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レキオ島唄アッチャー

エイサーと念仏歌の系譜、その1

 今年は、コロナ禍のもとで、沖縄の伝統ある綱引きやハーレーなどの行事、さまざまな祭りが中止や延期を余儀なくされた。その一つが、旧盆の際の地域青年会によるエイサーの道ジュネーも中止になったことだ。
 旧盆の間、先祖供養の意味を込めて「仲順流れ」(「仲順流り」が正確かもしれないが便宜上、この曲名に統一した)、「久高マンジュー主」などエイサーの曲を演奏した。併せて、日頃ほとんど縁のない八重山民謡の「無蔵念仏節」(んぞうねんぶつぃぶし)「念仏口説」(ねんぶつくどぅち)も練習してみた。八重山のこの曲は、旧盆の時以外は演奏してはいけないという。練習もダメらしいが、旧盆中だからわが先祖への供養を兼ねて練習してみた。
 演奏してみると、「無蔵念仏節」は、沖縄本島の「仲順流れ」に旋律が似ている。歌詞も少し似たところがある。これは、明らかに本島から八重山に伝わったと思われる。念仏歌は85調で歌うのが通常だという。
 聞くところによると、念仏歌は沖縄本島だけではなく、琉球弧に広がっている。この際、エイサーで歌われる曲と念仏歌謡について、学んでおきたい。

 エイサーで歌われる「仲順流れ」
 はじめに沖縄エイサーの代表的な曲「仲順流れ」を見てみたい。手元にある工工四(楽譜)では、次のような歌詞である。やはり85調である。
 仲順流れや七流れ 黄金のはやしや七はやし
 (仲順の川の流れは七流れ 黄金の林や七林)。
 仲順大主(ちゅんじゅんうふしゅ)や 果報な者 産し子(なしぐゎ)や三人
 産し出ぢゃち
 (仲順大主は幸せ者だ 可愛い子どもを3人産み育てた)。
 アケズ(蜻蛉)の飛ばば 親と思り ハベル(蝶)の飛ばば 母と思り
 (トンボが飛べば親と思いなさい 蝶々が飛べば母を思いなさい)
 父御(グ)の御恩や 山高し 母御の御恩や 海深し
 (父上のご恩は山のように高い 母上のご恩は海のように深い) 
 他にも次のような歌詞もある。
 生まれてぃ五歳(いちち)にゃ 母戻もどち 七歳(ななち)ぬ年にゃ 覚び出んじゃち
 (生うまれて 五歳で母を失ない 七歳で母を思い出し)
 国々様々 巡たんてん 我親に似る人 一人ん居らん
 (国々方々を巡っても わが母に似る人は 一人もいない)

 この歌詞以外に手元にないが、実際はもっと長いのかもしれない。
この歌詞は、二つの要素が入っている。一つは、仲順大主の伝承にかかわる内容である。もう一つは、個別の伝承とは関係のない親の恩への感謝である。
 北中城村仲順には「仲順大主」(ちゅんじゅんうふしゅ)の伝説があり、墓と歌碑がある。
    仲順大主墓 
           仲順大主の墓
 「琉球の最初の王は、源為朝の子と言われる舜天王と言われる。舜天王の孫に当たる義本王の代に、日照りと長雨が続いたために、徳がないとして王位を追われる。仲順大主は、その義本王の子孫と言われ、沖縄本島中頭郡中城の仲順に住んだと伝えられる長者。仲順大主を祀る御嶽が仲順にあり、位牌は仲順の安里家に祀られている」(遠藤庄治著「沖縄の口承文学における伝説の位置」)。
 伝承によれば、仲順大主は、とても徳の高い長者とされる。
大主とは、地域を支配者である按司(あじ)の家来の中の頭職のことをいう。仲順大主をめぐって次のような逸話が伝えられている。

 学者だった仲順大主は、妻を早く亡くした。3人の子どもがいた。財産を一番親思いの息子に譲りたいと思い、3人の息子を呼んだ。「私は年老いて物が食べられない。お前の嫁の乳を飲ませてくれ、子は捨ててくれ」と言った。長男も次男も「頭がおかしくなったのか、子は宝ではないか。それはできない」と断り出ていった。
 三男は「子どもはまた産めばよいが、親は一人しかいない。子を捨てて乳をあげましょう」と同意した。大主は「息子よ、子を捨てるなら東の森の三本松の下に三尺穴を掘って埋めよ」と言った。
 三男が、涙を流しながら穴を掘っていると、鍬の先に堅いものが当たった。小さなカメが出てきた。中には金が詰まっていた。大主が埋めたカメだ。大主は「ひどいことを言ってすまなかった。黄金はお前にやる」と言った。その後、仲良く暮らしたというお話である。 

 親への孝行の大切さ諭した内容である。親への孝養の徳を説くのが趣旨であるとしても、子を捨てよと息子に迫るのはちょっと残酷すぎる。沖縄では、子どもは宝であるというのは、現在でも共通認識である。沖縄に限らないかもしれないが。だから、この逸話について、次のような意見がある。
 <それが肉親としての普遍的な愛情によらず、上からの過酷な要求が下を犠牲にする形で展開されたために、きわめて人間的な反応をした嫁が退けられ、非人間的な盲従タイプの嫁が選ばれることになる。孝養の徳目だけが前面に打ち出され、子は金にも玉にもかえがたいという親の愛情が、長者にも嫁にも希薄になっている。極端に強調された孝養観ではあろうが、封建制下のいびつな人間性を見る思いである。(池宮正治著「沖縄の人形芝居」)>
 


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「隋唐演義」が面白い、その4

 「隋書」に登場する琉求
 「隋書」と言えば、琉球にとってはとても深い関わりがある。それは、同書のなかで隋の軍兵が琉球に侵攻したことと、当時の琉球の事情、民俗など記されているからである。琉球が中国との正式な交流を持つのは、14世紀、明の時代からである。「隋書」の記述が正しければ、明よりはるか600年以上前に来ていたことになるので、7世紀ころの琉球の姿がわかることになる。
 だが、「隋書」には「琉求」と記載されており、研究者の間ではそれが現在の沖縄であるのか、台湾であるのかで見解が分かれている。あくまで中国では、昔は台湾のことを琉求と呼んでおり、「隋書」の記述が台湾なのか沖縄なのかははっきりとしない。
 
 「隋唐演義」のことを書いてきたので、せっかくだから「隋書」の「琉求」について紹介しておきたい。
 「隋書」の「煬帝(上)」の項には、次の記述がある。
<6年2月乙巳、虎賁郎将の陳稜(ちんりょう)と朝請大夫の張鎮周が琉求を攻撃してこれを破り、捕虜1万7千人を献上したので、百官に分け与えた。>
 
 大業6年と言えば、西暦610年である。より詳しい記述は、「流求国伝」に記述されているが、残念ながら現在読んでいる『隋書 現代語訳』は皇帝の「帝紀」「人臣の列伝」の抄訳であり、日本関係の「倭国」や「流求国伝」は収録されていない。
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     「隋唐演義」の一場面(BS11HPから)
 「隋書」にみる「琉求国」の風俗(新城俊昭著『琉球・沖縄史』) 
◇琉球国は海島の中にあって、福州の東にある。水行5日で到着する。土地は山洞が多い。
◇ガジュマルの木が多く、橘に似て葉が密でヒゲのような茎が垂れ下がっている。
◇国に4~5人の帥(将軍)がいて、各地域を治めている。村には鳥了帥(村長)がいる。
◇男も女も白麻の縄で髪をたばね、頭のうしろから巻きつけて額にもってくる。
◇刀・鉾・弓矢などがある。その国には鉄が少なく、刃はみなうすくて小さい。多くは動物の骨や角でこれを補助している。
 鎧・兜はない。
◇賦役の制度がなく、ことある毎に一様に税をとりたてる。
◇その国に文字はなく、月の満ち欠けを見て季節を記し、草木の成長によって歳月をはかる。
◇婦人は子供を産むと子衣(えな)を食べる。産後は火をたいて自らをあぶり、汗をだし、5日で平服する。
◇木槽中に海水をさらして塩をつくり、木汁で酢をつくり、米麹を醸して酒をつくる。その味は、はなはだうすい。
◇歌は足拍子をとって歌い、一人が音頭をとって皆がこれにあわせて歌う。その旋律はすこぶる哀愁にみちている。
◇人が死ぬとその屍を浴し、布でこれをぬぐい、わらにつつんで土の上に置く。その上に土をかぶせて盛ることはしない。子どもは親のため数カ月のあいだ肉を食べない。南の方の島では少し風俗が異なり、人が死ぬと村の者がこれを食べる。
◇その国の田はよく肥えている。まず火をもって焼き、それから水をひいてこれにそそぐ。石で刃をつくった鋤でたがやす。
 土は、稲・粟・麻・豆などによい。
◇人々は山海の神につかえ、祭には酒肴を供える。戦って人を殺すと殺された者をその所に祭る。
 (中山盛茂編『琉球史辞典』から抜粋してまとめたという)
 
 琉求の所在地は、福建省から「水行5日」というと、割合近いので、台湾のことではないかという気がする。台湾はもっと近いという見解もある。
 島の人は「深い目と長い鼻」をしているというのは、沖縄にも当てはまる。すでに「王」や将軍と見られる「帥」がいたというのは、沖縄の古代史から見ると、ちょっと早すぎる気がする。7世紀と言えば、琉球はまだ貝塚時代であり、按司(あじ)と呼ばれる豪族が生まれ、グスクを築く「グスク時代」が始まるのは11世紀ころである。
 少ないけれども鉄器が伝わり、剣があるというのは、沖縄への鉄の伝来は、11世紀や12、3世紀とされるので、7世紀では常識的には早すぎる。
 稲作があったとの記述があるが、まだ7世紀には「琉球には弥生時代の特徴である稲作農耕は伝わらなかった」とされる。 
 
 死んだ人の肉を食べるというのは、沖縄ではないと思っていた。でも伊波普猷氏によると、そうでもないらしい。
 <戦死者の肉を共に集つて食ふことや、南方では風俗が少々異つて、死人があると、村人が皆で喰べるといふあたりは(この抄訳にはない)、誰が見ても台湾の採風記としか見えないが、人肉を食つたということが、沖縄の民間伝承中にあるのは、注意すべきとことである。昔沖縄では死人があると、親類縁者が集つて、之を食つた。後世になつて、この風習を改めて、その代りに豚肉を食ふ様になつたが、近い親類のことを真肉(マツシシ)ウェーカ(ロースを喰べる親類)といひ、遠い親類のことをブトゥ(繰り返し記号だが出ない)ウェーカ(脂肪のついた肉を喰べる親類)といつてゐるのは、かういふところから来たのだといつてゐる。(伊波普猷著「『隋書』に現れたる琉球」)>
 伊波氏の見解には、東恩納寛惇氏は否定している。


 琉求から連れ帰った捕虜は、「煬帝」の項では「1万7千人を献上」とあり、「琉求国伝」では「数千人を捕虜として連行」と食い違っている。もっとも、当時の船で1万人を越える捕虜を連れ帰ることができるのか、疑問である。
 このように、『隋書』の記述を見ると、沖縄に当てはまるカ所と当てはまらないカ所と両方があり、断定できない。台湾か沖縄かではなく、当時の中国では、台湾と沖縄を一つに見て「琉求」と呼んでいたという見解もある。
 もし、「隋書」の「琉求」が現在の沖縄であれば、稲作や鉄の伝来など、沖縄の古代史も書き換えなければならないことになるだろう。

 私の個人的な見解では、台湾はともかく、沖縄は中国からは相当に離れた海洋の小国であり、隋がわざわざ危険をおかして渡海して侵攻しても、隋にとって得るものはない。その後も、中国から沖縄に侵攻してきた事例はなく、隋が沖縄に侵攻したとはどうしても思えない。台湾は中国本土からも近いし、島としても沖縄の16倍ほど、九州と同じくらいの大きさがある。侵攻したのは台湾と思えて仕方ない。

 以上はテレビドラマ「隋唐演義」で、興味を持ったことの一部である。もちろん、武器を使った戦闘シーンは、CGを使った派手なアクションシーンが売り物で、まるでリアリティはない。でも、暴虐な煬帝とその支配に不満を持った様々な勢力が隋王朝を倒すという物語は見どころがいろいろあり、飽きさせない。
 中国の歴史ドラマと言えば、NHKBSドラマで「コウラン伝 始皇帝の母」も放送中である。こちらもなかなか面白く、楽しみに見ている。
 終わり


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「隋唐演義」が面白い、その3

 ドラマに登場する英雄
 テレビ放送のドラマ「隋唐演義 集いし46人の英雄と滅びゆく帝国」には、反隋のため決起する英雄たちが登場する。
 ドラマは、以下のようなあらすじである。
 <北斉の武将・秦彝は周の楊林の攻撃によって戦死し、その子・秦瓊(しんけい)は母に連れられて難を逃れた。やがて楊林の甥・楊堅は簒奪によって皇帝となり、隋を打ち立てた。
成長した秦瓊は武術を頼りに官府の下級役人を務めていた。ある日、秦瓊は臨潼山で隋の唐国公であった李淵が皇太子の楊広に殺されそうな場面に偶然遭遇してしまい、単騎で李淵の家族を救い出す。その後、潞州まで来た時に生活に困りはて秦瓊は馬を売らなければならず、幸いにも店の女将が大義を重んじ陰で援助をしてくれた。
 
  秦瓊と幼馴染の程咬金は長葉林で楊林(楊堅の叔父)の16万両の貢ぎ物を強奪するが、秦瓊の母の誕生日の日に捕縛されてしまう。程咬金を助ける為に好漢たちは賈柳店に集い、策を練り牢獄を襲撃して反乱を起こした。豪傑たちは瓦崗塞を本拠地にしたところで、程咬金は瓦崗寨の王・混世魔王と名乗ることになる。煬帝となった楊広は即位後は外征・土木工事を繰り返し、更に十六院夫人と総称される美女達との陥落に耽って民衆の恨みを買っていた。煬帝が楊州にケイカ(瓊花)を見に行こうとしていることを知った瓦崗寨は、他の反乱軍を集め必ずや通るであろう四明山にて煬帝を殺し隋朝を倒そうとしていた。
 一方、李世民はこの機会に太原に戻り、長安を占拠する。野心あふれる群雄の李密は瓦崗寨に逃げ込み、程咬金から王の座を譲られる。 李世民は夜に瓦崗寨を探したが、程咬金に捕獲されてしまった。李密は李世民を殺そうとするが、秦瓊は止めに入り隙を見て李世民を逃した。秦瓊の助けのもと、李世民は玄武門の変で異分子を一掃し、唐の二代皇帝大宗となり貞観の治を切り開いたのだった。(「BS11」HPから)>

 ドラマの英雄たちの中から魅力的な何人かを紹介する(写真はBS11から)。
 主役の英雄、秦瓊(しんけい)
 <秦瓊(しんけい)。字は叔宝。北斉の名将・秦葬の子で、幼いころに父が戦死。長じて隋の役人となる。羅成の従兄弟で、程咬金とは幼馴染。親孝行で仁義にあつく、誠実な人柄により江湖の好漢からも尊敬を集めている。文武両道で、特に武術は左右対の金鋼の達人。靠山王・楊林に見込まれ娘の玉児をめとるが 、楊林が父の仇だったと知り衝撃を受ける。楊林と決別後は反朝廷に転じ、単雄信、羅成ら志を同じくする英雄好漢たちと瓦岡栗(がこうさい)に集結し、元帥をつとめる(「BS11」)>。
賊に襲われている唐国公の李淵を助け、最後には唐に帰順する。
            zuitouengi_cast01,しんけい 

 秦叔宝の親友、単雄信。
 <単雄信(ぜんゆうしん)は、二賢荘の主人で、十三省の緑林を統べる元締め。旧知の仲だった秦瓊が病に倒れ困窮したときはその危機を救った。妹・単盈盈の奔放な気性に手を焼きながらも可愛がっている。羅成とは当初対立するが、後に和解、瓦崗寨の同志として共に戦った。李密を見限って瓦崗寨を離れた後、王世充の娘と結婚。秦瓊らに唐への帰順を勧められるも、かつて李世民の父・李淵の軍に一族を殺された恨みから拒絶する。(「世界の歴史まっぷ」)>
       単雄信    

 盗賊だった程咬金
 <程咬金(ていこうきん)は秦瓊の幼馴染。塩の密売で投獄されたのを恩赦により釈放され尤俊達に誘われて今度は盗賊の仲間入り。靠山王(こうさんおう)・楊林から朝廷への貢物を強奪し、当時役人だった秦壇がそれをかばって処刑されかかるという騒動に発展する。やりたいことをやり、言いたいことを言い、他人に迷惑をかけること数知れず。しかしその都度なぜか災いが福に転じていく天才的な強運の持ち主。瓦岡栗では同志 46 人の首領にまつりあげられ”混世魔王”と称す(「BS11」)。>
       程咬金

 北平王の息子、羅成
 <羅成(らせい)は、北平王・羅芸の子で、槍術にすぐれ才気煥発な美青年。冤罪で逮捕された秦瓊を救うために智恵をしぼり、その後二人は従兄弟同士だった ことが判明、絆をいっそう深めた。秦壇に着いて瓦岡栗に入り、朝廷側の父とは対立する立場に。(「世界の歴史まっぷ」)>。小説上の架空の人物。
           zuitouengi_cast03、チャン・ハン

 知謀家、徐茂公
 <徐茂公(じょもこう)は、単雄信を介して秦瓊と親しくなる。智謀家で、瓦崗寨では軍師として采配をふるった。李密を見限って李世民の配下になり、秦瓊や程咬金、羅成も李世民のもとへ呼ぶ。しかし単雄信からは説得をはねつけられ、苦悩する(「世界の歴史まっぷ」)。>

 初めてみる多様な武器
 ドラマで驚くことの一つに、これまで見たことのない多様な武器が登場することだ。日本の戦国時代のドラマでも見たことがない。よくこんな武器が威力を発揮するものだ、よく使いこなせるな、と思うことがしばしばある。
 おりしも篠田耕一著『武器と武具 中国編』を読むと、ドラマにも登場する武器が掲載されていた。そのなかからいくつか紹介する。

 鞭(べん)・かん(「金間」、これが一字の漢字)
 これは刀ではなく、金属製の四角の棒状の武器。相手の刀や鎗などの攻撃を防ぎながら、敵を斬るのではなく叩いてダメージを与える。特に金属製の鎧や兜の上から大きなダメージを与えることができたという。秦叔宝は二刀流で見事に使いこなしていた。
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 <小説の世界では、隋末の動乱から唐による天下統一を描いた『説唐演義』(「隋唐演義」と思われるが篠田氏はこの表現をしている)という小説に、鞭の名手として尉遅敬徳(うつちけいとく、585~658)、かんの名手として秦叔宝(しんしゅくほう、?~638)が登場します。この2人とも実在の人物で、唐の太宗、李世民に仕えた猛将です。後にこの2人は非常に勇猛であったことから民間で悪鬼から門をまもる門神として厚く信仰されるようになり、その姿を描いた絵が門に貼られました。>

 槊(さく)
 騎兵用の長槍。4㍍を超えるものもある。振り回すのではなく、片手で固体し、馬で突撃するときに使用されたという。
 <小説の世界では、『説唐演義』の単雄信(ぜんゆうしん)がさくの名手としてもっとも有名で、武術の世界にまで影響を与えています。…単雄信は実際に馬さくの名手でした。彼は隋末の武将で、忠誠心が薄く、よく裏切ることで有名したが、非常に武勇にすぐれていたため、彼の主人たちは常に彼を重くも用いていました。>
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 斧(ふ)・鉞(えつ)
 これは斧、まさかり(鉞)を武器にしたものであり、珍しいとは言えない。これは、刃で斬るというよりも、割り、たたき斬るためのものだという。弓矢を徹さない重装騎兵の鎧の上から打撃して致命傷を負わせることができたという。
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 杵(しょ)
 見たことにない武器。両端が膨れ上がり無数の針が出ている。中央の細い部分を握り、両端で敵を打つ。打撃力は武器の重さによって増大するため、両端が太くなっている。やはり鉄の鎧甲の上からでも致命傷を与えられるという。
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 錘(すい)
 柄の先に球状の打撃部を付け、打撃力を強化している。打撃部は、木だけ、木を金属で覆ったもの、銅や鉄なさまざまな材質で作られた。長い柄の長兵器と短い柄の短兵器がある。短兵器は片手に一本ずつ両手で持って使うことがある。
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 狼牙棒(ろうかぼう)
 木や金属で作る紡錘形の錘(すい)に、鉄のスパイクを大量に植え込み、柄を付けた打撃兵器。重量による打撃の効果だけでなく、スパイクが複雑な傷を発生させる。鎧の上からもダメージを与えることができるので、重装騎兵がこのんで使ったという。
       
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 弩(ど)
 引き金を使って箭(せん、や)を発射する弓で、貫徹力の高い箭を発射することが可能だった。西洋ではクロスボウと呼ばれているというが、ボーガンに似ている。
ドラマでは、3本の矢を同時に発射する場面もあった。これも、弩の改良型なのか、三本発射できる弩があったのだろう。
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 時代と共に変化した武器
 中国では古代以来、長い歴史と戦争の中で、武器も発達し変化してきた。隋唐時代に使われた武器でも、近代ではあまり使われなくなったものもある。
 ここであまり見たことのない武器として取り上げたものの多くは、打撃をおもな効果とする打兵である。
 <打兵の歴史は非常に古く、人類が最も早く手にした武器の一つと考えられるのが棍棒です。…金属が武器の材料として使われるようになる…鋭利な金属製の刃や穂先を持った武器に劣るため、周(前1030頃~前256)においてすでに実践には使われなくなっており、…打兵が武器として再発見されるのは、晋から南北朝時代(3世紀~6世紀)にかけて人も馬も鎧を着込んだ重装騎兵が出現し、兵士が重くて堅牢な鎧や甲を着込む割合が高くなったことがきっかけでした。打兵は装甲の上からでも大きなダメージを与えることができるので、時代の要求にかなっていたのです。再発見された打兵がよく使われ、…戦場で大きな戦果をあげたのは、重い鎧を着けた騎兵と歩兵が活躍した宋から元(10世紀~14世紀)においてのことです。
 打兵の使用が頂点に達した頃、火器が出現します。厚い装甲を容易に貫通できる火器や、火炎、有毒ガスのような、装甲によって防げない火器の出現によって、装甲は動きやすい軽いものが使われるようになります。このため利点を失った打兵は再び戦場から姿を消すことになります。(篠田耕一著『武器と武具 中国編』)>
 
 ドラマを見ていても、騎兵も歩兵もすごく堅牢な鎧、甲を着けている。それもヨーロッパ中世のような鎧、甲とそっくりな物を着けているので驚く。そんな時代に適した武器だったということ。その後は火器の出現で姿を消したというから、これまで見たことがない武器と思ったのも当然かもしれない。
 どのような武器であっても、人殺しを目的にしたものであるから、そんな武器が使われない平和な世の中の願うことに変わりはない。 


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「隋唐演義」が面白い、その2

   各地で反乱勃発
 煬帝の帝紀を読んでいると、驚くほど各地から数え切れないほど反乱が起きている。全部は書ききれないのでいくつかを列記してみる。

煬帝(下)
9年
 済北の人である韓進洛が数万の衆を集め群盗をなした。
 済陰の人である孟海公が兵を挙げて盗賊となり、その数は数万人に至った。
 礼部尚書の楊玄感が反乱を起こした。
10年
 扶風の人である唐弼が挙兵し反乱を起こし、その衆は十万人のぼり…自らは唐王と名乗った。
 彭城の賊の張大彪が衆数万人を集め、懸薄山を拠点として盗賊となった。
 延安の人である劉迦論が挙兵して反乱を起こし、皇王と自称し、元号を大世とした。
 離石の胡の劉苗王が挙兵して反乱を起こし、天子を自称し、その第6児を永安王とし、衆は数万人に至った。
 将軍の潘長文がこれを討伐しようとしたが、勝てなかった。
 賊の首領の王徳仁が数万人を擁して、林廬山拠点として盗賊となった。
 賊の首領の孟譲の衆数万人余りが、都梁宮を占拠した。
 上谷の人である王須拔が反乱を起こし、漫天王と自称し、国号を燕とした。
 淮南の人である張起緒が挙兵して盗賊となり、その衆は3万人に至った。
 
 300年ぶりに中国を再統一した隋朝は、高祖文帝は23年で没し、煬帝が跡を継いでわずかな年月しかたっていないのに、このように全土で反乱の狼煙が噴き上がるのは尋常な状態ではない。
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                 煬帝(BS11HPから)

 ドラマを見ていて面白いと思った一つに、盗賊の活躍がある。公金や貢ぎ物の略奪をするが義賊を名乗り、さらに志ある役人と手を結び、反隋のため決起することだった。盗賊は本来、時の皇帝による政治と支配の枠外にいる存在であり、政治の善悪にかかわらず襲撃と略奪などを働くものだと思うが、この時代はそうではない。暴君による苛政の下で、まともに働いても生きていけない。「兵を挙げて盗賊となった」という事例が多い。盗賊が各地で出現する背景には、圧政と民衆の困窮があったのだろう。
 この反乱の事例を見ても、盗賊による反乱が目をひく。盗賊ではない隋の役人、地方の王を名乗る人物など、数万人の勢力を率いて公然と反隋に立ち上がっている。
 盗賊が皇帝打倒のため立ち上がることは、日本の歴史ドラマでは考えられないことだ。
  ドラマの中で、決起した反隋の集団がまだ、一地方で割拠しているだけなのに、元盗賊の頭領を皇帝にまつりあげるのも面白かった。実際に各地で皇王や王を名乗り、国号まで定めている。これも中国らしいのではないか。

「隋書」は、隋王朝の最後について次のように記している。
恭帝
 唐公の李淵の義兵が長安に入城すると、煬帝を尊んで太上皇とし、代王を帝位に奉じて帝業を継がせた。
 義寧元年11月壬戌、上(恭帝)は大興殿にて皇帝の位に即いた。>

 2年3月、右屯衛将軍の宇文化及(うぶんかきゅう)、(その他司馬徳戡、元禮、裴虔通など10人)らは、驍果兵※を率いて反乱を起こし、上のいる宮殿奥へと侵入した。上は温室殿にて崩御した。時に50歳。>
 注・驍果(ぎょうか)は強い決断力があるという意味。
 「史臣の言葉」では「煬帝は今際の時まで悟ることはなく、…一匹夫の手にかかり殺された。」とのべている。
  ドラマでは、宇文化及は煬帝の最側近として振る舞う重要な人物として描かれている。同時にその陰で密かに何か企んでいる様子だった。最後には、彼が反乱を起こして煬帝を追い詰めたようだ。彼については、ドラマの登場人物の中でもう一度取り上げたい。

 煬帝が死ぬと、もはや楊侑(恭帝)を居座らせる必要はない。皇帝の地位は唐王に移る。「隋書」は次のように記している。
<2年5月乙巳朔、唐王の李淵に詔を下して…
ああ唐王よ、あなたに頼りたい。…天運はあなたに至ったのだ。膝を屈して人臣の身でいるのは、天命に背くことであろう。…この日、上は皇帝の位を大唐に譲り、けい(漢字がない)国王となった。…
武徳2年夏5月に崩御した。時に15歳。>
 恭帝はわずか15歳で亡くなっているのも、尋常な最期ではない。


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「隋唐演義」が面白い、その1

 テレビで中国ドラマがよく放送されているので、最近見るようになった。その一つがBS11の「隋唐演義 集いし46人の英雄と滅びゆく帝国」」である。原作は、清初の褚人獲(ちょじんかく)によって作られた歴史小説で、全20巻100回の長編である。
 ドラマは、隋の文帝が陳を滅亡させたところから始まる。暴虐非道な2代目皇帝煬帝に対して盗賊と役人が手を結び、反隋の戦いを繰り広げる。安史の乱の後、唐の玄宗が長安に戻るところで終わる。
 
 ドラマを見ていると、隋の時代について知らないことばかりで、おや、まあ、へーということがしばしばである。興味を引いた幾つかの問題について、書いておきたい。
 本題に入る前に、隋が滅んで唐が成立する時代背景について、事典から紹介しておきたい。
    
 隋とはどういう王朝だったのか。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」は次のように書いている。
 <中国,古代の王朝 (581~618) 。本来は「随」であったが,宋代以降「隋」の字が用いられる。漢帝国の崩壊後約 400年続いた分裂を克服して再び中国に統一をもたらし,唐朝の前駆となった。帝室楊氏は鮮卑風に染まった漢人武将の家柄の出で,北周の外戚となって実権を握り,楊堅 (→文帝) が北周の幼主を廃して新王朝を建てた。楊堅は開皇律令を施行して国制を整備し,六朝伝来の門閥制を打破し,中央集権の強化につとめた。郡の廃止や冗官の整理,中正をやめて科挙制を推進し,地方属官の辟召 (へきしょう) を流外官以下に制限して中央吏部の人事権を強化するなど,いずれもその目的のための施策であり,他面では均田制や食糧蓄積により民生安定をはかり,南北に通じる大運河を開いて華北と華中を経済的に連結させた。こうして国力は充実し,衰弱していた南朝の陳を滅ぼして統一を完成 (589) ,さらに突厥,吐谷渾 (とよくこん) などを破って勢威を増し,内には礼制を整え,仏教を奨励して精神的統一を試みた。しかし2代目煬帝 (ようだい) の対外膨張策が高句麗遠征の大失敗を招いて破綻をきたし,全国に反乱が起き,滅亡した。>

 では、隋はどのように滅亡の道をたどったのか「日本大百科全書(ジャポニカ)」から見ておきたい。
<隋は内乱によって滅びるが、その契機となったのは、高句麗遠征である。611年の第一次出兵の際から、軍需物資の徴発や運搬に苦しむ河北一帯の民衆のなかに、逃亡して群盗となる者が相次いだ。「遼東に向かいて浪死する無かれ」の歌をつくって民衆に呼びかけた山東の王薄(おうはく)をはじめ、至る所に逃亡者集団が生まれ、勢力数万に及ぶものもあり、地方官府のすきをねらって略奪行動に出た。この情勢は関中・江南にも広がるが、613年には大官楊素の子玄感が礼部尚書という高官の身で役民を結集して黎陽(れいよう)倉に挙兵した。これは数か月で鎮圧されたが、煬帝の独裁政治に抗する貴族の反乱として重大な意味をもつ事件で、これをきっかけに内乱情勢は民衆レベルの反抗から支配層を巻き込んだ隋朝打倒を目ざす内戦へ発展した。それはまた、いわゆる中原(ちゅうげん)に鹿(しか)を逐(お)う次期政権争奪戦の意味も内包していた。楊玄感の部下で再起を図る李密(りみつ)、南朝帝室の後裔蕭銑(こうえいしょうせん)、東都洛陽の守将王世充、河北の群盗を結集した竇建徳(とうけんとく)などがその他大小の勢力とともに覇権を争ったが、勝利の果実は太原方面の鎮守を命ぜられた李淵(りえん)の手に落ちた。淵は建成、世民らの諸子と挙兵して長安を占領し、煬帝の孫代王侑(ゆう)を皇帝にいただいたが(恭帝)、煬帝が江都で親衛隊の手によって殺されると、侑を廃して唐朝を建てた(618)。翌619年王世充もその擁立する楊侗(とう)を廃して自ら即位したので、隋の皇統はここに完全に絶えた。[谷川道雄]>

     隋の統一、世界の歴史まっぷ  
             「世界の歴史まっぷ」から

 暴君だった煬帝
 2代目の皇帝は、本名は楊広であるが、あまりにも暴君であり、唐王朝により編纂された「隋書」では「煬帝」と記された。
 反乱を招いた煬帝の独裁政治を『隋書 現代語訳』の「煬帝」の項で、史臣(記録をつかさどる官職)は次のような評価を下している。
 <史臣の言葉
 傲りと怒りに任せた出征は幾度となく繰り返され、土木の用役が止むことはなく、しきりに朔方に行幸し、3度も遼東に車駕を向かわせ、行軍の御旗は万里に連なり、あらゆる所から徴税し、狡猾な官吏は民を搾取し、人々はその王命に堪えることができなかった。それにもかかわらず、二転三転する法令でもって民を煩わせ、過酷な刑法でもって民に臨み、軍隊の武威でもって民を監督した。これによって天下は騒然として、民は生きた心地がしなかった。ほどなくして楊玄感は黎陽で反乱を引き起こし、匈奴の地においては雁門の包囲戦が展開され、天子である煬帝は中原を放棄して、遠く江南の地に赴いた。…
 皇帝の御輿は江南にいったまま帰還しなかった。その上に軍役と飢餓が重なり、民は路頭に彷徨い、のたれ死んでいった者は、10の内89にのぼった。ここにきて民は叢沢に集い、群がって蜂起し、規模が大きいものは州郡を跨ぎ、皇帝や王を僭称し、小さなものも千や百を数える人々が集り、城郭を攻め村落で略奪をし、人々の流れた血は川や沢となり、死人は乱麻のごとく入り交じり…
  万里四方、王土の隅々より報告書が送り続けられたが、江南の朝廷ではなおも「鼠や犬の類が小悪をなしているだけで、恐れ慮るには及ばない」と言い、…一時の快楽に耽り、長夜の楽しみを極めた。…煬帝は今際の時まで悟ることはなく、…一匹夫の手にかかり殺された。>
 
 衰退は高祖の代から始まっていた
 ただし、隋の衰退は煬帝だけの責任ではなく、初代高祖の時代から始まっていたという。同書「帝紀 高祖(下)で、史臣は次のような評価を下している。 
 <史臣の言葉。
 平素より符端(注・めでたいしるし)を愛好して治世の大道に暗く、諸子を封建するのに帝室に等しい実権を与え、いずれも朝廷と同様の制度を持たせたことは、臣下にいずれに従うべきかを見失わせた。…隋の衰退と危急の原因を求め、騒乱と滅亡の兆候を考えれば、それはすでに高祖の時に始まって煬帝の時に帰結したのであり、その由来は古く、一朝一夕のことではないのだ。>
ドラマを見ていても気になったことに、中国は皇帝絶対かと思ったら、各地方には「北平王」などと王の名乗る権力者が君臨しているので、意外な感じがした。「史臣の言葉」で、封建するのに「帝室に等しい実権」を与えたということは、中央集権といっても、各地の諸王たちに権力を持たせていたということか。いったん暴君の皇帝に従えないとなれば、各地から武力と実権を持つ者たちが反乱、騒乱を起こせば皇帝の体制は意外にもろいことになったのだろう。



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琉球への鉄器の伝来、番外編下

  東方への鉄の伝来
 NHKテレビ「アイアンロード~知られざる古代文明の道」は、村上恭通愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター教授の研究が重要なポイントを占めていた。そこで、ヒッタイトの製鉄技術がどのように東方に伝わったのか、村上氏の見解を紹介しておきたい。
 <紀元前3世紀から紀元1世紀にかけてユーラシア大陸の中央モンゴル高原に起こった遊牧の騎馬民族「匈奴」。当時中国は「秦」「」の時代、この匈奴の侵入を防ぐため、万里の長城を築き、当時の先端技術ですでに大量量産の製鉄技術を確立していた「」はこの技術がほかに流出せぬよう、鉄官などを置き、厳しく国家統制していた(溶融鉄還元間接法)。
 匈奴が南の中国と対峙する一方、ユーラシア大陸の西では 匈奴の侵入を発端とするヨーロッパの民族大移動が起こっている。この「匈奴」の爆発的エネルギーの根源は騎馬民族の「略奪」に支えられていると考えられていたが、今回の発見・発掘で≪匈奴が独自の製鉄技術を有していた≫ことが、次第に明らかになってきた。
 また、愛媛大が進めてきた中央アジアでの数々の共同調査で、紀元前12世紀ごろヒッタイトが発明した製鉄技術がユーラシア大陸を東伝して、早くからインド・中国に伝わったばかりでなく、黒海・カスピ海の北岸からユーラシア大陸中央の草原を通って、西シベリアやモンゴルにまで伝わっていることが明らかになり、古くからユーラシア大陸の東西をつなぐ、金属器・鉄器文化伝播草原の道≪Metal Road & Iron Road≫があったということも次第にあきらかになってきたという。>
 この項は「愛媛大学東アジア古代鉄研究所 第6回国際シンポジュウム 「鉄と匈奴」聴講記録」(「IRON ROAD 和鉄の道 Mutsu Nakanishi Home Page Since1999 」から)の引用である。

 中国の鉄の始まり
 <中国においても、鉄の始まりは、宇宙から落下した隕鉄(鉄隕石)を利用したものでした。このころ、中国では、すでに鋳銅技術が開発され、金属器といえば青銅器が主流で、鉄はとても貴重なものだったのです。
 やがて、中国では、世界に先がけて銑鉄が作られるようになり、この銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器とよばれる鋳物の鉄製品(多くは鉄斧や鋤先などの農耕具)が作られるようになりました。ところが、この銑鉄は、鋳物を作るには便利ですが、鉄中に炭素を多く含むため、非常に硬い半面、衝撃には脆い性質があり、刃物などの利器には適さないのです。
 しかし、中国では、鉄中の炭素を減じる脱炭技術が開発され、粘りのある鉄、鋼が鋳造鉄器の刃部に利用されるようになりました。日本の弥生時代中期ごろになると、このような鉄で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用されたのです。(雲南市{島根県}「simane unnan-challenge」)>

 <本格的な鉄の生産が始まったのは戦国時代(前475~前221)のことで各国の首都にはいずれも鉄を製造した遺跡が出土しています。しかし戦国時代に兵器の材質が青銅から鉄に完全に変化したわけではありません。当時の鉄の生産技術はまだ未熟だったのです。天下を統一した秦(前221~前207)が鉄の生産という点から見ると後進国であったこともこれを証明しています。(前202~220)より後、兵器に使われる主要な金属が青銅から鉄にかわりましたが、これはさまざまな点で製鉄の技術が飛躍的に高度になり、大量に生産できるようになったからです。(篠田耕一著『武器と武具 中国編』)>
 NHK番組では、ヒッタイト滅亡後、スキタイが中央アジアの北の草原の道を通って、匈奴に鉄をもたらしたことを紹介。しかし、前の鉄は炭素が多くて脆かったのに対して、匈奴の鉄は強く、鋭利で威力のある矢が作られて、は苦戦したという。その後、も鉄を改良して、製鉄の技術が向上したということだった。

 日本への鉄器伝来
 日本にはいつ鉄が伝わったのだろうか。鉄の伝来と製鉄の始まりについて、「日立金属HP たたらの歴史」が詳しく考察しているので、それから要約して紹介する。

 稲作と鉄の伝来
 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
 弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
    
    古代製鉄所跡
    古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)=日立金属HPから
  

 鍛冶工房
 鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。
 発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いない。しかし、しっかりした鍛冶遺跡はない。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

 鉄器の普及
 この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
 日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

 製鉄の始まり
 日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?
 弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
 今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
 
 一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、考古学的背景を重視するからです。
 最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。
 弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。

 これまでに見たように、中国の鉄器は、紀元前5世紀からの戦国時代には、広く使用されていたという。沖縄は中国との交流の長い歴史があるけれども、鉄は大和から伝わったという伝承が圧倒的に多い。その理由として、中国との接触は古くからあったとしても、正式な交流は、1372年、明からの使者が琉球に来て、察度王が弟の泰期を派遣して朝貢してからであり、交易が始まったのは14世紀である。
 一方、日本とは、7,8世紀に大和朝廷から、南島諸島に朝貢を即すなど、早くから関係があった。南方物産の交易拠点と見られる喜界島の城久遺跡では、11世紀後半から12世紀ごろ、鉄器をつくる鍛冶炉が多数発見されており、沖縄まで運ばれていたと見られている。そんな背景があり、鉄は大和から伝来したという伝承が多いのではないだろうか。
 以上、鉄器の起源と伝来についてスケッチ的に見てきた。まだまだ、分からないところがあり、今度の発掘や研究によって新たな発見もあるだろう。鉄器の伝来と社会への影響と変化は知るほどに興味がつきない。
  終わり

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琉球への鉄器の伝来、番外編上

 古代の鉄はどのように広がったのか

 このブログでは「琉球への鉄器の伝来」を見てきた。そもそも、人類はどのようにして鉄を手に入れ,製鉄と鍛冶が広がったのかはとても興味がある問題である。もう30年近く前に、鉄の起源について調査していた大村幸弘氏の著書『鉄を生みだした帝国―ヒッタイト発掘』を読んだことがある。トルコのアナトリア地方にいまから3000年以上も前にヒッタイト王国という鉄の王国があることを知った。
 NHKテレビで「アイアンロード~知られざる古代文明の道」が2回に分けて放送された(2020年4月19、26日)。とても興味深い内容だった。そこで、鉄が古代にどのように発見され、伝来したのかを簡略に見ておきたい。
 
 「アイアンロード」とは
 <いま、あのシルクロードより古い「文明の道」が姿を現し始めている。それは、現代社会に欠かせない「鉄」を伝えた道。西アジアから日本列島にいたるその道は、「アイアンロード」と名づけられた。このルートに沿うようにユーラシア各地の大草原や山岳地帯などで進む発掘調査からは、謎にみちていた古代国家の実像が次々と明らかになり、エジプトやギリシャなど、いわばメインストリームの古代文明とは異なる“未知の世界史”が浮かび上がっている。
 また、これまで武器を中心に考えられてきた古代の鉄の役割が、時代が進むなかで次々と広がっていった事実も分かってきた。鉄は和平を促す“交渉品”となり、異文明を結ぶ“交易品”となり、馬具を生んで“移動革命”をもたらし、工具として“芸術革命”を導き、農具となって“生産革命”を起こしていた。鉄は、武器による「征服と破壊」の一方で、「融和と建設」の主役でもあったのだ。>
 前編の舞台は、製鉄発祥の地とされる西アジアから、ユーラシアの中央部まで。荒野に築かれた大国ヒッタイトと、草原に鉄を伝えたスキタイ。謎にみちた両者の歴史を、雄大な風景のなかに探っていく。
 後編の舞台は東アジア。匈奴と漢が史上まれにみる長期戦争を続ける中、鉄のイノベーションが巻き起こり、歴史を大きく動かしていった。そして鉄は、弥生時代の日本へ。列島の暮らしを一変させていった秘密を探っていく。>
 番組案内によれば、このようなあらすじであった。


 鉄の発見
 人類は鉄をどのようにして手に入れたのか。いきなり製鉄技術を発明したのではない。
始まりについては二つの説がある。
 一つは、鉄を多く含む隕石が地球上に飛来し、隕鉄と出会ったという隕鉄説。いまから5000年ほど前らしい。古代エジプト人は、鉄は宇宙から来ると考えていたという。
 もう一つは、たまたま鉄鉱石が産出する場所で火事があり、鉄鉱石が「鉄」に変化することに気づいたという説である。
 これは、どちらの説が正しいのかということではなく、それぞれが人類と鉄との出会いだったのだろう。ただし、鉄鉱石から鉄を作るという技術は、後者の火事で偶然、鉄が作られているのを見たことが発端であることは確かだろう。鉄の起源としては、後者が重要な意味を持つのではないだろうか。素人なりにそのように思う。
鉄器時代はいつ始まったのか
 アナトリア考古学研究所の大村幸弘氏は、鉄器の起源について要旨次のようにのべている。(山川出版「Historist」から)
鉄器時代の開始は、今からおよそ3200年前といわれます。ちょうどヒッタイト帝国が終焉を迎え、古代オリエント世界は一気に青銅器時代から鉄器時代に入った時期でもあります。
 いたるところで入手出来る鉄鉱石から鉄器を生産する手掛かりを見出し、そしてそれを国家の基盤にまで完成させたのがヒッタイト帝国です。この帝国の都の遺跡から出土したボアズキョイ文書によると、ヒッタイトは製鉄技術を秘密裡に保持していたようです。


 製鉄の歴史が変わるかもしれない発見
 アナトリア考古学研究所は、1986年、トルコ共和国のほぼ中央部に位置するカマン・カレホユック遺跡で考古学の発掘調査を開始しました。
 約一万年の文化を包含しているこの遺跡の調査を通して、これまで第I層(15~17世紀のオスマン帝国時代)、第II層(前12~前4世紀の鉄器時代)、第III層(前20~前12世紀の中期・後期青銅器時代)、第IV層(前25~前20世紀の前期青銅器時代)の文化を確認しています。
 第I層からは鉄生産を行なった大形炉址をはじめとして鉄滓、鉄製品が大量に出土しています。第II層の鉄器時代からも鉄製農具、武器等が数多く確認されています。第III層の中期・後期青銅器時代に入ると極端に鉄器の出土例は減少しますが、しかし、出土数が少ないとはいえ存在するので、ボアズキョイ文書通り、鉄生産はすでに始まっていたといえるでしょう。
 しかし、それ以上に驚愕させたのは2010年代以降の調査で、まったく予期もしていなかった第IV層の前期青銅器時代、つまり前3千年紀の第4四半期からも幾つもの鉄関連資料が出土したことです。この時期にはアラジャホユックの王墓から隕鉄製の鉄剣が出土しているぐらいで、その他の出土例は皆無に近いのです。カマン・カレホユック遺跡からは鉄滓、炉壁片、鉄鉱石を含む資料が出土しました。とくに鉄滓が出土していることは、鉄生産がこの遺跡でおこなわれていた可能性を強く証明することにも結びつきます。
     図:カマン・カレホユックの文化編年(大村幸弘氏論文から)

      カマン・カレホユックの文化編年

 仮設検証 製鉄の歴史
 これまでカマン・カレホユック遺跡の鉄関連資料の分析に当っている岩手県立博物館上席専門学芸員(文化財科学)赤沼英男氏は、前期青銅器時代の鉄関連資料の分析結果から、鉄生産はヒッタイト帝国時代よりはるか1000年前に開始されていたとする仮説を打ち立てています。その時期にはすでにアナトリアでは本格的鉄生産が開始されていた可能性を十分にあり得ます。これまで考古学で使用してきている「鉄器時代」の開始時期を再考する必要が出てくるのではないかと考えています。>


 鉄はどのように広がったのか
鉄器時代は、今からおよそ3200年前、ヒッタイト帝国により開始されたと考えられていたが、新たな発見によって、その1000年前に開始された可能性が出てきたと言う。では、ヒッタイトからどのように鉄器は広がったのだろうか。
<最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。
 しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。カタストロフによってオリエントの主要勢力はほぼ滅亡するが、その後勃興した、あるいは生き残った諸国はすべて鉄器製造技術を備えていた。
 同様のことはエーゲ海地方においても起きた。紀元前1200年ごろにギリシアの北方から製鉄技術を持つドーリア人が侵入し、ミケーネ文明の諸都市やその構成員であったアイオリス人やイオニア人を駆逐しながらギリシアへと定住した。この時代は文字による資料が失われていることから暗黒時代と呼ばれるが、一方でアイオリス人やイオニア人を含む全ギリシアに鉄器製造技術が伝播したのもこの時代のことである。(ウィキペディアから)>

 ヨーロッパの鉄器
 <ヨーロッパにおいては、地中海沿岸のイタリア半島中部には紀元前1100年ごろからヴィラ・ノーヴァ文化が栄え、紀元前750年ごろからこの文化が都市を形成してエトルリアの諸都市が成立した。中央ヨーロッパにおいては青銅器文明後期の段階にあったハルシュタット文化が紀元前800年ごろに鉄器を受け入れ、紀元前450年ごろからはかわってラ・テーヌ文化が栄えるようになった。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられている。ウクライナから中央アジアの草原地帯においては紀元前800年ごろからスキタイが勢力を持つようになるが、スキタイは鉄器技術を持っていた。(ウィキペディアから)>

 インドの鉄器
 <インドではアーリヤ人のガンジス川流域への移住が行われた前1000年頃から始まる後期ヴェーダ時代に、青銅器に代わって鉄器が用いられるようになり、また大麦から小麦や稲作中心の農業に変化してきた。鉄器は農耕具とともに武具としても使われた。そのような社会の変化の中で、ヴェーダ信仰も儀式や祭祀を重視する傾向が強まり、それにともなって司祭であるバラモンが特権的な地位を占めるようになってきた(「世界史の窓」から)>。
 鉄の王国・ヒッタイトは、紀元前1190年頃に滅ぼされ、秘密にしていた製鉄の技術が周辺に知れ渡ったというから、インドで紀元前1000年頃、鉄が使われたとすれば、比較的早くにインドまで広がったのだろう。


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沖縄への鉄器の伝来、その17

 鉄と鍛冶を送り出した鹿児島・坊津
 大和からの鍛冶の伝来といえば、石垣島の崎原御嶽の伝説が思い浮かぶ。鹿児島の坊津に出かけて鉄製農具をもたらしたという。
 坊津は、飛鳥時代から遣唐使の乗る船の寄港地となって「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれた。室町時代は倭寇や遣明船の寄港地となり、島津氏の中国や琉球貿易の根拠地ともなっていた。かつて鍛冶屋が奄美諸島にも出かけていたという。
 「坊津の泊や秋目などは、鍛冶技術や鉄製品を南の島々に向けて送り出す拠点でもあった。私が秋目で聞いた話では、昔、秋目には、30軒ほどの鍛冶屋があったが、地元で鍛冶屋をしていたのは数軒にすぎず、あとはおもに奄美の島々で鍛冶をしていたという」(谷川健一著「『古琉球』以前の世界」、『谷川健一全集6沖縄』)。
       昔の鍛冶屋の絵
           昔の鍛冶の風景
 朝岡康二氏も、奄美諸島の鍛冶屋の出自を調べて次のようにのべている。
 <奄美諸島の徳之島や沖永良部島の鍛冶屋を訪ねると、その技術系譜を聞くと、鹿児島からきた技術だと言う。かつて存在した鍛冶屋の出自を訪ねると、鹿児島の秋目からやってきた鍬鍛冶であったと言う。昭和に入る頃から、多数の鹿児島県出身の鍛冶屋が奄美の島々に渡ってきて開業したのである。…
 秋目の鍬鍛冶は、加世田鍛冶に代表される士族鍛冶とは系譜を異にし、まったく別種のものとみなければならない。すなわち、鎌・刃物を作る鍛冶と、鍬を作る鍛冶とは異質の系譜をもち、それぞれに異なる世界を伝承してきたのだということになるのである。
 この視点に立った上で秋目をみると、秋目(現在は坊津町に属している)は小さな漁港にすぎず、必ずしも古い時代から鍛冶が栄えていたと言うわけでではなく、また、鍬を必要とするような土地柄でもなかったことがわかる。(略)。しかし、古くからの港であったから、舟釘をつくる鍛冶屋がおり、それが鍬を作る技術を身につけて南島に鍬鍛冶として出ていったのである。「南西日本における鉄器加工技術の伝播・普及に関する民俗学的研究(その1)」『沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要第2号 1898年』)>
 坊津の鍛冶集団が、奄美から沖縄本島、宮古島、八重山まで南下したのだろうか。
      
 沖縄の鉄器加工技術は複合的
 朝岡氏は鉄器加工技術が大和からの南下というだけではなく、逆に琉球に伝わった鍛冶技術が北上したとして、次のように指摘している。
 <鉄器文化においても、琉球王権の北方への拡大に随伴して鍛冶職人が渡ってきたことが、具体的なグシクにかかわる口承として、島々に残っている。…
確かなことは、沖縄の職人が、島渡りに北上して、彼らに固有の技術で鍬作りにあたった痕跡が、紛れもなく鍬の構造の一部に伝承されており、それは薩摩下りの大和の技術とはっきりと識別できることである。>
 朝岡氏は、伝承から見るのではなく、鍬の形状の特徴などを分析して、大和の技術とは別の技術の影響を見ている。
 <沖縄の鉄器文化を考える時に、…多くの口承には「大和より」下ってきた鉄のことが出てくるのである。しかし、これをもってして、沖縄の鉄器加工技術が、継続的に日本本土の技術を受け継いできたのだとすることはできない。また「大和より」とする表現には、時には政治的要因がからみ、表現そのものが、それ自体として流布した形跡もうかがえるから、そのままに鵜呑みにするわけにはいかないのである。それよりも、技術内容そのものの解析をとおして、個々の系譜を位置付け、そこに沖縄の技術文化の固有性を見ようとするのが筆者の立場である。この視点から言うならば、沖縄の鉄器加工技術は優れて複合的なものであるが、装置の基本的な部分に南方的要素を持っており、この点に着目すれば、中国の中央文化や日本本土の様式と決定的に異なるのである。>
 朝岡氏は、沖縄の鉄器加工技術が「継続的に日本本土の技術を受け継いできた」とはいえないというけれど、鉄器と鍛冶が最初は大和から伝来したことを否定しているのではない。ただ、大和の影響だけではない「沖縄の技術文化の固有性」を見ようとしている。
 中国や東南アジア、朝鮮などと交易によって栄えた琉球が、鉄器の加工においても、海外の鉄器も参考にしながら、独自の改良を加えて用具を製作したことは十分考えられる。

 沖縄本島、宮古島、八重山などへの鍛冶の伝来は、伝承に見られるように、鍛冶の技術が伝わっただけではなく、そこには人の移動、鍛冶屋の移動があったことがうかがえる。このような鍛冶屋の移動は、数百年前のことだけではない。明治以降も鍛冶屋が先島に寄留していたという。
 朝岡康二氏は、寄留の背景には、明治12年の廃藩置県以後、同36年に終了する土地整理(旧慣廃止)まで諸制度のゆるやかな改革があるとする。人の移動が活発になり、さまざまな寄留形態が生れてきたとして、次のような実例をあげている。
名護市羽地字川上生まれの玉城嘉一郎は、明治35年(1902)頃に石垣島に渡る。石垣島大川の外れに鍛冶屋を開業して、この地に初めての「町鍛冶」として成功をおさめる。嘉一郎の系譜は「ヤンバルカンジャー(山原鍛冶屋)」として先島に知られ、この地の鍛冶屋を代表する集団を形成することになった。
 
 本部出身の古堅鍛冶の初代は、那覇の鍛冶屋に入り技術を身につけると、宮古島の平良に鍛冶小屋を作り、やがて、5人の息子をはじめ多数の同族を鍛冶屋に仕立て、宮古の鍛冶業を独占することになるが、その開業は明治17年(1884)であったと言う。玉城鍛冶が石垣に渡るより一時代前のことであった。
 鍛冶屋は、八重山の島々を巡る「出張」も行った。「ヤンバルカンジャー」の名は、八重山のどの島でも今日まで記憶に残っているという。
 鉄器と鍛冶の伝承を見てくると、そこには琉球・沖縄に生きる人々の暮らしと民俗、社会と歴史にとってとても重要な一つの役割を果したことがわかる。といっても、まだまだ分からないことの方が多い。これからも機会あるごとに注視をしていきたい。
    終わり          2020年11月       


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沖縄への鉄器の伝来、その16

 鉄器の所持者が指導者に
 八重山においても、鉄器の伝来は社会に一大衝撃をもたらした。森田孫栄氏は、石垣島の宮鳥御嶽やその他の御嶽の成立伝承をみると、共通性があり、アルジ、カワラ、マサリ、ハツ、トノ、カネ、と敬称される神々のありようは、「指導的立場にあったものの来入を髣髴とさせ、祭政一致の階級的社会への傾斜が垣間みられる」とする。その外来者のもたらした文化や知恵には、鉄器(刀子)や鉄滓、陶磁器などが含まれる。
 「彼たちの将来(ママ、招来か)した文化のなかで、とりわけ霊的な力を発揮したのは、鉄器だったと考えられます。石器、木器、貝器に頼って生命を支えていた人々にとって、鉄器の出現は、まことに愕きそのものだったに違いありません。従って、これらを所持したモノが、即指導者であり、英雄として奉られことは、想像に難くありません。よって、先に申し述べたカネという神の名称は、この鉄そのものに擬せられた訳であります」(『八重山芸能文化論』)。
 大浜の崎原御嶽の成立由来に登場する「コウチタマガネ」という名前についても「小鎚・玉鉄、製鉄の原料の玉鉄と、製錬用の小鎚の意に擬せられているのであろう、と研究者は説いております。崎原御嶽境内から実際、外耳土器や、鉄滓、木炭などが出土採集されており、鉄器製作と関連する祭神であることがあきらかにされています」(同書)。

 尊敬された鍛冶屋
 大濱永亘氏は、八重山鍛冶屋がとても尊敬されてとして、次のようにのべている。
 <八重山では、鉄器製作者をカンジャーと呼び、鍛冶屋のことをカンジャーヤと呼ぶ。最近まで、各村々には鍛冶屋がおり、鍛冶屋は公事の労働から免除され、生活用具や農具などの生産を行い、住民から尊敬されていた。また、かつては、村行事として、旧暦11月7日ごろ、鍛冶屋への感謝と祈願のため、鞴の祭事が行われた。…
 『大浜村民俗誌』の11月の行事の項には、「崎原御嶽をお建てになったヒルマクイ。幸地玉金兄弟が初めて金属をお伝えになった。然るに其の頃、鍛冶屋がいないため大浜の力の強い成家(なりや)かじぐと云う人(生盛家)に鍛冶屋をする様一任したので、彼は是れまで石と木で造った鋤、鍬、鎌、全部を金で造り、村のためにつくし、其の有難さを(ひをおこす為、手または足を動かして風を送る機具)に感謝する祝と伝えられている」と記されている。生盛家では、最近にいたるまで、鞴の祝いがおこなわれていたようである。>
       崎原嶽 
                   崎原御嶽
 トモリ嶽にみる大和の影
 鉄器と鍛冶の伝来には、なぜか「トモリ」の名前が結びつくそうだ。谷川健一氏は、次のようにのべている。 
 <『琉球国由来記』には、浦添間切の安波茶村の項に「トモリ嶽」という名前が記されており、神名は「大和ヤシロ船頭殿ガナシ」となっております。…東恩納寛淳も『南島風土記』のなかで…友利嶽に葬られたヤマトの船頭とは、察度王のために鉄を供給したヤマトの商船の船頭だといっています。…
 『琉球国由来記』巻一三、大里間切の与那原の条に「友盛ノ御嶽イベ」の説明があります。それによれば、昔、久高島の祭礼のために海を渡ろうとして逆風にあい、日本本土に漂着した聞得大君が、ふたたび連れ戻されて、大里間切の与那原の浜の御殿で過ごした。その骨は与那原のみつ嶽というところに葬られたという話が伝わっております。このみつ嶽を友盛の嶽とも呼んでいるわけです。…

 アマミキヨが初めて天下ったという知念森城ののなかにもトモリという御嶽があります。さらに宮古島に行くと、砂川の近くに友利という海村がありまして、そこの嶺間(みねま)御嶽に次のような話が伝わっています。昔、友利村のアマリ山の下に村があったけれど、大津波で滅んでしまった。ただ一人アマレ大ツカサという女がアマリ山の頂に難を避けて住んだ。そのときヤマトの人間が平安名崎の宮渡に漂着し、この大ツカサと結婚して子孫が栄えたというのです。…
 そこに祭られている神が「アマリファ泊主」、あるいは「アマリファ鍛冶主(カンカヌシ)」と呼ばれています。…鍛冶主のカンカは金敷のことであるといわれております。つまりヤマトの人間が鍛冶技術を伝達したことが、この嶺間御嶽の伝承として伝わっており、しかもそこの名前は友利なのです。…トモリという御嶽がヤマトと関係があり、しかもそれが鉄と関係があるということは非常に不思議な気がするわけです(「『鉄文化の南下』をめぐって」『民俗・地名そして日本』)>
 「トモリ」の名のつく御嶽(拝所)、地名、名前などは大和の人間の南下、鍛冶屋の南下、伝来と結びつきがあるのだろうか。

 <「八重山の鳩間島にも友利御嶽があって、その神名を「おともり」、そしてイベの名を「大ざるがね」というと『由来記』にあり、『旧記』には神名を鳥度森(とともり)、威部(いべ)の名を大座那呂金(おおざろがね)という、とある。これらは八重山の友利御嶽と宮古島の友利部落の関連を示すものである。
 宮古の友利や砂川は倭寇の基地であったというのが、宮古の歴史家の稲村賢敷の説であるが、そうだとすれば、その勢力が八重山まで延びていたことを暗示しているようにみえる。竹富島の仲筋御嶽の祝詞にも『なるかね』という言葉が見える。また竹富島の久間原御嶽のイビ名にも『友利大あるじ』の名前がみえる。『由来記』には、この二つの嶽の神は沖縄本島から渡ってきたと注記してある。鳩間、竹富、与那国には友利姓がみられることを考えあわせて、沖縄本島から宮古島へ、さらに八重山へと南下した日本(やまと)の人間たちがいたことが推測される」。この項「鍛冶神の南下」、『谷川健一全集9』。>

 「トモリ」の名と鉄器伝来
 八重山の「ナリヤ鍛冶屋」の子孫という生盛功さんは、「トモリ」の名と鉄器の伝承について次のように解釈している。
<沖縄に鉄器が伝わった伝承の地が「友盛獄(トモリ)」で、琉球の島々に伝播して行ったが、(すどぅむりや=宗友盛屋)は「友盛獄(トモリ)」に所縁のある鍛冶屋だからこそ生盛に結びつく。御獄・鍛冶屋・屋号等に深い関わりを持ち、琉球の最も古い「盛」が「友盛獄(トモリ)」で、北から順を追って南下した「盛」だとすれば、琉球誕生の阿麻弥久の地がある奄美大島の「土盛(トモリ)」に結びつく。>
 <「トモリ」の流れを追うと「渡守(広島)」・「土盛(笠利)」・「供利(与論)」・「友盛・富盛・友利(沖縄本島)」・「友利(宮古島)」・「友利(八重山)」と繋がってくるが、鳩間島の友利「トモル」御獄は「盛」の文字が含まれていることが分かる。特に八重山の生盛が「友盛」or「富盛」から誕生したとなれば、沖縄本島の富盛、宮古島では友利、八重山の生盛とした特色ができあがる。友利のルーツを北へ遡れば渡守神社(注・広島県福山市鞆の浦にある)に到達し、沖縄の渡地・渡久地・宮古島の渡口・八重山の民謡に登場する渡・大渡に加え、日ごろの会話で使われる「トゥモール(海)」も同じ関係がありそうだ。友盛獄の文字は「トモリ」と読むには無理があるが、「鞆」に由来する「鞆鍛冶」を伝える目的があったと思われ、各地の友利御獄には鍛冶屋集団の残した痕跡がある。屋号が「友盛獄」に由来する根拠として、鍛冶屋には燃料と鉄の原材料を入手する組織が必要で、沖縄では御獄に鍛冶遺跡が多く残されている。
 
 成屋鍛冶工を説明するには、 「友盛獄」まで時代を遡らなければならないが、崎原御獄の伝承を引き継ぐ鍛冶屋だけでは、(すどぅむりや=宗友盛屋)のナリヤ鍛冶工の誕生に結びついてこない。(すどぅむりや)がナリヤ鍛冶工の名前を絶やさなかったのは、宮古島の(東なりかに)の鍛冶神、竹富島の仲筋村の(なるかね)の遺伝子を残すものとして、「友盛獄」まで時代を遡る名前だったことにあったと推測する。>
 <坊津と鞆の浦は船釘や造船に必要な鍛冶屋集団で、大和でも鍛冶屋の南下がみられ、九州にも小烏神社(こがらす)を祀る地域がある。当然、鍛冶屋の南下は八重山まで続き、元をただせば大和(近畿)の鍛冶屋となるが、動乱に伴い南下したようだ。(ブログ「武那里の刀」)>



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沖縄への鉄器の伝来、その15

 八重山ナリヤ鍛冶
 城間武松著『鉄と琉球』からの紹介に戻る。
 <八重山波照間島の故老の伝承によると、オヤケ赤峰や長田大父時代(尚真王代)に、ナリヤ鍛冶工といわれる鍛冶工があった。波照間島に生まれ、鹿児島に行って刀匠、業平筑前の守の門に入って、十数ケ年、業を積んで帰島し波照間島はもちろん、全八重山の刀鍛冶に貢献した。鹿児島に滞在中は、7ケ年間精魂を打込んで、680回もきたえて造りあげたという名刀を記念にもち帰って、誰にも見せなかった秘蔵の刀を、妹が是非見せてくれとせがむので、やむなく見せることにしたが、鞘を払った瞬間、一目見た妹は死んでしまったということである。
この名刀匠の鍛えた刀を長田大主、赤峰、その他の人々は使っていたという。(八重山歴史)
 文明年間から明応年間(1469年より1500年)にかけて、薩摩の国には業平と称する刀匠はいない。>
     オヤケアカハチの碑文 
                オヤケアカハチの碑文
 先に紹介した『大浜民俗誌』(11月の行事の項)では、鹿児島の坊津から帰ったヒルマクイ・幸地玉金兄弟は「鍛冶屋がいないため大浜の力の強い成屋(ナリヤ)かじくと云う人に鍛冶屋をする様一任しした」と記している。
 これには、ナリヤ鍛冶工(生盛屋=スドムリヤ)の子孫だという生盛功さんは疑問をはさむ。
 <大浜の鍛冶屋はナリヤ鍛冶工と呼ばれ、昭和三十年頃まで井戸だけ残し建物は朽ち果て、空き地のまま残されていた。村の人々を含め親戚の人々が、事あるごと昔話を語っていた。…子供の頃、幾度となく聞いていた伝承に、ヒルマクイ・幸地玉金兄弟の話との結び付きは、残念ながら私は耳にしたことがない。
 私の記憶では、神事は火の神・水の神への感謝として、「鞴水(ふぐみず)の祝い」と呼ばれ、鍛冶屋の神は崎原御獄とは別な神であった。
 鞴が伝えられたとされる時代の大浜は、八重山の歴史では神話の世界に等しい。伝承に記録がない出来事は、書き加えられたことを鵜呑みに信じるしかないのか、ヒルマクイ・幸地玉金兄弟と(すどぅむりや)が同時代に大浜にいたことを疑う事柄が幾つもある。>
 
 ナリヤ鍛冶工の伝承も崎原御獄の伝承も、八重山から鹿児島に向かう話だが、「500年前の往復する話には簡単には頷くことが出来ない。八重山で鍛冶屋をしようとすると組織が必須条件で、鞴を携えて八重山に帰ってきたところで単独で鍛冶屋は成り立たない」と指摘する。
 また、石垣島の大浜の地は、明和の大津波で壊滅的な被害を受けたところだ。でもナリヤ鍛冶工が近年まで大浜で鍛冶屋を続けたことを思えば、「ナリヤ鍛冶工が大浜に移動したのは大津波からの復興に間違いない」と見る。
波照間島から大浜に渡ったのか、成屋御獄や村があった西表島にもいたことは間違いない。竹富島には鍛冶屋があった話が残されていて、竹富島から大浜に渡ったとも考えられる。
 「伝承から考えるとナリヤ鍛冶工は鞴を携え、八重山に渡って来たとするのが自然である。アカハチの乱の前は八重山の島々で人々と衝突しながら開拓を進め、本来の刀鍛冶の仕事もあったのかもしれないが、平定後は船の修理から農機具の製作へと、大和の刀鍛冶と同じ変遷をたどった」と推測している。
 生盛さんの指摘のように、ナリヤ鍛冶工は、八重山から鹿児島に行った鍛冶技術を学んだというより、大和からか、沖縄本島から鞴を持って八重山に渡ってきて、鍛冶屋を営んだ。そして、大津波の後、石垣島の大浜に移ったと見る方が自然だろう。大浜で長年鍛冶屋を営んできたので、いつの間に崎原御嶽の伝説と結びつけられて、ヒルマクイ・幸地玉金兄弟が坊津から鞴を持ち帰り、鍛冶を一任したのがナリヤ鍛冶工だという伝承が作りだされたのかもしれない。

 八重山の鍛冶遺跡
 八重山の鍛冶伝来について、鍛冶遺跡を通してみたのが、大濱永亘著「八重山スク時代の鍛冶遺跡と伝承」(『琉球弧の世界』)である。その要旨を紹介する。
 <八重山では、12世紀後半から16世紀ごろまでを、スク(沖縄島ではグスク)時代と呼ぶ。沖縄のグスク時代には、北方文化の遺物である類須恵器(徳之島のカムィヤキ陶器。以下同)や勾玉(ガーラ玉)・丸玉(ガラス玉)などが広範囲に流布し、八重山一円でも出土する。このことから、八重山も、沖縄のグスク時代の文化と同一文化圏に統合され、同一の歩みをしたものと思われる。しかし一方では、八重山の島々を中継地とする中国商人等との裏街道的な密貿易(私貿易)が頻繁に行われ、八重山独自の文化が築かれていたのではないかとも思われる。…スク時代はまだ、石器・鉄器の併用時代だったのである。…
沖縄島のグスク時代の遺跡から出土する鉄器には、比較的武器や武具等が多い。しかし、八重山のスク時代の遺跡からは、日常の生活用具としての鉄鍋の破片や、刀子(とうす)、鍬、鎌、交易船の角釘(船釘)などが出土し、そのなかでも、鉄鍋の破片や鉄鍋の破片と思われる板状鉄片が多く発見される。…
 
 朝鮮漂流民の八重山見聞記(1477年に朝鮮人3人が与那国島に漂流して救助された)に、「鍛冶屋はいるが、(中略)草や禾(いね)を、苅るのには鎌を用いる。斫(き)るには斧を用いる。小さい刀はあるが弓矢斧戟(ふげき)がない。人は小鎗をもっていて、常住身からはなさない」(注・与那国島)という記事があり、ここから、15世紀後半には、鉄器を作りだす専門職人の鍛冶屋がおり、鉄鍋などを素材にして、鍛錬鍛冶により農具を作りだしていたことが推察できる。>

 
  西表島の祖納には、集落の開祖で鉄鍛冶をもたらしたという大竹祖納堂儀作の伝承がある。「1332年頃に鉄鍛冶を持ってきて、八重山、いわゆる先島、宮古まで含め鉄文化を開いた方です。この島では神として奉られています」というのは、祖納公民館館長の那良伊孫一氏。RBCテレビ「ダイドーグループ日本の祭 西表島の節祭~祭りが紡ぐ歴史と絆~」で館長がこう解説して大竹御嶽を紹介した。

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        RBCテレビ「西表島の節祭」画面から
 大竹祖納堂儀作は、14世紀頃に実在したとされる人物で、大陸方面から鉄を輸入して鉄鍛冶をしていたという。



釜を仕立てて鉄を製作した場所の証として、いまも鉄カスや鉄滓が出るとして、館長は鉄カスを手にして見せていた。この伝承はとても注目される。というのは、鉄の伝来が1332年頃あるいは14世紀頃というのは、これまでの宮古島や八重山への鉄の伝承のなかでも、もっとも古い時代に属する。宮古島への鉄伝来は14世紀とされるので、それと符合することになる。ただし、西表島祖納から宮古まで鉄文化を伝えたとは考えにくい。すでに見たように宮古島には大和由来の鉄の伝承があるからである。また、大和からではなく、大陸、つまりは中国方面から鉄を輸入したとされていることも注目される。他の宮古島、八重山への鉄の伝承は、いずれも大和・鹿児島方面や沖縄本島方面からの伝来であった。八重山は比較的中国に近いので、あり得る話である。沖縄の鉄伝来のルートとして、もっと中国方面からの伝承があってよいと思うが、意外なほど少ない。そういう意味で注目される鉄鍛冶の伝承である。



鉄カスが出るのは、その場所で鍛冶が行われた証ではなるが、いつの時代かは不明である。後世のものかもしれない。ただ、祖納に鉄がもたらされ、鍛冶が行われていた証拠ではある。



 次は、波照間島・北村遺跡を見てみたい。

  <慶長14年(1609)、薩摩(島津氏)の琉球攻略後は、寛永21年(1644年)に海防監視体制が敷かれるなかで、密貿易(私貿易)がとぎれ、中国製の鉄鍋にかわって、大和製の鉄鍋が普及したと思われる。そして、大和製の鉄鍋を材料鉄にして、小鍛冶による鉄器加工再生産が行なわれたと推察できる。>

 次は、竹富島・鍛冶御嶽(カジャオン)遺跡。
 <竹富島西海岸の皆治原(かいじばる)に位置する。嘉靖3年(1524年)、西糖(にしとう)が竹富島の首里大屋子(頭職)に任ぜられ皆治原に蔵元を創設したときに、その隣に鉄製農具生産のための鍛冶屋を建て、そのさい、鍛冶の守護の御嶽として、西糖によって拝み始められたという。一般にウラヌカジャーと呼んでいる。>
 以上は、大濱永亘著「八重山スク時代の鍛冶遺跡と伝承」(『琉球弧の世界』)からの紹介である。

 波照間島の鍛冶屋の願い文は興味深い。
 波照間島の鞴祭
 (波照間島には、ふたつの鍛冶小屋跡が残っている。そのひとつは西の鍛冶屋で、名石、富嘉、前の3集落で保持しており、東の鍛冶屋のほうは、南と北の2集落で保持していた)
 波照間島の東の鍛冶役の「カザクヌニガイブチ(鍛冶屋の願文)」はおおよそ次のようになっていたという。
 大和生まれの古金、刃金、波照間に来たそうだ。大和生まれの真金、刃金、波照間に下った。
 前打ち、鍛冶は、刃物をいろいろとたくさん、作った。それでイシムッスを切った。
 それでイシムッスをたくさん切ったから、鍛冶屋は罪が深い。
 きりしたんむしん(これを3回繰り返す)
 (朝岡康二著「南西日本における鉄器加工技術の伝播・普及に関する民俗学的研究(その2)」『沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要第2号 1898年』)>



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