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沖縄への鉄器の伝来、その13

 農業神はほとんどが鍛冶
 稲村賢敷氏は、農業神として祭られている御嶽などがほとんど鍛冶神であるが、いつの間にか鍛冶神は忘れられている、と指摘している。
 <宮古島においては農業神は殆ど例外なく鍛冶神であって、宮古旧記の記録に依れば…
 伊良部村、長山御嶽の神は、神名を金殿と唱し鍛冶神であり、そして日本人であらせられるが又作物の神として祭り農業神であらせられるのである。この事は他の船立御嶽についても嶺間御嶽についても同様であって、農業神は総て神名と金殿と唱し鍛冶神となっている。これは宮古島における鍛冶の伝来と農業との関係、又は部落の発達、更に農村社会の発達との関係を理解する上に重要なことである。八重山諸島でも農業神として祭られている永良部金神(注・永良比金神=えらびこんじん)や崎原御嶽に祭られている幸地玉金は鍛冶工であり、又ハツンガニタカニドノと称する神名も鍛冶工であって農業神として祭られているものと思う。
 これに依って考えると多良間島に於いてもウエグスク金殿も鍛冶工であって農業神として祭られているものと思う。…
後世になって農業神則ち鍛冶神であるという関係が忘れられ、ウエグスク金殿と運城御嶽との関係も忘れられるようになって、ウエグスク金殿のニイリは農業神に対するニイリとしてシツウプナカの祭に唱えられるけれども、彼が鍛冶神であることは忘れられ、同島で最も崇敬され多大の恩恵を施した神であるにも拘わらず彼を祭る御嶽というものは現在ない訳である。一日も早くウエグスク金殿と運城御嶽との関係が明らかになって、同神の神霊を運城御嶽の正神として、又は脇神としてなり祭るべきであると考える。(稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』)>


 鍛冶伝来で政治社会が変貌
 稲村賢敷氏は、日本および沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったことは、「宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」と強調。この鍛冶神の渡来を宮古島の歴史上とても重要視している。
 鉄製農具の使用がおよぼした宮古島の政治社会の変化について、次のようにのべている。
 <耕地および人口の増加は、従来のように小さい血縁部落内の生活に満足することができなくなって、新開地(原や里)の発達となったのである。…狭小なる地域の祭祀を中心としてできた血縁部落は自然に変貌して、土地の開墾と分配および所有権相続権を中心とする政治社会が発達するようになる。…強力なる武力を有する男子中心の社会ができるようになったものと思われる。…平良地方においては、この新しい政治社会の統率者となった者を天太(てだ)と称した。…祭祀社会における祖神に対する尊称が、そのまま政治社会の統一者に対しても使用された。

 平良地方において天太と称した者には、(1)保里(ぶさと)天太(てだ)、(2)根間角(にーまつね)がーら天太、(3)浦天太、等がある。彼らは何れも要害に拠って城を築き、武力を備えていた。これはその勢力下にある農民を統制すると共に、附近に居る強敵の侵冠を防衛する必要のためであった。…
 宮古における鍛冶の伝来は、これからなお50年乃至100年ばかり遡って13世紀中頃以後のことになり、鎌倉時代の末頃であったと考えて間違いないようである。
 沖縄本島の歴史においては大里按司が山南王を称したのが1315年であり、今帰仁按司が山北王を称したのが1年おくれて1316年であった。これは宮古島に諸按司が割拠して争乱時代を現出したときから、約50年ばかり先行している。>

 宮古島への鉄の伝来
 宮古への鉄伝来の時期を巡っては、諸説がある。
 谷川健一は、13世紀半ば頃とする稲村説は「歴史的根拠が薄弱である」といい、「14世紀頃」としている。
 <「鍛冶の技法と鉄器は日本から南島にもたらされたものであり、それは14世紀の中葉を皮切りに活躍を開始した倭寇が一役買っていたにちがいない」と述べて倭寇とのかかわりを指摘している。(『みやこの歴史』から)>
 『みやこの歴史』は、一連の遺跡の形成された年代や鉄滓、炉床跡、鉄製品等の出土状況などを考えあわせれば、鍛冶の伝来年代を13世紀中頃とする稲村の説は、やはり「歴史的根拠が薄弱」のように思われる。「倭寇の活躍とからめて14世紀中葉頃とする谷川の説がより有力となるように思われる」としている。
     農具
            農具ウズンビーラ。ヘラのこと
 下池和宏氏は大和や久米島から鉄がもたらされたと伝えられる説話にふれて、次のように指摘している。
 <14世紀頃の住屋遺跡から刀子、高腰城遺跡から鉄鏃、箕島遺跡や砂川元島から鉄鍋などが出土している。これらの事例は、少なくとも14世紀頃には鉄製品が宮古に流入していたことを証している。13世紀の遺跡から鉄製品は出土していない。…渡来した人々の時代は、14世紀頃であろうと考えられる。すなわち、説話には14世紀頃の世界が色濃く反映されていると見ることができる。…島々に渡来した人々は、先住の人々と融合して定着し、農耕など宮古の基盤づくりに励んだであろう。(『宮古の自然と文化 第3集―躍動する宮古の島々』の「『宮古人』を考える」)>
 下池馨氏によれば、宮古人は早くから海外交易に乗り出していたという。
 <14世紀初頭、あるいはそれ以前から宮古にも高度の文化は勿論、青磁、鉄器、南蛮がめ等は移入あるいは輸入されていたとみるべきである。(『宮古の民俗文化』)>
 14世紀に入ると宮古島の遺跡は増加する。「昔は西の百郡(むむふん)、東の百郡」といわれるぐらい村々は多く、村には主長が生れ、土地を巡る争いが激しくなった。この時代は「争乱の世」といわれる。争乱の目的は「田畑を奪い取る」ことにあったという。

 「争乱の世」に突如として与那覇原(よなはばら)の軍団が現れた。多かった村々の過半は与那覇原に滅ぼされた。
 <与那覇原軍は…御嶽には「大和神」を祀っていたという。また鍛冶場を持っており、「鍛冶神」も祀っていた。鉄塊から刀などの武器を作り、各村を襲い住民を皆殺しにして進撃を続け、北進して大浦多志(ウプラタシ)城を滅ぼした。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>
 この与那覇原軍を打ち破ったのが目黒盛豊見親(めぐろもりとぅゆみゃ)である。時代は、1370年前後と見られている。目黒盛が争いの中で「宝剣」で矢を打ち払った逸話があり、この時代の争乱に刀剣、弓矢が使われたことは確かである。
 稲村氏の推定は考古学的な知見からは早すぎるとしても、宮古島の農耕社会の発展と「争乱の世」の現出という歴史のなかで、鉄製の農具や武器が使用された現実から見れば、少なくとも14世紀のはじめ頃には、宮古島に鉄と鍛冶が伝来したことがうかがえるのではないだろうか。



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沖縄への鉄器の伝来、その12

 宮古、八重山への鉄器伝来
 宮古島八重山諸島には鉄器と鍛冶技術はどのように伝来したのだろうか。
 鍛冶神を祭る拝所が各地にあり、島民の信仰をあつめてきた。「宮古における鍛冶の伝来、すなわち鉄製農具の使用は、13世紀中頃以後であると考えている。そして鉄製農具の使用は農業の一大革新を促し、鍛冶を伝えた大和人や沖縄本島からの渡来人は島民から神として尊崇され、農業神として御嶽に祭られるようになった」(稲村賢敷著『宮古島庶民史』)。
 稲村氏は、鉄器と鍛冶の伝来について、東シナ海を荒していた倭寇の影響があるのではないか、とも指摘している。
 <私は平良市北部の遺跡調査をした結果、そこに残されている遺物に依って、この地方に居住した人々が当時東支那海の海寇として知られた倭寇の人々であることを明らかにすると共に、彼等はその青磁、南蛮焼等の所謂唐渡り物を日本々土に運んで行って売却し、更にそれに依って鉄又は鉄器類を手に入れて彼等の根拠地に持ち帰るようになり、そのために南島には鍛冶が伝来し農具が普及し農耕地は増加して部落が発達することになったということを平良北部の遺跡調査に依って知ることが出来たのであります。この事は又単に此の地方だけに限らず、南島一般について同様なことが考えられると思ってをります。(稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』)>

 宮古島鍛冶神を祭る御嶽
 次に宮古島の鍛冶の神をまつる御嶽を城間武松著『鉄と琉球』から、抜き書きで紹介する。

 船立御嶽の由来
 むかし久米島の按司の子の兄妹が舟で宮古の漲水に着いた。その後、妹は結婚し男子が成人すると久米島を訪ねた。宮古へ帰る際、祖父は黒鉄と鉄匠秘書を孫たちに与えた。持ち帰った鉄で農具を作り、百姓に分け与えたので、豊作になった。兄弟たちが亡くなった後、村の人々はその恩にむくいる為。船立山にとむらい神嶽として信心した。兄妹は鍛冶の神、農耕の恩人としてあがめられ、兄をカネドノ、妹をシラクニヤスツカサと称して船立御嶽にまつられている。
 毎年旧12月8日には島内の鍛冶屋及大工など鉄器をあつかう業者は盛大なフイゴ祭を行なっている。(宮古史伝) 

 長山御嶽
 <男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。
 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。この項『擁正旧記』から>
     伊良部大橋 
          長山御嶽を見たかったが見れなかった。写真は伊良部大橋
 
 比屋地御嶽
 長山御嶽の北方比屋地嶽の上に比屋地御嶽がある。祭神は男神「あからともがに」と称し、伊良部島民の最も崇敬する所(※)ある「あから」は威霊あるという意で与那覇部落、石城御嶽の神名は「あからせど弓矢取る真玉」と称せられる。「ともがに」は弟の金という意味で兄に対し、又主に対するけんそんした称号である。
 ※平良と伊良部の海中に大鱶が現れ、舟をくつがえし、人を食うので、豊見氏親(とよむうつうや)が島民の難儀を救おうと小刀を手に海に飛び込み、大鱶の腹中に入り、腹を切り破り、退治した。氏親の死骸を島民は比屋地山に葬り御嶽の神と同様にお祭した(『擁正旧記』)。
 第二宮古島旧記(注・『擁正旧記』のことと思われる)によれば昔久米島から兄弟神が渡島したが、弟神は伊良部比屋地にとどまって比屋地御嶽の神になられ、兄神は八重山島に渡り「おもと嶽の神」となったと伝えている。それで比屋地の神は弟神であるから「ともがに」と称するが「かに」の神名は金殿神であるから比屋地の神も長山御嶽の神と同じく鍛冶神であり又農業神である。(稲村賢敷著宮古島庶民史による)

 「ういぐすく金殿」 運城御嶽(多良間島
 <ういぐすく金殿はその神名の示す通り、…鍛冶神であって、鍬、ヒラ、鎌等の農具を製作して農民に分け与えた。その徳を以て農業の神として祭られた方である。
仲筋部落の北にある峯の上に「ういぐすく金殿の屋敷跡」と称する所がある。この南麓に島民の信仰篤い運城(うんぐすく)御嶽があるが此処は「うえぐすく金殿」を祭った所で、「うんぐすく」は「ういぐすく」の転訛であろう(稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』から)

 峯間御嶽
 宮古島友利村にある峯間御嶽の祭神は「あまりほう泊主」と称し、日本人であるという事が宮古旧記に書いてある。又民間口碑によると「大和かんか主」ととなえて祭っている。かんか主は鍛冶の神の事で、彼の大和人は鍛冶の技術に長じ、鍬や、鎌などの農具を作って農民に分け与えたので、一般からその徳をしたわれて鍛冶神として祭られたという。
 この峯間御嶽は倭寇の遺跡で有名な上比屋(ういぴや)森の北方にある鍛冶屋の遺跡である。ここに祭られている鍛冶神の子孫といわれる下地氏が居られる。鍛冶屋の跡も立派にのこされていて昔からつたわる金敷・金はさみ・小鎚などがある。

 以上の鍛冶神を祀る拝所は、いずれも日本人や久米島から伝えられたという伝承ばかりである。
多くの鍛冶伝来の伝説から宮古と久米島との関係について、城間武松氏は「平良市内(現宮古島市)船立御嶽の伝説、及伊良部島比屋地御嶽の伝説などはすべてその祭神が久米島から渡来されたものであり、これらのことからむかしは西南諸島間の交通がかなりひんぱんで、よく発達していたことが想像できる」とのべている。

 鍛冶伝来を伝える神歌
 八重山、宮古島など離島への鍛冶の伝来を伝える神歌がある。
 「ういぐすく金殿がにーり」
 すでに運城御嶽のところ「ういぐすく金殿」を紹介した。この「にーり」は多良間島で「しつぷなか」と称する豊年祭に歌われる神歌である。神歌は41番まである。「ういぐすく」は上城の意味で、運城御嶽の北方、峯の上に旧跡があるから「上城」と称した。金殿(かにどの)の名称は、鍛冶神のことで鉄を打って農具を製作するために金殿と呼ばれる。
1、ういぐすく金殿が 生りや (囃子)タラマシュ、ナウラミー
 (上城の金殿 多良間の主、豊年を恵み給う)
2、まいふがば、しゆうがりば、生りうちゆい、囃子略
 (有り難い主 豊かり生まりであられた)
 こんな歌詞で始まる。その後、朝早く起きて前の畑を走り回り、土地の良いところを選んで耕し、豊かな種子を持って来て種子を蒔き、草を取り、豊かに実った。鎌で刈り取り、持ち運び、積み上げたと展開する。

 <多良間島に伝わっている神歌に「鍛冶神のにーり」というのがある。これによれば、鍛冶神はもと日本の生れであるが、鍛冶を伝え島民を救わんがために、鍛冶道具を船に積み込み日本を出発して沖縄に渡り、此処に暫く滞在して鍛冶を教え、更に船を艤して宮古島に渡り、此処で鍛冶を伝え救民の業を終えると、三度船を艤して多良間島に渡り鍛冶を伝えたという。鍛冶の伝来を語った神歌がある(稲村賢敷氏『宮古島庶民史』)。>
 この神歌は、初めは「ういぐすく金殿」に対する神歌として、運城御嶽の祭日にうたわれたものとみられるが、現在は多良間島の鞴祭の時、昔鍛冶屋の住んでいたという旧跡で歌われるようになっているという(稲村賢敷氏編『宮古島旧記並史歌集解』)
ただ、『宮古島旧記並史歌集解』に掲載されたこの「にーり」は注釈が付されているけれど訳文は掲載されていない。同じ「鍛冶神のにーり」の本文と意訳が掲載されている城間武松氏『鉄と琉球』から歌詞を紹介する。

 「鍛冶神のにいり」(意訳)
1. 鍛冶神さまの 大工神さまの
2. 御生れになった初めは やまと島お生れになった
3. やまと島の真中 日本島の真中
4. 鍛冶の黒鉄の 積み上げられた中に
5. お生れになった
6. 大鞴(ふいご)をお作りになり 大かんか(鉄を鍛える金敷のこと)をお作りになり
7. 大鎚、小鎚(鉄を鍛える)をお作りになり
8. 鉄をはさみ大箸をお作りになり 鍛冶道具をお作りになり
9. 長さ1尺ほどの、幅4寸ほどのをお作りになり
10. やまと島の人々に教え終ると 更に教え広めるために
11. 船装を整え、船を出し 
12. 船の荷物としては
13. 鍛冶道具、大工道具を積みこみ
14. 沖縄島に渡来した
15. 沖縄島の北、南いたるところに鍛冶技術を教えられた。
16. 教え終るとまた広く教えるために
17. 船装を整え船を出して
18. 宮古島平良にお出でになった
19. かくして宮古島北南の各地に広め
20. 教え広めたら 更に教えるために
21. 船装を整え、舟を出して
22. 多良間島 三原島(多良間島の異称)に渡られた
 注・意訳文は稲村賢敷氏の解釈から少し補って改めた。
 この神歌の内容は、とても興味深い。日本生まれの鍛冶神が、鍛冶道具を作って船に積み込み、船を出し沖縄本島に渡来した、本島各地に鍛冶を伝え、さらに宮古島、多良間島に伝えたことを歌っている。鍛冶神はさらに八重山にも渡り、最後は与那国島に渡ったとされる。それは後でのべる。

 「かず(鍛冶)神のにいり(二)」
 稲村賢敷氏編『宮古島旧記並史歌集解』は、多良間島の「かず神のにーり(二)」を掲載している。これは鍛冶神の旧跡に住んでいた子孫と称する人が歌ってくれたという。
やはり訳文は掲載されていないので、城間武松氏『鉄と琉球』から意訳文で紹介する。
1、11月半ば走りくる舟は 何処からの舟か
2、鍛冶神の舟だよ、細工の主の舟だよ
3、鍛冶神の舟であったら、細工の神の舟であったら
4、私のたちの島(多良間島)にお供しよう、私たちの家にお招きしよう
5、鍛冶神の舟だったら、細工主の舟だったら
6、この上にお教えようとのお考えだから、さらに教えようとのお考えだから
7、んがや浜(地名)に舟をつけて、舟元(泊)に舟をつけて
8、大きな金敷をおろし、百種の鍛冶道具をばおろし
10、 そこからお供し、しゆ川があ(塩川部落にある井戸)にお供をし
11、 たらま島に鍛冶を教え、3部落の島(多良間島の異称)に教え
12、 塩川弟部落の上は、神様の教えでりっぱになった?(語義不明とする)
13、 塩川弟部落の上は、槙の木の生えた山の
14、 大きなやらぶの木を切りとり、御酒をいれる器をつくり
15、 ゆいてまく(祭具)に盃をおき、ま初めにさしあげた
16、 甘御酒をさしあげ、お膳に供物をかざり
17、 五声(いつくい)を神の御あたりに、七声(ななくい)をせじ(霊のあたりに
18、 神のあたりの美しさよ、霊のあたりの美しさよ
 注・16,17は神徳を讃える言葉である。
 「鍛冶神のにーり」が、多良間島に鍛冶が伝わるところで終わっていた。この「かず神のにーり(二)」は、鍛冶神の舟を多良間島に招き、島に舟を着けて鍛冶道具を降ろして、島に鍛冶を教えたことに感謝して、お酒や供物を供えて、神徳を讃美するところまで歌っている。

 「かず神のにーり(三)」
 つつしんで、鍛冶の細工の主にもうしあげますよ
1、つつしんで申し上げます。大きなヒラ(注・)を百種(たくさん)作ってくださってあり難うございます
2、つつしんで申し上げます。品々、数々の道具を作って下さってあり難うございます
3、つつしんで申し上げます。多良間三部落を育てて下さってあり難うございます
4、五声を、七声を神さまのあたりにささげて讃美いたします
 この「かず神のにーり(三)」は、さらに鍛冶を伝え教えてくれ、さらに島人のためにたくさんの農具や
 道具を作ってくれ、多良間の部落を育ててくれたことに感謝し、讃美している。

 多良間島のこの3つの神歌を読んでみると、鍛冶が大和から沖縄本島、宮古島、多良間島へと伝えられ、鍛冶神が島民に鍛冶を教え、農具を作り与えたことや、島民がどんな感謝をしているのかがとてもよくわかり、興味深い神歌である。


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沖縄への鉄器の伝来、その11

 鍛冶屋を祀る御嶽
 鉄器が農業や日々の暮らしにとっていかに大切な用具であったのかは、鍛冶屋を神として祀る拝所が各地にあることでもうかがわれる。福地曠昭氏は次のようにのべている。
 <鍛冶屋の神を祀っている拝所が各地にあって、信仰の対象となっている。
 いずれも神名を金殿とか守護神となっており、鍛冶神である。農具を作って農民に与え、農業を普及したのでその徳をたたえ農業神となし、御嶽をたててこれを祀った。

 鉄製農具が大和から渡来し、鍬、ヒラ、鎌を作り、五穀が実り、豊年を祝福したという神徳がうたわれている。村や島々の信仰をあつめ、鍛冶の神を祀る。主な御嶽や鍛冶屋は次の場所である。
 (沖縄本島)
1、 奥間カンジャー    国頭村奥間、お宮カニマン
2、 謝名城、城内鍛冶屋跡 大宜味村謝名城
3、 百按司墓       今帰仁村運天港、墓の入口、鍛冶を祀った祠
4、 稲荷神社       那覇市壷川、拓南製鉄内、鉄の守護神
5、 免の大親      知念村字志喜屋、鉄の始祖
6、 タダナ城      具志頭村、波(玻)名城、別名フイゴ鍛冶伝わる
7、 森山の嶽      佐敷村、鍛冶がはじまる
8、 南山城       下の和解名、南山城の武器農具製作
9、 浦添内間の鍛治跡(農具製作)
10、中城城下の鍛治跡(武器と農具製作)
11、勝連城下の鍛治跡(武器、農具、漁具政策)
12、カンジャーガマ  読谷村長浜、鍛冶屋跡(津波家)
13、カニマン御嶽   読谷村座喜味、洞穴が拝所(屋号カンゼーク)
14、鍛冶屋山     佐敷村上津波原         の丘
15、佐敷城(上城)  佐敷村、鉄製武器、武具出土
(宮古) 16、嶺間御嶽ほか22まである
(八重山)21、崎原御嶽 >
 (この中には、八重山の崎原御嶽も入っている。)
     南山城跡2
             南山城
 中国から鍛冶を学んだ伝承
 鉄器と鍛冶の技術は大和から伝来したという伝承が多い。だが、なかには中国から学んだという伝説もある。
鉄匠の始祖免之大親
 <むかし知念間切(現南城市)下志喜屋村に免之大親(みんのうふや)という人が住んでいた。
この人はひそかに7回も支那(中国)貿易をしたが、兵乱のため7ケ年も支那に滞在している間に鉄匠(鍛冶屋)の技術を学んできたといわれている。
 琉球国由来記には鍛冶屋は天孫子時代(神話的な王統)からあると書かれているがその初めの年代は不明である。
 なお琉球民話集によれば、尚質王時代17世紀に泊村出身の新垣親雲上が王庁の命を受けて薩摩で鉄匠の技術を習い、錫細工は同時代に伊差川筑親雲上が支那で教えを受け、磨物師も同時代に若狭町村外間仁屋が薩摩に3ケ年滞在して帰国し、主取となったといずれも家譜に書かれている、とある。
 免之大親の子孫は現在知念村(現南城市)志喜屋に住んでおり、当代主は親川三郎氏(81歳)で屋号メーヤーという。
 同部落に、鍛冶屋堂(かんじゃあどう)という免之大親の遺跡がありお墓と免之大親碑がある。親川氏のはなしによると、免之大親は年代は明らかではないがおそらく天孫子時代の人であるとおもわれ、いまは祖先といっても神様として祭っているという。親川家は玉城ミントンからわかれた子孫で免之大親は三男であったといわれ、現在の志喜屋部落の創始の一人として代々栄えて来たという。(城間武松著『鉄と琉球』)>

 この中国から学んだ伝承は、琉球と中国との交易が盛んになった時代の14世紀以降と見られる。北谷の鍛冶屋跡は9,10世紀頃なので、大和からの伝来が早かったのではないだろうか。中国から沖縄に伝わったものは多いけれど、古代の琉球弧では大和からの南方交易が早くからあり、702年の遣唐使から本格的に南島ルートで渡航するようになる。大和からの鉄の伝来が早いのは当然だろう。


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沖縄への鉄器の伝来、その10

鉄と鍛冶を王府が管理した

琉球が統一されたあと、鉄と鍛冶は首里王府の管理のもとにあったようだ。

琉球王府には、行政機関として鍛冶奉行がおかれ、そのもとに鍛冶勢頭がいて各間切(今の町村)には鍛冶屋がおかれた。鉄材は王府の管理下にあった。

冊封使、陳侃使録に「炊事具や、農具に鉄材を使用する場合は、官に願い出て配給を受ける。違犯者は有罪」(訳文)(東恩納寛淳氏の「続植杖録」。城間武松著『鉄と琉球』から)とある。

「少ない鉄材を各地に配布する為、王府は行政上の制度として、鍛冶職を各間切に配置して(1668年)農具の製作修理に当たらせたのであろう」(『鉄と琉球』)。

 

 『琉球国由来記』によると、奉行1人、筆者1人、鉄勢頭1人をおいて、鍛冶職を管理したという。以下、城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

 <琉球藩時代の鍛冶奉行所(沖縄県史より)

 旧藩時代の鍛冶奉行所は、泊地頭の所轄になっていて、奉行は従4品の1名でその部下に、筆者7名、各技術担当者が4名、その下役が2名で、合計14名の構成であった。

 鍛冶職(各間切鍛冶職を配置)

 尚質王寛文8年(1668年)各間切に鉄匠を配置して農具を修理、製作などをさせた。球陽に「往昔の時より諸郡邑鉄匠を設くることなし、ただし諸郡邑の人民名毎に税米1升5合を出し、すなわち一半は公庫に収納し、一半は鉄匠に給与して以て農器を修理するの費に供す。この年に至り、其の税米を免除して毎諸郡邑、鉄匠1名を配置して以て農の器具を修造するの用にあてがう、而して其の鉄匠、工銭を得るといえどもなおまた公務を控算す」とある。


           
            鍛冶屋を主人公にした歌舞「金細工」
 

羽地仕置にみえる鍛冶職

 1669年(寛文9年)に羽地朝秀は農村の疲弊を救済する手段の一つとして鍛冶職の制度を改正したのである。…

「諸間切百姓の使用する鍬やへらの研ぎ賃として百姓1人につき米15合宛負担させ、半分は政府に、半分は鍛冶細工に納めていたが、百姓が負担に耐えかねるので、未(ひつじ)の春ごろ(寛文7年、1667年)から右の出米を免除し、諸間切に鍛冶細工1人を置いて夫引合(労賃)を定めておいた」…

 公立鍛冶細工の制度は近世まで継続したが、近世は各村に1人宛置き夫役を免除する外、村全体から年に6升の支給で農具は小修理の程度は無料であったが、地金などを持参する時には頼人から実費を取ることになっていた。>

 

 朝岡康二氏は、羽地仕置について次のようにのべている。

 <すなわち、当初は、年ごとに、百姓一人につき15合あて農具の修理代を取り、鍬へらを供与していたということなのであろう。…すなわち、ここに、領主が農具を独占的に支配し、それを貸し付けることで農民を支配した時代の名残をみることができる。このことは、領主の農民支配にとって、鍛冶屋の存在が必要不可欠の時代があったことを示しているのである。…

以上のことを敷衍していえば、向象賢(注・羽地朝秀)の改制は、単に諸間切に鍛冶をおいたと云うことではなく、新品を作る鍛冶と、専ら修理にあたる鍛冶とを制度的に分離し、後者を在村鍛冶として村役のひとつに固定した点に、すぐれて近世的な性格があったのではないかと考えることができる。(朝岡康二著「南西日本における鉄器加工技術の伝播・普及に関する民俗学的研究(その2)」、『沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要第2号 1898年』))>

 

鍛冶屋は移動する者と村に定住する者があった。

 <鍛冶屋は村から村へ移動して歩くものと、一定の村に安住する者とがあった。

 移動性の鍛冶屋は、村から村へ炉道具、材料などをもって移動し、一定の村に宿をとって注文をうけた。修理はじめ農具、生活用具を製作した。鍛冶屋のない部落に一定期間、出張所を設けるとか逆に、定着の鍛冶屋に寝泊まりで道具の修理にやってきたものである(福地曠昭著『沖縄の鍛冶屋』)。>

 

ついでに、沖縄本島の鍛冶はどのように存在していたのかを見ておきたい。

<戦前の沖縄では、那覇、泊、首里に鍛冶屋が集中していた。そのうち那覇の鍛冶屋は鍬つくる鍬鍛冶、荷馬車の鉄輪をはめる車鍛冶、船釘を鍛える釘鍛冶、砂糖鍋(角鍋)をつくる者、などであったという。

泊には刃物鍛冶が3軒ほどあり、鎌や包丁を作っていたが、彼らは首里から移住してきた者だという。…首里では山川、崎山あたりに刃物鍛冶が集中していたという話を聞く。…

鹿児島においては、前述のごとく、士族の生業のひとつに鍛冶(刃物鍛冶)が選ばれていたが、沖縄においても…刃物鍛冶は士族の職分であったかもしれ(ない)。(朝岡康二著「南西日本における鉄器加工技術の伝播・普及に関する民俗学的研究(その1)」、『沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要第2号 1898年』)>

 


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沖縄への鉄器の伝、その9

沖縄の鍛冶屋の起こり

鉄製農具や武器の使用と普及の背景には、鍛冶加工技術の伝来と発達、鍛冶屋(カンジャー)の広がりが不可欠である。

沖縄の鍛冶屋の起こりと広がりについて、福地曠昭氏は次のようにのべている。

 <考古学に頼る以外ないが、12、3世紀ごろの遺跡から鍛冶屋の技術を示すのが出されている。

 鍛冶屋で製鉄のときできる鉄滓やフイゴの羽口がその存在を示す資料となっている。145世紀になると、そのころ形成されたと思われる遺跡から鉄製の武器が出土している。ほかに農具も出ており、鉄器の製作が普及していたと指摘されている。

 海外との交易が広まり、製鉄技術がすすみ精錬から鉄器の仕上げまででき上がったものとされている。それにともなって鍛冶職が専門化し増加していったであろう。

 尚思紹、尚巴志父子によって14世紀に築かれたウエグスク(上城)からも多くの鉄製の武器、武具が出土している。このことから農業の発達を即す農具や武器をつくる鍛冶技術があったと推察される。>

 

グスクと鍛冶の密接なかかわり

沖縄各地にグスクが築かれた時代、グスクと鍛冶、さらには按司と鍛冶とは密接なかかわりをもっている。

その代表的な事例が、八重瀬町具志頭にある「玻名城(はなぐすく)」である。

<断崖上には日本から来た武士団が城を築いて住むようになって、原住のマキョの居住者はこの断崖の北麓にある低地に移り住むようになった。

この断崖上の城には鍛冶が居て、其のために城の名称も「タダナ城」と称する。タダナは鍛冶の鞴(注・ふいご)の名称であって、鞴のある城という意味である。

この城の頭首(カシラ)達は原住民を北麓の低地に移住させるに当たって、農耕のための用具を与えて耕作させることにした(稲村賢敷著「沖縄の古代部落マキョから農耕村落への発達」、谷川健一編『村落共同体』から)。>

鍛冶が早くから具志頭に伝わり、城内で武器や農具が作られて、それが農民に与えられ、農業の発展に寄与するなど住民に大きな恩恵を与えたことが、この多々名城という城の名称にも表れている。

具志頭だけでなく、各地に勢力をもつ按司の城下には鍛冶遺跡がある。鍛冶は武器の製作だけではなく、農耕に必要なる農具を製作した。

 稲村氏は、各地にある鍛冶遺跡を記し、按司との関係を述べている(年代不明)。以下その要約である。

 1、和解名の鍛冶遺跡

南山城(注・糸満市の島尻大里城)の東北城外、和解名(ワダキナ)は俗説に依れば、源為朝が渡琉して、大里按司の妹と同棲していた旧跡であると伝えている。著者は和解名を数回に亘って調査した結果、同所を中心とした三反歩程の地域に亘り多量の青磁破片と、主として地域の東方から鉄滓の相当量を拾得した。

 是に依って考えると和解名の居住者は支那(中国)大陸に交通往来した者で、そして鍛冶であった事は間違いないと思う。…

和解名の鍛冶は主として南山王のために武器を製作し又附近の居住者のために農具を製作したものであろう。

 2、大里城下にある鍛冶跡

 大里城(注・南城市の島添大里城)外南方にあるカニマン墓と称する岩上墓の南方から少し許りの鉄滓を拾得した。カニマンという名称も鍛冶に対して称せられたようであるが、この鍛冶は大里城主のために武器を製作したものであろうが、あまり数量が多くなかったものと思われる。


3、内間カニマン鍛冶跡

 那覇市北方、浦添村との境にある字内間の北方に鍛冶跡がある。この鍛冶は主として農具の製作に当ったようで、内間、安謝附近の田圃の開拓には功労があったものと考えられる。
 内間カニマン内間グシク、又は掟カニマンと称しているから、彼自ら按司としての勢力を持っていたようであるが、強盛に至らずして浦添の配下になったものであろうと思う、しかし是の付近にあった多和田マキウ、シグルクコダの居住者は、この鍛冶の御蔭で早くから農耕生活にはいったものと思われる、これが恐らく字内間、字銘苅、字安謝の起原であろうと思われる。

 

 4、浦添城下の鍛冶遺跡

 浦添城の南麓、浦添小学校の北方にある大きな鍛冶跡である。鉄滓も相当に拾得される。崖下の洞窟は相当に広く、且つ湧水が流れて拾集には困難である。猶くわしい事はシーマ山の項を参照されたい。シーマ山中腹に居住していたシママキウの居住者は、この鍛冶の御蔭で早く鉄製農具を支給され、シーマ山の南麓に下って農耕生活をするようになった、これが浦添村字仲間の起原である。

 

     023[1] 
                      中城城
 5、中城城下の鍛冶跡

 中城城下の正門の西方に鍛冶跡がある。少し許りの鉄滓を拾得したが直ぐ西方が崖になっているので拾得には困難である。この鍛冶も城主のために武器及び農具を製作したものと思われる。

中城付近にあるキシマキウ、津覇コダ、富里マキウ、糸蒲門中の人々が、此の恩恵をうけて、早くから農耕生活にはいったことが考えられる。キシマキョの項に於いて述べたようにキシマキョの山岳上に生活していた古代人が、東方に向って山を下り、字当間、字奥間の部落を作って農耕生活をした事は口碑として伝えられているし、又津覇コダ、富里マキョ、糸蒲門中の人々が東麓の平地に下って字津覇の部落を作り、農耕民としての生活をしたことも口碑として残っている。

 
6、勝連城下の鍛冶遺跡

 勝連城の東麓にある南に向かった城門附近から、東に約80米程行くと、左手側に広大な鍛冶遺跡がある。南に向い間口焼く約10米、奥行3米位、洞窟の高さ2米程で、鍛冶跡として最も広大なるものである。鉄滓の出土も最も多く、おそらく数十年から百数十年の長期に亘って、武具、農具類の製作に当ったものと思われる。勝連鍛冶の後裔であると称する勝連村字南風原の仲間家には鍛冶の鞴を祭っている。同家の口碑に依れば先祖は勝連城内に居住していたと伝えていて、その居宅から東方に城内を通って鍛冶跡に通ずる通路もあるという話である。

 猶この字南風原の仲間家は、浦添村按司仲間の仲間家(浦添鍛冶の本家)とも関係があり、7年に1回宛は浦添仲間家の祭祀に参加しているという話であった。

 猶、浦添仲間家、勝連字南風原の仲間家、国頭村字奥間のアガリ家、浦添村字内間の鍛冶は皆カニマンと称し、浦添村字仲間家と関係があると称しているが、何れが鍛冶の宗家であるかは明らかではない

 
7、具志頭村ハナ城(グスク)城内の鍛冶

 この具志頭ハナ城城には鍛冶が居たという事が伝えられて居て、其のために城の別称をタダナ城(鞴のある城の意)とも称するという事である。又鍛冶が居たという証拠としては、城の城下町に当るハナ城部落の住民は、城内と交易をして、早くから農耕が発達し富裕で「とよむ玻名城(はなぐすく)」として知られていた事が、オモロ歌謡にも数首謡われている。城下の鍛冶が其の附近の居住者に対して大きな恩恵を与えたことは、ハナ城城(一名タダナ城)に於いて最も明らかである(以下省略)。>

 

<以上7ヶ所の鍛冶遺跡は、何れも城と関係があって、当時勢力のあった按司は遙々日本から鍛冶を招聘して、是を城内に置いて好遇し又黒鉄を買い入れて武器を製作し、傍ら農具を製作して城下の住民に分け与えて農耕を勧め、貢租を納めしめ、富国強兵の策を図ったものと思われる。この経済面、政治面の方策に成功した按司が則ち勝利者であって、堅固な城郭を築造し、多くの兵を養って、附近の弱小勢力を兼併して次第に大をなしたように思われる。>

以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。


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沖縄への鉄器の伝来、その8

鉄についての逸話を持つ琉球の支配者

 察度も尚巴志も日本、中国など海外貿易に力を入れ、鉄塊を買い取り、農具を作り、農民に与えるなど、鉄が支配者の地位に就くうえで重要な役割を果たしたことがうかがわれる。

1415世紀の古琉球の支配者たちがそろって鉄に関係するエピソードをもっていることはとても興味深い。谷川健一氏は、やはり古琉球の支配者について次のようにのべている。

<察度(中山王)は…ヤマトからくる商船は鉄を積んでいる。その鉄と金を交換し、つまり鉄を購入し、それを自分の支配下の人々に与えて、善行を施しながら権力を打ち立てたという話があるわけです。

同様な話は尚巴志にも当てはまる。佐敷の小按司と呼ばれた尚巴志も、若いときに与那原の鍛冶屋に剣をつくらせて、そのすばらしい剣を、与那原にやってきた日本商船の鉄と交換し、農民に与えて農具をつくらせたので、皆が感謝したという話になっています(「『鉄文化の南下』をめぐって」『民俗・地名そして日本』)。>

    佐敷、尚巴志の碑 
             佐敷にある尚巴志の碑
 (注・
尚巴志が農民のために自身の剣と鉄を取り換える逸話からは、彼には早くから先見の明があり、指導者としての素質を有していたことが伝わる。尚巴志が少年の頃、鍛冶屋に命じて3年がかりで作らせた剣があった。ある日、与那原の港に来た大和商人がその剣を求めた。尚巴志は商人と交渉し、船一杯の鉄塊と剣を交換することになり、そうして手に入れた大量の鉄を、彼は百姓に分け与え農具を作らせた。百姓たちは感服し、みな尚巴志を敬うようになったという。(『絵で解る琉球王国歴史と人物』参照)

  当時の最新の農業技術だった二期作を導入し、さらに鉄製農具の使用によって農業集落を増加させ、すなわち国力を増強し、それに支えられて、第一尚氏が生まれたとみることができる。

134世紀には農耕生産の後進地域であった非石灰岩地帯の中城湾岸や南風原・東風平地域は、水稲二期作の導入によって豊かな稲作地帯へと変貌し、そして雨後の筍のように次々と集落が形成されていった。…第一尚氏から第二尚氏時代にいたる15世紀の政治を動かした有力者(尚巴志、阿麻和利、護佐丸、尚円)は、すべてこの中城湾岸地帯を本貫地としているからだ。…当時の政治的展開の背景に、水稲二期作を基礎とした中城湾岸の経済的発展があったことを物語っている安里進著『考古学からみた琉球史』上、下)。>

 

第二尚氏を打ち立てた金丸=尚円王も鍛冶とのかかわりがある。尚円もまた小さいときには「カニマン」つまり「金丸」と呼ばれていたという伝承がある(谷川健一著「『鉄文化の南下』をめぐって」)。>

<金丸(尚円)は、伊平屋諸見(しょみ)の百姓の家に生まれた。村民は彼が水を盗用したと疑い、迫害を加えようとした。妻と弟を携え、難を国頭に避けた。(24歳のときであった) 
  国頭では宜名真(ぎなま)に数年間居住していたが、そこでも彼の意思的な行為(何かを企むような行為のことだろうか?)は住民に受け入れられず、深い憎しみにより殺害される危険さえ生じたので、一時与那覇岳山中に足を留めていた。
 与那覇岳のインツキ屋取に隠れていた金丸は、奥間鍛冶屋(東り、座安家の祖)が猪狩りにかこつけて運ぶ食糧の供給を受けた。金丸は王位についたとき、鍛冶屋の次子を国頭間切の総地頭に任じ、その恩義に報いた。国頭御殿はその後裔で、鍛冶屋の鞴を祀っていた。長男は奥間で家業を継いで鍛冶を行ない、またその家から奥間ノロを出すようになった(『国頭村史』)。>  

 これらのエピソードは、王権を確立するうえで鉄器や鍛冶が欠かせない役割をもっていたことを示している。

「一人の支配者が…自己の権力を誇示し、又農民の心を収纜するための不可欠の物資として、海外と交易し、鉄製品や鉄塊を輸入した。鉄をにぎる者が、その地域における覇者となり、権力をにぎったのである」(城間武松著『鉄と琉球』)

 

沖縄の政治社会の発達と鉄製農具の使用の関係について、宮古島史に詳しい稲村賢敷氏は、次のように特徴づけている。

<察度王(在位13491395年)や尚巴志王(在位14221439年)の頃は沖縄が既に統一国家を形成しつつあった時であるが、その頃まで鉄製農具はまだ広く普及するまでには到らずして、農民のこれに対する欲求は旺盛であり、そして牧港や与那原に寄港する倭船に多量の鉄塊を積載してきた。当時の沖縄の為政者はいろいろと方法を講じて鉄塊を買い取り、これを以て農具を製作して農民に分かち与え衆望を得ることに努めた。そしてそれに成功した者が按司となり、王となって、沖縄の政治社会の統一者となったことを物語るものであって、沖縄の政治社会の発達と鉄製農具の使用ということが密接なる関係にあることを示すものである。稲村賢敷著『宮古島庶民史』>


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沖縄への鉄器の伝来、その7

 奥間を遥拝した国頭御殿

 『沖縄文化の遺宝』からの続きに戻る。
 <同書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)には、またその時代の国頭奥間の系譜を載せている。
 奥間親方 母国頭比地村安佐慶ノ女子ナリ、ソノ長男ハ奥間大親ナリ、在所ハ同奥間村ノ根屋東リト云ウ家ナリ、ソノ長男ハ国頭親方ナリ、(中略)国頭親方ハ唐、大和往復シテ後首里ニ登ル

 この奥間大親察度王の父親とは別人で、首里に登ったというその長男の国頭親方は、年代的に見て『馬姓家譜大宗』一世の国頭親方正胤のように思われる。この人が国頭奥間にある時放浪中の尚円を助け、その関係から尚泰久王の時呼ばれて首里に登り、尚円大位(ママ)に登るや国頭間切惣地頭職に任ぜられた。既に述べたように、国頭奥間は今も往昔の鍛冶道具を祀る鍛冶屋屋敷として知られ、また正胤の子孫は代々国頭御殿家として繁栄し系譜も続いているが、今の当主国頭正敏家でもやはり神檀には鍛冶道具を祀り、祖先の出身地国頭奥間を遥拝している。これから察するに、宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋で、そのために察度王の金銀鉄の冶金伝説が生れたのかも知れない。そしてこの国頭奥間鍛冶屋の技術は、その道具から見て、古い時代に本土から伝わったところのものである。>

 鎌倉氏の著書からの引用は以上である。
   奥間鍛冶屋発祥の地の碑  
   
       奥間鍛冶屋発祥の地の碑
 ここでは、「宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋」である、国頭奥間鍛冶屋の技術は「古い時代に本土から伝わった」とのべていることは注目される。真志喜五郎や金満按司は航海業だったされるので、鍛冶に必要な鞴や資材を仕入れ、その技術を習得する機会もあっただろう。真志喜の奥間で鍛冶屋を営んだとしても不思議ではない。そうすれば、察度の鉄をめぐる伝説、泰期が国頭奥間村で鍛冶屋を始めたこととも結びつく。

 鉄は海外貿易の重要な品目

 鉄を産しない琉球で鉄はとても貴重で「宝物のような鉄の存在」(城間武松著『鉄と琉球』城間氏)であった。農具は木製、石製中心から徐々に鉄器に移り「金石併用の時代」が「かなり長い間続いたと思われる」という。

琉球は各地に有力な按司が割拠し、本島が南山、中山、北山という3つの小国に分かれていた時代から、中国、日本などと盛んに貿易を行なっていた。鉄器は貿易の重要な品目である。

城間武松著『鉄と琉球』から抜き書きで紹介する。

<中山世譜に、「当時、牧那渡に倭人商船、数多参りけるが、過半は皆、鉄をぞ積てける。彼男子(察度のこと)此鉄をば、皆買い取りてけり、其頃は、牧那渡の橋は無くて、上下往来の大道は、金宮(こがねみや)の麓よりぞ有りける」と見え、琉球国由来記、浦添間切、安波茶村の項に、「トモリ嶽、神名大和やしろ船頭がなし」と出ていることから、牧港に日本の商船が、盛んに出入していたことがわかる。


  ヂャナモイ(察度)は、鉄で農具を作って、農民に与えたりして、だんだん人望を得て、ついに、1350年、浦添の“世の主”となるやいなや、まず、経済的基礎を固めて、南北二山に、対峙する国策を打立てた。

察度は、明の洪武5年(1372年)太祖の使揚載(ようさい)が琉球を招諭した時、その詔を受けて弟泰期(たいき)を使いにして始めて進貢し、大統歴を賜った。

 1374年、明は、刑部侍郎、李浩(りこう)等を琉球に派遣し、陶器7万、鉄器千で馬を購入せしめた。さらに1376年には、泰期は李浩に従って、明に行き、馬40匹を進貢した。この事を明史に「略」と記してある。

 この馬40匹を得たりという文句によれば、陶器7万、鉄器千の代償として馬40匹を得たということになる。(東恩納寛惇著黎明期の海外交通史より)


 察度は、牧港において、日本の商船から、鉄塊を買収して、農具を作り、農民に分け与えて、万民を心服せしめたことは、古来鉄鉱を産しない琉球において、指導者が農具の製作にいかに苦心したかがわかるのである。

尚巴志も、察度のこのような、事績にならい外来の商船から、多くの鉄塊を購入して、これを農民に給与して、農具を作らせ、民心をは握することに努力したことは、彼が他日、琉球国王の地位を、かち得る為になさねばならぬ、大事業であったわけである。

彼は、大いに海外貿易を行い、経済的基盤を鞏固にし、文明の利器をどんどん輸入して、三山統一の準備をし、ついに1429年に至り、麻の如く乱れた琉球の天下を統一する大偉業をなしとげたのである。>

 

琉球がとても鉄器を重宝していたことが、中国側の資料にも記されている。

察度が初めて明への入貢後1374年に明の冊封使(さっぽうし)李浩(りこう)が琉球に来た時の報告書に「その国の俗、市易は紈綺(ぐわんき)を貴ばず。但磁器、鉄釜等のものを貴ぶ」という記事が残されている。紈綺とは白い練り絹で、琉球は高貴な衣服は欲しない。ただ陶器や鉄器を必要としているという意味である。

海外貿易においては、青磁と鉄器がとくに重要な意味をもったという。


 稲村賢敷氏は、次のように指摘する。

<青磁と鉄という二つのものは極めて密接な関係を持ってをりまして、日本からは青磁を欲しいために鉄を持ってくるし、又鉄と交換せんがために命懸けの危険を犯してでも支那(中国)から青磁を取ってきたのであります。青磁は明国で禁制品となってをりまして、自由に売買することのできる貿易品ではありません。…当時の琉球の社会のその嗜好品として、こうした青磁のような高級な焼物を求めたという訳ではないのでありまして、日本に持って行ってこれを高価に売りたいというためであります。高価に売るといっても琉球として何物よりも大切である鉄と交換したのであります。

それで青磁は鉄と交換するために是非必要な代償品として求められたのであります。彼等は青磁をとって来て、是を鉄と交換し、これで刀剣を打ち出して武強を誇ることも出来るし、又農具を造って農民に与えたのであります。又一般島民は鍬、ヘラ、鎌等の農具を与えてくれる按司の城下に集まって部落をつくり、その土地を耕し貢租を納めてこれに仕えたのであります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>



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沖縄への鉄器の伝来、その6

 大和のかかわりがうかがわれる真志喜奥間
 ここで、改めて鉄と鍛冶に深いかかわりがある奥間大親とその子ども、察度や泰期について、別の資料から見ておきたい。
国頭奥間村生まれの奥間大親が、養子に入った宜野湾謝名村(現在・宜野湾市真志喜)の奥間家も大和とのかかわりがうかがわれる。
 鎌倉芳太郎著『沖縄文化の遺宝』のなかの論考「沖縄各地の遺宝と遺跡と神事」に「5真志喜奥間神座」の項がある。そこから、抜き書きで紹介する。
 <真志喜奥間家には、『元祖之由来記』(宜野湾真志喜村奥間門中)と表書きした古写本を伝えている。「元祖之伝説」として、この家の太古の祖神真志喜大神、中世の祖神真志喜五郎、次に奥間大親を元祖とする察度王の弟妹一族のことを記し、更に拝所として真志喜大神、真志喜五郎、奥間大親の死骨を祀ってある墓所の位置を記してある。…
          
 この森川は天女伝説で知られる奥間樋川の清泉である。本来奥間と呼ばれる家は、この水源地を司祭して稲作農業に支配権をもつ根所(根人の家)で、その祖神について同書に「夫レ我ガ立初一世ノ祖、玉城仲村渠三重殿(みいとぅん)ト云フ家ノ御元祖ノ内、天孫氏ノ又孫真志喜大神ナリ、真志喜大神ハ御在生の時、稲苗種子蒔植付教ヘノタメ、島々村々巡行シテ後、宜野湾真志喜村ニ住ミテ子孫繁昌シテ世ヲ終ルト云フ」とあり、また奥間樋川のある御嶽内には、岩の下穴に真志喜大神の死骨を収めてあることを記している。…
     森の川
       天女伝説のある森の川
  次の祖神真志喜五郎の父は鎮西八郎為朝で、母は真志喜の奴留(ぬる)と記されているが、この奴留は、奥間の根人野峰按司の女子である。この按司の長男野峰大屋子には男子なく女子二人あり、その一人に通婚して真志喜五郎はこの家の世子となった。…
 真志喜五郎ハ海中ノ業ヲ能クシ、好ミテ島々ヲ巡行シテ後、帰郷シテ世ヲ終ル、此ノ五郎ハ外ニハ男子5名在リシト伝ヘアレドモ、内ニハ女子ノミ出生シテ世子ナシ、故ニ女子ノ家ニ祭リデ在リシガ、後来ニ至リテ奥間大親ガ入リ来リテ之ヲ祭ルト云フ…
と記されている。五郎の父が為朝かどうか、為朝も牧港で数月を閲したと伝えられているが、しかしこれは本土から渡航して行った大和人と見るべく、ともかくその子の五郎が航海業に従事し、島々を巡航して各地の名家に奴留や女子に子を生ましている。因に五郎の死骨を祀った御嶽の墓所を「大和墓」と呼んでいる。当村牧港は浦添城北面の良港であり、奥間根所はこの港に近接する名門家である。五郎はこの家の世子となり此所を本拠として、航海業による物資の輸送及び交易に従事していたように思われる。>
 
 『琉球祖先宝鑑』でも、眞志喜五郎は「母は宜野湾眞志喜村の奴留也。在所は同村の奥間と云ふ家なり。五郎は内には世子なく外子が五名あり」とされている。
 ここでは、真志喜奥間家の家系が記されているが、祖父・並里按司、父・辺士名里主を祖先とする奥間大親とはまったく異なる系譜である。
 真志喜の奥間根所は名門家だった。ただ、真志喜五郎も男の子がいない奥間家に世子として入った。その五郎は、家の外には男子を生ませていたが、家の内には男子がいなかった。
 奥間大親も、男子のいないこの家に入ったという。
 『琉球家紋系図宝鑑』では、「真志喜五郎に跡目がなかったので養子に入って継いだのが奥間家である」としている。
 奥間大親が、国頭奥間村の生まれで、養子に入ったのが宜野湾謝名村の奥間家だという名称の一致は偶然なのだろうか。それともなんらかの関連があるのだろうか。
 なにより、祖神真志喜五郎の鎮西八郎為朝の子であるとし、大和人の系譜があり、しかも航海業を営んでいたということは注目される。

 妻方に子を残して帰郷した金満按司  
 次に、奥間大親とその子どもについて、『沖縄文化の遺宝』は次のようにのべている。
 <『球陽』(巻之一)察度王紀には、奥間大親は何人の後裔か分からないと記してあるが、この書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)では、奥間大親は辺土名里主の次男として国頭奥間村で出生し、元の延祐年間(1314-1320)、父の行く所を尋ねて中城奥間村に行き一時住し、遂に父の在村の所佐敷新里村に至り、父兄に対面し、久しからずして宜野湾謝名村に到り農事を勤めて働く中に、森川に水浴に来た天女と通婚して一男一女を出生、その一男が察度である。その後、天女飛去の後、又吉親雲上の女子を娶り、三男一女が生れたが、後に真志喜五郎家すなわち奥間根所の家を祭祀して世を終った。因み察度の弟に当る次男金満按司について、同書に左の記載がある。
 金満按司ハ唐大和往復シテ金銀多ク求メ得テ、父ノ産地国頭奥間村ニ至リテ金(鉄)ノ製造焼キ始メテ居ルニ、一男一女出生ス、遂ニハ兄察度ハ中山王位ニ登リ、因テ父ノ相続ノ為メニ、子供ハ妻方ニ養育セシメ、自分ハ生産地宜野湾真志喜ニ帰郷シテ、子孫繁昌シテ世ヲ終ルト云ウ
       泰期(3) 
                  読谷村残波岬にある泰期像
 これで見ると、金満按司は察度王の弟として、唐大和を往復する航海業者として、物資の交易の利益により金銀の財貨を蓄積し、父親の出身地国頭奥間村に帰り、鉄器を製造していたが、此所で一男一女を出生した。やがて兄察度が王位に登ったので、父の跡目を相続するため宜野湾真志喜村に帰郷した。通婚の女性も多く11男2女が生れ、王族として繁栄している。>
 
 「唐大和を往復する航海業者」だったという金満按司(泰期)。父の奥間大親が養子に入った宜野湾の奥間家は「真志喜五郎ハ海中ノ業ヲ能クシ、好ミテ島々ヲ巡行シテ後、帰郷シテ世ヲ終ル」とされている。海外への航海をするには、唐・大和への船と航海術、交易についての知見など必要であり、簡単ではないはずだ。泰期はこの五郎の航海の業を受け継いだのだろうか。
 といっても、泰期については、さまざまな伝承がある。
 泰期は、読谷の宇座の出身だともいわれる。琉球の古謡集『おもろさうし』には「宇座(読谷)の泰期思いや唐商い流行らちへ按司に思われ」と歌われている。

 宇座の近くには、長浜港があり「この長浜港を使って、泰期は交易をおこなっていた」「『按司に思われ』というのは、その交易の才覚を認められて、察度に召し出されたことを言っているのかもしれません」「察度はこの泰期を『王弟』として、明国への進貢を始めたのでした」(与並岳生著『新琉球王統史 察度王 南山と北山』)
 このように海外貿易に長けていた泰期を弟として派遣したという説がある。
 いま読谷では、泰期は「商売の神様」として有名であり、「泰期まつり」の開催や現代版組踊「読谷山花織の宴」にも登場するほどである。


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