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レキオ島唄アッチャー

沖縄への鉄器の伝来、その5

察度は「鍛冶王」だったのか

察度鍛冶王だった」という指摘がある。福田晃著『沖縄の伝承遺産を拓く 口承神話の展開』は、察度が牧港で日本の商船が運んできた鉄塊を買収し、農具を作って耕作者に与えたという『中山世譜』の叙述について次のように述べている。
 <察度は炭焼のわざ・鍛冶のわざに長け、さらに鉄材購入の交易のわざを擁して、ついに王権を得たという。一種の「鍛冶王」と称すべき人物と言える。そしてその出自は不明で、その父の奥間大親も、何人の末えいかも知れないという。しかし、その奥間は、国頭村の奥間カンジャヤー(鍛冶屋)につながる者に違いない。ちなみに察度の弟の金満は、後に奥間に下り、奥間のカンジャヤーの祖となったとするが、それは一種のお里帰りではなかったのか。たとえば佐喜間興英氏の『南島説話』の{察度王の話}では、察度は「奥間鍛冶屋を招じ、鍬鉾等の農具を作らせた」と叙している。つまり国頭の奥間は、沖縄本島における鍛冶のわざの発祥の地と目されていたにちがいない>

福田氏は、察度は「鍛冶王」であり、弟の金満が奥間に下りカンジャヤーとなったのも、察度・金満より前に、すでに奥間で鍛冶屋を営んでいたと見て、金満は「一種のお里帰り」として、国頭の奥間は「沖縄本島における鍛冶のわざの発祥の地」と目されていたと指摘している。
     森の川の天女の碑
 歴史家の伊敷賢氏も、「察度王統一族は鍛冶職の技術集団だった」と唱えている。
 <奥間大親の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある。(『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)>

 伊敷氏は、奥間大親の父を奥間カンジャーとし、すでに鍛冶屋を営んだとし、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に来たとする。やはり泰期や奥間大親よりも前に、この家系が鍛冶に関わりがあったとの指摘は注目される。



 歴史家の亀島靖氏は、鉄伝来のルーツについて次のような見解をのべている。

もともと日本の鉄の加工技術(タタラ、フイゴ)のルーツは朝鮮半島からの渡来人で奈良の東大寺の大仏を建造する時に使われ、その本拠地は九州だったとする。
 <この鉄を加工する集団は、博多の商人達に頼まれて琉球にやって来た。鉄の加工技術者の集団は、琉球における北の入り口であった伊是名、伊平屋にまずやってきた。そして伊是名から本島へ最も近い(最短距離20㎞)運天港に着いた。そのため、今帰仁は沖縄で最初に北の文化が到来して栄えた。…
 現在の比地川の河口近くの奥間に上陸し移り住んだ。これが奥間カンジャ屋の始まりである。また、今帰仁の城主から呼ばれて今帰仁城の近くに、直営の鉄の工場を作った。これが現在「カジヤバル」と言う地名として残っている。その鉄の加工集団は次第に本島を南に下り中城の奥間に住んだ。中城の奥間は国頭の奥間から来た人たちであった。奥間から移住してきた人の末裔が察度の父親(奥間大親)になる。つまり、察度一族は大和から来た鉄を加工する集団の流れを引いているか、これに近い人達と言うことになる(『琉球歴史の謎とロマン~琉球王朝時代の小禄の歴史~』亀島靖講演録から)>

亀島氏は、大和から来た鉄の加工集団が、奥間に上陸し、鍛冶屋が始まり、察度の父、奥間大親もその末裔としている。重ねて次のようにのべている。

<沖縄の鍛冶屋は国頭村の「奥間」がスタートであり、奥間に上陸した鉄を加工する本土系の人であった。当時、鉄を握るものは琉球を支配するものにつながっていった(同書)>


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沖縄への鉄器の伝来、その4

城久遺跡喜界島)から伝わったのか

 どこから琉球に鉄器が伝来したのか。その有力な地域として、喜界島の台地上にある城久遺跡群がある。
  城久遺跡群の面積はおよそ13万平方メートルであり、9~13世紀頃の遺跡としては琉球弧における屈指の規模とされる。国家的な行政機関(官衙、カンガ)があり、南方物産の交易拠点として形成されていたという。
 城久遺跡では、鍛治炉が多数発見されており、鉄器が生産され、それが沖縄にも運ばれたとみられる。
      
城久遺跡群          
            喜界島城久遺跡群   
           
 谷川健一氏は、次のように述べている。
 <「毎日新聞」2007年12月28日夕刊は「喜界島にある11世紀後半~12世紀ごろの大規模集落跡「城久遺跡群大ウフ遺跡」で鉄器をつくる鍛治炉の跡が20基以上、発見された」と報じている。「各鍛治炉跡は直系15~20センチで、いずれもすり鉢状の穴の形をしていた。周辺からは大量の鉄滓(鉄くず)も確認され、砂鉄や鉄製品を溶かしては、新たに鉄器を生産していたらしい。炉に空気を送るための土製のふいごもあった」と述べている。
 琉球社会の農業が飛躍的に発展したのも、また豪族たちが武器として購入し領地の拡大につとめたのも13,14世紀頃のことであり、それには鉄器が決定的な役割を果した。その鉄器を生産する炉のあとが、喜界島で発見されたことはきわめて重要である。城久遺跡で製作された鉄器は沖縄本島にまで運ばれたにちがいない。…(谷川健一編『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』)>
 ここでは、喜界島の城久遺跡に注目した。ただ、八重山・宮古島の伝承によれば、大和人や沖縄本島からの渡来人が鍛冶を伝えて、島民から神として尊崇されたとか、八重山から鹿児島に出向いて鍛冶を持ち帰ったなどの由来話がある。それに倭寇の役割があったのではないかという指摘もある。鉄と鍛冶の来歴については、時代や地域によっていくつものルートがあったのではないかと思われる。八重山・宮古島への鍛冶の伝来については、あとから詳しくふれたい。


 琉球王国の形成に影響か
 鉄器の流入は、琉球諸島でも社会の一大変革をもたらした。
 <本土では稲作と鉄器の流入によって縄文から弥生に時代が大きく転換したように、鉄器は人々の暮らしを一変させる。村上教授(愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授)は「王国が成立する以前の沖縄でも鉄と米は重要な必要物資だったろう」と指摘。「本土では考えられないほど鍛冶炉が多く、製鉄まで行う集中生産をしており、喜界島にとって鉄は沖縄に対する重要な戦略物資になっていたのではないか」と推測する。鉄器を安定的に手に入れる手段を確保した勢力が琉球王国の成立に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
 国学院大学の鈴木靖民名誉教授(古代史)は「喜界島は人の移動を含め交易など物流の拠点となっていたと推測される。南西諸島をめぐる古代から中世の歴史的展開の中で重要な役割を果たしていたことは間違いないだろう」と見ている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃」本田寛成)>

 鉄器は、鉄製農具の使用が琉球の農業生産の一大変革をもたらし、有力豪族が争ったグスク時代に武器としても重用されたように、琉球の社会に大きなインパクトを与えた。中山王となった察度や琉球を統一した尚巴志が王になる前に、大和から手に入れた鉄器を農民に分け与え、信望を集めた伝承があることにも示されている。
 


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沖縄への鉄器の伝来、その3

 鉄器はいつ琉球に伝来したのか
 この際、鉄器と鍛冶は琉球にいつ伝来されたのか、それが琉球弧の島々と社会にどのようなインパクトと変革をもたらしたのか、沖縄と鉄器についての識者の研究、見解ををもとに考えてみたい。
 
 その前に、日本への鉄の伝来はいつごろなのか。 
 鉄器は紀元前3世紀頃 青銅とほぼ同時期に日本へ伝来した。当初は製鉄技術はなく輸入されていた。青銅は紀元前1世紀頃から日本で作られるようになり、製鉄は弥生時代後期後半(1 - 3世紀)頃から北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)や備後の小丸遺跡(三原市)で開始され、それから時代が下り出雲地方や吉備でも製鉄が行われるようになった。総社市の千引かなくろ谷遺跡は6世紀後半の製鉄炉跡4基、製鉄窯跡3基が見つかっている。鞴(ふいご)を使い、原料は鉄鉱石である。製鉄炉の作り方は、これまで朝鮮半島からの導入と推定されていた[16]が、近年の研究により、中国北東部から伝わったとされている(ウィキペディア「鉄」から)。
      
 古代の民俗のなかで、鉄など金属類の登場はとても重要な意味を持つ。民俗を研究してきた谷川健一氏は、次のようにのべている。
 <日本民俗学は稲作文化を中心とした学問である。その民俗学が古代史と結びつくときに、何もかもが稲作文化の側面からながめようとする偏った視角の弱点が暴露されてくる。ふりかえってみれば、弥生時代とそれに先行する時代とを区別する二つの大きな指標は、稲作の開始と金属器の登場であった。この二つは密接な見解をもっている。鉄製の農具が日本の稲作を飛躍させたというだけではない。銅や鉄の武器が相手を殺傷する鋭利な道具であることから、国家の原始的な萌芽が形成された。原始国家は稲作による富の増大を背景に勢力を伸ばすという、稲作と金属器の相関関係が看取される。さらには銅鐸にせよ銅鏡にせよ、呪器(じゆき)として珍重され、鉄刀もまた邪気払いとして日本人の進貢の儀礼に欠かせないものであった。…いずれにしても、日本民俗学の稲作文化偏重が金属器の主題をおろそかにしたのは、否定できないと思う(「青銅の神の足跡」、『谷川健一全集9民俗』)。>
 これは、古琉球の時代を見る上でも、当てはまることだろう。
        
 琉球に鉄はどこから伝わったのか
 琉球に鉄器がいつ、どのように伝わったのだろうか。
 「12,3世紀ごろの遺跡から鍛冶屋の技術を示すのが出されている」(福地曠昭著『沖縄の鍛冶屋』)。
 沖縄で鍛冶屋の跡らしきものが見つかったのは、今から約900~800年前(12、13世紀)の北谷の後兼久原(ぐしかねくばる)遺跡。人骨がみつかった。右腕が異常に太い。鍛冶屋とみられる。砂鉄をためた穴、鉄を叩いた時にできたカケラなど見つかった。
「アマミキヨは九州海岸から12,3世紀ごろ鉄器を携えて沖縄にやってきたのではないかと思うのです。それが鉄器の最初の輸入の時期に当ります(谷川健一著「『鉄文化の南下』をめぐって」『民俗・地名そして日本』)。
 「部落時代の末(11世紀の末)頃に鉄器が入って来たが当時は、按司時代への胎動で、各地に兵乱が絶えなかったので、したがって武器が多く入り、その次に建設用具(大工道具)、農具鉄塊という順で入って来たと思われる」(城間武松著『鉄と琉球』)。 
琉球には大和のような青銅器の時代はなく、木製、石製の道具の世界に一気に鉄の武器、用具が伝わった。日本への鉄器の伝来から数百年ほど後になる。
 琉球で各地に按司と呼ばれる豪族が地域の支配者となりグスク(城)が築かれ、グスク時代と呼ばれたのが12世紀ごろだった。鉄の伝来はそんな時代背景のなかで伝来したようだ。

 近年の研究では、鉄器はもっと早い時代に琉球に伝わったともいわれる。當眞嗣一氏は、グスク時代の社会的特質の一つに鉄器の普及をあげて、次のようにのべている。
 <第二には鉄器生産が波及していったことである。金工技能集団が存在していたとする研究もある。ひところ、沖縄の歴史の後進性が説かれ、その原因をもっぱら鉄器使用の遅れに求めていたことがあった。しかし、近年の研究では、わが南島における鉄器の伝来は貝塚時代の後期の古い段階まで遡ることが明らかになった。グスク時代になると農具をはじめとして武器や武具の類、斧・ヤリガンナ・錐等の石工・木工用具の類、釣針やモリ・ヤス等の漁具の類、あるいは建物の釘や金具類、はたまた化粧道具の一つである毛抜き等々、一度使えば消耗・消失してしまう消耗品にいたるまで鉄器化が進んでいたことが明らかになった。
 京都国立博物館の久保智康主任研究員の研究では、グスク時代に金工技能集団の存在を確認し、「古琉球の早い時代に、日本からの製品・技術をひな型として、高度な工芸品政策が行われたことはほぼ間違いない」ということである。(當眞嗣一著『琉球グスク研究』)>
 「グスク時代に金工技能集団」が存在したというから、鉄器が広範囲に普及したことがうかがわれる。


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沖縄への鉄器の伝来、その2

 崎原御嶽の伝説は史実なのか
 この伝説には、子孫である生盛さんは、疑問を投げかけている。
 <八重山の人物が坊津で鍛冶の修業をして帰ってきた話や、崎原御獄の伝承で坊津から鞴が八重山に初めてもたらされ、ナリヤ鍛冶工が譲り受けて鍛冶屋を始めたとされています。私の疑問は「宗友盛屋(すどぅむりや)」の屋号からして、沖縄本島から渡ってきた鍛冶屋だと考えています。根拠は、沖縄の友利御獄、宮古島の友利御獄、竹富島の友利大アルジ、鳩間島の友利御獄は鍛冶屋と関係があるとされ、「宗友盛屋(すどぅむりや)」は本家を意味することから、「友盛(トモリ)」が語源であり、鍛冶屋は(トモリ)の集団が交易と鍛冶屋を担っていたと推測できるからです。八重山で鉄材の調達ができなければ、鞴があっても鍛冶屋は成り立ちません。>
 <鍛冶屋の伝搬には大きな組織が介在した歴史があり、大和朝廷や琉球誕生の例を挙げたが、特に小さな島々からなる八重山なら、製鉄された鉄の流通には王府の力が必要だったことは間違いない。>
           崎原嶽2

 生盛さんのブログ「武那里の刀」では、「鍛冶屋と八重山」の項で次のように指摘している。
<「崎原御獄」は石垣島の東海岸(太平洋側)大浜村にあって、崎原公園北端の海沿いに位置する由緒ある御獄である。御獄の境内からは土器や少量の中国製舶載陶磁器・青磁・染付・南蛮陶器などに混じって、鉄滓が出土するとの報告を数々の書物で見かける。
 鹿児島の坊津や秋目からは遠過ぎて、鍛冶屋をする目的で往復できる距離ではないが、奄美大島に渡った鍛冶屋が北から順を追って徐々に徐々に南下し、八重山に到達したのなら他の島の伝承にも似た話がある。例えば、竹富島の島建て口碑伝承によると、屋久島から根原金殿が竹富島に渡って、玻座間村を建てたとなっている。偶然たどり着いたのかは語っていないが、語る必要がないほど当たり前のことは省かれ、時代の経過は不必要なことを付け加える傾向もあるようだ。>
 また、『大浜民俗誌』の「大浜の力の強い成屋(ナリヤ)かじくと云う人(生盛屋=スドムリヤ)に鍛冶屋をする様一任しした」という伝承についても、「鍛冶屋の経験のない人物が鞴を渡されても、火の扱いを知らずして鉄を鍛錬し加工することは不可能である。そもそも、鉄がなければ鍛冶屋は成り立たず、鍛冶屋をするには鉄が必要で、八重山まで届けてくれる流通が不可欠となる」と述べている。
 生盛さんが指摘する通り、鉄器を造る鍛冶の伝来は、石垣島から直接、鹿児島まで船で出かけて伝授され、八重山に鍛冶が伝来したというのは、少し無理がありそうだ。それに、鉄器は八重山より先に沖縄本島に伝わっていたはずだから、遠すぎる鹿児島に行く前に本島に行こうと考えるのが自然だろう。あとから詳しく見るけれど、鍛冶は大和から沖縄本島に伝わり、さらに八重山に伝わったと考える方が常識的ではないだろうか。



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沖縄への鉄器の伝来、その1

沖縄への鉄器の伝来

 

奥間鍛冶屋について書いた私のブログ「レキオ島唄アッチャー」(ココログ)に、八重山の「ナリヤ鍛冶屋」の子孫という生盛功様からコメントをいただいたことがある。奥間鍛冶屋に掲げられた昔の鍛冶屋の風景の絵画に描かれた家紋が、祖父の紋付に描かれた家紋に類似しているとのことでお尋ねがあった。家紋については、その後さまざまなやりとりがあり、双方で調べた限りでは、まだ判然としない。未解決である。

といっても、生盛さんから寄せられた八重山の鍛冶屋のルーツをめぐる情報と見解はとても興味深いものだった。この問題で関心のある方は、生盛さんのブログ「武那里の刀」(http://nariya.cocolog-nifty.com/bunari/)を見ていただきたい。

 

八重山の鍛冶伝来の伝承

生盛さんの最初のコメントで、次のようにのべている。

<八重山のナリヤ鍛冶の子孫です。屋号は「宗友盛屋(すどぅむりや)」で、戦前まで崎原御獄の地(大浜)で鍛冶屋を営んでいました。オヤケアカハチや長田大主の刀を造ったとされ、八重山の刀鍛冶の始まりだとの伝承が残されています。>

ここで名前のあがった石垣島大浜の崎原御嶽(オン)というのは、2011年に石垣島に行った際、見学してわがブログにもアップしてあった。この地が八重山の鉄器伝来の伝承をもつ御嶽だった。

       崎原嶽
 改めて崎原御嶽の伝説を『大浜村民俗誌』(大浜老人クラブ長寿会編)から、要約して紹介する。

 崎原御嶽の神名は崎原神根付、御イベ名はフシカウカリと申す。

 <大浜村の農家に兄ヒルマクイ、弟幸地玉金(コウチタマガニ)と云う二人の兄弟がおった。二人共農業にはげんでいたが、鉄製の農具がないため農業が思わしくないので、鉄製の農具がほしかった。ある日、兄が、おれは東方の国(大和の国)に鉄製の農具があることを聞いたことがある。あちらにいって鉄製の農具を求めてこようではないか、と弟をさそったら弟も喜んで賛成した。二人は協力して船を造った。いよいよ出来あがったので兄は船頭舵取りになって、水夫十数人を加えて出帆した兄弟の船は、無事に薩州坊津の下町に着いたのである。二人は大喜びで、早速鉄製農具(鋤・鍬・鎌)を買い求めた。ある日、白髪の老人があらわれて、お前の島には神格の高い神があるか、若し無ければおれが霊神を授けさせようといったので二人は感激してこれを願った。

 老人はヒツを与え、ヒツの鳴る方向へ船を走らせば島に着くといったが、うっかりあけてはならないといったヒツを開け、船は坊津に戻った。老人に詫びて再び船に乗り、大浜村に着いた。

老人の言いつけ通りに伯母姉妹につげてヒツを開けると、神が叔母にのりうつって「私は済世の神である」との託宣があった。兄弟は、うやうやしくこれをあがめて杜を建て崇拝したのである。>

これが崎原御嶽である。


 11
月の行事の項には、鍛冶屋の始まりの伝承が書かれている。 

<旧暦117日 鍛冶屋願(鞴の祝とも云う)

崎原御嶽をお建てになった、ヒルマクイ・幸地玉金(コウチタマガニ)が始めて金属をお伝えになった。然るに其の頃、鍛冶屋がいないため大浜の力の強い成屋(ナリヤ)かじくと云う人(生盛屋=スドムリヤ)に鍛冶屋をする様一任したので彼は是まで石と木で造った鋤・鍬・鎌、全部を金で造り、村のためにつくした其の有難さを鞴(注・空白になっているが、「火をおこす為、手または足を動かして風を送る機具」との説明があるので、「鞴」の字を補った)に感謝する祝と伝えられている。

 生盛屋には最近迄子孫代々旧117日は鞴の祝を行なっておられたと伝えられている。> 


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「スーリ東節」と「胡蝶の唄」は類似曲、その2

 次に「スーリ東節」を見てみたい。
 1、スーリー東(あがり)うち向(ん)かてぃ飛ぶる綾蝶(あやはべる)
 すーりさーさー しゅらさ はいや(以後、囃子は省略)
 (東に向かって飛ぶ美しい蝶よ)
2、スーリー先(ま)じゆ待てぃ蝶 伝(いや)い伝い我ね頼ま
 (しばらく待て蝶よ 伝言を頼みたい)
3、スーリ東 明がりば 墨習(しみなれ)が行ちゅん
 (東が明るくなったので 勉強しに学校へ行こう)
4、スーリ東 頭結(かしらゆ)うてぃ給れ 我親加那志(わうやがなし)
 (髪を結ってください 私の両親様)
5、スーリ東 立雲や世果報(ゆがふ)しにゆくゆい
 (東に立つ雲は 豊年を準備しており)
6、スーリ東 遊びしにゆくゆる 二十歳美童(はたちみやらび)
 (遊びを準備している 二十歳の娘さん)
7、スーリ 何がし綾蝶 紅葉に宿る
 (どうして美しい蝶は 紅葉した葉に止まるのか)
8、スーリ東 頼む花ぬ上や 嵐やたみ
 (頼りにする花の上は 嵐であったのか?)
9、スーリ 無蔵(んぞ)や牡丹花 我身や綾蝶
 (彼女は牡丹花 私は美しい蝶だよ)
10、スーリ 花ぬゆらりゆみ 我が忍で行ちゅさ
 (花が寄ることはできまい 私が忍んで行くよ)
11、スーリ 花に来て止まる 春ぬ綾蝶
 (花に来て止まる 春の美しい蝶よ)
12、スーリ 我肝(わちむ)うみとぅまり 無蔵が心
 (私の心留めておけ 彼女の心)
注・歌詞と訳文は「たるーの島唄まじめ研究」を参考にした。
     
 この曲と「胡蝶の唄」を比較してみると、女性は花、男性は蝶に例えているのは同じ。さらに、「花が寄ることはできない あなたが忍んで来てください」という例えも共通している。いずれも、元々の琉歌があり、それを歌詞に使ったのではないだろうか。
 
 「蝶小節
 「スーリ東節」と類似する曲に、琉球古典音楽の「蝶小節」(はべるぐあーぶし)  がある。次のような歌詞である。
 あがりうちむかて とびゅる綾蝶(あやはべる) 先づよ待て蝶 いやりわないたのま
 (東の方へ向かって飛び立って行く美しい蝶よ。ちょっと待ってくれ。ことづてをあなたに頼みたいから)
 注・勝連繁雄著『歌三線の世界』から(野村流工工四)。 
 
 「安冨祖流工工四」では、上記の歌に加えて次の歌もあるという。
 (すり)東り立雲や世果報しにゆくゆい(すり)遊しにゆくゆる二十才美童達
 (東の立ち雲は豊年満作を準備しており 遊びを準備する二十歳娘)
 注・「たるーの島唄まじめ研究」から。
     
 この二つの琉歌を見ると、「スーリ東節」の歌詞と内容が共通している。
 王府時代の曲として、「蝶」の名がつく曲はいくつもあるという。現存する最古の工工四(楽譜)とされる『屋比久工工四』には、「小蝶節」「蝶節」「矢蝶節」などがある。しかもややこしいことに、王府時代と現在では曲名の混乱があるという。
 <現在の工工四で「綾蝶節」とあるのは『屋比久工工四』の「小蝶節」(こはべるぶし)に当たり、「蝶小節」(はべるぐゎぶし)とあるのは「綾蝶節」に当たっていて、節名の混乱が起こっているのである(勝連繁雄著『歌三線の世界』)>
 <野村流古典音楽保存会工工四下巻本にある「一揚調の蝶小節」にあたるのは、『屋比久工工四』で「綾蝶節」とあるものであろう。…
 『屋比久工工四』の「綾蝶節」は、現在一般に「スーリ東節」と称している曲にあたるものだとおもうが、…野村安趙の『御拝領工工四』には、「綾蝶節」とともにすでに「蝶小節」の節名が見える。>

 つまり、古典音楽で現在「蝶小節」と呼んでいる曲は、『屋比久工工四』で「綾蝶節」とされている曲であり、それはエイサー曲として知られる「スーリ東(あがり)節」にあたるものだという。

 勝連氏は、「綾蝶節」(あやはべるぶし)を別に紹介したうえで、次のように指摘している。
 <『屋比久工工四』の「綾蝶節」と現在の「綾蝶節」とは旋律が全く違っているが、『屋比久工工四』の「小蝶節」と現在の「綾蝶節」と呼んでいる節とは、譜の類似性が非常に強い。>
 改めて、古典音楽の「綾蝶節」は、「スーリ東節」とは違う旋律であり、「蝶小節」が「スーリ東節」と類似の曲ということ。さらに、八重山民謡の「胡蝶の唄」「はべる節」とも類似の曲ということになる。
 ちなみに、「蝶小節」は、「一揚調とあるが、現在は一揚調にしてこの曲を演奏することはない」(同)という。しかし、八重山の「胡蝶の唄」は一揚調である。これは、古い一揚調の「蝶小節」が八重山に伝わり、そのまま一揚調で演奏する形を残しているということなのだろうか。

 国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館に「蝶小節」が収録されている。ところが、「鹿児島県 蝶小節」というタイトルになっている。1951年8月発売のコロンビアのレーベルで、作詞・作曲・編曲・実演家は、歌と三味線 川田松夫(沖縄県真和志村出身) 筝 儀間タケ(同) 太鼓 川田朝子(同)となっている。沖縄出身の川田さんだから、演奏したのは琉球古典音楽の「蝶小節」だと思うけれど、なぜ鹿児島県の歌になっているのだろうか。

 川田松夫は、戦争中、家族とともに鹿児島、宮崎に疎開していた。「疎開先の家でも唄・三線の音が消えたことはありませんでした」(川田松夫の3女、川田功子の証言)。鹿児島にいる時に収録されたのだろうか。
 奄美民謡にも「綾蝶節」がある。坪山豊さんの作曲と言うから戦後つくられた新しい島唄といわれる。動画を見る限り、奄美の民謡と言うより歌謡曲のような雰囲気のある歌である。大和に憧れてシマを捨てて海を越えて飛んでいく蝶 戻って来いよと歌う。沖縄の「蝶小節」などとは無関係のようだ。
花と蝶を男女の恋話に例えた歌は、森進一のヒット曲「花と蝶」が有名だ。「花が女か男が蝶か 蝶のくちづけうけながら 花が散るとき蝶が死ぬ」と歌う。

 以上、「胡蝶の唄」「スーリ東節」「蝶小節」を見てきた。この3曲は、旋律が似ていることや歌詞も「花と蝶」を題材にして似た歌詞であることから、互いに影響を受けて作られた曲だといえよう。ただ、どれが元歌なのかはいまいちよく分からない。年代的には古典音楽の「蝶小節」が古いのかと思う。ただ、「スーリ東節」は、歌詞がひとつの物語のようになっていて、あまり替え歌という感じがしない。
 この3曲の場合、旋律、歌詞の共通性があるので、元歌、替え歌の関係ではないかもしれない。あまり、どれが元歌なのかという詮索をするよりも、それぞれの歌を楽しめばよいということだろう。
 終わり


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「スーリ東節」と「胡蝶の唄」は類似曲

「スーリ東節」と「胡蝶の唄」は類似曲
  琉球放送のラジオ番組「民謡で今日拝なびら」を聞いていると、パーソナリティーの1人である若手民謡歌手のホープ、仲宗根創さんが、エイサー曲として知られている「スーリ東節」と八重山の「はべる節」は、もとは同じ曲だと言って、ナマ唄で歌ってくれた。
 そして「八重山の歌ですが、歌詞は琉歌です」と話した。「はべる節」と聞いた時、「あれっ、これは胡蝶の唄ではないか」と思った。あとで知ったが、「はべる節」と「胡蝶の唄」は同じ曲らしい。
 手元にある大浜安伴著『八重山古典民謡工工四』を見ると、たしかに歌詞は琉歌である。八重山民謡の歌詞は、多くは琉歌ではなく、歌詞の字数が揃えられていない。一番の歌詞を覚えても、2,3番と字数がバラバラで、歌詞をどのように旋律にのせればよいのか、とまどうことがしばしばである。
 ラジオでは、このあと「スーリ東節」をエイサーの実演の音源で流して聞き比べができた。なるほど、テンポは速弾きとエイサーのテンポで少し異なるが、旋律は似ている。とくに「スリサーサー シュラサ ハイヤ」という囃子は同じである。
 あとから見るけれど、沖縄本島の琉球古典音楽にも類似曲がある。これまで「琉球民謡の変容」で取り上げた曲は、八重山から沖縄本島に伝わり歌われたり、編曲し、歌詞もまったく変わって歌われている例が多かった。
 今回は、どうも八重山から伝わったのではなく、沖縄本島から伝わったのではないだろうか。
 それぞれの曲を見ていきたい。
      
 胡蝶の唄(こちょうぬうた)
 最初は、八重山民謡の「胡蝶の唄」を見ておきたい。八重山民謡では、珍しい一揚曲である。一揚げは他には「揚古見ぬ浦節」があるくらいだ。あとから紹介する琉球古典音楽の「蝶小節」も一揚調とされている。
 「胡蝶の唄」の歌詞は次の通り。
1、初春になりば押す風ん涼(しだ)しゃ 露受きてぃ咲ちゅる花ぬ 花ぬ美らさ 
 スリサーサー シュラサ ハイヤ(囃子は以下省略)
 (初春になったのでそよ風も涼しい 露を受けて咲いている花が美しい)
2、我んや花やとてぃ里前(さとぅめー)綾はびる 花ぬ寄らりゆみ里前 いもり忍ば
 (私は花、あなたは美しい蝶 花が寄ることはできない あなたが忍んで来てください) 
3、花にたわむりてぃ遊ぶ綾はびる 互に肝内(ちむうち)や 他所ぬ知ゆみ
 (花にたわむれて遊ぶ美しい蝶 互いの心のうちを 他人は知らない)
4、あん美(ちゅ)らさ 咲ちゅる花に肝(ちむ)引かり いちまでぃん 
 あかん別り苦しゃ
 (あのように美しく咲く花に心を引かれ いつまでも離れがたく別れは辛い)
5、花や咲ちしりてぃ黄葉(ちば)になるまでぃん 変わるなよ互に 元ぬ元ぬ心
 (花は咲き揃って 枯れ落ちるまでも 変わるなよ互いに もとの心を)
 注・この曲の作詞編曲は大浜安伴氏。最後の琉歌だけ「伊野波節」の琉歌である。
 歌詞の訳文は、「たるーの島唄まじめ研究」を参考にした。

 この曲は「八重山古典民謡工工四 下巻」にある。作詞と編曲は、大浜安伴と記されている。編曲とあるので、元唄があって、それをすこし作り変えたということだろうが、
 どこをどうかえたのか不明。いつごろ作られた曲なのかも不明。
 石垣島出身の唄者、新良幸人が歌っている動画がYouTubeにあるが、ここでは「パピル節」として歌っている。これは「胡蝶の唄」と同曲だと思う。

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韓国で歌われる「てぃんさぐの花(鳳仙花)」

  犠牲者と皆さまとわれわれ生き残った同胞たちが歌うことすら禁じられたティンサグの花~「風仙花」」の調べを霊にささげますーーこれは沖縄の人の言葉ではない。それは「てぃんさぐぬ花」が禁じられていたことはないからだ。
 では誰の言葉なのか。1995年6月23日、糸満市摩文仁の全戦没者刻銘碑「平和の礎」が建立された除幕の日、在日本大韓民国民団(民団)沖縄地方本部のジョン・テギョン団長(当時)の挨拶の一部である(琉球新報2020年8月20日石原昌家氏「沈黙に向き合うー沖縄戦聞き取り47年」)。
 「てぃんさぐぬ花」と言えば、沖縄を代表する教訓歌であり、県民愛唱歌である。「てぃんさぐぬ花」は鳳仙花のこと。その花で女性が爪を染めたという。「てぃんさぐの花は爪を染める。親のいうことは心に染めなさい」という歌詞で始まる。
 なぜ在日韓国人の方がこの歌が禁じられたというのか、不思議に思って読んだ。
韓国・朝鮮に同じ題名の歌があるのだろうか。ネットで検索してみると、やはり同名の歌があった。聞くところによると、韓国でも、鳳仙花で爪を染めるという風習があるという。
 沖縄でも、同じ題名の歌が韓国・朝鮮にあったことを知る人は少ないだろう。
 いま図書館の閉館になっており、資料を見ることができない。この曲についてブログなどで書かれている方が何人もいらっしゃる。これらの文章を参考にして、この曲について紹介しておきたい。
      
 「鳳仙花」という曲は、洪蘭坡(ホン・ナンパ)が作曲し、5年後に声楽家の金享俊(キム・ヒョンジュン)が歌詞を作ったという。
  <朝鮮近代音楽の父ともいえる洪蘭坡(ホン・ナンパ)は、作曲家・ヴァイオリニスト・音楽評論家・指揮者・文学者と多面的な活躍をした人ですが、そんな彼は1919年の3・1抗日独立運動を留学中の日本で聞き、居ても立ってもいられずに大切なヴァイオリンを質に入れてまでその独立運動を支援する活動を行ったのでした。ご承知の通りこの独立運動は実ることなく、また洪自身も学校を中退し帰国せざるをえない羽目になりました。
 その翌年、彼は短編小説集「処女魂」を発表しますが、その前書きに載せられた楽譜がこの曲でした。その時はヴァイオリン独奏曲で、題名も「哀愁」というものだったようですが、1926年に作曲者の友人・金享俊(キム・ヒャンジュン)が詩をつけ、現在知られている歌曲となりました。まるで演歌のような哀調あふれる旋律もそういわれてみるとヴァイオリンにぴったり。まさに挫折の只中にあった彼の心象風景でしょうか、胸を打つメロディです
(「梅丘歌曲会館『詩と音楽』 管理者:藤井宏行」から)。>
 
 歌は次のような歌詞である(「英語 韓国語トリリンガル♩楽習ブログ」から)。
 塀の下にたたずむ鳳仙花よ
 お前の姿が物寂しい
 長い長い夏の間に
 美しく咲いたとき
 可愛い娘さんたちが
 喜んでお前と遊んだものだ
 いつの間にか夏は過ぎ
 秋風ヒューヒュー吹いて
 美しい花々を
 残酷にも奪っていく
 花は落て老いたか
 お前の姿がもの悲しい

 北風寒雪 冷たい風に
 お前の姿形がなくなっても
 平和的な夢を見る
 お前の魂があるから
 うららかな春風に
 よみがえるのを願ってる

 ほかにもいろいろな歌詞が作られている。
 <詩は四季のうつろいを鳳仙花に寄せて歌っていますが、実は秋風吹いて以降の節は国を滅ぼされた民族の悲しみを、そして厳しい時代にも負けない不屈の魂を陰に表しています。
 この曲が広く知られ・歌われるようになったのは1941年、ソプラノ歌手の金天愛(キム・チョネ)が東京での新人音楽祭でのアンコールで歌い、翌年帰国してからも各地で歌い続けるようになってからだといいます。警察から歌唱禁止令が出たのもこの頃だといいますからブレイクしたのもこの頃なのでしょう(「梅丘歌曲会館『詩と音楽』 管理者:藤井宏行」から)。>
 作曲者の洪蘭坡は、太平洋戦争の開戦直前に若くしてこの世を去った。
 <日本の官憲は鳳仙花の歌詞に込められた抗日・祖国独立の隠喩を嗅ぎつけ、洪蘭坡を日本の朝鮮支配に抵抗する危険人物と見なして日常的に監視し出した。その圧力に耐えかねた彼は1941年、43歳の若さで他界した。太平洋戦争開戦の3か月前だった。
  しかし、洪蘭坡を死においやった理由はこうした官憲の監視による精神的肉体的疲弊だけではなかったと考えられる。彼は日本軍国主義による朝鮮統治が頂点に達した時期に日本に強要されて数編の軍歌を作曲するとともに、京城放送管弦楽団の指揮者として「皇国精神にかえれ」、「愛馬進軍歌」、「太平洋行進曲」など日本の軍歌を指揮・演奏した。音楽活動を通じて朝鮮民族の痛恨と誇りを代弁しようとした彼にとって、こうした反民族的行為への服従がいかに耐えがたい残忍なものであったか、想像を絶する(「醍醐聰のブログ」から)>。

 「親日派」の烙印を押されて
 洪蘭坡は、死後60年以上もたって「親日」の烙印を押されることになった。
 <2004年、盧武鉉政権下で「日帝強占下反民族行為真相究明に関する特別法」が成立し、翌年「親日反民族行為真相究明委員会」が発足、親日派の公式名簿が作成された。そのなかに洪蘭坡が含まれていたのである。1937年の収監中に「転向」した蘭坡が、その後天皇を称える歌を作曲したというのが理由である。…蘭坡の子孫が裁判に訴え、有利な判決が下ったこともあって2009年、真相究明委員会の最終名簿1005名のなかから、とりあえず蘭坡の名は消えた。(「外国語・映画・歌・詩&日曜大工&地元学&麻雀」から)>

 こうした「親日派」のレッテルについては、韓国内でも異論があるという。
 <洪蘭坡 は日本による統治が最悪の状況に至った当時、日本に強要された数編の軍歌も作曲した。現在は独立した国である大韓民国で心穏やかに日々を過ごしているわれわれが、あたかも批評や論評でも加えるかのように、洪蘭坡に対して『親日派』のレッテルを貼っていいものだろうか。(『朝鮮日報』は本年{2008年}5月1日、「醍醐聰のブログから)>
 日本でも、戦前戦中時に、軍国主義教育のもとで戦争協力を当然と信じていた人や抵抗しながらも過酷な弾圧のもとで心ならずも「転向」して協力した人たちがいた。問題は、戦後、その過去を反省して反戦平和、民主主義の発展のために尽くすか、それとも過去に真剣な反省をしないまままた世の流れにのって活動するのかである。
 日本でも例えば、古関裕而は、国民を戦争に駆り立てる軍歌をたくさん作り、戦後「戦犯」ともいわれたが、数多くのヒット曲を作り、いまNHK朝ドラ「エール」で持ち上げられている。「栄光の旗の下に」など自衛隊歌を何曲も作っている。戦争協力をどれほど真摯に反省したのだろうか。
 韓国・朝鮮の場合は、軍国日本という侵略者への協力であるだけに、その責任が厳しく問われることは当然であるかもしれない。
 洪蘭坡の場合、恐らくみずから進んで軍国日本に協力したのではないだろう。一口に協力と言っても、自己の利益のために進んで侵略者に協力した人と、弾圧や強要のもとで心ならずも協力した人と、同等の責任があるとはいえるだろうか。
 もし、彼が日本の敗戦後まで生きていたなら、強要されたとはいえ、協力したことを反省して、あらたな音楽家としての道を歩んでたのではないだろうか。


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『<池間民族>考』を読む、その4

 「神教民族」とは
 池間島の人たちは「神教民族」とも称されるという。何を意味しているのだろうか。
聖地ナナムイ(ウパルズ御嶽)に祀られている神々への厚い信仰心を共有してきたという意味で使われているものと思われるが、それだけではない。
 <そのことよりもむしろ死者や祖先の儀礼に関して、自分たちは外来宗教である仏教にあまり干渉されず、近年に至るまでほとんど「仏教的習俗」を受け入れなかった、という点を強調していることの方が多い。葬式も墓地も、宮古島の平良にある仏教寺院や僧侶とは直接の関係がない。また、大部分の住民が、位牌の祭祀や物故者の年忌供養、日を決めた墓参、そして旧盆の行事などを太平洋戦争まで行わなかった、と言うのである(笠原政治著『<池間民族>考』)。
 沖縄は、庶民生活では民間信仰が強く、仏教が本土ほどには浸透しなかったといわれる。でも、仏壇と位牌を大事にし、墓参り、旧盆、年忌供養など仏教の影響のある行事がとても盛んである。池間島のような仏教的な習俗が受け入れられていなかった地域、島があるとは少し意外だった。

 池間島の祭祀といえば、7,8年前にドキュメンタリー映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を見たことがある。
宮古島の御嶽 (うたき) での神事とそのなかで歌われる「神歌」を描いていた。その中に池間島の御嶽が出ていたことを記憶している。
 御嶽での祭祀は、よそ者は立ち入ることはできないだろうと思う。だが、映画ではかなれ祭祀にも密着して撮影していた。ただ、宮古島でも「本来、神聖なものであるはずの歌が商品化された」「宮古の人びとや文化に対する敬意が欠如している」といった批判があったらしい。
祭祀と神歌を映像で記録し残すことは意義があると思う。ただ、本来、御嶽など祭祀の場で歌われる神歌が、東京の舞台で歌わされていることに違和感をもったことを思い出す。

 方角にズレがあるとは
 意外と言えば、方角を示す方言名称が池間島は沖縄の他の地域と異なるという。
 <東西南北を指す方位の方言名称が池間島だけは他の所と違っていて、たとえば、池間島以外の所で一般に「東」を表すアガイの語がこの島では「南」の意味になる。>
池間島は「北」は「イー」。「東」は「ッンシィ」。「西」は「ハイ」。「南」は「アガイ」という。沖縄では、北は「ニシ」、西は「イリ」、南は「フェー、パイ」と呼ぶ。方位の呼称が他の地域より、90度ずれていることになる。
方位の呼称は、太陽が上がるから東を「アガリ」、太陽が沈むから西を「イリ」というから、池間島の呼び方では、太陽との関係がなくなる。なぜなのか、不思議だ。
     東西南北の方位 
                  『<池間民族>考』から
              
 そういえば、沖縄では磁石が示す方角と住民が思っている方角にズレがあるという。
<かつて沖縄の各地で盛んに行われた民家(住居)や集落空間などに関する調査研究から、磁石で示される東西南北の方位(ここではかりに「磁石方位」と呼ぶ)と地元の人たちが言い表す方位(同じく「民俗方位」と呼ぶ)の名称がかならずしも一致するとは限らない、といわれはじめたのは1970年代のことである。…
八重山の事例では…図を見ると、磁石方位と民俗方位はたがいに45度くい違っていることがわかる。(笠原政治著『<池間民族>考』)>

 そうだとすると、古い記録、古い文書を読む場合、書かれている方角が、磁石で示す方角とはズレがあることを知っておかないと、勘違いすることがあるかもしれない。
 ちなみに、この方位磁石は絶対に北を示しているかというとそうではない。方位磁石が示す北(磁北)は地図の北からズレているという。しかもズレ(偏角)は場所や時間によって変わるそうだ。札幌では磁北の向きが地図の北より約9度西にズレていて、那覇ではそのズレは約5度になるという(国土地理院HPから)。
 民俗方位のズレとは関係がないが、これも初めて知ったので付けたりとして書いた。

 「池間民族の集い
 池間島にルーツを持つ人たちは、「池間民族の集い」を毎年、開いているという。
この集いは、1986(昭和61)年に宮古島でスタートした。
 <これは、池間島、佐良浜、西原の住民有志が日を決めて一堂に会する懇親会であり、3地区が年ごとに輪番制でそれぞれ会場を提供し合って、参加者たちはその1日をバレーボール、ゲートボールなどの運動競技や、囲碁、共同飲食などで楽しむ。1986年5月に池間島で第1回目が開催されて以来、このイベントは毎年1回ずつ定例行事として続けられるようになり、現在では20回を越えるまでに至った(笠原政治著『<池間民族>考』、2008年発行)>。
     池間民族の集いin佐良浜 
             「池間島観光協会のブログ」から

 2018年11月に佐良浜で開かれた「第32回池間民族の集いin佐良浜」の模様が「池間島観光協会のブログ」で紹介されている。
 その中で佐良浜地区代表は、方言で次のような挨拶をした。
 「池間民族の方言は、池間民族の共通語。若い人はだんだん方言をしゃべらなくなり、子どもに至っては方言も聞き取れなくなっている。
 池間民族の方言は消滅の危機にさらされています。
この素晴らしい池間民族の伝統、言葉を永代残していきましょう!
池間民族は永久に不滅です!!」
 池間民族と自称することで、とても誇りを持ち、絆をとても大切にしていることが感じられる。
 
 そういえば、沖縄全体でも、戦前から南米、ハワイ・北米、南洋諸島など世界各地に沖縄からたくさん移民が出かけた。海外には、いま県系2世、3世、4世など子孫が暮らしている。ウチナーンチュとしての誇りを持ち、沖縄の伝統、言葉や文化を受け継ぎ、その絆を大切にするため「世界のウチナーンチュ大会」を5年に一度開いている。どちらにも、共通するものがあるだろう。
 いずれにしても、池間島をはじめ島々で受け継がれてきた伝統や祭祀、言葉と芸能・文化は守り大切にしてほしいと改めて思った。

    終わり 2020年9月
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『<池間民族>考』を読む、その3

 池間島のカツオ漁
 沖縄で漁業は昔から盛んだったように思われるがそうではない。
 漁業らしい漁業は糸満が中心であり、「それ以外の地域では、農閑期や農作業の合間に利用してリーフ(島や集落周辺のサンゴ礁)の中などで自給的な漁撈をいとなむのがせいぜいだった」(上田不二夫氏著作の引用、笠原政治著『<池間民族>考』から)という。
 <最大の要因は、琉球王国時代に首里王府が一貫して進めた勧農(農業振興)政策にあった。…「今では久しい以前から純漁村のようにみなされている池間や佐良浜も、明治35(1902)年以前は農業の“シマ”であった」(仲宗根將二氏著作引用、同書から)> 
 
 農業が中心であっても、池間島の人たちは古くから漁撈に秀でており、そのために海産物の納付を強いられたという。
 <人頭税時代の租税として、池間島に対しては農産物や反布のほかに「ウヤイン」と称して生魚を拠出することが課せられ、また、貝類、ナマコやフカヒレの乾燥物なども納付品に指定されていたという(笠原政治著『<池間民族>考』)。>
 「磯漁で得た漁獲物の10分の1を蔵元や地方番所の役人たちに現物納付しなければならなかった」(『伊良部村史』、笠原氏著書から)、「海技に卓越していた池間漁民への割当量は驚くほどの量で、どんな時化のときでも、15才~60才までの男子に日々、体長5寸以上の魚5尾ずつの割当」があったという(『池間嶋史誌』、笠原氏著書から)
 といっても、その時代に池間島の人びとが営んでいたのは、広い意味での営利と結びつく「漁業」ではなく、自給的な生業としての「漁撈」だったと言う方が正確である。笠原氏はこのように指摘している。
 池間島の漁撈について「明治末期まではこの島での漁業はクリ舟と潜水を用いての小規模な網漁、突漁、一本釣りなどがその中心をなしていた」(野口武彦著『沖縄池間島民俗誌』、笠原氏著書から)。
        池間大橋 
                 池間大橋
 カツオ漁についても、古くからあったのではない。
 <カッチュ(カツオ)という魚は神の使いと見なされており、だれも釣って食べようとする者はいなかった、と言う。また、当時は泳ぎの速いカツオを釣り上げるだけの漁撈技術そのものがなかったとも言う(笠原政治著『<池間民族>考』)>。
沖縄のカツオ漁の始まりについて前にわがブログ「県外から学んだ沖縄のカツオ漁」で書いたことがある。そこから引用する。
 <沖縄では琉球王府時代は、漁業としてのカツオ漁はなかった。廃藩置県後の1885年(明治18)、鹿児島県の業者が慶良間諸島で試漁したのが始まりだ。それ以降、1894―6年に宮崎県の漁民、1898年に鹿児島県人の宮田善右衛門の船、田中長太郎の船で入漁し、座間味間切(マギリ、いまの町村)阿嘉村に根拠地をすえて始業した。いい成績をあげたのを見て、島民はこれを機会に、4―5人の漁民を便乗させ、漁船の運用ならびに釣獲(チョウカク)方法の伝習を受けた。
 その後も宮崎県の漁船から技術を学び、静岡県の漁船が国頭地方に漂着したのを全島民で買い求め、カツオ漁を始めた。これが、沖縄におけるカツオ釣漁業のはじめと言われている。これはまた、カツオ節製造業の始まりとなった。1906年には、9組合16隻のカツオ船をつくり、全島あげてカツオ漁業に従事することになった。
 1905年には、国頭郡の大宜味・国頭・本部・羽地において、間切有志組合を設け、カツオ節製造が始められた。その後さらにカツオ漁は盛んになり、大正後期にカツオ節業は最盛期となった。カツオ節は沖縄では砂糖に次ぐ重要な製品となっていた。以上は『沖縄の歴史第2巻近代編』(沖縄教育出版)から紹介した。>
 
 宮古島におけるカツオ漁業の始まりは、1906(明治39)年、鹿児島県出身の鮫島幸兵衛が帆船2隻を宮崎から購入し、宮古島の狩俣でカツオ漁を開始したこととされる。
 鮫島幸兵衛は、宮古でカツオ漁業を開始した3年後に事業から撤退した。
 <その鮫島から6隻の所有漁船を買い取り、池間島民がカツオ釣りの自主操業に着手したのは1910(明治43)年のことであった。…かつお節の製造は…海岸付近に簡素なカヤ葺きの工場が何カ所か建てられた。…男性たちの一本釣り、女性たちのかつお節製造という当時 の段階でできあがった分業体制は、…つい最近の1990年代まで続くことになった(笠原政治著『<池間民族>考』)。>
 いま「池間民族」を自称している3地区の人びとは、いずれも明治・大正期に近代水産業として外来のカツオ漁業を受け入れ、大正期にはカツオ景気に沸き立ち、「宮古の中でも池間島民の派手な暮らしぶりが突出していた」(同書)という。

 漁業の祈願は少ない
これだけ漁村として発展してきた池間島であるが、年間の祈願の行事は、豊漁祈願が主かと思えば、そうでもないらしい。
 <1961年当時の公的な神願い全体を見渡してまず気がつくのは、数の上では農耕の祈願が目立ち、意外なほど漁撈関係の祈願が少ないことである。
 36回のうち、…漁撈や海と結びつくような神願いは年間を通じてわずかな回数しか行われていなかったことがわかる。
宮古諸島の全域で、…ほとんどの場合に農作物の豊穣祈願がその基調になっている。…
 (大井浩太郎著)『池間嶋史誌』によると、琉球王国の治世であった17世紀の初め頃、宮古各地の村々に与人(ユンチュ)や目差(メザシ、ママ)などの地方役人が常駐し始めたときに、毎年の神事に関してもそれらの役人たちが指導して、どの村でも農耕を中心に神願いをいとなむことが取り決められた。そして、池間島や大神島、宮古島狩俣のように漁撈や海仕事が生計の一部になっている村々にだけ、特別に「いそ(磯)の神祭」や「浜神願(サニツ)」などを行なうことが差し許されたという(略)。つまり、かつて琉球王国の時代に、村々の神願いもまた勧農(農業振興)政策の一環として[官]の統制対象になっていたというわけである。(笠原政治著『<池間民族>考』)>


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