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レキオ島唄アッチャー

エイサーと念仏歌の系譜、その10

 琉球弧に念仏歌を広げた存在
 念仏歌は、沖縄本島から八重山、奄美まで琉球弧に広がっている。それを広げたのは、どのような存在なのだろうか。八重山への伝来についての伝承は先に見たとおりである。ただ、八重山では、沖縄のような遊行タイプの念仏者はみられないとのこと。「集落内に定住し、良好な念仏田を支給され優遇されていた」(新城敏男論文引用、酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグ』から)という。
 一般の民謡の場合は、シマ(島)からシマ(島)へ伝わる際に自由に改変されている。念仏歌は、基本旋律は琉球弧の広い範囲でありながら、島々の差異が小さいという。なぜなのか。
 「伝播の仕方が人から人へ、という自然発生的な形ではなく、ある時期に特定集団が広範囲に持ち歩いたからではないか。また死者供養という特別な目的・機会が定められていたため、個人の好みで変えることを許さないような制約があったためではないか」(酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグ』)
 酒井氏は、特定集団が広めたと見ている。

 池宮正治氏は、代表的な念仏歌の「継母念仏」が琉球諸島の全域に広がっていることについて、沖縄本島からの影響と言われるが「そうとばかり言えるかどうか」として、次のような指摘をしている。
 <文献にはあらわれないが、弥陀の名号を唱えながら、芸能をたずさえて、南海の島々を渡り歩いた集団の波が、幾度も打ち寄せ、あるものはとどまり、あるものは消滅し、あるものは習合して生きのびたのではないかと思われる。そういう考え方があってもよいのではないだろうか。知られる歴史はごく一部で、庶民の中に潜入した念仏者の芸能など、歴史の表面にあらわれることこそ珍しかったのだ(池宮正治著「沖縄の人形芝居―チョンダラー芸能と念仏歌―」)。>

 薩摩一向宗禁制
 最後に、琉球・沖縄の宗教事情について簡略に触れておきたい。
琉球への仏教の伝来は13世紀半ば、英祖王の時代に禅鑑禅師が来琉し、浦添城の西に極楽寺が創建されたことに始まる。14世紀半ばには真言宗が伝えられ、第一尚氏の尚泰久王が寺を次々に建て、仏教の庇護者として知られた。第二尚氏の尚真王は首里城下に円覚寺を建て、仏教は隆盛する。尚寧王のもとで、袋中上人が寺院を建立し、浄土宗を布教したが、帰国した後は、浄土宗は衰退したという。
 1609年の薩摩の琉球侵攻も、仏教の隆盛が終焉する契機となった。
 「薩摩の侵略は、第一の古刹龍福寺をはじめとして、数ヶ寺が焼却の憂き目に遭うなど、仏教界にも大打撃を与えてしまった」(知名定寛著『琉球仏教史の研究』)
     010_20201017093155a0e.jpg    
              小禄にある袋中寺。1975年再建された
 摩藩は宗教に圧迫を加えた。薩摩では浄土真宗を禁圧していた。僧侶の修業と宗派を制限し「臨済宗と真言宗以外の布教をみとめなかった」(宮城栄昌著『沖縄の歴史』)。
 「沖縄の仏教においても1659年、一向宗禁制とされ、他の宗派においても様々な制限が加えられた。人を集めて説教をしてはいけない、俗家へ参ってはいけない、儒道を学ぶべきこと、などあった」(同書)。
 説教の禁止は、布教活動の禁止を意味した。勧進・托鉢も禁止された。「勧進活動や托鉢行為は僧侶にとっては修業そのもの…このような活動を禁止されるということは、僧侶としての存在を否定されるに等しい」((知名定寛著『琉球仏教史の研究』)
 京都への留学は制限され、寺院の建築や修理は自由にできず、僧侶の活動範囲は縮小され、「仏教は加速度的に衰退していった」(「沖縄の仏教・浄土真宗の歴史」、東本願寺沖縄別院HP)。
 
 1853年には、仲尾次政隆が遊郭の遊女たちに浄土真宗を広げたとして、八重山に流刑になったこともあった。
 琉球では「檀家制度が定着することはなく、琉球神道と呼ばれる独自の信仰文化が発展した。祭祀を担ったのはノロ(女性司祭者)やユタ(民間霊媒者)だった」(浄土宗総本山知恩院HPから)。
 そんな宗教事情のなかでも、念仏歌は琉球弧の人びとの中に受け入れられ、暮らしと民俗のなかに広く定着していった。
「袋中が本土に帰った後は、浄土宗の念仏の教えは盆などの民間信仰のなかに生き続けていると言われている」(武田道生著「沖縄における浄土宗寺院の展開と受容化」、『沖縄における死者慣行の変容と「本土化」』)
 
 今日でも、旧盆はとても盛大であり、先祖の供養を大切にするとともに産み育ててくれた親を大事に思う精神土壌が形づくられているのも、長い念仏歌の伝統と無関係ではない。沖縄のエイサーや八重山のアンガマなどが、これだけ旧盆には不可欠な行事として根付き、深く愛されている背景には、念仏歌謡をめぐるこんな歴史があったのだという思いを新たにした。

  終わり      2020年12月29日



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エイサーと念仏歌の系譜、その9

 万才系念仏系は対立?
チョンダラーは念仏僧だった」とのべる池宮正治氏は、一方では注目すべき見解をのべている。
 <チョンダラーは、万才をするが故にヤンジャヤーであり、念仏をするが故にニンブチャー、またはニンブーとよばれ、彼岸ごとに訪れるが故にフィンガナーともよばれ、日常乞食をもして歩いていたので、しばしばムヌクーヤーともよばれた。万才者とニンブチャー、フィンガナー、ムヌクーヤーとは対立しているのではないだろうか。>
 万才系念仏系は対立する関係にあることを指摘している。

 万才系の芸人は正月に祝言をのべて歩いたというが、「念仏者が正月に祝言をのべて歩くだろうか」と疑問をのべている。これは、かなれ本質的な疑問だと思う。
 <明治以後の我々が入手しうる資料では、彼らの職能―祝言と念仏―は混淆しているが、両者は発生の系を異にした芸能であって、かつて別々であったと考えた方が自然である。チョンダラーを祝言(万才)系、ニンブチャー念仏系と考えて大過ない。チョンダラーがさきにのべた万才の服装であったとすれば、ニンブチャーは僧形であったらしい。
(『日本庶民文化史料集成第十一巻』「沖縄の人形芝居」解説・池宮正治」)>
         国場念仏エイサー1 
                      国場念仏エイサー(第48回青年ふるさとエイサー祭から)
 万才系念仏系は「発生の系をことにした芸能」であり、もともとは「別々であった」という指摘は注目される。
 <チョンダラーニンブチャーだったという証拠は徴(注・ちょう、証明)しにくいし、ニンブチャーが遊行した形跡もない。逆にチョンダラーが人形を舞わし、万才をし、巡遊したことは間違いない。とすれば一八世紀初頭の首里の古地図にいう「行脚村」の住人は主にチョンダラーだったのだろう。八重山の盆アンガマや沖縄本島のエイサーの歌へ、この念仏歌謡が圧倒的に影響していることを考えると、チョンダラー(万才)が念仏歌謡を取込んだとも考えられる。しかしながら、葬列の鉢叩きや、墓の落成の時に念仏をあげる、あわれなニンブチャーがいたこともたしかで、早くに社会の底辺に組み込まれてムヌクーヤ(乞食)にまで沈淪していたチョンダラーと、首里郊外の(略)安仁屋村(行脚村)に同居し、ついに合一したことも考えてよいだろう。 

 またチョンダラー詞章にも、明らかに二つの傾向がみてとれる。万才系念仏系である。(『日本庶民文化史料集成第十一巻』「沖縄の人形芝居」解説・池宮正治」)>
 ニンブチャーは遊行した形跡がない、チョンダラーは巡遊したとその違いを明確にしている。そして、チョンダラーは念仏歌謡を取り込み、ついには同居し合一したと考えている。とても納得のいう解説である。
島尻勝太郎氏も次のように指摘している。
〈京太郎と念仏者はその起源を異にするが、いつの頃かアンニャ村に合流して一つのものと考えられるようになったと指摘している(島尻勝太郎、1980)、久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』から>
 やはり、起源を異にする京太郎と念仏者は合流して一つになったとし、池宮氏と同様の見解を示している。

 宮良當壮氏が、万歳系の歌謡、人形芝居念仏系の歌謡をひとくくりにしてチョンダラーの伝承歌謡・芸能として紹介したことについて、文学・古典芸能研究者の比嘉盛章氏は、次のように批判した。
 「京太郎は其の始め万歳講者であつて人形芝居は後代の添加である。浄土宗の念仏の如きは更に一層後代の合体に過ぎないと思う(『宮良當壮全集 月報』7、1981)」。この指摘を著書で引用した久万田晋氏も「念仏系詞曲は、はじめからチョンダラーの伝統芸としてあったものではなく、比較的後の段階にチョンダラー達に受容導入されたものである可能性があるというのである」とのべている(『沖縄の民俗芸能論』>
 

 万才系と念仏系は別のものだった
 <ところで、チョンダラー詞章には、念仏系詞章の他に、大半は「御知行の歌」「念願の文句」「京の下り」「馬舞者」「鳥刺し舞」のように、いわば万才系の祝言を述べるものである。万才系詞章と念仏系詞章とは本来別々の系にあるものであって、それが沖縄ではチョンダラー芸能に共有されている。当初から二者携行して伝来したのか、それとも二者が沖縄社会で疎外されるようになり、肩をよせあって郊外(略)に居住して合一するようになったのか、考察を深めていく必要がある。
 念仏者も門付の祝言を述べる万才講者も、もともとは賎民あつかいされた長い歴史を負っている。都市の封建化(精神的に)が進むにつれて、故郷をすてて乞食流浪する者を底辺に組み込み、首里久場川の行脚村に集められ、ますます特殊な部落を形成し、民衆に多くの偏見を与えることになった(池宮正治著『沖縄の遊行芸』)>。
 
 池宮氏は、以前は別の系統だった万歳系と念仏系が、同居し合一したという見解だったが、この見解を変更して次のようにのべている。
 「沖縄に16世紀までに上陸した時、チョンダラー系芸能とニンブチャー系芸能とが、両者わかちがたく混在していたのだと思われる」(同書)と推測している。
<本来別々にあった二つの芸が、肩を寄せ合うように共存習合した結果だとのべた(「沖縄の人形芝居―チョンダラー芸能と念仏歌―」)ことがある。どうやらそうではなく、彼らは当初から下層民だったし、二つの大きな要素はすでに共存していたのである。これら唱導・雑芸の徒と、1603年から6年にかけて約3年滞在し、王や臣下に浄土念仏を教導した袋中の流れとは、全く別のものであった(同書)>」
 以前の万歳系と念仏系の二つの芸が本来別々にあったという見解から、両方の要素は混在していたという立場に転換している。

 琉球でアンニャ村に住み活動した当時、チョンダラーが、万才系も念仏系も併せ持つ芸能者だったからといって、最初からそうだったとは限らない。チョンダラーの由来伝承、『琉球国由来記』をみても、人形遣いが念仏者であったことは確認できない。長い歴史のなかで、念仏歌を取り入れその活動の幅を広げていったと見る方が自然である。
 ニンブチャーが唱える念仏について、島尻勝太郎氏は、袋中上人によって伝えられた浄土宗系統と首里のアンニャ村に住居するチョンダラー系統の二種があり、「芸能集団として来島した京太郎が、後に17世紀以後袋中上人の教えをうけて、念仏をあわせ学んだか、又は念仏集団と同部落に住居させられて両者を兼ねるようになったかいずれかであろう」(『近世沖縄の社会と宗教』、知名定寛著『琉球仏教史の研究』から)
 島尻氏は、来琉した京太郎が、袋中の教える念仏を学んだ可能性を指摘している。


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エイサーと念仏歌の系譜、その8

 念仏歌には二つの系統があった
 これまで見たように、念仏歌謡は琉球弧の島々に広がっている。念仏の中心は沖縄の那覇・首里周辺だとされる。もともとの系統は二つの流れがあるという。
 一つは、すでに見た袋中上人で、那覇の桂林寺に3年間滞在し、布教した。「仏教文句を俗に和らげて、初めて那覇の人民に教え、日夜これを詠んだのが念仏の始まりである」(『球陽』、酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグ』から)と記され、一説には148種の念仏歌を作ったという。
 しかし袋中の帰国後は衰退し、信奉者儀間真常の後裔が垣花で、受け継いできたという。 「製糖法を伝えた儀間真常がやはり袋中の念仏宗に帰依したと言われ、近年まで子孫の又吉家で信仰されていた」(池宮正治著『沖縄の游行芸―チョンダラーとニンブチャー』)
 儀間真常はサツマイモやサトウキビの栽培を普及させ、木綿栽培と織物の普及をはかり、琉球の産業の偉人をされている。
 袋中上人が伝えた念仏歌は、なぜ那覇が中心なのか。琉球王府があり、士族が住む首里には多くの寺があるが、ほとんどは臨済宗である。一般民衆のなかに念仏の教えを説くうえで那覇が中心になったのではないか。
 袋中が来琉する前に、浄土宗と念仏歌謡が沖縄に、なかでも首里に広がっていたとはとても思えない。それは、『琉球国由来記』の記述でも、袋中が「仏経文句を俗にやわらげて、初て那覇の人民に伝ふ。是念仏の始也」と記しているからである。『由来記』が、後年の作であるにしても、「念仏の始」と明記していることは、琉球の浄土宗と念仏が他のルートでは入ったものではなかったことを示している。
      袋中上人の碑全体 
                袋中上人の碑(那覇市松山公園)

 ニンブチャーと呼ばれたチョンダラー
念仏歌のもう一つの系統は、大和から渡来したとされる「チョンダラー(京太郎)」があげられる。
「チョンダラーとは、人形遣いや万歳、葬式での念仏歌などをなりわいとして沖縄中を渡り歩いていた流浪芸能集団のことである。念仏を唱えて歩くからニンブチャー、千秋万歳を言祝ぐ詞章を歌うからヤンザヤー(万歳者)とも呼ばれた」(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論―神祭り、臼太鼓からエイサーまで』)。
 京太郎は、「沖縄では仏舞わし、あるいは万歳などとも呼ばれている。仏つまり人形をつかう傀儡師で、春ごとに門に立って寿詞を述べては巡回を続ける門付の芸人たちであった」(矢野輝雄著『沖縄芸能史話』)。
 弟子が太鼓をたたき、師匠が歌を口唱しながら舞う「御知行」(うちじょう)、馬の木像を下腹に結びつけ競馬の有り様を演ずる「馬舞者」(うまめーさー)、太鼓の音に合わせて扇で鳥をさす真似をして舞う「鳥さし舞」(とぅいさしめー)、扇子を持って舞う「扇子舞」(おーじぬめー)などの芸能を演じた。

 チョンダラーは、袋中とは別に首里のアンニャ村に住み沖縄中を渡り歩いたという。
チョンダラーの「唱導・雑芸の徒と…浄土念仏を教導した袋中の流れとは、全く別のものであった」(池宮正治著『沖縄の游行芸』)
 では、念仏歌は当初から那覇と首里に別々に伝わったものだろうか。
 山内盛彬氏は、首里念仏は垣花念仏の支流と指摘している。
「首里の東郊に行脚村という念仏部落があり、多分垣花念仏の支流であろう。垣花念仏は行脚はしなかったが、首里念仏は地方を行脚して門付渡世をしたので、この称があろう。彼等の本職は、民間の葬式に列することである」
「行脚村の由来や垣花念仏との関係は、あまり世に知られていないが、与儀美登さんがその伝説を語ってくれた。昔クンチ(注・ハンセン病)御主という主上がいて、居を王城から首里東郊に移された。ところが世話人になり手がなかたので、垣花念仏の支所をここに建て、その念仏者達に京太郎の大道芸の行脚をさせて布施を集め、あがりだかの半分をクンチ御主の療養費として貢いだ。すると念仏者も堂々たる免許で乞食ができ、しかも免税になったので、安心して働けた」(「琉球王朝古謡秘曲の研究」の「琉球念仏」、『山内盛彬著作集第2巻』)」。

 山内氏は、垣花念仏は行脚をしない、首里東郊でその支所がつくられ、念仏者たちに京太郎の大道芸の行脚をさせたという。そして、首里念仏の俗名を念仏者(ニンブチャー)京太郎(チョンダラー)万才者(ヤンヂャヤー口語)乞食(ムヌクーヤー)などの名前がついたと山内氏は察している。
これは重要な指摘である。垣花念仏は行脚をしないのは、本来、念仏を信奉するから行脚をするとは限らない。だが、首里アンニャ村の京太郎は、人形芝居や万歳系芸能をもって行脚をすることを生業としていた。それが、念仏を取り入れることによって、「首里念仏は地方を行脚する」ことになったのではないか。これは、京太郎が後から念仏を取り入れた証左であると私は考える。

 酒井正子氏は、「垣花念仏」と「首里念仏」の2系統は「早い時期に混然として…念仏歌も現在みる形に収れんしたのであろう」(酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグ』)とのべている。
 
 ここからは、私の個人的な感想である。
 袋中上人は、浄土宗の布教を目的に琉球に来て、ときの尚寧王の庇護のもとに活動した。経文を分かりやすく伝える念仏歌は、住民を浄土念仏に教導する重要な手段であった。
一方、チョンダラーは、浄土宗の布教のために来琉した僧侶ではないと考えられる。もし、そうであるなら、史書になんらかの記述があるはずだが、『琉球国由来記』には念仏者として袋中しか記されていない。また仮に「念仏聖」だとしても、零落した芸能者とみられる。
 チョンダラーは、渡来した当初、人形遣いや万歳系の芸能をなりわいとしていたが、後から念仏歌による供養を行なうようになり、ニンブチャーと呼ばれるようになったのではないだろうか。
 『琉球国由来記』では、「京太郎」の項で「当国京太郎、准傀儡者歟、昔日京都の人渡来、教之乎。又京太郎と云者、其業を作りたるや、不可考也」と記している。
 「当国(琉球)の京太郎とは、傀儡(人形回し)のことであり、むかし京都の人が琉球に渡来しこれを教えたとされていた。あるいは『京の小太郎』と言う人がこの芸能を作ったともいうが、どちらの説が正しいのかよくわからない」(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』)。
 これを見れば、渡来した京太郎は「傀儡者」、人形遣いであったことは確かである。これは、先に見たようにチョンダラーの勢頭(親分)が語る由来伝承とも合致している。念仏系の要素はまったく見当たらない。
 これを見ても、京太郎が念仏者を兼ねるようになったのは、後代のことだと思わざるを得ない。

 宇野小四郎氏は『沖縄の人形芝居<京太郎(チョンダラー)>の研究』で、チョンダラーが「首里王府の庇護を受け行脚屋敷に居を構えていた」こと。「統率者(勢頭)に率いられた彼等の集団は、社会の変化に伴い、非差別的な念仏者、乞食等の差配もおこなうようになった」(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』から)と指摘している。
 <チョンダラーの伝承する念仏系歌謡に関しては、「沖縄各地に分布している念仏系の歌謡について、これらをすべてチョンダラーの関与があると考えることは適当でない」とする。さらに袋中上人が琉球に伝えたという説を採って、「京太郎が持ち込んだという考えは一応ご破算にしてよいと思う」としている(久万田著)>
 宇野氏は、念仏歌はチョンダラーが持ち込んだという説を否定している。社会の変化に伴い念仏者の差配をしたということは、来琉した当初から念仏歌による供養を生業としていたのではなく、後から行うようになったということになる。



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エイサーと念仏歌の系譜、その7

 京太郎の来琉伝承
 チョンダラーは、いつ、どこから琉球に渡来したのだろうか。
 1609年、薩摩の琉球侵入の際に、薩摩軍の道案内をしたとして「チョンダラーは薩摩のスパイ」という説がある(山内盛彬氏)。この説が妥当ではないと思うが、薩摩が来る前にすでに渡来していたことが伺える。
 宮良當壮氏は、「沖縄のチョンダラーの伝承は、紛うことなく、大和下りの芸能であることがわかる」「沖縄に京太郎が渡った年代は、凡そ16世紀以前12世紀以後だと推定することが出来よう」(「沖縄の人形芝居のことから」、『宮良當壮全集12』)とのべている。根拠は示していない。
 念仏の教えを広めた浄土宗は、法然を開祖とする鎌倉仏教の一つであり、12世紀に始まった。宮良氏は、念仏系を含めてチョンダラーの伝承歌謡・芸能としていることから、京太郎の渡来を12世紀以後と推定しているのかもしれない。しかし、琉球への仏教の伝来は、禅鑑禅師が来琉したのが13世紀半ば、英祖王の時代。真言宗が伝えられたのが14世紀半ば第一尚氏の尚泰久王の時代である。なにより、史書『琉球国由来記』では念仏は1603年、袋中上人が来琉して始めたと記しており、これはいささか早すぎるのではないだろうか。
       
 チョンダラーは、先祖代々語り継がれてきた自らの系譜伝承が存在した。宮良當壮氏が「チョンダラーの翁の口から直接聞いた」とする伝承を記録している。
 京都の近くの岩屋に親子3人住む。夫は美しい妻の側を離れがたいので丹精をこめて妻の絵姿をかき、それを目の前に掲げて野良仕事をやっていた。すると或る日突風が吹いて来てその絵像をまきあげて京のお城に落した。役人が拾ってお上へ差出す。命により捜査。ついに岩屋で探しあててお上の側女にした。夫は落胆したが人形芝居と万歳を案出して元日に息子と共にお城に行って演じ、賞讃を浴びた。妻は夫に気がつき「角袋」(注・ちぬぶくる)を作って米の中に小判を隠して与えた。度重なるうちに発覚して父子は島流しにあった。そこが沖縄島で、島人は彼等をチョートゥタラー(京都太郎)と呼び、彼等は人形芝居や万歳をやり、念仏を唱え、鉦叩きなどをして各地を漂白したのであった。(「沖縄の人形劇『京太郎』の思い出」『宮良當壮全集12』)
 
 宮良氏と同じく、チョンダラーの勢頭(親方)から直接聞いた山内盛彬氏は、宮良氏と同じ内容であるが、島流しになるにあたって次のような由来を記している。
 <「…それが(親子であることが)発覚して夫子は罰されるようになった。しかし死一等を減じて、夫子を同志30人と共に琉球に流刑するようになった。去る時に当って『知行をやりたいが、村知行がよいか、国知行がよいか』との下問があった。つまり一村からの扶持で生活するか、又は全国を行脚して全国から扶持を受けるかとの問いに対し、僅かな村知行より国知行がよいとお答えした。そこでナンジャクダミという免状札を貰って、その途についた。そして渡来後はその免許を持ち、妻女に貰った人形を舞わしながら各地を行脚し。演技した」と話した(山内盛彬著「沖縄の人形芝居―仏まわしと万才を含む京太郎」、『山内盛彬著作集第3巻』)>
 
 山内氏は別に「京太郎という名称は、慶長役直前『仏まわし』30名が沖縄に渡来したことに始まるという」(同書)とも記している。
 この由来話から見えてくることは、伝承の絵姿の部分は、日本各地にある「絵姿女房」とよく似ているという。だから、そのまま史実とはいえないこと。
 でも、島流し以降の部分は、琉球に渡来して人形を舞わして行脚した人たちがいたのは事実である。この島流しされたという父は、念仏僧ではなく、人形遣いとして各地を行脚したことがわかる。
     チョンダラーの人形踊り 
            読谷の高校生による人形踊り(「琉球新報」から)
 ここで、チョンダラーの伝統芸である人形芝居について少し触れておきたい。
 彼らは、人形のことをフトゥーキーと称した。ホトケ(仏)の意味である。そして人形芝居をフトゥーキ・アーシー(仏舞わし)という。人形のことを糸で操るのではなく、手で操った。頸にかけて持ち運べる舞台小屋をティラ(寺)と呼んだという(宮良氏)。
 人形芝居は見たことがなくて、あまりイメージがわかなかった。でも、先日、読谷村の高校生が十五夜の集いでチョンダラーの人形踊りを披露したことが報道された(「琉球新報2020年10月4日付」)。記事と写真でその模様を見て、「これが人形芝居なのか」と納得がいった。昔の通りであるかどうかはわからないが、舞台は、鳥居が描かれていて、なるほど小さなお寺のような形である。
 人形芝居になんらかの仏教的な関わりがあったかもしれない。だが、沖縄に来琉した人形遣いは、あくまで遊行芸としてであり、念仏僧として布教活動をしたわけではない。

 由来譚で父子だけではなく集団で来琉したとされることについても、確かに父子二人だけで見も知らぬ異郷の地に来たとは考えにくい。その後のチョンダラーの琉球での定着を見ても、30人はともかく、集団で来琉したと考える方が合理的であろう。
 宮良氏は、チョンダラーの翁の語る由来話しのなかで、島流しは事実ではないとして、次のような伝承を記している。
「由来話に沖縄島に流されたとあるが、彼等の話に拠ると、島流しに処せられたというのは事実ではなくして、実際は1万石から5万石までに扶持米や田地金銀宝物などを遣るから沖縄へ行けといつて遣られたのであるという。所が愈々沖縄へ下つて見ると、今に下る下る(実際は記号)と噂だけは非常に高かったが、結局何者をも手に入れなかつたといふ。」(「沖縄の人形芝居」『宮良當壮全集12』)
 チョンダラーの出し物のうち「ウチジョー・ヌ・ウタ(御知行の歌)」の内容を見ると、扶持米や宝物は空約束であったことを歌っている。「ヤマブシ(山伏)」は、大和に生まれ沖縄に渡って来たが、絶えず衣食にさへ窮し、野路に踏み迷い、宿も食も断られ、門外に去り雨露に濡れ、恵みを求めて歩いた。こんな痛ましい体験が歌われている。
 こうした由来話と歌には、沖縄に渡来したチョンダラーの苦難の現実が多少なりとも反映されているのではないだろうか。
 
 沖縄への渡来については、池宮正治氏は、次のような見解をのべている。
 <薩摩の琉球入り以前「念仏聖」のような遊行者が、海を渡ってこの沖縄にやってきたものであろう。万才系の詞章とコスチューム、念仏系詞章が、いずれも本土系のものである…彼らは、教団から離れて、ほとんど乞食に近い境涯にあった。沖縄に入ってきたのは、もともとこうした零落した芸能者たちだったと思われる。>
 <沖縄のニンブチャーたちも、和讃(琉讃)唱導の芸を軸にして、万才系、傀儡系の芸を引き寄せたのだと考えるべきかどうか、決定はなかなかむづかしい。とにかく沖縄に16世紀までに上陸した時、チョンダラー系芸能とニンブチャー系芸能とが、両者わかちがたく混在していたのだと思われる(『沖縄の遊行芸―チョンダラーとニンブチャー』)>
 注・念仏聖とは、中世民衆の間に念仏の功徳を説き、浄土信仰を広めていった一群の遊行者の総称(「ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説」)。

 和讃とは、仏・菩提、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一つ(ウィキペディア)。
 念仏系と万才系、傀儡系は渡来した当初は別々の芸であり、沖縄に来て他の芸を取り入れたのか、それとも当初から混在していたのか、断定を避けている。池宮氏はかつて、本来は別々にあった二つの芸が「共存習合した結果」と述べたことがあった。その後、この説を変更している。


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エイサーと念仏歌の系譜、その6

 琉球弧に広がる念仏歌
 念仏歌は、沖縄本島と八重山諸島だけでなく、宮古島や奄美諸島にも広がっている。
 宮古島には、「えみじゅが実」という念仏歌があり、伊良部島には「孝行ねんぶつ」がある。典型的な念仏歌は「孝行ねんぶつ」である。やはり、親の御恩を山の高さ、海の深さにたとえ、夜寝るとき母の懐の中、濡れる方には母親が寝る、昼は父の足の上と恩の尊さを歌う。これほど親に思われても、親を拝もうと島々巡っても似ている者はいない、父、母を呼べども声するのは山彦だけ、「親の御恩はまだ知らん」と歌う。「継母念仏」と同系の歌である。
    
 奄美の念仏歌
 奄美諸島では、「念仏歌が伝承されるのは沖永良部島のみである」(酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグーあそび・ウワサ・死』)。
 徳之島には「継母(まんま)念仏」がある。酒井氏は「徳之島には関連事象が多くみられる」が、「死者儀礼には関係せず、芸能として『聞かせる』歌になっている」(同書)という。とても長いのであらすじだけ見ておく。
 3つの頃母を亡くし、5つの頃母を思い、7つになって母を探して歩いたが、母を見た人は一人もいない、継母が据えてくれる膳は割れ膳、食器は欠け、箸は焼き切れた箸。泣く泣く海に下り、白髪の老人に話すと、お前の母がいるところは、石門、金門(墓の入口)にいるだろう、細い管の穴から声を交わし水を飲ませ、牛を借りるから家にお供しましょうというが、お供はできない石になり、土になった、あの世は恐ろしいよ、朝と宵に茶を供えておくれ、お前が作っている作物を守ってあげよう(『南島歌謡大成 Ⅴ奄美編』)。
 「島内各地に知られ、人気ある口説の一つである。文句は、沖縄のキョーラダにある『マンマ念仏』と同系統のもので、おそらくそれが奄美へも入ったものである」(同書)
 この歌詞には、親を探すだけではなく、継母に冷たくされ、親のいるところを教えてもらい、あの世にいるから朝晩お茶を供えて供養してくれというところまで、話が完結している。論理的な展開がきちんとしている。
 ほかの念仏歌では、南風原町喜屋武の「継母念仏」は、継母は登場するが親を探し回っても見つけられない。同系列の八重山の「無蔵念仏節」は、「継母」は登場しないし、父も母も探してもいないままで終わる。徳之島の「継母念仏」に比べると途中で切れた感がある。
    IMG_7246_202010170945451fd.jpg 
          沖永良部島

 沖永良部島には、33回忌送りの「ミンブチ(念仏)」という歌がある。
 「33回忌は、《念仏》を歌いカネ・太鼓で囃しながら、にぎやかに墓まで死者の霊を送ってゆくことで知られる」(酒井正子著『奄美歌掛けのディアローグーあそび・ウワサ・死』)。
 知名町瀬利覚(せりかく)の念仏歌は、「みんぶち『桜ぬだんじ』」という。
 南阿弥陀仏で始まり、桜の男児は母に捨てられ(死なれて)、布葺き館(墓)に送られて、御肉は野原の土となり、御骨は岩屋の石となる、と歌う(あらすじ)。
 
 「みんぶち(道行の唄)『五つ頃』」は、次のような歌詞である(あらすじ)。
 やはり南阿弥陀仏で始まる。五つ頃、親に捨てられ、七つ頃親を思い出し、里々探したけれど親に似た人はいない、浜に下りて母さんと叫んだけれど千鳥の鳴き声ばかり、昔御主の前(むかしうしゅぬめー、大翁)に逢って親のことを語った、竹管を切りつめて右の袖に隠し、一目拝んで、どうしたの母さん、家に戻ろう、父さんは継母を娶ったのでつきあいできない、お前一人寿命を長くしておくから、蝶が来たら母と受けとって、夏の雨、冬の雪霜は愛しい母さんの涙と思って、7月の盆踊りを祭ってくれ、後生の御門は石の門、閻魔王の門は金門、開けてみれば、わが親は見えるだろうか。
 念仏説教の一種で、「沖永良部島の各集落で伝承されて、歌詞は各々異なる」という。
 沖永良部島では、念仏は「特別の歌」という観念がある。「普段歌う歌ではない」「歌うとへんな気持ちになる」「一旦歌い出したら止まってはいけない「間違うと歌った人に返ってくる」などと言われているそうだ(酒井正子著)」。
八重山でも、念仏歌はお盆の時以外は歌ってはいけないといわれていることと重なるところがある。単なる芸能として歌三線を楽しむ曲ではない念仏歌の由来があるからだろう。


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エイサーと念仏歌の系譜、その5

 なぜ親を探すのか
 少し留意を要するのは、念仏歌は親の恩と共に、親がいまはいなくて、子どもが母を探すという話になっていることである。
 「継親念仏」では「国中を巡っても 私の母に似た人は一人も出逢えず 長者の大主よ 母に逢わせてくれ」(具志頭村安里のエイサー歌)と歌う。八重山でも「国(村)の浦々を探しても 我が親に似た人は見られない」(「無蔵念仏節」)と歌う。あとから見るが、奄美諸島の徳之島にも「継母口説」があり、やはり「7つになった頃 母を探して しま(部落)のしまじまを 母を探して歩いたが 私の母を見た人は一人もいないよ」と歌う。
 父母への恩徳だけでなく、なぜ子どもが亡き親を探すのか。
 
 個人的な感想だが、子どもを大切に育ててくれた親への恩は、父母が生きている時は当たり前のように思ってあまり感謝することがない。亡くなってから親の有難味がよくわかる。しかし、恩返しをしたくても、もう親はいない。そんな後悔の念を持つことが多いだろう。いなくなった親、亡き親を探すという話を通して、親の尊さや恩徳への感謝の気持ちを持つことの大切さ、亡くなった親への供養の大事さを伝えるものではないだろうか。
 池宮正治氏は、次のように指摘している。
 「親が子をいつくしむ心はたとえようもなく深いこと、その親の愛(恩)も親が死なないと悟らないことなどを言って、親への孝養を説いたように理解されている」(「沖縄の人形芝居」)。
 「継親念仏」の物語の展開が、最後の母への供養の大切さに収れんされる構成となっている。

 アンガマで歌われる念仏歌
 八重山諸島の各島には念仏系歌謡が伝承され、念仏歌が死者の霊を慰める力をもっていると信じられ、一応のまとまった詞形を今なお残している。『南島歌謡大成 Ⅳ八重山編』の「念仏歌謡」の項には、24曲収集されている。「7月念仏」は石垣島大浜村(旧)、鳩間島、小浜島、竹富島、黒島にある。「無蔵念仏」も、小浜島、竹富島にある。他にも「孝行念仏」(竹富)、「親の御恩(波照間島)」「親の御恩念仏」(与那国島)などいかにも念仏歌らしい題名である。
 念仏歌が歌われるのは旧盆である。八重山の旧盆といえば、エイサーではなく、アンガマで知られる。
八重山のアンガマといっても、離島や農村の「平民集落」で行われるものと石垣四箇の「士族地域」でおこなわれるものに分けられる。前者が古い形である。
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           石垣島のアンガマ
  <石垣四箇のアンガマでは、一団が太鼓と三味線に合わせてムラ内の各家に赴き、一同が着席すると座開きとして「無蔵念仏」を歌い、踊り手も手拍子で合わせる。アンガマの中では面を付けたウシュマイ(爺)とンミ(婆)が見守る観客と裏声を使って問答を行なう(久万田晋著『沖縄の民俗芸能論』)>
 八重山の離島でも、念仏の歌と踊りが盛んなのは小浜島の念仏歌だという。
 小浜島の旧盆では、先祖供養として念仏経文や念踊りが演じられる。念仏系の曲目として「七月念仏」「無蔵念仏」「ちゅんじゅんながり」「みんまん念仏」「平良とどろき」「大和ぬやまさじ」「いらんぞーさ」「うむいぬやーむとぅ」「んまなます」「まかしょ」「やらまーる」があり、「ひとつの島にこれほどの念仏系歌謡が伝承されていることは琉球弧の島々の中でも特異なことである」(同書)


 八重山に念仏歌を伝えた人物
 念仏歌が八重山にどのようにして伝わったのか。そこには二つの伝承がある。
 「王府の八重山支配の中で、首里の文化を八重山に伝えたのは主に公務で八重山と首里を往復した士族たちだった。彼らは八重山各地に役人として赴任したので、さまざまな首里の文化を八重山各地に伝えた(古谷野洋子著『八重山の念仏者、その受容と葬送の変容』)」
 一人は、宮良親雲上長重。1647年に八重山最高位の役職である「頭職Jを拝命した人物である。「順治14年(1657) に公用で沖縄島に赴いた宮良長重が念仏を稽古して伝えたという」(「山陽姓家譜」)「宮良長重によって招来された念仏は、浄土系念仏と考えられ、伝来の初期には講による布教がなされ、政策的配慮をも加味しながら各離島にまで広がり、念仏者は公的なものとして部落に存在することとなり、葬式に参加したという」。(新城敏男論文引用、古谷野洋子著から)
 宮良長重の伝えたのは、首里のチョンダラー系統のものではなく、袋中上人の系統を引く浄土宗念仏であったことがわかる。
 
 もう一つは、宮良善勝によるものである。
 「登野城村の宮良善勝が公用で首里王府に出仕した際、首里郊外のアンニャ村にいってチョンダラーから盆行事に歌う浄土宗の教えの道を説いた念仏を稽古して、これを少々改良改曲してつたえたのが八重山の無蔵念仏であるという」(喜舎場永珣論文引用、古谷野洋子著から)。
 首里で念仏を習ったのが、アンニャ村のチョンダラーだと述べていることについて、少し補足する。
浄土宗の袋中上人が渡来して、仏経文句を俗にやわらげて那覇の人民に伝えたことが念仏のはじめであるとされているが、「実際に庶民に念仏を広めたのは、ニンブ一、ニンブツァ、ニンプチャー(念仏者)、チョンダラーと呼ばれた人々であった」という。
彼らは首里の行脚(あんにゃ)村に住み、門付け芸人でもあり人形芝居とともに「万歳系のチョンダラー芸能を携えて行脚していた…普段はムヌクーヤー(物乞者)であった。ところがひとたび葬式があると、那覇・首里は言うに及ばず、近隣の村々まで出かけて行った」(池宮正治著『沖縄の遊行芸』)。
 
 宮良長重宮良善勝は年代的にどちらが古いのかわからない。袋中上人が滞在し浄土宗を伝えたのは、1603年から3年間である。宮良長重が沖縄に来たのはその50年ほど後であるから、念仏は広まっていたことになる。
 ただし、宮良善勝の話はとても具体的で、リアリティーがある。「アンニャ村にいってチョンダラーから盆行事に歌う浄土宗の教えの道を説いた念仏を稽古」して編曲したのが「無蔵念仏」というからである。
 袋中上人の系統を引く念仏歌とチョンダラーから学んだ念仏歌という少し違いはあったかもしれないが、その後歌い継がれ、各離島、地域に広がる中で、念仏歌として区別なく伝承されていったのだろう。
 現在は、エイサーの代表的な曲となっている「仲順流れ節」と八重山の「無蔵念仏節」が似ているのは、結局、念仏歌という共通の土台があることが伺える。
 八重山、沖縄、沖永良部島の念仏歌の旋律の比較分析を行った酒井正子氏は、念仏歌の旋律は、一つの定型があるという。
 <琉球弧の念仏歌の資料を見ると、確かに旋律の定型性は著しい。「民謡大観」八重山・沖縄・奄美各篇に楽譜が示されている12曲(エイサー歌の念仏歌3曲を含む)のうち、小浜島の《みんまま念仏》を除けば他はすべて同系旋律で、ヴァリアンテは粟国島の《7月念仏》1曲のみである。ただし、沖縄地域と八重山地域では楽曲の構成が基本的に異なる(『奄美歌掛けのディアローグ』)>と指摘している。



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エイサーと念仏歌の系譜、その4

 山より高く、海より深い親の恩
 現在、エイサーで歌われる「仲順流れ」には、仲順大主の逸話だけでなく、親の恩徳を強調する歌詞がある。これは、もともと念仏歌の「親の御恩」で歌われた内容である。
 旧具志頭村(現八重瀬町)安里のエイサー歌「親ぬぐうん」(親ぬ御恩)を訳文で紹介する。
 親の御恩は深いもの 父御の御恩は山より高い 母御の御恩は海より深い 山の高さが測られようか 海の深さが分かろうか 昼は父上のももの上に 羽織の端であおがれて 夜は母上の懐に抱かれ 七重八重の衣裳の中に 汚いものを母が片付け 食べさせたり抱き上げたりも母親が 片腰が濡れたら腰の真上に 腰が濡れたら胸に抱かれて これほど親に愛されて 今では縁も切れてしまい 陽が上れば門に出て待ち 陽が下がれば庭に待ち これほど待っても待ちきれず あしじが白浜を通り過ぎて けわしい山を分けて行き 今こそ父御のはかじとる(不詳) あかぶち(不詳)仮屋に宿を借りて 夜中に一目だけ見て 父御よ母御よ叫んで 目をさまして探ると空の席 再び精霊に迷わされ これから戻って家に着き 父の遺品を拡げ 母御の遺品を投げ出して これを見て涙を止められようか 見る人聞く人微笑を浮かべ 行く人来る人涙を流して これを見て涙をおしぬぐって
(『南島歌謡大成沖縄篇Ⅰ(下)』)。 
  国場念仏エイサー1 
    国場念仏エイサー(第47回青年ふるさとエイサー祭り)
 父母にとても大事にされ育てられながら、いまはその親の姿はない、待っても現れない、険しい山を分け入り探してもいない、形見の遺品を並べて涙を流す。これは、他の地域の「親ぬ御恩」と共通する歌詞である。
これとそっくりなのが八重山の「無蔵念仏節」である。曲の旋律は「仲順流れ」と似ているが、歌詞はまったく異なる。大浜安伴編著『八重山古典民謡工工四』から紹介する。
1、親(うや)ぬヤゥ 御恩(うぐぬ)は深きむぬ 父御(ちちぐ)ぬ 御恩は山高さ 
  母御(ふぁふぁぐ)ぬ 御恩は海深さ
 (親の恩は深きもの、父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深いものである〕
2、山ぬヤゥ 高さやさわかりん 海ぬヤゥ 深さんさわかりる 昼やヤゥ 
  父御ぬ足が上(うい)
 (山の高さは、測ることができる、海の深さも測ることができる 昼は父上の脚の上に)
3、扇子(おーじ)ぬヤゥ 風(かじ)にヤゥあおがりてぃ 夜(ゆる)やヤゥ 
 母御ぬ懐(ふとぅくる)に 十重(とぅやい)む二十重(はたい)む 衣装が内(ウチ)
 (扇の風であおいでもらい、夜は母上の懐に、十重、二十重の着物にくるまれて)
4、ぬりるヤゥ 方(かた)には母ゆくてぃ 乾くヤゥ 方には子(クワ)寝(二)してぃ
 諸共(むるとぅむ)ぬりりば 胸(むに)が上
 (濡れた所に母上が寝て、乾いた所に子供は寝かせ、ともに濡れると母の胸の上に)
5、くり程(ふどぅ)親にヤゥ 思(うむ)わりてぃ 年やヤゥ 十二十歳(とぅーはたち) 
 なゆりどぅむ 親ぬヤゥ 御恩は未(マ)だ知らん
 (これほど親に大切に思われ、年は二十歳になるが、親の恩はまだ知らない)
 
 このあとまだ、次のような歌詞が続く。訳文で書く(『南島歌謡大成Ⅳ八重山編』、竹富島)。
太陽がのぼったら門に立ち 太陽が沈んだら辻に立ち 我が親を待っても待ちかねて 島の様々を巡っても 国(村)の浦々を探しても 我が親に似た人は見られない さるかき山を踏み分けて あさぎの浜まで参っても 青苔の生えた山剣 青苔の見える墓印 その夜は野原の墓地に泊まり 夜中の夢の夢様に 二人の親の夢を見て 飛び起きて探ると父はなし 寝覚めに探ると母はなし 父を呼び母を呼び声を出すと 声のあるのは山の響き あんな響きに賺(すか)されて それから同じ道を戻って行き これから我が宿に帰って行き 父御の形見を取って開き 母御の形見を取って並べ これを見て涙は止まらない (涙は)両袖を濡らし腕に流れ 見る人聞く人哀れであるよ 南無阿弥陀仏
 
 無蔵とは女性のことをさすが、ここではとくに母親を意味しているのではないか。
 大切に育ててくれた両親への深い感謝の気持ちが歌われている。これほど大切にされながら、まだ両親への恩返しはできないままであることへの自戒の念が込められている。両親への感謝の歌であり、教訓歌の面もある。
 「親の御恩」は、「かならずしも仏教だけでなく、儒教的な孝養の思想をも含み持っている…民間の人たちを教化するために、俗耳に入りやすいように、こうした和讃(あるいは琉讃)の形をとったものと思われる」(池宮正治著『沖縄の游行芸』)
注・和讃とは、日本語の仏教讃歌の一つ。仏の功徳や仏法をたたえ、祖師・高僧の行跡を述べた叙事歌謡である(ブリタニカ国際大百科事典から)
 歌詞の中でも、注目したのは、乾いたところに子を寝かせ、濡れたところに母が寝るというところだ。八重山民謡でこれ見た時、なぜ寝床が濡れるのだろうかと思った。実はこれも、そのもとは中国の経典にある。
 父母への恩に報いることを説いた「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」である。「父母の恩が重く尊いことは、天が終わりがないように広大である」と説く。そして、父母に10種の恩徳があるとする。その中の5に「廻乾就湿(かいかんじつしつ)の恩」がある(意訳)。
 「水のようにつめたい霜降る夜も、氷のように寒い雪の朝も、乾いた所に子を寝かせ、おねしょで湿った所に自ら寝る」。
 6には「洗濯不浄(せんかんふじょう)」がある(意訳)。
 「子がふところや衣服に尿するも、自ら手にて洗いすすぎ、穢れをいとわない」。
 これを読むと「おねしょで湿る」ということらしい。それなら分かる気がする。
 
 「父母恩重経」は「偽経」だとされる。「偽経」とは、インドなどの原典を漢訳したものではなく、中国でつくられた経典である。だから儒教など中国思想が持ち込まれているという。お盆の由来である盂蘭盆会経もその一つである。やはりインドに原典は存在しないとされる。
 そういえば、「長者の流れ」に取り入れられた『二十四孝』も、親への孝行が優れた人物を集めたものであり、そこには儒教の考えを反映している。


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エイサーと念仏歌の系譜、その3

 なぜお盆に親の恩を歌うのか
 ここで、お盆にはなぜ親の恩を歌うのかについて触れておきたい。お盆の由来をみておく必要がある。以前に、ブログで書いたことがあるのでそこから紹介する。
 お盆(盂蘭盆=うらぼん)の由来は、中国で作られた盂蘭盆経(うらぼんきょう)にある。これは、釈迦の十大弟子の一人、目連尊者と亡き母親との物語である。目連は父母の恩に報いようと思うが、亡き母は飢餓に苦しむ餓鬼道(がきどう)に堕ちている。ご飯を供養してもすぐ火炎となり食べられない。釈迦に救いを求めると、釈迦は、犯した罪の根が深いので、多くの僧の修行の最終日の7月15日にご馳走をお供えすれば救われると話された。そして母は餓鬼道から逃れたという。
 釈迦はまた、孝心の誠を尽くし、7月15日に盂蘭盆の供養をささげれば、いま健在の父母の寿命は100年伸び、7世の父母も餓鬼道から救われる、毎年盂蘭盆会を営むことをすすめた。
 このように、お盆は現在ある父母、亡くなった先祖・7世の父母にその恩徳を感謝する日というのが、そもそもの由来となった。
 盂蘭盆経の教えは中国に広がり、7世紀には日本でも盂蘭盆会が営まれた記録がある。琉球ではいつから営まれるようになったのかはまだよくわからない。
 17世紀に琉球に来た浄土宗の袋中上人は、布教をするさい、お盆の由来である「盂蘭盆経」の教えを分かりやすくして念仏歌をつくったと考えられている。それが「継母念仏(ままうやにんぶち)」だという。「仲順流れ」などエイサー曲の原型がここにありそうだ。
     国場念仏エイサー 
           那覇市国場の念仏エイサー(第47回青年ふるさとエイサー祭り)

 親への感謝説く「継母念仏
 次に親への恩を歌う「継母念仏」(ままうやにんぶち)を見てみたい。「継親念仏」(ままうやにんぶち)とも言うところもある。
継母念仏」は、母親と先祖への感謝を分かりやすく説くため作られた念仏歌である。
 南風原(はえばる)町喜屋武(きゃん)のエイサー歌には「継母念仏」が残っている。長いので、原文ではなく、口語訳で紹介する。
 昔は、旧盆には6つの念仏歌が歌われていたそうだ。「継母念仏」「親ぬ遺言」「天地の世界」「大和の山伏」「仲順流れ」「親の御菩薩」だが、いまでは「継母念仏」しか残っていないという。
①3歳の頃には親を失って、5歳になったので親を思い出して、
 7歳になったので、親を探しに
②国中いたるところをめぐっても、わが親の姿はおがまれない、昔の長者に会ったので
③大主様、大主様、ちょっと待って下さい 
 子どもよ、なんで私を呼び止めるのか 子どもが呼び止めるとはただ事ではない
④お前のお母様はそう簡単には会えないよ、
 7月の七夕と中の10日には、あの世の七門が開くので
⑤阿弥陀七門が開くから、竹の管を沢山準備して、右の袖で顔を押し隠して
⑥左の袖で顔を押しはろうて、この竹穴から一目拝んだら、
 なんで母親上はこんなところにおられるのか
⑦わが子よ、なんでここに来たのだ、最近は親が妻をめとって
 継母にうつつして、我が身は苦しい
⑧我が身の命がもちません、私も母上と一緒になりたい、
 どうして愛しい子よそういうのか
⑨お前だけを跡継ぎにと産んであるのに、そういって授けてある、
 折り目折り目に湯水も供えてくれ
⑩正月には水のお初、7月にはお茶のお初、甘藷、なすびは飾り物
⑪茗荷(ミョウガ)やそんがん、飾り物、あの世の宝はみんぬくだよ、
 この後何をするかと思えば
⑫後生の剣の山を登るとき、これを撒いて渡るのだ、冬の霜立ちをただの雨と思うな
⑬愛おしい母上と涙と思え、蜻蛉(アケズ)が飛び回ったら母上と思え、
 蝶(ハベル)が飛び回ったら受け取れよ、
 南無阿弥陀仏は、弥陀仏 四八流れの念仏は、親の供養となる
(「南部広域市町村圏事務組合HP」から。少し手直しした。)
 
 母親を幼くして亡くして、父が後妻をめとり、後妻にうつつを抜かして子どもは冷たくされ、「我が身の命が持たない」という。母親を探しに行く。そして、最後には父母の恩への感謝と念仏による供養が歌われている。
「後生」は死後の世、来世を意味する。7月15日に盂蘭盆の供養をささげれば餓鬼道(がきどう)に堕ちている亡き母が救われるという。お盆の由来である盂蘭盆経(うらぼんきょう)の教えにつながっている。

 首里アンニャ(行脚)村に住んでいたというチョンダラー(京太郎)の伝承する念仏歌「継親念仏」を訳文で紹介する。喜屋武エイサー歌の「継母念仏」と大筋では同じである。
 3つの頃には親を(あの世に)戻して 5つの年には親思て 7つの年には親を探し求めて 国々様々廻れども 我が親に似る人拝まれぬ それから戻って元に着く 昔の大主前(爺さん)に行き会いて まず待って下されよ爺さんよ イャヨメの(不明)幼子が我を止める 我れがよしなにすることなれば 国々様々巡っても 我が親に似る人拝見できない どうか爺さんよ見せ給え 幼し童に頼まれて 汝が親常(まど)には拝まれぬ 7月7夕の中の10日 後生世の七紋(注・あの世とこの世の門)の開く時 管串沢山に切りためて 右の御袖にも押し籠めて 左の御袖にも押し隠して(注・糸を巻く管グシを左右の袖にたくさん貯めて) 管串の目(孔)から一目拝見し 面影心に溜め拝んで どうして母さんはそこに居られるのか どうして愛し子はここに来ているのか 最近父御が継母を婚めて 継母の母さんと交際が出来ない 内にし暗がりにしていなさる 悪欲段々(さまざま)に謀んでいなさる 我れも母さんと一道(一緒に)なろう どうして愛し子はそう言ってくれるのか お前一人(だけでも)この世界に立ててきた 元の屋形に押し戻って 茶湯湯の初々も祭ってくれ 物の初々も供えてくれ 蜻蛉(かげろう)になって来て受け取るよ 蝶になって来れば親と思え 夏の夏雨も(ただの)雨とと思うな 冬の霜掛けも(ただの)霜と思うな 朝夕母さんが涙と思え 親の意見事(教訓)はこれ程ぞ これ聞き識れ初の子よ ンー南無阿弥陀仏や阿弥仏 常に何事も物は親の為にぞなる
 (久万田晋著『沖縄の民俗芸能論―神祭り、臼太鼓からエイサーまで』から)
 
 前半では、母を探し求めて諸国を巡り、「亡母に会う特別の方法を教えてくれる大主前(老爺)の存在も重要である。この世とあの世(後生)を繋ぐ存在であり、後述する八重山のアンガマにおけるウシュメーとも存在のイメージが重なると思われる」(同書)
 「チョンダラーの伝える『継親念仏』は、沖縄において祖先供養・儀礼の始まりを説く起源説話としての性格に留まらず、日本中世の説話や物語と共通の性格を有する物語歌謡であると位置づけることができよう」(同書)
 久万田氏は、やはり沖縄だけでなく「日本中世の説話や物語と共通の性格を有する物語歌謡」と指摘している。
 



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エイサーと念仏歌の系譜、その2

  「長者の流れ」が変化したのか
 「仲順流れ」はもともと「長者の流れ」だった。それが変化したものではないかと言われる。
 伊礼信二郎氏が、明治28(1895)年発行した『念仏集』には、念仏歌謡13編が収められている。それは「山伏の流」「親の御恩」「継親念仏」「天神世界」「梅のだんぎ」「あの経」「春咲花」「ちやうしやの流」「歌念仏」「親の御菩提」「親念仏」「十時念仏」「拾三仏」である。
 これで「ちやうしやの流」は、「ちやうしや」とは「長者」のこと。歌い始めは「ちやうしやの流の七なかり おひてのちやうしやのいと草や 金のはやしの七はやし 銀のおもての七表…」とある。これは「仲順流れや七流れ 黄金のはやしや七はやし」という「仲順流れ」の歌い出しと似ている。それに、貧者の子どもが鍬を持ち野原を掘ると玉の金箱を掘り出す、箱を明ければ万貫の黄金が出て来るという話が展開する。これは、仲順大主の逸話とは少し異なるが、黄金を掘り出すという点では共通性がある。
「仲順流れ」は、この念仏歌が変化したものではないだろうか。
 具志頭村(現八重瀬町)安里のエイサー歌には、袋中上人が伝えた念仏エイサーが残っているという。
 念仏歌を初めて琉球に伝えたのは、中国へ渡ろうとして1603年、来琉した袋中上人であるとされる。
 『琉球国由来記』には「本国念仏者、万歴年間、尚寧王世代、袋中上人ト云ウ伝僧渡来シテ、仏経文句ヲ俗ニヤワラゲテ、初メテ那覇ノ人民ニ伝フ、是念仏ノ始也」とある。
 浄土宗の教えを分かりやすくして那覇の人民に伝えたという。
 
 民俗芸能研究者の宜保栄治郎さんはつぎのように指摘している。
 <長年、袋中上人が伝えた念仏エイサーがどこかに残っていないかと探し回った結果、八重瀬町安里に伝わっていることを突き止めました。 安里にはエイサー歌の「継親念仏」「親のご菩提」「親のご恩」「仲順流れ」「庭念仏」など、数十行からなる念仏歌が残っています。この歌と踊り方こそ袋中上人が「念仏を和らげて、人民に教えた」とする証拠です。(「週刊レキオ」「島ネタCHOSA班」2016年08月11日)>
 
 安里には「長者流れ」(ちょんぢょんながれ)がある。ここでは、仲順大主という名前はまったく登場しないで、この仲順大主にあたるところはすべて「長者」「長者大主」となっている。訳文で簡略に紹介する。
長者の流れは七流れ 黄金の流れの七流れ 年取ってしまった長者の計りごと 息子3人産んだけど 息子の本心を調べてみよう 長男息子よ 長者は老齢でどうしようもない 子はすてて私に乳を飲ませてくれ わが子は花のように咲きでる身だ 捨てるわけにはいかない 次男は長者よ死なば死ね 3男は親は二度とは拝めない わが子はすてて乳をあげよう 3本小松の下に掘って葬っておけ 3鍬振り下せば黄金の手箱が 銀の小判が拝見されて 長男、次男息子よ この様を見ろ 十代百代まで語り継がれるだろう 南無阿弥陀仏(『南島歌謡大成沖縄篇Ⅰ(下)』)
 これは、すべて仲順大主の逸話と同じである。それならもともとこの孝行逸話は、仲順大主固有のものではなく、長者の逸話だったのだろう。
      
 八重山にも念仏歌「ちゅんじゅんながり」がある。小浜島の歌詞は「すんざーぬながりぬ 七ながり」と始まり、31番まである。歌詞である長者の逸話は、ほとんど同一である。黄金を見つける場所が、池を掘り、底を浚い、池の底を見ると「白銀(なんじゃ)の宝が拝まれる 黄金(こがね)の箱が拝まれる」となっているのが異なるだけだ。 
 <八重山の『念仏歌』には「ちやうじやの流」とあり、「チョンジョンナガリー」ではない。「長者の流れ」だったのではないかと思う。宮良氏(宮良当壮)もそのように見ている。それが「仲順流れ」になったについては、それなりに理由があろう。音の似かよりにひかれて、この高名の仲順大主を長者とみなすようになったのだろうか(池宮正治著『沖縄の人形芝居』)。>
<この「仲順流れ」は、そのもとは「長者の流れ」(カッコ内は省略)であって、これが本来の呼称である。長者とは、長寿に恵まれた者にも、大金持ちにも言うもので、「長者の流れ」の長者はその二つを兼ねている。長者が、音の近よりもあって、「仲順」伝説と習合し、「子供の肝」タイプの説話をも取り込んだのである(池宮正治著『沖縄の游行芸』)>

 ルーツは中国の孝行譚
 「長者の流れ」が本来の呼称であると断定している。「長者の流れ」は、もともと沖縄の伝承があるのではなく、そのもとになる孝行譚がある。中国の「二十四孝」の「郭巨」の物語に由来すると池宮正治氏は指摘する。
 儒教の考えを重んじる中国で、孝行が優れた人物として24人を取り上げたのが『二十四孝』である。
 そのうち、郭巨(かくきょ)は、貧しさのため母が食を減らすのを見かね、一子を埋めようと地を掘ったところ、「天、孝子郭巨に賜う」と書いた黄金の釜を発見したという。(デジタル大辞典の解説)
 また、唐夫人(とうふじん)が、夫の母、姑に歯がないので乳を与えて孝行したという孝行譚がある。
 「子供の肝」は、父親が3人の子ども夫婦の孝心を試すため、孫の生肝を食べさせよという。2人の兄夫婦は断るが3男夫婦が承知し、子を殺す前に穴を掘ると金塊が出たという話である。これも仲順大主の逸話とそっくりである。
 池宮氏は、この「二十四孝(郭巨)」に「子供の肝」「二十四孝(唐夫人)」が合わさり「長者の流れ(尊者の流れ)」となり、それに「仲順大主伝説」が加わり「仲順流れ」となったと見ている。
 仲順大主が長者と呼ばれていたのだろうか。それに、長者と仲順は音読みが似ているので、長者という一般的な呼び名から仲順大主名に作り替えられたのだろうか。

 留意すべきは、古い念仏歌とみられる「長者の流れ」の中には、通常のエイサー曲「仲順流れ」にある「親の御恩」の要素がまったくないことである。これは、もともと「長者の流れ」には、なかった要素があとから付け加えられてものと見られる。 
 もう一つ、「仲順流れ」は「継母念仏」と同じ歌とされていたり、簡略化されたものという見方があることだ。でも、「仲順流れ」や「長者の流れ」と「継母念仏」は、もともと別の念仏歌である。親の御恩や孝行がテーマであるとしても、その内容はまったく異なるので、異名同曲と見ることはできない。簡略化されたものともいえない。


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