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レキオ島唄アッチャー

「琉球民謡の変容、その続編」。勝連節と親まある節

 「勝連節」に似た「親まある節」
 八重山民謡の「親まある節」を練習していると、「これって、なんか勝連節と似ている」と思った。「親まある節」の歌詞を紹介する。
 「親まある節」
1、崎枝からぬ戻るぃんや ヒヤリグマタ 川平までぃん御供すヤゥ
 ユユイカユイミブシャアシガヤゥ
 川平から桴海、野底、伊原間、平久保、伊野田、桃里、盛山、白保、宮良、大浜、平得、真栄里、石垣
 親廻りとは、役人による村々の巡見をいう。この場合、役人とは王府から特定の地域に派遣された常駐官である在番や間切(いまの町村)の長である頭(かしら)をいう場合が多い。
 この歌は、役人の巡見の時、崎枝から戻る時には、川平までお供しますと歌う。この後、石垣島の各地名を上げて同じように歌っている。
        
 各村々にとって、役人の巡察はとても気をつかう重要な行事だっただろう。
 毎年親廻りと時、村々で出迎えがあった。受け入れる村では、出迎えや接待とご馳走にも気を使った。だんだん過度な出迎えや接待があったらしく、首里王府が八重山島に役人を派遣した上で出した布達に、次のような記述がある。
「(親廻りの)その時、村々の男女が各村はずれに出迎えていたが、今後は男ばかり主だった者ならびに役目についている者を割り当てて迎え、そのほかの者は必要ない」「その時、村々で法で定めた以外に馳走をすること、また野菜・肴以外のものを注文することは一切不要である。」(『与世山親方八重山島規模帳』)
 役人が視察に行くと、地方では受け入れと接待に気を使うという情景はいまも昔も変わらないものがある。
「親まある節」と似ているのが、沖縄本島で歌われる「勝連節」である。でも、歌詞はまったく異なる。「勝連節」の歌詞と訳文を紹介する。

 「勝連節」の歌詞と歌意は次の通り。
1、勝連の島や ハリガマタ 勝連の島や ヒヤヨ通いぶしゃあしが ヨーンゾヨー
 (以下ハヤシは省略)
 (勝連の島には美しい娘たちがいるから、通って遊びたいけれど)
2、和仁屋間門(わにやまじょう)の潮(うす)の 和仁屋間門の潮の 蹴やいあぐで
 (和仁屋間門の潮波が荒くて、渡るのが大変難儀だ)
3、和仁屋間門の潮や 和仁屋間門の潮や 蹴やいあぐどとも
 (和仁屋間門の潮波は、蹴りあぐんで渡りにくくとも)
4、勝連の島や 勝連の島や 通いぶしゃぬ
 (それでも勝連の島は、通って遊びたいものだ)
        
 和仁屋間門の潮とは、北中城村の和仁屋と北隣の渡口の東側で、中城湾に面する一帯を和仁屋間門と呼ばれていた。勝連半島の娘さんところへ通いたいけれど、陸の道路で行くと地元の青年が邪魔する。多分、村の娘が他の村の青年と仲良くなるのを嫌がったのだろう。それで、海辺の浅瀬を歩いて行ったそうだ。徒歩で渡る時、潮の流が荒くて、潮の流れを足で蹴りながら歩くので疲れる。それでも通って遊びたいという気持ちを歌っている。
 二つの歌は、歌詞はまったく異なる。「親まある節」の後半部分のメロディーが「勝連節」とそっくりである。メロディだけでなく、ハヤシの部分は歌詞も似ている。類似曲だと印象強いのは、この独特のハヤシである。
 「親まある節」は、「ユユイカユイミブシャ アシガヤゥ」と歌う。「勝連節」の一番は「ヒヤヨ通いぶしゃ アシガヨーンゾヨー」と歌う。これは偶然の一致とは思えない。
 前半はメロディが少し違うようだけれど、前半のハヤシは「親まある節」が「ヒヤリグマタ」と歌うのに対し、「勝連節」は「ハリガマタ」と歌う。両者とも「――マタ」と歌う部分は同じである。

 「歌で変わりやすいのは曲名や曲、歌詞であり、変わりにくいのは囃子詞や反復である。その変わりにくい要素の囃子詞を探求すれば、ある程度歌の系譜が見えてくる。(仲宗根幸市著『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)。

 この歌の場合、どちらが元歌なのか、根拠となるものは見当たらない。但し、「親まある節」は、琉球王府時代の役人の村廻りの習慣に根差していて、古い時代を歌っている。それに比べると「勝連節」は、青年たちが夜、野外歌って遊んだ「毛遊び(モーアシビ)」の情景がテーマである。あまり古い歌の感じがしない。

ところが、琉球古典音楽で現存する最古の工工四(楽譜)で18世紀頃のものとされる「屋嘉比(やかび)工工四」には、「勝連節」の歌詞の上句だけが「和仁也間門節」として記録されているという。
 曲名は異なるけれど「現在の『勝連節』の節廻しに非常に似ている」という。「地方で歌われていた民謡がいち早く中央の楽曲の中に取り入れられ、そして民謡調の節廻しがあまり変化しないまま継承されてきたもののひとつであろう」。
 勝連繁雄著『歌三線の世界』はこのように指摘している。

これを見ても、やはり「親まある節」をもとにして、多少編曲して歌詞も変えて「勝連節」が作られたのではないだろうか。





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「琉球民謡の変容、その続編」。稲しり節とディラブディ

 稲しり節とも似ている

 沖縄民謡でもう一つ似ている曲がある。小浜光次郎氏が作成した「琉球古典民謡と八重山古典民謡類似曲一覧」(八重山の古典民謡集)では、「ししゃーま節」の類似曲として「三村節」(三村踊り)とともに「稲摺節」の2曲を上げている。「稲摺り」は、米の籾を摺る、脱穀することを意味する。豊年を予祝する歌である。歌いながら作業する情景が、目に浮かぶようだ。

 次のような歌詞と歌意である。
 「稲しり節」
1、今年毛作い(むぢゅくい)や あん美らさゆかてぃ
  稲摺(し)り摺り 米篩(ゆ)り篩り チユリユリユリ アヒリヒリヒリヒリ
 (今年の稲はよいできで すばらしい実りである 以下ハヤシは省略)
2、倉に積ん余ち 真積んさびら
 (倉に米を積み上げ 真積みしまそう)
3、銀(なんじゃ)うすなかい 黄金じく建てて
  (銀の臼に 黄金の軸をたてて)
4、たみししるまする 雪ぬ真米
 (すり増していく 雪のような米)


  


 この曲は類似曲とは思わなかった。小浜氏の一覧表によって、気づいた次第である。
 というのも、歌の出だしや「稲摺り摺り…」ハヤシのメロディはそっくりである。だが、うたもち(前奏)も違うし、中間部も異なるので、聞いていても、三線で演奏しても類似曲という印象はあまりない。
 でも、注意してみると似ている部分は偶然の一致とは思えない。「ししゃーま節」をもとにして編曲ものだろう。

 島袋盛敏著『琉歌大観』は、「稲摺節」の歌詞として、尚貞王(第二尚氏第11代国王)が詠んだ琉歌を掲載している。3,4番の歌詞とほぼ同じである。
 米は臼を回して籾殻を除く。臼は上下二つの部分からなっており、真中に軸が立っている。臼は銀、軸は黄金と見なしたものだという。

 八重山にも「稲磨(いにすり)節」がある。喜舎場永珣著『八重山民謡誌』によれば、歌詞は4番まで別の歌詞であるが、5、6番に「銀臼立てて黄金臼立てぃてぃ 千石ぬ米ん 搗きどぅしゃびる」(銀の臼を立てて黄金の摺臼をたてたら 千石の米もなんあく摺り終るのだ)と歌う。これは明らかに本島の「稲しり節」の歌詞、それも尚貞王の琉歌が部分的に使われている(歌詞はカタカナをひらがなに改めた)。
 旋律はまだ工工四(楽譜)を見たことがないので、本島の「稲しり節」と同じであるかは不明である。ただし、YouTubeでは石垣島真栄里の豊年祭で婦人会による奉納芸能として「稲しり節」がアップされている。歌い踊られている動画をみる見る限りは、本島と同じ旋律とテンポである。知人の八重山民謡の唄者の方に聞くと、「メロディ、テンポほとんど本島と一緒だと思います」とのことだった。本島の「稲しり節」が持ち込まれたのかもしれない。
 もともと八重山で歌われていた「ししゃーま節」が、本島で編曲、作詞されて「稲しり節」となり、それがまた八重山に別の曲としてUターンしたことになる。


 「稲しり節」は、奄美諸島にもある。
 沖永良部島の「稲摺り節」の歌詞と歌意は次の通り。
1、イニシリシリヨ アラユリユリヨ(稲を摺れ摺れ。あら{稲殻}を選れ選れ)
  ふとしゆがふどし ふみあわぬできて
 (今年世の中は果報{幸せ}な年となり 、米も粟もたくさんできました。)
2、ふみどぅゆらりゆる あわぬゆらりゆみ
 (米を選り分けられても、粟は選り分けられません)
3、なんごくぬふみぬ ゆてどひにゃらしゅる
 (何石の米も、選り分けて少なくなります)
 ※稲殻を選って除いていけば、米の量は減るということ。
4、きばてぃしりようないぬちゃ しきゅうめからしゅんど
 (頑張って摺りなさい、姉さんたち。支給米を差し上げますから。)
 ※「しきゅうめ」は「シキュマ」(始給米)といわれる 初穂祭に関係する米と言う説もある。
     
 <歌詞は、奄美・沖縄に昔からたくさんある。…特に奄美大島では、沖縄の方から伝来した唄と感じている人が多いのではないでしょうか。奄美出身の民謡研究家、久保けんおさんも、『南日本民謡曲集』(音楽之友社 昭和35年発行)のなかで、この「稲摺り節」は沖縄から入ってきたものですが、徳之島以北では琉球旋法(沖縄メロディー)では歌わないと記しています。
 なお、この唄の起源を、稲摺り時の仕事唄としている人もいますが、実際には、豊年を感謝したり、祈願する儀礼歌だというのが正しいようです。>
 以上は、鹿児島県奄美島唄保存伝承事業「沖永良部島」から紹介した。
 歌のハヤシから受ける印象は、仕事唄であるが、歌詞を見ると、豊年の祝いや祈願の歌という面が強いだろう。歌詞の内容や奄美への広がりを考えれば、かなり古い時代から歌われていたのではないかという気がする。

 奄美の「稲すり節」を始めてYouTubeで聴いてみて、驚いた。これは、沖縄本島の「稲しり節」とは少し違いがある。なにより、八重山の「ししゃーま節」とそっくりである。多少、奄美的な色合いはあるが、メロディーもテンポも「稲しり節」より「ししゃーま節」に似ている。これはどういうことだろうか。
 八重山の歌は、稲摺りとはまったく関係のない歌詞である。奄美の歌は、メロディーは八重山の歌に似ているのに、歌詞は、沖縄の「稲しり節」と同じく、稲摺りの作業と豊年の予祝歌ということでもそっくりである。
 奄美で「稲摺り節」は、沖縄から伝わったと考えられているのに、似ているのは歌詞だけで、メロディーやテンポは八重山の元歌に似ているというのは、とても不思議なことである。
 八重山の歌が奄美に伝わることは、他の歌の例からもあり得ることではある。でも、この歌の場合、歌詞は沖縄の「稲しり節」と似ているから、八重山から本島を飛び越えて伝わったとは考えられない。もしかして、沖縄の「稲しり節」は、昔はもっと「ししゃーま節」に似ていたのだろうか。

 いずれにしても、本島民謡の「三村踊り」「収納奉行」「稲しり節」の3曲とも、とても軽快で楽しい曲である。よく舞踊曲として使われ、盛り上がる。八重山の「ししゃーま節」は面白い歌ではあるが、ゆっくりしたテンポであり、軽快で踊りに適した曲という感じがしない。この曲をもとに、まったくテーマの異なる歌詞によって、つくられた3曲は、それぞれ特色と魅力がある。

 与那国島に似た曲があった
 2019年の「離島フェア―」の芸能舞台を見ていた時、与那国島出身の与那覇歩さんが歌った。その時は、歌の説明を聞いてもまったく知らない曲だと思った。だが、弾き始めてすぐに、「あれっ、この曲は知っている!」。少し考えてピンときたのは「三村踊り」だった。
 「ディラブディ」の歌詞と歌意は次の通り。
 「ディラブディ」
1、いすんきんでぃらば でぃらぶでぃ あぶひてぃはまてぃんき 
とんでみりば たいやばあーたい いぐんやうでぃやま いぐん
 ・磯漁に出たら ディラブディ(ディラ叔父) アブヒティ浜に
  出てみれば 炬火は私の炬火 銛はウディヤマの銛
2、いらぶたいゆぬ とぅんでぃらば みりばんんににうてぃはらい
  みさだいゆぬみらるば まんながひってとばい
 ・イラブタ魚(ブダイ)が出て来たら 見れば胸を打ちぬき
   ミサダ魚(ギンユゴイ)が見えたら 真中を突き飛ばせ
3、いすきてぃむどる みてぃながに うぶたぬはまてぃんき
  あんがいみりば いゆぬかでかで どみみりば さんびゃぐるくどぅ
 ・磯漁して戻る道中に ウブタの浜に上がってみれば
    魚の数々をよんでみたら 360
4、さんびゃぐるくどぅぬ いゆばゆ んたいとぅぬうとぅたんき
  ばぎるんでゃ するばんだまに ぬしみりば ひゃぐぬにんどぅ
  ・360の魚をば 三人の兄弟に分けるには 算盤玉に乗せれば
  120
5、ひゃぐぬにんどぅぬ いゆばゆ かたみてぃむどりゃ だぬとぅでや
  かたはんてぃたてぃたてぃ ちらやばらいでぃきらし
  ・120の魚を かついで戻れば 家の妻は片足をあげあげ
  顔は笑いほころび迎えた
 (ネット「美ら島物語 恋ししまうたの風」をもとにした)
                
  ディラ叔父が銛をもって漁をして、3人兄弟で分けて魚を持って家に帰れば妻が大喜びする情景が歌われている。歌詞は、オリジナリティーがあり、とっても面白い曲である。この歌は、与那国にしかない唄、オール与那国言葉といわれる。
 こういう歌は、元歌が別にある替え歌のような感じがしない。だが、実際には、なぜか「ししゃーま節」、「三村踊り」「収納奉行」とそっくりである。
 「三村踊り」「収納奉行」はとても軽快でテンポが速い曲だ。それに比べると、八重山の「ししゃーま節」、は、ゆったりしているが、与那国の「ディラブディ」は、軽快でテンポは早く「三村踊り」と似ている。元歌をアレンジしたり、歌詞を変えて歌う場合、テンポを速くすることが通常である。元歌よりテンポを遅くすることはほとんどない。それは、八重山民謡をもとにして、首里王府の古典音楽に取り入れたり、沖縄芝居で歌詞を変えて使ったりした多くの歌を見れば言えることである。
 
 といっても、「ししゃーま節」と与那国の「ディラブディ」を比べてみると、どちらが元歌か推定する根拠が見当たらない。歌詞をみてもまったく異なり、それぞれ特色ある内容であり、共通性がない。与那国島の民謡は、石垣島などで歌われる八重山民謡には、「与那国のまやーぐぁー」「与那国しょんかね」など取り入れられている。この場合は、元歌を多少、編曲したり歌詞を少し変えても、共通の歌であることがすぐわかる。だが、「ししゃーま節」と「ディラブディ」はどちらも独創的な歌詞である。にもかかわらずこんなにメロディーが似ているのは不思議である。。
 「収納奉行」と「三村踊り」を比べると、津堅島で首里王府の役人を接待する様子が歌われている「収納奉行」の方が時代としては古いように思う。「三村踊り」の方が、これを元歌として作られたのではないだろうか。
 「収納奉行」は、舞踊曲として人気がある。沖縄本島で踊られる舞踊曲は、明治以降に八重山民謡をアレンジして、テンポの良い早弾きなどで演奏されるようになった曲がいくつもある。「収納奉行」も、八重山民謡を元歌として、新たな歌詞を創作し、編曲してできたのではないだろうか。断定するだけの材料は持ち合わせていない。


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「琉球民謡の変容。その続編」、ししゃーま節と三村踊り、収納奉行

 新型コロナウイルスの広がりで、家にいる「やーぐまい」の日々となった。これまで通っていた「沖縄民謡」「八重山古典民謡」「琉球古典音楽」の3つのサークルが休止となり、自宅で歌三線を練習するしかなくなった。

 はじめは、これまで習った曲の復習が中心だった。でも、復習ばかりだと、これまで覚えた曲を忘れないようにするだけで、歌と三線はたいして上手くはならない。階段を上がるのではなく、踊り場でグルグル回っているだけの気がした。おりしも、八重山民謡の女性歌手の二枚組CDをいただいたばかりだった。八重山民謡サークルは決まった曲しかやらないので、知らない曲がたくさんある。CDを眺めていると、弾いてみたい、覚えたいという気持ちが湧いてきた。

 それで、この際、知らない曲をCDに合わせて演奏し、覚えることにした。新しい曲を演奏してみると、なんとなく前よりは前に進んでいる気がする。コロナが終息したあと、あの膨大な時間の余裕があった時、何をしていたのか、その証がこれだった、と言えるようにしたい。そのためには新しい歌を少なくても10曲、出来れば20曲ぐらいはマスターしたいと思いたった。

 前置きが長くなった。八重山民謡の自分には新しい曲を演奏してみると、「これはなんか本島民謡にも似た曲があるなー」と感じることが何回もあった。いま練習している曲でも、3、4曲はある。前にこのブログで「琉球民謡の変容」と題して、八重山、宮古島、沖縄本島の類似曲について自分なりの感想と意見を書いてみた。

今回、新たに見つけた類似曲について、続編を書いておきたい。

 それに加えて、八重山、宮古島、沖縄本島をめぐり、そっくりの曲や歌の交流、交換の伝承のある歌、さまざまな影響を与えていたことうかがわせる歌について、個別にブログにアップしていた文章がある。この際、この「琉球民謡の変容、その続編」のなかにまとめておきたい。個別にアップしているだけでは、断片的なことしかわからない。まとめてみると、民謡をめぐるつながり、交流、変容を広くとらえてみることができるからである。

 

 「三村踊り」とそっくりの「ししゃ-ま節」

        

最初は八重山民謡の「ししゃーま節」である。これを練習し始めた時、「あっ、これは三村踊りだ」とピンときた。沖縄本島で「三村踊り」は軽快のノリの良い曲で人気がある。

まずは「ししゃーま節」から見ておきたい。次の歌詞である。

ししゃーま節

1、ししゃーまますんでかに打つだ村ぬ二才達(にさいたー)がゆしかゝてぃ
 あぶにへむぬさみ むんどーどぅくぬみよる

2、ひえぃひえぃ山むるく今夜(にか)ぬ夜や 宿からし 
かりおーり主ぬ前 主ぬ前どぅ待ちゆだる

3、ししやーま舟ぬつな筆者 石ぬ家ぬ上里ぴらーま 家ぬ数々出でーぴへるいるい

4、紺染みすでぃなぬぱぎすでぃな紡(さや)ぬ緒(ぶー)ばかい飛ばし

家ぬ数々ぴらーまどぅすらしょうる

5、格子すでぃな紺すでぃな たげにぴぢりみんば切り飛ばし 
家ぬ数々ぴらーまどぅまあしょうる

    
 歌意は次の通り。

1、シシャーマを誘い出そうとカネを打ったら、村の若者たちが

押し寄せてきて危ないことだ。口論になってしまった。

2、やあやあ山ムルクさんよ、今夜は宿を貸して下さい。借りてくださいお役人様。

あなたをお待ちしていました。

3、シシャーマは舟のつな筆者。石の家の上里の兄さま。あちこちの家に

出入りしているよ。

4、紺染めのスディナの色あせたスディナを着た女が、絹織物(ひも)をヒラヒラ
させながら、あちこちの家に出入りして恋男を喜ばせているよ。

5、格子縞のスディナ紺染めのスディナを着た女が、右に左に緋色のちりめんの裾を
ヒラヒラさせながら、あちこちの恋男を誘っているよ。

歌意は當山善堂著『精選八重山古典民謡集』による。當山氏はシシャーマは男性だとしている。それは、3番の歌詞で「シシャーマは舟のつな筆者」などの歌詞から男性と見ているのだろう。
 逆に女性とみる方もいる。「村の娘ししゃーまをめぐる村の若者たちのモーアシビの様子が軽快なリズムで歌われている。」(「八重山うた大哲会」HP)
 改めて、「シシャーマ」は男性か女性か、それぞれを当てはめて歌詞の意味、流れを見てみると、女性の方がピッタリくる気がする。
 1番は、村の若者が女性を誘い出す場面。3番は、シシャーマの人物を描いているのではなく、舟のつな筆者や石の家の上里の兄さまなどあちらこちらの家に出入りしていることを示しているのではないか。というのは、4,5番でスディナを着た女性が着物の裾などヒラヒラさせながら男の家に出入りする、恋男を誘っているという歌詞につながるからである。スディナを着た女性がシシャーマとなる。このように解釈する方が、歌の意味と流れが通るのではないだろうか。これはあくまで私見である。

 追加補強
 県立図書館が再開されてやっと喜舎場永珣著『八重山民謡誌』を借りて読むことができた。喜舎場氏は「シセマ節(シシャーマ節)」と表記している。當山氏の訳文とは少し異なる。異なるカ所だけを取り上げる。1番の出だしは「シセマ女を誘い出すために」として、ししゃーまは女性の名前とみている。
 3番は、「シセマ女の恋人は 舟の綱筆者役(注・船具の責任者)で 上里家の殿原になったが、それ以前は 女を求めて各戸を虱潰しに出入りしてさがして歩いた」と訳している。「それ以前」にあたる歌詞はないので、あくまで喜舎場氏の解釈である。私としてはどうも同意しかねる。
 この後は當山氏と大差ない。
 「スディナ」について、喜舎場氏は次のように解説している。
 「昔の女の衣裳の名称で、両側に1尺5寸くらいの裂け目があって、その下袴(俗称カカン)のヒダ(襞)をちらっとみせるところに魅力があった」。
 スディナを着た女性がししゃーまで、この歌の主人公となる。
     
 「三村踊り
沖縄本島の「三村踊り」は、産業などで共通点のある3つの村をまとめて歌っている。
1、小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小(ぐぁー)達が揃とて布織い話
綾(あや)まみぐなよ 元かんじゅんど

(小禄、豊見城、垣花という布織の盛んな三つの村の姉さん達が、そろって布織り
話をしている 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ)

 2、上泊 泊 元の泊と三村 三村のニ才達(にせたー)が揃とて塩(まーす)炊き話
雨降らすなよ 元かんじゅんど

(上泊、泊、元の泊という塩作りの盛んな三つの村の青年達が、そろって塩炊き
 話をしている 雨を降らすなよ 元が取れず損をするぞ)

 3、辻 仲島と渡地と三村 三村の尾類小(じゅりぐぁー)達がすりとーて客待ち話 
美(ちゅ)ら二才からはい行ちゃらなや

 (辻、仲島、渡地という遊郭のあった三つの村の遊女達が、そろって客を待ちながら
話をしている イケメンの青年に早く会いたいな)
4、潮平 兼城 糸満と三村 三村のアン小達が揃とて魚売り話 安売りすなよ元かんじゅんど

 (潮平、兼城、糸満という漁業の盛んな三つの村の姉さん達が、そろって魚売り
話をしている 安売りをするなよ 元が取れず損をするぞ)

 5、赤田 鳥小堀(とぅんじゅうむい) 崎山と三村 三村の二才達が揃とて 酒たり話 
麹できらしよ元かんじゅんど 

 (赤田、鳥小堀、崎山という泡盛造りの盛んな三つの村の青年達が、そろって酒造りの話をしている
 麹をうまくくつれよ 元が取れず損をするぞ)

 

 「三村踊り」と「収納奉行」は異名同曲

 これはもともと「収納奉行(しゅぬぶぢょう)」とそっくりである。異名同曲といえるだろう。取納奉行というのは、王府の時代、税金を定めるためにやってくる役人のことである。

取納奉行」の歌の舞台は津堅島(つけんじま)である。津堅島は、本島中部の勝連半島の沖にある。いまはニンジンの産地で「キャロットアイランド」と呼ばれている。この歌は、島にやってくる王府の税務役人もてなしをめぐる情景を描いている。長いので、簡略な訳文で紹介する。

 「収納奉行」

意気込む取納奉行はいついらっしゃるか 津堅の崖に登って浜を見たら奉行がお越しになる

浜に着くと奉行が言うことには 今日は娘を取ってくれよ 津堅の頭(カシラ)たちよ 
  奉行の相手の娘に誰がなるか

津堅神村祝女殿内(ぬんどんち)のカマドに頼もう あれほどの奉行の前に近寄るのに 
 下着も下袴も着けない者を行かせるのか

下着、下袴を貸せば行くか 応じれば金儲けができる いやいやすると尻をぶたれるぞ 
 根殿内(にーどんち)のばあさんが娘に同伴して お宿に連れて行くのだ

五人の娘たちは お宿で男女の語らいをして 奉行はお喜びされた

奉行の贈り物は 匂い髪付け、紙包など数々あった 他の役人の贈り物は手拭い、指輪だけ、
 貧乏役人は取り持った甲斐もない


税金を定める役人といえば、島の人々にとっては恐れられる存在である。島の人たちは、もてなしのため、女性に接待させざるを得なかったのだろう。だが、歌はなにかユーモアがある。役人への風刺の精神が漂っている。曲も早弾きの軽快なテンポで、演奏しても楽しい。

           

 
  この両曲には面白いエピソードがある。

  首里のあるカフェでエレキバイオリンソロのライブがあった。「収納奉行」を演奏した。演奏が終わった途端、年配の女性が「それは『三村踊り』でしょう」と異議を申し立てた。「三村踊り」には首里の赤田、鳥堀、崎山が歌われているのでよく覚えていたらしい。奏者は「いや『収納奉行』です」と譲らない。ひとしきり議論になったが、その場では決着がつかないまま終わった。その場に居合わせた三線仲間のTさんが後日、三線の先生に尋ねると「少しだけ違うところがあるけれどほとんど同じです」とのことだった。

この議論、どちらも正解となる。もとは同じ曲ということを知らないことから起きた珍問答である。

 


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労働が百姓の租税だったのか?、その7

 租税制度はルーズだったのか

 来間泰男氏はまた、「このように、琉球近世の租税制度は、厳格なものではなく、ルーズ(いいかげん)なものであった」と総括的にのべている。

租税制度は本当にルーズだったのか?

例えば、農民が田畑を耕作する際、役人は小屋をつくって朝夜と監視していた。

「耕作の善し悪しを役人に報告させ、気を抜いている者は尻を打つようにと命じておきましたが、十分にその成果がでていない」

「今後、百姓を近所の七、八人ずつで組をつくり⋯⋯村はずれ、道々の筋に小屋を作り、朝は辰時(午前七時)に出て、各人に書付けの木札を渡し、晩は戌の時分(午後七時∼九時)に出て、百姓が帰り次第、右の札を受け取って通すこと。もし朝に遅れる者はただちに尻をむちで打ち、役人へ引き渡すこと」。

こんな記述が、八重山の地方行政庁ともいうべき蔵元から、首里王府への往復文書集(「参遣状(マイリツカワシジョウ)抜書」)にある。

朝早くから、夜は夜星を仰ぐまで働かせる。遅れただけで尻を打つ。

租税制度、なかでも徴税がルーズだったとはとても思えない。

     
     宮古島の人たちが人頭税の廃止へ立ち上がり、なくさせた喜びを歌った「漲水のクイチャー」

 人々の暮らし抜きには歴史はない

以上、来間泰男氏の主張する論点について私なりの考え方を述べてきた。
  来間氏は、これまでの「沖縄の歴史研究には大きな欠点があった」とのべている。そして、「欠点」とは「経済を全然意識しないで書かれている。人々の暮らしがどういうものだったかということを抜きにしては大事な部分が抜け落ちるのではないか」と指摘している。

これはとても重要な指摘であると思う。全面的に賛成したい。

ところが、問題は「琉球近世の租税はどのような仕組みだったのか」の論考を読んだ限りは、肝心の「琉球の人々の暮らしがどういうものだったか」という実相はほとんど浮かんでこない。

来間氏が力を入れて主張したことを簡略化するとーー。

「租税はモノを作る労働。役人のいわれるままに働いておれば、租税を負担したことになる」「反布の負担額が個々の百姓に割当てられたものではない」「人々からすれば(反布の)人頭税はなかった」「近世に怠納処分は実質上なかった」「米を上納するため西表島まで行った話は真実ではない」。

こうした主張を読むかぎり、八重山、宮古島を含めて、とっても牧歌的な農村の姿が目に浮かぶ。百姓はたいして苦労もなく暮らした。そんな風景しか見えてこない。


 薩摩藩と琉球王府による圧制と搾取のもとにあった民衆は、年貢を怠納すれば、家屋敷、田畑から牛馬、さらには妻子まで勝手に売払い年貢に当てられる。逃亡や自害する者も出た。上納布を完納するため、女性は
泣きわめく子を柱にしばりつけ、夜も働いた。

「人口が増えれば上納や公役が増えると考え、生まれた赤子を埋殺するという人間とも思えない行為がある」(「与世山親方八重山島規模帳)」)。

「年から年中追いまわされて働かされ、夜も昼も上納のために苦しめられて働いても、これはけっきょく義務づけられた人頭税納付のためでしかない。こんなに苦しんで得たものは、官に上納するための収穫であって、ほんとうに自分の家庭のために得ようと思うなら、シカマ星(金星)の光で働いて収穫を得ねばならぬ。ああ!私はなんのためにこの世に生まれてきたのだろうか」。

これは、当時の農民の嘆きの声である。大浜信賢氏が『八重山の人頭税』で紹介している。

八重山の名曲「トゥバラーマ」の歌詞にも、こんな歌がある(同書より)。

「♪哀りまま やすまりむぬやりば 苦りしやまま 失しうりむぬやりば」

(あまりにもつらいから、あの世で休めるものならば あの世に行きたい。あまりにも苦しいから、あの世に消えられるものならば、あの世に消えたい)

 このような百姓たちの歌や叫びの中に、先島の人頭税下の民衆の現実が生々しく映し出されていると思う。

 

 以上で、来間泰男氏の論考に対して、私なりの見解を述べてきた。素人でただ沖縄の歴史や民謡に関心も持つに過ぎない身で、遠慮ない意見を述べてきた。失礼なことがあればお許し願いたい。

  2020年5月   終り    文責・沢村昭洋

 

 


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労働が百姓の租税だったのか?、その6

  のとれない島もを上納した

次に来間泰男氏は、八重山ではの穫れない島の百姓が、作の出来る島に通ってを作っていた事実に疑問を投げかける。

<租税品目は、そもそも田は、畑は麦と下大豆と指定されていた。にもかかわらず、上納するときは、米の代わりになどでもよいとされていた。…

 この点で、八重山の、米の穫れない島々も、ぜひとも米で納めなければならないので、マラリアに侵される危険をも顧みず、西表島まで舟で出かけて米作をしたという、かつて信じられていた話が事実ではなかったことが分かるのである。>

 

来間氏は、年貢は米でなく、でもよいとされていたから、米で納めるため他の島に舟で通って作ったという「通耕」の話が事実ではなかったと断定している。

年貢が米でなくでもよいというのは事実である。米の代わりに反布を納めることもあり、そのための換算率も定められていた。

<両先島(宮古・八重山)と久米島の貢納品は米・で示されながら,その大半(58− 68% ) は反布に換えられている>

来間氏は「近世琉球の租税制度」でこのように指摘していた。  
  八重山における通耕地図(18-20世紀)  
      八重山における通耕地図(18~20世紀)=『近世八重山の民衆生活史』から           

問題は、米の代わりにで上納できたからといって、上納のために通耕した事実がなかった証明にはならないことである。

八重山諸島は、サンゴ礁でできた島はほとんど水田がなく、稲作ができるのは、高い山があり、水も豊富な西表島や石垣島だった。

「明治期に作られた竹富村の土地台帳を見ると、小浜、黒島、竹富、新城、鳩間の各島の農民が西表島に水田を持っていたことを知ることが出来る(『沖縄八重山の研究』から、梅木哲人「古文書による八重山の基礎的研究」)。

 梅木氏は、宮良殿内文庫(法政大学蔵)の中の『上納田配分に関する書類(仮称)』から、次のように指摘している。

 <ところで、この史料は鳩間与人(注・村の村長格)などが記されていることから、鳩間島の士族農民の土地所有を記録したものであることは間違いない無かろう。しかし、鳩間島には水田が存在しない。ここに記されている水田は、実は西表島にある水田であろうと思われる。…

 鳩間島の人々の西表島における水田耕作の民俗学的な調査もあり、ほぼ間違いないことと思われる。鳩間島の人々は、西表島にある水田について地割りを行なっていたことを知ることが出来よう。(「古文書による八重山の基礎的研究」)>

 このように、小浜、黒島、竹富、新城、鳩間の各島の農民が西表島に水田を持っていたこと。鳩間島の人たちが作る西表島の水田は、地割りを行なっていたことが確認できる。

八重山の歴史と民俗、民謡を研究してきた喜舎場永珣によると、鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていたという。

 

八重山民謡の「鳩間節」では、西表島で稲作をして、舟に稲穂やの穂を積んで鳩間島に帰る光景が歌われている。()内は現代語訳。歌詞は抜粋である。

「♪鳩間中森走り登り くばの下に走り登り」

(鳩間島の中岡に走り登り くば林の下に走り登り)

「♪稲穂積みつけ面白や 粟穂積みつけさて見事」

(稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ)

「♪前の渡よ見渡せば 往く舟来る舟面白や」

(前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである)

鳩間島の島民は、命がけで海を渡り、西表島の未開地を開拓した。田小屋に泊まり込み、田植えをし、夏には稲粟を取り入れ、舟に積み帰ってきたという。
   黒島の通耕地図(18-20世紀) 
     黒島の通耕地図(18~20世紀)=『近世八重山の民衆生活史』から

 黒島も同様である。

八重山蔵元からの報告・問合せの往復文章集「参遣状(マイリツカワセジョウ)抜書(上)」(石垣市史叢書)は、次のように記述している。

「八重山の黒島という離島は、土地が狭い所であるが、だんだん人口が繁栄し食糧も続きがたいので、近年より川平地方の野底という所へ海路を往復して畑作し、ようやく生計を立てていて、難儀している」(1732年「覚」)。

これによると、黒島は土地が狭く、人口が多いため石垣島の野底に舟で往復して畑作をしたという。

黒島は「通耕」だけでなく、百姓を他の島、村に何度も移住までさせている。

「黒島村は人間が増え、人口は1550人余になっていて、耕作地が狭く百姓は難儀しているとのこと。400人ほど他村へ寄百姓してほしいと願い出ている。それで、200人は名蔵村へ、150人は上原村へ、50人は桴海村へ寄百姓するよう申し渡す」(首里王府からの布達書と「与世山親方八重山島規模帳」)。

石垣島の野底にも黒島から移住され、村が作られた。

「以前の野底村に田はなく、畑方の作物だけで上納してきた」という(「1820年野底目差しへの褒美状」、得能壽美著『近世八重山の民衆生活史』

 八重山諸島は、人頭税が課せられる前から、水田のない島から西表島などに通って米や粟を作っていたらしい。朝鮮からの漂流民3人が与那国島から沖縄本島まで送られた際の見聞が記されている『成宗実録』(1477年)によれば、波照間島・新城島・黒島では、黍・粟・麦は作るが稲は作れず、西表島で作られた米を求めていたことがうかがわれる。たんに米を買い求めたのではなく、西表島に通って稲作をした可能性がある。

「八重山においては、近世前期の爆発的な人口増加を背景にして、王府が島津に許可を受けた仕明が進められるのだが、小島嶼での開発は島外に求められ、15世紀後半から確認できる海を超える通耕はさらに耕地を広げ、仕明の許可・推進は制度的に島外に耕地を有することを保証する結果をもたらした」。

八重山の通耕を研究する得能壽美氏はこう指摘している(『近世八重山の民衆生活史』)。


 人頭税の穀物の上納は米だけではなく、粟が重要な上納物になっていた。

黒島では、人頭税の上納は畑作による粟であった。西表島に通耕して稲作も行なっていたともいう。上納にさいして、米と粟は等価とされた。

得能氏は、いちがいに「水田のない島に米の上納を強いた」ということはできないとする。つまり、上納は米でも粟でもよいから「米の上納を強いた」とは言えないからである。

<しかし、田租と畑租が同等とされ、米と粟が等価であるならば、労働力を可能なかぎり稲作に向けた方が有利であったのではないだろうか。そして、鳩間島を例にしてみたように、他島での上納田地の配分は、税制の面からだけいえば「米の上納を強いた」ということができる。…政策的にも水田作=米納化への道を進んだと考えるのが自然であろう(『近世八重山の民衆生活史』)

 税制の面からは「米の上納を強いた」といえる、政策的にも米納化への道を進んだという見解である。

 これまで見てきたように、王府が他の島の耕地も地割の対象としているように、人頭税下で、他の島に通耕して作る田畑、収穫された穀物も前提として村々に重い年貢が課せられた。耕地の狭い島、米の穫れない島の百姓たちが、危険をおかしても他の島に舟で渡って、汗水流して米や粟を作って上納せざるを得なかったという事実はいささかも変わりない。


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労働が百姓の租税だったのか?、その5

 耕作地を百姓に割り替え

 琉球では、耕作地を百姓に割り付けて、何年かごとに割り替える地割制度があった。

来間泰男氏は、次のような見解をのべている。

<このような租税制度は、地割が行われているという地方の状況に対応していた。農地は個人や家族の所有物ではない。王府のものと観念されていたと考えられる。…人数の多い家族には多く、少ない家族には少なく、配分しあうのがいい。…ただ、家族数とその年齢構成は年々変化していく。そこで、一定の年数が経ったら割り替えることになる。(「琉球新報」連載「よくわかる沖縄の歴史 社会変化を読み解く」)>

 租税を課するにあたり、各地方の村ごと「村位」を上・中・下・下々の4ランクを付け、土地の「地位」も田畑とも5つのランクに分けていた。「地位は地味の肥痩、村落への接近、村落の貧富で定め」ていた(喜舎場永珣著『新訂増補八重山歴史』)。

 耕作地は公平に配分を
 王府からの布達は、耕作地の公平な配分を指示している。

「士族や百姓たちが持っている田畑の高が、いろいろ不均等になっている。土地を少なく持っていつ者は上納を調えかね、難儀している者もいるという。彼らは土地を開墾する所もないので、村の土地を持ち過ぎている者から譲って、不均等がないようにすべきこと」(1768年「与世山親方八重山島規模帳」)

「その島(八重山)は、人頭税(原文は頭懸)で上納している所である。土地の配分は公平にしなくてはならないが、土地の持ち過ぎ、持ち不足などいろいろ不公平がある。甚だ良くないので、以後は持地は法で定めた坪数に公平に配分すべきこと」(1874年「富川親方八重山島規模帳」)

 これは、貢租の上納のうえで、土地を公平に配分することを布達している。

王府の布達を見ても、貢租上納と地割制が関係していることがわかる。

貢租の円滑な徴収と、農民の貢租負担の均分化を目的として地割制が発生した」(上地一郎著「沖縄社会の近代法制度への包摂とその影響―歴史法社会学的分析」)とされる

 

ところが、来間氏はさらに独自の見解を示しめす。

租税の個別百姓への割り当ては、地方役人に任されている。…多様な労働と多様な生産物の生産を割り当てる。それが地割配当地と対応するとは考えにくい。おそらくは、地割配当地の利用は、甘藷を中心にした自給作物に当てられており、租税となる労働と生産物は、それを回避し、それに影響を与えない形で課されるであろう。したがって、地割制度を租税制度としてみることはできないのである(「近世琉球の租税制度」)>

ここでは、地割配当地は、年貢上納の耕作地ではなく「甘藷を中心とした自給作物」のためであり、租税制度と地割制度は関係ないという見解である。これは、貢租納入のための割り当て地はなく、役人の指示通り労働すれば年貢負担となるという見解につながっている。果たしてそうだろうか。


 地割は御税制度と関係ないのか?
  <地割りの仕組みを少し細かくみると、百姓の生計維持と貢租納入にあてられた「百姓地」(真人地=まびと地)のほかに、琉球の特徴として、「地頭地」、村役人に与えられる「オエカ地」(掟地=おきて地、殿原地=とのはら地)、ノロ(注・神女)に与えられる「ノロクモイ地」がある。地頭・村役人・ノロは、いずれも王府から任命され、同時にこれらの地を給されていた。

地頭・村役人・ノロなどは、自ら耕作はしないので、これらの地も百姓が耕作にあたることになり、一人の百姓が耕作する土地は、「百姓地のうち生活にあてるためもっぱら芋を植える土地」「百姓地のうち貢納にあてるため米・麦・粟・大豆・さとうきび等を植える土地」「地頭地」「オエカ地」「ノロクモイ地」を対象として、それぞれを上地・中地・下地に分け、これを年齢・性別で労働力の程度によって一部づつを組み合わせた「一地」をいわば分担することになる。(高松国税局長・中 川 正 晴著「定額人頭配賦型貢租制度と宮古・八重山悲惨の要因」「税大ジャーナル 3 2005.12」>

ここでは、「百姓地」は「生計維持と貢租納入」のためであること。自分の耕作地とは別に地頭や村のための「労働」を強いられていたことを明らかにしている。

       クブラバリ(与那国町HP)
       人頭税をめぐる悲話がある与那国島のクブラバリ(与那国町HPから)

 地割制度は八重山でも行われていた。

<八重山でも地割りが行われていたことを最初に指摘したのは黒島為一氏である。氏は宮良殿内文庫(法政大学蔵)の中の『上納田配分に関する書類(仮称)』を用いてそのことを証明している。そして、八重山の地割りの特徴についても同時に指摘している。氏によれば、八重山の地割りは「家内」を単位に、その「家内」の租税を負担する人数分だけ土地を配分していること、…地割りには役人が介在し、むしろ彼らの主導で行われていたことを指摘している。(『沖縄八重山の研究』から梅木哲人著「古文書による八重山の基礎的研究」)>

八重山の地割も、上納田は租税を負担するための土地配分であることをのべている。

 田村浩著『琉球共産村落の研究』でも、八重山の地割制度について、「田を分て自分田及び上納田」とし、「上納田は売買を許さず毎年割替」えられたという(山本弘文著「八重山の村と農耕 18世紀後半~19世紀後半期」、『沖縄八重山の研究』、引用はひらがなに直した)。

 ここでも、地割は、自分田と上納田があり、上納田は割り替えの対象であったことを示している。

 首里王府が布達した「翁長親方八重山島規模帳」(原代語訳)を見てみたい。

 <一、  百姓地のうち、上位の土地は役人が手作りし、百姓を困らせているというが、良くないことである。今後、在番・頭が村々を巡察の時、十分に指示し、このようなことのないよう取り締まること。
<一、百姓の年貢地(原文は百姓上納田)を、役人らが配分して手作りし、百姓を困らせている者もあるというが、良くないことであるから、この田地は必ず百姓へ返すこと。>

 <一、村々の上納田は、分け隔てなく配分しなければならない。頭迦(ずはず)れが出たあと新しく上納人があれば、早速担当役人が割り直すこと。また札改めの時には特に役人たちへ調査を申し渡してあるが守られておらず、手札改めの時のみ割り直しているというのはよくない。以後は規則の通りすること。>

 (注)頭迦れとは、年齢などによって租税負担者から外れる人を指すのだろう。

この王府の布達も、地割される百姓地は、貢租の上納のための土地であることを明確にしている。また、優良な農地を役人が勝手に使って百姓を困らせるという役人の横暴もみることができる。


 地割と租税は密接な関係
 百姓地は、貢租納入のため耕作地であるから、不公平が恒常化されると百姓の不満が高まることになる。一定の年数ごとに割り替えることが必要だったのだろう。

 すでに述べたように「貢租の賦課は砂糖反布米粟等の現品で納め」(「沖縄県税制改正の急務なる理由」)ることが義務付けられていた。

もし地割は「自給作物」をつくる農地だけであれば、百姓は現物を納めることができない。

百姓が米や粟を現物で上納していた事実は、百姓に年貢の上納のための耕作地を割り付け、割り替えをしていたことを示している。

 もう一度、貢租の現物上納の事例を見ておきたい。

<一、与那国島は土地が広く…耕作に精を出して年貢・諸上納物を滞りなく納めるよう励むべきのところ、百姓らは年貢米の上納は出来高によるものと勘違いし、毎度不作だなどと言って割賦高もまったく差し出さない。従って未進高が増加し、きわめておろそかにしている様子が見えるというので、石原親雲上の御使者の時に、右のようなことのないよう仰せ渡されている。(1868年に王府から布達された「翁長親方八重山島規模帳」)>

与那国島では、「上納は出来高」と勘違いして、割賦高も上納しないというのは、百姓個人に年貢が割り当てられ、現物で上納する制度であったことの例証である。

「貢租負担を伴う農業を継続するために地割制も存続させなければならなかったのである」(奥田進一著「沖縄の地割制に関する研究――『家』制度に基づかない農地利用」)

このように租税制度は、地割制度と無関係ではなく密接な関係がある。


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