「異国日記」に見る宣教師・ベッテルハイム、その1(改定版)2020-01-12 Sun 23:40
「異国日記」に見る宣教師ベッテルハイム 琉球王府の時代、那覇にあった行政機関・親見世(おやみせ)が記録した琉球の対外関係の史料「異国日記」を読んでいると、琉球に滞在したイギリスの宣教師、ベッテルルハイムについて琉球側の対応が相当な分量を占めている。しかも琉球と薩摩の役人が慌てふためいている様子がリアルに出ている。いま読むと滑稽でもあるが、当時は「国難」にもなりかねないとして、あれこれとその対策に躍起となっていた。そこで、ベッテルハイムに対する対応を中心に「異国日記」から見てみたい。 台湾大学で出版された「琉球關係史料集成 第3巻」には、咸豊元年(1851)、同2年、同4年、同5年(1855)の『異国日記』が収録されている。なぜか咸豊3年は欠けている。 この「異国日記」とはどういう性格の史料なのか。 <主として薩摩藩から琉球国へ派遣された「異国方」役々衆との関係において発生した諸事項を親見世(那覇の行政機関)が記録した史料」(豊見山和行「異国日記全体解題」)>である。そこには、欧米の異国船渡来の記事やフランス人・イギリス人が那覇に滞在した事項も含まれており、「琉球国の対外関係に関する史料である」(同)。 <里主(さとぬし)・御物城(おものぐすく)・那覇筆者(なはひっしゃ)という親見世の上級役人らが親見世本来の業務である那覇4町(注・東、西、若狭町、泉崎の総称)の民政や在番奉行との交渉役を果たす一方、新たに薩摩藩から派遣されてきた「唐物方」(後に産物方)および異国方の役人らと関わる業務を兼務していた(同)>。 「異国日記」では、首里王府の役職の一つである御鎖之側(うさすのそば)の兼城親雲上、川平親雲上、小禄親雲上から里主、御物城、那覇筆者(なはひっしゃ)という親見世の上級役人への指示、親見世の仲宗根親雲上、喜屋武親雲上から那覇4町の学校所(士族子弟の教育機関)役人らへの指示、琉球側から在番奉行所への報告や薩摩側からの指示が主な内容となっている。 注・親雲上(ぺーちん)とは、琉球王府の中級士族に相当する者の称号である。 「異国日記」はあくまで琉球側の記録であり、当然なこととして、琉球側からの視点でみたベッテルハイム像が描かれている。これだけでは、厄介な異国人としか見えない。
なぜ琉球伝道I会がつくられたのか。英国海軍の調査探検船が、1816年那覇に寄港した。英国軍艦アルセスト号とライアラ号(艦長バジル・ホール)の艦船乗務の一人に若い海軍大尉、ハーバート・ジョン・クリフォードがいた。琉球の人々から受けた親切と友情の数々が心をとらえた。琉球の地こそキリスト教福音により報恩すべき土地であると思った。彼は、宣教師会などに琉球に宣教師の派遣を要請した。却下された。自らの手で派遣団体を設立しようと資金造成を海軍関係者に訴え、資金は積み立てられたた。 4か月の航海で1846年1月22日香港に到着。4月末琉球の海域に入った。 5月1日、那覇里主から入国拒否の文書を受け取った。ベッテルハイム親子、通訳の中国人は強行上陸した。その日、仏国軍艦サビーヌ号が入って来た。カトリック司祭、М・ル・テュルデュがいた。 フォルカードは2年前、1844年、仏国軍艦が来航し、フォルカードカトリック神父と中国人通訳高を残していった。フォルカードはテュルデュ、マシュー・アドネらと交替した。 ベッテルハイムは、首里王府に対し、医療奉仕、医学、英語、地理、天文学の教授と指導を申し出ていた。王府は断った。 (『英宣教医 ベッテルハイム 琉球伝道の9年間』から)
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