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レキオ島唄アッチャー

「評価方日記」を読む、その5、残品買い取れ

残品を買い取れ

今度は、中国から持ち込んだ品物に残品があるとして、買い取りを求めてくる。

<8月19日

両勅使様から、「頭号船・二号船の船主たちの残品があり、…買い取ってもらいたい」と申し出てきた。しかし、評価方にはもはや銀子がないという筋合いでお断りを申し上げたところ、「来月の初め頃には、帰国する予定であるため、右の残品を早急に処理しなくては帰国に支障が生じるので、唐代(福州の相場)より少々心付け(配慮)をして、加二(2割増し)は免除してもよいので、評価方で買い取るか、脇方で買い取らせるようにせよ」と仰ったので、協議のうえ返答すると申し上げ戻った。…評価方が指示して脇方に買い取らせるのが適当だと協議し、兼城殿内へ参上し、申し上げた。>

売れ残りの品物を売りさばいて帰りたい、割り増しを免除するので買い取ってほしいという冊封使からの要請である。ここで、「脇方で買い取る」とはどういうことなのか。

<本来、船主らが持ち込む唐物については厳しく取り締まりがなされ、禁制品を持ち込んだり、蜜売買をしてはならないと定められていたが、現実には必ずしも守られていなかった。それでも、正規の評価貿易で取引きできない商品は脇評価方で売買するなど、琉球側は柔軟に対応していた。(前田舟子著「『道光18年 冠船付評価方日記 下』」解題))>

早く言えば、残品は表口でなく、裏口で買い取るということか。

      唐船 
                  再現された唐船(読谷村)

商品売買で儲け目論む随行員

ここで、少し話がそれるが、冠船が大量の品物を持ち込んでくる事情について見ておきたい。

 首里王府の最高機関である評定所が記した「冠船日記」(『國立臺灣大學圖書館典藏琉球關係史料集成』収録)(1719年8月1日から29日))の中に、中国側が持ち込んだ評価物(冠船貿易品目)をめぐるトラブルが記されている。

1719年の尚敬王の冊封の時だ。冊封使は、正使が海宝、副使は徐葆光(じょほこう)だった。この時は649人もの大人数が、8カ月間も滞在した。乗組員は、それぞれ品物をたくさん持ち込んでいた。琉球の著名な政治家だった蔡温(さいおん)の『自叙伝』には、トラブルの状況を書かれている。

<唐人(中国人)が持ち込んだ品物の代銀は2000貫余ある。琉球が用意した買取代銀は500貫目しかない。9月初めから値段を折り合わすことが難しくなった。中国側は、いくら琉球が貧乏国だからといって、60007000貫の買い物はできるはずだ。わずか500貫しかないというのはおかしい。つまるところ中国人を困らせるためにやっているのではないか、と立腹した。ある日、(蔡温が)街中を歩いていると、中国人400500人が取り囲んだ。もし、買い取りがうまくいなかないとわれわれの生活が困る。われわれの意見が達せられないといつまでも囲んでいるぞ、と脅した。(蔡温は)明朝から改めて評価を始めることを書面で約束してその場を帰った。しかし、やっぱり1000貫目余の品物は持ち帰ることになり、また難しくなった。老若男女のかんざしや家々で持っている銅や錫の器物を集めて、都合100貫目ほどプラスして買い物をした。こうしたトラブルもあり、冠船は年越しして2月16日、帰国した。半分以上の品物は売れずに持ち帰った。>

なぜ、この時に大きなトラブルが起きたのか。前回の冊封の時は、冠船の入港のニュースを聞いて、琉球の近隣の鹿児島、トカラ七島などから船が中国物産の買い物に集まってきた。中国から持ち込んだ品物はよく売れたそうだ。この時のことが、福州では語り草になっており、「今度も売れるだろう」とあてこんで、乗組員たちが多量の品物を持ち込んだようだ。だが、事情は変わっていたから、冠船が来ても、琉球外から買い物の船はまったく来なかったという。まったく当てが外れたわけである。

 

 乗組員が多量の品物を持ち込むのは「評価物の売買を目当てに琉球に来ている」という事情があった。

冠船に乗る渡海人役は、「募集ではあるが、労銀は支給されず、賄だけが官給で、あとは各人の持渡り品を売ることによる役得が収入となっただけである」(原田禹雄訳『中山伝信録』の訳注から)。乗船して働いても、給料は支払われなく、品物の販売が目当てとあれば、品物が全量買い上げになるかどうかは、彼等にとって重大な問題だった。

 琉球に来る冠船の随行員たちは、貿易を儲けるチャンスとする思惑があったが、さまざまな条件によって、儲かった年もあれば、思惑がはずれて利益が減少した年もある。利益が少なくて、正使・副使などが拠金して、手当を支給したこともあったという。

そういえば、冊封使も旅費が出なかったそうだ。勅使となれば、中国内の沿道ではすべて地方の役所が接待する。琉球に渡れば当然、首里王府から接待される。その上に旅費が必要なのか、という理屈からだ。これらについて、このブログ「琉球と中国の長~い交流の物語」で詳しく書いており、興味のある方はそちらも読んでいただきたい。


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「評価方日記」を読む、その4 値下げ要請

 値下げを要請

琉球の売買を担当する役人が連名で7月9日、次の趣旨の要望を提出した。

 <稟を提出し、貨物の価格が非常に高価なため、減額を懇願するものである。

私ども翁成功(注・琉球の評価司)等は、評価物を司る職にあり、先日勅使様の告示を受け取ったところ、「冊封船の圧載貨物については、命じて先に計量さをせたが、今すでに指示に従い処理し終えたのであれば、直ちにまた指示に従い、速やかに評価[値付け]を行い。適切に処理せよ。」とのことであった。

如何せん、船戸が提出した清冊の価格は、琉球が福建で購入した価格と比べると根拠のない価格が非常に多く購入後販売することが難しい。>

 <琉球の接封船が帰国し、また福建省における各種の物価一覧を持ち帰っているので、現在逐一価格を比較しているところであるが、価格が加増されていないものはない。

天使大人がお調べの上、大幅に減額して頂き、窮乏する小国が大きな損失を被ることがないようにして頂きたい。

また、2種の薬剤(止血や鎮痛の漢方薬、健胃薬に用いる)は、本物でないため、人に害を与える恐れがある。どうか取り除いていただけるようお願いする

道光18年7月 

評価司 

中議大夫魏學源  紫巾官翁成功 都通事王邦選 全叩[一同頓首す]

注・中議大夫は久米村の官位の一つ。紫巾官は親方の別称。都通事は久米村の官位、中議大夫に次ぐ。

ここでは、福建で売買されている価格を調べて、これと比較して琉球に持ち込んだ価格が加増されているとして、大幅減額を求めている。 しかも偽物の薬剤まで持ち込んでいたことを示している。


 福建価格を調査 
 王府は冠船が入る時には、臨時に評価担当の役職を定めてこれに従事させた。価格を決めるには、中国側の言い値通り買い取るわけにもいかない。買い取るための資金(銀)は限られているからだ。だからあらかじめ相場を知っておく必要があった。それで、福州に渡った時には、現地の価格をきちんと調査していたそうだ。冠船貿易は長い歴史があるので、過去にも高い価格で買わされそうになり、福建の価格相場を調査する必要性を痛感していたのだろう。

 

琉球側からの値下げ要請に対する冊封の正・副使の回答が7月11日出された。要旨次の通り。

<価格の水増しがあったかどうかは、今ここでは判断しがたい。突き合わせて検討する方法がないため、証拠とするには不都合である。そこで船戸の提出した原冊に基づいて2割増しで計算し、早急に処理すべきである。

(薬剤の2件については)まがい物であることから返品させることは当然である。>

 

規定外の品物持ち込む

さらに712日には、冊封の正・副使の告示が出された。次の趣旨である。

<船戸が規定外に持ち込んでいる蘇木・明◆・滑石等の貨物について、弾圧官に命じて調査し処理することとした。船戸の申し出には虚偽や捏造はないと報告してきた。理由があり、遠く大海を渡ってきたので、今さら持ち帰らせるわけにはいかない。即日船から降ろして評価館に運び入れることを許可する。>

虚偽や捏造はないとして、冊封使は規定外の品物を評価館に運び入れることを許している。

これに琉球側は、納得できないので、7月13日、次の趣旨の要請を再度提出した。

<評価物の代下げの要請を受諾しないので、再度天使館に参上して、両勅使様へ稟(要請)を提出した。

翁成功等が提出した貨物の実勢価格の清冊は確実な数字であり、少しも虚偽・捏造はない

船戸の提出した清冊価格と琉球が福建で購入した実勢価格を比較したところ、価格はすでに倍額となっており、それを2割増しで計算すると、倍増されて4割増しとなる。貧窮の小邦はこれほどの損失に耐えうるだろうか。>

<お願いしたいことは、両船の貨物価格は水増し価格のまま提出されているので、保留していただき、琉球の進貢使節が福建に到着した後で、現地価格を調査してその虚実を突き合わせ、船戸に支払うか、琉球に返金するかを決定して頂きたい。>

評価司の中議大夫魏學源  紫巾官翁成功 都通事王邦選の連名である。

      交易図 (2)  
                 日本、中国、東南アジアと交易していた琉球

琉球側の要請を受けて、冊封使から7月16日、再度、告示がされた。

 評価物の代下げについて、蕃銭1万枚分の代下げを許可された。以下は告示の内容の要旨である。

船戸を呼び寄せ訊問した。福建の実勢価格は、もともと評価司の提出した物価一覧と大差ない。船の借り上げ料・修理費・貨物税の費用は巨額である。さらに倉庫の保管料や運賃、水手・人夫の手当て・貨物の梱包料など多くの経費が費やされている。船戸は勝手に水増ししているわけではない。

ただ再三の要請があるので、使者は公平に検討し、洋銀1万元分を減額する。

琉球側の再三の要請によって、ようやく値下げを認めた。いくら清国皇帝の使者であるからといって、理不尽な水増し価格で買い取ることは出来ない。粘り強く要請したことが実った。

 

この値下げにたいし、船戸も損失をもたらすとして、次のような趣旨の要請書を提出した。

搬入した貨物は、逐一品質を検査し、重量を計り公正に受け渡しを終えた。問題がある貨物は取り除き回収させた。目減りして売却できなかった不足分は、当然(売却品を)補充すべきである。

 

この要請にたいし、正副使は次の趣旨の判断を示した。

両船の貨物は搬入した後、計量して除かれた目減り分と返却された分の貨物は、貨物一覧の総数と突き合わせたところ、損失が生じていた。他の物品で補って満額とするよう要請するとのこと。要請通り処理する。


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「評価方日記」を読む、その3 冠船が到着

冠船がいよいよ到着

 事前の準備をしたうえで、清国からの冠船がいよいよ到着した。

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今月4日、冠船2艘が清国を出港し、頭号船は今日の日没頃に那覇の川口(港口)に乗り入れてきたが、向かい風が強く(港内へ)挽き入れることができず沖合で停泊した。>

<5月9日

頭号船は未明から挽き船で(那覇の)川口に入れ始めた。二号船は八つ時分(午後2時頃)に入港した。>

この頭号船で福州から帰国した評価係り、髙良筑登之親雲上は、次のような報告をしている。

頭号船、二号船で高額品や大量の積み荷を持ち渡らないようにとの減少願いを要請し、その通り許可された。渡航する清人たちへ布達の趣旨を触れ回り、高額商品は持ち込まないことに納得した様子だが、なお懸念される。沈香、犀角はじめ抜け荷の情報を得たけれど、「きわめて隠密な持ち込みであるため、当然ながら(確かな)情報は得られなかった」。

「荷物携えの手伝い人も荷物の仕組み(規制)について厳しく取り締まられているため、持ち込みの荷物や数量について秘匿している」

冠船が到着しても、密かに品物が持ち込まれようとしていることへの懸念は消えない。

     天使館 むら咲むら

     冊封使一行が滞在した天使館の再現(読谷村の「むら咲むら」のHPから)
 
 中国側でも、
513日、次のような告示(要旨)が出されていた。告示は、兵士たちが持参して親見世の本門の扉に貼り付けたのですぐに写し取り、役人が報告している。

<圧載貨物については、粗重1千担の数に加二(注・2割増し)の科息を加えることを許可し、それ以外多く持ち込み、押し売りは許さない。現場で監視し、巡回し弊害を防がなければならない。二船から密かに個々人の貨物を積み下ろすことがあれば、法律に準じて処罰される。>

 

512日には、欽命により琉球を冊封する正・副使にして正一品衡を賜わった林鴻年と高人鑑が、次のような告示している(要旨)。

<一、清国内地の商人で、もし冊封使の随行員の名義を借りて他人になりすまし、私的に琉球の官民に対して借金を取り立てる者がいれば、厳罰に処する。

一、伝聞によると、天使館付近には、以前から紅衣を着た遊女がおり、兵役人等を誘惑しているとのことである。琉球側の役人に調査させ、もし遊女が隠れていたらすぐに追い払うこと。>

 

荷物を積み下ろしが始まると、さっそく物品一覧に記載のない商品の買い取りを清人が求めてきた。6月17日付けで次のような指示(要旨)が出された。

<清冊(注・物品一覧)に記載のない商品を買い取るよう清人たちが要請してきたが、右の品々も評価方で買い入れることになっては銀高が多額となり、後々の前例となり支障が生じる。内々に買い取る方法で処理するのがよいと吟味し、奉行の安谷屋親方が登城し表御方へ提出した。御在番所と唐物方へも差し出したところ「確かにこの通り処理してよい。しかし、…御仮屋は表向きと(略)なっているので、買い取った品物は内密に親見世に搬入して保管せよ」と御在番所から指示された。

 

冊封使も、物品一覧にない荷物を降ろすことについて、618日次のような告示(要旨)が出された。

注・こういう告示は冊封使から天使館に掲示されると、琉球役人はすぐに写し取り報告している。

<両号船は規定の貨物以外に、(福州)府と(海防)庁の面論[口頭の指示]により許可されたので、別個に蘇木・明◆(轡に似た字だが、漢字が出ない)・滑石等の品物を携帯している。評価館の方で購入することを許可して頂きたいとの申請があった。

福州府、海防庁との口頭による許可があったなどということを根拠に、ごまかして不正に要請してきた。虚偽であることは明かで、役所を愚弄してだまし取ろうとしていることは間違いない。要請事項は許可しない。>

 


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「評価方日記」を読む、その2 密貿易

「抜け荷」を防げ

前置きが長くなった。これから「評価方日記」の本文に入る。

冊封使を乗せた冠船が琉球に来る前に、受け入れに向けて事前の準備から仕事が始まる。
中国側への要望することや、持ち込んだ品物を薩摩へ密売買する「抜け荷」行為の取り締まりを強化することなど大事な準備であった。

おことわり。これから<>書きで紹介する文章は必ずしも原文ではない。日記からの文章であることを明らかにするために、要約した文章も<>書きで紹介した。

 

<閏421

清人たちの持ち込む唐物の取り締まりに関して、御在番所から(以下の)通達があった。「すべて評価奉行の取り締まりによって商売を許可することになったので、軽い品[少額品]であっても抜け買い[密売買]をしてはならない。また、清人の宿に出入りする下々の者たちが押し付けられて受け取った品物であっても評価方に差し出すようにすること。そうしたならば、それ相応の代銀の支払いを御在番所から…(欠ける。代銀の支払いがあるということか?)

 琉球国内での地禿し(地元での消費)とするもので差し支えのない品物は、各自で管理し所持してもよいが、右の様な僅かな物(地禿し品)であっても御国元[鹿児島]行きの登り船から密かに持ち渡り、御領内[鹿児島]はもちろん、万一他国にまで密輸されたならば、一種でも百種でも同じことであり、抜け物の御大法[密輸禁止の大法]を破ることに違いはない。…不正な行為が発覚した場合は、本人への処罰はもちろん、(琉球国の)御難題にも関わるため、指示内容を十分に理解し、少しも不正行為がないよう、首里・泊・那覇・久米村および各間切(注・今の町村)・諸島へ堅く申し渡なすようにせよ。…

戊閏420

 御物奉行 平等之側 惣役 長史 借里主>

 

 注・御物奉行(おものぶぎょう。財政の役所の長官)、平等之側(ひらのそば。王府の裁判機関、民政も管轄)、惣役(そうやく。中国から渡来した人が住む久米村の最高職)、長史 (ちょうし、ちゃぐし。惣役に次ぐ役職)、借里主(那覇を管轄した長官、那覇里主に事情があった際任命)

 もし、薩摩が琉球を通して密貿易をしていることが、幕府に知られると「密輸禁止の大法」を破ることになり、琉球国にとっても薩摩藩にとっても大問題になることを恐れた。

       唐船の図 
                      琉球から中国へ渡る「唐船」の図

 54

評価物で多量の高級品は持ってこないようにと減少を要請することについて、御迎大夫(注・おむかえたいふ。冊封使を福州で迎え案内する使者)から撫院(注・ぶいん。福建の行政を統括する役職)と布政司(注・ふせいし。福建の財政など監督する役所)へお願い申し上げて許可された。…(渡海の清人たちへ)琉球は、小国で銀子が不自由な所なので、万一高価な品々を持ち渡って来たならば、売りさばくことができない。そのため、どうしても持ち帰ってもらうしかない(と説明しどうにか納得してもらった)。>

しかし、内密に尋ねたら、沈香(香木)、犀角(漢方薬に使用)などいくつかの品物を抜け荷で持ち込もうとしているとの噂があり、「大いに懸念される」とのべている。

 中国側でも冊封使の派遣にあたり、これまでも品物の売買の際、琉球で問題を起こしたことがあるので、過去の事例を持ち出して、以下のようにいくつかの訓示をしている。以下要約である。

<皇帝から任命され、布政司としての呉栄光は前回の冊封の事案を調査させ暁諭(訓示)する。
 乾隆21年(1756年)の冊封使随行の兵役がひそかに不正な貨物を持ち込み、価格を釣り上げて押し売りし、琉球国で役所の官吏に言いがかりをつけて紛糾した事案(事件)があった。厳格な取り締まりを行わなかった兵丁・下士官の監督責任者を刑部に送致し、重罪刑を適用して斬絞(斬首・絞首)刑に処すること。主犯と仲間8名を晒し首とすること。その他は流罪・首枷・鞭打ちの刑に処すべきこと。(それらの)提案は前例として記録されている。

随行する官兵・匠役・船戸[船長]たちに命じて周知させよ。登舟(乗船)の日には私貨を隠して持ち込むことを禁ずるようにせよ。船戸と水手人などの所持する貨物は、前回に準拠するだけとする。規定外に多く持ち込み、紛糾の対象となる行為を禁ずる。兵役が到着して以後は、口実を設けて銀銭を取り立てたり、廉恥を顧みず酒による凶行・喧嘩・賭博・宿娼(遊里通い)をしてはいけない。

道光171216日発給>

 

同様な趣旨を道光18218日、布政司が告示している。

<道光18126日 海防丁は、次のような告示をしている。

船戸が持ち込むことのできる圧載の粗重貨物には定量があるとはいえ、琉球は連年の災害事情で饑饉が次々に起こり人民は困窮しているので、粗重貨物は大幅に削減し、総額2万両を超えてはならない。規定額以上の収益を上げてはならない。>

このように、不正な貨物持ち込み、押し売りや、滞在中の規律についても喧嘩や賭博なども禁じている。それにしても、いくら紛糾したからといって、斬首や晒し首にするなんて、厳格とはいえ残酷である。

事前に注意をしても実際に来航すると、さまざまなトラブルが起きることになる。

 


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「冠船付評価方日記」を読む、その1

10数年前、沖縄大学で「中琉交流史」を聴講し、琉球の進貢貿易や中国から冊封使(さっぽうし)が来琉したときの冠船貿易のことを少し学んだことがあった。

『国立台湾大学図書館典藏 琉球關係史料集成第4巻 道光18年 冠船付評価方日記』が発行されていたので読んでみた。すでに、この「琉球關係史料集成」では、ジョン万次郎の琉球上陸と宣教師・ベッテルハイムのことについて紹介してきた。『冠船付評価方日記』についても、興味のあるカ所だけを紹介してみたい。

 

 貿易品を査定した

題名にある「評価方」(ハンガーホウ)とはなにか。

<琉球国王の冊封に際して冊封使使節団との貿易を管轄・実施するため那覇に設置された臨時の部署のことである。評価方の「評価」とは、文字通り貿易品の検査・査定を意味し、評価方の「方」とは役所一般を指す用語である。

 ちなみに冊封使の乗る船を琉球では冠船、明清では封舟と呼称した。そのため冠船貿易、封舟貿易あるいは評価貿易という歴史用語が使用されている(同「冠船付評価方日記」の豊見山和之著「巻所収『評価方日記』関係文書の書誌と冠船貿易に関する研究史」から)>

 道光18年戊戌1838)、琉球王府の尚育王を国王として認証する「冊封」のために、清国から派遣された冊封正使・林鴻年、副使・高人鑑等の使節一行と琉球国の間で実施された冠船貿易に関する記録である。

 すでに「異国日記」で紹介したように、「冠船付評価方日記」が台湾大学にあるのは、戦前、小葉田淳氏が、この史料を琉球から借用・筆写したものを所蔵していたからである。


          冊封使儀式再現3  
                         冊封使儀式の再現
 

交易は琉球王府の直営で行われた

ここで、改めて琉球と中国との交易について、スケッチ的にみておきたい。

冊封使とその一行は、2隻の船に乗ってくるが、総勢400500人、最も多い時は649人にものぼる大規模な編成だった。正副の使者だけでなく、兵士や鍛冶屋、裁縫師、お菓子屋、奏楽者、内科、外科の医師、画家まで乗船していた。船には大量の中国物品が積まれていた。  

冠船は南風を受けて56月に到着し、北風の吹き始める1011月に帰るまで半年ばかり滞在した。中には、持ち込んだ品物が売れないこともあって、琉球で年を越して最長252日、8カ月余りも滞在した一行もいた。小さな島国で、大使節団がこんなに長く滞在するとなれば、その接待は大変だった。船の着く那覇には、中国の使節を接待するための「天使館」という宿泊施設が建設されていた。一行はそこに滞在した。

滞在中、積み込んで来た数々の品物を売り、琉球からは中国が必要とする産物を買い入れる重要な交易の機会だった。

中国から買い取る品物は、各種の糸や織物、陶磁器、茶、針、漢方薬の材料などが多い。琉球が買った品物もすべて品目、数量、免税額まで記録されている。

琉球の貿易は、民間人が勝手にはできない。すべて貿易は官営、つまり首里王府の直営のもとに行われた。

琉球は、自国で消費するためにだけ品物を買うのではない。中国から買った品物を東南アジアや日本に持っていく。東南アジアからは象牙や胡椒など珍しい品物を買って、それを日本や中国に持っていく。日本の物産は、中国や東南アジアに持っていく。つまり、一四世紀後半から一六世紀にかけて、琉球はこのように中国、日本、東南アジアをまたにかけ大いに貿易をしていた。東アジアの中継貿易国として栄えていた。

 

琉球から中国に渡る進貢船には、皇帝への貢物とは別に、琉球の海産物をはじめ、中国が欲しがる物産を船に載せて行った。

琉球からの輸出品で多いいのは、海産物である。中国料理には欠かせない。海帯菜(昆布)が一番多い。さらに塩目魚(スルメ)、佳蘇魚(カツオ)、鮑魚(干しアワビ)、魚鰭(フカヒレ)、海参(イリコ)、さらに戸石、醤油、焼酒(泡盛)など持ち込まれた。琉球にない物産は、日本から買って持って行った。

沖縄では昆布はとれない。薩摩を通して、蝦夷(北海道)方面の物が多量に入ってきたという。昆布は琉球人の食生活にも影響を与えた。昆布は豚肉とともに琉球料理には欠かせない食材となり、いまでも、一人当たりの昆布消費量は沖縄県が全国のトップだそうだ。


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「星影」って何?

分かっているようで、実は分かっていないことがある。「星影」がその一つだった。

八重山民謡に「八重山育ち」がある。八重山民謡の名曲を巧みに取り入れており、人気がある。

 「星影暗き夜半時 恋の細道 トゥバラーマ 切ない思いに身をこがす 君と二人で通うた小路 いまじゃいばらが もつれて咲くよ」と歌う。
     

 はて、「星影暗き」とはどういう意味だろう。星っていくら明るくても影ができるほどではない。「夜半時」とは、午前零時前後を指すそうだ。「星影が暗い」とは何だろう。そんなことを感じながら歌っていた。

 思いついて「星影」とは何か、調べてみた。辞書類はいずれも「星の光」「星明り」と説明している。「星の影」などという説明はどこにもない。

 ちなみに「月影」を辞書で調べてみると、やはり「月の光」「月明り」と出てくる。ただ、月の場合は「月の影」ともいう。こちらは説明に「影」が登場する。

 満月の場合、薄い月影ができることはあると思う。

それにしても、星の光や星明りなら、なんで「星に影」をつけるのだろうか。

単純な星明りというよりも、ロマンティックな表現ではある。そのせいか、歌謡曲にはよく使われている。


 千昌夫の「星影のワルツ」、小畑実が歌い、ちあきなおみがカバーしてヒットした「星影の小径」など。
 ついでに、歌詞を見てみた。

 「星影のワルツ」は、「別れることは辛いけど…別れに星影のワルツを歌おう」「今夜も星が降るようだ」と歌われている。これは、「星が降るようだ」というので、「星の光」「星明り」の意味で使っている。当たり前であるが。

 「星影の小径」の歌詞は、「さまよいましょう 星影の小径」「たたずみましょう 星影の小径」と歌う。とくにその意味を示す歌詞ではない。

 

 「星影」とは、とても繊細は表現である。もしかして日本だけの表現かもしれない。「星影」の英語訳は「starlight」となっている。「starlight」の日本語訳もまた「星の光」「星明り」であり、「影」の要素は見当たらない。

 「星影」は日常の会話としてはほとんど使われない。「古語辞典」を見ると、「星影」の言葉はないので、近代になってつくられた表現ではないか。「星の光」「星明り」より「星影」の方が、詩的な表現であることは確かである。


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知念にある組踊「手水の縁」の歌碑

知念にある組踊「手水の縁」の歌碑

 

     知念岬 
                     知念岬

 ドライブで知念岬に行った帰り、331号線を西に向かって走っていると、道路脇に歌碑があった。何の歌碑か分からないまま、車を止めてみると、組踊「手水の縁」の歌碑だった。

         歌碑の説明

 「手水の縁」の歌碑は、豊見城市瀬長島にもある。

 波平大主の息子・山戸(やまとぅー)が瀬長山での花見の帰り道、波平玉川で髪を洗う女性・玉津(たまちぃー)に一目惚れして、川の水を手で汲んで飲ませてほしいと頼んだのが縁で、恋に落ちる。親の意に背いた恋愛は許されず、娘を処刑しようとするとき、山戸が駆け付け、身代わりになると願い出て、斬ろうとした役人は二人を逃がして、結ばれるというストーリである。


 組踊と言えば、中国から国王の認証のため琉球に来た冊封使(さっぽうし)をもてなすために創作された歌舞劇である。忠孝、仇討ちなどのテーマが多い時、自由恋愛を歌いあげた唯一の組踊である。
 王府時代の封建的な秩序、道徳に反する勇気ある組踊である。

作者の平敷屋朝敏は、政治犯として処刑されたことで知られる。
         DSC_0667.jpg

  なぜ、知念に歌碑が?と思ったが、玉津は知念山口の出身で、処刑されそうになったのが、知念の浜だったという。

知念はそういうこの組踊と深いつながりのある土地だったのだ。
 

 歌碑は二つあり、説明板がある。

 「結でおく契り この世ぢやでともな 変るなやう互に あの世までめ」

 歌意「結ばれ二人の契りは、この世だけのものではない。心変わりしないで、あの世までも結ばれている」

              手水の縁歌碑  
  「くらさらぬ 忍で来やる 御門に出ぢめしやうれ 思ひ語ら」

 歌意「思いが募っても暮らすことはできない。忍んで行きますから、門の前まで出てきて下さい、つのる思いを語りましょう」         
          歌碑1
 


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「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、番外編

 番外編
 
 軍法会議にかけられたベッテルハイム
1846年から8年間、琉球王国に滞在した英国宣教師ベッテルハイムは、ペリー艦隊と共に琉球を離れて米国に渡った。渡米後、南北戦争(1861~65年)に軍医として従軍したことは知られてきた。
「異国日記」の存在を教えてくれた和田達雄さん(ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長)から「そのベッテルハイムは訴えられ裁判になっているよ」という情報を提供してくれた。
 県立芸術大学のA・P・ジェンキンズ教授(歴史学)が「琉球新報」2013年11月20-22日付けで連載した「軍法会議にかけられていたベッテルハイム」の記事である。
ジェンキンズ教授は、ベッテルハイム日記などの翻刻・編集を手掛けている。
南北戦争軍法会議にかけられた軍医50人を検証した米医学博士の共著「Tarnished Scalpels(仮訳題・不祥事にまみれたメス)」(トーマス・P・ラウリー、ジャック・D・ウェルシュ著、2000年)の中に、1864年のベッテルハイムの軍法会議事例が収録されていた(「琉球新報」2013年8月24日)
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         ベッテルハイム
       
 以下は、この8月24日付記事と連載記事から要約して紹介する。
 彼は、三つの容疑で告訴された。
 一つは「職務怠慢」である。
 北軍の第106イリノイ歩兵連隊に軍医(中佐)として所属していた。J・C・リンディという二等兵が病気でベッテルハイムの診察を受けた。リンディの治療せずに放置し、死なせたという職務怠慢の疑いで告発を受けた。だが軍法会議の審理では、臨床検査や検視が行われていないため、職務怠慢を立証できずに無罪になったという。
 「軍規違反」として告訴が2件あった。一つは魚好きだったベッテルハイムが、病院の荷馬車係の二等兵に魚を釣ってくるよう命じた。兵士は断ったがなお命令した件。次は、食費を支払わずに患者用の料理を食べたこと。さらに連隊の上級将校を「酔っぱらい」と非難したことは、上官への尊敬を欠いていた容疑に対し有罪とされた。この結果、ベッテルハイムは連隊から解雇された。
 
 <琉球滞在中、反抗者としてのベッテルハイムは、自らの批判的な性格を抑えることなく、軍の上官たちにも容赦ない意見を公にした。自分が主導権を握っていない限り環境に適応することができず…目的の達成を拒まれると短気な性格が表に出ることがあり、…金銭面においても、あらゆる場面においてお金を一銭も払わない方法について考えていたようである。(要旨)>
ジェンキンズ教授は、ベッテルハイムの性格と行動についてこのようにのべている。
「琉球にいたころと変わらないベッテルハイムの気性が、米国でも問題を起こしていた。自分の意に沿わないことには目上の権威者にも食ってかかる、われわれがよく知るベッテルハイムの姿がある」と指摘した。
ベッテルハイムは相当な頑固者だったようだ。異国の地・琉球で、薩摩と王府から行動の厳しい監視や妨害を受けながら、8年間も使命感を持って布教や病気の治療にあたったことも、頑固者でなければできなかっただろう。
 終わり     2020年3月


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「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム、その14

琉球に貨幣はなかったのか

ついでに、琉球の貨幣について少し触れておきたい。

1816年に琉球を訪れたバジル・ホールは、その後、セントヘレナ島でナポレオンと会見した際、琉球のことを話した。そこで、琉球には武器がないこととともに、琉球の住民は通貨の使用を知らない、物を与えても代償をとらないと報告し、ナポレオンを驚かせたのは有名な逸話である(『琉球その他の東海航海記』)。

歴史家の真境名安興氏は、バジル・ホールがナポレオンとの会見で「兵備と貨幣なきことを切言せしは実に琉球外交の要諦にして」(『沖縄1千年史』)とのべている。この記述は、琉球に武備や貨幣がまったくないということではないだろう。「琉球外交の要諦」とのべているように、王府が対外的には基本方針としていたという意味だろう。

須藤利一氏は訳書『異国船来琉記』の中で、「ホールの貨幣及び武器に関する報告はある程度歴史的事実であって(中略)、当時の王府の役人が、琉球の現状を隠してホール側に伝えたことによる事も事実である」とのべている。

ペリー艦隊の『日本遠征記』でも、「貨幣についていえば彼等は金銀の価値を大層よく知っている。そして彼等は中国銭で取引している」と記載している(文献紹介:幕末の異国船来琉記と当時の琉球の状況-③--琉球大学附属図書館所蔵沖縄関係資料から 豊平朝美)

      
 1827
5月、来琉したイギリスのブロッサム号の司令官、フレデリック・ウイリアム・ビーチーは、通貨について次のようにのべている。

<安仁屋(アンニャ、注・通訳)は、琉球には通貨はないといっていた。ところがこの農民(注・薪を背負っていた男)に会って、事実がハッキリしたのである。かれは緒(注・細ひも)に通した穴あき銭(中国の小銭)を中国人がするように帯にゆわえていたのである。わたしは非常に興味をもって小銭を束ねた緒をしらべて、スペイン銀貨でこれを買いたいと申し込んだ(案内人は許可せず、彼は)…小銭の束を帯の中におし込んで、再び見えないようにしてしまった…この通貨の幾枚かを手に入れたが、この銅銭は、広東で流通しているものと全く同じもので、それはまた琉球においても流通している(『ブロッサム号来琉記』)>。

これまでに見たように、外来者には「通貨はない」と説明し、「京銭」を異国人に見せるな、唐銭(注・中国銭)をしっかりと取り隠せなど、再三にわたり指示していることがわかる。なぜ、それほどまでに「貨幣はない」ということにこだわったのだろう。

実際には、通貨は、薩摩侵攻の後の琉球では「寛永通宝」(「京銭」)が流通し、中国の清朝銭も使われたとされている。ビーチーの証言でも、琉球で中国の通貨が使われていたことがわかる。通貨はあってもどの程度、流通していたのだろうか。貨幣経済はそれほど浸透していなかったという見方もある。

来間泰男氏は「琉球近世において貨幣の流通はほとんどなく、わずかに那覇・首里において商取引があり、そこで流通していたことが確認できる程度である」(「琉球新報」20191219日付)

     IMG_6193.jpg  
                  那覇港

        

「咸豊5年 異国日記」の最後は「1227日付」である。

<異国人が逗留中のため、歌三味線などを厳しく取り締まるよう命ぜられているが、近頃はなおざりになり歌三味線が行われていると聞いており、宜しくないことである仏人たちが久米村の松尾敷に居住することになったので…歌三味線などを仏人たちが聞きつけては大変問題となるため、筑佐事(注・刑事)たちを忍び廻らせ、違反の者を必ず捕え付けるようにせよと命ぜられているので、…なお一層取り締まるようにと表御方から御物城に御用務を命ぜられた。そのため、4町の役人たちと辻・渡地・仲嶋の与頭たちへ厳格に申し渡した。>

  歌三味線をフランス人が聞いたら「大変問題となる」とする。とくに、辻・渡地・仲嶋には厳格に申し渡したという。なぜフランス人が聞けば大問題なのか、よくわからない。

しかも、遊郭として栄えた辻・渡地・仲嶋では歌三味線は欠かせないだろう。こういうお達しを何回も出していること自体、指示が「なおざり」になっていることのあらわれである。

以上みてきたように、「異国日記」の中のベッテルハイムについての記述は、興味深い史料であることは間違いない。
 江戸時代、1614年幕府はキリスト教禁令、宣教師追放令が布告された。日本に潜入しようとして宣教師らが処刑されたこともある。禁教令が緩和されたのは、開国が始まる幕末である。薩摩、琉球でもキリスト教は禁じられていた。

ベッテルハイムが、ときに迫害までされながらも、8年間長く滞在していたことは、半端ない使命感を持っていたことが伺える。琉球史の中にその名を刻んだ。

 「ベッテルハイムの琉球の人々への最大の貢献は、1848年牛痘痘苗(ワクチン)を紹介したことであろう。日本より1年早かった。」(照屋義彦著『英宣教医 ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』

「彼は、あらゆる困難とたたかい、布教活動のかたわら、琉球語を研究し、琉訳聖書を完成した。それは、ベッテルハイムの一つの業績であった」(『沖縄県史料前近代4 ベッテルハイム関係記録』解題から)


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感動呼んだ還暦ピアノリサイタル

 2月28日は妻の還暦。記念に開いた「還暦ピアノリサイタル」は、新型肺炎騒ぎの中でもたくさんの方が来てくれ、とても盛り上がった。
 幕開けの「かぎやで風節」は、ライブ仲間である「糸満カラーズ」の皆さんが赤Tシャツ姿で踊ってくれた。
私は三線で地謡をつとめた。華やかな幕開けとなった。
     還暦、かぎやで風1
 開会と乾杯の挨拶で、病気に悩まされながらピアノと出会い、ピアノが生き甲斐となり歩んできた姿を紹介して、支えてくれた皆さんに感謝を述べた。
             挨拶
 一部は、ショパンの「ロマンス」からピアノ弾き語り「愛の讃歌」まで演奏した。
         還暦リサイタル、比嘉2 (3) 
 バースデイセレモニーでは、ケーキに続いてたくさんのお花やプレゼントが贈られ、感激した。
 ライブ仲間である「糸満カラーズ」の皆さんが余興として、民謡の「安里屋ユンタ」、GSバンド「SSカンパニー」のCDにのせて「芭蕉布」「想い出の渚」を踊ると、場内からも指笛が飛び交い大盛り上がりとなった。
           還暦、birthdayceremony (2) 安里屋ユンタ1 (2)
 二部では、シューマンの「トロイメライ」をはじめ5曲を演奏した。中でもベートーベンのピアノソナタ「悲愴」第一楽章は、圧巻だった。「スゴイ!」「感激した」との声が相次いだ。
       
 まるでベートーベンの魂が乗移ったかのようだった。この曲が演奏者に力を与えるのだろうか。
 アンコールの声に応えて「命の理由」を弾き語りで歌った。
              
 最後は恒例のカチャーシー。予定していた奏者が、あまりに進行が早くて間に合わなくなった。急きょ、YouTubeの「唐船どーい」の動画を音源として流し、舞い踊った。
           カチャーシー1 


 県外からも7名が来てくれ、県内は今帰仁、金武、読谷など遠くからも来てくれ、感謝にたえない。
 私の八重山民謡サークルの先生と部長も来てくれた。「とっても感動しました」と喜んでくれた。
 県外の方も、高い旅費をかけて来てくれたが、「来た甲斐があった」「感激した」といってくれ、嬉しかった。
 みなさん、異口同音に「こんな還暦リサイタルは見たことがない」「とっても楽しかった」「素晴らしい」と楽しんでくれた。
 なんと、F&Yのふーみさんがお祝いに駆けつけてくれた。
          ふーみと共に
 人生に一度しかない還暦。みなさんに祝っていただき、感謝あるのみである。
  


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