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レキオ島唄アッチャー

琉球王府の「土佐人標着日記」にみる中浜万次郎、その3

 体調崩し、医者を派遣
 六カ月余りの滞在中は、体調を崩し、薬を要望することがあった。
 最年長の伝蔵(48歳)は、眼病を煩い「海上にいるころから具合が悪く、…いまだに平癒しない」として目薬の支給を申し出た(二月二十三日)。
 目薬が支給され、「よくなった様子でしたが、晩になってつけ薬が切れた」として、もう一壺支給の申し出があり、支給が指示された(三月三日)。
 五右衛門は四月二十日ころから、「腹の具合が悪いのか、…食事が進まない様子で、その上、夜中にろくろく寝ることもできないので、どうぞ薬を支給してください」と申し出があった(四月二十一日)。
 
 二十四日に、「医者の玉城筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん、下級士族)が当地に到着し、脈を看て、具合を尋ねるなどして、煎じ薬二袋の分はその場で見守りつつ与え、三袋は翌日また与えるように」と渡され、その通りに呑ませた。だが、「未だ快い状態にならないので、もう一度医者に会って治療を受けたいと、この五右衛門の申し出があった」。医者に、煎薬を服用させたが快復しないので早急に往診するよう命じた。
 その後、「医者を派遣し、治療を命じていただいて以後は、だんだんと食事も進み、寝やすくもなった様子である」と報告している(五月二日)。

 土佐藩への体裁を考慮
 土佐人三人の扱いは丁重であったが、周囲の取り締まりは厳重だった。
 「留置している人家の門前に関番用の仮小屋を建て、番人として間切役人から二人、翁長村の位衆(村役人)から三人、百姓から二人ずつ昼夜を問わず詰めさせ、厳重な取り締まりを申し渡しておきました」(正月四日)。
 以下のような通達を出した。
 土佐人をむやみに村中徘徊させない。地元民を近づけない。出会っても、中国・日本・琉球の様子など話させない。宿所付近に女性を通行させない。防火に念を入れる。漂着者相手に商売させない。進物・贈答をさせない。 
 これを堅固に守ること。守らなければ、間切役人の「落ち度(責任問題)」であると言い渡している(正月四日)。
警備にあたって薩摩側が、宿所の周りに竹を筋違いに組み合わせた虎落(もがり)の設置を検討せよと求めた。
 <土佐国に対する体裁をどう整えたら良いでしょう、さらに逗留中の英人があの付近を歩行し…、「虎落」を見つけたら差し障りがあるはずです。この宿所には竹垣の囲いが(すでに)あり、堅固に結びたてるように通達して置いてあります。ことに土佐人たちは格別に律儀なこともあり、警備の方法や警備の人員を厳重に措置すれば、何ら困った事態にはならないだろう(正月十四日)>。
 
 薩摩の申し出を断る理由の一つとして、土佐藩への配慮を考えている。
滞在中、万次郎はよく出歩いた。家の入口に魔除けのため置かれたヒンプン(屏風)を飛び越えて出掛けた。
沖縄では旧暦の六月から八月にかけて、豊作・豊漁、厄払いなど願いを込めた綱引きが盛んである。万次郎は翁長村の大綱引きにも参加したと伝えられている。
        ベッテルハイム 
                 ベッテルハイム夫妻                 
 ベッテルハイムとの関わりがあった
 これまでに見たように、王府は万次郎らと宣教師ベッテルハイムを接触させないように、とても気を使っていた。これまで二人に何の接点もないと思われていた。ところが、「土佐人漂着日記」には、二人を結びつける意外な証言が記載されている。
 <伯徳令が、妻子などを引き連れて逗留していることが、「ウワフ国」(現在のハワイ・オアフ島)で噂になっているようなことは聞いていないかと尋ねたところ、そのような噂は聞いていないが、かの国では「白坊主」という者から万次郎に、琉球に渡るようなことがあるなら、友達が琉球に渡っているはず、今も滞在していて出逢ったならば、書物一冊を届けるように言われて、(その書物を)持って来ているということです。このように話すので、どのような内容が描かれているのか、この書物を取り出させて読み聞かせをさせたところ、西洋の軍事情勢、また商売をして手柄を得たこと、そのほか、古事など色々なことが書いてあり、だいたい日本の「節用」のような書物でした(正月十九日)。>
 
 「伯徳令」とは、ベッテルハイムのこと。薩摩では宣教師を「白坊主」と呼んでいた。「節用」とは、実用的な教養書、雑学集のことを指す。
 ハワイで万次郎はデーモン牧師と親しくしていたので、彼がベッテルハイムに書籍を渡すことを依頼したかもしれない。
もしハワイからベッテルハイムに「琉球に向かうジョン万次郎に本を預けた」と連絡していれば、彼は「私の本を預かってきているはずだ。なぜ渡さないのか」と猛烈に抗議し渡すように迫っただろう。なにしろ、彼の背後にはイギリスの存在があり、トラブルを起こせば外交問題になる。王府も渡さざるを得なくなった可能性もあるのではないだろうか。これは筆者の推測である。
万次郎らの尋問の際、キリスト教との関わりが重要な問題であった。
 「この三人に、異国において、ヤソ(耶蘇)の道、またはそのような邪宗を学んだことはないのかと、再度、問いただしていますが、一切そのようなことはないと、何度も変わらずに申し出ています。もっとも三人ともに宗旨は一向宗であるということです」(正月十七日)。 
 万次郎が教会に行っていたことは事実であるが、否定するしかなかったのだろう。

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琉球王府の「土佐人標着日記」にみる中浜万次郎、その2

 三人を摩文仁に戻せ
 土佐人三人は取り調べを終えた後、午後四時頃、那覇に向けて出発した。那覇には薩摩の在番奉行所が置かれていた。
 親見世が在番奉行所に報告すると、一八四〇年に勝連間切浜村に漂着した水戸人の例にならい「水戸人と同様に久米村(現在那覇市)へ陸宿させる」ように指示した(「咸豊元年異国日記」、正月三日)。
 しかし、首里王府は異なる判断をした。
「舟や人の服装などが異国風に見えること、また、那覇に護送する手はずを整えていると、書付を持って来た摩文仁間切の者が言っていたが、(漂着人は)疑わしい者なので直接那覇に護送しては差し障りがある」と判断して、王府から現地に役人を派遣することにした(「土佐人漂着日記」三日)。
 
 現地に向かう小禄親雲上(ぺーちん、士族の称号)は「道中で(漂着土佐人だと)行き逢ったならば引き返させ、摩文仁間切に留め置くようにします」との方針をとる。在番奉行所にも相談し、許可を得た。
しかしこの方針は現実的でなく、急きょ変更された。
 「漂着人三人は、午後四時頃に摩文仁番所を出立。夜十時過ぎ頃に小禄間切小禄村(現在那覇市小禄)まで到着していた(現在の道路で約十三㌔)が、前夜から一睡もしておらず、疲労困憊しているということで、道中に臥せっている(おり)経緯などを聴取することができず…」という状態にあった。「道中に臥せさせてはまずいので、まず付近の小屋に収容し、…豊見城間切の翁長村に宿の用意を命じて、用意がととのい次第、夜中に翁長村に引越しするようにいたします」と役人は報告している(正月三日)。 
    
          IMG_5380_20210319221413d4d.jpg
          万次郎上陸記念碑のイラストから 
 道路に臥せるほど疲労した三人のために駕籠が用意されて、六キロほど離れた翁長村(現在の豊見城市翁長)に移送されることになった。
 当初、「疑わしい者」と見ていた王府も事情を聞き、認識を改めた。
「かぶりもの(帽子)や衣服などはオランダ人(異国人)似通っているものの、髪は黒く、言葉や礼儀作法など日本人のように見えて、何ら疑わしい様子は見えません」「この者たちの宿について、豊見城間切の翁長村がふさわしいだろうと考えて、人家を空けさせ、夜中に移動しました」とのべている。(正月三日)。
 翁長村では高安親雲上(ぺーちん。士族の称号)の屋敷に宿泊させることになった。高安家では、わざわざ家族の住む母屋を明け渡し、自分たち家族は、屋敷の一角に茅葺き家を建てて移り住んだ。

 那覇に入れない理由とは
 なぜ、那覇には入れず翁長村への移送に変更したのか。那覇には「現在のところ護国寺に英国人が逗留しており、那覇や久米村を時々徘徊することがあるので、差しさわりがあ(る)」(正月四日)との判断である。
 英国人とは、那覇に滞在中のイギリスの宣教師、バーナード・ジャン・ベッテルハイムのことである。一八四六年イギリス海軍軍人琉球伝道会から宣教師として派遣された。医者でもあり、語学力は抜群で十三か国語を修得した。
 逗留していた護国寺の近くには、関番所が置かれ、役人が監視した。伝道のため、宗教冊子を配布し、時には民家に踏み込むこともあった。外出の際は筑佐事(ちくさじ、見回り警戒する者)が付いて回り、人々を追い払うなど執拗に妨害した。
 もしベッテルハイムが、外国帰りの土佐人が滞在していると知れば、押し掛けて来るのではないか、と恐れての判断である。

 翁長村での丁重な待遇
 土佐人三人から事情を聞くため王府から役人が派遣された。その中に板良敷(いたらしき)里之子親雲上(後の牧志朝忠)がいる。板良敷は、中国語、英語も学んだ異国通事であり、ペリー艦隊が琉球に来た際に活躍した人物である。彼は万次郎らに英語で質問した。
「土佐人たちどうしの会話も日本の言葉でやりとりいたしている上に、土佐国の産物、または日本の事についても、かねてから聞き及んでいたとおりで変わりなく…土佐国で着かけていたという古い袷(あわせ)の着物一着を差し出して、これは帰国する時もあろうかと、(その時のため)証拠として、これまで保管していましたと申しています。それゆえ、日本人に間違いないと思われます」(正月四日)。
 帰国する時に備えていた古い袷が土佐人の証拠としても役立った。
 
 
 滞在にあたってまず異様な西洋服が問題になった。なにしろ、万次郎はジーンズにベスト姿である。
 「土佐国人たちは日本の着物に改めなくてはならないが、琉球側で支給しますか、この者たちの取り扱いは、詳細に公儀(幕府)にご報告されることなので、着物などが申し分なく支給されると、公儀(幕府)への聞こえもよく、太守様(注・薩摩の島津斉興をさす)のご利益にもなることです」と薩摩役人から、琉球役人に指示があった。
役人は、一七四七年に羽州秋田能代の船が勝連間切の浜島に漂着した際に、着物など支給した事例をあげて、物品リストを添付して支給することを王府に上申した。
 
 王府は、「帳簿を精査して、前例を基準」として、まず次の品物の支給を決めた(正月六日)。
一、 水色木綿袷(あわせ)衣裳一枚ずつ(注・袷は裏地のある着物)
一、 蚊帳(かや)二張
一、 焼酎一壺(ただし盃二十五杯分入り)

 服装を最初に気にしたのには理由がある。
 「翁長村に逗留中の漂着者たちは、西洋で仕立てられた衣服を持ち合わせているという話だが、もしかすると村の付近の歩行などを願い出ることがあり得るし、異様な服装で歩きまわるなどされては、翁長村近辺はもちろん、英人も逗留中のことでもあるので、(英人に)噂が伝わり、あれこれ差し障ることも予測されるので、沖縄仕立ての単(ひとえ)の着物と袷(あわせ)用の絹織物一枚ずつを与えておいて、歩行などの際は、右の着物を着用させるのが妥当であり、そうすれば帰国後に、琉球での救護の仕方などがこのように丁寧であったことが(漂着人から)自然と申し出もあるはずなので、(琉球人が)『思いやり』の精神に富み厚情であることも理解され、いろいろな意味でよろしいことだと、本日、在番奉行はじめ(薩摩の)役人衆が評議し判断されたので…早めに実施されるように調整してください」(正月六日)。
 やはり、西洋の異様な服装で歩きまわり、ベッテルハイムの耳に入ることを恐れている。
 また、丁寧な扱いをすれば、帰国後に琉球の思いやりの精神、厚情が知られることを重視していたことがわかり、とても興味深い。


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琉球王府「土佐人漂着日記」にみる中浜万次郎,、その1

   高知県の郷土史の雑誌『土佐史談』に、ジョン万次郎について初めて執筆して掲載された。板垣退助の研究家である公文豪氏からの依頼があった。沖縄はとても万次郎の琉球上陸と滞在について関心が強く、顕彰する運動や研究も盛んである。高知は、幕末と明治維新に活躍した著名人が何人もいるのでそれは、万次郎への関心は、飛びぬけたものではない。沖縄は、わずか半年滞在しただけであるが、その関心は高知県以上のものがある。
 高知の郷土史に関心のある方々に、なぜ万次郎らは琉球に上陸したのか、どのように過ごし、郷里に帰ることができたのかを知っていただければとの思いで、表題のような文章を書いた。
 拙文を何回かに分けてこのブログでもアップしておきたい。
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 琉球王府「土佐人漂着日記」にみる中浜万次郎
 中浜万次郎が異国で十年過ごして、日本に帰国する際、琉球に上陸したことはよく知られている。琉球でどのような扱いを受けたのか、詳細に記録した琉球王府の史料「土佐人漂着日記」が二〇二〇年三月、万次郎が滞在したゆかり地、豊見城市の『豊見城市史だより第十四号』として発行された。歴史学者の栗野慎一郎氏が、翻刻と現代語訳、解説を執筆した。
 これまであまり知られていなかった史実も明らかにされており、「土佐人標着日記」から万次郎の琉球上陸の真実を紹介しておきたい。 
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             糸満市大度海岸にある万次郎上陸記念碑のイラストから 

 なぜ琉球に上陸したのか
 万次郎ら五人は、一八四一年一月、漁船が遭難して無人島の鳥島に漂着し、百四十三日を生き延びてアメリカの捕鯨船に救助された。まだ十四歳の少年、万次郎はホイットフィールド船長の誘いでアメリカに渡り、船長の故郷、フェアヘブンで教育を受けた。小学校で英語を学び、捕鯨員養成の専門学校に通い、航海術や測量術、捕鯨術、高等数学など学んだ。捕鯨漁に乗り、太平洋を航行中、一度、琉球の島に上陸したこともある。
 日本に帰ることを決意した万次郎は、ゴールドラッシュのカリフォルニア州山奥の金山に入り、六百ドル余の大金を稼いだ。ハワイにいた仲間を誘ったが、重助は亡くなり、現地女性と結婚した寅右衛門は留まることを選択。伝蔵、五右衛門と三人で帰国することになった。商船・サラボイド号がハワイから上海に向かうことを知り、船長に便乗させてもらうよう頼んだ。
ハワイにはホノルルに立ち寄る鯨捕りたちの援助活動をしていたデーモン牧師がいた。牧師に帰国することを報告すると、協力を申し出た。ホノルルの総領事に頼んで、万次郎のため身分証明書を書いてもらった。
 
 そこには万次郎が帰国する目的が記されていた。「ジョン・マンジロウは立派な人物であり、教養もある。彼は帰国して、アメリカ人が日本人と親交を結び、交易することを望んでいる、と同国人に伝える決意をしている」(川澄哲夫著「中浜万次郎の歴史的役割」、『中浜万次郎集成』から)。
 一八五〇年十二月、稼いだ金で買ったボート「アドベンチャラー号」を積み船はホノルルを出港した。翌年旧暦一月二日、琉球沖に到達した。
 万次郎はなぜ、上陸の地に琉球を選んだのだろうか。「土佐人漂着日記」では、万次郎らはサラボイド号に乗船する際、「日本の土地と判断できれば、その場所に降ろしてくれるように、その船長に頼んだ」「洋中に陸地を見かけて、その土地が琉球であると聞いたので…ボートを卸した」と答えている。これは正直な答えと見ることはできない。
 当時、徳川幕府の鎖国政策の中で、国外への渡航はご法度であり、帰国すれば打ち首を覚悟しなければならない。だから、無事に帰国する方策をよくよく検討していた。
「鎖国している日本へはいるには琉球諸島がいちばん都合がよい」と考えていた(中浜明氏著『中浜万次郎の生涯』)。なぜ琉球は都合がよいのか。琉球は一四世紀以来、中国に服属する一方、一六〇九年に薩摩藩が侵攻し支配されていたが独立国であった。東アジア、東南アジア諸国との交易で栄えた海洋国家だった。毎年、琉球の貢物を薩摩に運ぶ定期船があった。「その船に乗せてもらえるかもしれない。とにかく試してみよう」(「フレンド紙」一八五一年九月)」)。このように考えていた。

 帰国への第一歩、小渡浜に上陸
 万次郎らは乗ったボートを夕刻に陸地まで漕ぎ付けた。岩礁に舟を停めて一夜を明かした万次郎ら三人は、一月三日早朝、大度海岸(当時は小渡浜)で出会った村人から「北へ一丁(百九㍍)舟を回せば、良い船着き場がある」と教えられ、サシチン浜と呼ばれる船着き場に漕ぎ付けて、朝八時頃に待望の琉球上陸を果した。
 朝食に、くん製の牛豚肉を焼きコーヒーを飲み一段落。その後、村人と摩文仁間切(まぎり=現在の町村)の役人が来て、番所に連れて行かれた。事情を聞かれるとともに、持ち物七十点を記帳された。唐芋や豆腐などを食べてお腹を満たした。
 
 この上陸の時間をめぐっては、関係者の間で見解の相違がある。
 万次郎三代目の中浜明氏は、三日朝上陸したと記す。四代目の中濱博氏は、大度海岸は岩礁が広がり、干潮時でなければ上陸できない、干潮の午後二時に上陸したと主張している。
 三人を事情聴取した役人が、那覇の行政機関である「親見世」(おやみせ)と首里王府に報告した文書がある。
「親見世」の記録文書「異国日記」は、「土佐国の者たち三人が、夜前に阿蘭陀船から当(摩文仁)間切の小渡浜へ小舟で上陸したと、本日八ツ時分(午後二時頃)に連絡があった。ついては、右の三人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる」と記している。
 午後二時は、役所に連絡があった時間と明記しているおり、疑問の余地はない。
 
 今回の「土佐人漂着日記」の王府への報告「覚」正月三日付は次のように記している。
 「本日午後二時頃、乗員三人の異国の伝馬船(ボート)一艘が当間切の小渡浜に漂着したので経緯を尋ねたところ、やまと言葉で『我々は土佐国の者で、昨日午後二時頃に外国船からボートを卸して到着した』という(言明の)おおよそは了解できました。まず早急にこの件を報告します」。          
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   小渡浜に上陸した万次郎ら三人(上陸記念碑のイラストから)    
                   
 一見すると「午後二時」は漂着時間とも読めるが、文章は「漂着した」で切れずに続いており、最後の「了解できたので報告します」にかかる表現だと解釈される。
 なにより重要なのは当事者の証言である。
 万次郎ら三人はこの後、薩摩藩や長崎奉行所、土佐藩で事情聴取されたが、その記録によれば、いずれも「三日朝上陸した」と証言している。とくに長崎奉行所の記録では「五ツ時頃(午前八時頃)漕付上陸」と時間を明記している。

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