日であれば、閩江口がせいぜいである」としてこの琉求が沖縄ではない根拠としている。
 5日かけて閩江の河口まで、海にも出ていないとしている。果たしてそうなのだろうか。
 福州から沖縄に来る場合、歴代の「冊封使録」を見れば、10日以上かかった場合がよくあるので、5日ぐらいでは無理だろうと思いがちである。それだけで沖縄ではないと否定する方もいる。
 
 徐葆光の『中山伝信録』には、1534年から1683年まで7回の「歴次の封舟渡海日期」という記録がある。それによると、明、清の冊封使の渡航記録によれば、 最長は張学礼の19日、最短は汪楫の3日、平均11.7日を要している。船が無風・逆風・台風などのため進むことができなかった日数や沖縄本島の北方海域に流されて、那覇に引返すのに要した日数が含まれている。それを差引くと、「すべて実日数水行四~五日で福州と琉球間を航行している」(増田修氏「『隋書』にみえる流求国――建安郡の東・水行五日にして至る海島」)という。
 順調に来れば4~5日間で航行していることになる。
 1756年の尚穆王の冊封以後の到達日数を見てみた。尚穆王の際は5日で久米島に着いたが、その後台風にあい、さらに20日余りを経て那覇港に着いた。
 尚温王の際は、5日間。尚灝王の際は6日間。尚育王の際は、9日間。尚泰王の際は、12日間かかった。
やはり順調に航海すれば5~6日間で到着している。
 この冊封使の渡航の実際を見れば、『隋書』の琉求まで「水行5日」という行程は、けっしていい加減なものではない。かなれ正確であることがわかる。
 少なくとも、方角も行程の日数も合致しているのなら、琉求は台湾ではなく沖縄と判断することも可能ではないだろうか。

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その6

 瑠求への行程の疑問
史』の記述でもう一つ、悩ましい問題がある。それは、中国を出港してからその日のうちに「低い島」に上陸したことである。この部分は台湾なら理解できるが、沖縄だと早すぎることになるからだ。ただし、瑠求国には至っていないことは確かである。
 やはりの船は与那国島か八重山諸島、もしくは宮古島まで含めて先島諸島のどこかの「低い島」に上陸したのではないだろうか。

 冊封使の航海記録によれば、福州から沖縄本島まで最短3日間で到着している事例がある(あとから詳述する)。この場合は、先島を1、2日で通過したことになる。気象条件に恵まれて、順調に航海すれば、予想以上に早い時間で先島のどこかの島に到着できた可能性はあるのではないか。
 の第1回目の瑠求への派遣は、往復4日間の行程である。沖縄本島では無理だが、上陸地が先島であれば、4日という短い行程でも往復は不可能ではないだろう。実際にが第1回目に来たのが、この行程であるからである。

 沖縄には、の襲来にかかわる伝説がある。 
 「糸満市では、昔、トーンチュー(軍)が攻めてきて村が全部焼き払われたという伝説が残されていたし、糸満と久米島では、元軍の軍艦が錨として使用していたという中国産加工石が発見されている」(伊敷賢著『琉求王国の真実――琉球三山戦国時代の謎を解く』)

 興味深いのは宮古島にも、元寇にかかわる伝説があることだ。
 <宮古列島の水納島(みんなじま)に『百合若大臣(ゆりわかでーず)の伝説』があり、戦前の『尋常小学校の国語読本』にも取り上げられていた。外国(元)から攻めてきた大軍と戦った百合若が、船で寝ている間に家来に逃げられ沖縄の水納島に漂着し、帰りを待つ妻が鷹を使って百合若に通信し、めでたく国に帰ることができ、悪い家来も成敗したという物語が残っている>(同書)。

 百合若伝説は日本各地に伝わり、沖縄から北海道まで広く分布している。
 大分の百合若伝説は、要旨次のような物語である。
 左大臣・公光の子の百合若は、弓に長けた勇武の若者となり、豊後の国司に任じられる。蒙古の大軍討伐を命じられた百合若は、対馬沖で対決し、蒙古の大軍を打ち破る。戦いに勝った後、別府太郎ら部下に裏切られ玄海島に置いて行かれる。別府太郎らは帰国後、天子に百合若は病没したという虚偽の報告をして豊後の国司の知行を得た。百合若の死を信じられぬ春日姫は、手紙を鷹の緑丸の脚に結びつけて放す。百合若は、漁船に便乗し、豊後に帰還すると正体を隠して「苔丸」と名乗り、別府太郎のもとに仕える。正月の弓始めの式で、自分を裏切った太郎を射抜き、復讐を果たす。その後百合若は春日姫と涙の再会を果たし、国司の位も取り戻した(「ウィキペディア」から)。  これは元が宮古島に来た話ではないが、こんな伝説がること不思議である。
    西平安名崎
       宮古島

 琉球が台湾から沖縄になぜ急変したのか?
 台湾説への最も素朴で重要な疑問は、隋と元が来襲したのは台湾で、明が入貢を要請したのは沖縄ということがありうるかである。
 元が瑠求に2回目に来たのは1297年である。明の洪武帝が琉球に使者楊載を送り、中山王察度が要請に応えて朝貢したのは1372年。わずか75年後である。
 もし、隋や元が来襲した琉求・瑠求が台湾なら、なぜ75年後に明が使節を派遣する時、台湾に行かないのか。
 台湾の歴史を見ると、17世紀初めまでは「先史及び原住民時代」と呼ばれており、独自の国家形成には至っていない。台湾は中国には早くから認識されていたが、元代に澎湖諸島に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したのが、確実な記録という。台湾本島は、船舶の一時的な寄港地、倭寇の根拠地という位置づけが明代まで続いたという(ウィキペディアを参考にした)。つまり台湾には入貢を要請していない。

 一度も派遣したことのない「未知」のはずの沖縄になぜ朝貢を促すために来たのか。とても不可解である。歴史的には、短い年月で外国に関する認識が急変したのだろうか。

 冊封使は一貫して琉球を認識
「冊封使録」を読むと、瑠求を訪れる冊封使は、『隋書』『元史』の琉球についての記述を自分が派遣される琉球を同一の国(島)として、一貫した認識をもっている。隋代、元代に派遣し琉球は台湾で、現在は沖縄に変わったという認識は見られない。
 確かに、琉球の呼称は、元代は台湾と南西諸島を含み、明代は沖縄と台湾は区別し、台湾は小琉球と呼んでいる。それは、あくまで呼称の問題である。
  琉球の察度中山王が泰期を明に派遣したあと、明の太祖は「瑠求の字を改めて琉球と日う」とのべている(『球陽』)。ここには、朝貢してきた琉球(沖縄)と瑠求は、同一の国(島)であるという認識が示されているのではないだろうか。
   琉球の察度王が泰期を明に派遣したあと、明の太祖は「瑠求の字を改めて琉球と日う」とのべている(『球陽』)。ここには、朝貢してきた琉球(沖縄)と瑠求は、同一の国(島)であるという認識が示されているのではないだろうか。

 実際に琉球に渡航する際、台湾と沖縄では、方角と距離、台風の時期や風と波、黒潮の有無など航海の条件に大きな違いがある。元代には名称が区別されていなかったとしても、台湾や沖縄本島についての確かな情報と認識が必要である。 
 元代と言えば、すでに、隋、唐の時代から日本の遣隋使、遣唐使が中国に渡っていた。薩摩から南西諸島を経由して行く南島路もあったとされる。宋の時代には、宋の商人が東アジア各地に出かけていた。琉球と宋の商人が直接貿易したという証拠はないが、「考古学的な遺跡から、実際には宋は直接、琉球と交易していたのではないかという仮説もある」(「沖縄大辞典」)という。ということは、元代には琉球(沖縄)について地理的な詳しい情報が中国に伝わっていたと考えられる。
 それなのに、瑠求・琉球に行くと言って台湾に行くだろうか。そう考えれば、隋、元、明のいずれの時代も、訪れた琉球は、沖縄だったと考える方が合理的ではないだろうか。
 続きは7回へ。
 








         
                

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その5

 なぜ台湾と見られる記述が登場したのか
 14世紀になって『隋書』にはない「琉球国は彭湖と煙火相い望む」という記述が、突如として表れる。「琉求国の相対的な位置をしぼりこもうとする意志がみえる」(原田禹雄著『冊封使録からみた琉球』)という見解もあるが、そうとは思えない。
最初に登場するのは、元の延祐四(1317)年に成ったという『文献通考』(馬端臨撰)という文献である。古代から南宋の寧宗の開禧3年(1207年)に至る歴代の制度の沿革を記した中国の政書である。
文献通考』は、「琉球国居海岛,在泉州之东,有岛曰彭湖,烟火相望,水行五日而至」と記している。
なぜか、『隋書』の記述に「有岛曰彭湖,烟火相望」という事項が加えられている。これは、『隋書』の記述とは矛盾している。筆者の馬端臨が琉求に来て見聞したものではない。だが、この文献がその後の史書などに大きな影響を与えた。
 『文献通考』が出されたあとに編纂された宋の歴史を書いた『宋史』流求国伝(1345年完成)は、「流求国は泉州の東に在りて、海東に有り。彭湖にて烟火相い望むと曰う」として、『文献通考』にそった内容で書かれている。『宋史』は、元代に編纂された宋の正史である。
 『元史』は明の1369年(洪武3年)に成立したとされる。『元史』の記述は、その前に出された『宋史』などの文献を参考にしているとみるのが自然である。
 
『元史』は沖縄と台湾を混同
 『隋書』『北史』『諸蕃志』にはなかった「彭湖にて烟火相い望む」という矛盾する記述が、なぜ琉求、瑠求の位置として書き込まれるようになったのだろうか。そこには、琉求(沖縄)と台湾を混同して書かれた疑いがある。
 歴史家の梁嘉彬氏は、自著『琉球及東南諸海島与中国』で、琉求=台湾説を逐一批判して、その誤りが『文献通考』に起因することを指摘した。
 <『隋書』琉求伝の各種の記事はすべて沖縄のことであるとする。また隋代の琉求は疑いなく沖縄であるが、それが台湾と混同されるようになったのは、宋の馬端臨の『文献通考』に始まり、以後、『宋史』『元史』と誤りを重ねてきた結果であるとし、それらを用いて『隋書』琉求伝の記事を解釈することの危険性を指摘している(山里純一著『古代日本と南島の交流』)>
増田修氏は、この梁嘉彬氏の研究を踏まえて、なぜ台湾との混同が生まれたのかを解明している(「『隋書』にみえる流求国――建安郡の東・水行五日にして至る海島」)。これを参考にさせていただいた。ただし、増田氏とは結論部分が異なっているが、研究された成果は貴重である。
 
 先に見た『文献通考』が「琉球国は彭湖と煙火相い望むとし、流求と台湾を混同した最初の文献となった」(増田氏)。
 馬端臨は、『文献通考』の琉求を書くにあたって、『北史』流求国伝と『諸蕃志』の流求国条と毗舍耶国条( ひさやこく、琉球付近の島々を拠点としていた)の記述を交ぜ合わせたのではないかという。
 『北史』は、南北朝時代(439年―589年)の北朝について書かれた歴史書。『諸蕃志』 (しょばんし)は、南宋時代に成立した地誌である。
 『北史』流求国伝は『流求国居海島、当建安郡東、水行五日而至」、『諸蕃志』流求国条は「流求国当泉州之東、舟行約五六日程」と記している。注意すべきは、『諸蕃志』では琉求国に続いて「毗舍耶(びさや)国」について「泉(泉州)有海島、曰彭湖、隷晋江県、与其国密邇(きわめてちかし)、煙火相望」と記していることである。
     宜野湾市HPから    
     琉球列島と台湾の位置。宜野湾市HPから
 毗舍耶国とはどこを指すのだろうか。増田修氏は、「彭湖と煙火相い望むのであるから、当然台湾をさしている」と指摘する。「福建沿岸の民衆は台湾南部を毗舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と呼んでいる」(ウィキペディア)という。フィリピンという説もあるが、澎湖と向き合っているとすれば、やはり台湾と見られる。
 問題は『文献通考』琉球条についての記述は、『諸蕃志』の毗舍耶国についての記述を取り込んで書いたとしか思えないことである。
 『文献通考』は琉球国について「琉球国居海島、在泉州之東、有島彭湖、煙火相望、水行五日而至」と記している。それまでの『隋書』『北史』『諸蕃志』などの文献にはまったくなかったことが盛り込まれている。
 <『文献通考』琉球条は、『北史』流求国伝の引用からはじまるが、それに加えて、琉球は彭湖と煙火相い望むとしている。そして、『北史』の引用部分につづけて、琉球国の旁には毗舍耶国があるとし、琉球条に付加しているのである。したがって、毗舍耶国条は、別条として立てていない(増田氏)。>
 
 つまり、琉求国と毗舍耶国について二つの文章をまぜあわせて『文献通考』琉球条の「琉球国居海島、在泉州之東、有島彭湖、煙火相望、水行五日而至」ができたという。
 本来、澎湖島から「煙火相望」するのは毗舍耶国であったのに、琉球と混ぜ合わせたために、「煙火相望」するのは琉球であるかのような記述となり、誤解を生むことになった。
 馬端臨の『文献通考』に続いて、流求と台湾を混同した文献が、つぎつぎとあらわれた(増田修氏)。『宋史』もその一つである。
 冊封使録の現代語訳を精力的に出版されている原田禹雄氏も、『冊封使録からみた琉球』のなかで、『宋史』の琉求国について同様の指摘をされている。
 <『諸蕃志』では、琉求は、澎湖諸島の東のあたりに固定されてゆく。『諸蕃志』自体は
・琉求の近傍には、毗舍耶・談馬顔などの国がある。
・澎湖と毗舍耶とは近く、煙火が互いに望める。
と書いているのだが、『文献通考』では、琉求と澎湖が、煙火を相い望むこととなり、『宋史』へとつながっていく。>
 『宋史』琉求国も「琉求国は、泉州の東にある。澎湖という海島があるが、(琉求と)烟火を互に望める」と記している。
 つまり『諸蕃志』では、澎湖と「煙火が互いに望める」位置にあるのは琉求ではなく、近傍にある毗舍耶であると記されていたのに、『文献通考』『宋史』では、澎湖と琉求が「煙火が互いに望める」位置あると混同して記したことになる。
 原田氏は、せっかく『諸蕃志』から『文献通考』への重要な記述の変化を指摘しながら、『宋史』琉求国が澎湖と「煙火が互いに望める」という記述を是認し「この琉求と沖縄とは、何の関係もない」という結論に導いている。残念なことである。

 『中山世譜』も混同した
 混同と言えば、『中山世譜』も『宋史』の台湾と思われる事項を琉球として書いたものがある。
 『中山世譜』は<淳熙年間、琉求常に数百輩を率いて、猝(にわか)に泉州の水澳頭等の村に至り、肆行殺掠(しこうさつりゃく)すると云う。>と記している。これは『宋史』琉求伝の引用だという。
 与並岳生氏は『新編琉球三国志上』で、この記述を引用した上で「当時の琉球に、そのような力があったとは思われない。…”台湾=琉求”の者たちだったのではないだろうか」と疑問を投げかけている。
 『宋史』琉求伝を読むと、「旁有毗舍邪国(びさやこく)…淳熙间,国之酋豪尝率数百辈猝至泉之水沃、围头等村,肆行杀掠」と記している。琉求のそばにある毗舍邪国が、泉州を襲い肆行殺掠したという意味である。『元史』外夷伝には「瑠求は,外国で最も小さく危険な者である」記されており、やはり『宋史』の泉州襲撃を瑠求と見なした記述と思われる。
 ところが、『宋史』琉求伝が参考にしたと思われる『諸蕃志』は、琉求国と毗舍邪国は別項で書かれて、泉州襲撃についても毗舍邪国として書いている。だが、『宋史』は毗舍邪国を別項として立てないで、「琉求」の項目のなかに、毗舍邪国を含めている。だから、『中山世譜』は、「旁有毗舍邪国」とあっても、「そばに毗舍邪国がある」という説明の後は、再び琉求についての記述と誤解して、書かれたものと考えられる。
 
 話はもとに戻る。流求と台湾を混同した『文献通考』『宋史』などの文献の記述が、『元史』に受け継がれているとすれば、瑠求の位置を示す情報としては、混同した部分は除外して考える必要があるのではないか。
 史書の中に矛盾した記述が出てくる場合、すべて鵜呑みにする必要はない。それぞれ吟味してみることが大切である。「彭湖と煙火相い望む」という台湾と混同した部分を除外すれば、そのほかの記述は、大きな矛盾は解消され、瑠求が沖縄であることで明確になるのではないか。
 田中聡氏は『隋書』の琉求について、次のような注目すべき指摘をしている。
 <琉求の比定にあたって、「毗舍耶」関連記事が付加される12世紀末以降の史料を根拠とすべきではなく、あくまで『隋書』琉求伝の記事のみに判断材料を求めるべきであると述べた上で、中国からみた琉求の方角と、航海に要する日数の問題について独自の解釈を示し、琉求が後世一貫してリュウキュウと呼称された沖縄島であると主張する(山里純一毗舍耶)>
 これは『元史』瑠求についても同じことが言える。やはり隋代、元代、明代、清代を通じて、「リュウキュウ」と呼ばれる国は沖縄島であるという田中氏の考察に共感する。
 
 『明史』『清史稿』の記述では
 もう一つ史料として追加して見ておきたいのは、琉球が明によって冊封を受けるようになってからの『明史』『清史稿』の琉球について記述がどうなっているのかである。
 『明史』は「琉球は南東の海に位置する」と記す。『清史稿』でも「琉球は福建省泉州府の東海中にある」と記す。いずれも、琉球の位置について簡略に記し、他の余分な説明はない。つまり、『文献通考』以来、『宋史』『元史』に受け継がれてきた「瑠求は澎湖諸島と向き合っている」という説明は消えている。これは、実際に冊封関係にある琉球が、「澎湖と向き合っている」という記述が間違っているから、削除されたのではないだろうか。
 これは、元代の瑠求は台湾、明代の琉球は沖縄ということではない。それはもともと「琉球が南東の海に位置する」という記述と「澎湖と向き合う」という説明は矛盾極まりなく、どちらから間違った記述であったからである。後者の説明が消えたことは、こちらが過ちであったことを示しているといえるだろう。



       
                 





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元が来襲した瑠求は沖縄か、その4

「瑠求と相対する」とは
 瑠求は台湾だとする人たちの最も大きな根拠として、『元史』外夷列伝の中に「澎湖の島々は、瑠求と相対する。天気がよければ煙のようにかすかに見え、何千里も離れています。」という記述をあげる。澎湖と相対するのは沖縄ではありえないとなる。
 確かに、澎湖島と相対するといえば台湾である。一方では、『元史』は、「瑠求は南海の東にある」「何千里も離れている」とも述べており、台湾なら方角は東ではなく東南である。「何千里も離れている」なら、澎湖島と相対しかすかにでも見えるだろうか。矛盾する内容が平然と書かれていることになる。
 
 『元史』には、瑠求の位置、方位と距離など重要な問題について、このような矛盾する記述が存在するのはなぜだろうか。その謎を解くカギは、『元史』編纂にあたり利用したと思われる文献に潜んでいる。
 中国の正史は、前に書かれた史書など文献の情報を参考にして記述されることが通例である。元の前に琉球に来たと言えば隋である。『元史』の検討の前に、『隋書』の記述を見ておきたい。
 『隋書』は、流求国伝の冒頭で「流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至」(「流求国は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」という方位と行程を記している。さらに「「義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日至𪓟鼊嶼,又一日便至流求」(義安から高華嶼へゆき、東へ二日で𪓟鼊嶼、さらに一日で琉求=原田禹雄氏の現代語訳)という行程も記されている。
 注・義安は「現在の広東省潮州」(増田修氏)
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     台湾地図。左側に少し離れてある島が澎湖諸島
     
 福建省から「水行五日にして至る」という旅程は、台湾だと一昼夜で行けるほどの距離であり、当てはまらない。あとから検討するけれど、「水行5日」は沖縄に当てはまる。

 留意すべきは、台湾説の根拠となる「澎湖諸島と相対する」という記述がないことである。
隋書』は、607年、実際に琉求に軍を派遣した上で書かれたものである。唐代に編纂されたといっても、わずか30年ほど後であり、琉求についての生々しい記憶が伝えられ、記録が残されていただろう。だから、方位と行程についての記述は信憑性が高いのではないか。もし、琉求が「澎湖諸島と相対」しているなら、琉求の位置を示す重要な情報であり、真っ先にそのことを記すだろう。だが、まったくそのような記述がないことは、もともと「「澎湖諸島と相対する」」ような位置にはなかったことの例証ではないだろうか。

 改めて、中国の史書、文献を調べてみると、唐代に編纂された『隋書』(初版発行、636年)だけでなく、その後、編纂された南北朝の時代、北朝について書かれた歴史書『北史』659年初版発行)にも、琉求国についての項目があるが、「流求國,居海島,當建安郡東。水行五日而至。」と記し、『隋書』とほぼ同じ記述である。時代が500年以上、後になった南宋時代に成立した地誌『諸蕃志』(しょばんし、1225年)も、「流求國當泉州之東,舟行約五六日程」とのべ、方位と旅程を記しているだけである。
 <『隋書』およびそれにつづく『北史』『通典』『太平御覧』『太平寰宇記』『冊府元亀』(宋・王欽若等撰、大中祥符六年・一〇一三)『通志』(南宋・鄭椎撰、一一〇四~一一六〇)の流求国に関する記事には、「有島曰彭湖、煙火相望」という文字は存在しないし、その内容も『隋書』と基本的に同じである。(増田修氏著「『隋書』にみえる流求国――建安郡の東・水行五日にして至る海島」>
 少なくても13世紀の『諸蕃志』までの文献は、『隋書』と同様の記述がされ、やはり「澎湖諸島と相対する」との記述がない。だから、琉求の位置についての記述に矛盾はないことは注目される。


  
     

    
 


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元が来襲した瑠求は沖縄か、その3

 『元史』の黒水溝はどこか
 次に検討すべきは、黒水溝が台湾海峡にもあったとすれば、『元史』外夷列伝で書かれた「落漈」(黒水溝)は台湾海峡であるのか、東シナ海を北上する黒潮であるのかという問題である。
 黒水溝が台湾海峡にもあったとしても、即、元が来襲したのは瑠求(沖縄)ではなく、台湾だったと結論が導かれるわけではない。元が東シナ海の黒潮を越えて瑠求(沖縄)に来た可能性が否定されたわけではない。
 『元史』外国列伝の冒頭部分を意訳する。
 <瑠求は南海の東にある。 漳、泉、興、福四州の境界である澎湖の島々は、瑠求と相対する。 天気がよければ煙のようにかすかに見え、何千里も離れています。 西と南の海岸は水であり、澎湖は徐々に低くなり、瑠求の近くに落漈((らくさい)がある、落ち込んだ水は戻ってこない。 西岸の漁船が澎湖の下で、台風が襲い、漂流し落漈に流されると、百に一つも帰って来ない。 瑠求は、外国で最も小さく危険な者である。>
 「漈」とは「海底の裂けて深くなったところ」という意味がある。だから、川の水のように流れる海流を見て、海底の裂け目にでも落ち込むではないかと恐れのだろう。
 
 『元史』のこの記述で留意すべきは、瑠求が台湾に該当するものと沖縄に該当するものが混在していることである。
 「瑠求は南海の東にある」というのは、台湾なら「南海の東」というより南東に近いだろう。それに、台湾ならわざわざ「南海の東」というだろうか。はるか南の海の東方にあるという表現は、台湾より沖縄に当てはまるのではないか。
 澎湖諸島が瑠求と相対し、天気が良ければ見えるというのは台湾に当てはまる。台湾海峡はもっとも狭いところで130キロメートル。台湾から澎湖諸島まで50キロある。与那国島と台湾は111キロあり、よく晴れた日に与那国から台湾が見えるという。これより半分の距離だから澎湖からは当然見える。
 ところが、瑠求は天気がよければ見えると言いながら、何千里も離れているというのは、矛盾している。何千里も離れているという記述を検討してみる
 ここで中国の里程をみると、古代は1里は400㍍だった。現在は1里は500㍍である。数千里とは漠然とした表現であるが、短く見て仮に1000里だとしても、500キロの距離になるになる。多く見て5000里とすれば、なんと2500キロになる。那覇市と福州市の間の距離は836キロである。
 当然、実測した距離ではないので、「数千里」とは遠い距離の代名詞であろう。
 台湾は沖縄より古くから中国との接触があり、早くから距離感は認識されていただろう。何千里という表現は台湾ぐらいの距離では相応しくないだろう。沖縄のようにはるか遠方にあることを表現したとみるのが妥当である。
            
 「落漈」について、原田禹雄氏は「黒潮」と訳しているが、黒潮とは限らないようだ。中国でいう「黒水溝」と見る方がよいかもしれない。「黒水溝」については、先に見たように台湾海峡にもあるとすれば、瑠求のそばに「黒水溝」があるという記述は、瑠求が台湾か沖縄かを決める根拠にはならないことになる。
 『元史』が「落漈」を澎湖諸島と関係づけて説明しているところを見ると、この場合は、台湾海峡の可能性がある。
 しかし、瑠求の説明の記述には、台湾に該当する表現と沖縄に当てはまる表現が混在していることをみると、沖縄の可能性も否定できない。
 原田禹雄氏は、落漈を黒潮と訳したうえで、黒潮が歴代冊封使も恐れたとのべている。
 <中国人は黒潮を「黒溝」とも「落漈」といって非常に恐れた。『元史』外国列伝に「瑠求のあたりに落漈があり、台風で落漈に漂流すると百に一も帰れない」とあって、歴代の天使もおそれていた。…閩の海と、琉球の海の境(つまり郊)に、黒水溝があり、滄溟とも東溟ともいう、というのが中国人の考えであったようだ。(現代語訳『汪楫 使琉球雑録』の訳注)>
 原田氏は、落漈を台湾海峡の黒水溝ではなく、東シナ海を流れる黒潮とみている。その上で、黒潮が「閩の海と、琉球の海の境」としており、この琉球は台湾ではなく沖縄と理解される。
 私は黒潮を越えて中国に渡航したことはないが、福州に行ったことがある髙良倉吉氏によると、「黒潮は本当に真っ黒な海なんですよ」という。以前、講演で聞いたことがある。流れが速く黒い海とすれば、冊封使が恐れたのもうなづける。
 琉球に来る歴代の冊封使は、『隋書』『元史』の琉球についての記述を読んでいるだろう。渡航するにあたっては、『隋書』『元史』の琉求・瑠求が台湾と思わず、沖縄だと理解し、黒潮のことを熟知していたはずである。
 私は、歴代冊封使が黒潮を越えて渡航してきたように、『元史』でいう「落漈」は東シナ海を流れる黒潮を指しており、瑠求は沖縄だという印象を持つ。

 元の大軍に対抗できないのか 
ここで、瑠求=台湾説の人たちが主張している根拠について見ておきたい。
 一つは、すでに触れたことであるが、『中山世譜』は蔡温があとから中国側の史書を見て加筆したから信用できなということである。これは、『元史』『中山沿革志』で書かれた瑠求が沖縄であることが判明すれば、蔡温の加筆は適切だったことになる。

次に、小国・琉球は元の大軍に対抗できるはずがないという方がいる。しかし、『元史』によると第一回目の派遣は、瑠求(この場合、沖縄本島)には至らず、どこかの離島に船十一隻、二百人余りで上陸した。その時、争いになり3人が死亡して引き上げている。二回目に来た際の人員数は不明であるが、大軍という記述もない。だから、もともと元が大軍で来襲したかどうかは不明である。
 それに、古今の合戦の歴史を見ると、兵力の数だけでは決しないことは常識である。実際に、元は日本に二度、ベトナムには三度遠征したが失敗し撤退した。元の兵力の数も不明である上に、単純に兵力の比較だけで瑠求が沖縄ではないと否定することはできない。
    浦添ようどれ
       英祖王を葬る浦添ようどれ
 
 往復の行程が短すぎるのか?
 新屋敷幸繁氏は、瑠求への往復日数が短すぎることを理由に沖縄説を否定している。
第1回目の派遣について、次のように指摘する。
「3月29日に福州を出て、瑠求国に渡って澎湖に帰った4月2日までの日数がわずか4日間にすぎない。しかも島人と戦いを交えたりしている日を1日に計算したら3日間である。福州、たとい澎湖からでも3日で沖縄島まで往復が出来るということは考えられない」(『新講沖縄1千年史』)。
 これは「福州から最低5日を要する沖縄本島」(同書)への往復を考えれば当然の疑問である。だが、福州を出航して、巳の刻に真東に見えた低い島は、楊祥は瑠求国だといったが、もう一人の将軍は「わからない」とのべ同意していない。だから、瑠求だと確認しないまま上陸したものである。結果としても、一つの島には上陸したが、瑠求には至らなかったのである。
 福州を出て、あまり長時間を要せずに、「低い島」が見えたということは、先島のどこかの島に上陸した可能性がある。それも西表島や石垣島は山があり「低い島」ではない。それ以外の離島ではないだろうか。そうなれば、4日間の短い日数でも往復は不可能ではない。
 2回目の来襲は、どれくらいの日数を要したのか、どれくらいの兵力で来たのか、詳細は明らかではない。そう考えれば、第1回目の往復日数だけで、瑠求=沖縄説を否定する根拠とはならないと考える。
『隋書』でいう琉求までは「水行五日にして至る」という旅程については、あとから検討する。
 






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元が来襲した瑠求は沖縄か、その2

 瑠求の近くには黒潮が流れる
 汪楫は、「中山沿革志序」のなかで、琉球は『隋書』でも『宋史』でもみな琉求という。『元史』になると瑠求という、とのべており、瑠求とは自分が冊封使として派遣された琉球(沖縄)であることを認識した上で記述している。
『中山世譜』の記述は、『中山沿革志』の記述とよく似ており、蔡温が元の襲来についても、この史料をもとに加筆、修正した可能性がある。また『中山沿革志』は、『宋史』や『元史』をもとにして記述したのではないだろうか。
 『元史』外夷列伝には、元が軍を派遣した瑠求は、台湾か沖縄かを見る上で手がかりとなる重要な記述がある。 
 それは、瑠求のあたりに黒潮が流れていることを強調していることである。『元史』外夷列伝の冒頭部分を意訳する。
 <瑠求は南海の東にある。 漳、泉、興、福四州の境界である澎湖の島々は、瑠求と相対する。 天気がよければ煙のようにかすかに見え、何千里も離れています。 西と南の海岸は水であり、澎湖は徐々に低くなり、瑠求の近くに落漈(黒潮)がある、落ち込んだ水は戻ってこない。 西岸の漁船が澎湖の下で、台風が襲い、漂流し黒潮に流されると、百に一つも帰って来ない。 瑠求は,外国で最も小さく危険な者である。>
 注・「澎湖の島々は、瑠求と相対する」については後から検討する。

 原田禹雄氏は、現代語訳『汪楫 使琉球雑録』の訳注で次のように指摘している。
 <中国人は黒潮を「黒溝」とも「落漈」といって非常に恐れた。『元史』外国列伝に「瑠求のあたりに落漈があり、台風で落漈に漂流すると百に一も帰れない」とあって、歴代の天使もおそれていた。…閩の海と、琉球の海の境(つまり郊)に、黒水溝があり、滄溟とも東溟ともいう、というのが中国人の考えであったようだ。>
 黒潮のことを冊封使は「郊」とも呼んでいた。
 「夕暮れ、郊(溝と書かれることもある)を過ぎた。風と波が激しくなった」(『汪楫 使琉球雑録』)。この「郊」は「都城の外」「国境」「はずれ」の意味がある(原田禹雄氏の訳注)。つまり黒潮は、中国の海と琉球の海の境界と見ていたことを示している。
 黒潮はフィリピンの東沖から台湾の東沖を進み、台湾与那国島の間を抜けて東シナ海を北上する。中国から琉球諸島に渡るには、必ず黒潮を越えなければならない。だが、中国と台湾の間に黒潮は流れていない。「瑠求」が台湾であれば、黒潮は関係がないのではないだろうか。

 ちなみに、から国王認証のため琉球に來る冊封使は、福建省の福州を出て、台湾の側を通り、尖閣諸島、久米島、慶良間島の島影を目印に沖縄にやって来たという。
 黒潮あたりで波が風が激しくなった時、冊封使はどのような対策をしたのだろうか。
 「生きた豚と羊を1匹づつ(犠牲として海へ)投げ入れ、5斗の米粥をそそぎこんで、紙錢を焚いた。船では、鉦をならし、太鼓をうち、軍人たちは武装して、抜身の刀をかまえ、舷(ふなばた)から(海を)のぞきこみ、敵をふせぐかまえをした。これを長時間おこない、やっと(風と波は)やんだ。…供物をさかんにしたことと、武備に威厳があったことの二つで、救われたのだということである」(『汪楫 使琉球雑録』)。
    「屋久島の気象・気候」から
        黒潮の流れ(「屋久島の気象・気候」のサイトから)

 黒水溝は台湾海峡も流れていた
 ブログで一度アップした「元が来襲した瑠求は沖縄だった」では、黒潮は台湾海峡を流れていないことを根拠にして、『元史』外国列伝の瑠求は「台湾ではありえない」と結論づけていた。これにたいして、「黒水溝はもともと台湾海峽のが先に有名になり、汪楫から以後は台湾以東の黒水溝が注目されるやうになりました。元朝の黒潮の記述を以て沖繩來寇の根據とするのは無理です」というコメントをいただいた。
 黒水溝が台湾海峡を流れていたことはまったく認識していないままブログにアップしていたので、再アップに際してこの結論部分は削除した。
 
 その後、台湾海峡の黒水溝について資料を読んでみた。とりあえず現段階の認識を書いておきたい。
 ここで台湾海峡とはどういう海峡であるのかを見ておきたい。
 <海底地形はすこぶる不規則である。海峡の水深は深くなく、半分の水域の深度は50m以内である。西側は比較的浅く、中部と北部とは比較的深く、東南部が最深となる。海底はいくつかの地域で海面より上に現れ、澎湖諸島のような島や浅瀬を形成している。海峡の南北両端にはそれぞれ1本の水道があり、深海に通じている。(ウィキペディア)>

 台湾海峡は「黒水溝」と呼ばれ、多くの移民が台湾海峡を横断していて海難にあった。台風に遭遇すると、漂流して漈(みぎわ、海底の裂けて深くなったところ。)に落ち、黒水溝の危険を知ったという。「落漈」(黒水溝)とも呼ばれていた。
 台湾海峡が「黒水溝」と呼ばれるのはやはり海の色は黒く、流れは早いという。
 海峡の場合、それほど深い海でなくても、気象条件が悪い場合は、海難事故が起きる。
 中国側で「黒水溝」という場合、台湾海峡の黒水溝と、東シナ海を北上する黒潮の二カ所あることになる。
 <黒水溝は、歴史的に帝国と、その属国である琉球王国との境界線です。 黒水溝は古称で、現在は「中琉海溝」や「琉球海溝」と呼び、南シナ海溝(Nansei-Shoto Trench),琉球海槽 (Okinawa Trough)とも呼ばれています。‎
‎また、古代書に登場する黒水溝の多くは、台湾海峡を流れる台湾暖流を指しています。 台湾暖流は、北から南へ台湾海峡を流れ、暖流の海は暗い色で、したがって、黒水溝と呼ばれています。 流速が速いので、海峡の両側の海上交通に一定の障害がある。 だから、古代は台湾に航海するのに黒水溝を恐れた。‎(中国語ウィキペディアから、)>
 台湾海峡の黒水溝は、黒潮ではないことは当然である。
 

 
     
              
 

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元が来襲した瑠求は沖縄か、その1

 元といえば、日本を襲っただけでなく、琉球にも2度軍を派遣したということが『元史』外夷列伝のなかに記されている。
 元は日本には、1274年の文永の役、1281年の弘安の役と二度にわたり襲ってきた。瑠求に来たのはその10年後である。
中国では、時代によって瑠求、琉求、琉球と表記が変わっている。『元史』は瑠求、『隋書』は琉求と表記する。
 
「低い島」に200人で上陸
元史』の現代語訳がないので、わりあい『元史』の原文にそって要約している新屋敷幸重氏の『新講沖縄一千年史』から引用する。
 <元の世祖の至元28年(西暦1291年)の9月、楊祥というものが、兵6000をひきいて瑠求に行って帰順を勧め、命に従わないときは、これを攻略してきたいと申し出て、世祖の許可を得た。
 そこで福建生まれの書生呉志斗という者が案内役となって明くる年の3月29日に福建汀州路から船を出し、その日の巳の刻(今の午前10時から11時)になって、洋中、真東の方向にあたって、長さ50里ばかりの低い島を望んだ。この時、楊祥は、これは瑠求国だといったけれども、もう一人の将軍は、それはどうだかわからないと言い張った。そこで楊祥は自分から低い山の下に舟を寄せ、軍官に200人の兵を小舟11隻に積んで、フィリピン出身の通訳をつれて上陸させた。ところが島人には通訳の言葉が通じないで、とうとう戦い合う結果になり、3人の死者を出したので、そのまま4月2日に駐屯地の澎湖(ほうこ)島に引きあげたという。それから世祖が死んで成宗の元貞3年、西暦1297年(注)の9月に成宗皇帝は、福州の張浩らを瑠求に派遣して招撫せしめたが島民はそれに従わなかった。張浩らは仕方なく、島民130人をとりこにして帰ったということである>
 注・『元史』により訂正した。  

 これは「元史」に記されている史実である。
 しかし、宋や元の時代の中国では、南西諸島や台湾を漠然と「瑠求」と呼んでいたようで、ここでいう「瑠求」が、沖縄なのか台湾なのか、確定する史料がないとされてきた。
 はたしてそうなのか。私は、『元史』外夷列伝の記述をよく読めば、瑠求とは台湾でなく、沖縄だと判断できると考える。
「琉球」が明確に沖縄を示す言葉として認識されるようになったのは、 1372年、明の洪武帝が中山王の察度に使者楊載を送り、入貢を要請。察度が泰期を派遣して朝貢して以来と見られる。山北、山南もそれぞれ朝貢するようになった。明代には、沖縄は「琉球」、台湾は「小琉球」と呼び、区別するようになっていた。なぜ、大きな島の台湾が「小琉求」なのか、よくわからない。
「元史」は明の1369年(洪武3年)に成立したとされる。元の瑠求侵攻から70数年後である。その時点で「琉球」は沖縄の呼称となっていたのかどうかは不明である。
     
    元寇
         元の日本への襲来の絵
 琉球人が団結して敗退させた
 「元史」の記録を裏付ける史料が琉球側にもある。
 それが、琉球王府の史書『中山世譜』『球陽』の英祖王の項である。英祖は1260年に即位した。
 <翌年、国内をあまねく巡視し、耕地の境界を定め、農民にひとしく田畑を分配した。穀物は豊かに稔り、貢租もとどこおりなく納められ国が大いに治まった。同年、浦添の地に墓陵を築き、極楽山と称したという。(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)>

 王府の正史は、次のように記している。
 元(げん)の世祖(フビライ・ハン)が1291年、6,000の兵をつけて「瑠求」を討たせることを申請し、金符を給せられ、詔をたまわって渡航した。一つの島に上陸したが「相戦不挫」(後退し)我が国に至らず「引還」したこと。
 フビライの死後、1296年、元の成宗により福建省都鎮撫張浩等が軍を率いて再び「瑠求」に来たが、沖縄人は力を合わせて拒(ふせ)ぎ戦ったので、張浩は手のほどこしようがなく、島民130人を生捕って帰った(『中山世譜』)。
 「元の成宗、省都鎮撫張浩等を遣はし、軍を率ゐて国に抵らしむ。時に我が国臣民、深く王化に沐す。皆身を委てて国を愛する心有り。元兵の来侵を見、国人力を合せ拒ぎ戦ひて降らず。張浩、計の施すべき無く、卒に一百三十人を擄にして返る」(『球陽』)
 元の来襲にたいし、琉球の島人が心を合わせて戦い、元に屈しなかったことが誇り高く記されている。
 この元の侵攻とのたたかいは、羽地朝秀が編纂し1650年に成立した『中山世鑑』の英祖王の項には記述が見られない。
蔡鐸が中心になって編纂し、『中山世鑑』を修正して1701年に完成した『中山世譜』にもその記述は見られない。蔡鐸の子の蔡温が加筆・修正した蔡温版『中山世譜』で初めて記述が現れる。
 では、『中山世鑑』に記述がないから、信用できないのだろうか。
 たとえば『中山世鑑』には、第一尚氏の5代目、尚金福が死去した後、世子の志魯と尚金福の弟、布里が争った「志魯・布里の乱」について、記述がない。第二尚氏の尚真王は在位50年におよび琉球の黄金期を築いた国王である。ところが、第二尚氏の初代尚円王とわずか半年で退位した第2代尚宣威王、第4代の尚清王のことは書きながら、特筆されるべき第3代尚真王だけは何も記していない。とても奇妙な王府の正史である。
 蔡温は、1719年に来琉した徐葆光から、尚貞王の冊封のため1682年来琉した汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』その他の冊封使録を入手してこれを精読した結果『世鑑』の誤りや欠落を知り、これを正すことを志したと蔡温自身が記している。
汪楫著『中山沿革志』は、元の瑠求侵攻について、つぎのように記述している。
 <元の世祖の至元28年(1291)、海船副万戸の楊祥(ようしょう)は、6千の軍をひきいて、往って降伏させることを申請し、金符を給せられ、詔をたまわって渡航した。大洋に出て、たちまち一つの島を占拠したが、軍陣が少し頓挫し、琉球につかないうちに、引きあげてしまった。成宗の元貞3年(1297)、福建省の平章政事の高興(こうこう)が、琉球を征討すべきことを言上し、省の都鎮撫の張浩(ちょうこう)らを派遣して征討させ、130人をとりこにした。命令に従がわぬことは、もとのままであった(原田禹雄訳注『汪楫冊封琉球使録三篇』)>
 注・万戸(ばんこ)は、トゥメン・モンゴル系・デュルク系民族の軍事・行政集団(ウィキペディアから)







 
     
                     

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琉球王府の「土佐人標着日記」にみる中浜万次郎、その4

 三人を薩摩に移送へ
 土佐人三人は、いよいよ那覇に向かい薩摩の大聖丸で鹿児島に移送されることになる。
 三人が翁長村を離れる時は、多くの村人が集り、涙を流して別れを惜しんだ。万次郎は覚えた沖縄言葉で「皆も元気で、もし私の手紙が届かなかったら私は殺されたと思って下さい」と別れを告げたという(島袋良徳著「ジョン万次郎物語」)。
別れの際、万次郎は自分で作った六尺棒を形見として、高安家に進呈した。
「後年、病魔が南部一帯で広がった時、徳門家(屋号、高安家のこと)の家族は誰一人病気にならなかったのは、この六尺棒のおかげだとして、守護神のように大事にしていたが、沖縄戦でやはり焼失したという」(長田亮一著『ジョン万次郎物語』)。
いよいよ那覇への移送されることになった。その際も、道中で英人の徘徊が予想されるので、目立たぬよう「夜になってから乗船させる」と指示し、あくまで隠すことを徹底している。
 
 注目されるのは、上陸時とは異なり、帰国にあたっては駕籠が手配されたこと。「在番奉行所より命じられた」という(「土佐人漂着日記」六月十二日)。
土佐側の記録では、駕籠は、「時に王より命也とて駕籠来り」(「難船人歸朝記事」=高知市立市民図書館蔵)と記されている。もともとは薩摩の指示であるが、土佐人には「国王の命によって駕籠が来た」と伝えられたのだろう。
 渡航には、食糧の積み込みが必要となる。食糧などのリストが記載されている。食糧は前例にならって三十日分渡すことにした。
 「中白米六斗七升五合」「上味噌六升七合五勺」「醤油二沸(わかし)七合」(沸とは、酒など量を計る単位)「塩魚四十五斤」「野菜五十六斤二合五勺」「国分たばこ四百五十目」、他に酢、塩、菜種子油、炭、中茶、薪木など品々が並んでいる。相当は物量である。
 
 西洋ボートも薩摩に移送することになった。摩文仁間切から那覇に回漕された。途中で異国船などを見かけたならば、陸に引き上げ、隠すよう指示。日没頃に那覇に入港した。大聖丸に積み込むと、ボートはわら莚で覆われた。やはりボートも厳重に隠された。
 乗船の予定は六月十四日だったが、風勢によって難しくなった。出帆はこの後、一カ月余りも大幅に延期された。
奇妙なことに「日記」にその後の記述がない。六月二十四日付の「万次郎に支給された草履が大破」したので支給するという記述が最後である。何か不都合な問題が起きたのか。この空白は「土佐人標着日記」の最大の謎である。
 船が出帆するのは一カ月後の七月十八日である。「異国日記」では、七月十二日付で薩摩側が次のように指示を出している。
「順風により、大聖丸は明日未明に出港するということが、船頭からただ今届いた。ついては、漂着人は今晩乗船させる予定なので、先日申し上げた通りの役人たちを今日早々に翁長村へ赴かせ、漂着人を監督して大聖丸へ乗船させよ。」
ようやく乗船に至った後も、天候が崩れて、五日ほど船中で待った。十八日に出発し、十二日間の航海で薩摩の山川港に着いた。

 土佐への恩義から優遇されたのか
 翁長村で三人が厚遇されたのは、かつて琉球人が土佐に漂着し世話になった恩義に報いるためと言われてきた。だが、栗野慎一郎氏は疑問を呈している。
「王府の対応はあくまでも漂着マニュアルに沿ったものであり、土佐人を優遇する姿勢を見せていたのはむしろ在番奉行所の側だった」「『土佐人だから』優遇されたのではない。琉球国がどの漂着者にも示す通常の取り扱いだった」「対応マニュアルが、日本人、中国人・朝鮮人、異国人とケースごとに作成されていた」(「解説 『土佐人漂着日記』を読むー豊見城とジョン万次郎―)。
 海外諸国との交易で栄えた琉球の船は、しばしば遭難し、黒潮にのって土佐沖に流された。一七〇五年、一七六二年、一七九五年は足摺岬方面、一八五四年は室津に漂着した。
 宝暦十二(一七六二)年七月、鹿児島に向かった琉球船が柏島沖で漂流して、宿毛の大島に曳航された。頭役の潮平親雲上(ぺーちん)以下五十二人が救護された。その際、土佐藩の儒者、戸部良煕(よしひろ)が、潮平親雲上から事情を聴取して『大島筆記』を著した。これには、当時の琉球の政情から地誌、民俗、歌謡に至るまで詳細に記述しており、王府時代の琉球を知る貴重な史料となっている。その中に、土佐藩の救助と滞在中のもてなしに感謝する様子が記されている。

 「九月廿五日首途(注・旅立ち)の御祝」の宴で「御厚意の至りて難有さ(注・かたじけない)、何の世までも忘れ難く…名残を 思へば感情無レ究」「頻に落涙に及べり」(「大島筆記 雑話上」)とある。
その際、琉球人が詠んだ琉歌が記されている。
「土佐の殿金(かね)し 御恩たふとさや 世々ある間や 御沙汰しゃへら」
(土佐の皆様方の恩義のすばらしさは、この世にある限り語り継ぎます)
 琉球に帰国した際、土佐藩での待遇と感謝の思いは王府に伝えられただろう。

 万次郎らの琉球上陸は一八五一年だから、これより九十年ほど後である。
「伝蔵が言う。以前琉球人が土佐に漂流した折りいろいろお世話になったことがあるので、その恩に報いるためにも粗末な扱いにならないようにと、国王が命じたので、このような厚遇になったのだと。」(「漂洋瑣談」[中浜家蔵]、栗野慎一郎氏訳)。
一介の漁師にすぎない伝蔵は、土佐藩による琉球人救護のことは知らないはずである。琉球側の役人が「土佐には恩義がある」と三人に話したのではないか。たとえリュ旧側は漂着マニュアルに沿った対応であっても、万次郎らが厚い感謝の気持ちを抱いたことは確かである。
     島津斉彬
          島津斉彬

 万次郎から勉強した島津斉彬
 鹿児島に着いた万次郎ら三人は、島津斉彬の命により、とても丁重に扱われた。
「日日の置酒、賓客の如く…飽食せり」。さらに衣服、金一両も賜った(「漂巽紀略」、中浜家蔵)。
斉彬は西洋の科学技術や軍事などに強い関心を持っていた。ある日、殿様から、万次郎一人だけ召された。鶴丸城の御殿へ出向くと、酒肴を賜って、それが終わると人払いをして、殿様のじきじきの御下問がされた。
 アメリカでは、家柄、門地ではなく人はすべてその能力によって登用され、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につく。デモクラシー、人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。
「側近をしりぞけて、殿さまじきじきの厳重なお取り調べとは表向きのこと、国内上下の保守排外思想家たちにかくれて、殿さまの勉強が始まるのでした」(中浜明著『中浜万次郎の生涯』)。斉彬は、万次郎が永く鹿児島に留まるように勧めたほどだった。
殿様を相手に、封建体制を根底から否定するアメリカのデモクラシー、人権の思想や政治制度まで堂々と話したというのは、驚くべきことではないだろうか。

 万次郎は、江戸幕府に呼び出されて取り調べを受けたときも、アメリカがイギリスから独立し「共和之政治を相建」、大統領は「国中之人民入札」(選挙)によって職につき、任期四年で交替すること。さらにアメリカが日本と親睦したいというのは「積年之宿願」であり、「両国之和親」をはかりたいと主張していることと紹介した。ペリー来航の前に、万次郎は幕府に対して開国の必要性を説いていたのである。

 明治維新、自由民権運動にも影響が
 万次郎が斉彬に伝えた話の内容は、その後の薩摩藩に直接、間接に影響を及ぼした。
「万次郎が島津藩(斉彬)に与えた強烈なインパクトが、維新回天のエネルギーになったといっても過言ではないであろう」(『中浜万次郎集成』、川澄哲夫編「第一章 万次郎から英語を学んだ人たち」の解説)。
 郷里の土佐藩では、藩の幹部が万次郎から海外事情を学んだ。河田小龍が書いた『漂巽記略』を坂本龍馬も読んでいた。龍馬がまとめたとされる「船中八策」は、「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったと見るのが自然である」(同書)。
万次郎がもたらしたデモクラシーの思想は、明治維新ではいまだ実現せず、その後、起こった自由民権運動にも、その影響が投影されているといっても過言ではないだろう。
 <土佐の藩論ともなった「合議政体論」をはじめ、明治初期の日本を風靡した自由民権思想は、万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーとつながっている。つまり、漂流者万次郎が、アメリカからもってかえったデモクラシーの一粒のたねが、まず土佐でまかれ、それが日本的民主主義として成長し、明治22年の憲法発布、23年の国会召集となって、いちおう実を結んだことになる(大宅壮一著「欧米文化との初接触」、『中浜万次郎集成』から)>
                 
 いま大度海岸には二〇一八年二月、ジョン万次郎上陸之地の記念碑(銅像)が建立された。
 カウボーイハットをかぶり、ジーンズとベストを着用した万次郎は、生誕地の土佐清水市の方向を指差している。六角形の台座には、漂流以来、日本に帰るまでの物語がイラストで描かれた立派な記念碑である。高知県出身で糸満市在住の和田達雄氏(琉球万次郎会副会長)が、建立運動の立ち上げからかかわり、銅像や台座の絵図も提案して採用されるなど情熱を注いでこられた。
「琉球(沖縄)は、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをはじめて日本に持ってきた玄関口である。琉球上陸は万次郎の話の中のハイライトであり、何よりも万次郎たちにとって一番重要なことである」。中濱博氏はこのように位置付けている。
小渡浜に上陸した万次郎の小さな一歩は、日本の歴史にも刻まれるかけがえのない一歩となった。
 終わり

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