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レキオ島唄アッチャー

『<池間民族>考』を読む、その2

   佐良浜井戸を発見
 伊良部島佐良浜に行った時、「サバウツガー」という井泉があった。
 崖の上のとても眺めのよい場所に「案内板」あある。井戸は、崖の下の海辺にあり、長い階段を降りる必要がある。
つまり、島の高台になる土地に降った雨が海岸の崖の下で湧水となって出ているのだ。
「この井戸は『ミャーギ立の金大主』と『フッヅーの松大主』が発見したといわれている。
 1720年の池間島からの強制移住より先に作られ、井戸のない佐良浜の人びとにとっては、昭和41年の簡易水道ができるまでの240年余も生活用水として利用してきた貴重な井戸である。水汲みは女達の日課で、午前3時から1日3~4回123の階段を往復したという。生きるための過酷な歴史を持っている」(説明板から)
水汲みの苦労が偲ばれる。
    伊良部大橋
        伊良部大橋      
       
 ここで留意する必要があるのは、井戸の発見が1720年の移住の前であるとしていることだ。井戸を探すのは、そこに住み着く人がいるからだ。
 伊良部島は豊かな農地が広がっているが、主に島の南部に集落があった。島の北側にあたる佐良浜は水が乏しく「無人の砂礫地」だったとされる。井戸を発見した2人は若者だったという。集団移住の前にすでに「通いの農耕からやがて現地に造った出作小屋で暮らす人たちが現れ(た)」というから、小屋を作って暮らすには水が不可欠である。そのため、崖下で水が湧き出ているところを探して発見したのではないだろうか。
      サバウツガー   

       240年余りもつかわれてきた井戸の案内石碑            
     
 移住は強制ではないのか
 もう一つ、検討する必要があるのは、佐良浜への移住が強制移住なのか、自発的な移住なのかということである。
 <前泊翁は、池間島から佐良浜への移住が「自由移民」、つまり人びとの自発的な開拓移住によるものであったとくり返し述べる(『<池間民族>考』)。>
この佐良浜の「説明板」では「強制移住」と記しており、他にも「強制移住」との説明をよく見る。
 宮古島は水田がなく、納税の穀物は粟だった。なかでも池間島は、農業生産力が低く、人頭税の税率は、村位が上中下のうち「下」とされていた。
 「痩せ地ばかりの池間島で、納税のための粟を作る耕作地つねに不足していたことは疑いない」(同書)。
 つまり、税率が下位にあったとしても、人口は多く、農地は狭く痩せ地が多ければ、池間島だけでは納税が困難だろう。納税のために、伊良部島に耕作地を求めて通い、移住をすることになれば、自発的というよりも実質的には強制された移住ということになるのではないか。この事情は、八重山でも同様である。
「島の土壌では、大きな人口規模を支えるには農耕の適地があまりにも乏しかった。蔵元は強制による住民の集団移住を進め、人口の多い池間島やそれと条件が似た大神島などに農地開拓のための入植者を求めたのである」(同書)
 
 「池間民族」の共通性
 池間民族とは、 「池間島とそこから移住・分村した佐良浜・西原 の人々、即ち池間島系統の人々の総称である」。毎年、「池間民族の集い」を開いているという。
1986(昭和61)年に宮古島でスタートした。
 <これは、池間島、佐良浜、西原の住民有志が日を決めて一堂に会する懇親会であり、3地区が年ごとに輪番制でそれぞれ会場を提供し合って、参加者たちはその1日をバレーボール、ゲートボールなどの運動競技や、囲碁、共同飲食などで楽しむ。1986年5月に池間島で第1回目が開催されて以来、このイベントは毎年1回ずつ定例行事として続けられるようになり、現在では20回を越えるまでに至った(笠原政治著『<池間民族>考』。2008年発行)。

 この池間・佐良浜・西原に共通するものは何か。笠原氏は、3点をあげる。
(1)同じ系統の聖地に対する信仰
(2)「海洋民族」「漁撈民族」という自己認識
(3)ミャークヅツと呼ばれる独特な行事の存在である。
 
 ここで聖地と呼ぶのは、池間島最高の聖地ナナムイ、ウパルズ(オハルズ)御嶽のことを指す。女性の神職者である5人のツカサンマや特定の神願いに携わる女性以外には、ミャークヅツ行事の時を除いてほとんどの住民は立ち入ることがない。
 ミャークヅツとは、旧暦8、9月の甲午の日から3日間開催される池間島最大の年中行事こと。粟の豊年祈願である。この行事は、宮古島でも、池間島、佐良浜、西原の3カ所でしか行われない。聖地が、池間、佐良浜、西原の人びとにとって大きな心の拠り所になっているという。
 「海洋民族」「漁撈民族」とは、「昔から海を舞台に暮らしてきた」という自己認識があるからだという。宮古島の中でも、池間島は漁業が盛んで、人頭税の時代に、磯漁で得た漁獲物を蔵元や地方番所の役人たちに納付しなければならなかったといわれる。沖縄にカツオ漁業が導入されてからは、カツオの一本釣りで有名だった。


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『<池間民族>考』を読む、その1

 『<池間民族>考』を読む
 
 6月に宮古島旅行をした際、絶景の池間大橋を渡った。池間島に行くのは2度目だが、ドライブで島を一周しただけ。史跡など立ち寄る時間がなかった。だが、前から池間島は独特の民俗があり、自分たちを「池間民族」と呼ぶことに興味があった。離島の沖縄、なかでも八重山、宮古島には多くの島々があるけれど「民族」を名乗っているのは池間島だけだから。
 今回初めて伊良部大橋を渡り、伊良部島にも行った。島の北側にある佐良浜は、かつて池間島から移住してきた人たちの集落であると聞いていた。だが、「なぜ池間島からかなれ離れている伊良部島へ行ったのか?」と思っていた。今回、佐良浜を訪れて、北方に広がる美しい海を見ると、正面に池間島が見える。予想よりも近く感じる。これなら池間島から佐良浜へ移り住んだことも納得できた。
 旅から帰って、笠原政治(横浜国立大学名誉教授)著『<池間民族>考―ある沖縄の島びとたちが描く文化の自画像をめぐって』を読んでみた。「池間民族」とは何か。「海洋民族」「漁撈民族」と自称するのはなぜか。そして島の独特の民俗、習俗や漁業の村としての歩みなどがとてもよく理解することができた。この際、同書をもとに、「池間民族」について紹介してみたい。
      池間大橋
         池間大橋

  漁村として知られる池間島
 池間島は漁村として名高い。「宮古の水産業は、この池間島と伊良部島佐良浜の漁師(池間島では海人=インシャ=という)たちを中心に動いてきたと言っていい」(同書)。
 島を一周してみると、島の中心部に湿原があり、よい耕作地は狭い感じがした。
 「農地が狭く、淡水源に乏しい池間島がかつて2000人を越える人口を擁していたのは、そこが水揚げの多い活力ある漁村だったからである」(同書)。
 宮古島には南東部を中心にマラリアの汚染地があったが、池間島は幸いなことにマラリアらの無病地で、そのため住民の数はむしろ増加傾向にさえあったという。
 琉球王国時代の17-19世紀に、池間島からは幾度となく伊良部島と宮古島へ集団移住や分村が行われた歴史がある。
 <前泊翁(郷土研究家の前泊徳正)によると、池間島の人びとが小船で伊良部島北部の広い無人の砂礫地へ通って農耕を始めたのは18世紀初頭の頃からだという。租税として賦課されていた粟などの耕作地をそこに求めたのである。そして、通いの農耕からやがて現地に造った出作小屋で暮らす人たちが現れるようになり、ついにはその地に池間添(邑)が新村として創設された。『伊良部村史』には、それが1720年(琉球王・尚敬8)年のことと記されている。…その後、池間添の人口増加に伴って、そこからされに前里添(村)が隣接した場所に分村し、今日の佐良浜の基礎が築かれたという(同書)。>
     ikema-map,沖縄情報IМA         
             「沖縄情報IМA」から
 
 池間島から何度も移住
 池間島から伊良部島、宮古島への移住は何度も行われた。
<『池間民族屋号集』(注・伊良波盛男著)によれば、池間民族とは、 池間島とそこから移住・分村した佐良浜・西原 の人々、即ち池間島系統の人々の総称である。 元島・池間島からの分村は、首里王府宮古頭の 命により、1720年、伊良部島に佐良浜(新浜) 村が創建され、本村(元島)池間島から14戸が 強制移住させられたことに始まる。その後、 1723年には宮古島に長間村が創建され、本村 (元島)から20人が移住。1737年には伊良部島 に国仲村が創建され、本村(元島)から35戸が 移住。1874年には宮古島ユクダキ(横竹)に西 原(西辺)村が創建され、本村(元島)から35 戸、分村佐良浜から15戸が移住している。こう して池間民族は現在、主に池間島と伊良部島の 佐良浜、宮古島の西原に住んでいるとされる(岡本雅享(福岡県立大学)著「池間民族意識に関する一考察」)>
 
 移住は、明治維新の後、琉球併合の前まで行われた。
 「移住者を送り出した池間島においても、1766年(尚穆15)年に、やはり人口増のために同じ島内で池間村から前里村がわかれた。」「1874年、明治維新後まだ沖縄県が誕生する以前の時期に、宮古における最後の移住事業として平良の北、宮古島横竹の地に西原村が創建された。池間島から73戸と、伊良部島佐良浜からの15戸を主体とした村立てであった(笠原政治著『<池間民族>考』)」。
 西原への移住には、こんなエピソードがあるという。
「上原(孝三)氏によると、西原村が創建された横竹は無人の地ではなく、それ以前から在地の人びとが暮らしていたが、それらの人たちは池間島から大量の移住民がやってくることを耳にして、次々と別の土地へ居を移してしまったという。「池間島の人々は気質が荒く乱暴者であるので恐れ、逃げ去った」そうである。(同書)>
 乱暴者というのは言い過ぎだと思う。漁業と言えば、「板子一枚下は地獄。漁師の仕事は命がけ」と言われる。多少、気性が荒いといわれるのは漁師町に共通するものだと思う。


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「無人島長平」と呼ばれた土佐の男、その2。

 アホウドリの肉、卵を食べる
 本題の野村長平のことである。
無人島で12年も生き延びることは、奇跡のようなサバイバルである。野村長平の案内板では「口では言い表せない程つらくて、苦しく寂しい12年余りの生活」というが具体的にはよくわからない。
長平らは、遭難した12日後に鳥島に漂着した。その時点では 乗組員の仲間が他に3人いたが、2年以内に相次いで死亡したため、独りぼっちとなった。
 「鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物」であり、当初は火打石もなく生食だった。アホウドリの肉を乾燥して保存した。「水は雨水を水源とし、これを多数のアホウドリの卵殻などに蓄えた。長平は一日に飲む水の量をアホウドリの卵殻で作った容器1個分と決めていた」という(「ウィキペディア」から)>
 アホウドリは「人を恐れず、近寄ることができたので捕まえやすく、ほとんどの漂流者たちは、この鳥を食料として命をつなぐことができた」(中濱博著)。
     野村長平、碑、市役所
      野村長平を顕彰する碑(香南市役所HPから)  
  
 後から漂着続き18人に
どのようにして脱出したのか。「無人島長平の像」の案内板は「後から流れついた仲間達と一緒に流木で船を造って1798年に奇跡的な生還を果たした」とのべている。
もう少し詳しく見ておきたい。
<長平の漂着から3年後の天明8年(1788年)1月29日に大坂北堀江の備前屋亀次郎船の11人が鳥島に漂着、さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向国志布志の中山屋三右衛門船の6人が漂着した。この時点で鳥島の無人島生活者は長平を含めて18名となった。鍋釜・大工道具も揃った。彼らは長平と大坂船・日向船の船頭の3名をリーダー格として共同生活を送り、食料確保の他、住居や道の整備、ため池の工事などを組織的に行った。しかし、精神的な影響や栄養(ビタミン類と思われる)不足などで、漂着者のおよそ3分の1は死亡していった(「ウィキペディア」から)>。
 無人島での長平の孤独な生活は、1年余りで漂流仲間が増えたことになる。それにしても18人もいると、心強くはあっても食糧や水の確保は容易でない。亡くなる方が相次いだのも、そんな過酷な実情を物語っている。
 鳥島には洞窟があった。洞窟には、かつて漂着した人が残した生活の用具や木板に記された書置きなどがあったという。
       野村長平案内板 
                  野村長平の像の案内板

 船を造って脱出へ
 漂着から数年が過ぎても、救助を求める船はまったく見られない。ジョン万次郎らを救助したアメリカの捕鯨船が日本周辺に来るのは1820年代だとのこと。長平らが島にいた18世紀の終わりごろはまだ、この捕鯨船も通らない。救助を求めたくても航行する船が見られなかったのだろう。
やむなく、船を造って脱出することを考えるに至った。といっても、無人島で必要な木材も道具もない。どのようにして船が造れるのか。鍛冶や船大工の経験者はいたという。
 <志布志船から回収した工具やかつての漂流者が残した船釘、自作のふいごで古い船釘や錨を溶かして製造した大工道具を造船に用いた。船の素材には流木を、帆には衣類を用いた。造船中の船が波にさらわれることを防ぐために小高い丘の上で作業を行っていたため、そこから海岸までの経路の障害物となっていた複数の岩をノミなどで削って幅5メートル弱の道を造り、島の北東部の海岸から長さ約9メートルの船を海に降ろした。この時点で、造船を決意してから5年を経過していた(同)。>
 
 5年もかけて毎日毎日、根気強い作業を続けてきたことが見事に結実した。漂流者のみんなが必死で知恵と工夫を凝らし、力を合わせたからこそできた奇跡である。
 <長平らは、のちの漂着者の便宜を図って、自らの遭難の経緯と造船について記した木碑、生活道具、ふいご、火打石、船の模型などを洞穴の中に納めて標識を立てた(「ウィキペディア」から)。>
 1841年1月29日、漂着した万次郎ら5人も、「洞穴を住居として雨風をしのいでいた」と中濱博氏はのべている。ただ、万次郎らは上陸の時、船が岩にあたって木っ端みじんに砕けてしまった。「上陸時に釣り道具も火打ち石も失い、火もなく」、道具類は全く何もなかった。「道具類の中で、いちばん大切なものは火打ち石であった。(漂着した)15例の中で、火打ち石がなくて在島中、全く火を使う事ができなかったのは万次郎たちだけであった」「食べ物は全て生食、寒くても暖がとれないし、船が見えても狼煙をあげることができない」。
 中濱博氏はこうのべている(『私のジョン万次郎―子孫が明かす漂流の真実)。
 万次郎らは、長平らが暮らした洞窟と同じところを住居としていたなら、残したという火打ち石が目に入るのではないか。博氏は、長平らが残した火打ち石のことには何も触れていない。もしかしたら、万次郎らも火打ち石を使った可能性もあるのではないだろうか。
             野村長平像、市役所  
            
野村長平像(香南市役所HPから)

 

 八丈島へ辿り着き
 長平らによる船が出来上がった時点で、生存していたのは14名だった。船に乗り込んでも、孤島の鳥島から助けを求める八丈島までの航海がある。
 <漂着者14名全員が船に乗り込み、寛政9年(1797年)6月8日に鳥島を出港した。数日の航海で青ヶ島を経て、無事八丈島に辿り着いた。長平にとっては12年4ヶ月ぶりの社会復帰であった。一行はこの地で伊豆の国代官所(幕府直轄)の調べを受けた後、幕府の御用船で江戸に送られた。江戸での本格的な調べ(勘定奉行所および土佐藩邸)が済むと一行は解散し、それぞれ帰路に散った。これらの調べの記録は後世に残った(「ウィキペディア」から)。>

 このあと、長平は無事、懐かしい故郷に帰ることができた。
 <長平は1798年(寛政10年)1月19日に土佐へ帰還した。この時、地元では長平の13回忌が営まれていた最中であったという。土佐への帰還の際、年齢は37歳であったが、土佐藩から野村姓を名乗ることを許された。その後、野村長平は各地で漂流の体験談を語って金品を得るなどし、また妻子にも恵まれ、60年の生涯を全うした。帰還後につけられた「無人島」という彼のあだ名は、墓石にも刻まれた(同)。>
ロビンソン・クルーソーの日本版と言われる。クルーソーは無人島で28年間過ごして帰国したが、あくまでもイギリスの作家が描いた小説上の架空の人物。そのモデルは、スコットランドの航海長アレキサンダー・セルカークとされる。漂流してチリ沖の島で4年4ヶ月の間、自給自足生活をして救出された。
 長平の場合、クルーソーのモデルより、はるかに長い12年も過酷な環境の無人島で生き抜いて帰国した。どんな状況下でも決して絶望せずにあくまで郷里に帰ることを願って生きぬいた執念、精神力、忍耐力、体力と生活力はまことに驚嘆すべきものがある。
  終わり


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「無人島長平」と呼ばれた土佐の男、その1。

「無人島長平」と呼ばれた土佐の男

 中浜万次郎ら5人が1841年に漁船で遭難し、無人島の鳥島漂着し、約5カ月を経てアメリカの捕鯨船に救助されたことはよく知られている。それより56年前、現在の高知県香南市香我美町岸本の船乗りで1785年に漂流し、鳥島で12年間のサバイバル生活を経て故郷に生還した人物がいた。それが野村長平である。
 これまで、同じ故郷でありながら、高知にいる時はまったく知らなかった。この際、奇跡のような生還物語を少し紹介したい。
 鳥島は、周囲を断崖に囲まれた火山島である。アホウドリの繁殖地として知られている。食糧や水源もない孤島で生き残ることは容易ではない。
          鳥島 気象庁 
              鳥島(気象庁HPから)

 米を運んだ帰りに嵐に流され
 岸本の船乗りだった野村長平は、天明5年(1785年)仲間5人と、赤岡浦から米を船で田野浦と奈半利浦へ運んだ帰りに冬の大西風(シラ)にあい、鳥島(無人島)に漂着した。
 生還した彼は、「無人島長平」と呼ばれた。現在は地元には銅像と顕彰碑が建立されている。
 無人島長平の像の説明板は、長平について次のようにのべている。
 <香我美町岸本出身の「無人島長平」こと「野村長平」は今から213年昔の1785年(天明5年)奈半利から船で帰る途中あらしにあって流され、此地より南島に760キロ離れた太平洋上の無人島「鳥島」に流れついた。
以来、口では言い表せない程つらくて、苦しく寂しい12年余りの生活の中で常に希望を捨てず強く逞しく生きぬき、後から流れついた仲間達と一緒に流木で船を造って1798年に奇跡的な生還を果たした世にも稀な偉人である。
 平成10年(1998)は長平が、ここ岸本に帰ってちょうど200周年に当たる。
 この記念すべき年に長平を顕彰し、長平を世に出し、長平に学び、長平を後世に伝えることは、現代に生きる私どもの責務であると考え、ここに「無人島長平のイメージ像」を建立するものである。
  平成10年5月吉日建立 無人島長平生還200周年記念事業実行委員会>

 鳥島漂着の15例中6船は土佐から
 伊豆諸島の八丈島の南に位置する鳥島には、遭難した船が何度も漂着している。ジョン万次郎4代目の中濱博氏によれば、延宝8年12月(1681年)から慶応2年(1866年)までの185年間に15例の記録があった(『私のジョン万次郎―子孫が明かす漂流の真実』)。これを見ると、そのうち6隻が土佐の船である。太平洋を航行することが多い土佐の荷船、漁船は、遭難して鳥島にも漂着することが多かったのだろう。
     鳥島ウィキペディア 
            伊豆諸島。鳥島も「伊豆鳥島」と呼ばれている

 黒潮大蛇行に乗って
 では、鳥島への漂着船が多いのはなぜだろうか。その背景にあると見られるのが黒潮の流れである。
 四国・本州南方を流れる黒潮には、大きく分けて2種類の安定した流路のパターンがある。通常は四国・本州南岸にほぼ沿った「非大蛇行流路」と呼ばれている流れ。もう一つは、紀伊半島沖から南下して大きく蛇行して北上する「大蛇行流路」と呼ばれる流れである。黒潮がいったん大蛇行流路となると、多くの場合1年以上持続するという(気象庁HPから)

     黒潮の流れ、気象庁
        本州南岸を流れる黒潮の典型的な流路
    1:非大蛇行接岸流路 2:非大蛇行離岸流路 3:大蛇行流路

 中濱博氏の調べによると、万次郎が漂流した時は、この大蛇行があった年であった。
「大蛇行の黒潮は、北緯29度近くでヘアピンカーブして房総沖に戻る。船はこのカーブで黒潮から弾き出される」(同書)。
 弾き出された先に鳥島がある。長平らを含め15例も鳥島に漂着していることは、この大蛇行に流されたのではないだろうか。八丈島にははるかに多くの船が漂着したけれど、救助されたので、無人島暮らしのような困難はない。


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「土佐人漂着日記」を読む、その8

 日記は一カ月間空白に
 当初、14日出帆の予定だった。しかし、「現在の風勢では大和船の出帆は難しく、日程延期された」(13日付)とあるが、奇妙なことにその後の記述がない。そればかりか、那覇から出帆したときの記述もない。
大和に向かう船は、風波が強くて出せないで、何日か風待ちをすることはよくあることだ。しかも、季節が台風の来襲もある頃なので、台風接近で船を出せなかったのか。それにしても、船が出帆するのは1カ月後の7月18日である。それまでの間「土佐人漂着日記」は、「奇妙な空白」がある。
 栗野慎一郎氏は、次のようにのべている。
 「実際の那覇出帆が7月18日、翁長村出立が7月11日、乗船が同夜(史料によっては出立・乗船ともに12日)であるから、その間の3、4週間分の記事が抜け落ちていることになる」。なぜだろうか。「ある特殊な事情が存在したと考えるのが妥当であろう」。
 「ある特殊な事情」とは何か。それは現在のところ不明である。

 7月の乗船について「異国日記」は、次のように記述している。
 「順風により、大聖丸は明日未明に出港するということが、船頭からただ今届いた。ついては、漂着人は今晩乗船させる予定なので、先日申し上げた通りの役人たちを今日早々に翁長村へ赴かせ、漂着人を監督して大聖丸へ乗船させよ。なお、此方から見分役と附け役も一緒に勤めるはずである。この件を鎖之側へ早々に連絡して頂きたい。」
在番奉行所の堀與左衛門から12日付けで仲宗根親雲上に3人を那覇に移送し、大聖丸に乗船させることを指示している。「異国日記」もこれが最後の記述である。
 ここで「順風により」出港と船頭がいっていることから、やはり風波の強い日が長く続き、順風に恵まれなかったことが伺われる。
 いざ乗船したときも、やはり天候が崩れて5日ほど船中で待ち、18日に薩摩に向けて出発したという。那覇から12日間の航海で薩摩の山川港についたというから、積み込んだ食糧などは十分賄えたことになる。
    
200px-NakahamaJohnManjiro_20200719135111390.jpg    
       中浜万次郎
 土佐への恩義から優遇されたのか
 最後に、翁長村での万次郎ら3人の処遇について、かつて琉球人が土佐に漂着した際、お世話になった恩義に報いるため好待遇を受けたとされている話について、栗野慎一郎氏は疑問を呈している。
 「王府の対応はあくまでも漂着マニュアルに沿ったものであり、土佐人を優遇する姿勢を見せていたのはむしろ在番奉行所の側だったと思われる」「『土佐人だから』優遇されたのではない。琉球国がどの漂着者にも示す通常の取り扱いだった」(「解説 『土佐人漂着日記』を読むー豊見城とジョン万次郎―)。
 たしかに、海洋国家の琉球には、中国、朝鮮をはじめとするさまざまな国、日本の各地から船の漂着がしばしばあった。
 栗野慎一郎氏によれば、「琉球国では漂着船や漂着者についての対応マニュアルが、日本人、中国人・朝鮮人、異国人とケースごとに作成されていた。このうち、日本人の漂着については『日本他領之船漂着之時御用帳』という対応マニュアルが雍正年間に作成されていた」(同解説)という

 琉球が漂着者の対応マニュアルを作成し、どこからの漂着者であろうと丁重に扱った背景の一つには、琉球船の遭難がしばしばあったことがあるのではないか。
古くから琉球は、中国への朝貢や東南アジア、朝鮮、大和との交易、薩摩・大和への使節派遣などの際、船がしばしば遭難し各地に漂着することがあった。そのたびに、それぞれの国、地域でお世話にもなっていた。
 
 その一例として、琉球船が土佐に漂着して救護されたことが記録されているだけで4回ある。
 宝暦12(1762)年7月、漂流していて助けられ、宿毛の大島に曳航された時は、土佐藩の儒者、戸部良煕(よしひろ)著『大島筆記』に、感謝の様子が記されている。
 「九月廿五日首途(注・旅立ち)の御祝」の宴で「御厚意の至りて難有さ(注・かたじけない)、何の世までも忘れ難く…名残を思へば感情無レ究」「頻に落涙に及べり」(「大島筆記 雑話上」)とある。
その際、詠んだ琉歌が記されている。
 「土佐の殿金(かね)し 御恩たふとさや 世々ある間や 御沙汰しゃへら」
 (土佐の皆様方の恩義のすばらしさは、この世にある限り語り継ぎます)
 「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」
 (白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることはできません)
 土佐藩の対応も、琉球だから優遇したということではなく、漂着人への通常の対応だったかもしれない。しかし、当の琉球漂着人は土佐での対応の厚く感謝している。
 
 万次郎ら3人の琉球上陸は1851年だから、その90年ほど後である。
 「伝蔵が言う。以前琉球人が土佐に漂流した折りいろいろお世話になったことがあるので、その恩に報いるためにも粗末な扱いにならないようにと、国王が命じたので、このような厚遇になったのだと。」(「漂洋瑣談」[中浜家蔵]、栗野慎一郎著「『土佐人漂流日記』を読むー豊見城とジョン万次郎―」から)。
 一介の漁師にすぎない伝蔵は、90年ほど前の土佐藩による琉球人救護のことは知らないはずである。かつての土佐への恩義については、琉球側の役人が伝蔵、万次郎らに話したのではないだろうか。伝蔵の記憶も、土佐への恩に報いるためにも粗末な扱いをしないよう「国王が命じた」とのべており、自分の観測ではなく、琉球側からの伝言であることを示している。漂着マニュアルに沿った対応であったにしても、土佐人3人が琉球側の持てなしに厚い感謝の気持ちを抱いたことは確かだろう。
  
 以上で「土佐人漂着日記」からの紹介を終わる。琉球王府がこのような「土佐人漂着日記」をまとめていて、それが今回、栗野慎一郎氏の努力で冊子として発行されたことは、今後の万次郎らの研究にとって貴重な史料となるだろう。それはまた、琉球・沖縄と土佐・高知の縁(えにし)が、いまもなお続いていることを感じさせてくれる。
  終わり   2020年8月  文責・沢村昭洋


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「土佐人漂着日記」を読む、その7

 薩摩移送への準備
 最後に、3人が鹿児島に移送される経過を見ておきたい。
 <鹿児島にお届けする漂着土佐人たちへの物品支給リストのことは、前例とのバランスを考えて、親見世役人の名前の箇所に各自で奥書するように命じられ、…土佐人たちの渡航中の食糧の件は、前例どおり、親見世で調達するように命じられたので、前々からの事例により、日数30日分を調達し、なお、野菜・肴も数日は日持ちがする品を選んで渡すことなど、すべて前例どおりに指示され、そして、前文で指示した物品支給リストの調製については、見合わせることになったので、この渡航時食糧リストについては、こちら(評定所)にも提出するように命じられました(5月)>
 渡航中の食糧は前例にならって30日分渡すことにした。

 5月28日
 「漂着土佐人たち本人の身柄、荷物ならびにボートなどを乗船させ船積みする順序について前例などを見合せ、在番奉行所と協議書を作成し、さらごろ御鎖之側の小禄親雲上をつうじて、堀与左衛門が取り次ぎ、(在番奉行所に)提出したところ、今回の件は特段のご配慮によって左のとおり命じられ、以下の文書(76-2)が、本日、与左衛門から小禄に渡され、各部局に(乗船・船積みの)準備が命じられた」
 平田清右衛門、堀与左衛門、伊集院次左衛門、川上五後右衛門と才領(荷物運送の責任者)ほかが、6月9日の早朝から翁長村に出張され、「漂着人たちに近日中に船便があるので薩州(薩摩国)まで送ると通達」すると記している。
 さらに、横目1人、附役1人、足軽5人をはじめ11の職名の者をあげて、「出帆の前夜に漂着土佐人と荷物などを大聖丸に積み込む予定なので、翁長村からの道中を右の人達で警護し、連行して、船の警備役に引き渡す予定です。ただし道中はなるべく目立たぬように連行し、夜になってから乗船させる予定で、また、英人が徘徊することも予想されるので、なお一層、念を入れてください」と指示している。
    
薩摩在番奉行所跡 
              在番奉行所
 
 6月9日、薩摩の平田清右衛門ら5人、琉球の小禄親雲上ら3人が、翁長村に出かけて、「土佐人たちに近日中に船便があるので薩州まで送ると通達し、また、漂着の経緯について尋問され」、その後帰った。
 「このたび鹿児島船大聖丸で鹿児島に送致するので、出帆の前夜、土佐人ならびに荷物などを、右の方々(大和横目ら6人)」が警護され、そちら(翁長村)から那覇に移動し、乗船させるので、諸事その準備をしておくように、出帆の日程を決め、こちらの様子次第で何も支障がないように取り計らいなさい」。9日付で兼城親雲上が翁長村役人に乗船のため那覇への移動の準備をしておくように命じている。
 「漂着土佐人の宿所に備え付けた道具類のことは、土佐人一同が鹿児島に送り届けられるので、この者たちを那覇に連行する際に、警護の者たち一同も移動し、(道具類を)大聖丸船長に引き渡すように心得なさい」。6月10日付、川上親雲上が翁長村役人に指示している。

 <漂着土佐人たちを乗船させる件について、かつては来たる13日ということになっていましたが、14日に変更されました。ただし、(在番奉行所の)横目と附役のお2人は、14日の午前10時頃に、直接翁長村にお出でになられますので、鎖之側と日帳主取(注・ひちょうぬしどり、表15人の一人)もそのお心づもりで、(翁長村に)ご出張されますように。また、この土佐人たちを乗せる駕籠や荷物持ちの人夫などを手配していただけるように、私から王府に上申するように、在番奉行様より、命じられましたので、この件をご連絡いたします(6月11日)>

 <漂着土佐人たちの乗船のことは、来たる14日と決定し、(在番奉行所の)お役人衆も14日の午前10時頃、直接翁長村に出向されるので、我々もその心づもりで出向するように、また加籠(ママ)や荷物持ちの人夫などについても準備すべきであると在番奉行所より命じられたという(貴方からの)書面が(評定所に)到着し、披露され、それぞれの準備などについて翁長村に通達しておきました。(12日)>
 
 万次郎ら3人を乗せる駕籠は、在番奉行から準備することを王府に上申するよう命じられ、王府の評定所でも披露されたとのべている。
 駕籠は、「時に王より命也とて駕籠来り」(難船人歸朝記事=高知市立市民図書館蔵)。万次郎らは、尚泰王の命令で用意されたと聞いたようだ。もともとは薩摩側の指示があったけれど、当人には「国王の命によって駕籠が来た」と伝えられたのだろうか。
 <明日、土佐人たちを那覇に連行する予定だったが、現在の風勢では大和船の出帆は難しく、日程延期されたことを、堀与在衛門殿より日帳主取の兼城親雲上に通達があったので、翁長村にも左のとおり連絡しました。(6月13日)>
    
那覇港 
                   現在の那覇港

 食糧30日分を積み込む
 <漂着土佐人の渡航中の食糧は、これまでの前例に照らして、日数にして30日分を渡すように、那覇の役人たちに命じられました。ところが、当地(琉球)に日本の他藩の者が漂着した際の諸経費の処理については、嘉慶15年(午年1810年)に奥州人が漂着した際に、鹿児島より指示を受けましたが(その時は)運賃米として渡航中の30日分を、食糧費は王府の会計(原文・御物御計)から支出するに命じられ、そのほかはすべて琉球国の財源(原文・琉球国役)で負担するようにと(当時)命じられていたので、(今回も)間違いなく、そのように処理するように差配しなさいと(摂政・三司官からの)ご指示です。以上。>
6月14日、兼城親雲上から御物奉行あての連絡である。
 注・栗野氏の注釈によると、[御物御計 おものおはかり]王府の通常の会計からの出費。[琉球国役 りゅうきゅうこくやく]幕府が諸藩に課した国役普請(くにやくぶしん)と同様の意味か。[国役 くにやく]幕府が臨時に国を定めて課した河川工事などの賦役。

 ここからは、私のまったくの推測になる。国役は、江戸時代には、幕府が一定の国に限って臨時に賦課した税のこと。たとえばこんな記録がある。
 「幕府は(琉球からの)江戸上りの一行が通行する街道の諸国に対し人馬の提供や周辺道路の整備をするよう命じ、1833年(天保4)にはその費用として武蔵・近江など8ヶ国に国役金(100万石につき250文)が課せられた」(「文献で見る沖縄の歴史と風土」、琉球大学附属図書館貴重書展 2001年度。3-6. [琉球人帰国に付国役金の記録:天保4年近江知行所])。
 琉球からの「江戸上り」が通行する街道諸国8か国に、国役金を課したという。
この用例で見るように、「国役」はあくまで幕府と各藩の関係であるが、「日記」は「琉球国役」と言って「琉球」の名がついている。ということは、幕府が琉球に直接に賦課することはないので、薩摩藩が琉球に臨時に賦課した税のことを指しているのではないだろうか。

 ということは、大聖丸で薩摩に渡るにあたって、「渡航中の30日分の食糧費」は琉球王府の通常の会計から支出し、そのほか運賃はじめ諸経費は、薩摩が琉球に臨時に課していた税、つまり本来薩摩に上納すべき税から支出するよう指示しているのではないか。そうでなければ、わざわざ食糧費とその他の経費の負担の財源を分けて指示する意味がない。
 土佐人3人の薩摩への移送にかかる費用すべて、琉球の通常の会計から支出するのではなく、薩摩への上納分からその費用に回して、薩摩も費用を負担する形をとったということではないだろうか。
 とはいっても、「琉球国役」が薩摩に納める臨時の税だとすれば、財源はすべて琉球国の負担になるというである。それでも、すべての費用を王府の通常の会計から支出し、「琉球国役」という臨時の賦課も通常通り薩摩に納めるのでは、薩摩は何も負担しないことになる。土佐人を薩摩に移送するのだから、薩摩も負担している形を取りたかったのかもしれない。

 「渡航中の食糧費として30日分を渡す」として、3人分の食糧などのリストが記載されている。「中白米6斗7升5合」「上味噌6升7合5勺」「醤油2沸(わかし)7合」(沸とは、酒など量を計る単位)「塩魚45斤」「野菜56斤2合5勺」「国分たばこ450目」、他に酢、塩、菜種子油、炭、中茶、薪木など品々が並んでいる。30日分とあれば相当は物量である。 
 日付の入った記録は6月24日付、「万次郎に支給された草履が大破し、もう一足は支給していただきたいという申し出があったので、支給する方向で調整してください」という翁長村役人から御鎖之側への連絡が最後になっている。


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「土佐人漂着日記」を読む、その6

  ボートを保管し修理、回漕へ

  三人が上陸に使ったボート(アドベンチャラー号)の扱いについても、再三「日記」には記載されている。
 最初の3日付け報告で「ボートは小渡浜に保管して置きました」とのべている。同日さらに間切の地方役人が「本日漂着土佐国人が乗っていた小舟は、当間切小渡浜に保管しておきましたが、久高島か糸満人のいずれかの者を雇われ、那覇に回漕するように、ご命じください」と申し出た。だが「何分にも事が収拾しないうちは、那覇に回漕させることも実施しがたい」として、摩文仁間切に次のように命じた。
 「本日漂着土佐国人が乗って来た伝間船(ボート)の件は、那覇に回漕するようには命じられなかったので、そちらで昼夜監視人を付けて、しっかり保管しておき、いずれにせよ王府からの指示が出次第すぐに処置するように取り計りなさい」と指示が出た(3日付)。

    IMG_8225_2020071814061942a.jpg
          ボートを着けて上陸した小渡浜のサシチン浜

 ボートは小渡浜から番所に運ばれて保管されることになった。
 「当間切に漂着した土佐国人の形貌や船の形などが異国に似ていたため、間切中の浜辺や山野をくわしく捜査しましたが、何ら疑わしい不審な点はありませんでした。ただし、(土佐人たちが乗ってきた)古舟(ボート)については、小渡浜という場所に置いていますが、荒れ場であり、人里離れた場所に長らく放置していることは、心配なことでもありますので、一昨日、番所に持ってきて保管させました」(8日付報告)。

 ボートは、薩摩役人らも視察に来ることになった。
 正月17日、在番奉行の島津登と異国方の松本十兵衛・野元一郎・堀与左衛門が翁長村に到着した。琉球役人と薩摩役人も列席して、漂着土佐人たちに経緯を尋問した。尋問し荷物検査も終了して、在番奉行と十兵衛が那覇に帰ったが、「一郎殿・与左衛門殿・仁右衛門殿の3人は、1日2日は翁長村に滞在し、なお様子を詳しく尋問されて、尋問が済み次第、摩文仁間切にも向かわれ、ボートを調査されるそうで、残られました」。

 薩摩の松本十兵衛と琉球側の喜屋武親雲上も、一郎など一同と一緒にボートを検分されるということで翁長村に22日、到着した。
 翌日、摩文仁間切に着き、ボートを検分した。ボート検査記録がある。
 ボート一艘。長さ4間半(約8メートル)、中ほどのさし渡し5尺1寸(約153センチ)。
 その後、5月になってボートを薩摩に運搬するように連絡が来た。
 「標着土佐人たちが乗船してきたボートの件は、今年の夏便の鹿児島船大聖丸に載せて、鹿児島に運搬されるので、この大聖丸の船長から、水主たちにボートを見学させたいという申し出があり、明後22日に、足軽を付き添わせて、そちら(摩文仁間切)に派遣すると、在番奉行所から連絡があった」(20日付)

 「漂流した土佐人たちが乗り合わせていたボートの見学のため、一昨日、足軽の内藤直右衛門が、大聖丸水主一人を連れて、当間切に出向かれ、ご検分が済みました。このボートは鹿児島に運搬されるので、いずれ、在番奉行所から評定所(表御方。注・評定所の下の御座)にご連絡があるはずですので、その際には遅滞なく那覇に廻船するようにと、内藤直右衛門から申し出がございました。そうではありますが、当間切の者たちは、操船について知らないという事情があり、ボートの廻船については、兼城間切糸満村に命じていただきたいと、お願い申し上げます」。間切の地方役人から24日付で申し出があった。

 ボートをなぜ薩摩に運搬するのか、その理由はよく分からない。アメリカのボートに興味があったのだろうか。
 ここで留意する必要があるのは、摩文仁間切も海岸に面しているのに、「操船については知らない」とし、糸満村に頼むように求めていることである。琉球王府時代、琉球は海に囲まれた島国でありながら、船で沖合に出て漁業を営んでいたのは、糸満や久高島などに限られていた。その他の地域は、農業が基本であり、魚を獲って食べてはいても漁業は営んでいなかった。だから、摩文仁から那覇まで廻船するような操船は「知らない」として、操船にたけている糸満人に頼むことになったのだろう。
 琉球の漁業については、このブログで「大漁歌のない不思議」としてアップしている。

 薩摩へ移送に向けて
 いよいよ万次郎らが薩摩に移送される日が近づいてきた。
 「漂着土佐人たち本人の身柄、荷物ならびにボートなどを乗船させ船積みする順序について前例などを見合わせ、在番奉行所と協議書を作成し」、在番に提出したところ「今回の件は特段のご配慮によって左のとおり命じられ」たとして、各部局に乗船、船積みの準備が命じている(5月28日付)。
 ボートについて、「天候次第で、大聖丸の水主(注・船員)2人と琉球の船方(注・船乗り)12人が乗り付け、途中でも念を入れ、目立たぬように、夜になってから那覇港に回漕し、右の者たちが立ち合い、検査して、(ボートを)大聖丸に積み入れ、船の警備担当者に渡すのが良いでしょう。ただし異国船などを見かけたなら、どの浦にでも漕ぎ入れて隠して置くように、とくに指示してください」とのべている。
 
 いざ回漕するとなったさい、ボートに破損があることが問題となった。
 「ボートは、このたび鹿児島船大聖丸に載せて鹿児島に運搬するので、船方の者12人は、明日、大聖丸の船長が同行し、右の水主も2人連れて、摩文仁間切に出張し、明後10日に那覇に廻船するようにしていただきたい。また、このボートは破損個所があり、修理しなければ廻船できないので、桐油(注・油脂、耐水性がある)・餅2升・間の板1枚・一寸釘150本の支給を命じていただきたいと、船方たちが検分した結果、申し出があったので、これもまた、支給するように指示してください」(6月8日付)。
 万次郎らが、サラボイド号から降りて琉球に接岸するさいに、岩礁にでも当てたのだろうか。1月から保管してあるのに、実際に廻船するにあたって船乗りが点検したら修理しなければ回漕できないことがわかったのだろう。
 修理はすぐに終わったようで、10日には摩文仁間切から那覇港に廻船するよう命じられた。

 ボートは、琉球のサバニなどとはまるで異なる西洋式の舟で目立つので、廻船にあたっても、大聖丸への船積みにあたっても、徹底して隠すことを命じている。
 「那覇港に到着したら、この船(大聖丸)の船長と会い、「わら莚(むしろ)で堅固に荷造りを調えさせるよう取り計りなさい」との指示が出た(8日付)。
 「もし途中で異国船などを見かけたならば、どこの浦にでも差しかかり次第、陸に引き上げ、異国人の目にかからぬように保管しなくてはいけないので、早急にその準備をしておき、ボートの乗員の状況によっては遅滞なく駆け付け、この乗員たちと合流して、船の保管に努めるように、途中の諸間切に指示してください」(8日付)。
 那覇への廻船の途中でも、異国船との遭遇をとても警戒している。どこかの浦で陸に引き上げて隠せとの指示。そこまで警戒する必要があるのか、不思議なほどだ。

 ボートは無事那覇港に着いた。
 「本日、土佐人のボートを摩文仁間切より回漕し、日没頃に那覇に入港した」ので役人が立ち合い、検査し、「すぐに大聖丸に乗せて、御船手奉行所から供出させた、わら莚(むしろ)で荷づくりし、船長に引き渡しました」(10日付)。


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「土佐人漂着日記」を読む、その5

  ベッテルハイムとの関わりがあった

 万次郎らを那覇に入れずに豊見城間切の翁長村に向かわせたのは、那覇にイギリスの宣教師ベッテルハイムがいるので、海外生活をしてきた万次郎らに会わないためであることは、すでに見た通りである。
 このような隔離策があったので、万次郎らとベッテルハイムが逢う機会は史料で見る限りなかったと思われる。お互いにまったく知らない者どうしであり、2人に何の接点もないと思っていた。ところが、「土佐人漂着日記」には、2人を結びつける証言が記載されている。

 正月19日付には、次の記述がある。
 <伯徳令が、妻子などを引き連れて逗留していることが、「ウワフ国」(現在のハワイ・オアフ島)で噂になっているようなことは聞いていないかと尋ねたところ、そのような噂は聞いていないが、かの国では「白坊主」という者から万次郎に、琉球に渡るようなことがあるなら、友達が琉球に渡っているはず、今も滞在していて出逢ったならば、書物一冊を届けるように言われて、(その書物を)持って来ているということです。このように話すので、どのような内容が描かれているのか、この書物を取り出させて読み聞かせをさせたところ、西洋の軍事情勢、また商売をして手柄を得たこと、そのほか、古事など色々なことが書いてあり、だいたい日本の「節用」のような書物でした。
 なお、この書物は17冊のうちです。>
 「17冊のうち」とは、土佐人3人が所持していた品物リストの中に「書物大小17冊」があり、そのうちの1冊のことである。
    Bernard_Jean_Bettelheim_20200718135203fda.jpg 
      ベッテルハイム   

 「伯徳令」とは、ベッテルハイムのことをさす。
 「白坊主」とはなにか。宣教師として来日したフランシスコ・ザビエルは、鹿児島に上陸し日本への布教の第一歩を記し、薩摩で「白坊主」と呼ばれたことがある。ハワイにいた宣教師牧師のことを指しているのだろう。
 万次郎らは、最初に救助されてハワイに着いた時、ホイットフィールド船長から土佐人5人の世話を引き受けたのがG・P・ジャッド宣教師だった。彼は「医師としても信望が厚く」活躍した人だったという(島袋良徳著「ジョン万次郎物語」)。
 ハワイで万次郎が親しく接した牧師にサミュエル・デーマン(デーモンとも)がいる。彼は、「鯨捕りたちの精神生活の安定と、劣悪な労働条件の改善のため生涯をささげた」(川澄哲夫著「ション万の夢」、『ジョン・マンとゆかりのまちの旨いもん 高知県・土佐市』所収)。
 帰国に際しても、万次郎はデーモンに相談し、デーモンから米商船「サラ・ボイド号」が近く中国の上海に向かうことを教えてもらい、船長に頼んで乗船させてもらった。

 デーモン牧師は、自分が創刊した「フレンド」紙に「日本遠征」と題する記事を書き、万次郎が「無事に故国へ帰り着き、日本の開国に貢献し、ひいては通訳として成功する」ことを祈った(川澄哲夫著「ション万の夢」)という。
 知られているだけで、万次郎らはハワイでこのような宣教師牧師と交流があった。
 ベッテルハイムは、プロテスタント宣教師である。ハワイは、プロテスタントが布教され、カトリックは入れなかった。万次郎が知り合った2人ともプロテスタントと見られる。
 「白坊主」というのは、万次郎と縁のある2人のうちのいずれかの可能性がある。でなければ他の宣教師から書物を届けるよう依頼されたのだろう。
 ちなみに、ベッテルハイムは8年余り琉球に逗留した後、来琉したペリー艦隊とともに琉球を去り、その後、アメリカに渡りそこで死去した。
 「節用」とは、「実用的な教養書、雑学集」(精選版日本国語大辞典の解説)のことである。ベッテルハイムがそのような書物が欲しいと手紙で依頼していたのかもしれない。

 万次郎はクリスチャンか
 万次郎本人も、実はキリスト教との関わりがあった。
  ホイットフィールド船長とともに行ったアメリカ東部のフェアヘブンの街では、学校に入り教育を受けた。船長は日曜日にいつも万次郎を教会に連れて行った。街の名士は一般席と違い、祭壇の左右に家族席があり、ホイットフィールド家の席もそこにあった。万次郎は黒人と同様に見なされ、連れて来るのを断られた。船長はそのような教会には行かないと言って、受け入れてくれる教会を探して一家の宗派まで変えて移ったというエピソードがある(中濱博著『私のジョン万次郎―子孫が明かす漂流の真実』)。
 クリスチャン新聞の編集部長を務めたジャーナリスト・作家である守部喜雅氏は、次のように指摘している。ホイットフィールド船長が、「万次郎を学校に入れ、教会に連れて行き、聖書をプレゼントした。日本に帰る時、聖書を持っていなかったのは、キリスト教が禁止され迫害されていたから。万次郎が長崎で牢獄に入れられたのもキリシタンの疑いを持たれたから」(2018年5月20日、沖縄ジョン万次郎会の講演「ジョン万次郎と西郷隆盛」から)。

 万次郎は教会で洗礼を受けていたという説がある。しかし、万次郎はクリスチャンかという質問に対して、万次郎4代目の中濱博氏は、「万次郎の洗礼証明書を探したが、教会が洪水にあって、当時の書類が流出してなくなっており、未解決に終わった」(『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』)とのべている。
 しかし、<その後の行動や考え方を見ていると、クリスチャン的である。「ジョン万」は単なる愛称ではなく、ジョンはクリスチャンネームとして使っていたと思われる(中濱博著『私のジョン万次郎』)>
 ホイットフィールド船長に宛てた万次郎の手紙を見ると「あなたは私にとって神の次にこの世でいちばん大切な方です。どうか神のお恵みが私たちすべての者の上にありますように」(1847年3月12日付けグアム島よりの手紙)とある。博氏は「クリスチャンでなければ使えない神に対する表現が見られる」(同書)としている。
 キリスト教の倫理として知られる「隣人愛」を万次郎は実践していたようで、「万次郎が残してくれたものは隣人愛です」と万次郎5代目の中浜京さんは語っている。
  聖書も持っていた。「万次郎が使っていた聖書は鎖国中の日本に持ち帰れず、船長の家に置いてあったものである。…現在私の家に残っている」(『私のジョン万次郎』)。祖父の東一郎が持って来たとされているらしい。

 万次郎ら3人は、琉球で直接、この問題で尋問されている。
 正月17日に、在番奉行所の役人、王府の役人らが翁長村に出向いて、3人の尋問や荷物検査などが行われた。その際、「この3人に、異国において、ヤソ(耶蘇)の道、またはそのような邪宗を学んだことはないのかと、再度、問いただしていますが、一切そのようなことはないと、何度も変わらずに申し出ています。もっとも3人ともに宗旨は一向宗であるということです」。 
 教会に行っていたことは確かだが、ここではそう答えるしかなかっただろう。
 この日の尋問と荷物検査では、3人が所持していた品物は「すべて当用の品と見受けられ、当人たちに引き渡しておきました」とのべている。この中に17冊の書物があり、「白坊主」から依頼された書物も返されている。
 もし、ベッテルハイムと出逢う機会があれば渡すことができただろう。でも、万次郎らとベッテルハイムとの接触を避けるために、琉球側がとても神経を使っていたことから見て、出会いはなかったと思われる。



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「土佐人漂着日記」を読む、その4

 体調崩し、医者を派遣
 6カ月余りの滞在の中で、体調を崩し、薬を要望することがあった。
 最年長の伝蔵(48歳)は、眼病を煩い、目薬を支給してほしいと申し出た。「海上にいるころから具合が悪く、…いまだに平癒しない」という(2月23日)。
 目薬が支給され、「よくなった様子でしたが、晩になってつけ薬が切れた」として、もう一壺支給の申し出があり、支給の指示で出された(3月3日)。
 五右衛門は4月20日ころから、「腹の具合が悪いのか、…食事が進まない様子で、その上、夜中にろくろく寝ることもできないので、どうぞ薬を支給してください」と申し出があった(21日)。
 24日に、「医者の玉城筑登之親雲上が当地に到着し、脈を看て、具合を尋ねるなどして、煎じ薬2袋の分はその場で見守りつつ与え、3袋は翌日また与えるように」と渡され、その通りに呑ませた。だが、「未だ快い状態にならないので、もう一度医者に会って治療を受けたいと、この五右衛門の申し出があった」として、翁長村に詰めている役人から御鎖之側に連絡があった。
 医者に、煎薬を服用させたが快復しないので「早急に往診して治療し、明後29日の午前10時頃に登城し、結果を報告しなさい」と命じた。
  その後、翁長村に詰めている役人は、「医者を派遣し、治療を命じていただいて以後は、だんだんと食事も進み、寝やすくもなった様子である」(5月2日)と連絡をしている。
  
  医師は肩書に「異国医者」とある。名前は琉球人の名だが、外国系の医者なのか?
 ちなみに、長堂英吉著の小説『通詞 牧志朝忠の生涯』を読んでいると、「度佳羅(とから)島の医師・伊知良親雲上と名乗り、琉球士族の衣裳を身につけ…」というカ所が出てくる。トカラ列島の人びとは船を操るのが得意で、琉球と薩摩の間を人・物・情報を運んだとされる。実際にトカラ列島から医師が来ることはなかったかもしれない。「異国医者」といっても、西洋や中国とは限らない。
 少し話は横道に入る。イギリスから来た宣教師・ベッテルハイムは医者だった。無料診療所も開いた。
 <琉球の人々の間でベッテルハイムの診療所は根強い人気があった。平民はおろか士族、役人でさえ診療及び処置を人目を忍んで受けていた。夜の闇に紛れ、雑木の茂みに隠れ、彼の通るのを待ち受けた(『英宣教医ベッテルハイム』)。>
ベッテルハイムの琉球の人々への最大の貢献は、1848年牛痘痘苗(ワクチン)を紹介したこと。日本より1年早かったという。
 
   中浜万次郎集成1 
     伝蔵(右)、五右衛門(左)、河田小龍の似顔絵(『中浜万次郎集成』から)     

 土佐藩への体裁を考慮
 土佐人3人が翁長村に留置するにあたって、取り締まりについて再三、指示が出された。
正月4日には、「留置している人家の門前に関番用の仮小屋を建て、番人として間切役人から2人、翁長村の位衆(村役人)から3人、百姓から2人ずつ昼夜を問わず詰めさせ、厳重な取り締まりを申し渡しておきました」と報告している。
村人や土佐人には、次のような指示を出した(要約)。
 土佐人をむやみに村中を徘徊させない。地元民を近づけない。出会っても、中国・日本・琉球の様子など話させない。宿所付近に女性を通行させない。防火に念を入れる。漂着者相手に商売させない。進物・贈答をさせない。 
 これを堅固に守ること。守らなければ、間切役人の「落ち度(責任問題)」であると言い渡している(正月4日)

 興味深いのは、警備のため宿所の周りに虎落(もがり)を設置するのがよいかどうかを検討していることである。虎落とは、竹を筋違いに組み合わせ縄で結い固めた柵や垣根のことである。
 在番奉行の島津登から、漂着土佐人の宿所のことは、異国人の警備と同様であり、虎落(もがり)を結び調えさせる方法で良いのか、検討するよう話があったようで、その検討結果を正月14日、小禄親雲上が在番奉行所に行って口頭で申し上げた。
 <(評定所のメンバー)全員で協議したところ、土佐人たちは、異国に長年逗留していたことであるので、「虎落」などの警備を命じていただく方が良いとまず考えますが、そのままでは土佐国に対する体裁をどう整えたら良いでしょう、さらに逗留中の英人があの付近を歩行しており、「虎落」を見つけたら差し障りがあるはずです。この宿所には竹垣の囲いが(すでに)あり、堅固に結びたてるように通達して置いてあります。ことに土佐人たちは格別に律儀なこともあり、警備の方法や警備の人員を厳重に措置すれば、何ら困った事態にはならないだろうと判断して、摂政と三司官に結果を報告し、このことを申し上げます。ただし、何といっても、(在番奉行所の)ご検討が重要と考えます。>
 
 つまり、王府としては、土佐国に対する配慮やベッテルハイムが歩行してきた場合の対応として、重要な犯罪人でも囲うような虎落はなくてよい。すでに竹垣の囲いがあり、土佐人も律儀であり、きちんと警備すれば問題が起きるようなことはない、ということだろう。
 こういう警備についても、万次郎らの出身地、土佐藩への体裁を重視して検討していることが注目される。万次郎らが帰国して後の琉球と土佐藩の関係まで考慮している。もしかしたら、琉球からの遭難船が再三、土佐に漂着し、土佐藩に保護してもらったことへの配慮があるのかもしれない。
 ただし、虎落はまったく設置されなかったわけではない。
 土佐人の宿所の囲いの外、前方の正面に「井門」(井戸)があり、「通路の取り締まりのために『むかり』を設置しておいたところ、この者たちは手足や衣裳を洗う際にこの『むかり』から常に越えて行き、水を使っている」とし、今のままでは不用心だから止めさせたいが,言っても難しいので、門外から真竹で「むかり」を設置させることを検討してほしいと、翁長村役人から要望が出された。(3月19日付)。御鎖之側から「かならず設置するよう、差配します」と連絡している(同日付)。
 こんな取り締まりがあっても、万次郎らがよく出歩いたことは、草履が何度も擦り切れたことにも示されている。万次郎はよく、家の前に目隠しや魔除けのため置かれているヒンプン(屏風)を飛び越えて出掛けていたという。村の大綱引きにも参加したと伝えられ、村人との交流もあったようだ。


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昆布をめぐる富山の薬売りと薩摩藩の深い関係

 昆布をめぐる富山薬売り薩摩藩の深い関係

 NHKテレビで、「歴史ヒストリアーー富山薬売り 知恵とまごころの商売」(2020.5.27)を見た。番組後半で、富山薬売り薩摩藩の昆布をめぐり深く関わりがあったことを探っていて興味深かった。

 わがブログでも、これまで薩摩藩が北海道などの昆布を手に入れ、琉球を経由して中国に輸出し、中国から輸入した唐薬種が富山に流れていたことを取り上げたことがある。今回の、番組は、とくに薩摩藩が昆布を入手するうえで、富山薬売りが重要な役割を果たしていたことを明らかにしていた。薬売りの介在については知らなかった。それで、この部分にかかわるところの要旨を私流の理解で紹介する。

 富山薬売りで、9代続いた金盛家は、家宝として、幕末に薩摩藩の国父・島津久光公から拝領した太刀がある。
 富山の薬売りは、「先用後利」で常備薬の入った薬箱を各家に置いてもらい、定期的に巡回して使った分だけ代金をもらう置き薬の販売方式をつくりだした。

 薬売りは、全国22組に分かれて各地を回り活動していた。薩摩組もその一つだった。
 ところが、悩ましいことに薩摩藩が富山の薬売りを差留(営業停止処分)するという知らせが内々にあった。薩摩の差留は5度目。全国でも特に差留が多かった。

 薩摩は、火山が多く米作りに適さない土地。さらに将軍家に島津家の女性を嫁がせたためその費用が財政を圧迫。藩内の富を渡すまいと薬売りを厳しく制限した。薬売りたちは、差留を回避できないか薩摩藩町年寄、木村与兵衛に相談した。
 木村が、その方策としてあげたのが昆布だった。
「薩摩藩は財政改革をするため中国貿易を活発にしなければならない。その最大の輸出品が昆布だった」(志學館大学教授の原口泉さん)。
 中国・清では昆布が食材として珍重された。薩摩藩は蝦夷の昆布を手に入れ、琉球を中継して中国に輸出しようと考えた。ところが、昆布の輸出は幕府しかできない決まりだった。
 幕府に知られなく昆布を入手できないか、薩摩藩が注目したのが富山の薬売りだった。

 富山は当時、蝦夷と大坂を結ぶ海運の中継地点。昆布の入手は比較的容易だった。
 だが、薩摩藩との関係が公になれば幕府に追及され、罪に問われかねない。しかし、薬売りは決断した。
 富山の薬売りと薩摩藩との間の昆布取り引きに関する史料がある。薬売りたちが薩摩藩からお金を借りた。その額は500両。現在の価格で6000万円余りとなる。この頃、別の史料では富山から薩摩藩に昆布が届けられたと記されている。
      薬売りと昆布、NHK 
                 薩摩藩から500両借りた史料(NHKの画面から)

「500両は大変な額ですから、昆布の買い付けを依託したお金としか解釈できませんよね」(原口)
 巧みに幕府の目を逃れる取り引きだった。薬売りたちの差留は回避された。
「ようやく薩摩のお客さんへ薬を届けることができるようになりました」いう薬売りたち。
 一方、薩摩藩は財政を再建、軍備の西洋化など明治維新につながる実力をつちかっていく。「昆布の取り引きで得た資金がそこに投入されたと見るべきでしょう。昆布によって薩摩藩は財政破綻から脱出して日本一最強の藩によみがえったといっても過言ではありませんよね」(原口)

 薩摩藩と富山の薬売りたちの関係はこれだけにとどまらない。その後も続いた。
 1862(文久2)年、薩摩藩の軍勢が京へ出発した。軍勢を率いたのは島津久光だった。
 史料では、久光がこの時、富山の薬売りを同行させたことがうかがわれる。驚くべきことを命じていた。「密命を申し付けた」(願書留)。
 命令された一人があの刀をもらった金盛五兵衛。その命令とは、なんと隠密、スパイだった。薬売りの仕事は、比較的どこにも出入り自由である。それを利用して情報を得たと思われる。さらに自分達のネットワーク(薬売りの)を生かして全国から情報を集めた。
「久光というのは45歳で始めて中央政界、京都へ行ったわけです。これはなんのツテもありませんから、長年の信頼、取り引きの信頼に基づいた関係ですから、久光にとっては頼もしかったでしょうね。」(原口)

 これらの情報は、暴走した藩士たちの、いわゆる「寺田屋事件」を静めるさい役立ったといわれる。
 五兵衛はまた、病になった薩摩藩の樺山資紀(後の海軍大将)を看病した。こうした働きの礼として島津久光が贈ったのが金盛家の太刀だった。
 あらましこのような内容だった。
 この番組は富山の薬売りと昆布の入手だけに焦点をあてていたが、薩摩藩と昆布、富山の薬との関係はこれだけにとどまらない。中国に輸出された昆布が薩摩・琉球への運ばれる密売ルートがあり、さらに中国から輸入した品物のなかに唐薬種があり、富山の薬屋に流されていたという。

 昆布の密売ルート
  富山薬売りと昆布、NHK   
  昆布は中国で珍重された。NHKテレビから
 
 ここで、最近、昆布について書いたブログから、再掲しておきたい。
 中国から買い取る品物のなかに唐薬種がある。これと琉球が販売する昆布とは密接な関係があった。
 <昆布が採れない沖縄の昆布消費量が全国上位を占める背景に、薩摩支配下の琉球と清国との交易関係がからみ、蝦夷地(北海道)で採れる昆布が薩摩・琉球へと運ばれる密売ルートがあった。漢方薬の原料「唐粗材薬」を必要とする富山の売薬人側と大量の昆布が魅力の薩摩藩との利害が一致した。北前船に積まれた昆布を日本海沿岸のどこかの湊で積み替え、薩摩に直行。長崎以外で輸入は禁制の唐薬種を売薬人が密かに購入するという取引方法が行われていたのではないか。琉球に運ばれた昆布は那覇湊にあった「昆布座」(注・在番奉行所の隣)に納め、中国へ輸出された。薩摩は進貢貿易を利用し莫大な蓄財をなし,「『昆布』は、討幕へと富国強兵を勧める牽引力ともなっていった」(竹内經氏著「幕末の琉球を探るーー琉球へ運ばれた昆布の道」)。>

 薩摩船が来ていた新潟
 では、どこの港で積み替えが行われていたのだろうか。
 上原兼善氏は「薩摩船が唐薬種類を新潟湊で松前産の俵物・諸色の類と換えていた」と指摘している(『近世琉球貿易史の研究』、「薩摩船による北国筋における抜荷」)。
 俵物(たわらもの)とは、俵に詰めて輸出された煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の海産物のこと。諸色(しょしき)は、昆布、テングサ、スルメなど。
 薩摩湊浦の八太郎の持ち船が1835年10月、長浜藩領村村松浜に漂着、積荷物として唐薬種・毛織物・犀角等の御禁制品を多く積み込んでいた。これが発覚して、関係者が処罰された。村松浜遭難薩摩船事件と呼ばれる。

 幕府の命を受けて探索にあたった川村修就が報告書「北越秘説」のなかで、次のように報告している(要旨)。
 <新潟町で琉球廻りの唐物抜荷を密かに探索したところ、事件が発覚する6ヶ年ほど前までは毎年6艘ぐらいずつ薩摩船の入津があり、春は薩摩芋、夏は白砂糖・氷砂糖などをもたらし、船の下積みとして唐薬種・光明朱(色鮮やかな上等な朱)などを多量に積み込んできて公然と交易していたこと、領主もそれを了解し、薩州船よりは特別な運上を取り立てていたこと、そして不正の唐物は奥羽をはじめ、北国筋にも出回っていたことなどを情報として摑んでいたのである。>
 事件は「同湊が琉球唐物抜荷の北国の拠点であったことを象徴的に示していた」。

 幕府は、松前・蝦夷地より、煎海鼠・干鮑・昆布が薩摩・越後辺りへ抜け散っているとの風聞を指摘して、長崎会所以外への販売を禁じる抜荷取締り令を発していた。(『近世琉球貿易史の研究』)
新潟湊には春秋2度にわたって薩摩船が入船し(春船・秋船)、唐薬種・砂糖・鰹節・芋などの類をもたらしていたが、事件は唐薬種の類が新潟から、またさらに越中富山・信州・上州にまで抜け散っていたことを示していた」「薩摩船が九州へ下るにあたっての積荷は、松前産の俵物・諸色の類が主力をなしていたであろう」(同書)
 このようにして、松前産の昆布などが薩摩に大量に運ばれ、それが琉球を経て中国に輸出されていたのである。
 この項は、ブログ「レキオ島唄アッチャー」の「『冠船付評価方日記』を読む」から。




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