fc2ブログ

レキオ島唄アッチャー

「土佐人漂着日記」を読む、その1

  「土佐人漂流日記」を読む

 

 ジョン万次郎3人の土佐人が遭難し、米捕鯨船に助けられて約10年、海外の地で過して琉球に上陸したのは、1851年旧暦13日。豊見城間切(今の町村)翁長村に半年余り滞在した。薩摩に移送されるまでのこの間の首里王府による記録「土佐人漂着日記」が現代語訳されて、「豊見城市史だよりvol.14」として発行された。

 この史料は国宝である「尚家継承古文書」(尚家文書)の目録番号492号「土佐人漂着日記」である。早くからこの文書に注目して研究してきた歴史家の栗野慎一郎氏が史料の翻刻、現代語訳、解説、解題を執筆し刊行された。A4版、90頁ある。

 すでに、私はブログで、琉球王府時代の那覇の行政機関、親見世(おやみせ)が記録した「異国日記」をもとに万次郎らの琉球上陸について書いていた。今回の「土佐人漂着日記」は、万次郎らの動向と王府・在番奉行所(薩摩藩の出先機関)の対応がより包括的に、詳細に記録されている。そこで、「土佐人漂着日記」から、改めて万次郎らの上陸と滞在がどのように扱われて記録されているのか、いくつかのポイントに絞って紹介したい。文章は、訳文を主として必要な場合、原文で見ることにする。

 日記は、上陸地の摩文仁番所の役人と琉球王府の役人、滞在先の翁長村役人や在番奉行所との報告、連絡、指示などの文書で主であるが、筆者と宛先などすべて書くと煩雑になるので省略して、必要な場合だけ記述した。

 

首里王府への報告

以下、「土佐人漂着日記」の本文と説明に入っていく。

万次郎(23)、伝蔵(48)、五右衛門(25)の三人は、上海行の商船「サラボイド号」からボート「アドベンチャラー号」を降ろして12日夜、陸地から23里のところに着き舟で停泊。3日朝、小渡海岸(現在大度海岸)に上陸。摩文仁間切で取り調べを受けたあと午後4時には那覇に向けて発った。

摩文仁(まぶに)間切が報告した3日付け「覚」の本文は、夜8時頃に王府に到来、国王の上覧に備えた。在番奉行所には御鎖之側(注・おさすのそば、首里王府の役職)の小禄親雲上が届けた。

「覚」は次のように記している。

 <本日午後2時頃、乗員3人の異国の伝間船(ボート)一艘が当間切(摩文仁間切)の小渡浜に漂着したので経緯を尋ねたところ、やまとの言葉で「我々は土佐国の者で、昨日午後2時頃に外国船からボートを卸して到着した」という(言明の)おおよそは了解できました。まず早急にこの件を報告します。以上です。

追記

1、昨日は雨天で、特に霧が多く懸かり本船は見えませんでした。

1、ボートは小渡浜に保管して置きました。

 亥正月3日

   検者 新嘉喜里之子親雲上(さとぅぬしぺーちん)

   下知役 喜久里里之子親雲上

   在番 金城筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)>

 注・琉球の士族は、一般に親雲上と呼ばれた。一般士族には、里之子家と筑登之家の2つの家格があり、里之子家は中級士族、筑登之家は下級士族。

 検者は(王府が派遣した役人)、下知役(王府が派遣した役人)、在番(漂着船対策のため王府が派遣した役人)。

 
  ここで「本日午後2時頃」とあるのは、一見すると上陸した時間と錯覚されやすい。だが、上陸時間ではない。文章をよく読むと、「漂着した」で文章が区切られていず「漂着したので経緯を尋ねた」と続いている。
3人は、土佐の国の者で昨日、到着したことが了解できたので報告します、という文意である。もともとの原文には句読点はなく、ひと続きの文章になっている。

 栗野氏も解説で、午後2時を上陸時間とはしていない。「土佐人3人が摩文仁間切の村人と役人に発見されたのが3日午後2時頃」としている。

        
   
IMG_5429_202007142323009c8.jpg   
 
       万次郎らの上陸。上陸之地記念碑の説明板から
              
 ちなみに、万次郎
4代目、中濱博氏は「摩文仁間切から琉球王府への第一報」として、次の史料を著書『中濱万次郎 「アメリカ」を初めて伝えた日本人』に掲載している。

 <正月3日 新嘉喜里(之子が抜けている)親雲上等の届書 摩文仁間切

    覚

 土佐国人之衆三人、夜前阿蘭陀船より、当(間が抜けている)切小渡浜へ、小舟を以て卸候段、今日八ツ時分(十四時)被申出候ニ付、右三人並荷物不残那覇へ送届申候、此段首尾申上候。以上。>

 ここでは、「八ツ時分」は「被申出候ニ付」と述べ、午後2時に役所へ連絡があったと明記している。原文は、「咸豊元年 異国日記」3日付と同じ文章である。

 

 上陸は朝8時頃

 上陸時間について、土佐人3人がこの後、薩摩藩や長崎奉行所、土佐藩で事情聴取された時の記録によれば、どこでも「3日朝上陸した」ことを明確にし、とくに長崎奉行所の記録では「五ツ時頃(午前8時頃)漕付上陸」と明記している。

 上陸時間についてもっとも信頼できる史料は、上陸した当人たちの証言である。

中浜家の万次郎4代目、中濱博氏が「午後2時頃上陸」と強調したことや、王府の記録の分かりにくさもあって「午後2時上陸」と見る方がいる。だが、午後2時上陸が本当なら、当人たちが、「朝8時頃上陸した」と間違って証言することは絶対にない。

 報告の文章が誤解を招きやすい表現であることは確かであるが、摩文仁間切の役人は、3人が朝上陸したことを熟知しており、その上で王府への報告分の書き方として、このような形式になったのではないだろうか。


スポンサーサイト



沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「瓦屋節」由来をめぐってーー島袋盛敏氏の疑問、その3

瓦屋節」の由来の地はどこか
 「瓦屋節」に歌われた悲恋物語の舞台はどこなのか。夫ある人妻を見染めて妻にしたのは誰なのか。すでに見たように、主に二つの説がある。
 一つは、国場で瓦を焼いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)。もう一つは、涌田村で陶器を焼いた張献功(チョウケンコウ)である。結論からいえば、悲歌の舞台は国場ではないか、と私は思う。
 その理由は簡単である。
 その1。「瓦屋節」と歌われる通り、窯があっても、陶器ではなく、瓦を焼いていたことが第一条件となる。涌田村では瓦を焼いたのではない。
 (注) かつて涌田窯でも瓦生産がされていたことがあるという(小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』)。けれどもこれは、朝鮮陶工の張献功が琉球に来る前である。だから、「瓦屋節」で歌われた瓦焼き職人を張献功とする説は、やはり成り立たないことに変わりない。
  IMG_4293.jpg
       墓のそばにある説明板

 瓦は、すでに16世紀に渡嘉敷三良によって製造が始まっていた。その数十年後に琉球に来た朝鮮陶工が伝えたのは、陶器であり、瓦ではない。歌の題名も「瓦屋」とされているし、故郷を眺めた場所も「瓦屋の頂」とされている。涌田村が舞台なら、もっと別の内容の琉歌となるはずである。
 その2。見染められた夫と子どものある女性は、豊見城の出身だと伝えられる。瓦屋の頂に登って真南の故郷を眺め、愛しい彼への思いを募らせたと歌われる。涌田村は、窯があったのは現在の県庁所在地付近だという。調査によって平窯が発掘されている。でも、この辺りは平地である。豊見城の方面を眺めるような見晴らしのよい場所ではない。遠方を眺めるには、かなれ遠くまで出かけなければならない。
 それに比べて、国場は、瓦を焼く窯のあったという真玉橋の北東側は、高台になっている。国場川と漫湖が眼前に広がり、豊見城はその対岸にあたる。とても展望がよいので、瓦屋原と呼ばれた土地に立てば、この悲歌に歌われた情景が目に浮かぶ。
 その3。国場には、いまも渡嘉敷家があり、子孫の方が住んでいる。「字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています」(墓の案内板)といわれる。国場には長い歴史が刻まれている。
 瓦屋原(カラヤーバル)と呼ばれる地があり、この付近は、瓦が焼かれていたので、昔は畑を深耕すると、黒い瓦片が出土したといわれる。
 その4。文献史料からみても、『琉球国旧記』は、瓦焼きの始まりは渡嘉敷三良であり、琉球に住み着き、国場に窯をつくった。妻を娶り子供も生まれ、子孫が王府の瓦奉行についたことまで明らかにしている。
 それに比べて、張献功は『琉球国旧記』でも、琉球に住み着き、製陶法を伝授し、子孫は製陶業を営んでいることは明記しているが、
肝心の妻子のことや瓦との関係など書かれていない。張献功以外に朝鮮から渡来して瓦を焼いた人物がいる可能性がゼロではない。だが、もしそういう人物がいたのなら、瓦屋節の歌に残るくらいだから何らかの史料、伝承があるはずだ。でも、それがないことから、朝鮮人陶工とは、張献功しか考えられない。
  以上のことから、「瓦屋節」の舞台は、国場だと結論付けたい。
           IMG_4289.jpg
    瓦屋節歌碑を説明する石碑

 付けたり。
 沖縄民謡だけでなく琉球古典音楽も学ぶようになって、瓦屋節を歌う機会ができた。だがとても違和感がある。それは、舞踊曲「瓦屋節之踊」として、「ナカラタ節」「瓦屋節」「ショウンガナイ節」と3曲がセットになっている。ところが、舞踊曲として歌う場合は、瓦屋節の元の琉歌ではなく、瓦となんの関係もない歌詞に変えていることだ。他の二曲も同じである。「15夜の満月だから美しい月を眺めよう」。こんな歌詞である。舞踊曲はこうなるもの、といわれればそれまで。だが、瓦屋節の踊りといいながら、月眺めがテーマなら、曲名は何の意味もないことになる。この曲を歌うたびに、なにか寂しい気持ちになる。
民謡の「瓦屋情話」は、瓦屋節の元歌を取り入れた新しい民謡であるが、瓦屋に嫁がされた女性の立場から描かれており、その心情が伝わってくる。歌うたびに、国場の渡嘉敷三良のことが思い浮かぶ。

 本題に戻る。瓦屋節の由来についての島袋盛敏氏の疑問は、とても正当なものだった。その疑問は、琉球に初めて瓦焼きを伝えた国場の渡嘉敷三良が瓦屋節の由来であることによって解決すると考える。



沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「瓦屋節」由来をめぐってーー島袋盛敏氏の疑問、その2

 瓦焼きを伝えた渡嘉敷三良の墓

 渡嘉敷三良(トカシキサンラー)の墓は、那覇市牧志の緑ヶ丘公園の一角にある。公園は国際通り裏のパラダイス通りから行ける。といっても、場所がわからないままだった。公園の未整備地区は、古い墓地になっている。ナイクブ古墓群発掘調査が行われている。作業をしている人に「渡嘉敷三良の墓はどちらですか」と尋ねたが「わからない。事務所があるからそちらで聞いてくれ」という。
 そばにある事務所を訪ねた。「ずいぶん古い墓ですね」と聞くと、「こちらのお墓は、300年くらい前から戦後もまだ使っていました」という。三良の墓の場所をすぐに教えてくれた。
 墓は緑ヶ丘公園の整備が済んだ地域の端にある。小山のような琉球石灰岩を掘り抜いて造られており、石積みの墓より古い形のものらしい。入り口に次のような説明文が設置されている。
 「渡嘉敷三良は、16世紀に中国からやってきた瓦づくりの職人でした。永住して妻を迎え国場村に住み、その近くに窯を設けて瓦を焼きました。字国場では、今日でも唐大主(トウウフシュ)として敬われています。その技術は、子孫へと受け継がれ、四世の安次嶺親雲上(アシミネペーチン)は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜りました。
 この墓は、1604年またはそれ以前につくられたと思われます。琉球石灰岩を掘り抜き、奥に遺骨を入れた甕などを安置する一段のタナ(棚)をけずり出してつくられています。このような構造は、アーチを主とした石積みによる墓室が登場する以前からの技法と考えられます。そのため、昔の技法をよく残すこの墓は、その変遷をたどる貴重な存在といえます」

 三良は妻を迎えて国場に住み、窯を造って瓦を焼いた、とのべている。


 
    IMG_4297.jpg  
               渡嘉敷三良の墓
 
 『訳注 琉球国旧記』(1816年)は「瓦工」の項で次にように記している。
 「故老の伝承によると、昔、中国の人が、わが国へ来て、深く国俗を慕って、故郷を思わなかった。国場村に住んで、遂に一婦を娶り、子供が生まれた。のち、真玉橋の東に窯を築いて、瓦器を焼いて、需(モト)めに応じた。そこで、御検地帳(注・慶長検地・1610年)で、この地を渡嘉敷三郎に賜ったといわれる。わが国の瓦の製造は、これより始まる。その子孫は、今もなお国場村におり、12月24日になると、謹んで祭品を供え、紙(銭)を焼いて、先祖を祭っている。これは、先祖からのしきたりである」
 それにしても、国場からは遠いこの牧志になぜ墓があるのだろうか?
 もしかして、当初この付近に住んでいて、国場に移って行ったのだろうか。まだ不明のままである。

 朝鮮陶工が伝えた陶器製造
 渡嘉敷三良の墓の近くに、もう一つ見逃せない墓がある。琉球での陶器製造の始まりと伝えられる朝鮮陶工張献功(チョウケンコウ)の墓である。近くにあると教えてもらったが、探してもわからなかった。発掘調査をしている事務所に戻ってもう一度、墓の場所を尋ねた。渡嘉敷三良の墓を教えてくれた職員は、現場に出ていたが、戻ってきて教えてくれた。
  三良の墓から数十メートルも離れていない。道路わきの木が茂ったところに、墓の入り口と小さな石碑が建っている。
 ここには何も陶工のことを説明する表示はない。だが、少し離れたところに、この付近の史跡の案内板がある。それによると、陶器製造は、17世紀であり、瓦焼きの始まりよりも数十年ほど後のことになる。
            

 朝鮮から陶工が連れてこられた経過と涌田村(現在の那覇市泉崎)で陶器づくりが始まったことを次のように記している。
 「琉球に帰化した朝鮮陶工張献功の墓。張献功は、もと一六(イチロク)といい、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から薩摩(現鹿児島県)へ連れてこられた陶工の一人。1616年琉球国側からの願いにより、一六・一官・三官の3人が琉球に渡り、国中に作陶技術を広めたという。その後一官・三官は薩摩に戻ったが、一六は懇請され琉球にとどまり、仲地麗伸(ナカチレイジン)と称し、涌田村(現那覇市泉崎)に家屋敷を下賜された。1638年7月12日死去(年齢不詳)」
     張献功の墓
『琉球国旧記』(訳注)は、次のように記している。
「万暦44年(1616)丙辰、尚豊王が世子でおわした時、命を奉じて薩摩へ赴かれた。この時、世子は請うて、高麗人(の陶工)三名、一官・一六・三官をつれてお帰りになり、わが国の人に製陶法を教えさせた。数年たって、二人はともに鹿児島へ帰ったが、わが国の人は、まだ製陶を知らなかった。一六だけがわが国にとどまって、わが国の民に(製陶法を)伝授した。遂に◆髻(カタカシラ、文字がない)を結って、名を仲地(ナカジ)といい、今にその子孫は泉崎村に居住し、常に製陶業をいとなんでいる。造った甕器を人々は高麗焼とよんでいる」
 
 新屋敷幸繁氏は「沖縄の人がみな陶工を知るようになったのは、この張献功の功である、とたたえられている」と指摘している(『新講沖縄一千年史上』)。
 豊臣秀吉による朝鮮への出兵・侵略のさい、各大名が多数の朝鮮人民を自分の領地に連れ帰った。その中に多くの陶工がいた。陶工を連れ帰った大名はなぜか九州の大名が多かった。朝鮮陶工たちは、その後の日本の陶磁器の発展に大きな貢献をした。
 薩摩に連行された陶工は、総計80名ほどにのぼる。 薩摩では、藩の保護も薄く、土地の住民から襲われることもあった。「九州の朝鮮陶工のなかで最も悲惨な道を歩んだのが、薩摩・島津義久に連行された陶工たちであった」(中里紀元著「九州の朝鮮陶工たち」、「洋々閣ホームページ」から)といわれる。
 この中の3人が沖縄に連れてこられたわけである。
 お墓は、残念ながら石碑に刻まれた文字がほとんど判読できない。無理やり日本に連行され、沖縄にまで連れてこられた朝鮮陶工の功績を伝えるために、渡嘉敷三良と同じような説明板をぜひ設置してほしいと思った。

 「瓦屋節」に歌われた伝承について、この朝鮮陶工、張献功が妻とした女性のことが歌われているという説がある。
 首里郊外を散歩していた張献功が美しい女性を見染め、ぜひとも妻にしたいと王府に願い出た。女性は人妻で子どもまでいたが、王府は陶器の製造技術を受け継ぐまで琉球にいてもらいたいので、彼女を夫や子どもと引き離して結婚させた。
 この説によれば、献功は涌田村で陶器を焼いていたので、瓦屋の頂に登って故郷を眺めたというのは、涌田村ということになる。そのように書いている人もいる。これについては、後から検討したい。

 瓦奉行(カァラブジョオ)
 中国の瓦職人や朝鮮陶工が琉球に来て、王府には瓦・陶器を統括する役職が置かれた。各地に窯場がおかれ、瓦や陶器の生産が発展したそうだ。
 1682年には、かつて美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった製陶所を、現在「やちむん通り」で有名な那覇市壺屋の一カ所に移住させたと伝えられる。
『琉球国旧記』(訳注)には次のように記されている。
 「『汪氏家譜』によると、万暦年間(1573-1619)、尚永王の御時、汪氏小橋川親雲上(ペーチン)孝韶が瓦奉行に任ぜられ、瓦ならびに焼物などの項を総管した。中頃になって、焼物奉行(ヤチムンブジョオ)を分置した。現在は、また総管している《昔、壺屋(製陶所)は、美里間切の知花村、首里の宝口、那覇の湧田の計三カ所にあった。康熙21年(1682)、壬戌、牧志村の一カ所(壺屋)に移住せしめた》」。
 
 これによると、当初は瓦奉行が瓦と焼物を含めて統括した。それを、焼物は別に焼物奉行を分置したというから、それだけ生産も増大したのだろう。
 製陶所を壺屋にまとめたというが、まとめた製陶所の中には国場の瓦焼きは含まれて
いない。瓦は国場で焼いたということだろう。
 王府に瓦奉行が置かれたということは、瓦の生産と使用は、王府が深く関わっていたことを意味する。
「琉球諸島において瓦が王権と強い結びつきを持っていた。そして様々な制度が定められ、王府主導による瓦の統制が行われた」
 「琉球王府が瓦に関する諸制度を整備し、生産と使用を統制していたことは明らかである…瓦を含めた窯業生産を王府が管理していたと推察される」「王府は生産だけでなく消費も統制していたことが知られる」
「琉球諸島では瓦の使用は権力者と関係の深い諸施設と宗教関係施設に限られており…瓦葺き建物は王権と関わる象徴的な性質を持ち続けてきたといえるのではないだろうか」(石井龍太著「瓦と琉球~王権、制度、思想、交渉~」)
 
 首里城の正殿はそれまで板葺きだったのが、1670年瓦葺きになった。それにあたった安次嶺親雲上(ペーチン)は、渡嘉敷三良の4世だ。安次嶺親雲上は首里城正殿はじめ寺院等の瓦葺きに功績を挙げ、1762年照喜名良始(テルキナリョウシ)の代に、王府に願い出て家譜を賜った。
 瓦は、首里城だけでなく、その後、社寺仏閣、貴族屋敷、士族屋敷、各間切番所(今の町村役場)に赤瓦が用いられた。庶民の瓦葺きは禁じられていたという。
 王府時代は、「カラヤー」と呼ばれる専門家が瓦製造と瓦葺き作業を担っていたそうだ。カラヤーは重要な仕事だった。


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「瓦屋節」由来をめぐってーー島袋盛敏氏の疑問、その1

 島袋盛敏著『琉歌大観』は琉歌の紹介、解説にはとても重宝されている著作である。そのなかに「瓦屋節」の由来についての記述がある。次のような琉歌である。
「瓦屋つぢのぼて真南向かて見れば島の浦ど見ゆる里や見らぬ」
 歌意は「瓦屋の近くにある丘の上に登って南方に向って見れば、島の浦は見えるけれど恋しい夫は見えない」という歌である。
 
 島袋氏は、歌の由来を次のように解説している。
 <朝鮮人の陶工が沖縄に帰化して、那覇の泉崎の東方涌田という所で瓦を焼いていたので、その地を瓦屋と名付け、付近にある高い丘を瓦屋つぢといっていた。この陶工の妻になったのが、小禄間切の当間村の女であったが、伝説によれば女には夫がいたのに、無理に引き離されて陶工の妻にさせられたので、時々瓦屋つぢに登って、故郷の夫を恋い慕ってこの歌を歌ったという。>
 この由来の出所はどこか知らないが、権威ある島袋氏の解説であるだけに、さまざまな古典音楽や民謡の解説書でも同様の由来が書かれている。
 今回改めて島袋氏の著作の解説を読み知ったことは、島袋氏はこの説を紹介した上で、そのまま信用しないでいくつか疑問を投げかけていることである。
 第一の疑問は、「この瓦屋が那覇の涌田にある瓦屋であったかということ」。「屋嘉比朝寄が工工四を作った時代や、琉歌百控ができた頃は、この瓦屋を美里間切の知花村か、首里の鳥小堀村かとしてある」という。「後世の人がいいかげんに涌田の瓦屋としてのではないか」。
 これは驚くことだ。瓦屋は、古い時代にはまったく別の村が当てられていたという。とすれば、涌田節はなんの根拠もないことになる。
 (注)屋嘉比朝寄は18世紀の琉球の音楽家。三線の楽譜「屋嘉比工工四」を考案した。「琉歌百控」は、最古の琉歌集の一つのことである。

 次の疑問は、「蜘蛛節」という歌があり、「瓦屋節」とは「第一句が違うだけで、他は全部似ている」ということ。「蜘蛛節」は「かせ(綛)よかけなづけ真南向かて見れば島の浦ど見ゆる里や見らぬ」。第一句の「かせよかけなづけ」が「瓦屋つぢのぼて」になっているだけ、あとは同じである。このことから、島袋氏は「真南向かて」以下は、朝鮮人陶工の妻に限ったことではなく「当時ありふれた歌言葉ではなかったかという気がする」という。
「それを何か深いわけがあったように、こじつけて、伝説まで生みだすようになったのではなかろうか」。このように強い疑問を投げかけている。ただし、「伝説を否定する反証もないので、しばらくそのままにしておくほかはない」としている。
 
 私は、瓦屋節に歌われたのは、中国から渡って来た陶工であり、歌の舞台は、那覇市国場であると考える。
 何よりも、朝鮮人陶工としてよく知られている人物と言えば張献功(チョウケンコウ)である。彼は陶器を焼く陶工であり、瓦を焼いていたのではない。
 張献功よりも数十年前、中国から渡って来た陶工に、渡嘉敷三良(トカシキサンラー)がいる。彼は那覇市国場で瓦を焼いたことが『琉球国旧記』に記されている。これが琉球での瓦焼きの始まりであるとされる。
 これらのことをすでにわがブログ「『瓦屋節』の由来をめぐって」というテーマ(ブログ原題は「瓦屋節の歌碑」)で書いていた。この際、もう一度、紹介しておきたい。
       
IMG_4288.jpg
「瓦屋節」の由来をめぐって

 国際通り裏にある歌碑
 沖縄の瓦屋のはじまりにまつわる哀しい伝承をテーマとした「瓦屋節」の歌碑が那覇市牧志にある。すでにこのブログで、「瓦屋節」と「瓦屋情話」について紹介した際、瓦屋のあった場所は、那覇市国場であると書いた。
 ところが、歌碑はまったく異なる場所にある。那覇のメインストリートとなっている国際通りのすぐ裏側である。沖映通りからパラダイス通りに入り、すぐ左手に草木が茂る林がある。緑ヶ丘公園の一角になる。古いお墓がある。
 訪ねたときは、古い墓を整理して公園を整備する計画があるそうで、茂った草木を刈り払ってくれていた。作業していた人に「歌碑を探していているんですが、どちらかご存知ですか」と尋ねると、「歌碑はこちらですよ」と指で差してくれた。小高い丘の頂になるところだった。
 
 この場所は、昔は「牧志村照川原」と呼ばれていた。歌碑と説明の石碑があった。
「琉球の陶業発展の陰にまつはる物語に瓦屋節の悲歌と伝説がある。その由来は瓦を焼出した異邦人てある瓦陶匠の妻にせられたる女は夫のある人妻であった。王命に従って異人の妻になって行った女は瓦焼く丘に登り夫の住む村をながめて悲んだといふ女の情けを詠んだ歌が瓦屋節の悲歌となり伝説になって伝えられた。歌碑は史実と伝説を秘めたまま黙して真実を語らず瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地照川原の丘の上に立っている」。
 この瓦陶匠は、16世紀に中国から渡ってきて琉球に住み着いた渡嘉敷三良(トカシキサンラー)である。
 
 この伝説をもとにした悲歌が「瓦屋節」である。
「瓦屋頂登てぃ 真南向かてぃ見りば 島浦どぅ見ゆる 里や見らん」
 歌意は次の通り。
「瓦屋の頂きに登って 南に向かって見ると 故郷の村は見えるけれど 
 貴方の姿は見えない」
 なぜ、この歌の歌碑がこの場所に建てられているのか、よくわからなかった。説明の碑を読むと「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地照川原の丘の上に立っている」とある。歌碑のある丘が、瓦屋のあった場所ではない。緑ヶ丘公園となっているこの付近は、いまも古い墓がたくさんある。

 瓦屋節に歌われた場所については、国場という説ともう一つ、別の涌田(現在の那覇市泉崎)だという説がある。この説明の碑によれば、どちらとも書かれていない。湧田説については、別途書きたい。
この丘に歌碑があるのは「瓦の陶匠を葬ったという因縁の深いこの地」だから。渡嘉敷三良のお墓は、歌碑のあるところから、百数十メートルくらい北の緑ヶ丘公園の一角にある。お墓に近いから、歌碑が建立されたようだ。この墓については、次に紹介する。
 


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

アクセス数の怪

 ブログのアクセス数が7月に入ってゼロ行進が続いた。いくら、マニアックなことを書いているからといって、毎日ゼロはありえない。前月までは、一桁ではあっても、ゼロではなかった。
 7月にゼロが続いたのに、アクセスランキングは落ちない。これも変だ。
 ゼロの日でも20位以内に入り、ゼロでも順位は上がる日がある。
 実際にアクセスして見てくれる人はいるはず。私の知人も見ていると言ってくれる。
 このようにアクセスが激減したのは、前のテンプレートの調子が悪いために、別のテンプレートに変えてからだ。
 ブログのアップはスムーズにいくようになったが、アクセス数がどん底状態になった。
 それでも、たとえ2,3でも表示されるうちは我慢していた。だが、ゼロ、ゼロばかり続くとさすがにへこむ。
 もう一度、前のテンプレ―トに戻してみればいいかも。そう思って、戻してみると、ブログへのアップの調子は良くなっていて、なんら扱うのに支障はない。
 テンプレートを戻してみてビックリ! 
    
アクセス数

 ゼロからいきなり84、141という数字に跳ね上がった。まあ、良く見られている方からすれば少ない数だろう。でも、マニアックな事ばかり書いている者にとっては、ゼロ行進よりは張り合いがあるというものだ。
 それにしても、アクセスがこんなに違うのはなんでだろう。
 前のテンプレートが、実際のアクセスをフォローできていなかったということか。


日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「琉球民謡の変容、その続編」。奄美の歌が伝わった背景

  奄美の歌が伝わった背景
 奄美島唄が、沖縄本島や宮古島を飛び越して八重山に伝わり、親しまれるようになったのには、社会的な背景がある。新崎氏は次のように述べている。
 <明治12年の琉球廃藩を境に八重山の社会は大きく変貌し、これまで通っておった「マーラン船」にとって変わり、大型の蒸気船が就航するようになった。これまで長いこと閉ざされていた階級社会も一気に開放され、自分の意志で沖縄本島や本土(大和)へ自由に往き来できるようになったと言う。それに伴い大和商人(鹿児島、奄美出身者)を初め元首里王府役人等も職を求め、新天地八重山へ洪水のように入ってきた。
 おそらく、当時の八重山の社会は廃藩後、日も浅く人々の心も落ちつかず、ほそぼそと暮らしていたに違いない。しかも、当時の八重山の政治、経済界はすべて大和の人々(鹿児島出身者)によって牛耳られておつたことは明治大正初期の方ならまだ記憶に残っておられることと思う。当時の八重山の社会は大和化の風潮が強く、人々は社会から一人前の人間と認められるためにも躍起になって大和文化を生活の中に採り入れようとした。…
 
 特に、当時の若者等は時代の激動を乗りこえるために競って大和化を求めていた。それが民謡の中にも表われ「あさぱな」や「六調節」を導入し、またアレンジしたのではないかと考えられる。しかも、彼等はそれを謡い踊ることによって我を忘れ日頃のストレスを発散させていたのではないかと考えられる。その意味から言っても、確かに「あさぱな」「六調節」は当時の社会を象徴する歌であり、世相を反映した民謡と言えるのではないかと思う。(『八重山民謡の考察』)>
 廃藩置県後に八重山は、鹿児島や奄美諸島から大勢の人たちが新天地を求めて流入し、政治、経済界で大和の人々が力を持ち、大和化の社会風潮も強かったという。その過程で、奄美を代表する島唄である「あさぱな」や「六調」が導入され、アレンジされ、歌い踊られるようになったという。
 それにしても、このように民謡の広がり、伝わり方を探っていくと、そこには時代状況と社会的背景が刻まれており、とても興味深いものがある。
       
     
 組踊に使われる名曲
 これまで主に八重山、宮古島や沖縄本島の民謡を中心に見てきた。琉球古典音楽について若干触れておきたい。古典音楽には、民謡とは曲調の異なる名曲がたくさんある。
 しかも、古典の節歌は、琉歌を歌詞にしているので、何首もの歌詞がある。曲名の由来にも家計がある元歌を原歌と呼び、それ以外にたくさんの琉歌による歌詞がつくられ、もっとも代表的な歌詞を本歌と呼んでいる。より後から作られた琉歌が「本歌」となることも多い。たいていいくつかの歌詞があり、中には『琉歌集』(島袋盛敏)に42首(散山節)、123首(仲風節)も収録されている曲もある(勝連繁雄著『歌三線の世界』)。
 古典の名曲は、琉球で中国からの冊封使を歓待するためい創作された歌舞劇「組踊」はたくさんの曲目で成り立っている。
<組踊の音楽には、伝統的な琉球音楽と歌詞として琉歌(リュウカ)という短詩が用いられます。琉球音楽は演目の場面に見合う曲想[テーマ]の節が選ばれ、登場人物の心情や場面の情景を表現した琉歌をその節で演奏します。(「文化デジタルライブラリー 琉球芸能編組踊」)>
     
 登場人物の心情や場面の情景に適した曲目は、いろんな演目でよく使われる。
「子持節(くゎむちゃーぶし)」は、「悲哀の曲想をもつため、『散山節』とともに組踊では《悲嘆の場》に、よくこの節歌が利用されている。30演目以上の組踊にこの曲が出てくる」(勝連繁雄著『歌三線の世界』)。
「散山節」は、「数ある古典の節歌の中で、もっとも悲哀の曲想をもつ曲である。…深い嘆きにかられた歌詞が多いことは確かである」「30演目前後の組踊に利用されている」(同書)という。

 「伊野波節」は、組踊の生き別れの悲嘆の場面でよく利用されている。「『二童敵討』では、(阿麻和利に殺された)父護佐丸の仇討に行く鶴松、亀千代との別れを惜しむ母親の気持ちを表現している」。このほか「伏山敵討」「忠臣身替」「大川敵討」「大城崩」などに使われている。(同書)
 「干瀬節」の場合、やはり十数演目の組踊に利用されている。特に組踊の名作「執心鐘入」では「歌詞を変えて、3回も『干瀬節』が出てくる。同じ恋の歌といっても、歌詞を変えることによって、情念に対応する曲想が生れることを示している」(同書)。


 八重山と宮古の民謡の交流について、いくつかの曲と伝承について見てきた。
 私もこれまで、「変容する琉球民謡」と題して、八重山から沖縄本島の古典音楽、民謡への変化や八重山と宮古、八重山と奄美との民謡のかかわりなどに興味を持って私見を書いてきた。しかし、明らかに元歌があって、歌詞を変え、旋律も少しアレンジして、別の曲として歌われている曲は、その継承関係を指摘するのは意味があると思う。だが、旋律の一部が似ているというだけでは、民謡界ではたくさんあるので、類似曲として扱うのは無理な場合がある。
 新崎氏も次のように指摘している。
 <双方の民謡はもともと源流は一つであったかも知れないが、長い年月と、その土地の地域性の趣好や生活習慣による相違で全く異なった民謡として形づくられたのであろう。…
  民謡の発生から開花までの歴史的過程を辿って見ても言えることで、それぞれの異なった生活環境や自然的条件からは、初めのうちは、如何に同じものを吸収したにしても長い期間の裡にはその土地の人々のニーズに合うように変化していくもので決して同質な文化は生まれてこないからである。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>
 八重山諸島や宮古諸島には、それぞれ素晴らしい民謡が歌い継がれている。お互いに影響しあった曲があることは確かだが、それぞれの島、地域で長い歴史の中で、人々に歌い継がれ、愛され、育まれて、それぞれの島々の色彩を帯び、そこに生きる人々の魂が宿っている。それぞれの民謡に高い価値があり、独自の魅力があると考える。それが民謡の本来の姿でもある。
     終わり  2020年7月       文責・沢村昭洋


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「琉球民謡の変容、その続編」。朝ぱな節

 奄美八重山をつなぐ「朝ばな節」
 石川さゆりの歌う曲に「朝花」がある。奄美大島の島唄「朝花節」(あさばな節)がモチーフになっていると聞いた。この曲は、熊本県出身の樋口了一さんの作詞作曲である。「朝花節」は奄美ではとてもよく演奏される名曲である。ところが、同じ題名の曲が八重山民謡の中にもあると聞いて驚いた。歌詞を見ると、どうも奄美の影響を受けた曲らしい。「あさばな節」についてもう少し知りたい。
      
 奄美大島では「朝花は、歌遊びや祝宴の席でも最初に歌われるように、座の清めや、歌う前のウォーミングアップの役割を持つ」(奄美大島瀬戸内町HP)という。
 <島唄は、"朝ばなに始まり朝ばなに終わる"とも言われております。歌詞は、集いの場の挨拶が交わされるかと思えば、教訓的なものがあり、叙情詩があり、叙事詩あり、劇詩あり、詩の三代部門すべてが含まれており、最後には、"送り朝花"として歌われる別れの歌詞があり、一晩中「朝ばな節」だけ唄っていても尽きないほど多くの、楽しく面白い歌詞が残されております。(「奄美の館」HPから)>
 歌詞がこれほどたくさんあるというのは、びっくりである。
     
 「朝ばな節」の歌詞を見ておきたい。瀬戸内町HPにアップされている歌詞は、次のように始まる。
「朝ぱな節」
♪ハレーイ 朝花はやり節 (ヨイサ ヨイサ ヨハレ ヨイヨイ)
ハレーイ 唄ぬはじまりや 朝花はやり節
(朝花はやり節。歌の始まりは、朝花はやり節だ。)

 武下和平氏のCD「立神」は次の歌詞を載せている。
♪かん誇らしゃんむんや 汝(な)きゃとくま寄(ゆ)りゃとぅてぃ かん誇らしゃんむんやむんや
 (貴方たちとここに寄り合って、語り合うことが出来るとは、こんなに嬉しいことはありません)
♪いもちゃん人(ちゅ)どぅ真実やあらむぃ 石原くみきち いもちゃん人どぅ真実やあらむぃ
(石原道を踏み越えて、わざわざお訪ね下さった人こそ 真心のある人ではないでしょうか)

 諸説ある「朝ばな」の意味
 「朝ばな」の曲名と意味については、諸説がある。
 <節名の「あさばな」(朝端)は、明け方の意。「はな」は初っ端、出花などの言葉にも通じ、朝明けのすがすがしさをめでたいとする心かがこめられている。そのため、一番最初に歌う挨拶歌になっている。叉、その歌心のめでたさから祝典歌にもなっている。(同武下和平 CD「立神」解説書より転載))>
     
 <曲名は、昔は"はやり節"と言われていたようですが、明治時代になってから、"あさばな"に変わったと言われております。その"朝ばな節"は、若く美しい比喩としての朝花と、尻軽女を意味する「浅花」の意が含まれていると言いわれております。しかし、「朝花」は、「朝ばな」であり、朝の初っ端(しょっぱな)が転じたものではないでしょうか。(「奄美の館」HP)>
 この解説は、「若く美しい比喩」「尻軽女」の意味という説を紹介しながら、「朝の初っ端が転じたもの」と結論づけている。逆にいえば、「朝の初っ端」から転じて「若く美しい比喩」「尻軽女」という意味でも使われているということになるのではないか。

  曲名の由来について、諸説あるにしても、「あさばな」が「朝っ端」や「浅い女」など多義的に使われているようだ。
 いずれにしても、「あさばな」の曲名に本来、「花」の意味はないので、漢字で「朝花」と書くのは誤りだとなる。「朝ばな節」「あさばな節」と表記するのはそのためらしい。
 
 八重山に伝わった「あさぱな」
 奄美の島唄「あさばな節」と同じ系統の歌が八重山諸島にもあった。
 実は、八重山民謡を学ぶ仲間とカラオケに行って、私が石川さゆりの「朝花」を歌った際、隣にいたAさんが「あさばな、という歌は確か白保にもあるよね」と教えてくれた。
 仲宗根幸市氏の『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』では、3種類の歌が紹介されている。
      
 石垣島に伝承している遊び歌「白保あさぱな」、「登野城あさぱな」と大城志津子さん伝承の「八重山あさぱな」である。ここでは、白保と登野城(とのしろ)の歌詞を紹介する。
 「白保あさぱな」
 〽ハーレーあさぱなや 大和人(やまとんちゅ)に吾(わ)んだまさりて 
 夜昼待ちども 来りばどえいさ
〽ハーレー山がらさーや 松ぬ上にど宿やとったんでー
 昔吾ん思やーや 吾んが上にど宿やとったんでー
〽ハーレー手紙ぬちゃんてぃん 御状(ぐじょう)ぬちゃんてぃん 吾が落(う)
 てちちゅくみ 枕並びてぃ言ち聞(ち)かさんむん 吾が落てぃちちゅみ
〽ハーレー吹ちょりよ 真南(まへ)ぬ風 すりから先までぃん
 吹ちょりよ真南ぬ風 
〽ハーレーニングル思いや あさぱな思い 家ぬ妻(とじ)ぬ思いや心から
 情から 心情思い
〽ハ―レー三味線ぐゎにゃ 吾んうち惚(ふ)りらんせ うりとぅてぃ
 弾(ひ)ちゅる二才達心から情けからなま惚りらんせ

 歌意
1、あさぱな(浅い女・遊女)よ! 本土の人に私はだまされてしまった。
 夜昼待っても来ないのよ
2、山の烏は松の木の上に巣をつくり住んでいる。昔、私を思っていた方は
 私のところに一緒に住んでいたのよ
3、手紙が来ても、おおせが届いても、私が落ち着くということはありません。
 お互いに枕を並べて話しあわない限り、私が落ち着くということはありません
4、南の風よ、うんと吹きなさい。すり(不詳)から先まで、
 うんと吹きなさい南の風よ
5、ネンゴロ(愛人)の思いはあさぱな(遊び女)の思いと共通している。
 しかし、家の妻の思いは心の底から発露する情けの思いである
6、このような三線に私は惚れるのではありません。三線をとって弾く若者に、
 心から情けを感じ惚れるのです

 「登野城あさぱな」
〽ハーレー朝花うってぃに我んだまさりて
 夜あけ待ちやりばどぅくれがどぅ朝花らんせ
〽ハーレー手紙ぬちゃんてぃん御状ぬちゃんてぃん我がうてちちゅぅみ
 枕並びてぃいっち聞かさんむん我がうてぃちぃちゅぅみ
〽ハーレー三味線小にゃ我んふりらんせうり取てひちゅる二才にどぅ 
 しんぶり三味線我んふりたんせ
〽ハーレー山烏(やまがらし)や松が上にどぅ宿やとぅたんど
 昔我ん思やや我身が上にどぅ宿やとぅたんど
〽ハーレーにんぐる思いや朝花思い
 家ぬ妻ぬ思いや真から情からうくりぬ心情思い
〽ハーレーふっちょりくぅよぅ南の風
 ま沖縄から八重までぃふっちょりくぅよぅ南の風

 歌意
1、あさぱな(遊び女)如きに私はだまされてしまった。なんと、明け方まで
 待っても来ないのだ。これがあさぱなの姿なのであろうか
2、手紙が来ても、おおせがあっても私の気がおさまるということはありません。
 枕を並べて話してくれなければ、落ち着くということはありません
3、三線に私が惚れているのではありません。その三線をとって弾く若者にこそ、
 心から惚れるのです。そして、三線も…
4、山の烏は松の木の上に巣をつくっている。昔、私とつきあったあの人は私の
 ところに住んでいたのに。
5、ネンゴロの思いはあさぱな(遊び女)の思いのようである。家の妻の思いは、
 真心から情け深い愛である
6、吹きなさい、南の風よ。沖縄へも八重山へも吹いてきなさい、南の風よ。

 仲宗根氏は、次のように解説している。
 <白保、登野城方面に伝承している遊び歌。この「あさぱな」は、奄美の「あさぱな節」の影響を強くうけていることが考えられる。まず、歌の冒頭に「ハーレー」「ヤーレー」の囃子詞が入るという共通性がある。沖縄や八重山の歌(ユンタ・ジラバを除く)で冒頭から囃子の入るケースは少ない。ところが日本民謡の多くは囃子詞から入るのだ。歌で変わりやすいのは曲名や曲、歌詞であり、変わりにくいのは囃子詞や反復である。その変わりにくい要素の囃子詞を探求すれば、ある程度歌の系譜が見えてくる。
 また白保、登野城の古老伝承からも奄美伝来の確証が裏付けられている。奄美の「あさぱな節」のルーツは「あさぱなに惚りてぃわらべ妻かめてぃ花ぬさおれれば吾くとぅ思んしょり」と考えられている。つまり、当初「あさぱな」は「浅い女」「遊び女」の意味をもっていたが、「あさぼらけ」や「ものごとのはじめ」に変化。奄美では現在、挨拶歌として定着している。そして、恋歌や人生百般がうたわれている。八重山の「あさぱな」が「遊び女」をイメージしていることから、奄美の本来の「あさぱな」の性格を継承している。「鷲ぬ鳥節」の「あさぱな」は別の意味。(『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)>

 3種類の「あさぱな節」の歌詞を比較して、もっとも目に付くのは、「白保あさぱな」の歌い出し部分である。「あさぱな(浅い女・遊女)よ! 本土の人に私はだまされてしまった」と歌い始める。白保以外の他の2曲は、大和人は出てこない。「あさぱな=遊び女=如きに私はだまされてしまった」(登野城)、「あさぱな=遊び女=と思って…。彼女は私をだまして…」(八重山)と歌う。遊び女に騙された男の側から歌っている。騙したのは誰か、騙されたのは誰かで大きく食い違っている。
 ただ、1番の歌詞は、「大和人」が入るか否かで違いがあるけれど、2番以降の歌詞は、3種類の歌ともほぼ似通っている。奄美から伝わった歌が八重山で広がる過程で、多少の変化をしたのだろうか。
 
 「あさぱな節」は奄美から八重山に伝わり、「あさぱな」が女性の形容詞として使われているにもかかわらず、八重山と奄美の歌詞を比べると、微妙な違いがある。奄美の歌は、男性の側から「あさばなのような女に惚れて」と歌っているのが多い。八重山では「あさぱな如きに私はだまされた」と歌う。八重山で歌をアレンジしたり、歌詞をつくるなかで、奄美の「あさぱな」の性格を継承しながらも、変容したのかもしれない。
 
 なぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのか
 奄美諸島と八重山諸島は遠く離れている。沖縄本島や宮古諸島を飛び越してなぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのだろうか。仲宗根幸市氏は、次のように指摘している。
 <奄美の「あさぱな節」が八重山に伝ぱしたのは、八重山の人が奄美で習い覚えて持ち帰ったケースや、奄美の人が八重山へ持ち込んだケースなど複数の線が考えられる。そして、八重山風に潤色して歌遊びの場に根づかせたのである(『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)>
 八重山の歌詞を見る限り、仲宗根氏が指摘している通り、「ハーレー」「ヤーレー」の囃子詞が入るという共通性がある点でも、八重山の「あさぱな」が「遊び女」をイメージし、奄美の「浅い女」など女性の形容詞としての用例を継承している点でも、奄美から伝わったことは確かと思われる。
 ただまだ、どのように伝わったのか、その具体的な経緯はわからない。仲宗根氏は別途、「あさぱな」と「六調」が奄美から伝わった背景を解説している。

 <仲宗根幸市氏(しまうた文化研究会長)の説によれば
『明治12年の沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され、そこで彼等は農業を手広く営んでおられたと言う。その伊野田地区に最も近い白保の人々は日頃から奄美の方々と交流をしている裡に「あさぱな」を習いそれがいつしか八重山風にアレンジされて流行ったのが八重山の「あさぱな」の起源であると述べている。その証拠に「あさぱな」が白保部落に、今なお、色濃く遺っておるのもそのためであろう』
と記しておられる。
 なお、「八重山六調」も彼の説によれば、奄美の方を父にもつ宮良部落の鳩間加真戸さん(調査当時89才)が、若い頃(大正14年頃「37才」)父の出身地奄美の名瀬から六調を持ち帰えり、アレンジして宮良で流行らされたと述べておられる。>
 この仲宗根氏の見解は、新崎善仁氏が『八重山民謡の考察』の中の「『あさぱな・六調節』のルーツとその歴史的変遷」という論文で紹介している。
 
 <八重山の「あさぱな・六調節」はもともと、奄美大島の歌と言われているが、古老たちの話によれば、明治12年の沖縄廃藩後まもなく、奄美から持ち込まれ、そこでアレンジされて流行った歌とされている(『八重山民謡の考察』)>。
 しかし、新崎氏は仲宗根氏とは異なる見解である。
「あさぱな」と「六調節」を一括してそのルーツを考察している。以下そのなかから紹介する。
 「あさぱな・六調節」は、石垣島の登野城永用氏が奄美から持ち込んだと述べている。その根拠としているのが、伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問)がまとめた「あさぱな六調節考」という資料である。そこには証言が紹介されている。二つの証言を引用する。
 <○字大川の長田紀光氏(八重山ユンタ・ジラバ・アヨーの師匠「調査当時88才」の話)
「あさぱな」は大島の歌で、登野城村の誰かが大島に行かれ、そこで習ってこられ、八重山風に直して流行らされたと聞いている。私たちは昔から「あさぱな」は登野城の歌といっている。それから「六調節」は昔から各地区にあったと思う。その理由は明治38年、八重山島庁新築落成祝い(現在の地方庁)の時、大川村は六調節を道踊りとして出ていた。その時の踊り手や、師匠等、私はみな覚えている。」>

 <○字登野城の伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問「調査当時83才」の話(現在91才))
「私が子供の頃、父(嘉永5年生)から聞いた話で、八重山の「あさぱな」「六調節」はカニホー屋ぬ主(登野城永用翁)が大島で習ってきて、みなに教え流行らせた歌である。また、もう一つ私が子供の頃、ある行列があって、隣の家で大浜信烈翁(大浜信泉先生の父)が沢山の婦人たちに道踊りとして「あさぱな」を教えておられたことを覚えている。(今から70年前のこと)大浜信烈翁は安政4年(1857)3月24日生で(122年前の人)当時、登野城永用翁とは同趣味をもっておられた先輩後輩として親交も厚く、民謡もよく研究し謡っておられた。また、当時、白保の琉舞師範星潤氏(元立法院議員星克の父)は信烈翁の長女婿でもあったせいか白保部落にも盛んに「あさぱな」は踊られていた。」>

  この証言によれば、「あさぱな・六調節」は「カニホー屋ぬ主(登野城永用翁)」という特定の人物が、奄美大島で習ってきて、教え流行らせたという。証言は具体的で信憑性は極めて高いと思われる。
 では、「あさぱな」は奄美からの入植者がいて、白保住民との交流の中で伝わったという仲宗根氏紹介の伝承との関係はどう考えればよいのか。奄美の出身者がいれば、三線を持って来ていて、折々に奄美島唄を歌っていたはずである。白保住民との交流があれば、それが伝わることは自然な流れである。だから、白保に伝わったという伝承も否定はできない。白保と登野城の伝承は、互に否定する関係ではないし、矛盾はしない。白保にも登野城にも二つのルートで伝わったと考えることは、十分あり得ることである。

 「六調節」については、仲宗根氏の解説する大正年代よりもっと前に伝わっていたという。新崎氏は次のようにのべている。
 <「あさぱな・六調節」は沖縄廃藩後、まもなく、登野城永用氏によって奄美から持ち込まれ、アレンジされてすでに巷で流行っており、その証拠に、明治38年の島庁(現在の地方庁)の新築落成祝賀行事の際に道踊りとして登場し、踊られていた形跡がある。それから推してみてもすでに90有余年(注・著作の出版は1992年)も経過していることになる。>
 これは、先に紹介した字大川の長田紀光氏の証言で明らかにされている。 
 「六調節」は、今では八重山におけるめでたい宴席や祭行事の道踊りとして欠かせない民謡となり、「八重山の唯一のカチャーシ音楽として大きく発展している」(『八重山民謡の考察』)という。

追記
 テンプレートを前に使っていたものに戻してみました。


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「琉球民謡の変容、その続編」。トーガニスザとトーガニあやぐ

 宮古から八重山に伝わった「とーがにすざ」
 宮古の「トーガニ」が八重山に伝わり「とーがにすざ」として歌われている伝承がある。
 <喜舎場永珣著『八重山民謡誌』によれば、その昔、宮古の役人から伝授された「宮古トーガニ」が八重山の土壌で洗練され、今では八重山民謡トーガニスザーとして定着しみんなから親しまれた歌になっている。このトーガニスザーも歌から受ける感じは宮古的というよりむしろ、八重山的である(新崎善仁著『八重山民謡の考察』)>
    
 八重山の「とーがにすざー節」は、手元にある八重山古典民謡工工四(楽譜)に掲載されているが、まだ歌ったことも、聴いたこともなかった。
 次のような歌詞である。
1、とーがにすぃざー 宮古ぬ美ら島からどぅ 出でぃだる とーがにすぃざーヤゥ
沖縄から八重山までぃん はやりたる とーがにすぃざーヤゥ
( トーガニシゥザ 宮古の美しい島から生まれで出たトーガニシゥザよ
  沖縄島から八重山までも評判になっているトーガニシゥザよ)
2、一本松ぬヤゥ実るぃば落て 二本むや唐船ぬ柱なるとぅん
 うらが上にゆく肝持つぁでぬ 我やあらぬ
 (一本の松の木の実が落ちて 二本の松の木が生えて生長し唐船の柱になっても
 貴方に邪(よこしま)な 気持ちを抱くような私ではない)
3、あねるがじまる木ざぎどぅ 髭ば下れ石ば抱ぎ ふどぅべーいくさ
 うらとぅ我とぅや うら抱ぎ我ぬ抱ぎふどぅべーいから
(あのようなガジュマルの木でさえも 気根を下ろし石を抱き生長していくのだ
 貴方と私とは互いに心ひとつに手を取り合って 愛を育んで行こうねえ)
4、うらとぅばんとぅやヤゥ 天からどぅ夫婦なりで ふきゆい給れる
 後から見りゃん 前から見りゃん夫婦生りばし
(貴方と私とは天{神様}から夫婦になりなさいと 標結びを賜わった 後ろから見ても
 前から見ても天の配剤よろしく似合いの夫婦であるよ)
   
 歌詞は大浜安伴編著『声楽譜附八重山古典民謡工工四』、歌意は、當山善堂編著『精選八重山古典民謡集(三)』による。
この曲の題名について、當山氏は次のように解説している。
 <「トーガニ」は、宮古の抒情的歌謡の一形態。「シゥザ」は「シゥディルン(巣出る・生まれる・孵化する→再生する・栄誉に浴する)」を語源とする語で、「羨ましいなあ・いいなあ・めでたい」などの意(略)。宮古民謡に〈とーがに〉があり、その歌との関連があるとすれば「シゥザ」を「」と解釈することも出来るが、ここでは上記のように解釈したい。
以上の語意から、「トーガニシゥザ」は「トーガニ」という歌の、なんと素晴らしいことよ、なんと誉れ高いことよ」というような解釈が成り立つ。よって、ここでは「シゥザ」は「トーガニ」という宮古生まれの歌謡の様式を褒め称える尊敬接尾語と解釈した。(當山善堂著「精選八重山古典民謡集」〈三〉)>
 
 確かに宮古島では「スザ」は「」という意味とされているが、八重山のこの曲は、「シゥザ」を「」と解釈すると歌の意味がなんか通じない。當山氏の解釈が妥当のように思う。
 「とーがにしぅざ節」について、當山氏は次のように解説している。
 <この歌には、次のような伝承がある。すなわち、八重山民謡の〈あがろーざ節 〉が宮古に伝授されて〈東里真中〉となり、お返しに宮古民謡の〈とーがにしぅざ〉が八重山に伝授されて〈とーがにしぅざ節〉になったという。その真偽のほどはさておき、八重山民謡の〈とーがにしぅざ節〉と関連があると思われる宮古民謡には〈とーがに(すぅざ)〉と〈とーがにあやぐ〉があるが、いずれなのかは判然としない。
 八重山歌謡の〈とーがにしぅざ節〉は、古い歌詞集には見当たらず八重山伝統歌謡としての歴史は浅いが、歌い継がれる中で八重山の風土にしっかり根づき、近年は「節歌」の仲間入りを果たし、ゆるぎない存在感を誇示している>

 この曲の歌詞を見ると、確かに一番の歌詞で「沖縄本島から八重山までも流行っている」と歌われているので、宮古から八重山にも伝わり歌われていることがわかる。
    
 原曲は「とーがにあやぐ」か?
 八重山の「とーがにすざー節」をCDで初めて聴いてみた。「あれっ、これはよく知っていて歌っている曲じゃないか」とすぐに思った。その旋律で歌が頭に浮かんだのは、宮古の「とうがにあやぐ」(とうがに)だった。宮古を代表する名曲である。宮古から伝授された歌が「とーがに」か「とーがにあやぐ」かは「判然としない」とされる。だが私の聴いた印象では、旋律は「とうがにあやぐ」と驚くほどそっくりである。

 工工四(楽譜)で比較してみると、三線の譜面は、前奏から少し異なるように見えるけれど、声楽の音程はほぼ同じ旋律の流れである。それに一つの歌謡の前半を歌うと、途中、短い間奏を入れ、後半を歌うというスタイルもそっくりである。元歌は「とうがにあやぐ」ではないかと直感した。
 
 改めて「とうがにあやぐ」について、少し触れておきたい。
<宮古の人々から愛される「とうがにあやぐ」は、先人から今日に至るまで脈々と人々の魂とともに継承され、宮古の代表的な「あーぐ」として唄われ親しまれてきました。まさに宮古人魂(気質)を如実にあらわす唄であり、古くから祝宴の席等では必ず唄われ、生気溢れる座開き唄としても定着している。
 また、この唄の歌詞の中にあるように「世の中を照らす太陽のごとく、国々、島々の津々浦々まで照らし覆っておられる我が尊い御主の世は、根の生えた岩のようだ」と故郷の統治者の安泰を讃えた、宮古の人々の宇宙観、世界観を壮大なスケールで表現した唄であり、宮古人として誇りとすべき文化遺産である。(「とうがにあやぐ歌碑建立の趣旨」から)>

 いま宮古全域で歌われている歌詞の中から「御主が世」を紹介する。
「大世(うぷゆー)照らし居す゜ まてぃだだき 国ぬ国々島ぬ島々 輝り上がり覆(うす)いよ 我がやぐみ御主(うしゅ)が世や根岩(にびし)どうだらよ」
(世の中を照らす太陽のごとく、国々、島々の津々浦々まで照らし覆っておられる我が尊い御主の世は、根の生えた岩のようだ)
歌詞と歌意は「とうがにあやぐ歌碑建立の趣旨」から紹介した。
 「とうがにあやぐ」の歌詞は数え切れないほどある。外間守善氏編著の『南島歌謡大成(宮古篇)』には、宮古全体と狩俣、池間島で歌われている歌詞が掲載されているが、83首に及ぶ。これらの歌詞を見るかぎり、八重山の「とーがにしぅざ節」と似通った歌詞は見当たらない。八重山に伝授された当時、どのような歌詞で歌われていたのかは不明である。八重山では独自に歌詞が作られたのだろう。

 宮古の「とうがに兄」は同名異曲か
 八重山の「とーがにしぅざ節」と曲名が似ている宮古の「とうがに兄(スウザ)」のCDを聴いてみた。唄・三線、平良重信さんで「宮古民謡百曲集―初心者からの練習用(その5)」に入っていた。平良氏の歌っている歌詞は8番まであるが、1,2,4番を紹介する。
♪とおがにすうざがあらぱなぬ出会(イデア)ます゜やよヤイヤヌ
ヨーイマーヌー出会ます゜やよ ニノヨイサッサイ
♪むみや河底ぬやらぶが下んど出会ます゜やよ(囃子は省略)
♪斧持ちいき金や持ちいきなぎかいらしよ
 『日本民謡大観 沖縄・奄美(宮古諸島篇)』にも「とーがに兄」の歌詞と訳文が掲載されている。平良氏が歌っている歌詞と一致する部分だけ訳文で紹介する。
♪唐金兄との最初の出会いは 出会いは(囃子は省略)
♪嶺川底のヤラブ木の下で出会った 出会った
♪手斧を持って行き 鉄を持って行き薙(な)ぎ下ろし 薙(な)ぎ下ろし
 八重山の「とーがにしぅざ節」とは、題名は同じであるが、歌詞を見る限り共通する内容はない。

 なによりも、CDで聴いてみると「とうがに兄」は、旋律やテンポとも八重山の曲とはまったく似ていない。というか、平良さんの唄を聞く限り、テンポが速く「クイチャー」のようである。もっとも代表的な「漲水のクイチャー」などと比べると少し遅いが、旋律はとってもよく似ている。囃子の「ヤイヤヌ」「ヨーイマーヌー」「ニノヨイサッサイ」はまったく同じである。
 これはどう考えても、八重山に伝わった元の歌ではありえない。同名異曲だといわざるをえない。
考えてみると、宮古の人が八重山の人に民謡を伝授する場合は、やはり宮古の最も代表的な歌を選ぶのが自然な流れではないだろうか。とすればまずは「とうがにあやぐ」を歌って伝授したのではないだろうか。
 八重山の曲の元歌が宮古の「とうがに兄(スウザ)」ではなく、宮古の「とうがに(あやぐ)」であるとすれば、當山氏が指摘する通り八重山の「トーガニシゥザ節」は「とうがに(あやぐ)」の「なんと素晴らしいことよ、誉れ高いことよ」と褒め称えた曲名という解釈に納得がいくのではないだろうか。

沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「琉球民謡の変容、その続編」。伊良部トーガニとトゥバラーマ

 「伊良部とうがに」と「とぅばらーま」
 伊良部島では「とうがに」を「八重山とうがに」と呼ぶ地区があるらしい。
三隅治雄解説書『沖縄音楽総覧(宮古民俗芸能謡篇)』の中に、伊良部トーガニについて次のように記されているという。
<『…現行の「とうがに」を聞くと、その旋律が八重山地方の「とばらま」(省略)に似ていて、それとの関連が一方に考えられます。
 伊良部島の佐和田地方ではこの「とうがに」を「八重山とうがに」などと呼んでいるそうです。』(新崎善仁著『八重山民謡の考察』から)>
  三隅解説書でも、「とうがに」の旋律が「トゥバラーマ」と似ているとし、伊良部島佐和田では「八重山とうがに」と呼ぶとのべている。なぜ「八重山とうがに」と呼ぶのだろうか。それだけでトゥバラーマと関係があるといえるのだろうか、不思議である。
新崎氏は「これ等、伝承から推測する限り伊良部トーガニは八重山のトゥバラーマと何等からの関連があるような気がしてならない」として、再度、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』に記載されている次のような伝承を紹介している。
      DSC_0779.jpg 
            伊良部大橋。手前が伊良部島
 <○…この歌謡は、登野城村の故金城長保氏の祖先が黒島首里大屋子職時代に、公物宰領役として、上沖の際、宮古島八重干瀬で座礁、難破したところを島民ならびに宮古蔵元に救けられ、手厚い介抱をうけたうえ、新造船を与えられて帰省したが、途中、ふたたび疾風にあい、西表島西南にある中神島(ナカノオン)に漂着した。(中略)
○…(省略)この歌は今から167年前頃の作である事は推測される。この歌は黒島首里大屋子が宮古に滞在中に、島の女と恋愛していたが、いよいよ別れの際に即興詩となってあふれ出た歌だと伝えられる。それは囃子に「湧川の親ガマ主」と宮古語を謡っているのでもわかる。(新崎善仁著『八重山民謡の考察』から)>

 <これ等、双方の資料を総合してみると、先に述べた佐和田地方に伝わる「八重山トーガニ」(伊良部トーガニ)は八重山のトゥバラーマとの関連が深く、おそらく、黒島首里大屋子湧川氏が離別の際、その悲しみを即興で謡った歌、「昔トゥバラ―マ」のメロディーが、その地方に流布し、それが何時しか、トーガニ風の発想で現在歌われている「伊良部トーガニ」へ衣更えし発展していったのではないかと推察される。(同書)>
 新崎氏は、こうした伝承からすると、「トゥバラーマ」が宮古から伝わったという「亀川正東氏の随想『音楽異聞』の説は、むしろ、逆ではなかろうか」とのべている。

 喜舎場氏が採取した伝承を読むと、首里王府に出かけた際の八重山、宮古など島人の交流や船の遭難、漂流で、滞在した際の交流などを通してお互いに民謡を歌いあい、交換する機会がたびたびあったことがわかる。
 ただし、黒島首里大屋子の湧川氏が、滞在中に恋仲となった女性との別れの悲しみを歌った「昔トゥバラーマ」が流布したという伝承は、まだとても信じられない。
 というのは、何よりも伊良部トーガニは、別れの悲しみを歌った曲ではないからだ。
 伊良部トーガニは、宮古島にいる男性が伊良部島の愛する女性に逢いに行く内容の曲である。歌詞(歌意)では「伊良部島との間には休む瀬があればよいのに」「小さな舟で瀬を渡り、水巣で舟を休めおいで下さい」「板戸は音高いので、音の鳴らないムシロの戸を下ろして待っていて下さい」と歌っている。歌詞が時代とともに変化するのは常識だが、この歌詞は、これだけ物語としてまとまっていて、他の歌詞から加工してできた歌の内容ではない。歌詞をすべて作り直して別の歌詞にした替え歌はあるが、この曲の場合は、旋律と歌詞がよくマッチしていて、とても替え歌とも思えない。

 「伊良部トーガニは即興的な叙情歌で、推定500~600年前に伊良部島の歌の名手トーガニ(唐金)が歌ったものとされ、後世の歌い手が編曲した」。「伊良部トーガニまつり実行委員会」はホームページでこのように説明している。
島で干ばつが続いたため、唄の上手いトーガニが雨乞いの唄を習うために、八重山へ赴き、帰りを待つ娘さんが生き神になったという伝説もあるそうだ(「美ら島物語」HP「沖縄の島唄めぐり 恋ししまうたの風 第10回 伊良部トーガニ」)。
 八重山に雨乞いの歌を習いに行くという習慣があったとは、驚きである。とても興味深い話である。
 
  大川恵良著『伊良部風土記』によれば、「伊良部トーガニ」(大川氏は「伊良部タオガニアアゴ」と表記)について、次のように解説している。
 <タオガニは、お祝いの座敷や酒座でよく歌われている。歌の主題は、自然、恋愛、教育、協力、福祉、社会等に関する歌が多く、内容は一般に相手の気持や境遇を洞察して、相手を喜ばしたり感激させたりする文句を即興的に表現する…旋律は装飾音やレガートで構成されているので感傷的で悲愴な感を相手に与え、素朴な発声の持ち味と相俟って聞く人をしてうっとりとさせる。封建政治の圧迫と差別を強いられ、毎日の生活が苦労と忍従で過した住民の心からの叫びのように聞こえて感無量である。>
 大川氏は、その歌詞として31首を掲載している。この解説と歌詞を見ると、「伊良部トーガニ」が八重山の歌と関係があるのか否か、歌詞の面から対比してもあまり意味がない。伊良部の島と住民の生活の中から生まれ、愛され、歌い継がれてきた民謡であることがよくわかる。



沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |

「琉球民謡の変容、その続編」。あがろうざと東里真中

「あがろうざ」と「東里真中」は異名同曲

 仲宗根幸市氏は、八重山の「あがろうざ」と宮古島にある「東里真中」(あがりざとぅんなか)という子守歌は「異名同曲」とする。次のように解説している。
 <「あがろうざ」とは石垣島では東の村里(登野城ではないか)とみられている。
 ところで、宮古に「東里真中」という子守歌があり、歌の内容、旋律も両地の歌は似ている。八重山の人はおらが島がルーツといい、宮古では自分たちのところがルーツと主張している。歌詞に「とぅぬすく」が出てくるので、八重山の人たちは「登野城」と解釈し、宮古の人たちは「己ぬ城」(自分の屋敷内)と考えている。
 どちらがルーツで古いかは未解明だが、八重山の歌は子守歌のユンタから発展し節歌となって洗練され、宮古のあやぐは素朴でより情緒的な感じを受ける。二つの歌とも抒情性豊かな美しい旋律が魅力である>
 仲宗根氏は、ルーツについて判断せず、「どう関連しているかが究明の課題となろう」とのべている。

      

 ここからは、前にブログでも書いたけれど、私の個人的な解釈をのべたい。八重山から宮古に伝わったという伝承があるにしても、どうにも同意しかねるところがある。というのは、歌詞を分析する限り、八重山から宮古に伝わったという話は、成り立たないと思うからだ。
 では、なぜ宮古から八重山に伝わったと判断するのか。
 まず、「あがろうざ節」は「♪あがろーざぬんなかに 登野城ぬんなかに」と歌い出すが、最初に出てくる「あがろうざ=東里」は、曲名につながる重要な言葉なのに石垣にはそんな地名がない。それで、「登野城が四箇村の東方にあることから登野城の対語(東里)として使われたものと思われる」という解釈がされている。でも私には無理なこじつけの解釈のように思われる。

 これに対して宮古島市には、市役所にも近い場所に「東里」という地名がある。「東里真中」の一番の歌詞は「♪東里真中んよ 己ぬ城(どぅぬぐしく)真中んよ」と歌われる。「已ぬ城」は、地名ではなく「私の屋敷」という意味である。「東里の真ん中によ 私の屋敷の真ん中によ」と筋の通った歌詞になっている。歌が宮古から伝わったとき、「已ぬ城」は発音が登野城と似ているため、それが転じて「登野城」とされたのではないだろうか。

 注目される「九年母木」の歌詞 
 どちらの曲がルーツであるのかを判断するのに、なにより重要なのは歌詞に出てくる「九年母木(くにぶんぎ=ミカンの木)」だと思う。「あがろーざ節」では、「九年母木ぬ下なか 香さん木ぬ下なか 子守りゃ達ぬ揃る寄てぃ」と歌う。「ミカンの木の下に守姉が集まっている」という歌意である。それはたんなる情景描写に過ぎない。歌全体の中でミカンの木は特にたいした意味を持たない。
 しかし、宮古の「東里真中」は異なる。次のような歌意である。
 自分の庭にミカンの木を植える。ミカンの木が生長して、人の丈ほどになり、花を咲かせ、実をつければ、守姉の仲間が集まって、ミカンの玉を剥いて遊ぼう、私がお守りしてあげたら、ミカンの木のように、香り高い木のように、島中、国中にとどろく偉い人になりなさいと歌う。
       

 「守姉が自分の子守した子どもの成長、又は立身出世を願う心情を蜜柑の木の植栽から成木期になるまで渾身を込めて栽培し育てた過程になぞらえて歌われる子守歌」(真栄里孟編著『宮古古典民謡工工四』)。
 ミカンの木の成長と子どもの健やかな成長が重ね合わされており、ミカンの木はこの曲のキーワードのような意味を持つ。ミカンの木を軸にして、曲全体に論理的な一貫性がある。つまり、どこかの曲を元歌として、歌詞を少し変えたり、継ぎ接ぎした曲ではありえない内容である。
 以上の理由で、私は宮古の「東里真中」が元歌であると考える。ただし、「東里真中」と「あがろーざ」は、歌詞は共通性があるけれど、演奏を聴いても、前奏からまるで違うし、旋律を聴いてもあまり似た感じがしない。不思議である。

 両曲のどちらが元歌なのかは、もはやあまり意味がない。「あがろーざ」は八重山民謡のなかでも、私は大好きな曲である。旋律も素晴らしいし、子どもの健やかな成長と、学問をしっかり身につけて、立派な人になってくださいと願う歌詞の表現は、「東里真中」を超えるものがあるのではないだろうか。


沖縄の民謡 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>