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レキオ島唄アッチャー

「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム、その13

連絡ミスは処罰
<逗留英人や亜人たちが外出し、来航した官兵たちが上陸し歩行する際の御仮屋方への御尾行(緊急連絡)は、最寄りの関番人の手配によって御仮屋方へ知らせ、門を閉じさせる(ことになっている)。また、親見世へ連絡があり次第、親見世に詰めている守護人たちは駆けつけて御仮屋方を警護し、那覇筆者や問役たちも諸事に対処する仕向き(規定)になっている。>

ところが護国寺に止宿している夷人(注・外国人を軽視していう)たちが御在番所に入り込む事件が起きた。手違いで連絡しなかった、門が開いていたため、屋敷内に入った。勤め向きが不埒になっている。10日間の寺入り(の刑)に準じて科松料(注・松苗を供出させる罰則の一種)の罰金10貫文ずつ(の刑)に処した。

4月29日 糸冽親雲上 川平親雲上(以上は要旨である。)

 外国人が上陸した際、在番奉行所に連絡ミスで門が開いていたため、屋敷内に入られた。このため罰金に処せられたという。罰金が10日かの寺入りに準じた科松料という。そんな罰則があったのかと興味深い

 
 アメリカの水兵殺害事件起きる
 ペリーが来琉した際、思わぬ事故が起きた。

<一昨17日、亜人の水主一人が中三重城の矼下で溺死した一件について、(亜人より)いろいろ難渋となる申し出がある。右の一件を取り沙汰(噂)しては大いに支障となるので、その一件については一切取り沙汰(噂)しないように那覇全体へ厳しく取り締まりを申し渡すこと。この旨は(上からの)御指図である。

5月19日  喜屋武親雲上  里主 御物城>


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泊外人墓地にあるペリー提督上陸之地の碑
 これは、アメリカ水平殺害事件のこと。3人の水兵が那覇に上陸し、近くの人家から泡盛を奪って飲んだ。そのうちウィリアム・ボードという水兵が、酔っ払って人家に押し入り、機織りをしていた老婦人に乱暴を働いた。騒ぎを聞きつけた住民に石をもって海岸まで追われ、海に落ちて溺死した。

 事件を知ったペリーは怒り、琉球に真相究明と犯人の処罰を求め、アメリカ側立ち合いのもとで裁判を開かせた。その結果、主犯の渡慶次(とけじ)カマは八重山へ一世流刑、従犯の6人も宮古へ8年の流刑となった。しかし、琉球側は刑を執行しなかったようである(この項、新城俊昭著『琉球沖縄史』からの紹介)。

 

 事件のあと、次のような対応が指示されている。

<平素、女性たちは外出の途中で(出逢った場合)はもちろん、屋敷内であっても十分気を付けて、夷人たちと急に出逢っても必ず避けるようせいぜい心得るよう努めること。とりわけ士身分の女性は特にそれをわきまえ、何らかの祈願やそのほか親族の見舞いなど、総じて外出や徘徊などはできるだけ遠慮するようせよ、と特に申し渡すこと。…5月19日>

 アメリカ水兵による老婦人乱暴が起きたために、注意を喚起したものだろう。これは、決して過去の問題ではない。現在でも、駐留米兵が酒を飲んで、民家に侵入する事件がよくある。さらに、米兵や米軍関係者による女性殺害事件が起きているからだ。

 

 <異国人たちが去る17日、那覇において人家へ押し入り、酒を奪い取って飲酒し、いろいろと酔狂狼藉の挙動で、大変な騒動に及んだとのことである。以前から焼酎の管理については入念にするようにと、いろいろ取り締まりを命じておいたが、右のように奪い取られ、非常に宜しくない。…今後は各店やその他、夷人たちの目に掛かる場所での焼酎の商売は一切禁止する。…もちろんご当地の者は飲酒については特に慎むようにし、路中において酔気などでの往来は決して行なわないように那覇中へ堅く申し渡し、万一守らない者は放置せず、即座に詰めている平等方の役人へ通告すべきこと。

付けたり、村々の惣横目へも指示するようにせよ。 寅5月25日>

これもウィリアム・ボード事件をうけての対策だろう。泡盛の管理を徹底すること外国人の目に着く所での販売禁止、さらには当地の者は飲酒も慎めという厳しい指示である。

 

<異国人から(商品の)直き買い(直接購入)の要請が出されている。ご当地では蕃銭(注・スペイン銀貨のこと)も唐銭(中国銭)も通用しないとの理由で断っているが了承せず、毎度、市や店、路中でも唐銭で諸物を押し買いする行為が見られる。…当面は唐銭をしっかりと取り隠し、実際に通用していないように見せなくてはならない。…

5月25日 兼城親雲上  里主 御物城>

 ペリーからも、「乗組員に必需品を自由に売ること」の要請が出ていた。来航した側としては、当然の要求だろう。蕃銭も唐銭も通用しないとの理由で断っていたというが、京銭ならよいのだろうか、よくわからない。

 

 ペリーとともにアメリカへ

 咸豊5年(1855) 異国日記

 咸豊5年に入る。

<御当地(琉球)には去る辰年(1844年)以来、異国船が頻繁に来航し、仏英両国の者たちを残置した。申年(1848年)には仏人は引き払ったが、英人は代わりの者が逗留している。ことさらに去々年(1853年)からは亜米利翰国の船団が頻繁に来航し、猛威を振るってしばしば(首里城へ)入城し、相対向きの箇条書き(条約)などを押し付けて取り替わした。それ以後、たびたび来航するようになっている。かつ、今年の正月には仏国船が来航し、なおまた仏人が現在も逗留し、あれこれと国中を騒動させているだけでなく、出費もかさみ、御蔵方(財政方)も難渋し、百姓たちは非常に難儀している。…>

ペリーが来琉した時、ベッテルハイムはすぐにペリーと会い、琉球の言語と文化についての知識から協力した。

185354の間、ベッテルハイムは琉球と米国の仲介役として立ち働いた。米国艦隊に日曜礼拝を執り行った。米国人らへの貢献は医療の分野にも及んだ(『英宣教医ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』照屋義彦著)>。

 

ペリーは1854711日に琉球王府と琉米修交条約を那覇公館(天使館)で結び、所期の目的を達して、香港を経由して米国に帰還した。その際に琉球王府からペリー提督へ要請のあった英国宣教師ベッテルハイムを連れかえり、同師を香港で降ろしている。(文献紹介:幕末の異国船来琉記と当時の琉球の状況-③--琉球大学附属図書館所蔵沖縄関係資料から 豊平朝美)

1854717日、ペリー艦隊は、ついに琉球を去った。バウアタン号の人となったベッテルハイムは、万感胸に迫る思いを抱いて、8年を優に越す歳月、神の福音の宣教に奮闘して来たこの琉球の島影をじいっと振り返り見入っていた(『英宣教医ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』照屋義彦著)>。

 

このあと「異国日記」からはベッテルハイムについての記述はなくなった。

ベッテルハイムは、滞在の末期、キリスト教信者を次第に増やして行く。5名の信徒に洗礼を授け、50名もの礼拝会衆を得たと記録している。

 

御当地(琉球)には去る辰年(1844年)以来、異国船が頻繁に来航し、仏英両国の者たちを残置した。申年(1848年)には仏人は引き払ったが、英人は代わりの者が逗留している。ことさらに去々年(1853年)からは亜米利翰国の船団が頻繁に来航し、猛威を振るってしばしば(首里城へ)入城し、相対向きの箇条書き(条約)などを押し付けて取り替わした。それ以後、たびたび来航するようになっている。かつ、今年の正月には仏国船が来航し、なおまた仏人が現在も逗留し、あれこれと国中を騒動させているだけでなく、出費もかさみ、御蔵方(財政方)も難渋し、百姓たちは非常に難儀している。…

西洋の船々が来航の際は以前のように(夷人たちを)入城させないことは言うまでもなく、何事もなく平穏無事に逗留している夷人たちを引き払わせ、全く御太平に帰すように御祈願せよとの旨の御意を承った。(そのため)来月6日と8日には御宗廟所やその他の御祈願所へ(国王が)直参し、あるいは代参で御祈願することは誠に厚き思し召しであり、誠にもって大変ありがたい次第である。…

 付けたり、本文御祈願の両日は殺生禁断とし、漁猟・酒宴・遊興・歌三味線、その他乱れがましい行為は一切差し止め、謹慎するように命ぜられた。

 520日 兼城親雲上

 里主 御物城> 

         

ペリーの首里城訪問 
ここでは、ペリー艦隊が来琉した際、「(首里城へ)入城し、相対向きの箇条書き(条約)などを押し付け(た)」とのべている。

 <来琉したペリーはまず最初に首里城訪問を強く要求しました。王家の住む城へ軍隊を入れることで今後の交渉を有利に行うためです。王府は偽の行政機関を設け、上層部の役人や王族が直接接触することを避けましたが、強行的なペリーの押しに負け城門を開けてしまいます。しかし通したのは北殿であり、偽の役人たちが対応しました。これまで来琉した異国人に許さなかった首里城訪問を結果的に阻止できませんでしたが、首里城で最も重要な場所である正殿、そして琉球国王や中枢部を役人たちは守り抜いたのです。当時の人々が首里城を行政機関としてだけではなく、崇高な念を抱く対象として首里城を捉えていたことが伺えます。(仲嶺絵里奈)、首里城公園HPから>

王府が偽の行政機関を設けて、王族らが直接接触することを避けたこと。首里城は開門したけれど正殿ではなく北殿に通し、偽の役人が応対したという。偽の役所や役人を使うなどなかなか思いつかない。首里王府の対応は、とてもしたたかである。これも、中国、韓国、日本、東南アジアに出かけて交易を繰り広げ、様々な諸国と付き合ってきたなかで育まれた知恵なのだろうか。

今回の指示の眼目は、あくまで外国人は首里城には入れないこと。外国人が琉球を離れて、琉球が太平であるように祈願する。しかも国王まで祈願所に直参するとしている。「御祈願の両日は殺生禁断」「漁猟・酒宴・遊興・歌三味線、その他乱れがましい行為は一切差し止め、謹慎するように」と求めている。

 

贈り物は拒否を
 <去る辰年(
1844年)以来、西洋船が来航するたびに(彼らは)品物を贈ったり、または途中(で行き合う)者に投げ与えたりしている。このことは専ら当地の者の人心を引き寄せ、和好を求めるための奸計であり、並大抵ではない底意があると思われる。ついては、そのような贈り物を堅く断ることはもちろん、すべて彼らの諸道具や船の作り様、その他精巧な品を珍しがって見物してはならない。…

829日  国吉親雲上 兼城親雲上 宜野湾親雲上  里主 御物城>

 西洋船が来航すると品物を贈るのは「和好を求める奸計」「底意がある」として贈り物は拒否し、珍しい物があるからと見物するなと指示している。これまで見たことのない西洋の物をもらったり、道具や精巧な品などを見たいと思うのは人情である。こういう指示があってもなかなか徹底しなかったのかもしれない。


<仏蘭西人たちが食用品を官所に申し出て購入することや、または人民から直接購入することも出来るようにしたい、と以前に来航した仏国の提督が箇条書きで要求してきた。そのことを拒絶することは難しく、調印して手交した(咸豊51015日に調印した琉仏修好条約のこと)。そのため逗留中の仏人たちから要請もあり、蕃銭(注・スペイン通貨)を京銭(注・日本銭)に換金することを許可しており、一応直接の売買も許容している。…そのため、市場においては仏人たちが望む品物は妥当な相場で代銭との引き替えで売買するように…

一、御当地は元来京銭(の流通)が少なく、日用雑貨によって(物品を)交換していると夷人たちにたびたび伝えているため、京銭が手広く流通しているのを彼の者たちが目にしては御故障となるので、以前から指示している通り、市場ではもちろん道中でも隠密に取り扱い、いかにも不自由な様に見えるように心掛けること。もし違反する者がいれば銭を没収した上で必ず処罰を申し付けるので、少しも疎かにしないよう心得ること。

 右(の2ヶ条)は、異国1件(の問題)が打ち続き浸透するようになり、すでに直き買いなども見られ、将来どのような御難題が発生するかも予想し難く、非常に心配なので、国土の安危に関わる事情を人々は深く肝に銘じること。…

118日  國吉親雲上 兼城親雲上 宜野湾親雲上>

 
 フランス人が食用品購入の要求を拒否することは難しいので、妥当な相場で売買すること。ただし、売買は物品の交換をしていると伝えているので、京銭が流通していることは隠密にするよう指示している。なぜこれほどまでに、京銭の流通を隠さなければいけないのかよくわからない。


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「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム、その12

 ペリー艦隊の琉球来航

 咸豊4年 「異国日記」

1853526日、ペリーは琉球王国に到着した。7月には浦賀に到着し、日本開国を強く要求した。「日本との交渉が失敗した場合は琉球を占領する計画であった」、那覇に戻ったペリーは、琉球に対し①貯炭地を設けさせること②乗組員に尾行をつけさせないこと③乗組員に必需品を自由に売ること、などを認めさせた。

1854年1月には、再び江戸に向かった。日本の開国に成功したペリーは、711日、琉球とも、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給ほかを規定した琉米修好条約を結んだ。その後艦隊は香港に向かった(参考文献、新城俊昭著『琉球沖縄史』)。

 

<正月11日   

一、 九つ時分(正午頃)に亜船(注・アメリカ船。ペリー艦隊1隻のこと)が出航したことについて、川上式部様と御在番所(在番奉行)へは那覇筆者から、定式・産物方・異国方御役々衆へは問役から知らせ、足軽たちへは問役が作事に指示して連絡させた。>

 ペリー艦隊が那覇に入港すると、「宣教師ベッテルハイムは、英国国旗をうちふって歓迎の意を表し、まっさきに旗艦をたずねたという。ペリーも、ベッテルハイムから多くの情報を得たといわれている」(新城俊昭著『琉球沖縄史』)。

<本文は4町学校所の役々へ通達した。 
         ペリー守礼門を訪れた  
      ペリーに随行した絵師が描いた守礼門
     

 最近、逗留している伯徳令(注・ベッテルハイムのこと)と冒耳敦(注・GH・モートン。ベテルハイムの後任として来琉した宣教師)が時々外出した際に、伯徳令が途中で出会った者へ一礼するよう言ったところ、応答する者もいるとのことである。右のように伯徳令に一礼すると、冒耳敦は最近来琉したばかりで状況に不案内であり、この地の人は伯徳令の申し付けを良く了承していると思われてしまい、支障が生じかねない。今後は彼らと出くわして一礼するように言われてもすぐに通り過ぎるよう那覇中へ厳重に取り締まりを申し渡せとの御指図である。

2月 >

 ここでは、ベッテルハイムの後任GH・モートンが来琉していたことがわかる。ベッテルハイムが一礼すると出会った人も応答するのは、礼儀として当然のことのように思う。でも後任のモートンに誤解されると困るから、一礼せずに「すぐ通り過ぎる」ようにという指示である。しかし、異国人から一礼されても知らん顔をして通り過ぎれば、かえって琉球人は礼を失する人たちなのかと誤解されるのではないか。

 

 ロシア船の来琉

 18542月に、ロシア艦隊が来琉した。

<(35日 来航していた (ロシア)が夕暮時に出航した
 その他、異国船が来航した 38日)>

 ロシアのプチャーチン提督率いるロシア艦隊は、1853年に長崎に来航した。その後、185421日、琉球にも来航した。

ロシア艦隊のパルラダ号でプチャーチン提督の秘書官として航海してきたロシアの文豪・ゴンチャロフは、琉球では、提督が那覇港に停泊したフレガート艦で那覇役人(那覇里主)と会見した様子を伝えている。提督は、日本の幕府からもらった刀剣を見せながら、<『お国(琉球)には刀がありますか』と那覇役人にたづねた。『ありませぬ』『ではどんな武器を持って居られます』『これですよ』と云って彼は扇を見せた(『日本渡航記』)>。

ここでも、やはり対外的には琉球には武器がないという説明をしている。


 ゴンチャロフは、ベッテルハイムが訪ねて来た時の会話を記している。

「彼は琉球に8年住んでいたが、この5月にイギリスへ出帆して、聖書を琉球語と日本語で出版する。妻子はもう中国へやっているし、自分もぺルリと一緒に中国へ行くことになっていた」。

ベッテルハイムは、琉球の人々に余り好印象をもてなかったようだ。ロシア人たちを迎えて送った住民について、かれらは「警察のスパイ」「酒呑み」「賭博をやる」とゴンチャロフに告げている。彼の行動を絶えずチャックしていたのは事実である。「異国日記」を見るように、ベッテルハイムには、近づいたり、接触することを禁じ、家の門は閉じ、来ても追い返すことを徹底して指示しているので、好印象をもてなかったのもやむを得ないのかも知れない。琉球の側でも、ロシア人が住民に宣教師の住居を訊ねると、住民は悪感情を露骨に見せベッテルハイムを「悪い人です、大変悪い人です」と言ったという。

<『彼らは優しいとは云えません』と宣教師は云った。『当地にはカトリックの宣教師達が住んでいたが、住民は宣教師を迫害していました。つい先達も、住民達は…カトリックでない方の或る宣教師を殴ったのです』『それは誰です』『私です』>。

ベッテルハイムは迫害され、殴られたと言っている。


 <しかしベッテルハイムは、自分でいつも琉球人達の住宅で説教し、向こうでも聴いてくれるように云っているが、彼に対する琉球人の行動から見て、怪しいものだ。しかし当人は数名の人間を洗脳したとまで云っている。『日本人が邪魔しないなら』と彼は結んだ。『私はもっと成績を上げることが出来たでしょう…現在日本人は当地に600人もいます』。>

ベッテルハイムが、布教のため住宅を訪ねては説教していたという。「日本人が邪魔」していたというのは、「異国日記」で明らかなように、薩摩の在番奉行が琉球側の役人と絶えず連絡を取り、ベッテルハイムに対する監視し、布教をさせないための対策を取っていたからだろう。

ベッテルハイムは説教を聴いてくれるというが、住民の行動からみて「怪しいものだ」とゴンチャロフは信じていない。最期には、ベッテルハイムに対して「あまり功を急いで、全事業を台なしにしないがよい」と忠告までのべている。

ゴンチャロフ著の『日本航海記』(岩波文庫版)は、戦前の発行で、古い仮名遣いで差別的な表現もあるので、訳文を改めた。


 ペリーの来琉の際、ペリーの私設秘書として随行したベイヤード・テイラーは、琉球滞在中、ベッテルハイム邸を訪れたときの印象を次のように記述している。

<いかにキリスト教伝道への熱意があろうとも、その努力が空しかったときには、その意気はしぼんでしまう。7年間にわたる努力ののち、このベッテルハイム博士がこの土地の人々に与えたと思われる印象は、“早くこの人をわれわれの間から追い払ってしまえ。”という、気になるような極めて熱心な要求に表現されているように思われる(『テイラー大琉球島踏査記』)>。

ベッテルハイムが熱心な布教活動をしたけれど、薩摩と琉球の役人による監視と警戒、住民への接触を排除する活動のもとで、当時の琉球の人々には受け入れられなかったようだ。



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「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム、その11

 武具は目立たぬように

<近年、英人が頻繁に首里へ上って方々へ出向き、人家などへも押し入るので、門の戸締まりや諸座・諸御蔵、または人家のどこであっても京銭・諸帳面・書物・弓・鉄砲・大和人の名前、その他、彼の者(英人)の目に触れて支障となるものは、以前から気を付け取り隠し方などよくよく入念にすべきことを命じておいた。…去年11月に布達した箇条内に弓や鉄砲、その他の武具類を持ち歩く際は目立たないように心得よとの旨があるけれども、首里では(その心得が)見えず、弓や鉄砲を日中、道中において持ち歩かないよう布達しておいたので、那覇中でもそのように堅く取り締まるよう指示せよ。

 1121日 >


 この項は、京銭・諸帳面・書物に加えて、弓や鉄砲も英人の目に触れないように隠せと指示している。

 咸豊元年10月の「口達」では、「首里や那覇近辺で射撃をする際はもちろん、道路において鉄砲やその他の武具の類を持ち歩く際も(武具類が)目立たないよう心得ること」と指示していた。
 このブログでも、琉球王国は尚真王以来、「武器を持たない社会」だったと書いた(「『武器を持たない国』琉球王国の実像」)。対外的な防備として多少の武器はあったことは確かである。でも、「サムレー」と呼ばれた士族たちも刀を腰に差すことはない。日常的には武器を持ち歩くことのない社会だった。

「異国日記」のこの項によれば、武具類を持ち歩くことや、時には首里や那覇近辺で射撃をすることもあったというから驚いた。戦時でもない平時になぜ武器を持ち歩くのか、不可解である。もしかした、あとで見るけれど、中国に渡る船の海賊対策だったのかもしれない

 

  18275月に琉球に来たイギリスの海洋調査船「ブロッサム号」(艦長・キャプテン・ビーチー)は、1816年に琉球を訪れたバジル・ホールが、「琉球には武器も通貨もない」と書いたことの調査が目的の一つだった。

ビーチーは、弓矢を持つ官人の絵を見て案内人に訊ねると、「かれは腕をさし出して、弓を引く型をし、また、大刀を指して腕をふるって切るまねをした。しかし、かれはこの武器は官人だけが所有しているものだと語った」。だが、自分自身は「わたしたちはこの島において、使用されるような武器というものを一つも見なかった」((『ブロッサム号来琉記―近世沖縄をつづったもう一つの航海記―』)とのべている。

また、次の証言をのせている。

<里主親雲上(チン・ウン・チュウ)と、その他の23の人びとは、大砲も小銃もこの島にあると断言した。また、安仁屋(アンニヤ)も大砲が26門あったが、それらは琉球国のジャンクに配置されたとハッキリ述べていた(同書)>。


  「ジャンクに配置された」とは、琉球から朝貢や交易のため中国に渡る唐船のことだろう。

<島津氏の支配の下に置かれて以来、琉球人はいよいよ武器を使用する事が出来なくなったが、支那(中国)貿易が頻繁になるにつれて、海賊などの備える必要上、多少の銃砲を用意し、支那へ進貢船を差立てるに際しては、島津氏の方から大小砲を貸附けする事さえあった。そして、進貢船の出帆数日前には、一生懸命に砲術を練習したといわれる。伊波普猷著「古琉球の武備を考察して『からて』の発達に及ぶ」。『をなり神の島』から>

1805年には、琉球から冊封使を送っていく途中に、数隻の海賊に襲われ、撃退したこともあったという。


 1609
年琉球への薩摩侵攻の後、武器統制令が出された。1613年には「武器改めを行う。とくに鉄砲の改めは厳しく行い禁止せよ」と鉄砲を禁止している。だから琉球は薩摩から借りたのである。薩摩にとって、琉球を窓口とする中国との交易は、とっても重要なことなので、海賊対策は不可欠であったのだろう。

         唐船の図  
                     琉球から中国に渡った唐船の図


  この後、出てくる
ペリー提督の『日本遠征記』の中にも、武器についての記述がある。

 「琉球人は攻撃用武器に就いて無知を装うている。そして彼等はこのような物を公然と示すことはない(中略)。ベッテルハイム博士は、彼等の所有している火器を見たことがあるといっている。但し、彼等はその火器を外来者に努めて隠そうとしているとのことである。彼等は天性、平和的人民であることは疑いない」と記している。

琉球に多少の武器があり、唐船には大砲や鉄砲も積んでいたとはいっても、日本の戦国時代から徳川時代に武士が刀を腰に差し、剣術を訓練していたのと違って、琉球では、士族は腰に刀を差していない、床の間に飾るのは三線だったといわれる。調査のために訪れた「ブロッサム号」のビーチーが「武器を見なかった」のべているように、武器をみかけることがほとんどない社会であったことには変わりはない。それが、封建時代の日本社会とは違うし、琉球に来た異国人たちを驚かせた。琉球人は「平和的人民」であることを印象づけたのだろう。

 

 なんとかベッテルハイムを退去させたいという首里王府は、英国船が来ると、連れ帰ることを求めていた。

<去年12月に英国人の火輪船が来航し、彼の国の軍機大臣からの文書が届いた。逗留の英人について連れて帰れることはできないとの旨が見え、さらに彼の国の新任の宰相から耶蘇教を学ぶようにとの文章が、今夏の帰唐船便で届くとのことが、逗留の英人から(文書で)提出があった。(連れて帰るようにお願いするため清国へ特別の使者を派遣しているので、「そのことが成就するよう来たる15日に各所での御祈願を命じた)

129日 宜野湾親雲上 里主 御物城>

 イギリスの軍機大臣からベッテルハイムを連れ帰ることはできないとの文書が届いた。しかし、あくまで連れ帰るように願う祈願を各所で行うことを命じている。


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「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム、その10

三重城での見送りもやめろ

 本題に戻る。ベッテルハイム対策のための、住民への規制は、さまざまな分野に及んでいた。

<この間(薩摩への)登り楷船や運送船などの出航の際に、バクチャー屋(博打屋?)

や上之森近辺に女性たちが集り、登り船に向かて団扇や手拭などで招くような様子を英人夫婦が護国寺から見物し、…物笑いしていたとのことである。…万一女たちが大和人と交際しているのが傾城だと彼の者(英人)に気づかれては大いに問題となる。…女たちが右の近辺はもちろんのこと、およそ川近くや三重城辺りなどへ出向くことは…差し止めるようなお一層厳しく申し渡せ。…

73日 川平親雲上  里主 御物城>

 かつて、那覇港から大和方面などに船が出航する際、港の入口にあたる三重城(みーぐすく)に行って、手拭いなど振って親しい人を見送るのが慣例だった。琉球古典音楽の「花風」は、そんな情景を歌っていてとても人気がある。その中に琉球に赴任していた薩摩の役人が帰る際、親しかった辻の傾城(遊女)が見送ることがあっただろう。大和人と交際していたのが遊女だと英人に気づかれると問題だという。だが、知られたからと言ってなんの問題が起きるのか。具体的な関連もないのに、ベッテルハイムが興味を持つようなことは止めさせる、ということしか眼中にないのだろう。

 

  伝統ある綱曳きも禁止

那覇の伝統行事であった綱曳きも禁止の対象にされた。

<英人が逗留して以来、那覇での綱曳きを全て禁止してきた。最近村々の二才たちが綱曳きを企てたが、役々や年長者が制止したり、またはこの方(親見世)が指示して差し止めたこともあった。現況において右のような騒々しく華美なことを行い英人の見物するところとなっては大いに支障となり、どのような御難題が生じるかも分からず、大変懸念しており、右のような取り締まりを命じている。…今後、綱曳きを企てることはもちろん、他村(での綱曳き)への加勢であってもしないよう、厳しく取り締まるよう布達せよ。

715日 仲本親雲上、兼城親雲上 4町学校所主取 4町異国方係り>

         那覇大綱挽保存会HP (4)
          那覇大綱挽保存会HPから

 ベッテルハイムが逗留して以来、綱曳きを全面禁止していたという。那覇大綱曳きとはどのような伝統があるのか。

那覇大綱挽は、琉球王国時代の那覇四町綱の伝統を引き継ぐ、長い歴史を有する沖縄最大の伝統文化催事です。その発祥は、西暦1450年頃だとされています。地方の農村行事としての綱引きが、稲作のための雨乞い・五穀豊穣・御願綱を起源とするのに対し、町方(都市)の綱として、交易都市那覇を象徴する大綱挽です。…古文書に「綱挽の儀は、国家平穏、海上安全の祈祷として挽き来たれ」とある…1812年(嘉慶17年・文化9年)那覇里主、御物城の命により『那覇綱挽規模帳』(規則集)が制定され、以後この規定により綱挽が実施されるに至りました。明治以降は、お祝い綱として幾度も開催されましたが、1935年(昭和10年)を最後に途絶えていました。…沖縄の祖国復帰の前年1971年、時の平良良松那覇市長により市制50周年記念事業として「1010那覇空襲」の日に復活しました。以来年々盛況となって、1995年ギネスブックによって「世界一のわら綱」と認定されるに至って、那覇大綱挽は、いまや世界一の綱挽として、那覇市民・県民の誇りとなり、沖縄の観光振興に大きく貢献する沖縄最大の伝統行事として定着しています(一般社団法人 那覇大綱挽保存会HPから)>。

 那覇の綱曳きは、五穀豊穣や国家平穏、海上安全を祈願する大事な行事であり、住民とっては楽しみである。それをなぜ禁止するのか。「騒々しく華美なことを行い英人の見物」すれば「どのような御難題が生じる」かも分からないと言う。綱曳きを見物したり、他村の綱曳きへの加勢によって、どんな「御難題が生じる」のか、まったく分からない。

 那覇大綱曳きといえば、現在では沖縄在住のアメリカ人など多数が参加し、国際色豊かな行事となっている。隔世の感がある。

 



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「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その9

診療、薬剤も無料

ここで、少し横道に入るが、ベッテルハイムの医療活動について見ておきたい。

彼は医師であり、来琉するときから、病院を建て、福音を宣教し、聖書を琉球語に翻訳することを考えていたそうだ。

184676日、「英国人無料診療所」なる看板を出した。…正式の診療案内が、漢文で王府に退出された。

<本医者は琉球の人々に幸福をもたらし、救済するためにはるばるやって来た。また、薬の売買はせず、利得も名声も求めません。本医者はそれゆえ琉球へ多くの医薬品、医療器具を携え持って参りました。不運にして病気に見舞われた方にはどうぞ当診療所を訪ねさせて下さい。内科、外科、足の痛み、頭、耳、目、鼻など種々雑多な病、すべて当医院にて診療致します。なお、当医院では診療、薬剤などすべて無料で御座います(『英宣教医ベッテルハイム』)

<診療所周辺への、人々の接近が監視され、それは日毎に厳しくなって行った。こういう状況で地元に人が診療所へ入るのは不可能なことである。彼の日記には、若干名の診察をしたという書き込みが見える。驚いたことにその若干名とは、何と役人たち、すなわち通事や筑佐事たちだった。つまりこの人たちは、ベッテルハイムを身近に見ていて西洋医者の、漢方医に優ることを見抜いていたのである(同書)。>


 人々の診療奉仕の王府への願い出では却下された。だが彼は診療奉仕を続けた。ベッテルハイムの評判はじわじわ広がって行った。
1月の間に毎週数名は患者が訪れたとがあるという。(同書。18461021日の日記から)

地元医者たちもベッテルハイムの西洋医学に注目し始める。ある晩、地元で開業する医者連中が面会を求めて来た。「目の前の医者たちに、瀉血、麻痺症、脳卒中、急性炎症性皮膚病など、西洋医学の最新情報を授けた。その夜を境に地元の医者らの、折に触れてのベッテルハイム詣でが始まるのである(『英宣教医ベッテルハイム)」

来琉1年間の診療記録をまとめて、次のようにのべている。

「琉球で1年間に50人を上回る人々を診察した。皮膚病が殆どだった。…白内障、角膜白班、目の葡萄膜腫などが目立った。」(同書。ベッテルハイムの手紙)

<当時、ベッテルハイムは琉球において天然痘による死亡者をたくさん見てきた。かれはそれまで西欧において流行病学を専門に学んだことがあったのである。1847817日、天然痘に関する新しい治療法を示し、その医学知識を伝授しようと申し出た。しかし首里王府は、相も変わらず、ベッテルハイムのその申し出にも難色を示し、しかも驚いたことにこう述べている。「当面、わが琉球において死する者ありても、それはわが国の医療不足と関係のない死去、天命也…」と。…

     牧志朝忠
 然るに奇妙なことに、そのころベッテルハイム診療所へ、王府の通事主任の板良敷(いちらじち、注・後の牧志朝忠)が何度も訪れて来た。そこで通事天然痘に関し、何気ない風をして、あれこれと問うのであった。このふたつの、一方でベッテルハイム及び西洋医学を遠ざけ、一方でベッテルハイムに接近し、流行病に関する情報を得ようとする。…

板良敷は医者ではなかった。だから天然痘治療に関する情報を得ようとしたのは、彼自身の個人利用のためではなく、おそらく王府内の医療担当役人の差し金であったに違いないと思われた(『英宣教医ベッテルハイム)。>

ベッテルハイムに眼科治療を禁じておきながら、王府内のかなりの高官らが、西洋医ベッテルハイムから洗眼薬を受けていた。医師はこう記している。「首都に住むちゃんとした人物数名が診療所に来て、痒み止め軟膏と目薬を所望した。治療の見込みあり…(同書。ベッテルハイムの手紙))

 

<琉球の人々の間でベッテルハイムの診療所は根強い人気があった。平民はおろか士族、役人でさえ診療及び処置を人目を忍んで受けていた。夜の闇に紛れ、雑木の茂みに隠れ、彼の通るのを待ち受けた。

番小屋に詰める番役人らは診療所の一番の顧客だった。番役人の殆どは、士族の最下級の出身か平民の出か、貧しかった。王府が禁止してもこういう人々に歓迎されていた。

上流階級の人々さえ、例えば通事主任の板良敷は、185178日、護国寺までやって来て、後頭部に腫れ物がある、診てくれと言った。以前に板良敷は、漢方医にもぐさで治療してもらったが、頭中にひどい痛みが続くので、西洋医者に診てもらうことにした。ベッテルハイムの治療の2日あと、痛みは退いた(『英宣教医ベッテルハイム』)。>

 

天然痘を治療

ベッテルハイムの琉球の人々への最大の貢献は、1848年牛痘痘苗(ワクチン)を紹介したことであろう。日本より1年早かった。ベッテルハイムの始めた種痘は、仲地紀仁という琉球人医者の援助がなければ成功しなかったであろう。二人は人目を忍び、夜の海辺で医学知識を交し合った。1848年、琉球で天然痘が流行った。首里王府と仲地紀仁に新種痘法を何度も勧めた。1851年、王府は庶民への新種痘法実施に踏み切る。

ベッテルハイムは内科医として腸チフスの流行にも立ち向かった。夫妻毎日67時間も病人の自宅を訪れて診療していた。心打たれた王府はついに駕籠1基とそのかご屋を医療奉仕に使うように提供して来た。

首里王府は、天然痘と腸チフスの流行が下火になったと見るや、またぞろ見張りを強化した。1852414日、那覇において眼病患者の治療をした。要日ベッテルハイムが、その患者の家に行ってみるともうその患者は家にいなかった。役人らが無理矢理移転させた。同様のことが1年後にも起っている。(『英宣教医ベッテルハイム』)>

 

ベッテルハイムの琉球の人々への最大の貢献は、1848年牛痘痘苗(ワクチン)を紹介したことであろう。日本より1年早かった。ベッテルハイムの始めた種痘は、仲地紀仁という琉球人医者の援助がなければ成功しなかったであろう。二人は人目を忍び、夜の海辺で医学知識を交し合った。1848年、琉球で天然痘が流行った。首里王府と仲地紀仁に新種痘法を何度も勧めた。1851年、王府は庶民への新種痘法実施に踏み切る。

ベッテルハイムは内科医として腸チフスの流行にも立ち向かった。夫妻毎日67時間も病人の自宅を訪れて診療していた。心打たれた王府はついに駕籠1基とそのかご屋を医療奉仕に使うように提供して来た。

首里王府は、天然痘と腸チフスの流行が下火になったと見るや、またぞろ見張りを強化した。1852414日、那覇において眼病患者の治療をした。要日ベッテルハイムが、その患者の家に行ってみるともうその患者は家にいなかった。役人らが無理矢理移転させた。同様のことが1年後にも起っている。

 

 本来、疫病が蔓延すれば、琉球にとって災難である。疫病の流行を食い止める治療は人道上優先すべきことだろう。だが、住民の命と健康よりもキリスト教を布教させない宣教師対策が優先されたのだ。

金城功氏(元沖縄県立図書館長)は、次のような見解をのべている。

<流行病の流行があった時、自分のおこなっている西洋医術で治療すれば、死亡者もすくなくてすむから、治療させてほしいと役人に申しでても、王府役人は異国人と琉球人では体格にも相違があり、異国人に効果があったから、琉球人に適用できるとは限らない。琉球には中国で習った医術があると主張し、西洋医術による治療を拒否している。史料を読みながら、ベッテルハイムのもっていた西洋医術を琉球側が習い受けていたら、日本における西洋医術への貢献は大きいものがあったろうにと、考えたものである。習い受ける機会はあったが、当時の社会状況はその機会をおしつぶしてしまった(『沖縄県史料前近代4 ベッテルハイム関係記録』解題から)。

 

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「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その8

 琉球語に通じて話しかけ

 咸豊2年「異国日記」

 これからは咸豊2年の「異国日記」に入る。

<「本文は、四町学校所の役々へ通達し、村触れで伝えさせた」 

英人は御当地(琉球)の言葉に通じ、あちこちで何かと問い尋ねていろいろと申し立てて(訴えて)くることがあり、煩わしい問題になっている。ついては、英人が何か尋ねてきた際には、支障となりそうなことについては知らない振りをして対応し、(二人きりで)話している時でも英人が聞いて問題になりそうなことについては十分慎み、那覇全体で堅く取り締まるように通達せよ。

218日>

<異国人の出入の際、時には帰宅の報告だけで、初めに外出したことを知らせていないこともある。そのため、出入りを確実に仮屋(詰め所)へ知らせるようにせよとの旨は毎回通達しているが、今だに(ママ)時折、不行き届きになっている。ついては、今後、届け出に間違いがないように申し付けよ。

218日>


 これは御仮屋方(在番奉行所)から通知があったとして、
229日、那覇筆者田名子、川上筑登之親雲上から鳥居前ならびに橋口関番人に出された通達である。

ベッテルハイムが、数年琉球に滞在するうちに琉球の言葉に通じて、何かと問い訪ねていた様子が伺える。彼の語学に非凡な能力を持っていた。

彼は、琉球では、琉球語で話すことを、宣教の必須条件と心得ていた。波の上の護国寺に住み着いてから数か月、184611月には、琉球語による大衆説教を、仏国神父らのまえで行ったというから驚く。滞在年数が長くなるほど、語学能力は増していただろう。

聖書の琉球語翻訳をすすめた。翻訳は、通事(通訳)らを動員して行ったが、聖書に関する質問になると、王府派遣の通事らは、一応に口をつぐみ、拒否反応を示すのだった。ときには、わざと間違ったことを教えることもあったという。そんな困難ななかで、「ルカ伝」、「ヨハネ伝」、「使途言行録」、「ローマの信徒への手紙」の4文書の琉球語訳聖書が刊行された。

  

本題に戻る。

英人が逗留して以来、那覇筆者の業務が増えたとして、増員の要請をしている。増員は王府から一度差し戻されたが、再度指図を仰いでいる。余程、必要性があったのだろう。

「覚(要請書)」が裁可された「御印覚印」では、英人の逗留にともない御仮屋方(在番奉行所)への用務や那覇での取り締まり、英人が人家へ頻繁に踏み入り、御仮屋方へ押し入ることもあったのでその取り締まりや御仮屋方の警備など、特に入念にしなければならず、現在の人数では用務が手に余る。今の状況では、いかなる御故障筋が発生するのか懸念されるので、英人逗留の間は寄り筆者3人を文筆科の試験で増員したいと、仲本親雲上、兼城親雲上が王府に要請し、許可された。

英人対応のため、役人が振り回され、人手が足りない状況がよくわかる。一度、王府に要請し、もう一度協議せよと差し戻されても、再度増員を要請したのは、よほどの状況にあったのだろう。

        薩摩在番奉行所跡 
                         在番奉行所

 病でも薬をもらうな

那覇で疫病が流行していた。ベッテルハイムが治療のため薬を与えることへの対応が示されている。

<英人が治療のために人家へ押し入って薬など与える場合には、この地(琉球)の薬で養生するので不要であると固執し、決して治療を受けてはならない…。

328日 仲本親雲上 兼城親雲上>

<現在疫病が流行しているので、英人が治療(のため)方々へ出歩き、人家へ踏み込んで薬などを与えているとのことである。これは押し付けの行為でどうしようもないことであるけれども、時には治療を依頼する者もいると聞いており、非常に宜しくないことである。…英人が侵入し薬などを提供してきたならば、この地(琉球)の薬で養生するので不要であると固辞し、決して治療を受けてはならない。…

3月朔日 那覇筆者 比嘉筑登之 川上筑登之親雲上

 4町学校所役々 三島与頭 (注・三島は仲島、渡地、辻の3遊郭を指す)>

 疫病の流行に際して、ベッテルハイムが薬を与える行為は「どうしよもない」といいながら「治療の依頼」は「宜しくない」、薬を提供してきたら「琉球の薬で養生する」と言って拒否せよという。



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「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その7

  警戒しすぎて不祥事も  

あまりにも、警戒しすぎて、かえって不祥事を引き起こすこともあった。

<覚 西村嫡子 與那嶺筑登之親雲上

右の者は、去る13日、松本十兵衛殿の宿へ英人夫婦が踏み入り、行燈と障子を打ち破り、脇差を盗み取って帰ったとのことで、小姓たち56人が泉崎歩道まで追いかけて捕まえ、(英人の)懐中を改めようとして悶着となっていた。…(與那嶺ら2人が英人の懐中を改めたが(脇差は)所持していなかった。そのことを小姓たちに伝えると、英人の妻の懐中も改めるべきだといい、それは遠慮していたが、妻が気分が悪くなり湯水を求められ飲ませていた時に、脇差は仮屋にあるとの知らせがあった。もし英人たちの懐中を直接小姓たちが改めていたらどのような難題が生じたかもしれない)

10月 仲宗根親雲上、喜屋武親雲上>

 英人夫婦が松本の宿に入ったことは事実としても、脇差を盗んだというのは、事実無根であった。あまりにも、疑心暗鬼の目で見過ぎることから引き起こした問題である。強引に英人の妻の懐まで調べていたら、重大な人権侵害として、外交問題となってそれこそ「国難」を招くことにもなっただろう。
       親見世跡 
              親見世跡
 似たような事件が12月に起きたことが照屋義彦著『英宣教医ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』にも記録されている。

「(1851年)125日、宣教師夫妻は天然痘患者のところへ診療に出かけた。…夫妻はある家に入って行った。そこの2階には何名かの薩摩侍が投宿していたようだった。誰も出て来ないので夫妻はそのままその家をあとにするところであった。…薩摩侍の連中がやにわに宣教師夫妻をとりまいた。あとで誤解とわかったが、彼らは家から刀を一本、夫妻が持ち出そうとしたと思ったらしい。琉球の役人らも加わり一緒に刀を探していたところ、訳も言わず藪から棒に宣教師夫妻に斬りつけて来たのだった。夫妻は二度も薩摩侍と琉球役人らに襲われた。その酷い蛮行を見ていた何名かの人々が救援の手を指し伸べ、何とか護国寺へ帰りついた次第だった。

 「異国日記」の事件は10月とされ、『英宣教医ベッテルハイム』で紹介している事件は12月とされているので、2カ月間ほど違いがある。ただし、事件は薩摩侍がいる家で起きていること。刀を英人夫妻が持ち出そうとしたと思われたこと。刀持ち出しはまったくの誤解であったこと、など共通している。薩摩侍がからみ、刀持ち出しの疑惑をかけられて襲われるなどという事件は、たびたび起きることはない。「異国日記」の12月の項には、重大事件なのに記録がない。しかも、外交問題となるような英人への侮辱事件がわずか2カ月の間に再発することは、ほとんどありえない。もうしかしたら日時や表現の違いがあっても二つの事件は同一の事件のことではないだろうか。琉球王府とベッテルハイム側の記録の事実関係や言い分が多少異なることはありえることである。

 

ベッテルハイムは、翌日すぐに抗議書を王府に送達した。王府は申し立てを全面否認した。翌年2月に英国海軍軍艦スフィンクス号が来航した。英外相パーマストン卿の書簡を運んできた。ベッテルハイムの退去要請に抗議した書簡だった。艦長は首里城訪問を申し入れて来た。王府は泊の公館を主張したが、英国は固辞した。首里城に近い王世子(中城御殿)にて書簡を受領すると申し出た。艦長ら50名で首里に行進(武装海兵隊40人)、首里城北殿で王府摂政と会見し書簡が高官に渡された。艦長はベッテルハイムへ好意ある待遇、キリスト教布教への寛大な対応を要望した(『英宣教医ベッテルハイム)。

やはり、英国と琉球の重要な外交上の問題になったのである。

 

 このような問題が起きても、「異国日記」ではその後も英人が御仮屋方へ踏み入った際の防止策や人員の配置などの対応が続いている。

<口達控え

いろいろ指示があったものの、諸方面では時に(王府から布達した)諸制度の条文を守らず、そればかりか英人たちが御仮屋内に踏み入った場合でも防ぎ方が行届かないこともたびたびあった。…英人たちが踏み入らないように特に気を付けて…万事臨機応変に適切に対処し、尽力して取り計らうこと。

116日 仲宗根親雲上、喜屋武親雲上 4町の異国一件取り締まり係中>

これで、「咸豊元年異国日記」のベッテルハイムにかかわる記述は終わる。

 


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