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レキオ島唄アッチャー

琉球に追放されたモンゴル皇帝の末裔、その2

 今帰仁にある騎馬軍団の影
 琉球に流されたことが史実となれば、問題はどこに到着して、住み着いたのかということである。当時の琉球は、北山、中山、南山に小国家が分立する三山時代であった。
 ここで思い出すのは、沖縄北部の今帰仁(なきじん)城には、騎馬民族にまつわる伝承や出土物があり、「今帰仁勢力に騎馬軍団の影響か」として、このブログで紹介したことがある。
 上間篤・名桜大学名誉教授が『中世の今帰仁とその勢力の風貌』と題する著作で探求している問題である。
 もしかして、地保奴が流されたというのは、今帰仁と関わりがないのだろうか。モンゴルも騎馬遊牧民族である。
 
 もう一度、上間氏の考察をスケッチ的に振り返っておきたい。
 琉球の三山時代、今帰仁城跡の出土物や伝世史料に、古代、中世に東西世界に進出した騎馬遊牧民族のアラン人ゆかりの騎馬文化の影響が見られるという。
 三山時代の今帰仁城といえば、1322年から1416年まで帕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3王(4王の説もある)の居城だったことで知られる。
 沖縄学の父と呼ばれた伊波普猷(いはふゆう)は、かつて「今帰仁という地名を手掛かりにして、中世にこの地域を勢力基盤とした武装集団の出自に関して独自の渡来人説を公表した」。伊波の見解は従来、研究者の間でなおざりにされてきたが、近年の発掘調査による出土史料は、伊波の渡来人説を傍証する内容となっているという。

 発掘された中世今帰仁勢力ゆかりの関係史料は、あまねく元朝に仕えて江南地方で活躍した西域出自の色目系騎馬軍団との関係を傍証する内容を孕んだものとなっているそうだ。色目人とは、元朝治下における西域諸国出身者を指す。
 上間氏は、出土品のなかで、青花椀に措かれたキルギス族の騎馬武者像、ギリシャ十字を髣髴とさせる縦横同寸法の十字紋、扇平鏃、短冊状やすり、サイコロと小円形の石駒などといったものは、その最たるものとして注目している。往時の食生活、宗教、呪術、葬送、軍装備、娯楽などと関係する出土史料及び千代金丸に施された紋様、さらには元朝に仕えて江南地方に駐屯したアラン近衛兵団などに関する考察をとおして、中世今帰仁勢力の氏素性に迫っている(「撃安知とその家臣団の氏素性を探る」)。
             明青花皿  
     青花皿(「今帰仁城跡出土品美術館」)
 上間氏は、渡来した可能性があるのは、イラン系の騎馬遊牧民の文化を継承したアラン族ではないかと指摘している。元朝による江南地方の侵攻作戦には、種々の西域出自の騎馬民族が投入され、アランの騎馬部隊もその一翼を担った。元朝政府は、西域や中央アジア出自の騎馬部族を長江一帯のデルタ地帯に配置し、元朝の権益の保護、治安の維持にあたらせた。(上間篤著『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)
 元朝が瓦解し朱元璋が明皇帝の座に就くと、外国人勢力の排外政策を推し進め、恐れをなしたイスラム教徒が逃亡を重ね、ついには東海の彼方へと行方をくらました、と記述した詩選集があるという。東海の彼方といえば、奄美や沖縄の島々が点在している。
     千代金丸
     千代金丸(「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」から)
 もっとも注目されるのは、千代金丸と称される刀剣である。伝来する系譜、来歴は不詳である。
 尚家伝来の刀剣で、1416年に中山王との戦いに負けた山北王がこの刀で自害したとされる。これまで「刃文などから日本製と思われる」が「片手打ちの柄など、日本刀の形式とは異なる独特な造り」であると説明されてきた。
 しかし、サーベル仕立ての特徴を呈しており、上間篤氏は「日本刀とは無縁の存在」と断定している。
 千代金丸は①そのサーベルに比定されておかしくない刀身の容姿、②西域趣味を彷彿とさせる意匠をちりばめた刀装具及び柄頭③片手使用を想定した柄の拵え④ノブ型の形状を見せる柄頭⑤鍍金を施した金属製の鞘を併せ持つといった取り合わせなどから判断して、元朝治下の色目工房の刀鍛冶によって作刀された儀仗剣の一振りであると推定する。
 中世今帰仁勢力の素性を推し量る有力な目安にもなる。(上間篤著『中世の今帰仁とその勢力の風貌』)。
 
 上間篤氏は、次のように結論づけている。
 「これまでの考察の結果、中世今帰仁勢力ゆかりの出土史料及びその文物は、元朝末期の江南地方で歴史の間に葬り去られたアラン騎馬兵団との繋がりを証左・傍証する色合いに満ちている」(「撃安知とその家臣団の氏素性を探る」)。
 西域出自の騎馬軍団にかかわりのある文物が発掘されたからといって、必ずしもそれを持った人々が渡来してきたとは限らない。
 一方、フビライ・ハーンの末裔、第17代大ハーン、北元のウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)の次男、地保奴(ディボド)が琉球に流されたことは、明史料で記述されており、史実と思われる。
 
 モンゴル人は、西域出自の民族とは異なるが、騎馬民族であることは共通する。琉球に流されたのは、地保奴だけではないだろう。少人数でも捕虜とされた貴族、兵士などが一緒に流されたのではないだろうか。渡航にあたっては、かれらが騎馬民族ゆかりの文物、刀剣を持参しただろう。
 もしかしたら、地保奴とともに流されてきた側近の中に、上間氏の指摘する西域出自の騎馬兵団の人間がいたのかもしれない。沖縄には、いまのところ地保奴らが流された伝承のある場所はない。しかし、実際に来琉しているなら、なんらかの痕跡が残されているはずである。
 今帰仁城跡に西域出自の騎馬兵団とのつながりをうかがわせる文物、発掘物があることから、地保奴の琉球渡来となんらかのかかわりがあるのではないか。または、モンゴル皇帝の末裔が琉球に流されたのなら、西域出自の騎馬軍団が琉球に逃げてきたとしても不思議ではない。
 そんな想像を膨らませてくれる。

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琉球に追放されたモンゴル皇帝の末裔、その1

   琉球に追放されたモンゴル皇帝の末裔

 NHKBSで「ザ・プロファイラー フビライ・ハーン 世界帝国 日本に迫る」を見た。
<13世紀、史上最大の国が出現した。第5代皇帝フビライ・ハーンが君臨するモンゴル帝国だ。日本では蒙古襲来の侵略者というイメーシが強いが、実際には領地を穏やかに支配したと言われる。激烈な後継者争いに勝利しモンゴルの皇帝になると、国名を中国風の「元」として各地の生活や文化を融合した。マルコ・ポーロなど外国の人材も帝国に取り込んで、商業、経済、インフラを整備。近代的な国家経営を行って、世界の海上交易網を築いた名君だ。そんな大帝国のリーターが、何故日本に接近したのか?>
 こんなテーマに番組だった。日本への2度に渡る元寇は有名だが、琉球もモンゴルとなんかの関係があったのではないかと、気になった。
 調べていると、なんとフビライ・ハーンの末裔が琉球に流れてきていたという情報にいきついた。
 どういうことだろうか。
 モンゴル帝国の第17代大ハーン、北元のウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)の次男に地保奴(ディボド、明朝側からの呼称)がいた。
      フビライ  
         フビライ・ハーン
 <1388年(天元10年/洪武21年)、藍玉を総大将とする明軍はフルンボイル地方に滞在していたウスハル・ハーンの本営を急襲し、ウスハル・ハーンは軍勢のほとんどを失うを大敗を喫した(ブイル・ノールの戦い)。太尉マンジらの奮戦によってウスハル・ハーンと地保奴の兄の天保奴、知院ネケレイ、丞相シレムンら高官数十人は明軍の追撃を逃れることができたが、地保奴や前ハーンの妃など多くの皇族が明軍の捕虜となった。
 ブイル・ノールの戦いから3カ月後、藍玉が部下に送らせたウスハル・ハーンの次男の地保奴と后妃たちは応天府(現在の南京)に辿り着いた。地保奴らは洪武帝に大元ウルスの金印・金牌を献上し、これを受けて洪武帝は鈔200錠と邸宅を与えて厚情を示した。それから間もなくして藍玉がハーンの后妃と密通したという噂が流れると、洪武帝は藍玉に対して激怒したものの、后妃は恥辱に耐えかねて自殺してしまった。后妃の死に対して地保奴が恨み言を漏らしていたことが洪武帝の耳に入ると、洪武帝は自らの厚情に対する恩知らずな言動であると怒り、これ以上内地には留めおけないとして琉球に島流しするよう命じた。これ以後の地保奴の動向について記録は残っていない(ウィキペディアから)。>

 これは、たんなる伝承ではなく、明の史書に記されているという。 
 いま、明の史料は手元にない。「赤碗の世直し(古代史)」サイトには、『明史』の記録が紹介されているので引用する。
  天元10年(1388)4月
 明、地保奴(トグステムル次男)捕らえる『明史』3
 天元10年(1388)7月
 明、地保奴を琉球に安置。『明史』3
 地保奴,北元后主脫古思鐵木兒的次子。1388年春,明朝大将蓝玉在捕鱼儿海大败北元军,脱古思帖木儿以其太子天保奴、知院捏怯来、丞相失烈门等数十骑逃走,余众包括次子地保奴及后妃公主五十余人、渠率三千、男女七万余,马驼牛羊十万,全部被俘虏。明太祖赐给地保奴等钞币,命有关部门供给他的生活。有人说蓝玉和脫古思鐵木兒的后妃私通,明太祖大怒,后妃惭惧自杀。地保奴口出怨言,被明朝远迁到琉球国安置。
 [编辑]参考资料
《明史》列传第二百十五 外国八 鞑靼
 
 この原文の自動翻訳文が掲載されているが、「地保奴」の名前を「地方治安係奴隷」と訳すなど、正確とは言えない。
 結論の部分を意訳してみた。
 地保奴と后妃公主の50余人、首謀者三千人、男女七万人余り、ラクダ・牛羊など十万頭は、すべて捕えられた。明の太祖は地保奴に貨幣を与えて、生活を保障した。藍玉がハーンの后妃と密通したことに明の太祖は激怒して、后妃は恥じて自殺した。地保奴が恨みの言葉を口にしたことを知り、明朝から遠くの琉球に転出させた。
 先に引用した「ウィキペディア」内容とほぼ一致する。
 史書に記されていることから、これは史実だと思われる。
 
 史料に記されたこの「琉球」が果たして現在の沖縄なのかどうかが問題となる。『隋書』に記された「琉球」は、台湾と沖縄はいずれも琉球と称していたという。しかし、明の時代には、台湾は「小琉球」と呼んで、沖縄とは区別していたという。
 歴史家の上里隆史氏は次のように指摘している。
 <地保奴が流された「琉球」とは沖縄のことではなく、台湾であるとの意見もあるようですが、コメント欄でも書いたように、僕が沖縄だと判断した理由は以下の通りです。
 まず、根拠となる史料で、当時のリアルタイムの状況に最も近い『明実録』のなかでの沖縄と台湾の表現が異なること。『明実録』中で台湾のことを記す場合には「琉球」ではなく「小琉球」との表記がされています。つまり沖縄と台湾を書き分けているのです。
 地保奴が流された地として表記されているのは「琉球」。つまり『明実録』の表記法で考えれば、台湾の場合、これが「小琉球」となるはずで、実録に登場する「琉球」は沖縄を指している可能性が高いといえます(「目からウロコの琉球・沖縄史」)。> 
 琉球王府の正史『球陽』にも次のことが記されている。
 「39年、太祖獲る所の元主の次子地◆奴」(人偏に禾)を我が国に発流す。」。
 『球陽』の語註では、<『明実録』には「地保奴」とある>。
 この記述も『明実録』を見て執筆したのかもしれないが、琉球側の史書でも、元皇帝の末裔が流されたことを記していることは、やはりこの「琉球」は沖縄であることの証左である。

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唐代を彩る人とその時代 玄宗皇帝と楊貴妃、その3

 玄宗に寵愛された楊貴妃

 楊貴妃は、姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号である。世界三大美人の一人で古代中国の四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。」(ウィキペディアから)。
 だが、則天武后と違って「悪女」とは言われない。
 唐の9代目皇帝・玄宗は、皇后の王氏が子宝に恵まれず、玄宗に愛された数人の女性たちが男子をもうけていた。武恵妃は玄宗の寵愛を得た。男子を生んだが、則天武后の一族で、皇后の候補になったが反対が多かった。
 玄宗は、武恵妃が「皇太子たちが自分たち母子を殺害しようとしている」という訴えを信じて、「三皇子を廃し、武恵妃の生んだ寿王を皇太子に立てたい」と告げた。宰相の首席、張九齢が強く反対した。張は宰相を免職になった。
 開元25年(737)4月、三皇子は廃されのちに殺された。年長の皇子である忠王が皇太子に立てられた。後の粛宗である。12月、武恵妃は亡くなった。玄宗は、これを悼んで皇后に追封したという。
 
 玄宗は、宦官の高力士に命じ、武恵妃に代わる女性を探させることにした。「絶世の美人」として報告があったのは、玄宗の18番目の皇子、寿王の妃、楊玉環であった。
 玄宗は寿王に納得させ、新しい嫁を世話する一方、楊玉環をいったん出家させ、女道士とした。その後、彼女が玄宗の女官になることを願い出たという形にして後宮に入れた。玄宗と楊玉環は、親子ほど年齢は離れている。いったん出家させるという遠回りをしたとしても、皇帝が自分の息子の妃を奪い取ったことには変わりはない。
 天宝4戴(745)、彼女は皇后に準じる女官の地位、貴妃に任命され、楊貴妃と呼ばれた。
 楊玉環が貴妃の位に立てられると、彼女の一族の人々、いわゆる外戚も多くの特権が与えられ、政治上でも強力な発言権をもつようになった。
 楊貴妃には3人姉妹がいて、それぞれに崔(さい)・裴(はい)・柳(りゅう)という家に嫁いでいたが、玄宗は彼女らに臣下の妻に与えられる称号としては最高の「国夫人」に封じた。
また従兄の楊国忠は、宰相にまで登りつめた。
 
 楊貴妃をめぐるエピソードは数々伝えられている。
 <玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。>
 <751年(天宝10載)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山を湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかしその後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため醜聞が流れたという。(ウィキペディアから)>
 
 楊貴妃は果物のレイシ(ライチ)を好み、嶺南(広東・広西・海南省など)から都の長安まで早馬で運ばせたと伝えられる。
<レイシの産地は長安から遠く離れた南方です。しかもレイシは摘んでから一週間も経てば味も香りも落ちてしまうのです。楊貴妃の口に新鮮で香り高い生のレイシ届けるため、何千キロの道を途中何度も交代しながら全速力で馬を走らせ、その途中で民衆を踏みつけようが、田畑を荒らそうがおかまいなしだったと言います(中国語スプリクト)>。
 レイシは沖縄でも産している。6月中頃からがシーズンらしい。いまでは宅配で全国に発送している。たしか食べたことがあり、そんなに美味しい果物とも思えない。中国人はとくにレイシが好きな果物で、レイシを食べないと食事を終えた気がしないそうだ。
 玄宗と楊貴妃をめぐるエピソードの続きである。
 <嶺南から献上された白い鸚鵡に「雪衣女」という名をつけ、人の声を完全に使えたため「多心経」をおぼえさせたが、ある日、鷹につかまれて殺されたので埋めて鸚鵡塚と名付けた話がある。また、安禄山に楊貴妃自身からも多くの贈り物を贈っている。
 755年(天宝14載)、6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。
また玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行った。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み談笑したという説話が残っており、これは後に画題にもなっている。(ウィキペディアから)>
 太宗と則天武后の場合は、則天武后が太宗の死後、皇后からさらに皇帝にまで登りつめ、権力をふるった。だが、楊貴妃の場合はそのような政治へのかかわりはない。だが、玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、唐の政治にも大きな影響が出た。
      楊貴妃 
                        浮世絵に描かれた楊貴妃
 玄宗は楊貴妃にのめり込み、楊貴妃の親族など側近に政治を任せるようになった。
 752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を 含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。…
 楊一族は唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。(ウィキペディアから)>
 
 哀れな楊貴妃の最後
 すでに玄宗のところで、楊貴妃の最後について書いたが、もう一度、振り返っておきたい。
 755年、楊国忠と激しく対立してきた安禄山が反乱を起こし、洛陽を陥れた。玄宗は首都長安を抜け出し、蜀地方(四川省)逃れることを決めた。長安から西へ50キロばかりにある馬嵬(ばかい)の宿場に到着した。ここで悲劇が起きた。乱の原因となった楊国忠を憎んでいた兵士たちは、たまたまチベットの使者がやってきて国忠に食糧を要求しているところを見た兵士が「謀反の相談をしているぞ」と叫び、逃げる国忠を斬り殺した。そばにいた彼の息子と、楊貴妃の姉2人も殺された。
 
 兵士たちが宿場をとりかこんだ。玄宗は解散を命じたが、兵士たちは動かない。
 陳玄礼が言った。「貴妃さまのおいのちを」。 玄宗は「貴妃は国忠の謀反にかかわりない」 高力士が「貴妃さまには罪はない。しかし兵士たちは国忠を殺してしまった以上、貴妃さまが陛下のおそばにいたのでは、安心できないでしょう」と決断を求めた。玄宗も貴妃を殺さない限り事態の収拾は不可能と判断。高力士に命じ、しめ殺させた。このとき38歳。玄宗とともにいたのは16年であった。(『人物 中国の歴史』)
 <『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(縄で首を捻られて殺される)させられた。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。陳玄礼らによってその死は確認され、死体は郊外に埋められた。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。(ウィキペディアから)>
 
 楊貴妃はどのように評価されているのか。
 楊貴妃について、国を傾けた「尤物」(美女をあらわすが、男を惑わし道を誤らせる存在という意味合いが強い)という評価がある。でも、それは惑わされた男の方の責任ではないだろうか。
 <楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことがなかったため、盛唐の時代を象徴する存在である意味合いが強いとされる。…現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。(ウィキペディアから)
 
 <安史の乱が起きたのは、玄宗が楊貴妃に溺れて政務を顧みなくなったために唐の屋台骨がきしみ始めたからでした。
 確かに彼女が一因ではありますが、あくまで彼女はそこに存在し、玄宗の妃であっただけで、彼女は政情に介入はしていないのです。
 打算的に彼女に近づいた安禄山でさえ、彼女の死に数日間も涙を流したといいますし、彼女は美しさだけでなくその性格も「できた」女性だったのではないでしょうか。
 彼女の行動について、悪評は史実には残されていません。それが何よりも証拠だと思います(「tabiyori」HP)>
楊貴妃が美しいゆえに、玄宗に寵愛され、彼女の一族が重用されて唐の政治に携わったことから、楊国忠と安禄山の対立を招き、さらに「安史の乱」を引き起こした。それから楊貴妃の死という悲劇にまで至った。則天武后とは大きな違いがある。唐の時代を生きた悲劇のヒロインである。
 終わり

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唐代を彩る人とその時代 玄宗皇帝と楊貴妃、その2

 安禄山の登場 
 <政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営したのは、宰相李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山である。両者は権力の掌握に直結する玄宗夫妻の寵愛をめぐって激しく争った(ウィキペディアから)>
 安禄山は、父は胡人、母は突厥人(トルコ民族の一派)。安禄山は、節度使の一人、張守珪の部下だった。開元24年、契丹の討伐で大敗を喫して逃げ帰った。幼年、安禄山を囚人として長安に護送した。玄宗は、死罪は免じ、官職は剥奪し、もう一度チャンスを与えた。
 その後めざましく出世した。
 
 自分の子どもができなかった楊貴妃に願い出て、彼女の養子になることが許可された。元来は、後宮は皇帝以外、男子禁制の場所である。その後宮にも、自由に出入りを許された。
 楊貴妃との間におかしな噂が立ったが、奇妙なことに玄宗は一向に気にとめなかった。(『人物 中国の歴史』から要約)。
天宝11年に李林甫が死んで、政治は楊国忠の独り舞台となる。政治の基本を知らず、施策の挙措が定まらなかった楊国忠の手で、政治は見るも哀れなほどに荒廃する。いや、自分が火傷するとも知らずに、枯草の山で火遊びするようなことを平然と行なった。…愚かにも、安禄山に叛乱を嗾(けし)かけて、謀反を起こすように仕向けた。
 
 安禄山から上奏文が届いた。馬匹を貢献(献納)したい、という主旨であった。
 ――上等な駿馬3千余頭を選び出し、朝廷に貢献することにした。その輸送で、馬一頭に執鞍の兵を2人、輸送体に将24名を付ける。沿路の州府や県庁に、軍粮と馬草の供給を受ける必要がある。指示と手配をお願いいたすーーという内容である。
 総計で万余の軍勢となる。紛れもなく、それは長安への平和進駐を意図した先遣部隊の派遣であった。「謀反を企んでいることは疑いない」と楊国忠が進言した。玄宗は、安禄山を信じて様子を見ることにした。
 
 時の朝廷には、謀反を起こした安禄山を鎮圧する戦備がなかったばかりか、それと戦う軍隊すらなかった。唐代の皇帝たちは、立派なご先祖さまが、鞏固な王朝の基礎を築いてくれたお陰で、ほとんど軍隊に頼らずとも世を収めることが出来た。いや、正規軍を持たず、軍権を握った強力な将軍を存在させないことが、軍の叛乱による王朝の崩壊を免れて、しかも養兵による財政的な圧迫から解放されるーーという計算された深謀遠慮の恩恵に浴してきたのである。
 王朝が建設された初期には「府兵制」があり、それを統括する「折衝府」が存在した。…いつしか兵営が空っぽになり、折衝府には、統轄すべき府兵がいなくなるという事態が生じた。(『隋唐演義』から要約)。
 玄宗は毎年、楊貴妃らを伴って滞在する温泉地、華清宮の離宮で待っているから出てこいと命じた。不安を感じた安禄山は11月、楊国忠討伐をスローガンとして、20万の将兵を率いて、范陽(北京)より南下し、東都洛陽をめざして進軍を開始した。挙兵後わずか30日余りで洛陽を陥れた(『人物 中国の歴史』)。
 
 天宝15戴(756)元旦、安禄山は落陽で帝位につき、大燕皇帝を僭称した。
 6月官軍の完敗。首都の長安は風前のともしびである。御前会議で張国忠は蜀(四川省)への避難を提案した。
玄宗は長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。
 しかし馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。(ウィキペディアから)>
 
 玄宗は長安を出るにあたって、皇太子に2千人の兵士を与え抗戦にあたるよう命じた。その際、帝位を皇太子に譲ると伝えさせた。霊武に到着して皇太子は群臣たちの推挙を受けて帝位についた。これが粛宗であり年号は至徳と改元された。45年にわたる玄宗の治世は終わりを告げた。
     安禄山 
      安禄山
 洛陽城に入った時の安禄山は、ほとんど失明同然になっていた。精神的に錯乱に陥る時があり、四六時中、手に鞭を握っていた。最大の被害者は、身辺の面倒を見ていた内監の李猪児と、寵臣の厳荘と、そして太子の安慶緒である。安禄山には愛妃段氏の生んだ子供がいた。太子の慶緒は廃嫡される危険があり、その恐怖に怯えていた。厳荘は慶緒が即位すれば、朝廷の実権を握ることができる。父を殺す勇気がなければ、万に一つも救われるチャンスはない、とけしかけた。(「隋唐演義」からの要約)。 
757年正月、洛陽の安禄山は次男安慶緒に殺された。これ以後、反乱側の内紛と自壊が進むことになる。安禄山の右腕史思明が安慶緒を殺して大燕皇帝を称し、その史思明も761年3月に長男史朝義に殺されてしまう。この間…官軍は、長安を奪回し、洛陽をも回復した。763年1月、史朝義は部下の裏切りによって自滅し、ここに7年にもおよんだ大乱は終息した。
 
 大反乱は、唐代社会に大きな影響を与えた。戦乱によって多数の流民がうみだされ、本貫地をはなれた客戸の増加にいっそうの拍車がかかった。激増する客戸の多くは武周期ころから成長しつつある新興の地主層の下に佃戸として吸収され、あるいは節度使の下で傭兵となっていく。乱勃発直前の755年における戸数は891万4709戸・5291万9309口という唐代での最大戸口数に達したが、乱終息後の764年には293万3135戸・1692万386口にしかすぎず、3分の1という激減を示している。…乱によって膨大な流民がうみだされたことが直接的な背景としてある。
 「安禄山によって引きおこされ史思明が引き継いだ安史の乱は、太平の世を謳歌する唐朝中央に大きな衝撃を与えた。この大乱によって唐代の極盛期は終止符をうたれ、乱中に新設されるようになった内地節度使の地方軍閥化が進行するなかで中央集権体制は大きく後退し、唐の国勢はもっぱら下降線をたどることになる」
(『中国史 2』)。

 新帝の粛宗は、次第に勢力を回復し、至徳2戴(757)10月に長安が奪回された。玄宗が長安に帰還したのは12月だった。
 玄宗が長安に帰り着いた。かつて粛宗が行宮を設けた鳳翔に到着した時に、警備隊が手にしていた武器を、その府庫に格納させた。
 玄宗は以前にも増して楊貴妃の面影ばかりを慕う毎日であった。上元元年(760)、粛宗の側近が玄宗を西宮に軟禁状態においた。玄宗は上元2年(761)4月、78歳の生涯を閉じた。その数日後に、父を追うようにして子の粛宗が薨る。52歳であった。

 安禄山は後世にどのような評価を受けているのだろうか。
 <『新唐書』では、「安禄山は、夷奴餓俘でありながら、天子から恩幸を借りて、天下を乱した。臣下でありながら、君に反した結果、子に殺されてしまった。事はよく巡るもので、天道のしかるものである」と評価され、『旧唐書』、『資治通鑑』でも、随所にその狡猾さ、残忍さ、忘恩を罵る言葉で満ちている。彼の事績をつづった『安禄山事迹』でも、彼の才知を認める表現を含みながらも、大きくは異ならない。

 しかし、彼の配下であった後に唐に降伏して魏博節度使となった田承嗣が、安禄山・安慶緒・史思明・史朝義を「四聖」として祀っている。また、長慶年間に幽州において、史思明とともに「二聖」として祀られていた事実も存在する。
現代の研究家からは、古典的な評価を否定できないとしながらも、そのたくましさ、不幸な生い立ち、巧みな世渡りと機転、鮮やかな昇進ぶりなどを肯定的に評価されることも多い。反乱についても、民族闘争的な一面も指摘されている。また、商業を重視していた記録など、ソグド人や遊牧民族によくみられる文化や思想を持ち、漢民族と異なる点も注目されている(ウィキペディアから)。
 


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唐代を彩る人とその時代 玄宗皇帝と楊貴妃、その1

 太宗と則天武后について書いたが、朝といえば、これより少し後に登場する玄宗皇帝と楊貴妃の物語が有名である。すでに紹介したテレビドラマ「隋演義」は、の建国で終わっているが、原作本は、玄宗と楊貴妃の物語を描いて、玄宗の死で終わっている。の時代を語るなら玄宗と楊貴妃も語らないと物足りない気がする。それで、ことのついでに書いておきたい。
 
 玄宗皇帝
 第2代太宗の死後、政情不安定の時代が続いた。則天武后が退位して、中宗が復位しが復活したが、皇后の葦氏が実質的に政治を左右するようになった。娘の安楽公主と共謀して、こともあろうに夫である中宗を殺そうと計画した。
牡丹観賞の宴で出された中宗の好物、飴入りの焼き菓子に秘伝の毒が入っていて、死去した。
 その後に皇太子の李重茂が帝位についた。則天武后の子、李旦が邪魔だと暗殺計画が練られた。これを察知した李旦の三男、李隆基が挙兵した。葦后、安楽公主は斬り殺された。李旦が帝位についた。睿宗である。妹の太平公主が政治の実権を握ろうとした。睿宗は即した翌年、太平公主の反対をおしきり、帝位を皇太子に譲り、引退を宣言した。
 年号が太極から延和と改まった712年8月、皇太子が新皇帝に即位した。玄宗である。28歳。
 太平公主は側近と謀議し、713年玄宗を倒すクーデターを計画したが、これを知った玄宗は謀議に参加した官僚たちを斬り捨て、太平公主には死を賜わった。
 
 713年12月、年号は先天から開元に改められ、この後、45年間が玄宗の在位期間である。
 則天武后の末期から玄宗即位に至るほぼ7年にわたる宮廷内は、葦后・安楽公主・太平公主ら女性の実力者たちのかもし出した奢侈なムードにながれ、綱紀が乱れに乱れていた。玄宗は即位の当初、奢侈の禁止令を勅令で公布して贅沢を戒め、綱紀の粛正をはかり、内政の充実に力を注いだ。
 玄宗の治世のうち、前半期にあたる開元20年過ぎ頃までは、「玄宗は政治の改革に意欲をもやし、政務に精励した、『開元の治』といわれる時代が出現する」(『人物 中国の歴史』)
 <713年に始まる開元(かいげん)時代(~742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世開元の治と称せられる。玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋璟(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、儒学を重んじ、密奏制度をやめ、冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。(「日本大百科全書」)>

 玄宗の出現によって、の国運は一気に開花したかに見えたけれど、なお社会問題があった。
 人民支配を支えてきた均田制がスムーズに施行されず、農民たちは生活苦から流民になったりし税収が少なくなった。兵農一致を建て前とし、均田制と一体であった府兵制が、農民減少により負担が増加し、大量の傭兵が行われた。異民族の侵入にそなえて辺境に軍鎮がおかれ、統轄司令官として節度使が任地で兵士を募集することが許されたので、次第に強力な軍閥を形成するようになる(『人物 中国の歴史』から)。

 <開元後半期から次の天宝期(742~756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。(「日本大百科全書」)>
        玄宗皇帝 
                                   玄宗皇帝
 玄宗をめぐる女性についてもう少し見ておきたい。
 玄宗の皇后の王氏は、子宝に恵まれず、玄宗に愛された数人の女性たちが男子をもうけていた。武恵妃という新しい愛人ができた。則天武后の一族で、男子を生んだ。皇后の候補になったが反対が多かった。「皇太子たちが自分たち母子を殺害しようとしている」との武恵妃の訴えを信じて、「三皇子を廃し、武恵妃の生んだ寿王を皇太子に立てたい」と告げた。宰相の首席、張九齢が強く反対した。張は宰相を免職になった。
 
 開元25年(737)4月、三皇子は廃されのちに殺された。年長の皇子である忠王が皇太子に立てられた。後の粛宗である。12月、武恵妃は亡くなった。
 武恵妃が死に玄宗は、宦官の高力士に命じ、武恵妃に代わる女性を探させることにした。「絶世の美人」として報告があったのは、玄宗の18番目の皇子、寿王の妃、楊玉環であった。
玄宗は寿王に納得させ、新しい嫁を世話する一方、楊玉環をいったん出家させ、女道士とした。その後、彼女が玄宗の女官になることを願い出たという形にして後宮に入れた。
 天宝三戴(744)12月、玄宗60歳、楊玉環26歳のときである。翌年8月、彼女は皇后に準じる女官の地位、貴妃に任命され、楊貴妃と呼ばれた。楊貴妃は、やがて「国を傾ける」ようになる。
 彼女の一族の人びと、外戚が多くの特権が与えられ、政治上でも強力な発言権をもつようになった(『人物 中国の歴史』から)。
 
 「武則天の場合には太宗の死により慣例にしたがって出家させられたのであるのにたいし、楊貴妃の場合には寿王とは生きながらの離別であり、玄宗のやりかたは高宗より背徳の度合はより強い」とされる。
「楊貴妃をえた玄宗はひたすら彼女に溺れていった。…政治に精勤した開元期の玄宗の姿にかわって、政治に倦(う)んでもっぱら華清宮で楊貴妃との生活に没入する姿だけがめにつくようになる」
 「玄宗の楊貴妃への寵愛が深まるにつれ、楊氏一族への玄宗の私的恩寵(おんちょう)が過大におよぼされるようになった」
楊氏一族の栄達を代表するのが楊国忠で、楊貴妃の再従兄(またいとこ)にあたる。若い時期には酒と賭博に身をもちくずし、一族のきらわれものであった。楊貴妃の後宮入りで昇進のチャンスをつかみ、宰相となった(『中国史 2』)。
 


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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その5

 太后の治世が始まる
 廃帝のあとは弟の李旦を皇帝に立てた。即位式はあげず、任命書を読み上げただけ。政務はすべて太后が執ったから、実質的には最初から廃帝であったも同然。これより皇帝あって皇帝なき太后の治世が始まる。
 揚州の李敬業が武氏討伐の義兵を挙げた。洛陽・長安に進撃せず、金陵(南京)に退いて太后の大軍に撃破された。太后の悪業は覆いようもなく、人心を弾圧するために、密告・偵察・拷問・虐殺という一連の刑獄制度が組織化された。
 武后が政に与った高宗の治世34年間には13回、改元した。高宗没後の太后治世の15年間には、16回も改元した。
 載初元年(690)新しい周の王朝を建て太后が皇帝となるよう請願が出された。9月9日、朝を廃して新王朝を周と称し、年号も天授と改めた。12日には聖神皇帝の称号を受けて女帝となった((『人物 中国の歴史』から要約)。
 
 譲位を迫られる
 晩年に至った武則天は、80歳近くでも、20歳代の若い張易之・張昌宗兄弟を寵愛した。醜聞が広がることを恐れて、それをごまかすため新しい官署まで設置した。これを控鶴府(こうかくふ)と呼び、そこに張兄弟をはじめ若者たちが集り「倒錯した性愛の殿堂と化した」(『人物 中国の歴史』)。
 これを見かねて武則天を諫める朝臣が現れると、これを失脚させた。だが、逆に朝臣たちの反感を強め、張一派は孤立していった。
 武則天は、病床に臥せがちとなっても、皇位継承が決まっていなかった。
 実子の皇子旦は高宗との子であり、王朝の復活となるので、武一門の甥に帝位を譲ろうとしていた。狄仁傑は、甥ではなく「皇子哲か旦を皇太子に立てるべき」と説いた。則天もこの意見を受け入れ、廃帝中宗(皇子哲)を再び皇太子に立てた。
 宰相の張柬之は実力行使を決意した。
 長安5年(705)1月、皇太子哲を連れ出したうえで、則天の臥す長生殿に押し入り、張兄弟を斬った。武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号もに戻ることになった。
 11月、世を去った則天は、皇帝としてではなく、高宗の皇后として葬られることを願い、高宗の眠る乾陵に合葬された。
     ドラマ「武則天」 
        ドラマ「武則天」から。左が武后、右が高宗
 
 則天武后への客観的な評価
 武則天みずからが皇后から皇帝となり強大な権力の頂点にたつために、我が子でさえ平然と犠牲にするなど残虐は殺戮を繰り返し、権謀術数をほしいままにしてきた。といっても、権力の座についてからの政治は、必ずしも悪政とはいえない。客観的な評価が必要である。
 <武皇后は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑・姚崇・宋璟・張説などがいる。
 武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた。また、治世後半期には姚崇・宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった(ウィキペディアから)。>

 <武則天にたいする悪評はかなり一面的であり、やはり当時の歴史的情勢のなかで評価が必要である。
 皇后冊立に反対したのは伝統ある有力貴族(武川軍閥集団)、門閥貴族勢力が中心であり、賛成派は門閥的背景を持たない新興の官僚層が中心で、科挙の厳しい試練に勝ち残り、のちに武后の賢才主義による人材登用策で台頭する勢力である。
 「つまり貴族制社会の閉鎖性を打破して新風を吹きこもうとしたのが武后であり、新興の科挙官僚の中堅クラスが武后実権期に頭角をあらわし、ついで武周政権を支えたのである。このように武周期は貴族制社会にひとつの大きな転機をもたらした時代と位置づけることができる」(『中国史 2』)>
 <武后は、内廷と外廷との間に、けじめをつけていた。外廷のことでは、なにごとによらず狄仁傑の建言に従った。
つまり武后は人を見る目があり、政治の機微を弁えている。そして狄仁傑は、筋道を通すことでは一歩も引き退がらなかった。武后が内廷を乱しながら、しかも武后に阿(おもね)る数多くの佞臣(ねいしん)がいたにも拘らず、政治が究極的に混乱を免れたのは、優秀な人材が宰相に任じられていたからである。同時に宰相権が尊重されていたからであった。(『隋演義』)>
 <中国史の中から、「出世物語」を拾い出すとすれば、その筆頭のヒロインは、間違いなく則天武后である。…その出世物語が、天下の女性を勇気づけて、「男性本位」の社会通念を破り、逆に「女性上位」の信念を植え付けた功徳は大きい(『隋演義』)。>
 
 則天武后は、伝統的な儒教より仏教を重視したという。
<帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。(ウィキペディアから)>
 武則天が、太宗と高宗という親子の後宮となったことに非難がある。だが、北方遊牧民では通常の風習だという。
「太宗・高宗の父子二帝の後宮に身をおいたことも儒教倫理からすればきわめて背徳の行為であるとする批難も強い」「北方遊牧民族においては一般的な風習であり、唐室李氏の北族出自説のひとつの論拠とされる」(『中国史 2』)。
 <長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、貞観の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛びぬけていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の開元の治を導いたことも特筆に値する。歴史上にもわずかながら、…肯定的な評価を下した者も存在した(ウィキペディアから)。>
 



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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その4

 則天武后
  次にテレビドラマでも主役として描かれている「則天武后」について、見ていきたい。呂后(漢皇帝の劉邦の妻)、西太后(清の咸豊帝の側妃)とともに、中国の三代悪女にあげられる。ただ、長い中国王朝史上、女性で皇帝にまで登りつめたのは則天武后ただ一人である。良くも悪くも稀有な存在である。
 <武照(後の則天武后)は州都督である武士彠(ブシカク)の子として、代々資産家である家に生まれます。上流階級の家に生まれた武照は英才教育を受けて育ち、十四歳での皇帝太宗の後宮に入りました。
 朝の制度では后が一人のほか、妃が四人、昭儀が九人、婕妤が九人、美人が四人、才人が五人、そしてその下にそれぞれ二十七人から成る侍女がおり、これを総称して後宮といいました。この後宮は皆、皇帝と寝所をともにすることが可能でした。武照は後宮の一人となりましたが、序列としては低い才人の一人にすぎず扱いとしては女官のようなもので、もっとも大事な仕事は皇帝の寝具を交換することでした。
 武照は美しく聡明でありながら、皇帝太宗の寵愛を受けることはありませんでした。(「悪女列伝」HPから)>

 ドラマでは、太宗が武才人を寵愛したように描かれているが、実際はどうもそうではなかったようだ。
 「武才人も太宗のお召しを受ける機会はあったはずだが、好みにあわなかったのか、太宗が崩ずるまで才人の地位のままであった」(『人物 中国の歴史』)。
 その背景の一つに、不気味な流言の騒ぎがある。
 <ほどなく宮廷に「三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。こうした状況下で、太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。太宗に殺害されることを恐れた武照は、李治を籠絡したとおぼしく、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる(ウィキペディアから)。>
 そういえば、武才人は太宗との間に子どもはいない。武才人を寵愛した李治、のちの高宗との間には子どもがいる。太宗との関係を反映しているのかもしれない。
     武則天 
        武則天
 武才人の誘惑が太宗の命取りになったという話もある。
<武才人が夜な夜な誘ったのも、思えば運の尽きであった。過度の愉悦が死に至る道であるからである。「いかがわしげな道士の調合した怪しげな「金石」――紛い物の「金丹」を飲んだのが、それこそ命取りとなる」(『隋演義』)
実際に「不老長寿のために金丹薬を多量に服用し、長生をえるどころか逆に命を縮めて53歳で没した」とされている(『中国史 2』)。
 太宗の後継者として李治が選ばれた経過をもう一度振り返っておく。
 <「はじめ長子の承乾が皇太子に立てられたが、第4子李泰とのあいだが不和になり、ついには承乾の謀叛事件にまで発展したので、太宗は断乎として皇太子を廃し、承乾と泰とを共に流罪に処した。そのあとで、功臣の進言もあり、太宗は苦慮の末に室の前途に無用の波瀾を起こさぬよう、兄よりも人物の劣る李治を皇太子に立てなければならなかった。この李治が唐の第三代皇帝であり、後の武照の夫となった高宗である」。
 貞観23年(649)太宗が崩じ、他の宮女たちと共に長安の感業寺という尼寺に出家した。以前から誘惑ともいえる巧妙な手管で皇太子李治と通じ、尼寺に入ってからも、秘密裏にその関係が続いていたようで、高宗との間に男の子をもうけていた。父と息子とに通じていたわけで、近親相姦として非難される。
 高宗の皇后王氏には子女がなく地位に不安があった。ライバルを押さえるため武照を後宮に入れて力を借りることを思いついた。髪が伸びると武照を後宮に入れた。武照が高宗の心を独占し、皇后の影が薄くなった。皇后の地位から見て第6位、昭儀に躍進した(『人物 中国の歴史』抜き書き)。>

 <昭儀は高宗との間で女児も分娩した。子のない王皇后は昭儀の留守に嬰児を抱いて寝かせて立ち去った。昭儀が室に戻り、訪れた高宗に見せるために抱きあげると嬰児は死んでいた。容疑は王皇后にかけられた。史書では実際の下手人は実母の武照としている。それ以後も繰り返される武照の肉親謀殺の犠牲者第1号であった(『人物 中国の歴史』から要約)>。
嬰児殺しは、武照が仕組んだ罠だったという。
「じつはこれは、武照が十分計算してしくんだ罠であった。武照は皇后が部屋を出ていくと、隣室からそっともどり、自分の娘を絞め殺した。そのあと布団を上にかけ、だれにも気づかれないように外に出た。そして、あたかも王氏が、皇帝と武照の関係を憎むあまり、その子に手をだした、と解釈されるように仕向けた(講談社学術文庫『則天武后』から)。

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