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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その3

貞観の治」とはどのような治世か
 次に、なぜ「貞観の治」と呼ぶのか、またそれははどのような治世なのだろうか。
 <中国,の第2代皇帝太宗の治世。当時の年号貞観 (627~649) にちなむ呼称で,中国史上最も名高い盛代。この頃隋末の全国的動乱と人民の疲弊から立直り,中央集権が強化されの国礎は確立した。律令体制の整備につれて学校,科挙も発達し,『五経正義』の欽定をはじめ文化事業も推進された。房玄齢,杜如晦,魏徴らの名臣がよく内に文治を助け,外は名将李靖らの活躍で突厥,吐蕃などを制圧し,国威を広く輝かした。(ブリタニカ国際大百科事典)>
後世の皇帝政治の手本となった「貞観政要」について、見ておきたい。
<本書は、太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪ら重臣45名)との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。

 太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。中国には秦以来、皇帝に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、代の諫官は毎月200枚の用紙を支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のように諌官の忠告を真面目に聞き入れていた皇帝は極めて稀で、皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官も多かったという。
 
 太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿はいかめしく、極めて厳粛であることを知っていた太宗は、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた(求諫篇)。また官吏たちを交替で宮中に宿直させ、いつも近くに座を与え、政治教化の利害得失について知ろうと努めた。そして臣下たちもこれに応えて太宗をよく諫め、太宗の欲情に関することを直言したり(納諫篇)、太宗の娘の嫁入り支度が贅沢であるということまでも諫めている(魏徴の諫言)。太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた。
 
 また太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。公卿たちが太宗のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると言って退けた。太宗を補佐した魏徴ら重臣たちは今の各省の大臣に相当するが、その家に奥座敷すら無いという質素な生活をしていた。私利私欲を図ろうと思えば、容易にできたであろう立場にいながらである。
 このような国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行は、儒教の精神からくるといわれる。中国では儒教道徳に基準を置き、皇帝は天の意志を体して仁慈の心で万民を愛育しなければならないという理念があった。また臣下にも我が天子を理想的な天子にするのが責務であるという考えがあり、天子の政治に欠失がないように我が身を顧みず、場合によっては死を覚悟して諫めることがあった(ウィキペディアから)。>
            唐と周辺国
             8世紀 と周辺国 
 貞観の初め、太宗、侍臣に謂いて曰く「君たるの道は必ずすべからく先ず百姓(ひゃくせい、民衆)を存すべし。もし百姓を損じてもってその身に奉ずれば、なお脛(はぎ)を割きてもって腹に啖(くら)わすがことし。腹飽きて身斃(たお)る。もし天下を安んぜんとせば、必ずすべからく先ずその身を正すべし。いまだ身正しくして影曲がり、上理(おさ)まりて下乱るる者はおらず。・・・」<人民を搾取するのは、自分の股の肉を切り取って食べるようなものだ。>
 貞観四年、房玄齢(側近)奏して曰く「今、武庫を閲するに、甲仗(武器)、隋の日に勝ること遠し」と。太宗曰く「兵をあつめて寇(あだ、敵)に備うるは、これ要事なりといえども、然れども、朕ただ卿らが心を理道に存し、務めて忠貞を尽くし、百姓をして安楽ならしめんことを欲す。すなわちこれ朕の甲仗なり。隋の煬帝は、あに甲仗足らざるがために、もって滅亡に至りしならんや。正に仁義修めずして、群下叛くに由るが故なり。よろしくこの心を識り、常に徳義をもってあい輔(たす)くべし。」
<隋の煬帝が滅びたのは軍備を怠ったからではない。徳義を失ったからだ。軍備を増やせなどと間違ったことを考えるな。>(「世界史の窓」HPから要約)

 国の根本は民であり、民の暮らしの安定をよく考えなければいけないこと。「兵は凶器なり。やむを得ずしてこれを用う」とのべ、軍備にばかり走ることも戒めていたというのは、興味深い。
 ただし、その後の政治的混乱を経て成立した『貞観政要』は「太宗の理想化が少なからずされていることに留意する必要がある」(『中国史 2』)とされる。
 「貞観政要」は、かつては政治に携わるものの必読書であり、中国では後の歴代君主が愛読してきた。また日本にも平安時代に伝わり、北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきたという。愛読しても実際の政治に行かされたのかどうかは別である。
  現在にも通用する見地があるけれども、およそ安倍前首相や菅首相の政治姿勢を見ても、背反するようなことばかりではないだろうか。

 太宗も自分の後継者選びでは、苦労した。14人の子どもがいたが、長男の承乾、第4子泰、第9子治は長孫皇后が母親で、第3子の恪は隋煬帝の娘、楊妃が母である。皇太子に立てられていた承乾は、行いが悪く謀叛を企て廃された。太宗は学問が好きな泰か英明な恪を皇太子にしようとしたが、恪は煬帝の血を引いている。2人とも皇后の兄、長孫無忌らが反対し、凡庸とみられた治を皇太子とした。後の高宗である。
 649年、太宗が没し高宗が即位すると、その前半は大過なく過ごしたが、やがて後宮の武が大きな力をもつようになり、やがて武が正皇后になり、さらに帝位につくと唐朝を廃して国号を周に改めた。
 太宗はまさか武則天が皇帝にまでなって、唐朝を廃するとは考えもしなかっただろう。
 後から見るように、「唐三代の後に武姓が天下を有す」という不気味な流言があったにしても。 
「立太子の選択をあやまった太宗に一半の責任があるといっても過言ではない」(『中国史 2』)と指摘される。
 

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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その2

 実際に李世民はどのような政治を行なったのか。少しだけ見ておきたい。
太宗李世民は、その即位を天から祝福されていたようである。中原にも、これといった波風は立たず、天下は泰平であった。政治が安定したことで、離散した農民が田に帰り、そこへ豊作が続く。米価が安定して、一斗当たりが40銭前後と安く、衣服足りて犯罪者の数が減る。死罪に処せられた者の数が根間で30人を割る、という奇跡的な状況まで起きた。かくて俗にいうーー州県の村落では夜に戸締りをする要もなく、婦女子が一人旅の出来る泰平の世が出現する。歴史に言う「貞観の治」が始まった。
 天下が統一され、政治が安定すると、権力を持て余し宮殿を建造し後宮を拡張したり、外征の兵を起こすとか、それに乗じて外戚や宦官が朝廷を搔き回すことがあった。王朝の場合は、高祖も太宗もその弊害を免れている。
私生活も質素で、皇族にも倹約を説いた。(『演義』から要約)>

 太宗を輔佐した名臣や名将のうち、末の有力群雄李密の部下、廃太子建成で玄武門の変の直前まで建成が機先を制するよう画策した人物、高祖の挙兵を察知して煬帝に通報しようとした人物…太宗にとって敵対する側にあった人物たちであるにもかかわらず、太宗はその有能さを認めてあえて重用し、期待にたがわぬ成果を引き出した。「太宗の人物を見る見識はやはり非凡であるといってよい」(『中国史 2』から要約)。>
 <秦王時代からの部下の官位がもと建成や元吉の属僚であった者より低いことへの不満を耳にした太宗は次のように言った。
 王者は至公無私であってこそ、天下の心を服従させることができるのだ。われわれがこうやって日々衣食できるのは人民の租税によるものであり、官職を設けて政治にたずさわるのも、人民のためなるのである。とすれば能力こそが官吏登用の基準となるべきであって、臣下としての新旧が官の上下を決定すべきではない(『人物 中国の歴史』から)>
 敵対した人物でも有能であれば重用するというのは、簡単ではない。勇気と公正さがいることである。しかも、登用の基準を人民のためになることを第一に考えていることも、今日でも通用することである。
     李世民1 
      テレビドラマ「武則天」から、太宗・李世民(中央)    
 太宗は名君と讃えられた。
 <初の混乱から国土を回復させ、後のの土台を築く治世を行ったこと、の領土を広げ、北方異民族の脅威を長期にわたって取り除いたこと、兄の李建成に自身の殺害を進言した魏徴の命を助け、彼を始めとする部下たちの諫言をよく聞き入れたことなどから、中国史上でも有数の名君と称えられる。(ウィキペディアから)>
 <太宗の貞観年間(627~649)のこのような太平の世は、「是の歳(貞観4年、630年)、死刑に断ずる者29人、幾(ほと)んど刑の措(や)むを致す。東は海に至り、南は嶺に至る。皆な外戸閉さず、行旅するに糧を齎(もたら)さず」(『旧唐書』巻3太宗本紀下)…などと史書に特筆されている。
 名君太宗によってもたらされた太平の世、「貞観の治」は、もっぱら『貞観政要』という書によって後世に皇帝政治のお手本として有名になった。(『中国史 2』要約)>

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唐代を彩る人とその時代 太宗と則天武后、その1

 代を彩る人とその時代 太宗と則天武后

 前にブログでテレビドラマ「演義が面白い」と書いた。ドラマは、王朝を倒して王朝を建てるところで終わっていた。だが、『演義』(安能務版)によると、原作は代の太宗と則天武后、さらに玄宗皇帝と楊貴妃の物語が展開される。
 おりしも放送されているテレビドラマ「武則天」(BS11)もその面白さにはまっている。名前だけは有名だが、その実像はあまり知らない。この際、すこし探ってみたい。
 その理由の一つには、中国史のなかでも、はとても繁栄した時代であり、日本からも16回に渡り遣唐使が派遣された。当時、琉球はまだ中国との交流はなかった。しかし「唐」の名前は中国の代名詞としてよく使われていた。
 琉球は14世紀に明に朝貢し、皇帝から琉球の国王として認証を受ける「冊封体制」となった。明、清であっても、中国皇帝の臣下となっていた時代を「唐の世」と呼んでいた。
 中国に朝貢と貿易のために琉球から渡航した船は「唐船(とーしん)」と呼ばれ、唐船が那覇港に帰ってくる情景を歌った有名な民謡に「唐船ドーイ」がある。トウモロコシは「唐黍」(とうきび)と呼ばれ、モロコシは沖縄では「とーなちん」と呼ぶ。サツマイモは「唐芋」(からいも)。沖縄民謡の「芭蕉布」で歌われる「トウ(唐)ヲゥーつむぎ」は、芭蕉のことである。
 唐の律令制度をはじめ政治と制度、文化は、古代国家の日本に導入され、大きな影響を与えた。そんなことで、唐は日本でも沖縄でも、身近な存在である。
 唐の時代を彩る太宗、玄宗皇帝や則天武后、楊貴妃など、日本でもよく知られている。この際、何人かを取り上げてみたい。
           太宗 
            唐の太宗

 唐の名君、李世民・太宗
 唐の太宗は姓名を李世民という。の武人貴族であった李淵の第二子である。父と共に暴虐な煬帝に反旗を翻し、を打倒して唐朝を樹立した。
 618年5月、李淵が帝位に即いて、唐王朝が発足した時、隋の煬帝が江都で弑されたが、全国は反乱勢力と隋朝の残存勢力で群雄割拠の状態にあった。
唐朝を周辺の群雄から守り、さらに最大の敵手と対決してこれを倒す最大の功労者は、当時秦王を称していた李世民である。まだ22歳であった。
 武徳9年(626)陰暦8月、李世民李淵の譲位を受けて、皇帝の位に即いた。「次男であるかれが即位することになった背景には、一つのいまわしい事件がある」(『人物 中国の歴史』)。
優れた軍事的な能力をもち、めざましい功績をあげた秦王世民は、兄の太子建成、弟の斉王元吉と険悪な関係にあった。兄弟間における帝位継承をめぐる権力闘争にまで発展していく。
 
 クーデターを起こす李世民
 <秦王李世民はついにクーデターを決意する。皇位継承の早期決着を、高祖に願い出た。つまり東府を戦場に誘い出す罠であった。それに乗せられて、太子建成と斉王元吉は動き出す。早朝の朝廷に列席するため登殿する秦王を、不意に玄武門で襲撃する作戦を立てる。500名に戦闘準備を命じて、東門の庭に待機させた。  
遠くから眺めていた張公謹の指揮する都捕府の軍勢800名が動き出す。東府軍をすでに包囲していた。太子と斉王を東府軍から隔離する。その瞬間、秦王は弓に矢を番えると、太子建成の顔面に狙いを定めて放った。太子建成は落馬し、そのまま事切れた。
それを見た斉王元吉が馬を翻して逃げる。横腹に槍を受けて落馬した。追い着いた秦王は止めを刺して首級を挙げる。
「年老いて、兄弟相残の惨状を見るとは思わなかった」と高祖。「恐れながら、先朝の隋文帝に比すれば、まだしも幸せでございます」と李世民。「早く譲位せよと諫言しているのか?」「そうは申し上げておりません」「分かった。決断を遅らせて、惨事を引き起こした轍は踏むまいぞ」と高祖は、秦王を皇太子に立て、政権を委ねて、退位することを決意した。
 2カ月後の8月、李世民は即位し、唐太宗と称された。(『隋唐演義』から要約)>
 これは、あくまで創作をまじえた記述である。
 
 <機先を制したのは秦王世民であった。626年6月4日、彼は一党をひきいて長安宮城の北門である玄武門で太子建成と斉王元吉が入朝するのを待伏せ、一気に襲殺した。玄武門の変を呼ばれるクーデターである。秦王世民は父高祖にこの事実を突きつけてみずからの正当性を強引に認めさせ、同月7日には太子に立てられた。そして8月には高祖はなかば強制的に太上皇にしりぞかされて世民が帝位に即した。名君の誉れ高い太宗の即位は骨肉間の殺戮という血なまぐさい事件をへて実現したものである。(『中国史 2』)>
 この後、太宗となった李世民は、後世の皇帝の手本となる太平の世を築いたことで知られる。中国の古代や中世の歴史を見ると、皇帝の後継を兄弟間で争い、血なまぐさい事件がたびたび起きている。李世民は、いつ対立する兄や弟に襲われるかもしれない状況にあった。それに、李世民は軍事的にも政治的にも有能であり、皇帝にもっともふさわしい資質を備えていたことは、名君と呼ばれたその治世が示している。恐らく使命感のようなものを持っていて、機先を制したのではないか。もし、先に襲われ殺められていれば、「貞観の治」と呼ばれた泰平の世とその後の唐の歴史には大きく変わっていたのかもしれない。私見としてそのように思う。
 

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京太郎の芸、馬舞者、鳥刺し舞、その3

  トゥイサシメー (鳥刺し舞)
  次にトゥイサシメー (鳥刺し舞)を見ておきたい。
 <鳥刺し(とりさし)は、鳥黐などを使用して鳥類を捕獲する行為、およびそれを生業とする人。古くから職業として成立しており、イソップ童話やモーツァルトのオペラ『魔笛』などにも登場する。また、狩猟の仕草を踊りや舞にした伝統文化が鳥刺舞、鳥刺し踊りなど各地に存在する。(ウィキペディア)>
 オペラ「魔笛」に登場する鳥刺しと同じものが沖縄の芸能にあることに、ちょっと意外性を感じた。
  
  

  この動画は創作太鼓集団による鳥刺し舞である

 やはり、その内容を池宮氏の訳文で抜粋してみる(池宮著『沖縄の游行芸』)。
「さん鳥刺しを 見なさいな…棒を 竿を 持ってて おっ捕りたい(のだがそれを)クヌ 見なさいな …二日目には 檜の木の枝に 唐鳩が 坐ってている …狙う 狙える …たしかに射刺して さん鳥刺しの …おっ捕りた それ 見なさいな …三日目には 深山押し分けて 見れば 梅の小枝に 鶯がとまている …たしかに射刺せ…四日目には 夜鷹小烏 小松の小枝 烏が止っている…小松の下に 雀が止っている お前 烏と言うと 雀と言って 京太郎と同じ よこしま物言いして 捕り損っての 見なさいな
 刺し損っての 見なさいな 十年では 十六反 …九年では 六反歩 黄金も銀も 宝も積んだ それが渡しの アー忘れた」
 池宮氏は、これは「舞」というより「狂言」としている。 
<もはやこれは舞いであるより、狂言といったほうがよいほど、滑稽な物真似を中心にしたものである。会話を除いたトゥイサシメーの骨子の部分は、柳田氏が「鳥刺し舞の一曲は明白に大倭から携へたものである。自分は曽て何かの書で、其詞を見たやうに思ふが、どうしても今之を見出して比較することが出来ぬ」(前掲書「序」)と指摘されたように、本土渡来の詞章であることは間違いない(池宮正治著『沖縄の人形芝居』)。>
 柳田氏も池宮氏も、鳥刺し舞の詞章は、大和からの渡来であると認めている。

 

 最後に残る問題として、「高平良万歳」の「道行口説」(くどぅち)「万歳かふす節」「おほんしゃり節」「さいんする節」の4曲は、実際のチョンダラーの芸能であるかどうかということである。
「道行口説」は、組踊の物語にそって創作されたものだとする分かる。それ以外の3曲はどうなのか。池宮正治氏は次のようにのべている。
 <組踊および舞踊に見られる三曲の振り付けは、チョンダラー芸能ではないように思われるが、詞章の方はあるいは関係があるのではないだろうか。祝言らしきもの、チョンダラー自らをヤユしたもの、滑稽などが見られるし、意味が正確に把握できないことも、あるいは伝承によったからで、チョンダラー詞章のうちの万才系詞章の共通の特徴と言えるかも知れない。「沖縄の人形芝居」>
 踊りはともかく、歌の内容、詞章はチョンダラー芸能と関係があるのではないかと見ている。田里朝直が創作したのなら、「道行口説」のように、整然として理解しやすいものになっているのではないか。チョンダラーによって伝承された詞章を採録して使っているから、意味がよく分からないところがあるのではないか。自分で歌っていても、とても意外性のある展開で、面白く、頭韻、脚韻をふんだ歌詞はテンポが良い。組踊のための創作の感じがしない。
 ただ、宮良当壮氏の『沖縄の人形芝居』に収められている詞章には、組踊で使われている歌はないので、確かなことはよく分からない。

 

 以上で紹介を終わる。泡瀬で伝承された京太郎の芸能は、実際に見たことがない。「YouTube」にアップされているので、それで楽しめるのは幸いである。


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京太郎の芸、馬舞者、鳥刺し舞、その2

 このブログで「念仏歌とエイサーの系譜」を紹介した際、池宮正治著「沖縄の人形芝居」『沖縄の游行芸』でいろいろ学ばせてもらった。そのなかに、「馬舞者」や「鳥刺し舞」の論考があった。そこから少し紹介させていただく。 

 ンマメーサー(馬舞者)
 <「ンマメーサー」とは馬を舞わしめる者の意。『京太郎の歌』の「馬舞者」には、「但三人仮面を被り馬の木像(首より上だけ)下腹に結びつけ手綱を採りて乗馬の姿勢で左の歌にて競馬の有様を演ず、中なる者を師の分、左と右なる両人を弟子分と知るべし」(注・原文はカタカナ)とあって、そのありさまがよくわかる。「板切目貫き」とあるように、春駒風の駒形を腰にくくりつけて、中之寺が叱り役(大夫)で、脇の二人がおどけ(才蔵〉をやるのである。その様子は『京太郎の歌』が詳しい。
  旧暦正月20日の那覇市辻のジュリ馬、八重山の狂言「早便(ばちかい)」とも縁をひくものだ。

  故柳田国男氏は『沖縄の人形芝居』の序で「馬の舞の一篇は、新なる島地の産では無いかと思ふ」と述べておられるように、本土から渡来したことを予想せしめるものの多いチョンダラー芸能の中で、この「馬舞者」は、彼らが南島で獲得したものであろう。駒形の芸能はともかくとしても、詞章はさすがにユニークで、庶民的な口語体のもつ軽快さ、面白い技法、たとえば頭韻、脚韻、繰り返しなどを駆使して、奇想天外に展開する。
 そのことばの醸すおかしみを狙ったものであろう。春駒と笑い、そしてチョンダラー芸能者の派手なコスチュームと、やはり万才系詞章と見てよかろう。意味は悍馬(注・かんば、あばれ馬)を乗り廻わしてとうとう通堂(那覇港)に来て、そこで唐から帰る使者を迎えるようにとれるが関心はそこにあったのではなく、ことばの掛け合い、おどけの面白さにあったのだろうと思う。(池宮正治著「沖縄の人形芝居」)>
   

  柳田国男氏が「新たな島地の産」として、沖縄で生まれた芸能のようにのべていることは、不思議である。大和の春駒と同類の芸であることを知らないはずはない。もしかしたら、唱える詞章の内容のことを指して「島地の産」と言ったのではないだろうか。
 池宮氏も、「馬舞者」は、彼らが「南島で獲得したもの」とのべているが、やはり、「詞章はさすがにユニーク」とのべている。
 琉球で演じるにあたり、詞章は琉球にふさわしい内容に変えたのではないだろうか。
 

 馬舞者の歌の内容
 ンマメーサー(馬舞者)の内容を見てみたい。池宮氏が述べいるように、あばれ馬を乗り廻わしてとうとう通堂(那覇港)に来て、そこで唐から帰る使者を迎える様子がうたわれているようだ。
 戦前、首里アンニャ村のチョンダラーから、人形芝居などの詞章を直接採録した宮良当壮氏の『沖縄の人形芝居』から、池宮氏の訳文で抜粋してみる(池宮著『沖縄の游行芸』)。
 「馬よ それ ドードー 確かに着いたぞ…あんなに遠い島尻 喜屋武の崎(まで)…後足跳ね上げて 前足を上立たして 垣花 搔き廻らして 渡地 渡り越して 通堂の崎へ振り巡らして なんとか 那覇の町へ 諸脚踏み込んで…馬に乗って通るのは 首里京太郎 相応な者…唐の御船加那志は 久米の後に飛び出給いて 御出給いて 拝まれ給いて王舅親方 唐からの御誂物は 茶鍋(?)黒金(鉄) 磨きたてた(?)急須(ちょか) 
 唐徳利…甘ったるくしてある 梅干 砂糖小で ございました」
 確かに、詞章は沖縄ならではの内容になっている。

     

  由来は春駒か
 では、「馬舞者」は大和の春駒に由来するとみられるのだろうか。
 改めて春駒とはなにか、確認しておく。
 <張り子や練り物で馬の頭の形に作ったものに竹にさして胴とし、その端に車をつけた玩具。子供がこれにまたがって遊ぶ。
1、 門付け芸の一正月に各戸を回り、馬の首の形をしたものを持ったり、また、これにまたがったりして歌う踊るもの。(goo辞書)>
 また駒形とは<1、将棋の駒の形をしたもの。
2、祭事などに使う、馬の頭や尾の作り物で、胸・腰につけて乗馬を装うもの。(同)>
 
 祝福芸としての「春駒(祝福芸)」は、もともと宮中に由来するという。
 <正月に馬の作り物を携えて民家を訪れて回った門付(かどづけ)の祝福芸。江戸時代も中ごろに存在が明らかになるが、宮中の正月祝賀の一つで、白駒を見て邪気を祓(はら)う「白馬節会(あおうまのせちえ)」にちなむものとの説がある。現存するものはごくわずかである。
 佐渡島に残る民俗芸能ハリゴマには男春駒と女春駒があるが、男春駒は馬頭の作り物を腹部につけ、女春駒は小型の馬頭を手に持つという違いがある。双方とも男性が面をつけてはでな衣装を着て太鼓打ちの歌によって踊り、踊り手、地方(じかた)、付添い(米など祝儀を集める)の3人1組で門付して回った。
 群馬県利根(とね)郡の一部では青年行事となって残るが、女春駒の型をとる。養蚕地帯で馬をもって蚕の守護神とした伝承によるという。岐阜県の白川郷も養蚕地帯で女春駒が七福神と連れ立って家々を巡る。山梨県甲州市一ノ瀬高橋では小(こ)正月の道祖神祭りにホニホロ式(馬のひながたを人の胴を囲むようにつけて、馬に乗ったような形になること)の春駒を出す。春駒は『門出新春駒』のように江戸歌舞伎(かぶき)の変化(へんげ)舞踊にも取り込まれたが、沖縄では昔の辻遊廓(つじゆうかく)の旧正月に女たちが「ジュリウマ」といって馬頭の切出しを腹部につけ集団で踊る。
 沖縄でも男芸の「チョンダラー」の「馬舞者(うまめえさあ)」が明治期に芝居に取り込まれ、民俗芸能として残っている。八重山(やえやま)では馬乗(うまぬしゃー)という。また、馬頭の作り物に棒をつけてまたがって遊ぶ玩具(がんぐ)も春駒といった。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説。[西角井正大]>

 <獅子舞と同様、予祝のために正月の門付け芸のひとつであった。正月に各戸を回り、馬の形をしたものを持ったり、また、これにまたがったりして歌い踊ることや、それによって金銭などを受け取る芸人を指した。…
 由来は、白い馬(駒)を見て邪鬼を祓う平安時代の宮中の正月行事「白馬節会(あおうまのせちえ)」(陰暦正月7日に左右の馬寮から白馬を紫宸殿※の庭に引き出し、展覧する宴)にちなんだものと言われる。…
胴に馬の頭や尾をつけて、三味線や太鼓で囃し祝い唄を唄い踊る。春駒踊りは民俗芸能として新潟県佐渡地方・山梨県甲州市塩山一之瀬高橋などに伝承されている。養蚕の神ともされる。…
 沖縄のじゅり馬:春の到来を寿祝(ことほ)ぐ予祝の芸能。(ウィキペディア「春駒 門付」から)>
注・※ししんでん。平安京内裏 (だいり) の正殿。 

 これらの解説はいずれも、由来は「宮中の正月祝賀」としている。春駒踊りは、全国の各地に伝承されていて、沖縄のチョンダラーの「馬舞者」や辻遊郭の「ジュリウマ」も春駒の一つであるとされる。

 YouTubeに佐渡島に残る民俗芸能ハリゴマの動画がアップされている。初めて見た。男春駒と女春駒があるが、女春駒は小型の馬頭を手に持っているが、男春駒は馬頭の作り物を腹部につけている。沖縄の馬舞者や辻のジュリウマとソックリである。

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 ジュリウマは、毎年旧暦一月二十日の行事「二十日正月」に行われている。数年前に見た時に、「これは大和由来の芸能だろう」と直感した。沖縄らしい民俗的な要素はまったく感じられないからだ。春駒と沖縄のチョンダラーの馬舞者、辻のジュリウマがいずれも同じ由来のものであることが明らかではないだろうか。


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京太郎の芸、馬舞者(んまめしゃ)、鳥刺し、その1  

  京太郎の芸、馬舞者(んまめしゃ)、鳥刺し

 琉球古典音楽のなかに「高平良万歳(たかでーらまんざい)」がある。琉球古典芸能の組踊「万歳敵討」(まんざいてちうち)の中から、抜粋舞踊を独立させた舞踊曲である。
 「万歳敵討」は、踊奉行・田里朝直(たさとちょうちょく)の作品で、1756年の尚穆王(しょうぼくおう)が中国皇帝から国王として認証を受ける冊封(さっぽう)の時に上演された組踊である。  高平良御鎖(たかでーらうざし)が、名馬を手に入れられなかったことを恨んで大謝名の比屋(おおじゃなのひや)を闇討ちにした。その息子、謝名の子(じゃなのし)が、弟の慶雲と2人で敵討ちのため、旅芸人の万歳(京太郎)に姿を変える。小湾浜(こわんはま)で浜遊びをしている高平良御鎖の前で芸能を披露しながら、隙を見て父の敵を討ち果たす物語である。

 「高平良万歳」は、「道行口説」(くどぅち)「万歳かふす節」「おほんしゃり節」「さいんする節」の4曲からなる。  「道行口説」は、棒と杖とに太刀を仕組んで、早く敵に巡り合わせて下さいと願う。「万歳かふす節」は、家々を巡りめでたい言葉を述べ門付けをしながら敵を探す様子を歌う。「おほんしゃり節」はとても滑稽な歌詞である。 「お隣の耳が切れ、鼻も切れ、目のただれた、首の廻りの毛の剥げた鼠に、不格好な太い頸筋を噛まれて、飛びあがって叫んでいたが、ぐうのねも出ないで、じっと捕り押さえられたとさ」。これは、面白い、可笑しい、ありえないことを言って、相手を油断させる。仇討物ならではの内容である。
 最後の「さいんする節」は、万歳(京太郎)姿となっている息子2人が、高平良御鎖の前で馬舞いや獅子舞を披露して盛り上げる。  これまで、「馬舞者」(んまめしゃ)のことがよくわからなかった。この曲を練習してから、京太郎の芸に馬舞者があることを知り、興味を持った。
         
チョンダラーの人形踊り
         
  チョンダラーの人形踊りを披露する高校生ら(「琉球新報」紙面から)
 この曲の歌詞を見ておきたい。
 「京の小太郎が作たんばい 尻ほげ破れ手籠尾すげて 板片目貫き乗り来る みいははとしいつゃうん つやうん つやうん やんざいかふすや馬舞者(んまめしゃ) がいじ舞うた 獅子舞うた かにある物御目掛けため をかしゃばかり  シタリガ ツヤウンツヤウン ヤーツヤウンツヤウン」
 歌意  「京の京太郎が作った、しりの抜け破れたザルに紐を付けて、板切れに穴を貫き通して、馬のように乗って来た。みははと、ちやうんちやうんと舌打ちして、行脚講者(小法師)は馬舞いをする奴だ。獅子舞しだ。こんなものをお目に掛けてしまった。ただただ可笑しさばかりである」(『由絃会教本の解説 うたの心』から)。
 ここで京太郎(チョンダラー)が出て来るので、チョンダラーについて少し説明する。 京太郎の人形芝居や芸能は、京都から渡来した人が教えた、もしくは京の小太郎という名前の人が創作したと伝えられる。大和由来であることは確かである。  首里の行脚(あんにゃ)村に住み、門付け芸人でもあり、祝福芸、人形芝居、念仏踊りなど芸能を携えて沖縄の各地を行脚していた人たちを京太郎と呼ばれた。葬式があると近隣の村々まで出かけたので、ニンプチャー(念仏者)とも呼ばれた。

 京太郎の芸は舞台芸能となり、沖縄市泡瀬や宜野座村に伝わり、現在も保存されている。
 <泡瀬の京太郎は、…胸前に縦に太鼓を付け、両手に撥を持った太鼓打ち一人、腰に馬の頭部の形をしたものを付け、その手綱を握った馬舞者【うまめーさー】と呼ばれる者二人、陣笠をかぶった舞い手が一〇人ほどと、三線を演奏しながら歌う歌三線で構成される。演目は「早口説【はやくどち】」「扇子の舞」「御知行【うちじょう】」「馬舞者」「鳥刺し舞」である。
 
 早口説は、舞い手たちが登場するときの演目である。歌三線にのせて、舞い手や馬舞者、太鼓打ちが、登場する。歌三線が歌詞の一節を歌うと、次に舞い手たちが同じ一節を歌う。これを、繰り返しながら行進してくる。歌詞に「京太郎姿に、うちやすり」とあり、自分たちは京太郎の演じ手になっていると歌っている。
 
 扇子の舞は、太鼓打ちが太鼓を打ちながら歌い、舞い手は右手に扇子を持ち、囃子詞を歌いながら踊る。歌詞に「お祝いの万歳」など祝福の意味の言葉が含まれている。御知行も、太鼓打ちが歌い、舞い手が右手に陣笠を持って踊る。歌詞に「御知行は一万石」など、知行地の収穫の豊かさを升で量って祝うという意味の言葉がある。
 馬舞者は、馬頭を付けた二人が、万歳【まんざい】のように、交互に抑揚をつけてせりふをやりとりするものである。鳥刺し舞は、竹棹の先に鳥もちを付けて、それを投げ上げて小鳥を捕獲した鳥刺しの様子を踊るものである。(文化庁「国指定文化財等データベース」)>  

         
        


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