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労働が百姓の租税だったのか?、その4

 滞納には厳しい処分

 貢租の納入にあたって、怠納や上納が不足する場合には厳しい処分が待ち受けていたことも、現物で納入していたことを示している。
 王府時代の八重山の滞納者への処分の現実は、王府が布達した「翁長親方八重山島規模帳」(訳文)でも生々しく記されている。
 <一、諸村の若い百姓が年貢を納めない時、担当役人が手荒に扱い、時には自分の上国や役願いなどに差し障るといって、家屋敷、田畑から牛馬まで勝手に売払い年貢に当てるので、逃亡や自害する者もあると聞く。>
(注)上国=八重山から首里にのぼること。

 <一、上納米が不足する百姓は、その時持っている者に補わせて帳簿に記入し、いつとなく精算もされないままでは、不注意な者はいよいよ怠け、働き者は他人の上納分まで取られ迷惑この上なく、働き気も起きなくなる。上納の不足分は法定の利息で借入させ、もし返済できなければ在番・頭が指図し、村役人の責任で家財あるいは身売りをして弁償させ、村役人は詳しく一冊に取りまとめ、在番・頭の巡察の時に直接当人に対面し照合すること。>
  <一、右の規則があるからといって、困窮している者どもの上納物が不足していると、軽はずみに家財・田畑・牛馬・身売りなどを申し付けては、だんだんに正頭が減り、かえって村が成り立たなくなる。常に村が成り立つよう心得て、困っている者がさらに農業に励み、田畑の少ない者へは村中で必ず不足のないよう与えるか、または持ち過ぎている者が譲り渡す場合は分け隔てなく取り扱い、手入れが行き届かない場所は助力し、年貢・上納物に差し支えなく調達できるようにすること。>
(注)正頭=しょうず。15歳から50歳以下の男女の租税負担者。

        八重山平民負担額

    八重山平民負担額
   八重山明治25年平民負担額(穀物)

 <一、村々の役人が番所で上納米を収納する時、欠米といって7、8合あるいは1升ほど別に受け取り、私用している者もあるというが良くない。今後は右のような非法なことのないよう取り締まること。
(注)欠米=年貢を納める時、正規の量よりも余計に加えた分。
 これを見ると、上納は現物で納めなければならないこと。納めなければ、家屋敷、田畑から牛馬まで勝手に売払い、逃亡や自害する者いたこと。年貢が不足すれば、利息付きで借入させ、返済できなければ役人が家財を売ったり、身売りをして弁償させること。役人が上納米を収納する時、正規の数量より多く受け取り私用にすることが横行していたこと、など示されている。
 ところが、来間泰男氏は別の論文「近世琉球の租税制度」で、租税は王府から間切・村に課せられるので、王府が未納する個人を処分することはないという。これは当然である。問題はその先、間切・村による百姓の処分にある。
 来間氏は、滞納者には家財など売却し不足すれば妻子の売却まで厳しい処分を定めた「間切内法」を引用しながら、内法は本当に実施されたのか疑問を呈している。今日では、妻子売却のようなことは「厳に監督して実行せしめさる」との明治政府の調査書から引用している。

 王府時代に厳しい処分が実際されなかったという根拠はなにも示していない。残酷な妻子売却は控えられたというのは、あくまでも廃藩置県の後のことである。
 ところが、来間氏は廃藩置県後、「怠納処分が事実上できなくなった」というだけでなく、「近世においても怠納処分が実質上なかったとみてよかろう」と述べている。
 「近世」とは、日本史では江戸時代を指している。沖縄で言えば琉球王府時代も含まれる。近世も怠納処分が事質上なかったという根拠はやはり何も示していない。ここには明らかな論理の飛躍がある。
 実際には、怠納処分は、翁長親方が八重山を調査した19世紀にも頻繁に行われ、「身売り」など残酷な処分も横行していたことを示している。
 もし、「労働」が租税負担だったとすれば、年貢の怠納や不足による厳しい処分、「欠米」といった不正などの問題は生まれないのではないか。


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労働が百姓の租税だったのか?、その3

宮古島についても見ておきたい。
番所には染屋と織布小屋があった。織布小屋は劣悪な環境だった。

「織場は暗黒いところに十数人が雑居し、布筑(ヌノチク)とよばれる者の監督を受けて、織立に従事し、多数の幼児は母を慕って舎外に群集していた。獄舎のようだった」。織女はここで一年の半分ほども働かされた(島尻勝太郎著論文「宮古農民の人頭税廃止運動」)。

待ち受ける厳しい検査

織り上げて納入しても厳しい検査が待ち受けていた。薩摩に献上する上布はとくに検査が厳しかった。もし悪い品質の布を出せば、織女、村役人全部の責任であり、上役まで罷免されたという。

「その労苦は文字通り想像を絶するもので、織女の肉は落ち、色は青ざめて、毛髪まで抜け落ちたといわれる」(『伊良部村史』)。

検査の際は、「検査が始まって終わるまで 織女たちはひざまづいて神に念じつつあやぐを歌ったものである」(同書)という。

八重山の離島の場合は、女性たちは蔵元のある石垣島まで納めに行ったという。

「上納布が出来上がると、舟を仕立てて石垣の蔵元に納めに行った。調筆者(書記官)と呼ばれる検査官が待ち受けていて、布を受け取ると一反一反を竿に掛け点検を始める。皆『無事合格しますように』と緊張して待ち受けていると『あやはり!(柄ずれ)』と怒鳴りつけ、竿の向こう側に布を投げつける。あまりに厳しさに泣く泣く拾い上げて、女頭と何とか気を取り直して五人は糸抜きで模様合わせをやり、再検査に臨むのであった」(竹富島の例)。

(注)女頭(ぶなじぃ)は村番所に奉公し、役人の補助役をしたようだ。

もし、来間氏のいうように、共同作業だから上納の割り当てはなく、ただ指示通り労働すれば良いのであれば、こんな苦労や厳しい検査を心配することもないだろう。だが、実際には課せられた上納布を期日までに織り上げ、検査をパスして納入するまで、女性たちは、筆舌に尽くしがたい労苦を強いられたのである。 

     078.jpg      
          宮古島の人頭税石

 貢租は物品で納めるのが原則

来間泰男氏は、租税は「モノ」ではなく「労働」だったと主張している。年貢は一人ひとり割り当てがなかったという主張と一体である。これも大きな疑問がある。

 首里王府が布達した「翁長親方八重山島規模帳」(訳文)には、次の記述がある。

<一、穀物や諸雑物を計る時は、体積・重量はきちんと取り扱うようにと、かねてから命じておいたが次第に緩慢になり、穀物や諸雑物を法にのっとった計り方をせずに受け取っている。…上納する穀物一俵につき重量は82斤と定めてあるが、次第に重さを増して納めさせ、百姓らは困っているとのことで大変良くない。…厳重に取りしまること。>

 ここでは、穀物など受け取りの際、体積・重量などきちんと計量すること、受け取りの際に役人が規定以上に重さを増して納めさせる不正の取り締まりを命じている。

 上納が現物でなければ、このような問題は生じない。


 さらに、「沖縄県税制改正ノ急務ナル理由」(明治30年7月31日)に次の記述を紹介しておきたい。(カタカナ部分はひらがなに改めた)

 <本県の貢租は凡て物品納なりしも廃藩置県以来漸次に米、粟、下大豆等は毎年時価により定めたる石代相場を以て換算したる代金を納むるを得るに至り独り砂糖と反布は依然として現品を上納するの外途なし斯の如く貢租は物品納なるか為県下産業の発達を障碍するものあり…。

(イ)  現品納は人民に該物品の製作業を強制するものなり随て人民は他に利潤ある職業に就かんとするも彼を棄てヽ之に移ること能はす…。

  人民の嗜好如何に関せす土地の状況に留意せすして人民に特定物品の製作を強制するもの人民の生産力をして冥々の裡(注・めいめいのうち。知らず知らずの間)に萎縮(注・別の漢字であるが出ないのでこの縮を当てる)せしむるものなり>

 (注)下大豆は古くから琉球で栽培されているマメ科の植物。

 

 これによれば、琉球王府の時代、貢租はすべて物品で納めることとされてきたこと。廃藩置県のあと、米、粟、下大豆などは時価で換算した代金で納めることが認められたが、反布は現品で上納を強いられたこと。それが人民の生産力を萎縮させ、県内産業発達の障害となっていることを明らかにしている。

 この記述は、間切・村が現物で納めることではなく、年貢を現物で納める人民を対象としていることは言うまでもない。


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最悪の結果を招く辺野古埋め立て

 名護市辺野古の新基地建設は、大浦湾側でマヨネーズ並みの軟弱地盤があるため、政府は設計変更を沖縄県に申請した。

 この新型コロナウィルスで県民の健康と命が危険にさらされ、県もその対策に追われている時、このような設計変更を申請する政府の卑劣さには、怒りがわく。

 水面下90㍍に達する軟弱地盤の改良工事は、70㍍より深い場所は対応可能な作業船がない。建設は不可能との声もある。それを承知しながら、埋め立てをごり押している。

 立石雅昭氏(新潟大名誉教授)は、「護岸部分が崩落する危険性について十分に議論されないまま工事が強行されても施行中、あるいは完成後に破綻する」(「琉球新報」2020422日)と警告している。つまり、無理矢理に埋め立てしても、完成後に護岸部分が崩壊するという。
           立石雅昭談話

 崩壊してまた補修しても、土台が軟弱土壌であるから、砂上の楼閣のようなものである。

それに地盤沈下が起きることも予想される。果てしのない補修費用がかかる。

見かけ上は完成しても、護岸崩壊や地盤沈下が続く飛行場は、米軍が基地として使い物にならないとなるのではないか。

 そうなれば、普天間飛行場を何時までも使う、返還はしないとして居座り続けるだろう。

 「ただ大浦湾の自然だけが破壊される結果だけが残される。絶対に許されない」立石氏は強調する。

 「しかも現在の政治の仕組みだと、破綻しても誰も責任を取らない」と指摘している。

 こんな無責任な話があるだろうか。

 世界一危険な普天間飛行場は返還されない。巨額の血税を投入して建設した辺野古の新基地は無用の長物となる。破壊された美ら海の自然はもう戻らない。これが最悪の結末だろう。

 埋め立て工事は即時停止すべきである。

 普天間基地は、無条件でアメリカに引き取ってもらう。閉鎖・返還させるしか解決はない。


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労働が百姓の租税だったのか? その2

 反布も割り当てがあった

 反布の場合は、穀物と違ってもう少し複雑である。

 来間泰男氏は、反布は多様な仕事があるとして、次のように解説している。

<織物(反布)の工程は織りだけではない。原料の、たとえば苧麻を栽培すること、それを糸に紡ぐこと、染めること、織機に糸をかけること、洗濯や包装など、多様な仕事がある。…それら多様な仕事をそれぞれ別々の人々に分担させて(分業)、村全体として織物を仕上げていく。…織っているのは誰かの私物ではなく、村の共同生産物なのである。>

 反布の作業は指摘の通りであり、何の異論もない。

ただし、この後の指摘は首肯できない。

<だから、人びとからすれば人頭税はなかったのである。あたかも一人一人に、画一的に労働が強いられたというような、伝説に基づいた話は清算されなければならない>

 <先島のいわゆる「人頭税」も.反布の負担額が個々の百姓に割当てられたものではなく,もちろん画一的に割当てられたものでもなく.「人頭税」という言葉の持つイメージとは遠いものである(来間泰男著「近世琉球の租税制度」)

               

 果たして、分業で作業をするから個人への割付、「人頭税はなかった」といえるのだろうか。  
 明治政府の調査書のなかで、八重山の「納額配賦の方法手続及期限」は、次のようにのべている。

<反布は各村に頭より割付の手形を受くれは之に依り…村割付帳を製す而して反布は其の反数と正女の数とは一致せることなきのみならす品質に於ても亦異なれるか故に予しめ組合を設け此の組合の中に於て本付と称するものを撰はしめ之に緫(注・かせ。布を織る経糸)数は藁算を取らしめ縞柄は絵形を示す而して本付は之を組合に告知し協議を為して紡織に著手するものとす此の点は宮古島に於て正女の3分の2は専ら緫を作らしめ3分の一は織り方に従事せしむると少差あり>

(注)反数と正女の数とは一致しないとは、例えば5人で7反上納するということではないか。これを5人の組で共同すれば7反上納が可能となる。

「本付を選ばせる」とは組のリーダーを選ぶことではないか。

<各村正女は緫糸の割付を受けたるときは直ちに其の組合協議を為し各自の分担を定め之れか調製に著手す>

 この文書に付けられた「八重山島反布一人別表」を見ると、貢布1801反を反布の種類ごとに割付の数量を細かく示している。

たとえば、白上布500疋のうち与那国島平民98疋、あと402反(疋の間違いかも)は与那国以外の士族165疋、平民237疋とする。それを上女、中女、下女、下々女の人数と一人に付、数量を割付する。

例えば、平民上女は1064人、一人に付8178、計868,8624とする。この場合、一人当たりの単位は明示していないので、よく分からない。

 (注)疋(ひき)は、二反分をひとつづきとした織物の単位。

織物は単独作業では出来ないが、個人当たりの割り付けは明確に示しており、決してあいまいにしてはいない。

反布は共同作業であるため、組合をつくって協議して作業したという。

      344_2020041523370262b.jpg 
                   かつての機織り作業

 八重山山での具体的な事例を見ておきたい。

貢納布は、定納布と御用布に分かれる。定納布は、全住民への一般税で、白上布、白中布、白下布、白下々布がある。御用布は、王府から送られてきた図案の「御絵図(みえず)」により織り上げたという。

「女はね、皆んな15歳になると(貢納)がついたものです。この貢納(カナイ)のついて女を貢納付き女(ミドゥン)といいました。貢納がつくとフダニンの一人になります。このフダニンが何人か一組になって1反の貢納布を織って納めたらしいのです。」

(『近世琉球の租税制度と人頭税』、「『聞き書き』御用布(グイフ)物語」から)

八重山反布一人
   八重山島反布一人別表
   

 何人かで組を作って織って納めたという。

      

完納のため夜業

「翁長親方八重山島規模帳」(訳文)には、次の記述がある。

<一、与那国島の御用布は、正女すべて同一に割り当て上納させるべきところ、一反につき二人五分を当てて調えさせ、余分の人数は役人や筆者が使っているのは良くないので、今後同一に分け隔てなく割り当て上納させるよう取り計らうこと。>

よくわからないが、推測すると、例えば、5人で1反織るところを、2・5人でやらさせ、あまりの人を勝手に使うといことか。そういうやり方ではなく、同一に分け隔てなく割り当て上納させるとしている。

貢布がいかに女性を苦しめたのか、竹富島で実際に上納布を織った女性からの聞き取り記録から紹介する。

上納布を織るのに五人一組のグループがつくられた。

「五人組は年に七反を上納しなければならなかった。役人が指定した難しい模様を、工夫してこなすのは大変な作業だった。五人は原料の栽培に始まり、糸紡ぎから染め、織り、布晒しまで共に連帯して責任を持たされた。当時は今と違って地機(ヂバタ)で布を織った。納期が迫ってくると女頭(ブナジィ)の指導の下に、琉球松のたいまつを灯して幾晩も夜なべした」(『人頭税廃止百年記念誌あさばな』の石垣久雄氏の論文より)。

この証言では、上納布を織るのに51組のグループを作り、年に7反を上納したという。


 上納布の納入期日までに完納するため、女性たちは夜業もさせられた。

「織物に手を着けるまでは、婦女は毎晩番所に集合し、松明の光で苧麻(チョマ)糸を紡ぎ、佐事補佐(サジブサ)と称する監視役の下で夜業を強行させられた。昼は野良仕事で疲れ、夜は夜業に酷使される。まったく残酷の一語につきるというものである」「昼間の野良仕事で疲れて居眠りでもする者があれば、佐事補佐は、長い竹でその女を叩いて目をさまさせ、ふたたび夜業を強制する」

「飢えて泣く子に乳を呑ませるために手を休めていても、役人は容赦なく鞭をふるった。女は心を鬼にして、泣きわめく子を柱にしばりつけ、仕事をしたのであった」(大浜信賢著『八重山の人頭税』から)。



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労働が百姓の租税だったのか?、その1

来間泰男氏の琉球近世の租税制度論への疑問

 

 来間泰男氏(沖縄国際大学名誉教授)が、「琉球新報」に連載した「よくわかる沖縄の歴史 社会変化を読み解く」はとても興味をもって読ませていただいた。最後の3回は、沖縄本島と宮古島・八重山・久米島の琉球近世の税制について書いている。(2020年3月10日から12日まで)

 来間氏は「人頭税はなかった」という見解を出していることで知られる。今回の連載も、これまでの通説的な見解とは異なる独自の見解をいくつか披露している。

 その論考には、いくつもの疑問がわいてきた。来間氏は「反論がほしい」とも述べているので、自分なりに、疑問のある問題についての見解を書いておきたい。

 

「労働」が租税とは

琉球の王府時代の租税について、要旨次のような見解をのべている。

<石高に「代」(税率)を掛けて税額を決めるのが普通のやり方であるが、琉球では、税額を石高で割って「代」を出している、という。その結果「代」(税率)は地域によってさまざまであった。…

それでも王府からは石高に基づくとして、間切・村単位に課税されてくる。琉球では個別の家族が自立していないので、家族単位に課税することはできない。間切・村の地方役人が王府から要請された租税を受け止めて、村人たちにどのように分担させるかを考えることになる。>

 <米を求められたら、田を役人が管理して、田植えや刈り取りの作業には人々を代わり番こに動員する。…

収穫された米や、製造された砂糖は、働いた人びと一人一人のものではなく、間切や村のものである。それを役人の責任で上納するのである。王府にはモノが届けられるが、人びとの負担している「租税」はモノを作る「労働」である。人びとは役人に言われるままに働いておれば、租税を負担したことになるのである。>

来間氏は、琉球の租税制度について、このような見解を示している。八重山、宮古島など先島の租税制度と人々の負担のあり方について、今回の連載ではとくに書いていない。先島の租税制度は異なる見解があるなら、具体的に述べるはずである。でも何も論じていないことは、先島も同じ租税制度であったから、繰り返さなかったと見られる。

先島では、米や粟、反布が租税の大きな比重を占めていた。では、来間氏の見解は、果たして本当なのだろうか。

 まだ先島地方が人頭税下にあった時代(明治36年・1903年廃止)、明治政府が沖縄県の旧慣租税制度を調査した史料(「沖縄県史第21巻資料編11」)から、両先島人頭配賦税について、見ておきたい。以下、同史料のカタナカ部分はひらがなに改めた。

        IMG_20200101_153909.jpg  
               首里城の守礼門

 最初は宮古島である。

<寛永13年(注・1636年)人口の調査を為し翌14年より人頭に賦課することヽなしたり…万治2年(1659年)に至る迄22年の間前後4回の人頭調査をなし其都度粟及反布の納額に増減を来したる趣き記録に存するものあるよりして之を察するに一人に付き何程と云ふ定率を定め賦課したるものヽ如し…

各村の等級を上中下三級に区別し反布に対しては上中の二級に区別し租税を負担すべき男女乃ち所謂正人なるものは吏員の見込にて上中下下々の四級に分ち各一定の標準を設けて割賦することとしたり乃ち今日の定額人頭配賦税の基礎是に成れり>

先島では、15歳―50歳以下の男女(正人)に人頭税がかけられた。宮古島は水田がなく粟が中心だった。

 粟や反布も一人につき、定率を定めて賦課したとのべている。

 

 納額は各人に板札で示す

八重山島では、租税(本租)の納額配賦はまず、王府時代の行政庁、蔵元から各村に対し

正男女取立帳を基礎とし賦課額を査定し各村に対して割付手形を発布する。反布も同様である。

次に各村では正男女に対する賦課を決める。

<各村は前年12月20日限り正男女取立帳調製し置き蔵元の割付手形を受けたるときは之に依りて一人前負担額を査定し穀物は3月15日反布は9月中旬迄に賦課帳を調製し米は4月10日限り反布は9月31日限り各正人に其の負担を示す而して之を示すには穀物反布各其方法を異にせり左の如し

(1)穀物の納額は負担者に解し易からしめんか為め絵形を板札に記し之を村の総代に示し総代より之を各一人別に告知するものとす>

(注)板札は租税の額等が記載された。

これによれば、租税の納額が各村に示されると、村は穀物の納額を分かりやすく絵形の板札に記して各人別に知らしている。

首里王府から八重山に派遣された翁長親方が現地を調査した上で1868年、王府が布達した「翁長親方八重山島規模帳」(訳文)から、もう少し具体的に実情を見ておきたい。

<一、諸上納物は、百姓らに確実に知らせなければならないことである。仕上世座・所遣座から割り付けを決めた手形が届き次第、村々で上・中・下・下々のそれぞれの位に応じて年々の頭高を決め、各家々の「上納高割賦帳」を調製し、勘定座へ差し出す。勘定役人が勘定し、在番・頭の奥書で村々の百姓役目の者、または百姓から人柄を検討して5、6人ほどを蔵元に呼び寄せ、担当の在番筆者・頭・惣横目が出張し、農務役の監督で村中の各家内の上納高をわら算取りさせて板札とともに渡す。村々にいる人々にも農務役が廻って引き合いの上に捺印させ、その上で在番・頭・惣横目が直接対面して照合する>

(注)・仕上世座(しのぼせざ)は薩摩への上納物を司る王府や役所の一つ。ここでは八重山蔵元内のそれを指し、国税の賦課・徴収・納付などを管掌する。

所遣座(ところづかいざ)は、先島の蔵元の役所の一つ。蔵元の運営費を司る。

 

 別項でも同様な記述がある。

<一、 諸村の上納米ならびに所遣米の割賦帳は315日までに勘定座に提出し、45日までに勘定を終了する。410日までに各家々の割当高を板札に記し、惣横目が添書きをして渡すこと。

一、農務役は、411日から同月20日まで村々を廻って帳簿と引き当てて、頭高の決定に間違いがなければ百姓一人ひとりにもそのことを申し聞かせ、証拠として板札の端に捺印して渡すこと。>

やはり、割当高を板札に記して百姓一人ひとりに渡したという。

これらの史料を見れば、租税は、個人には割り当てはない、モノを納める必要はない、田畑で役人の指示通り「労働」すればそれで租税は負担したことになる、という来間氏の主張とはまったく異なる現実がある


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「評価方日記」、その7、ご褒美を頂きたい

  国王からねぎらいの言葉

 5月に到着して以来、5カ月余り滞在した冊封使一行は、 1012日早朝、冠船2隻と琉球からの謝恩進貢船2隻の計4隻が那覇港から出航した。

冠船の来航による大きな問題もなく様々な業務が首尾よく終わり、冊封使も帰国した。

1018

冠船(の来航に伴う諸事)を首尾よく終えられたことについて、御意の趣き(国王のお言葉)があると伝えられ拝聞した。「冠船を首尾よく終え、勅使様は御機嫌良く御帰国されたので、満足である。つまるところ、摂政と三司官を始め、係りの役々が尽力し、諸手組み向き[諸準備や段取り]がよく行き届いており、殊勝なことだと思う」との御意があったので有り難く承知するようにせよ。

1017日 国吉親雲上ら4氏 小禄親方>

わざわざ国王から「殊勝なこと」というお言葉がかけられことは、役人として名誉なことだろう。

 

<覚 (評価司4名の名前をあげている)

 右の者たちは、諸御用向きに尽力し、とりわけ評価物の計量受け取りの際や、昆布・煎海鼠(いりこ、干しナマコ)の引き渡しの際に計量をめぐる清人たちとの揉め事があったが、少しも慌てることなく事態をうまく処理した。ところで、辰の冠船1808年)の際には、評価物は200貫目ほどであり、昆布は16万斤ほどの引き渡しであった。今回は、評価物は千貫目余の銀高に及び、かつ昆布と煎海鼠を合わせて379000斤余の引き渡し高であった。…

あれこれと前回の冠船の時とは異なり各段に苦労することとなった。…各人に対して御印紙で任命された日から業務を完了した日までの期間、1日につき諸座仮手代の3日分の勤功による御取り持ち[ご高配]を頂きたい>

11月 與古田親雲上>

前回より苦労が多かったとして、お言葉だけでなく「ご高配を頂きたい」と要望している。

 

「評価方日記」の最後は、買い入れた品物の引き渡しとなる。

 <113

 今日から御用意御蔵役人へ評価物の引き渡しを開始した。

付けたり、

 一、  品物[評価物]の保管に関しては、前もって御用意中取と評価主取が立ち会って封印しておいた。そのため、取納帳の表[記載通りに]引き渡すことになっているので、事前に小禄親方へ(そのことを)申し上げて認可を受けた。よって本文のように引き渡すこととなった。

 一、評価主取と御用意方筆者も(引き渡しに)出向いてきた。>

注・用意方(よういほう)は国有財産の管理・山川保全などを職掌する官庁。そのなかに用意蔵がある。

 

 <114

 一、今日で右の引き渡しを完了した>

 <122

 一、今日 (評価方の)詰所を親見世の役人へ引き渡して首里へ引っ越し、脇宿を設置してそこで帳簿の整理・作成を行なった。

付けたり、今回の(評価方は)諸首尾[業務]が多く、すぐには帳簿が作成できない。そのため、長々と那覇に詰めることになっ  ては(評価方)筆者たちの迷惑[負担]となるので、事前に御用意方へ申し出て、本文の通りとなった。>

 

 買い入れた品物の引き渡しが完了したので、首里から那覇に出向いていた役人たちは、首里へ戻って帳簿の整理・作成をしたという。

 この後は、任務をよく果たした役人たちに対するご褒美の要望が続く。

          冊封儀式の再現 (2) 
                     冊封儀式の再現。冊封使(左)と琉球国王

 働きの良かった役人に褒美を

 今回の冠船の到着にあたり、買い取る品物の検査・査定をする役職に任命された鳥小堀村嫡子・田幸筑登之親雲上、西村四男・髙良筑登之親雲上について、12月に與古田親雲上ほか6名の連名で要望を提出した。

 以下はその要旨である。

<右の者たちは、1昨年(1836年)の2月に評価方中取に任命され、諸御用向きに精を出して勤めた。

2人は渡清した際、頭号船・二号船の船主や商人たちと広く交際し、品物の利潤の厚薄を区別した品立書き(物品一覧)を作成して詳しく説明した。その結果、評価物の代銀は1016貫目余となったものの、前回の冠船時とは異なり、不必要な商品は特に少なくなった。両船主の評価物の清冊(物品一覧)を受け取った際に、値付け[価格]を調査したところ、余りにも高価に思われたので、値下げについて(船主たちと)いろいろ協議したが、聞き入れてもらえなかった。そのため、勅使様へ御訴え[要請]したところ、「何の対処もできない」との返答であった。その通りでは、より一層の損失となる。

2人は)勅使様の御側近である師爺(注・しや、官僚の私設秘書)たちの伝手を通して、(冊封使に)働きかけたので、御内意によって清冊の価格の値下げができた。また、両勅使様方の品物と両船主の脇評価物や昆布の価格付け、または評価物代銀の換算などについてもいろいろと困難を極めたが、尽力し、それぞれ効果をあげ、およそ銀子では1521982分余りの(損失を減らす)御益となった。

 右のようにひとかどの働きをあげたものと考えられる。そのため、御腎慮の上でそれ相応の御褒美を与えていただきたい。>

 次には西村次男・比嘉筑登之親雲上についても與古田親雲上ほか6名の連名で提出した。

<知念間切の下知役と兼務で去年10月に評価方係りに任命され、勤めてきた。

(評価物の)購入(銀高)と(昆布などの)売却(銀高)に関わる計算などで、いろいろと特に大変であった。

さらに昆布の値組み(値付け)の一件について、田幸筑登之親雲上、髙良筑登之親雲上と共に御内意に働きかけ、値上げを許可されたので、銀子20貫6923分余りの御益となり、誠に殊勝の働きに当たると思われるので、御腎慮の上でそれ相応の御褒美を与えていただきたい。>

 さらに、評価方中取岸村嫡子名嘉山筑登之親雲上ほか4人にも、「前回の冠船時とは異なり格別に苦労した」として「それ相応の勤功の処遇を与えて頂きたい」と同7名の連名で提出した。

 琉球王府にとっては、冊封使が来琉するときは、中国皇帝に国王として認証をうける儀式と一行の接待が、国家的な一大事業であった。同時に、持ち込んだ品物の評価(ハンガー)、買い取りと中国側が必要とする物産の売り渡しは、王府にとって重要な事業であった。それが、無事に終えたとなれば、任務に精励した担当役人らをねぎらい、ご褒美を与えることは当然のことだったのだろう。

 こうして「評価方日記」を読むと、中国の冊封使が来琉した際の交易の様子がとても生々しく記されている。琉球は中国皇帝から冊封を受ける関係にあるとはいえ、それぞれの物産の売買となれば、相手はできるだけ高く売りたい、買う側はできるだけ安く買いたいという思惑がぶつかり合う。しかも、薩摩もかかわっている。王府時代の冠船貿易の実相が見えてきて、琉球の担当した役人たちの苦労も偲ばれた。

終り  2020年4


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続編「ジョン万次郎琉球上陸の真実」

  このブログで、ジョン万次郎が琉球の小渡浜にいつ、どのように上陸したのか、私なりの考えを書いていた。若干、追記したいことがある。

 万次郎4代目の中濱博氏は、万次郎ら3人の上陸は、1851年2月3日午後2時と断定した。その根拠は、岩礁が広がるこの海岸は干潮の時でないと上陸できないからということだった(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』)。

 これは、博氏の勘違いではないかと私は書いた。

万次郎たちが、琉球と薩摩、長崎や土佐で事情聴取を受けた際の記録では、3日朝、上陸したと明確にのべている。とくに、「長崎奉行牧志摩守取調記録(上)」によれば「朝五ツ時頃漕付上陸いたし候」と明言している。朝五ツ時とは、午前8時である。この時の満潮は「午前838分」(中濱博氏)だった。

この記録は、博氏の主張とは逆に、朝の満潮時に舟を漕ぎ着け上陸したと明記している。

     

  IMG_5419.jpg

干潮時に上陸できるのか?

今回、新たに提起したいのは、博氏が主張する干潮時には、上陸できないということである。その論証の前に、もう一度、10年の海外生活を終え、アメリカから帰国した万次郎、五右衛門、伝蔵の3名が、現在の沖縄県糸満市、当時は摩文仁間切(現在の町村)小渡浜に上陸した経緯を振り返っておきたい。

今回は、万次郎らの琉球上陸の史実を長年探究してきた高知県出身の和田達雄氏(ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長)の解説を紹介する。

18512月(旧暦1月)2日、サラボイド号を14時に下船、ボート・アドベンチャラ号で喜屋武間切の荒崎沖からみぞれ混じりの雨と靄(もや)の中を4時間漕ぎ小渡浜(現在の大度海岸)のサシチン浜250m先の「東南山鼻」近くの岩礁に碇をおろし夕暮18時頃漂着、一夜を明かす。23日明るくなる前五右衛門が2人を起こし、伝蔵が岩礁に来た村人に話しかけたが通じず万次郎を呼び寄せると、親切に村人の1人が「ここから北に一丁(109㍍)舟を廻して」と言われ、2人は舟に戻りサンシチ浜に乗り上げ8時頃上陸した。朝食に、くん製の牛豚肉を焼きコーヒーにて一段落。9時頃に村人と摩文仁間切番所の役人が調べに来る。しばらくして正月(旧正月)気分で村人達が大勢見物に来る。

 役人が来て番所に連行。11時頃に持ち物70点を万次郎から記帳し、飛脚にて首里王府の親見世役人に14時に通報。村人から昼ご飯をふかし芋等をいただく。16時に那覇から迎えの役人が来て、3人を連行し、6時間後の22時小禄間切湖城村の垣花に到着。20時正式報告文書が王府の親見世役人に知らされ急きょ変更し2時間後の24時に豊見城間切の翁長村の高安家にて陸宿になる。

  これからは、中濱博氏の主張が正当であるのかもう一度検証してみたい。

博氏は、干潮でなければ上陸できないから、上陸は満潮の朝ではなく、干潮の午後2時頃だと推定している。

 この大度海岸(旧小渡浜)の海に再三もぐり、潮の流れや満潮干潮の様子をつぶさに見てきた和田達雄氏は、「干潮時でなければ上陸できないということはない。満潮時でも上陸は可能である」と明言する。

和田氏は満潮でも上陸できる根拠として、海面と岩礁の水位について次のように指摘している。

潮の上昇は、最初は見えないくらい、2時間後も数㎝、3時間で50㎝くらい上昇する。残りの時間で一気に上昇する。海面水位に対し岩礁の水位は60㎝前後高い。午前2時が干潮だったので、早朝6時の海面水位は120㎝、岩礁の水位は60㎝である。岩礁を歩いて行くことはできる。浜に来ていた村人、釣り人に会って、船着き場を教えてもらう。

北へ一丁舟を廻わす。満潮に向かい水位をあげる潮に乗り船着き場に向かう。午前8時頃サシチン浜に上陸した。海面水位は160㎝ほどである。満潮の午前8時38分の最高水位は178㎝である」。

満潮に向かっていても、まだ十分上陸は可能であることがわかる。


  干潮時には岩礁が広がっている

重要な問題は、博氏がいうように、そこから北へ1丁ばかり廻ったサシチン浜へ干潮時にボートを漕ぎ着けて上陸できるか否かである。

博氏は次のようにのべている。

「(村人は)ここから1丁(109メートル)ばかり行った北の方によい船着き場があるからそちらに舟を回すとよい、と指さして親切に教えてくれた。二人は安心してボートにもどり、言われた通りの船着き場にボートを回した。そこは、崖に挟まれた20メートルくらいの小さな砂浜で、珊瑚礁が途切れていて、満潮干潮にかかわらずいつでも舟をつけることができる」(『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』)。

博氏がいうように「珊瑚礁が途切れていて、満潮干潮にかかわらずいつでも舟をつけることができる」というのは事実なのか。この浜を干潮時に観察すればすぐにわかることである。

和田達雄氏がこの浜の満潮、干潮時の写真を撮影している。この写真を見れば、満潮時は、岩礁の上に潮が満ち、ボートで漕ぎ着けることは可能である。だが、干潮の時は、浜から沖合に向かって岩礁が広がっている。舟を乗り入れることの出来るような珊瑚礁の途切れはない。つまり、干潮時にボートで漕ぎ着けることは到底不可能である。

 もし、干潮時にサシチン浜から上陸するとなれば、ボートは沖合の岩礁に着けたままにして、アメリカから積み込んで来た70点に及ぶ多数の積荷を、3人で担いで岩礁の上を歩いて運ばなければならない。しかも、現実にはボートは、サシチン浜に引き揚げられているのだから、干潮時には岩礁の上を人力で担ぎ運ばなければならないことになる。実際にはありえないことである。

 このように、サシチン浜の岩礁には途切れてはいないから「干潮でも満潮でも舟が入れる」というのはまったくの誤解であることがわかる。

逆に朝8時頃の満潮時こそボートを漕ぎ着け、上陸することができるのである。サシチン浜を観察して潮の満ち干を見れば午後2時の上陸説は成り立たないことがわかる。

 

午後2時に上陸して2時に報告は不可能

次に、上陸後の万次郎ら3名の行動を見ても、午後2時上陸はありえないことがわかる。

3名は、ボートから荷物を降ろし朝食をとった。その後、役人が来て番所に向かい、そこで事情聴取を受けた。しかも役人たちが70点にものぼる荷物を点検した。昼ご飯をふかし芋などをいただいている。午後2時には首里王府の役所に報告し、那覇から迎えの役人が来て、3人は午後4時には摩文仁間切の番所を那覇に向けて出発した。

正月4日付けの「異国日記」は、次のように記されている。

「土佐国の者たち3人が、夜前に阿蘭陀船から当(摩文仁)間切の小渡浜へ小舟で上陸したと、本日(3日)八ツ時分(午後2時頃)に連絡があった。ついては、右の3人と荷物をすべて那覇へ送り届けるものとする。この件の経緯を申し上げる。以上

付けたり、本船(阿蘭陀船)は夜前に沖合から離れたとのことを右の大和人たちから聞いた。なお、小舟は小渡浜に保管してある。」

ここでは、万次郎らが上陸したことが、「本日八ツ時分」(午後2時頃)、役所に連絡があったと明記し、荷物は那覇に送り届け、ボートは小渡浜で保管していると述べている。

これら上陸以後の一連の行動と経過を見れば、6時間ぐらいの時間を必要とする。もし、午後2時に上陸したのなら午後4時に出発しているのだから、わずか2時間しかなことないことになる。そんな短時間ではとても不可能だろう。

なにより、午後2時上陸では、同じ時間にもう王府にまで報告がされていることがまったく説明できない。午後2時に報告されたという記録の正確さは、午後4時には迎えの役人が来たことでも証明される。この点からも、午後2時上陸はありえないことになる。

 以上見きたように、午後2時の干潮時には、サシチン浜は岩礁が広がりボートを漕ぎ着け上陸することができないこと。逆に満潮時こそ上陸ができることから「長崎奉行牧志摩守取調記録(上)」の「五ツ時(午前8時)上陸」という証言の正確さを潮の満ち干の面からも裏付けることになる。

 3人の上陸後の時間的な経過と午後2時には王府に報告されているという記録の面からも、午後2時上陸説は成り立たないことが明確になった。改めてこのことを追記しておきたい。

万次郎らの上陸をめぐっては、上陸の地である大度海岸、なかでもボートを漕ぎ着け上陸したサシチン浜の写真が重要な資料となる。和田達雄氏が現場を撮影した写真を紹介する。それとともに、万次郎らが上陸した当時の情景、上陸の経路、ボートで浜に上がった場面を想定して和田さんが加工した写真を合わせて紹介する。それは当然、歴史的な史料ではないが、3人は恐らくこんな風に行動したのだろうという情景をイメージすることができるので、参考に見てほしい。

 

写真で見る万次郎らの上陸地・小渡浜
 
 万次郎らが上陸した糸満市の大度海岸(小渡浜)を上空から見た写真。
   上空から見た大度海岸とサシチン浜   

 

 岩礁が広がる大度海岸(小渡浜)。左に上陸したサシチン浜が見える。
    岩礁が広がる小渡浜

    
   サシチン浜の満潮時。ボートが乗り入れできる。
  
 サシチン浜、満潮時

  

 サシチン浜の干潮時。岩礁が広がり、ボートの乗り入れは出来ない。

       サシチン浜、干潮時


   万次郎ら
3人がボートを岩礁に着けて村人に会った時を再現してみた写真。

           上陸の想像図

    ボートでサシチン浜に3人が上陸したことを再現した想像図。

    ボートで上陸、想像図

 
 

 

この拙文は、万次郎4代目の中濱博氏の『中濱万次郎――「アメリカ」を初めて伝えた日本人』の叙述を再び検討する結果になった。博氏が、写本を鵜呑みにせず、船の入港記録、日記、手紙、公式記録などを基に、確かな事実を実証しようとしたことは重要な意義を持つと思う。ただし、小渡浜への上陸については、誤解があるのではないかと指摘した。

上陸時間の検討など細かいことのようであるが、「琉球(沖縄)は、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをはじめて日本に持ってきた玄関口である。琉球上陸は万次郎の話の中のハイライト」と博氏も述べているように、第一歩を正確にしておくことは、今後の万次郎研究の上でも必要があると考ええ、あえて続編をアップしたものである。
   終り     文責・沢村昭洋


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「麒麟がくる」はあのエピソードを飛ばした

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、「十兵衛の嫁」だったが、有名なエピソードをどう描くのか注目した。
ところが、まったくそこは飛ばしてしまい、拍子抜けした。 
 このエピソードは、明智光秀や娘の細川ガラシャを描く小説などでは必ず入っている。
 つまり、光秀が許嫁である妻木家の煕子(ひろこ)と結婚することになっていた。とても美しかった煕子が、運悪く疱瘡にかかり、顔や首、手にも疱痕が残った。もう嫁入りはできない。
 そこで父親は、煕子の代わりに妹を結婚させようとしたが、光秀は自分の許嫁は煕子であり、いかに面変わりしても私がちぎるはこの世で唯一人という。めでたく光秀と煕子は結婚する(参考、三浦綾子『細川ガラシャ夫人』)。
 二人の間に生まれた娘が玉子で、後に細川ガラシャとなる。玉子もとっても美人だった。母親譲りだろう。
 この逸話は、光秀の性格を表すのに欠かせない。
 でも、「麒麟がくる」では、なにごともなかったかのように、光秀と煕子は結婚して目出度し目出度しとなっていた。
 なぜ、この重要なエピソードを飛ばしたのだろうか。
 想像してみると、これから煕子は光秀の妻として再三登場する。そのたびに、煕子役の木村文乃の顔に疱痕が目立つことになる。お茶の間向けのドラマとして、そこまでリアルに表現するのを避けたかったのではないだろうか。そんな気がする。
 


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「評価方日記」を読む、その6、昆布の道

昆布の買い取りたびたび

これまでは、中国から持ち込んだ品物の買い取りが中心だったが、今度は中国が欲しい産物、中でも昆布の購入について再三注文が出される。

 

<戊戌8月朔日

今日、頭号船・二号船の船主たちがやって来て、「一船につき昆布を15万斤ずつ提供してほしい。また代銀はいくらになるか」と尋ねてきた。そのため、昆布については評価方では用意しておらず、脇才覚([別途での工面])によって提供するはずなので、(昆布の)数量と値段については把握していないが、工面して何らかの返答をすると(船主たちへ)伝えた。>

このあと、昆布の値段についての駆け引きが続く。

<8月19日

昆布の値段 昆布百斤について蕃銭13枚になると返答したところ、船主たちは3枚半で処理するよう申し出てきた。>

92

昆布の値付けについて、両勅使様から指示があった。…百斤につき85分で買い取るよう船主たちへ指示してもらいたい、とお願いした>

<9月4日

勅使様から昆布について5枚までであれば買い取ることができる、と船主たちが申し出ている。7枚までであれば売り渡すことができると返答した。>

<9月7日

昆布については百斤につき蕃銭6枚で売り渡すようにと以下の通り告示で伝えて来た。これ以上値上げは許可しない様子である。右の値段で売り渡すことが筋(妥協点)であると、御座へご案内(お伺い)したところ、許可された。>

(昆布はその後も買い入れ要請があり渡した)

 

昆布の売り渡し価格は、蕃銭で最初の船主3枚半、琉球側13枚から、だんだん折り合って船主5枚、琉球7枚まで来たところで、冊封使が中間をとり蕃銭6枚で決着させた。
「このように、評価物の売買に際して、船主側と琉球側(評価方)との間で幾度となく交渉が行われ、決裂した場合には、冊封使が仲介役となって問題を解決させていたことが分かる」

(前田舟子著「『道光18年 冠船付評価方日記 下』」解題)

 

北から昆布が運ばれた

ここで、昆布について横道に入る。中国から買い取る品物のなかに唐薬種がある。これと琉球が販売する昆布とは密接な関係があった。

<昆布が採れない沖縄の昆布消費量が全国上位を占める背景に、薩摩支配下の琉球と清国との交易関係がからみ、蝦夷地(北海道)で採れる昆布が薩摩・琉球へと運ばれる密売ルートがあった。漢方薬の原料「唐粗材薬」を必要とする富山の売薬人側と大量の昆布が魅力の薩摩藩との利害が一致した。北前船に積まれた昆布を日本海沿岸のどこかの湊で積み替え、薩摩に直行。長崎以外で輸入は禁制の唐薬種を売薬人が密かに購入するという取引方法が行われていたのではないか。琉球に運ばれた昆布は那覇湊にあった「昆布座」(注・在番奉行所の隣)に納め、中国へ輸出された。薩摩は進貢貿易を利用し莫大な蓄財をなし,「『昆布』は、討幕へと富国強兵を勧める牽引力ともなっていった」(竹内經氏著「幕末の琉球を探るーー琉球へ運ばれた昆布の道」)。>

          昆布座跡  

              古い那覇市中心部の地図。昆布座跡が見える

薩摩船が来ていた新潟湊

では、どこの港で積み替えが行われていたのだろうか。

上原兼善氏は「薩摩船が唐薬種類を新潟湊で松前産の俵物・諸色の類と換えていた」と指摘している(『近世琉球貿易史の研究』、「薩摩船による北国筋における抜荷」)。

俵物(たわらもの)とは、俵に詰めて輸出された煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の海産物のこと。諸色(しょしき)は、昆布、テングサ、スルメなど。

薩摩湊浦の八太郎の持ち船が183510月、長浜藩領村村松浜に漂着、積荷物として唐薬種・毛織物・犀角等の御禁制品を多く積み込んでいた。これが発覚して、関係者が処罰された。村松浜遭難薩摩船事件と呼ばれる。

幕府の命を受けて探索にあたった川村修就が報告書「北越秘説」のなかで、次のように報告している(要旨)。

<新潟町で琉球廻りの唐物抜荷を密かに探索したところ、事件が発覚する6ヶ年ほど前までは毎年6艘ぐらいずつ薩摩船の入津があり、春は薩摩芋、夏は白砂糖・氷砂糖などをもたらし、船の下積みとして唐薬種・光明朱(色鮮やかな上等な朱)などを多量に積み込んできて公然と交易していたこと、領主もそれを了解し、薩州船よりは特別な運上を取り立てていたこと、そして不正の唐物は奥羽をはじめ、北国筋にも出回っていたことなどを情報として摑んでいたのである。>

事件は「同湊が琉球唐物抜荷北国の拠点であったことを象徴的に示していた」。

幕府は、松前・蝦夷地より、煎海鼠・干鮑・昆布が薩摩・越後辺りへ抜け散っているとの風聞を指摘して、長崎会所以外への販売を禁じる抜荷取締り令を発していた。(『近世琉球貿易史の研究』)

 

「新潟湊には春秋2度にわたって薩摩船が入船し(春船・秋船)、唐薬種・砂糖・鰹節・芋などの類をもたらしていたが、事件は唐薬種の類が新潟から、またさらに越中富山・信州・上州にまで抜け散っていたことを示していた」「薩摩船が九州へ下るにあたっての積荷は、松前産の俵物・諸色の類が主力をなしていたであろう」(同書)

このようにして、松前産の昆布などが薩摩に大量に運ばれ、それが琉球を経て中国に輸出されていたのである。

 

購入した貨物の総額


 本題の「評価方日記」に戻る。

<10月3日

評価司が購入した頭号船・二号船の貨物の値段は、合計すると琉球銀にして(頭号船は)二万千百九両余り、(二号船は)一万七千七百二十九両余りで相互に包封[包装]し花押[封印]して引き渡すものとする。

<船戸が持ち帰って福建に到着した際、兌換してもし洋銀百五元に満たない場合は、ただちに、魏學源が補填して支払うこととする。もしも銀色[銀の純度]がひどく劣り、銀の補填を多く要求された場合には、ただちに魏學源が銀数に応じて洋銀(蕃銭)に換算して支払うこととする。>

ここで「魏學源が補填して支払う」としていることには、次のような経過がある。

琉球銀子の換算率について、銀1貫目にたいし蕃銭(スペイン銭)864分で換算してほしいという要請が船主から出された。琉球側の評価方は、通常銀1貫目を蕃銭114枚(元)前後で兌換しているが、時価の変動により110元(枚)を基準としている、との意見を出した。冊封使は前回冊封使の論示に従い、琉球銀百両に対し蕃銭百枚とすることで解決することをもとめ、琉球側に3日以内に誓約書の提出を指示した。しかし、期限内を守らない。

<業を煮やした冊封使は818日に「銀子1貫目につき蕃銭105枚とする」という結論を出している。それでも、福建に持ち込まれた琉球銀が、現地価格での清算によって最終的に差額を生じる場合、評価司の魏学源が弁償することで落着した」(前田舟子著「『道光18年 冠船付評価方日記 下』」解題))


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